はてなキーワード: 常世とは
どうせ新海誠のことだから、キモい性癖を散りばめて RADWIMPSで無理やり感動させる雰囲気作るいつものやつだろ、くらいの気持ちで臨んだ。
冷やかしの気持ちだ。
そうしたらあれですよ。
映画の中盤には東北道の北上して、物語の舞台が東北のあの辺になってきて
放射能で住めなくなった荒れ果てた街があって
ただ、ばあちゃんの家が福島にあって、小さいときに夏休みに泊りがけで遊びにいってたところ。
地元の駅は津波で流され、ばあちゃん家は放射能で住めなくなって、野生動物に荒らされて?ガラスが割れ草ボーボーになって
両親が防護服を着ながらそういう状態を写真に撮ってたんだけど、それにそっくりだった
呼吸が浅くなった
映画の描写は、津波の被害で家屋がぐしゃぐしゃ、船がおかしなところに乗っかっちまってるようなそんな街を映していて
これには本当にびっくりして涙が止まらなくなり、口のところまで流れてきてしょっぱかった
あの日俺は海老名で仕事してて、小田急止まって家に帰れなくなって
びっくりしてまた涙がぼたぼた落ちてきた
原発の仕事をしていた別の親戚は、仕事がなくなって引っ越したらしいが、まあそんなところだ
幼い日のすずめが、お母さんがいなくなった事を一生懸命に説明する描写がある
あの日、3月の冬の夜、帰る家も無く、たくさんの人が声を枯らして人探しをしたんだろう
そういう悲しさで辛くなって、手を合わせて祈りたい気持ちでいっぱいになってしまった
新海誠の新作映画、「すずめの戸締まり」を観てきた。これがどうにも周囲の人間に話がしづらいというか、未視聴の人に「どうだった?」と聞かれたときに応えづらい、しかし観た所感、体験だけは誰かと共有したい気持ちがすごくあるので書く。
この作品について語る上では、この映画が何を主軸に据えているかは避けて通れない。なので多少のネタバレ有りということは承知の上で一読されたい。
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この文章は現在30代、11年前は20代前半だった人物が書いている。
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本作のあらすじを簡潔に書く。
九州に住む主人公の少女すずめが旅の青年草太と出会う。草太は日本中の廃墟にある「後ろ戸」と呼ばれる扉を締めて回る「締め師」だ。すずめはその草太との出会いをきっかけに後ろ戸の脇に埋めてある「要石(かなめいし)」と呼ばれる石を抜いてしまい、その結果後ろ戸が開き、中から現れる巨大なミミズが地震を起こしてしまう。(椅子になる呪いなどについてはここで書きたいことではないので省く。)
抜かれた要石は「ダイジン」という名前の猫になり、登場人物たちはダイジンを追う過程で東北の被災地を訪れることになる。
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これは2011年3月11日、日本列島を襲った未曾有の災害、東日本大震災を主軸に据えた映画だ。
いきなりテーマについて述べるが、「この映画が何を描いているか」は本作エピローグで草太の口からわかりやすい形で語られている。
「人々が失ったものへの無念、悲しみが忘れられ軽くなったところに後ろ戸は開く。」
一度しか観ていないので正確なセリフではないが、このような趣旨の言葉が語られる。
「後ろ戸」とは現し世(現実)と常世(とこよ・霊界のような場所)を繋ぐ扉であり、そこが開くと扉から巨大なミミズが現れ(このミミズは締め師である草太、主人公のすずめにしか視認できない)、空から地上に落ちることで地震を起こす。
後ろ戸は廃墟にあるものだが、廃墟であるが故に、その地での災厄の記憶、失われたものへの想いは風化していく。そこには要石という石が埋めてあり、再び扉が開き災害が起こらないよう守っているのだ。
この映画は我々が体験してきた被災の記憶が風化されないよう、呼び起こすような映画だ。そして未視聴の人に説明をするのが難しいのもそのためだ。
映画館に足を運んだとき、自分は事前情報を全く入れずに行った。そして何となく映画を観始め、巨大ミミズが地震を起こし、物語の舞台が神戸へ移ったところで「おや」と思い、オープンカーが首都高を経由して東北道へ向かい始めたところで確信に変わり、そして気付かされた。「忘れていた」と。
忘れていたわけではない。事実としてはまだ記憶に新しい。ただし映画の中で鳴り響く緊急放送、津波で一掃された土地、そういったものの映画の中での情報の感触は、普段触れる情報とは全く異なったレベルで自分の記憶を呼び起こすものだった。その点に関しては映画スタッフの美術や演出の面々に感服させられた。
だからこそ、「東日本大震災のその後の物語だ」ということすら知らずに観るべきだ。なのにここにこんなことを書いていることについては矛盾にもほどがあるのだが。それでも、あのはっとする体験は代えがたいものだったように思う。
その点からまずこの映画の良かったのは、テイザーや物語冒頭でわかりやす過ぎる形でテーマを明かさない点だ(それでも屋根の上に船が乗っているのだけれど)。これも意図した演出なのだろう。
