はてなキーワード: 建造物とは
そこで、赤子は一人の優しい老人と出会う。
赤子は、世話をしてくれた礼として、老人にiPadを買い与えた。iPadによって初めて世界とつながることのできた老人は、煌めく情報の世界に魅了されていった。
しかし、医療系のバイラルメディアによって、老人の病が悪化してしまう。
悲しみに泣く赤子の頭には、二本の角が生え始めていた。
泣き腫らした赤子は、日の出ずる彼方に向かって歩き出した。むかうは首都、トーキョーシティ。
道中、角の生えた赤鬼に対し、人々は石を投げつけた。
心に余裕のある人間は、正しい判断ができるだろう。心の弱っている人間に、救いを求める人間に、私は何ができるだろう。
傷ついた心と身体を癒すため、赤鬼は鉄格子を背中にして、地べたに腰を下ろした。
ふと振り返った先にあったのは、左右対称の巨大建造物、国会議事堂だった。
そしてその時だ、伸びきった赤鬼の角に、一粒の雫が滴り落ち、ひとつの決意を赤鬼にもたらす。
ネット上の表現活動について、その特殊性に鑑み、公共の福祉のために、今以上の規制が必要であると考えるに至った。
政治活動を開始する。
ネット上の信頼性に欠ける情報、煽情的なタイトル、著作権法に反する記事、ポルノ画像等、国民生活の秩序を侵害するおそれのある表現に対し、規制を求めていこうではないか。
もちろん、偏見や実証性のない事実をもとに規制がなされてはいけない。
しかし、我が国における教育による遵法精神、倫理・道徳観の涵養は、その実効性に欠けると言わざるを得ない。
騙される人間を、リテラシーのない馬鹿と切って捨てることができようか。
正論をぶつけて悦に浸っても、社会の安定は導かれないのである。
さて、どこからはじめるか。
こーゆー増田って、書くの難しいわ。
なので信仰者としての立場を極力排してなぜ胡散臭いのか、本当はどうなのかを考えてみます。
最初からいいますが、僕は新興宗教自体を胡散臭いとは考えていません。
身も蓋もない言い方ですが、キリスト教はユダヤ教の新興宗教ですし、仏教も日蓮宗や浄土宗、臨済宗は密教系とは重要な教義が異なっています。
私はカソリックですが、米大統領選でも注目されるモルモン教や福音派などのプロテスタントは明らかに新興だと言えます。
基本的なことですが、この点をまず明らかにしておきたいと思います。
ではなにが胡散臭いのかというと、相当分がみなさんと宗教の接点ですれ違いが起こっていることになります。
そして悲しいことですが、本気で胡散臭い活動も当然ながらあります。
宗教側からみなさんへの第一の接点は布教活動になると思います。
僕が通っていた大学でも注意書きが掲示されていましたが、家に押し掛けてくるのは胡散臭さレベルが高いので敬遠するのに越したことはないでしょう。
商売と一緒で「売ってくれ」とお客さんが来るのが最高の営業ですが、現代日本ではこれはほとんど期待できないでしょう。
ではどのように新しい信者を獲得するかというと、団体としての活動や宗教活動を通じてということになります。
代表的な新興宗教には宗教活動以外にも莫大なお金をつぎ込んでいるものがあります。
PL教団の花火大会や、米ソルトレークシティのモルモン教の大寺院などはその代表的なものです。
このような活動には伝統的な宗教も古くから関与してきました。宗教は伝統的に文化・芸能活動の庇護者であったのです。
長い歴史の中ではそれに対する反発もありましたが、現代日本でもその恩恵に多く与ることができます。
例えば東京観光や京都観光には寺社仏閣がつきものですが、その観光価値は一般の方には庭園や天井画や襖絵、建造物にあるのが現実だと思います。
そのような文化活動は信者と、一般の方の両方に働きかけるもので、難解な教義を介さない身近な存在として宗教を感じてもらうことができるのだと思います。
新興宗教には巨大、特徴的な寺院を建造するところが多くあると思いますがこの理由はちょっとわかりません。
ただこのような建造物を建てたからと言って、教主や教団幹部の懐に直接お金が入るわけではないということは留意しなければならないでしょう。
教義は信仰者にとっても難しいものです。カソリックでは洗礼を受けるにはちゃんと勉強をして認められなければなりません。
本来ならばどの宗教でも教父にあたる方に接するのが第一歩になるでしょう。
ただ、いきなり相手のホームグラウンドに行くのは恐いですから興味のあるお寺(教会)に電話してみるのはいかがでしょうか?
