はてなキーワード: 平田オリザとは
テラスハウス、番組の作り方が悪いみたいな書き方してる奴がいる。それも否定しないし本当のところの動機はわからないけど
え、じゃあお前は自分含め視聴者には責任がないとでも思ってんの?って話
anond:20200403084145 で 「○○が自殺したらどうすんの?」構文が印象は最悪、なんてブクマが星を集めていたけど、まさに今必要になったのがその想定じゃないの?実際岡村隆史や平田オリザが自殺したらどうしたんだ。あるいは自殺でなくとも精神的にダウンして社会復帰できなくなったら?それはセーフか?死ぬこと以外かすり傷?
炎上が原因と仮定するなら、少なくとも一部の視聴者は集団リンチと自殺教唆に加担してるよな
そして気になるのは、「じゃあどこからが炎上に加担してることになるの?」というところだ。
現在俺は明確な基準を持っていないが、今反省しなければまた同じことを繰り返すだろうから、ここて言動のパターンを列挙しながら炎上加担のボーダーを探ってみたい
■誹謗中傷編
ここでいうオープンとは、不特定多数がアクセスできるという意味。TwitterとかFacebookとかブログとかはてぶとか増田とかで「死ね」「消えてくれ」と伝えるイメージ
さすがに言うまでもないよな。
陰口の類。「あの人死んでほしいね」など。
なお実際にはクローズ度合いにもグラデーションがあり、鍵垢の親しい人に向けてのみだとしても、人に意見を伝えて影響を与えるなら、無縁とは言えない
■批判編
発言側、受け手側の両方で、批判と非難の区別がついてないと、精神的ダメージは生まれる。俺の場合は批判だとわかっていても内心つらい
人目につかないだけまだマシか?俺ならつらい
twitterで「応援してましたけど残念です」の奴がわかりやすい。俺だったらこれでも十分辛い
「あの人は応援してましたけどね〜残念です」の奴
■ポジティブ編
「わかります」「悪くないですよ!」「頑張ってください!」の類。いわゆる火消し。うまくやらないとさらに炎上したりする。
DMで伝える場合。オープンな場で行ってくれよ、と本人は思うのだろうか
■その他
実際の火事になぞらえて言えば、薪のようだな
・現実に人と話す
さすがに本人まではかなり遠いかもしれないが、影響がないとは言えない
ちなみに実際には「相手」の変数も公人・著名人・一般人、さらには誰かの作品なんかも含まれるだろう。それによって深刻さは変わってくるのだが、別に区別しなくてもいいんじゃないの、と思う。
相手が安倍でも枝野でもトランプでも習近平でも、きゃりーぱみゅぱみゅでもつるの剛士でも、知らないどこかの男でも女でも若者でも老人でも、相手の属性で言うこと決めなくてもいいじゃん、とね。相手が〇〇だからこれくらい言ってもいいか!っていじめ・パワハラと地続きだからな
さてどうだろうか、どのパターンならOKで、どのパターンは慎むべきかなどの判断が少しでもはかどったなら幸いだ。
個人的にはSNSで意見を言うときはなんであれ、炎心でなくとも火種や火花や鱗粉になる可能性があるんだなと感じた。不要不急のネガティブ意見はメモ帳に限る。どうしてもネガティブなことをいいたいときは、慎重な言葉と定義で誤解を減らし、あくまで意見に対する反対意見であって相手自身を非難するものではないこと、そしてむしろ相手を立てることを表現しないとな、と感じた。
また自分の経験から言えば、たったひとりからの一見正しそうな意見でも、荒い言葉遣いでガツンと来られたら、そこそこ精神的ダメージを受けた。
それが目に見えない大人数から、人格否定されてしまったら、どれだけつらいかわからない。ヒトってたぶん、そういうダメージに耐えられるようにデザインされてない。
少なくとも「理由があれば誹謗中傷してもいい」として振る舞ってる奴は、自分の言動に線引きして制限したほうがいいんじゃないかな
ご遠慮頂きたいなって思ったんですがタイトル長すぎて切れましたてへぺろ☆
平田オリザ氏炎上にみる、コミュニケーション教育は「他者と相互理解する能力」を害しているという現実
https://note.com/hirayama_t/n/n9ee3544db3b0
これ見て「伝える力偏重のコミュニケーションはパッと見だとうまくいってるように見えるけどちょっとしたきっかけで破綻する」ってのはその通りだよなーと思いつつ、どうしてもひっかかることがあったんですよ。
そもそも「日本のコミュニケーション教育は伝える力偏重」ってマジなの?ってとこです。
自分、職業柄コミュ障のくせに他者との会話が必須なので教育で得たスキルでどうにか人並みの仕事をできるようにしてるんですけど、そのコミュニケーションのための教育で教わることって「相手の話をちゃんと聞こうね」なんですね。