これが少しでも YouTube の予告編で明かされていようものなら、こんなに「観てよかった」と思うことはなかっただろう。
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この作品について語る上で、村上春樹の短編集「神の子どもたちはみな踊る」、特にその中の一編「かえるくん、東京を救う」を避けては通れない。
こんな話だ。
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東京で働くうだつの上がらない銀行員の中年男性が、ある日かえると出会い(「かえるくん」、とかえるくんは指を立てて訂正した)、かえるくんと共に地下に眠る巨大ミミズと闘い巨大地震を阻止する。その後男性は病室のベッドで目を覚ますが、傍らには闘いでボロボロになったかえるくんがいる。ふと気がつくとかえるくんの身体からボトボトとミミズが現れ、男性の身体がミミズに飲み込まれたところで、男性はその夢から覚める。
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こんなに似通えば嫌でも取り挙げたくなる。
この小説は1995年に日本で起きた阪神淡路大震災を柱に据えた小説である。
1995年、オウム真理教による地下鉄サリン事件と立て続けに起こり、日本の安全神話が崩れた年だ。
作者である村上春樹は、この年を経て、地下鉄サリン事件の関係者・被害者へのインタビューを行い、「アンダーグラウンド」という書籍をまとめ、普段我々が当たり前と感じて暮らしているこの社会、他者との関係性、足元の地面ですら、ありとあらゆるものが決して確かなものではないという危うさを看破し、小説への考え方について「デタッチメントからコミットメントへの転換があった」と語っている。簡潔に述べるが様々な関係性を一旦切り離して書くのではなく、コミット、深く関わっていく姿勢への移行だ。
氏はこのコミットメントについては、「日の光も届かない深い井戸の底へ降りていき、その中で手を取り合うような行為」というような言葉で表現している。光の一切届かない暗闇、自身の身体と周囲の空気、現実と非現実の境界が曖昧になる。死に近い場所だ。
人の日常生活では感知し得ない深い場所・心理、そういった部分で他者と手を取り合うこと。自分は氏の言うコミットメントをそのように捉えている。村上春樹はそのような時を経て2000年にこの小説を描き下ろした。
翻って本題の映画はどうだろう。いつも地の底に潜んでいる「地震を起こすミミズ」というモチーフ、すずめが自身のルーツである過去と向き合い、草太と再開を果たした、井戸の底のように現実と霊界の境界が危うくなる「常世」。何から何までが一対一対応というわけではないものの、通ずる部分があるように思えてならない。
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「神の子どもたちはみな踊る」は善悪の二元論ではなく陰陽論の物語集だ。
太極図、という白と黒の勾玉が互いに合わさって円を作っている図を見たことがあるだろうか。
こんなのだ☯
善悪、明暗などの世の中の事象は二分に切り分けられるわけでなく、互いにグラデーションにように折り重なり、それぞれが互いに内在し合うものである、という考え方であり、太極図はそれを表しているように読み取れる。
太極図について、ちょうど三角関数を学んだときに単位円の中で動径をθに合わせて回したように、円を描くように眺めると良い。
日が暮れるように、徐々に陽に陰が重なっていく。やがて陽がすべて陰に飲み込まれるが、その陰の中心には陽が内在する。
「かえるくん、東京を救う」の最後のシーンはまさにそれだ。主人公がミミズを飲み込み、それを夢として目を覚ますが、ちょうど「夢でしかない」くらいの点となって主人公の中に静かに存在する。
この小説中の作品に関して言えば「かえるくん、東京を救う」に限ったことではない。
宗教二世を描いた表題作「神の子どもたちはみな踊る」にせよ、バンコクのホテルで神戸に住む男の存在を思う研究者の女性にせよ、海辺で焚き火にあたる男女にせよ、自身の中には消して割り切ることのできないものが存在し、それですら目を背けることはできない自分自身なのだ。
その点でいえば、主人公すずめを育て上げながらも苦悩を抱えたまま中年期を迎えた叔母や、キャラクターが極端に振れるダイジンのあの姿に、どうしても自分は勾玉の形を照らし合わせたくなってしまう。
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我々が当たり前のように立っているこの足元、地面というのは確かなものではない。しかし一方でそれをある程度信頼した上で営んでいかなければならない生活がある。するとその表層上の信頼感によってその奥底にはらむ危険性をつい忘れてしまう。
東京都心の上空を巨大ミミズが覆い、今にも落ちて地震を起こそうとする。そこで一瞬ミミズの描写が消える。ミミズはすずめと草太にしか見えていないのだ。ずごごごご、と地震の前兆のような地鳴りが響いてきそうな予感を、スクリーン越しに観ている我々は感じるが、作中の街ゆく人々はそれに気付かず日常生活を送っている。