自分の考えていることを吐露してそれで答えが受け入れられないものであれば、それは相手方の落ち度でしょう。
元増田のアプローチは、まず文字に当たるということですが、どの宗教でもその本質は活動です。
「wikipediaは参考文献に含まれない」とはよく言ったもので少なくとも宗教で学ぶというのは不適当ではあると思います。
完全に新興の宗教は別として、多くの新興宗教は既存の宗教の派生です。なのでそれぞれの教義には数百年単位の積み重ねがあり、
一人でそれを理解しようというのはだれにとっても不可能でしょう。ただしその本質というものはシンプルで良いものであると私は信じています。
長い人類の歴史の中では宗教と歴史が分離されていたことの方が少ないでしょう。
それはさておき、宗教が政治を無視できないのは宗教が人の本質にアプローチするものだからです。
人の生活に直結する政治とはどうしても重なる部分があるということが宗教が政治に関わっていく要因でしょう。
「波動」や「飛行」というのを聞いたときの胡散臭さは相当リアルに感じます。
それはそれとして一歩引いてみれば仏教用語の因果や因縁、「宇」や「宙」というのは非科学的な概念ではないでしょうか。
これらを科学的に検証することはできませんが、明らかに科学と矛盾するものとしてキリスト教の進化論や地動説を否定があります。
私自身は技術者として生計をたてていて、人は猿から進化して、地球は太陽の周りを回っていると思います。
非科学的ということが宗教を損なうのはその真実性を損なうからだと思います
これはどこの宗教でもつきものだと思います。検証不可能なことは証明できませんし聖典は多面的な読み方ができるため科学的な検証には向いていません。
「聖典が正しければ寺院(教会)・教義は正しい」そして「寺院(教会)・教義は正しければ聖典は正しい」というような循環論法に陥りがちです。
これに対しては僕が言えるのは「あなた自身の考えて」という月並みなものです。あなたが一歩を踏み出してよい教えに導いてもらえることをお祈りしています
金が無尽蔵にあったら何をするか。
無限に金があったら全世界に無限に配りまくれば貧富の差のないユートピアが生まれるかと一瞬思ったが、それは貨幣経済の破綻を生むだけで何の意味のないことに気づいた。
つまり自分(とせいぜい自分の選んだ相手)のみ無限に金をもっているから優位性が生まれるというわけだ。
そうなると金をもっていない人間からは自分が最高級の誘拐・恐喝・拉致監禁ターゲットとなる。
よって、無尽蔵に金があったらまずは自分のセキュリティを最高級に高めねば即死である。
自分に無尽蔵に金をわけてもらえる者たちは自分に雇われ従う選択をするものも多くなることだろう。
つまり全世界が自分に無限に金をもらえる陣営と、自分を服従させて無限に金をださせようとする陣営にわかれる。
しかしここであらためて考えてみると、無尽蔵に金があるとはどういう状態をさすのだろう。
仮にATH、銀行口座から金を無限にひきだしたり振り込んだりできる状態だとしよう。
そのような金の動きも額が大きくなればすぐ国税庁の目につくことだろう。
すると自分に金が無尽蔵にあるという状態はすぐに国の知ることとなる。
これはすなわり日本銀行がもっている貨幣発行権を自分という個人が所持して乱発していることとなるが、
とはいえ合法でも日本経済を大きく混乱させる危険因子であるため国としては何らかの口実をつけてコントロールせねばならなくなり、
結果として監視下のもと神社を通っただけで参拝などの正当な理由がないのに神社に入ったとして建造物侵入で逮捕、などの微罪逮捕されてしまうだろう。
などと考えると金が無尽蔵にあっても命がけの何かをしたいと思うまでは金が無尽蔵にない現状と同じ生活をすることとなり、あまり何もかわらない。
命がけで稼いでもいない無尽蔵の金をひきだそうとするのはどのようなときだろうか。
などだろう。
ある程度以上、まっとうで合法的な収入があれば、無尽蔵の金などあったらあったで非常手段にはなってもリスキーなだけで、そう別に夢のある話でもないという結論になった。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。
あのシーンはノートPCのインカメラを使って撮影するという、いかにも若手がやりそうな演出をアニメ映画とはいえベテラン監督がやっているのが、見ているこっちがこっ恥ずかしくて印象に残った。
シンゴジラ批評が盛り上がっているので、個人的に気になったことを…
見終わって、あちゃー、立った状態で逝ってしまわれたか、と思ったのは俺だけじゃないはず。だって、一応、放射性物質だから、あのあとコンクリートで覆うんじゃないの?あんな風に自立してたら超巨大建造物になるけど、そのデザインは一体誰が?ザハ先生がご存命であれば、たぶんすごいデザイン案が出ただろう…と本編後のことが気になっている。
せっかく凍結状態にしたのだから、生き返りでもしない限り爆破するようなことはないだろう。とすると死体の処理方法は、そのまま放置、周囲を覆う、解体して移動する、丸ごと移動する、の4つに絞られる。
まず放置した場合、東京で経済活動を続けることが難しくなる。福島原発事故のときのように、外タレが日本に来てくれないどころの話じゃなく、たとえ都市機能が維持できていても、人が集まらないので経済活動を維持できなくなる。
ではコンクリート壁で囲った場合、それで安心して人が集まるのかといえば、それも疑わしい。穴を掘って埋めるという方法もありがちだが、工費がかかるわりにメリットはそれほどないはず。
解体に関しては、怪獣の闇マーケットが存在するハリウッド映画であれば簡単なのだが、日本映画ではそうもいかない。あちらの世界ではキングギドラの肝とかモスラの糸が闇マーケットで取引されているんだろうが、こちらの世界だと「人間が手を出すとしっぺ返しをくらう」のが怪獣映画の鉄則だ。オカルト的ではあるが、無性生殖によって増殖したり、細胞から新たな怪獣が誕生するのがこちらの伝統である。つまり解体という選択を選んだら、おそらく続編は怪獣大戦争ルートに突入すると思われる。
では丸ごとどこかへ移動するとした場合、まず放射性物質なので国外へ持ち出すのは難しい。当然ながら国内にも受け入れ先はない。せめてお台場まで運ぶとして(ガンダムと並べたら価値がありそうなので)、それだけで国家予算並の費用がかかってしまい、その費用を別の目的に回したほうが良さそうだ。あるいは東京湾に捨てることも可能だろうが、復活する可能性を考慮すると実行しづらい。
こうして考えてみると、結構やっかいな難題である。おそらく政治家たちが遷都とか首都機能移転に夢中になりつつ、民意は翻弄され、マスコミは東京を守ろうとキャンペーンするような、どうしようもなく何も進まない状態が、後日談として妥当なセンではないだろうか。
ここで、この話は一気に残念な方向に向かう。というのも、シンゴジラのストーリーは核攻撃を回避したことでハッピーエンドになっていたのに、この後日談の推測では、その実態は「核攻撃されたのと大して変わらなかった」ということになるからだ。