相手の話には適切に相槌を打つことで相手に安心感を与えよう、だとか、相手の言ったことを再確認することで齟齬が起きにくくなるだけでなくて相手からも信頼してもらいやすくなるから言われたことはちゃんと「○○ですね?」って聞き返そうね、とか。
もちろんこっちから話しかける時の注意として分かりやすく簡潔に、とか、伝えるためのスキルってのも教わりましたよ。でも相手の言いたいことをちゃんと把握するための技術はきちんと教わりましたし偏ってるなんて思ったことないです。
そもそもこの平田オリザって人、コミュニケーション教育ナントカの座長で第一人者って言うけど今回の炎上まで名前も知らなかったんですよね。もちろん自分のアンテナが狭いってのはあると思いますが、それだけ重鎮のはずの人ならそれこそテレビの御意見番とかで出てきて名前くらい聞いててもよさそうなのになーとか思ったり。
そんでちょっとググってみたんですけど、この「コミュニケーション教育推進会議」って悪名高い民主党政権時代に発足してて、しかも文科省のWEBサイトを見る限りでは会議も自民党政権に戻った後は開かれてないっぽい(議事録が4回目までしかないしその後の活動も特に掲載がないし資料も見当たらないし)感じなんですよ。いや活動継続してるなら教えて欲しいのでリンク下さい。
もちろんその2・3年ほどのせいで日本の教育に深い爪痕を残したっていうのであれば理解できなくはないですけど、そういう方向の話でもなさそうだし。
日本には昔から「話し上手は聞き上手」っていうことわざだってありますし、いわゆる陰キャと呼ばれるようなタイプの間でリア充の人のコミュスキルの高さの話が出る時って「真のリア充は自分らみたいなコミュ障でもうまく会話を誘導して話を聞き出して広げてくれるからすごい」って話であって「リア充の話っていつまで聞いてても飽きない」みたいな方面の話はほぼ聞かないです。自分は。
時間の都合とかスキル不足で教育が足りてないという現実はあるにせよ、コミュニケーションには自分の意見を正しく伝えることも重要だけど、相手の意見を引き出す能力であったりその為の傾聴能力であったりもすごく重要だよね、と思ってる人の方が多いんじゃないかなあ。少なくとも自分の観測範囲だとそうです。
ネット上のコミュニケーションが発言重視のコミュニケーションになってしまうのは、どちらかと言えばどうしても対多人数への発信が主になりやすく、かつ相手の反応が返ってくる(相手の反応を確認できる)のがリアルタイムではなくてタイムラグがある(ブログなどだと記事の投稿⇒読んだ誰かによるコメント⇒更にそれを書いた本人が確認するための時間差がある)という対話方式の構造上の問題であって、教育がどうこうじゃないと思うんですよね。
いや、そういう1対多数のコミュとか発言からレスポンスまでにタイムラグがある場合の対話術とかを教育できちんとやるべきではって話であるならやった方がいいでしょうねとは思うんですけど、それって傾聴能力を軽視したからコミュニケーション教育は失敗したんだ、っていう話とは別の話じゃないですか。別の話に平田オリザを混ぜ込まれると問題点が見えなくなるのでは?っていう。
十数年前の道徳の教科書には既に「英語が得意な『私』と得意でない友達がそれぞれ海外にホームステイに行ったけど、『私』はステイ先の同年代の子供と話が合わずギクシャクして、友達の方が海外の友人と仲良くなっていた」っていう話がありましてね。喋るのが得意でもそれだけでは相互理解なんてできないというのはずっと前から教育者も理解してると思います。(まあこの話の本題は自分の国に目を向ける、自国に誇りを持つことにあるっぽいですが)(ちゃんと最後には仲良くなれるのでごあんしん)
でもって傾聴能力そのものは教育である程度まではどうにかなります。何せ自分が仕事できているので。
もちろんそこには仕事だからこそ相手の話をちゃんと聞こうという意識が働いているという部分があり、相手の話を聞こうとしなければ傾聴スキルをいくら磨いてもコミュニケーションできないってのはその通りです。ですが「相手の話を聞こうと思えるようになるためには何をすればいいか」についてはこれもやっぱりある程度までの話になりますけど教育で賄える部分かと思います。
という横の話はおいといて、やっぱり平田オリザ氏のコミュニケーション論を軸に日本全体、あるいは主軸のコミュニケーション論が伝える力偏重であるという論調で話を進めるのはちょっと乱暴でないかなーと思うのです。
昨今の英語教育だって四技能、読む、聞く、書く、話す、と受け取る能力が盛り込まれてます。
日本のコミュニケーション論が伝える力偏重になっているのでは、という話をするならそんなごく一部かつ負けた政権の人間で今は開催されてないっぽい会議の議長の話を出すんじゃなくて、もっと他に今話題の方とか継続して活動を続けておられる方とか現在全国で取り組まれている試みとかを例として提示しないといけないんじゃないでしょうか。