そこの描写が本当に良かった。地震とはいつもこうやって突然にしかやってこないんだ。そう思わされる。知ってはいるがいつも忘れている。今日この映画館に足を運んだ俺だってそうだった。そう思い知らされる。
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東日本大震災の発災当時、自分は東北地方からは離れた実家の部屋で揺れを感じていた。
2回目の大学4年生だったと思う。その年度も卒業の見通しは立たず、試しにやってみた就職活動も上手くいかず(リーマンショック直後の年だ)、大学にも足が向かず、鬱々とした日を過ごしていた。
インターネットに張り付いて、東北地方や東京の情報をひたすら追っていた。津波が町の何もかもを薙ぎ払っていく様子が全国に衝撃を与え、日が暮れるに差し掛かり日本全体が絶望に飲まれていくような空気を感じたように記憶している。
当時地元から離れた東京で働いている友人が数名いた。幸いにも彼らに大きな怪我はなく、交通機関による帰宅が困難となり、渋谷から半日かけて家まで歩いた、などという話を聞いた。
日本は強かった。余裕がない中でもそれぞれが自助共助に取り組み、生きながらえようとしていた。各大手企業にしても、サントリーは被災地に飲料水を発送し、ソフトバンクは公衆 Wi-Fi を無償開放した。当時流行っていた Ustream では日本の若者が NHK による被災状況の中継をカメラで撮影して流し、その行為の是非について当時の NHK Twitter 担当者が自身の責任と判断でそれを認め、情報共有を助けた。Evernote は有償の容量無制限サービスを日本人に向け一時無償提供を行った。
今ではウクライナと戦争真っ只中のロシアはプーチン大統領の「ありったけの物資を今すぐ日本に送れ」の大号令のもとに支援を行い、アメリカ軍は作戦名 Operation TOMODACHI を実行し日本に対し援助活動を行った。
悔しかった。社会の一員として何かを為せている人たちが立派に見えて仕方なかったし、事実立派であった。大混乱で帰宅、避難がやっとという友人たちでさえ、懸命に行動している姿が眩しく、自分が情けなくなった。俺は何をやっているんだ、と。
あれが人生の転機になった。転んでばかりの青年期、気持ちも前を向かず、ただただわがままばかりでいつも誰かのせいにしてばかりだった生活と、ようやく決別することができた。まずは目の前の事を片付けて四の五の言わずに働けと、アレがしたいコレはしたくないではなくどんなに小さく些細でも社会の中の一コマとして人のために出来ることをせよ、と自分に言い聞かせた。
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働き始め、転居をし、新しい人間関係を築き、仕事ももう若さでは乗り切れない年になりつつもやり甲斐を感じながら生活をしている。
10年間生きていると色々なことがある。見聞きしたもの、体験した記憶は、古いものから後ろに流され色褪せていく。
あの頃自分が感じた、鮮明ではなくなった様々を、しかし、劇場で唐突に思い出させられた。「お前はあの時どうだった、今はどうだ」と。
そこに前述の草太のセリフだ。2011年に東北地方に向けて自分が抱いた思い。それが忘れられ軽くなっていたところに、この映画は重さを再度伝える石となって自分にのし掛かったのだった。
あの時あの日本社会全体の空気感を体験した人が、今観るのに本当に良い映画だった。難解すぎず、わかりやすく、無駄がない。
新海誠の新作となれば中高生も大勢観るのだろう。ただ時間が経つのも早いもので、今の高校生でも発災当時は5,6歳だ。そういった世代が災害の恐怖を知る目的ならば「東京マグニチュード8.0」辺りを見ればよい。良い作品だ。
もしあなたが「君の名は。」や「天気の子」のような純度の高い恋愛ファンタジーを、あるいは「秒速5センチメートル」のようないじらしい恋愛アニメを期待するならば、この映画は応じない。
この映画はあの時を生き、その後を生きてきた人へ向けた作品だ。そしてそういう人たちとこんな風に、観た後の感想を共有したい。
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これで最後だ。
東北地方に差し掛かったところで、ドライバーの「綺麗なところだ」というセリフに対し被災者であるすずめは「綺麗?ここが?」と無感情な様子で返す。
遠くで震災を感じていただけの自分のような人間と、実際に被害に見舞われ大切な人や物、土地を失った人との間には、やはり件に対する感じ方にはどうしようもなく深い断絶があると思う。
やり切れない想いに対しては哀悼の意を持たざるを得ない。その上で、外野から眺めていただけの立場に立ったこの文章を不快に感じる部分があれば、そのような人がいれば、謝罪したい。しかしながら今のところこれが、11年経った今、この映画を観て自分の感じた率直なところだ。
またしばらく経ったら観に行ってみようと思う。
これから観るつもりの人は回れ右!!観るつもりない人もこれだけ読んでもおもんないし回れ右!!観た人だけスクロールしてくれ!!!