話をまとめるとこんな感じになるだろう。
ゴジラが放置される。石棺による封印が検討されるが専門家の意見が別れる。あと石棺のデザイン案で揉める(頭だけ遠くから見えるようにしたら、新しいコマ劇の本物みたいで楽しそうだ)。都心から15キロ圏内は避難指示、30キロ圏内は避難勧告が出されたまま解除されない。首都圏の土地は大暴落する。逆に首都圏以外は土地バブル。急激な円安とインフレになる。不安心理から出生率が向上。首都機能移転が推進され、京都遷都が実施(京都民大歓喜)。9条が憲法改正される。ゴジラ対策を名目に核保有を宣言する。
怪獣映画というのは敵のいない戦争映画みたいなものなので、シンゴジラがどこかネトウヨ寄りになるのは仕方ないとしても、こうして想像すると果たしてあのストーリーはハッピーエンドだったのかどうなのか。
まあこういうのって、死体がしれっと消えるのが怪獣映画のお約束なので、深く考える意味はあまりないのだが、お約束に頼らない現実寄りのフィクションであるところにシンゴジラの価値があるとすれば、もし続編があるとしたらこうした後日談も描いてほしいところである。
シン・ゴジラを観てきた。
私はいわゆる "全方位興味あるけど浅いヌルオタ" で庵野監督の作品は緩く全部観た人間なのだけど、シン・ゴジラはそれ含めあらゆる方位のオタが反応するネタがいっぱい散りばめられていた。
この作品を観た人の反応は主に下記5つに分類できると思う。
1. 政治経済オタ
2. 鉄オタ
3. ミリオタ
ネタバレは避けたいので詳しくは言及しないが、概ねこれらのオタが反応しないわけにはいかないネタがこれでもかと織り込まれていて、見終わった後はこれらのどれかもしくは複数について語りたくなってしまうような作品になっている。
もしあなたが女性で、付き合っている彼氏の本性を見極めたい場合、シン・ゴジラを観せることはタイトルにある通りのリトマス試験紙としてはたらくだろう。
この作品を観た男の子は、概ね上記5分類のうちどれかもしくは複数に反応するので、観た後の喫茶店か食事の際に話す内容をよく聞いてみるといいだろう。
そこで、何か一つでも合う話題や熱くなれる話題があったとしたら、そのジャンルで相性がいいと言える。
逆に "ああこの人とは趣味が合わないな" と思ったら素直に別れるのをオススメする。
という感じで、シン・ゴジラは男の子が強く反応する何かが散りばめられていて、語らずにはいられなくなってしまう作品になっている。
この作品を観た上で、何にも反応せずにいる男の子がいたとしたら、そいつは単にあなたとセックスしたいだけのヤリ目かよほどの世間知らずなので、むしろ別れることをオススメする。
円山公園は祇園にある公園で、園内には八坂神社などがある京都の観光地として人気の場所だ。
ちょうど今日は休日で、ツイッターのTLに「円山公園にはミニリュウがたくさん出現する」という情報が流れてきたので、阪急電車に乗って四条河原町までスマホとバッテリー、BTイヤホンを持って遊びに行った。
昼過ぎに到着したが、雨にも関わらず既に園内はポケモンGOをしながら歩き回る人が大勢おり、大人,子供,外国人観光客含めて7,8割ほどの人がポケモンGOをやってるんじゃないかと思うほど大盛況だった。
人が大勢いると問題も発生するわけで、狭い通路で突然立ち止まりスマホを弄り出す人、通路の真ん中で立ち止まっている集団、建造物の前でスマホ弄り続ける人たち。
参拝に来た方は危ないねぇと言い、外国人観光客は来た時期が悪かった,クレイジーと会話していた。
僕は1時間歩き回ったところでミニリュウは3匹捕まえられたが、カイリューに進化させるまで集めなければならない数とかかる時間を考えるとげんなりし、テレビ局も来ていたので退散してポケモンセンターに寄って帰宅した。
円山公園に限らず、他の観光地でも似たような問題は起きてるだろうし、出雲大社以外にもどんどんポケモンGO禁止箇所が増えるんだろうなと思った休日だった。
その1はこちら。
We watched the first 10 minutes of Kingsglaive: Final Fantasy XV
By André Mackowiak on July 11, 2016
こちらは、最初の10分間のみの映像を観た人のレポートですが、ネタバレが含まれます。
先週フランスで行われたJapan Expoで大きな出来事となったのが、Final Fantasy XVだ。イベント中、ファンは「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」(以下キングレ)の最初の10分のワールドプレミア特別上映などの新しいコンテンツに触れる栄誉に浴した。ちょっとしたサプライズとして、映画を監督した野末武志氏による90分にもおよぶ講演もあった。
壇上で野末氏は、キングレの開発について一歩踏み込んだ解説を行い、アドベントチルドレン(FF7ACC)よりも格段に大きな役割をどのように果たしたかを語ってくれた。
以下のレポートには、ちょっとしたネタバレや、記憶を頼りにプロットを要約したために起きる矛盾が含まれる可能性がある。というのも、最初の10分間にはかなりたくさんの情報が詰まっているからだ。
映画は、いくつかのフラッシュバックから始まり、観客は、ルシス王国を守り続けてきた最後のクリスタルの魔力の概要を知ることができる。
しかし、このクリスタルが敵対するニフルハイムの嫉妬を生むこととなるのである。
開始後すぐ、ニフルハイム兵によるルナフレーナ・ノックス・フルーレの故郷であるテネブラエ自治区侵攻が描かれる。
ここで我々は、幼いノクティスが重篤なケガから回復中であり、車いす生活を余儀なくされていることを知る。
敵兵たちが空から雨のように降下してきたとき、ノクトとルーナは2人とも森におり、周りを取り囲まれてしまう。
強力な相手に二人は追い詰められ、あわや斬り殺されようかというところで、レギス国王が現れ、剣をふるい強力な炎の呪文で敵を蹴散らして彼らを救う。
レギスは素早く意思を固めるとノクトを肩に担ぎあげて、ルナフレーナと共に逃げる。
呪文による炎に逃げ道を塞がれたルーナの兄レイヴスは、倒れた母を救ってくれるようレギスに懇願するが、敵兵が背後に迫っているレギスには届かない。
このままでは逃げ切れないと判断したルーナは突然立ち止まり、引き返して自らニフルハイムに捕らわれ、友人たちが逃亡するための時間を稼ぐ。
それから月日が経過し、物語の時点ではニフルハイムの軍勢はルシス王国の首都インソムニアのすぐそばに展開している。
この「王都」はクリスタルによって維持される強力な魔法障壁によって保護されているが、どれだけそのバリアが攻撃をしのげるのかはわからない。
都市を取り囲むエリアは、すでに帝国軍に制圧されており、城壁部分は空からの攻撃にさらされている。
ニフルハイムの揚陸艇が兵士を降下させ、戦場では銃弾が飛び交い、廃墟と化した建物の周りに死体の山が築き上げられていく。