あとググって出て来たここのページ
http://web.iec.ehime-u.ac.jp/reinelt/2018JCAcsComp/2018JCAcs3WakiTadayuki.pdf
とかを見て当時の会議資料のありかを知ったんですが、確かに2000年代初頭の資料については伝える力について主題として扱っているんですが、これはそもそも国語力とコミュニケーション能力の関係性について語られているのであって主題になってるのは国語力の方では?というあたりの問題もあって一概には言えない気もするなーとか。
(国語力は円滑なコミュニケーションには重要です、という話とコミュニケーション能力とは高い国語力のことです、では話が違いますよねってことです)
それにこれって「意見を発信する時には相手への尊重が必要不可欠だよね!だから敬語を大事にしようね!」みたいな話なので(雑すぎる要約なので詳しく知りたい方はちゃんと一次資料を読んでね)相手にこちらの話を聞いて貰えるようにするための警戒心を解いてもらう話術の話だと思うんですよ。
そんでもって平田オリザ氏の例の発言が炎上したのってその「相手への尊重」が欠片も感じられないんですけど、ってところが起点じゃないですか。
発信する側としてのコミュニケーションスキルである相手への尊重とそれを実際に示す態度、話法というのができてない時点で「平田氏のコミュニケーション論には問題があるかもしれないけれど、そもそもとして平田氏自身が自分の主張するコミュニケーション技法を守れていないので、今回の炎上を元に平田氏のコミュニケーション論が間違っていたかを論ずることはできないのでは?」という。平田氏のコミュニケーション論が正しいか否かには別のサンプルを持ってこないと駄目なんじゃねっていう。
なんかこう、平田氏の失敗を直接的には関係ない仮想敵への攻撃に便利に使っているように見えてしまって、伝える力偏重のコミュニケーション教育はよくないって主張そのものについては同意できるだけになんかむずむずするなーと思いました。
酔っ払ってキーボードが叩きたくなったので,とりあえず書いている。
筆者は,平田オリザ氏のコミュニケーションに関する記事で,製造業を批判した(受け止め方をすでに間違っている可能性あり)記事が炎上していると感じている。
これについて批判記事も各種出ていて,「コミュニケーション教育」について批判のエントリも多く見かける。
筆者にとって思うところを書く。
前提として,筆者は
・平田オリザ氏の記事が炎上している事で初めて平田オリザ氏を初めて知ったため,氏の過去の言動を知らない
・筆者は,とある製造技術分野のエンジニアを自認する人間である
である。
自身のプロフェッショナリズムに基づいて本件についての意見を述べると,
「コミュニケーション能力は,受信機の仕様が確定している場合にのみ,発信機責任になる」
という考えから,平田オリザ氏の発言はイマイチだなぁ,と感じる次第である。
森博嗣著書の「すべてがFになる」から始まるシリーズで犀川先生が発言する「コミュニケーションは発信側の責任」(正確な文言は忘れた)という言葉は,
受信機のプロトコルを送信側が理解している前提による。つまり「AMラジオに対してAM波で語りかけない方が悪い」という考えである。
受信機がAMラジオであれば,AM波で送信しない送信者は前提を無視しているため伝わらなくて当然である。
筆者の考え方では,コミュニケーションを「伝える力」と定義としたとき,「受信機の仕様に合わせた送信」ができていないことが「コミュニケーション能力の不足」
と感じる。このことから,平田オリザ氏の発言が炎上する理由は,氏が受信側に受け止めてもらえる内容になっていない時点で,氏が言うところの「コミュニケーション能力の不足」に感じる。
筆者は,普段から受信機の仕様に合わせた送信が上手くできない事を悩んでいるためなおさらそう感じる。
コミュニケーション能力について問題提起する人物は,常に自身の発言が「受信側のプロトコルに合わせた送信か?」を考え続ける必要があるし,それを批判された
際に反省できないのであれば,自身のコミュニケーション能力を疑う必要がある,と筆者は考える。
と,書いてはみたが,何が書きたいのかよくわからなくなってきた。とりあえずブラックニッカディープブレンドはそんなに悪くない。
2日目
「コロナ終了のお知らせと、煽りに煽った人には総括をオススメしたい」
「まだ平田オリザの話してんのかよ」
「バニラのアイスを買ったときだけ車のエンジンがかからなくなる」
O.Sまであと8日
「ようわからんで言うとるわ、けっ」とか思うのはわかる。無理解、部外者。
が、あの触れ方が、侮辱に満ちていて今後誰もすべきではない、タブーな物言いだったのかというと、
とてもそうは思えない
軽く扱ってるのか?よく知らずに引き合いに出した、ということが?