すずめの戸締まりを観てきた。ネットでネタバレを踏みたくないのと、たまーにレイトショーで映画を観ると気分が良くなるので公開初日にレイトショーで。感想としては「すずめちゃんカッコイイな」とか「やっぱ映像綺麗だな」とか「今回はPV演出やらなかったんだな」とか「ドライブしてるあたりが一番面白かったな~」とかそんなところ。個人的には君の名は。と天気の子には及ばないけどなかなかいい映画だった。ネットでもいくつか既視聴者の感想を検索してみたが、刺さった部分の感想は人それぞれでありつつ、それなりに好意的な評価が多かったように思う。また、劇中でははっきり名前こそ出さないものの、「東日本大震災」が起こった世界を正面から描き、主人公の追悼と成長を描いている点も、今のところはおおむね評価されていた。一方で、事前の予告では東日本大震災を直接的に取り扱った物語であることは示されておらず(私の知る限りでは、緊急地震速報の流れるシーンがあるとかその程度の周知だったと思う。小説読めばわかったらしいけどまぁ読まないよね)、物語後半に割と不意打ち的に311の描写があることへのある種の懸念と、個人的な嫌悪感を示す人も多少見られたと思う。これらのレビューについて、皆それなりに首肯できる部分もあり、個人の感想と照らしあわせながら楽しく読ませてもらった。でも、これらの世に出てきたレビューを読みつつ、個人的に気になった点が一つある。
みんな「世界観と設定」について、全然話題にしてないな?ということ。この映画の最大の瑕疵、というか問題点になりえるとしたらこの世界設定の部分だと感じていたので。
あまりにみんな何も言わないので、匿名ブログを書いてしまった。匿名なのは卑怯といわれるかもしれないが、そもそもブログやってないので…。
すずめの戸締まりの世界観と設定について、私が映画をみた限りでの理解を以下に記す。あくまで私の理解なので、誤っていたらご指摘ください。
どうだろうか。列記すると滅茶苦茶カルトな設定だなと思う。作中ではもう少し自然に描いているのは確かだ。でもそもそもこの映画を観たら、「映画として面白かったかどうか」とは別に「この設定が受け入れられるか否か」がかなり心に引っかかるのではないだろうか。個人的にはちょっとウェッという感じで、この設定使うなら311じゃなくて君の名はのように架空の災害として扱うか、もしくは311はミミズ由来のものじゃなかったことを明示しとくべきじゃないかと思った。福島で地震に遭遇するシーンでミミズが現れないことから、「あぁ、すべての地震がミミズ由来ってわけじゃないのね…」と少し安心したら、そのあとの「草太さんが抑えてくれてるんだ!」というセリフでずっこけた。ほんとにカルトだよ。
「結局創作なんだからいいじゃん、現実と創作は別だよ」という意見もあるかもしれないが、311は実際に起こった災害であり、それを作中で扱ったにも関わらず原因ミミズなんです、はちょっとなんか、私はイヤですね、という感じ。
ちなみに「作中では311は止められなかったのか?」という至極当然の問いに対しては作中では特に答えはないが、ファンコミュニティ間では「そもそも震源地が海だから無理だった」とか「草太の父世代の閉じ師が出てこないことから察せる」とか色々考察があるようである。まぁ書いててむなしくなるような話題である。
なお、現実世界の話をすると阪神淡路大震災は震源淡路島南部の直下型地震、関東大震災は神奈川県西部、東京湾北部、山梨県東部が震源の三つ子地震だったといわれている。作中でもふたつの震災は起こっているっぽいので付記する。
上のような設定について、私は「みんな特に何も違和感をもたなかった」とはあまり思えない。みんな「違和感があるけど口にだしていないだけ」なんじゃないか……と、他人の心中を勝手に想像している。ツイッターやインスタ等の短文SNSだったら確かに「面白かった!芹澤いいわ~」で終わりだろうけど、ブログやレビューサイトで長文のレビューかいててこの世界設定に触れないとかあるの?と思っている。ただ一方で、確かに語りにくいよなと感じる部分もあって、これもその理由を列記する。