敵軍は機械や魔導アーマーだけではなく、FFシリーズでおなじみのモンスターさえも操ってルシスに攻撃を仕掛けてくる。
混沌の中をべヒモスが突進すれば、通り過ぎた場所にはルシスの兵士たちが斃れる道が残る。
そうかと思えば別の場所では、巨大な蟲の大群が戦場を横切っていく。
巨大なファイアストームが地平線のかなたに出現し、インソムニアに向かってゆっくりと近づいてくる。
壁の上では、王の剣(Kingsglaive)の魔導マスターであるクロウ・アルティウスが仲間たちと共に町を覆うバリアを維持しようと必死の努力を続けている。
主役であるニックスの親友リベルト・オスティウムは、敵に奇襲をかけようとしている。身につけた制服や装飾品は、FFシリーズのジョブ「忍者」を思わせる。
リベルトは、隠れて相手に知覚されずに複数の敵を倒す術を使う。
空襲が激しさを増すと、地面が打ち震え、建物が崩れ、足元にひびが走る。
嵐が近づく中、我々は敵軍の飛空艇がさらに増え、ケルベロスなどのより危険な敵が出現したことを知る。
嵐の向こう側には、まだ奥の手が隠されていたようである。鎖につながれ、煙に包まれた巨大なモンスターが飛空艇によってインソムニアに向かって引きずってこられる。
モンスターは暴れだし、いくつかの飛空艇を破壊すると、鎖を引きちぎって地上の兵のもとへと落ちてくる。
リベルトは、突進してくるべヒモスの首もとに強烈な一撃を放つことに成功する。一方クロウは最後の力をふりしぼっているが、もはやこれ以上バリアを維持することができそうにない。
王の剣を率いるドラットー将軍は敗北を悟り、撤退命令を下す。リベルトは炎を吐くケルベロスと遭遇し、呪文を使って気をそらそうとするが失敗に終わり、崩れたガレキに挟まれ、刃も手の届かないところに転がるというピンチに陥る。
ニックスは、ドラットーの命令に背き、倒れたリベルトを救うために走り出す。ニックスは、投げた刀のところにワープ魔法を使って移動することができる。
ケルベロスを警戒しつつ、ニックスは戦闘区域外へとワープできるようにリベルトの剣を拾う。
後方に戻った王の剣の隊員は無事を喜び合うが、ドラットー将軍はニックスの命令違反を咎め、彼の力はレギス国王から借りたものであると諫める。
たった10分間の映像だったが、おそらく何時間でもいかにキングレの映像が素晴らしかったかを語り続けられるだろう。それぐらい圧倒的な映像美だった。
何年もの昔、初めて「Final Fantasy: The Spirits Within」を劇場鑑賞したときですら、スクウェア・エニックスがCG業界でトップクラスの才能を揃えており、あの映画が写実的な表現への彼らの最初の一歩となったことは明らかだった。その数年後、アクション満載のFF7ACCでその路線はさらに深まり、ついにこのキングレですべてが結実した。信じられないほどの視覚的なクォリティを実現するために、スクウェア・エニックス内のチームであるビジュアルワークスは、「アサシンクリード」、「ジュラシックワールド」、「ゲームオブスローンズ」などで知られるDigic PicturesやImage Engineなどの欧米のスタジオにも協力を仰いだという。
映画に登場するキャラクターは、あまりにも人間らしいため、うっかりするとコンピューターで生成されているのだということを忘れてしまう。
このまとまりの良さがあるからこそ、合成用のグリーンバックの前で俳優が演技をする従来の映画に比べて映画の世界の説得力が増しているのだ。
べヒモス、ケルベロス、呪文の効果などの見慣れたFFの要素の取り入れられ方も素晴らしい。
個人的には、特にワープのエフェクトが気に入った。ゲーム本編のものと似ているが、人物のまわりに火花が散り、効果音も非常にマッチしているのでとにかくスタイリッシュなのだ。
キングレは、「現実に基づくファンタジー」というコンセプトを驚くほどうまく体現している。
建造物、衣服、技術、車などの中には現実世界を思わせるものもあるが、呪文や魔導アーマー、モンスターとの親和性もある。
2つの世界の融合が、FFXVを単にゲームとしてではなく、より広い観客を対象とした映画として非常に魅力的な存在にしている。
始めのうち、John R. Grahamが下村陽子とのコラボレーションで制作したというサウンドトラックについては不安を覚えていた。
プレビュー映像では、音楽が少し単調で陰鬱すぎるように思われたのだが、最初の10分のBGMは、控えめに言って非常に堅実な出来だった。
ほんの短い時間のうちに、キングレで展開されるストーリーが複雑でワクワクするものになることがわかった。
アクションシーンは「ゴジラ」のように素晴らしく、徐々にモンスターや召喚獣が明らかにされていく手法も良かった。
キャラクターが物語のカギを握るようなので、ニックスとルーナが映画やアニメ、ゲームの中でどのように関わっていくのかが楽しみだ。
これだけのプロジェクトである。映画館で観るのが正しいというのは明らかだ。
10分間見ただけでこの把握力。
訳者は実際に映画を観たので、ちょっと解釈が違うところもあるのですが、あえて訳注はつけないでおきます。
うーんと、衛星画像の解析の担当の先生?の所属先の大学のブログを読むと、次のようにありますね。
For now, they will continue their research to confirm if this site was once the spot of a Mayan settlement.
They would like to visit the site one day if funding is available. The site is about 100 kilometres from the closest town, which is perhaps why no one else discovered it.
“It’s right in the centre of the jungle. It’s like an Indiana Jones expedition,” Dr. LaRocque said with a laugh.
”今から、彼らはその場所(this site)にマヤ文明の建造物があったかどうかを確かめる研究を継続する予定です”
確実な実地の検証は、お金が集まってからということかね。最寄りの人の住む都市から100キロ離れたジャングルの中を調べるからインディージョーンズの冒険のようなもの、とかって。
だから、マヤ文明の専門家の話のように『休閑地のトウモロコシ畑と主張してもいい』し、15才の少年とカナダの大学の先生達のように『マヤ文明の跡だと主張してもいい』が、両者ともに根拠がない、という状態のようですね。
シュリーマンだって、素人ながらギリシアの古代遺跡を発見したのだから。
まだ、何も言えない状態ではないのかな?
加えて、マヤ文明の専門家が、論文ではなくてFacebookで発言しているのならば、私的な意見として言っているだけではないか?