時節柄イライラしまくってる人々の火種の中で増幅されただけなんじゃないか。
でもその建前として「他業種を下げてる感じするからよくない、っていうのはあるよね」というのがくっついて。
それが燃えると「他業種を軽く!こんなにも軽く扱うだなんて、、、許せない!!!」みたいな。
すごく雰囲気で言ってるように見える。
気に入らないのはすごくわかるのだが、
この正論ぽいものに、誰かの真意が、心の叫びが乗ってるのだろうか?
この事例から人々が学ぶべきは、
まだ映画が新興の娯楽だった頃に、「カットをつなぎ合わせた演技は偽物」とか言われて蔑視・差別されてた頃のノリだよな。
そういうプライド意識は時代を経ても「映画は映画館で見なければならない」とかに受け継がれてるけど、
伝統的な演劇産業のプライド意識を今この現代で目撃するとは思わなった。
すげーよな、お前ら化石かよ。
本件に関して私が感じたのは平田オリザの強い危機感と焦りである。この危機感を強調したいが為についつい他の業種等を下に見た発言をしてしまっているというのが私の見立てである。
しかしこの危機感の部分が皆に理解されていないように思う。そこで私は「演劇ファン」の立場から、この危機感について説明し、それを踏まえてオリザの発言の意図(と思うもの)を説明したい。
これを語るために視野を広くとって、演劇にかぎらず「物語を表現する媒体」について見てみよう。例えば、テレビ、映画、漫画等だ。
こうした媒体を見たときある意味最強なのはテレビだ。なんといっても0円で、しかも家から一歩も出ず楽しめるのだから(インターネット上の無料コンテンツも同様)。
それに対し演劇や映画のような媒体は、お金もかかるし外出も必要だ。だからテレビと差別化できないと、お客が入らず消滅しかねないのだ。
映画の場合、テレビの登場や高画質化等で打撃を受けたが、3Dや4D等で差別化をはかってる。演劇でも伝統芸能やミュージカルは、それら固有の演出をする事で、ある種テーマパーク化して差別化している。
しかし平田オリザ等のやっているいわゆる「演劇」の場合、ほぼ唯一の差別化要素は、お客が生で見るという事だ。そもそも、テレビや映画は西洋演劇の直系の子孫なのだから、差別化しづらくて当然だ。
そしてコロナにより、このほぼ唯一の差別化要素が無くなったわけであるから、この状態が続けば、演劇は消滅してしまう。これは危機感をもって当然だ。
最後にオリザ発言に戻ろう。オリザの意図は、私が思うに、演劇が消滅の危機にあるので、「客と生で触れる」という演劇唯一の差別化要素を強調したいだけなのだ。
もちろんオリザの発言は、演劇の危機を強調するあまり、製造業を下に見る発言をするなど、はっきり言って弁解の余地はない。
ただ、スポーツその他の娯楽を下に見ているという批判はちょっと違うと思う。これらはコロナで面白味が減じるかも知れないが、やり方次第で生き残れる可能性が高いので、そもそも念頭にないだけなのだと思う。
twitterだと誰かが何か言い放ったら、ものすごい勢いで叩かれて過去まで漁られるけど、2chなんて何言ったって、反論ついてもその場で終わりだし
twitterでよく論争が起こったりしてる原因って結局記名式だからだと思うんだよな
意図とは違うクソリプがついたり、しょーもない揚げ足取りされたりして、文面間違えたら酷い目に遭う
今の平田オリザだって、匿名で呟いてたんだったら、「製造業市ねってんかいな」と言われて終わる
5chに書き込んだときの方が、変に擁護されなくて「それはおかしいよ」って言ってくれる人が多い
なんだかんだでどのスレも自浄作用が働いているし、話題によって行くスレを変えればいいから、いつも濃い話題が出来る
だっていうのに世間はTwitterに流れてるのが不思議でしょうがないが、世の中にはそれだけ承認欲求が強い人が多いって事なんだなと言うのを学んだ