1について、実際の被災者の方はどう思っただろうか。上記の不意打ち的な311描写も含めて、東北の劇場では結構トラウマえぐられた人も多いのではと勝手な心配をしている。ちなみ当時東京に住んでいて被災といえば計画停電くらいだった私でも、日記のシーンと燃え盛る瓦礫のシーンはちょっと心にきた。
2については皮肉抜きに新海誠を尊敬する。「シン・ゴジラ」も「君の名は。」もアフター311の映画ではあったが、東日本大震災そのものとしては取り扱わなかった。押しも押されぬ超人気監督として、期待のかかった商業映画で東日本大震災をメインテーマのひとつに据えた心意気は本当に見上げたものであると思う。扱い方は個人的にはうーんではあるが。また、ここで難しいのが、すずめの戸締まりにおいて311はメインテーマの「ひとつ」でしかないところである。311の映画ではない。
3については、これからファン層以外にリーチしたときにどうなるのか気になるところ。例えば金ローで放送したときとかさ。
現在ネット上で閲覧できるレビューはほぼファンによるもので、おおむね好意的なものが多い。これから本職の映画評論家や、メディアによるレビューが始まるだろう。彼らはおそらくこの世界設定について、ファンレビューのように目をつむることはできないのではないかと思う。上記1のような問題もあり、どのような評価がされるのか気になるところである。
ちなみに、IGNJapanの11月12日(公開翌日)付レビューでは以下のような一文がある。
>> しかし僕が気になったのは別のことだ。3.11後の物語性や震災の歴史、そして天災を鎮める世界観として神道を引っ張ってくる意図についてはこれから他メディアでの評論やレビューで嫌になるほど言及されるだろう。そこに自分の関心はあまりない。 <<
この筆者本人は関心がないそうだが、記載の通りよくもわるくも嫌になるほど言及されるだろう。
みんなどう思った?俺はめっちゃ違和感あった。映画のできそのものを否定するわけじゃないけど、世界設定については滅茶苦茶やんけって思った。気にならないって人のほうが多いのかな?
すずめの戸締り
登校時にすれ違ったイケメンの草太に一目ぼれ
草太はこの世と常世(あの世)を繋ぐ扉を閉じて回る「閉じ師」だった
扉(裏戸)が開けばあふれ出たミミズが災害(地震)を起こしてしまう
様々な出来事に遭遇し成長していくが
みたいな話で
扉から溢れたみみずが暴れると現実では地震が起こりアラートがなる
このアラートにスズメは全く反応しないし、地震が起こっても怖がらない
一つ一つのパーツ(塗りつぶされた日記)とかはクルものがあるんだが
(全米が泣いたみたいにならない)
震災の描写があってもすずめは一切ひるむこともなく突き進んでいく
で、最後4歳の自分に高校生の自分が常世であっていたという描写が入るのだが
震災で親を失った4歳の子供に、超然とした今の自分がメッセージを送るシーンを見ながら
それじゃ救えんだろう?という描写で終わってしまうのだ(個人の感想です)
と、疑問符を付けざるを得ない出来
叔母との確執も、震災に纏わるアレコレも、東北への旅も、徹頭徹尾、「ための演出」舞台装置としか感じられない
思春期の少女が惚れた腫れたをしながら自分探しの冒険活劇とした方が全然よかった
親は交通事故かなんかで死んでればいいのだし
あれでPTSDとか繊細過ぎって感じだし
( ゚Д゚)ハァ? って感じ
草太といい芹沢といいイケメンばっかで女子なって見てえ〜と思ったのが第一印象ですはい。
先祖代々家業を継いで全国歩き回る旅人か?と思いきや普通に東京の大学生で教師志望って固えなオイ〜
鈴芽の安全な位置にいさせたいから躊躇なく危険に飛び込むから自己犠牲タイプかな?と思ったけど普通に生に執着してるから人間味があっていいキャラに仕上がってる。愛媛で泊まる時後ろ向いて大人しくしてたのも紳士的で良い。
しかしまあ鈴芽が恋に落ちるのは分かるけどお前相手は一応高校生だからな〜?条例〜?そんなに踏まれたのが良かったんか〜オイ?