今回の映画でよかったと思ったのはこれだけ
映画館出てから、本当にクソ面白くなかったと心底思い、ひどい、悲しい、泣きそうなまでになり最後に怒りが湧いてきた。
もうさマジでなんなん。俺の好きだったコナンはどこに行ったん。
隣の子供連れのパパも見終わってから「ストーリーとかないな…^^;」って子供と困ってたよ
子供も困ってたよ。
事件が起きて、いろんな人物見て、掘り下げて、動機を探って、解決してくれるんじゃないの。ドラマがあったやん。
近年のコナン映画はアクションになった。わかってたけど、今までの何作かは、むしろ大げさなアクションを失笑できることが面白さになってきて、そういう見方で面白がっていたけど(それも本来違うけど)今回のはそれとも違う
どれだけアクションしててもコナンがカッコよければいいよ。蘭や他の人たちが活きてるならいいよ。
でも今回の主役誰なんか全然わからへん。全員バラバラ。全然まとまってない。蘭もさ、空手のシーンなかったら出す意味ない存在ですか?てくらいおらんし。
コナン→それぞれのとこにちょっと顔出しに来たで〜程度で仕事なし
何もしてない。
推理してない。
ほんまそれが一番腹立つねん。
冒頭で、何か気になった女を、どうしたの?僕が記憶を取り戻すお手伝いをする〜!っつって拾うだけ拾って、持ち物勝手に全部奪って、あとは絡まず、天海さん自分で復活して探偵団助けて、黒の組織の銃乱射により鉄パイプが腹に刺さって最後は観覧車に押しつぶされて死亡(最悪)。
確かに相手は黒の組織や、敵やけど、それでもあんな風に、最後に何もコナンとの絡みなしってないやろ。
それでもそういう相手でも、全力で助けようとして、助けられるのがコナンやし、それで見てる方もコナンしかいない!って思うんやん。
拾ったなら助けるとこまでやれや!
最後に天海さんが落としたものが情報の記録メディアかも!!っていうのに対して
「記録じゃない…想い出だよ。……黒 焦 げ に なっちまったけどな(ドヤリンスティック」
もうええねん。お前が焦げろ。
ほんまおもんなかった。
その他
・冒頭の派手なカーチェイスとかさ、いっぱい一般人の車やトラック巻き込むシーンを映して盛り上げてるけど、それを無視して追っかけ続ける安室さんとか警察とか、、、
・新しい施設の詳細がニュースで流れる!→うわぁ〜すごい〜!→倒壊! の流れどうにかならんのか 「今回新しく〜〜されたこの◯◯◯◯◯という施設は〜〜」とか言われた瞬間「ここかー!今回潰されるのはー!」って思ってしまう
・あともうあのカメラワークこだわってま〜すみたいなのやめろや!いいねんなそんなん。パキパキ映せや!ていうかそんなんこだわる前にストーリーをなんとかしろや!!!!111
・黒の組織はどうしてもヘリから大型建造物に銃乱射したいようやな。漆黒のチェイサーの時の東京タワーが観覧車になっただけ。追い詰め方の芸の無さ具合なんやねん
・去年の業火の向日葵の時の最後、ボールを水中で巨大化させて湖面にプカプカ浮いてくるという最高に盛り上がらない技(笑った)を見せてくれたけどまさか今回のメインディッシュもボール巨大化(観覧車支えるほどのデカさ)とは驚かされたよぉ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!お願いや〜〜〜〜〜せめて去年のからは変えてくれ〜〜〜〜〜!!!
人間ドラマで魅せられるだけの登場人物も設定も、それだけで付いてくるファンも持っているのに
なんでアクションの派手さばっかり全開なの?
それがほんまに不思議やし悲しい。
人間ドラマ、ミステリーが主軸だったからこそ、ちょっとのアクションが利いて、映画でアクセントになって面白かったんだよ。
みんなの絆と活躍を見せてよ
心が見える話を観たいよ
なぜニッポンから「腰巻きビル」は無くならないか - Togetterまとめ
このような建築様式を「腰巻きビル」と呼ぶのが一般的なのかどうか分からないのですが、日本国外にまったく例がないわけではありません。
Norman FosterによるHearst Tower (2006) というビルがありまして、これはたくさん賞を獲ったのですね。
マンハッタンのシアターディストリクトとヘルズキッチンの境界、コロンバスサークルから8番街を少し南下したところにあります。
Hearst Tower, New York City | Foster + Partners
何が評価されたのかというと…
要するに、懐古と復興の共存であり、過去と未来の架橋であり、そうなるべき文脈と必然性があったのです。
その観点で言うならば、日本の「腰巻きビル」にも同様の経緯を経たものが少なくないのは周知の通り。
これは歴史建築物を保全する取り組みとして、きわめて先進的であったと言えるのではないでしょうか?
文化財保護の必要性と、都市計画上の要請と、構造設計上の制約、これらの折衷案が「腰巻きビル」であるとしたら、なかなか面白い建築群なんじゃないかと思います。
そういう背景があるとしたら、ですが。
大抵の大工は二級で事足りるので一級を取得しようと思わないということをいいたかったのか、
大工は一切図面なんてひかんでよいし作図ができるはずもないと思っているのか、どっちなんだろう。
ちなみに一級と二級の違いは扱える建造物の規模の大小で、並の大きさの住居や延べ面積500㎡の公共施設なら二級で設計できる。
なので某リフォーム番組に出てくる一級建築士に違和感を感じるのはある意味しかたない。
本来は豪邸や集合住宅、ビル、図書館、美術館なんかを手がけるはずの人に狭小住宅を作らせているのだから。
もっといえば内装や調度品はインテリアデザイナーと大工に任せたほうがいい。
また構造設計を担当する構造設計一級建築士、設備設計を担当する設備設計一級建築士という免許もある。これらは一級建築士資格がなければ取得できない。
○朝食:なし
○昼食:おにぎり三つ
○調子
むきゅー!