芹沢と草太が並ぶシーンはほぼ無かったけど、見なくてもこの二人なら間違いなく仲良いいだろうな〜というキャラだった。チャラそうに見えるけどかなり草太のこと真剣に心配してるのが分かったし、選曲が昭和なのは実はおばさんに合わせるためだとしたら気遣いもできるいいやつだ(でも多分おばさん小室くらいの世代だぞ)。草太が閉じ師の都合で芹沢に迷惑かけることもあっただろうけど、芹沢はまたかよ〜仕方ねえな〜で簡単に許してくれそう。助手席に草太乗せてドライブとかしてそうだよね〜。彼女もいるだろうけど、草太乗せた回数の方が多い(確信)
今回はだいぶ作風をファンタジーに寄せてきたな〜というのが全体を通しての印象。
廃墟に出現する後ろ戸は常世に繋がっていて、それを閉じる閉じ師と彼が持つ特別な鍵、要石は神様で姿を変えて猫になる、日本の地下にはみみずがいて、昔から震災を起こす元凶で、後ろ戸をくぐったことある人だけが姿が見える…まだ挙げられるけどファンタジーのパーツがかなり多い作品だったと思う。
あと、日本を縦断する道中に会う人々がみんな鈴芽のことを肯定したのはジブリ的だなと思った(ジブリは大きく二つにわけて人間美と肯定感を意識した作風だと思ってる)。「異なる世界に迷い込んだ少女が道中出会う人に祝福を受けながら目的のために前に進む」話は自分の中では千と千尋が特に印象強いんだけど、新海誠は今回のは魔女の宅急便を意識してると感じた。作中BGMはもちろん、最後に男の子を救うところとか、おばちゃんキャラの立ち位置とか、途中で同世代の女子と出会うとか、小さい相棒連れてったりとか
あとダイジンとみみずがまどマギだなあとか、天災と祝詞が天気の子と君の名はだなあとか、ちょっと鈴芽の心象変化が早いなあとか
後ろ戸には災害の元凶という役割が当てられているけど、廃墟にそれは存在してるという設定から、自分は忘却されつつある過去を象徴してるのだと思った。
3.11から10年経って、ようやくこういう映画が世に出せるというのは、傷が癒えてきたという証左であり、それはつまり悲しみを忘れつつあるということでもあるのだろう。
ひょっとして、将来の自分の顔と自分の母を勘違いしてるあたり、鈴芽は母親の顔を忘れかけてるのではないか?震災後に残ったのは形見の椅子だけで、写真すら残ってない可能性がある。作中でも最後まで母の顔は出てこなかったのはそういうことかもしれない。いやでも流石におばさんとか親類が出産とか結婚とかの写真を持ってるか…。
めっちゃ野暮だけど、この話、結局はダイジンが逃げ出さずすぐ要石に戻れば良かったって話じゃね?なんで最後に「開く扉の場所を教えてくれたのね…」っていいことをしてたみたいなことになってんの。西の要石が無くなったのが全ての原因じゃないの?あれ?なんか違う?
おばさんが鈴芽に言いすぎたのって左大臣の影響?乗り移られたから?なんで?ちょっと突拍子なかった展開なので疑問。
好きなシーンは船の中で「歩く椅子見た?」に対して平然と「知りません」って答えたところとJKに乗られて足踏みされてるところと尻に敷かれてる(物理)の3点です
糸守高校とK&AのBGM全くわからんかった。多分クラブの店内BGMとかかな?
タイムループものという見方もあるみたいだけど、単純に扉の中で過去と現在が交差しただけで、ループものとは違うのではないかなあ。先に触れた通り、扉は過去の象徴であって、この話は「過去の閉じ方」を描いたものだと思う。
過去の閉じ方を描いた作品として、鑑賞中は緑のルーペの青春のアフターを思い出していた。あれほど過去の後始末に苦心する話はない。
あと、天気の子の好きな人>世界に対して次作で世界>好きな人のアンサーをしたのが、こいのことばの待ち続けて戻ってきた人に対する青春のアフターの待ち続けて戻って来なかった人のアンサーだった点も
ところで無くなった椅子の脚がキーになると思ったけど全く出てこなかったな。喪失は事実として残り続けるという示唆かな。
2周目からどっかで分岐して草太を助け出すのを一旦諦めてダイジンと一緒に閉じ師として全国を周りながら草太を救う方法を探し、草太と同い年くらいになってから皇居地下の扉に戻ってくる…みたいな
「すずめの戸締まり」観ましたけど、わからないところがたくさんあるので教えてほしい。筆者は難癖増田ではなく、不明点を解消したい増田です。こんなこと記名で書いたら叩かれるから、増田にしか書けないのです。
<<以下ネタバレ注意>>
⇒和魂として長年信仰されていた神が、信仰を忘れたことにより荒魂と転じた? 巫覡(シャーマン)のすずめを気に入り、邪魔者である男を祟った? そもそもなんでネコのかたちを取るのだろう?
⇒人身御供として捧げられたものが神と転じた可能性あり? ネコの神様はマイナーなだけで先行事例がないわけじゃないし。
・あんな自宅のカギ以下のペラペラなカギで、タタリ(みみずのことです)が漏れ出すようなヤバい扉閉められるの? 神器でもなんでもなさそうなのに。カギの救急車あたりに大金積んで、もっと立派なやつをつくってもらったほうがマシでは? カギの救急車がイヤなら伊勢神宮でもいいよ! あそこなら建物だけじゃなく道具も定期更新を行っているから、ノウハウ貯まってるよ!
あの白衣はりかけいのおことである証なの? 神主の資格が取れる國學院大學か皇學館大学であたりで修行して、もっと装備を調えたほうがよくない? 劇中でもケガしてたし、腕にシルバーでも巻いてみたらどう?
・主人公のすずめは天の岩屋戸説話に登場するアメノウズメから名前を取られたらしいけど、やってることは天手力男のほうでは? センシティブ極まりない踊りをするほうではなく、力ずくで天の岩屋戸の戸をこじ開けた天手力男のほうが主人公の名の由来にピッタリとあてはまるんじゃないかしら。
⇒このことは企画会議中に指摘がなきゃおかしいけど、そのまま通った理由がわからないし、知りたい。タイトル変わっちゃうけど。
・すずめは映画のラストで常世に行く。常世といえば大国主神と国造りを行ったスクナヒコナがお隠れになった場所でもあるけど、あんなに燃えててOKなの? スクナヒコナ死んじゃうよ?
⇒常世は映画独自の解釈かも。地名(?)が同じだけで、Apple Store 銀座があるほうの銀座と戸越銀座ぐらい違うとか。燃えてる銀座はヤダなあ。
父親が娘をステーションワゴン(サイド木目=70~80年代のアメ車の代表)に乗せて走っていると、「その娘」が目前に現れスリップ事故。
娘を探して霧にけぶる古いリゾート地、サイレントヒルをウロウロするが異形の怪物が現れ、やがてサイレンが響くと世界が真っ暗で錆びと血だらけの世界に反転。懐中電灯の視界だけで探し回る。
やがてこの異常事態の原因がサイレントヒルの土着カルト宗教にある事、娘の失踪に関わっている事を知っていく。
車の前に現れた娘’はカルト司祭の娘で自分の娘を儀式の生贄として使用し神を産もうとしていた。この為娘’は虐待され生死の境を長く彷徨っていた。
娘’は死に、半分が転生したのが娘だった。要するに娘はサイレントヒルの半身に呼ばれて行方知れずになっていた。
娘と娘’が娘++に合一化したのでカルトの秘儀は遂げられて神が生まれたがどう見ても悪魔にしか見えない。
主人公がそれをブチ殺すと娘++が赤子を託した。ここは彼岸でこの赤子は此岸で生きられる転生体。これが3の主人公。
開発陣が当時非常に寂れて廃墟だらけだった熱海(今なら鬼怒川温泉が近い)に投宿した際に構想されたという逸話がある。熱海は静岡だからサイレントヒル。また、熱海は急斜面にあり、坂を上った先の箱根は濃霧で有名。
サイレンが鳴ると錆と血と臓器が散らばる世界になるっていうのは映画『ジェイコブスラダー』が元ネタ。
死んだはずの妻から手紙が届き昔二人で訪れたサイレントヒルに赴く。
異常世界の景色は登場人物の精神が投影されている。その為に艶めかしい脚だけの怪物などエロと悪趣味が合一された世界が展開される。途中に何度も底の見えない穴があり、そこに飛び込む。
その筋では人気のレッドピラミッドシングが登場するのもこれ。
強迫観念のメタファが多用され、例えばレイプされ続けていた父を殺した女性にはベッドと合一化した男が襲い掛かり、その周りには常に火が見えている。これは贖罪意識である事は容易に判るが、主人公にも火が見えている。これによりどうも彼女と同じ罪を背負っていると察せられる。
ホテルで主人公と妻の忘れ物とされるビデオテープを渡され、再生すると看護に疲れた自分が妻を殺した事を思い出す。
過去が判ってくると妻の手紙は白紙になってしまい異常世界で妻に再会すると殺害を咎められ、これを打倒し、贖罪意識の元になっている妻を再度殺す羽目になってしまう。