リーダーが有給で、チームの中で僕が一番在籍歴が長いという状態のせいで、
僕が新しい人の面倒を見ることになってしまった。
これは正直キツかった。
っていうか、さすがに準備無しで色々説明するのは大変で、本当にてんやわんやだった。
明日はリーダーが出勤する予定なので、とりあえず明日の午前中までの作業を指示して、
質問に答えて、と色々してて、自分の作業がほとんど手につかなかった。
むきゅー、滅茶苦茶疲れた。
なんかリーダーがいないことにより、他メンバーの進捗確認とか、スケジュールの線引きとかもしたりして、
凄く凄く疲れた。
もうすぐ30になるんだし、人を使う立場に云云かんぬんみたいな話があるかもしれないんだけど、
僕には無理だわ。
今日から、新しいラジオが始まるので、それを聞きながら新しいゲームを何かしようと思っていたけど、
滅茶苦茶課金したくなる。
うーむ、この物欲刺激具合ぱない。
「Minecraft」の参加型イベント「1,000人でつくる!“夢の日本”プロジェクト ファイナル!」レポート。小学生達が創意工夫で作った建造物を披露
http://www.4gamer.net/games/229/G022995/20160404081/
こうして、Microsoftのキャラクタを広めてくれるなんて、本当に優しい会社ですね。
っていうか、このメカハカセとやらはどっちの管轄になるんだろう。
いや別に激しくどうでもいいし、別にどっちかを知ることに何の意味もないんだけど。
日本マイクロソフト、Windows 10版「Quantum Break」を初公開
http://game.watch.impress.co.jp/docs/news/20160404_751473.html
わーい、Xboxは終わらないんだ!
わーい! わーい! わーい!
いや、あの、その、うん。
クァンタムブレイクの購入意欲もちょっともう、なんか、その、ごめんなさい。
買うよ、買うけど、その、もう、別に、今じゃなくても、よくない? っていうか。
もうなんか、あの、本当、ごめんなさい。
Redundancy 冗長性。
狭義的には建造物や機械類・システムの設計における余裕を指し、その対象物に想定される負荷、および、要求される性能に対し、
通常は構造破壊につながるリスクを低減させ、また、一部が破損したり機能を停止した状態でも、その機能をある程度保持するために
設けられる。
「沈没したタイタニック号の鋼板はその応力に対する脆弱性という点においてリダンダンシーがなさすぎた」のように使う。
広義的には、肯定的な意味における「遊び」や「余裕」「余地」を指す。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C0%A5%F3%A5%C0%A5%F3%A5%B7%A1%BC
http://anond.hatelabo.jp/touch/20160219013645
まとめサイトで取り上げられたこともあって多くの意見が寄せられているこの話題だが、このエントリーの筆者(以下筆者)の考えはおよそ普通の女性(筆者が本当に女性かは、そもそも釣りかもしれないとかキリがないのでさておき)が陵辱という言葉に対して抱くであろう普通の考え方だと思う。
さて事の発端は女子差別撤廃条約の定例報告会が2月16日に行われたが、この条約の批准状況を検討する同条約委員会から今回の報告会のテーマの一つ(しかもまとめサイトの見出しにあるような筆頭扱いではなく実際の質疑項目としては7番目)として女性に対する性的暴力を伴うビデオゲームや漫画の販売を「禁止」することを求めたものが波紋を呼んだことだ。
まず念頭に置きたいのは、この委員会には安保理決議や国連総会のような権限は無く数多ある国連関連機関のひとつに過ぎないことと、国際的な批判だとかの重々しい話ではなく委員会を構成するのは各国から選ばれた弁護士など専門家であって国家の代弁者が集う場ではないということだ。
また定例報告会とあるように日本だけが特別に呼びだされて叱咤されたのではなく、直近ではアイスランドやスウェーデンを含めた数か国が同様に報告会を行っている。
そして日本においてはゲームマンガの話だけでなく雇用や年金での男女格差など複数の議題があったものだ。
この委員会がどういうところに突っ込むかを言えば、アイスランドに対しては最高裁判事が男性しかいない点や強姦事件での有罪の少なさを指摘する。スウェーデンに対しては割礼と強制結婚の防止に関するデータの提出を求めるなど、一見してかなり細かい。つまり女子差別と見なせるものは手当たり次第とも言えよう。
話を戻そう。政治的には無視できないものの影響力は微々たるもので昨日と変わらぬ明日が来る程度の見解というのが今回の報告ということになり(国連の威を借りたい各種団体はいるが)しかしこういったことをきっかけに色々と考えるのは良いことだ。
冒頭リンク先の話はまさにそうで、ひとまずリンク先筆者の意見を要約すると以下のようらしい。
妄想は自由だけど、形にして世に流通させるのはまた別だよ。そんなもんはせめて、裏の世界で超高額で売買するか、無償でひっそりとやり取りしてほしい。
その理由は、そういった表現まで法で肯定されていたら、怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから。
「被害者が、実在する特定の属性を持っていること」「その属性を持っている存在を、その属性を持っていない存在が危害を加えること」「加害行為がその作品のメインコンテンツであり、その描写によって快楽・興奮を得ることが目的に作られている」この3つが揃った時、その作品は表現の自由の範疇を超えてしまう。ゆえにそれなりの規制はあってしかるべきということ。
中略省略は挟んでいるが概ねこうだ。特別な意見という感じではなく、ごく普通の感覚と言えるだろう。
しかしこのような普通の感覚とされるものが本人が想像しない危険性をはらんでいることに注意したい。
憲法で保障されている表現の自由だが、古くはチャタレイ事件でわいせつの定義が成され、公共の福祉のためにならわいせつ物の規制は妥当であるとされた。つまり公共の福祉に反しないということが表現の自由の大前提にある。
近年でそれを強く受けているのが松文館事件で、成人向けマンガにおける消し処理の甘さを指摘したものだが、どのような成人向け作品もいつ告訴されるかわからないしされれば有罪は免れないことを改めて認識させられたものだ。
定義そのものは変わらないが社会の変化とともにわいせつの要件に合致するかは変わる。チャタレイ夫人の恋人にしろ悪徳の栄えにしろ現在は文庫化され気軽に手に入る。つまり今現在悪だとされたものが数十年先にどう判断されるかはわからないのだ。無論、今は悪だとされれば裁判にかけられれば有罪になることに変わりはない。
怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから表現は規制されるのではない。公共の福祉に反するから規制されるのであって、法的には代表的なのはわいせつ図がに当たるから違法となる。誰かが不快だからという理由で規制してしまうことは表現のみならずあらゆるものを違法としてしまえる危険な考えであり、この先も健全な法の精神がある限りそれは守られるだろう。
先述したようにあらゆる成人向け作品は現在でもいくらでも禁止できる。だがそれは陵辱物に限ることではないし、また販売を特定の書店に限るなどの規制ではなく違法な出版物として流通そのものを禁止することになる。いくら筆者が「全面禁止しろよ」とは言ってないとしても、法で規制しろということは即ち禁止しろということになる。
現在は法ではなくその下の条例単位で成人向けとそうでない作品が分かれている。先述したように作品のジャンルではなく性的表現そのものが法的に重要なのであって、陵辱も純愛もそこには関係ない。この手の話は東京都青少年健全育成条例改正や児童ポルノ法改正などで過去に各所で散々出尽くしているが、行政も出版社もすでに作品のジャンルではなくもっと大きな単位での区分けがされている。コンビニで成人向け雑誌が他の雑誌とは別に置かれているのはそういう理由だ。
コンビニ雑誌の表紙やスマホ広告に載せるなよという筆者の言葉には、最近もコンビニにおける成人向け雑誌の表紙に女子高生が~という似たような話題があったと思う。これに関しては出版社や広告代理店などが対応する問題であって難しい。スマホに関しては広告表示に関する設定やアプリを導入する自衛策があるし、コンビニ雑誌についてはコーナーが明らかに区分けされている以上、不快なら見るなというほか無い。存在自体が不愉快だというのであれば、それは行き着く先はやはりそういった出版物そのものを禁止するべきだという論になるだろう。なにしろ全てのコンビニや書店から撤廃され特定の小さな通販サイトでしか買えないとなって筆者がそれに満足したとしても、世の中には筆者より恐らく強力で熱心な団体が存在する。今回の女子差別撤廃条約委員会の見解についても各種民間団体が絡んでおり、そもそも今回の見解では規制ではなく女子に対する性的暴力ゲームマンガの廃止を求めている。筆者は廃止された所で安全安心な世の中が得られるだけだろうが、それは当初のこっそりやれという目的から外れているが、筆者は何ら疑問の声を挙げないだろう。結局は自分の不快なものを消し去りたいだけと言えてしまうのだ。そうではないと言うのなら、ならば筆者は禁止すると法が言い出した時に「そこまではしなくて良い」と声を上げられるだろうか?
そりゃいろんな嗜好があるから、中には、対象を虐げたり傷つけたりしないと駄目な人もいるかもしれないけど、それって異常者か精神疾患ではないの?病院行けよ。
筆者は最初には嗜好と言いつつ特定の嗜好については健常者ではないとしている。性的嗜好というのは千差万別だがある種の思想を持っている場合は矯正するべきだ、というのは他者に対する尊厳を踏みにじる行為だ。50年前のアメリカならば白人に逆らう黒人は矯正するべきだとなるし、50年前の日本なら夫に逆らう妻は矯正するべきだとなる。いずれもその時代には当たり前のことであり、しかし現代人から見ればひどく差別的だろう。だからといって他者を傷つけるという行為が50年後に許容されるとは思わないが、しかし現代でも黒人差別や亭主関白を頭の中で考えることを誰が違法にできるだろうか。
特にこれは性的嗜好という、教育的思想などと違い本能に関わる難しい問題だ。法では正しい性道徳という考えがあるが、これを基本にして正しい嗜好を持つように義務付けられるような世界が筆者は望ましいのだろうか。無論、そんなことになれば事態は正しい性道徳に限らず、正しい社会規範や正しい労働者など、あらゆる面で模範的で優秀たる人間性を義務付けられるのは想像に難くないが、まさか筆者に都合の悪い趣味嗜好だけ消える世の中になると考えるほど筆者は愚かではないだろう。
いずれはこうした性的嗜好も脳機能の解明によりそのプロセスが明らかになるだろうが、まだ犯してもいない罪に対し犯罪的思考を消し去ることを是とするならば、それは個々の人格を倫理的かつ道徳的に操作しても良いということであり、当然筆者もその対象として正しい真人間にされる覚悟はあるだろうか? 少なくともこの筆者には、他者の人格を一方的に精神疾患と判定するという独善的な思想を治療する必要あり、と判断されるのではないだろうか。
現実的に、女性が男性に性的虐待を加えるというのは、①腕力・体格差があるので〈無理矢理〉が成立しにくい。②女性が見ず知らずの男性をいきなり襲っても、反撃されて傷つけられる可能性が高く、現実の犯罪率から言っても一般の男性にとってリアリティが無い。③むしろやってほしい、多少痛くてもご褒美、という嗜好の男性も散見される。
まず①に関しては、近年強姦罪が男性被害者に適用されないことが問題視されているように男性の女性からの性的被害については筆者のような「ありえない」という考え方が男女ともに強いので泣き寝入りするケースが女性の性的被害より深刻である。さらに女性被害者のような支援も充実していない。②も同様だが、犯罪率という観点について指摘がある。犯罪における男女比は細かく分けるとだいぶ違うが、総じて女性が20%ほどである。無視できるほどの数字ではなく、具体的には平成26年の殺人犯967人のうち227人は女性である。これをリアリティが無いという数値とは言えないし、また最近ではデートDVに関する大阪での調査で女性から暴力を受ける男性が倍以上の率であることが明らかになるなど、暴力で女性が敵わないからリアリティが無いというのは例え話の喩え話にしても筆者の知識不足である。③にも関連することだが、筆者自身は陵辱系ゲームマンガに対して怖くて、不快で、侮辱的で、女性の名誉を毀損されてると感じるから規制して欲しいと語るのに、ならば男性の性的被害者に関してはとなるとリアリティの無さやあろうことか一部の男性は好むからという理由で蔑ろにしている。
このことから
や
などの言葉に一切重みを感じられない。
筆者が女性として一般的な恐怖を感じるのと同様に、また筆者は女性として男性に対する陵辱などに想像が及ばないし世の男性が実はBLゲームの表現に恐怖しているかもしれないなどという考えもない。故に男性に対し筆者は、思慮が足りないなどということは出来ず、陵辱ゲームに対する意見も自身の嫌悪感からの消し去りたいという個人的要求が第一であると知るべきだろう。
「被害者が、実在する特定の属性を持っていること」「その属性を持っている存在を、その属性を持っていない存在が危害を加えること」「加害行為がその作品のメインコンテンツであり、その描写によって快楽・興奮を得ることが目的に作られている」
を筆者は規制されるべきものとしている。二番目でちゃっかり同性愛物を省いているのはわざとか天然かはさておき、いずれもどうとでも解釈できるものであり、極めて危険極まりない規制理由である。
まず第一の
被害者という言葉について、そもそも創作表現上の被害者とはなんだろうか。作中で犯罪被害に遭う存在だとして、それを現実の法で守れというのはナンセンスな話だ。大体被害者の定義はどうするのか。家が燃えたら家は被害者だから作者は建造物放火罪になるのだろうか。人間だと限ってもその属性は幅広い。誰かを殺せばその人物の役職が大統領だから実在する特定の属性になるから規制だと出来てしまう。性別に限らず年齢も服装も人種も、なにもかもが属性である以上、そもそも創作表現で一切の犯罪被害者は出せないことになる。ミステリーでも刑事物でもだ。
第二に
は、これこそ差別的だ。男性が男性を殺すのは良いが男性が女性を殺す表現は駄目だとか、それに属性の定義が難しい。男性同士の殺人であっても片方が日本人で片方がアメリカ人なら属性を持ってないから規制対象だろうか。双子であっても服が違うから駄目だとか、どうとでも言える。
第三に
これもまたどうとでも解釈できる。大体だ、その描写によって誰が快楽・興奮を得るのかが不明だ。推測するに筆者にしてみれば病的な嗜好を持つ読者なのだろうが、表現規制より悪質な思想規制がここにある。なにしろ読者が興奮すればすべてアウトにできるわけだが、虫オスがメスを組み伏せる交尾の動画に興奮する人間がいたらそれはアウトにできるのだろうか? アウトに出来るのならこれほど馬鹿げた話はないが、出来ないというのならそれは筆者の嫌悪感に基づく趣味嗜好の篩分けを是とする危険な考え方だ。「普通の人は虫の交尾に興奮しない」を後者の定義としてセーフの条件にするならば、同様に「普通の人は陵辱物に嫌悪感を抱くので興奮しない」と出来るのだが、そこを捻じ曲げてアウトにしたいならば「こういうのに興奮する人がいるから」や「これだけは例外」など法に頼らない独善的な判断でなくてはならない。
仮に筆者の希望通りに陵辱物といえるものが規制され目につかなくなったとして筆者は満足するだろうか? 一時的には満足するかもしれないが、まず一度自分の願いが達成された万能感と高揚感、そして正義感は覚え続けることだろう。そしてそもそも筆者は女性を性的対象とする作品に目をつけるだろう。なにしろ成人向け作品そのものが性的にかつ男性向けとしてあるならば、当然そこに映る女性は純愛にせよ男性にとって都合の良い女性に違いない。それを筆者は不快だと言わないでいられるだろうか、それとも女性が現実味のない都合の良い存在として描かれておりそういうのを好む男性がいるのだと不快を覚えるだろうか。私はきっと次の規制対象に選ぶだろうと推測する。
そうやって限りない規制を繰り返しついに女性を性的に取り扱うことも差別的に取り扱うこともない輝かしい作品ばかりになったとしよう。筆者はようやく安堵するどころか、さらに不安を募らせるのではないのだろうか。なにしろ事の発端はそういった陵辱物を好む男性がいることであり、そこに恐怖や嫌悪を覚えていたのである。たかが創作表現で描写されている行為にすら嫌悪していた筆者が、果たして我慢できるだろうか。
人格改造か、去勢義務化か、男性の隔離か。筆者は妄言だと笑い飛ばしたいだろうが、筆者の考えの行き着く先はこうなのだと私は言いたい。筆者がなにかに恐怖を抱き続ける限り、目に見えなくなったからといって安堵することはないし、対象を滅ぼしたとしてもまだ生き残りがいるかもしれないと恐怖し続けるだけだ。
程々で良い、少しで良いなどという考えは行政や国といった単位に上がった時、当初の理念とは大きく外れてさらに巨大な制限となる。最近も児童ポルノ法改正で様々な規制への波及を危ぶむ声が出ていたのは、つまり個人での裁量によるあれは良いこれはダメという基準は法律に存在しないということだ。
最初の話になるが、女子差別撤廃条約委員会は陵辱ゲームマンガの「禁止」を求めている。これを錦の御旗として掲げ、その通りだと禁止を呼びかけることはできるし、この先にそういった団体が動くことは目に見えている。だがその禁止が成った時に、一つの創作表現が失われることに筆者は恐らく何も抱くことはない。むしろ嫌悪するものが消え去って小躍りしたくなるだろう。だが筆者の語る所の病気である嗜好の持ち主たちは悲しむだろう。そんな奴らが悲しんだ所で筆者は何も困らないが、しかし筆者が趣味嗜好とするものが何らかの形で規制を受ける時、彼らは味方することはないしむしろ仕掛け人かもしれない。
筆者は自分が悲しむ対象になるようなことは無いと思っているだろうが、表現の自由に手をかけるとはそういうことだ。たかが創作物というものに負の感情を根底とした規制をかけられるということは、創作物以上に影響力のある現実的存在にも同様に手をかけられるということだ。筆者が好む筆者が健全で正しいと思う存在が、誰かにとって不快で汚らわしい存在でないと言い切れるだろうか?
自身が自由でありたいと思うのならば、他者の自由も許容しなければならない。それは現在のこの国において公共の福祉という最低限度の規制を受けるが、それ以上に自分自身の負の感情を理由とする個人的要求を、同様の理由で合致した他者と共謀して排除しようという試みは慎むべきだろう。現実に犯罪を犯せば処罰される。逆に言えば犯罪を犯さないかぎり自由であり、それを無理矢理に犯罪者に仕立てあげて住み心地を良くしようなどという考えを持つならば、あなたもまた誰かに犯罪者として告発され自由を奪われることを許容しなければならない。
世の中には不快と思えるものが多くある。しかしそれをすべて排除して生きたいというのは無理のある話だし、かといってすべて許容するのも無理な話だ。
しかしコンビニ雑誌の表紙が不快ならば、あなたは見ないでやり過ごすことが出来る。 Permalink | 記事への反応(3) | 09:02