カルトの秘儀を行い妻を再生する為に男は霧の湖をボートを漕いでいく。
JKがイオンに居ると異世界に突入し白髪の三浦瑠璃のようなカルト狂信者に遭う。
家に帰ると父が殺されていた。この男の邪魔で神の降臨が妨げられた、再び神を降臨させ神の国を作りましょう、サイレントヒルで待つと。
JKは自分の輪廻を絶ち、父の仇の狂信者をぶっ殺す為にサイレントヒルに向かった。
落ちていた週刊誌から、JK転生前の娘’が居たのはカルト二世を収容する児童養護院で、教義に基づいた虐待と洗脳が行われていた事を知る。
錆と血とグロと暗闇の異常世界で色々あってカルトの教会に着くとさっきの女に会うが、身ごもっていた神が産まれそうになる。
神が生まれたが、どう見ても神じゃない。これが神なら文鮮明もメシアだ。神をぶっ殺してJKは輪廻の運命を自分の意志で断ち切った。
たかがホラーゲームと侮れないのは、メタファが多用されているところ。
例えば同じところに戻ってきたり、怪物が丸いハンドルを回していたりする。これは主人公の輪廻を表している。
日本のTVしか見ない人には判り難いが、洋画を見る人には結構刺さるものがあると思う。
グラフィックは大変悪趣味なグロで、懐中電灯で廃墟探検をしていて何年もタイルに流れた血を洗わず腐っていて瓶漬け臓器が転がっているような地下の霊安室、解剖室を歩いているのを想像すると良い。錆と汚れと血が乾いた梯子を素手で上るとか。怖いというより精神的に参ってしまう。
ストーリー的には自分の意志で決着をつけるという物語なので怖さはない。
件の事件との関係では、親族の仇に復讐する、殺人で己の運命を断ち切るというのはありきたりな話だから特別な関係はないんじゃないか?
ただ、美術史には図像学(イコノグラフィー)というのがあり、キリスト教美術のこの部分はこのモチーフを表すという暗号解読みたいな絵の見方があるのだが、そういうのに素養があると「あれはこういう意味じゃないか?」というのが気になる作りになっている。
ただ宗教教義の中でそういう勉強はないと思うので、特にインチキカルトである統一教会にもないと思われる。
ただ、2→3と連続でやると、強迫観念のメタファが多い2を引きずったままでメタファ多用の3をやる事になり、強迫観念増幅効果があるかもしれない。
また運命を断ち切る当為の最中にカルト二世児童養護院での洗脳虐待が出てくるって事情はある。
2では底が見えない穴に落ちるという行為が連続していて、これは哲学的投企を表している事明白だ。死を暗示する行為が今の自分からあらまほし自分への前進という訳で、ちょっとファシズムやテロルっぽいところもある。
ただこの程度で事件を決意するなら増田もスコセッシのタクシードライバー見て殺人事件起こしてるはずなので、結構心を動かされた程度の可能性だと思われる。
数年に一度は自分に襲い来る長野まゆみ作品ブームにはまっている最中のため、あまり商業BLを読めていない今日この頃。残り少ないお小遣いも、長野先生の新刊(非BL)を買うために温存中。
ちなみに、長野まゆみ先生の書くものの多くには男×男の恋愛要素があるのだが、「非BL」作品扱いなのは何故なのかというと、BLレーベル以外から出版されており、商業BLの定義にあてはまるようなBLではないからというだけ。商業BLには面倒臭いルールがあるのだ。例えば、基本的にハッピーエンドとか、攻めの浮気厳禁とか、無駄に女を登場させてはいけないとか。
世界は人の住まう「現世」と人ならざる者の住まう「常世」に別れている。主人公の天野は、常世から来た者たちが利用する人里離れた旅寓(旅館)で働いている。
ある日、常世の王・ツクヨミが旅寓に骨休めにやって来た。傍若無人なツクヨミに天野は振り回されるが、ツクヨミにかつて自ら命を断った友人の面影を感じ、気になってしまうのだった。
これはある特定の層にピンポイントでぶっ刺さるやつなのだろうと思うが、生憎私自身はこういう系を好きこのんで漁って読む方ではないので、せいぜいハジ先生の『坊主と蜘蛛』を読んだくらい。BL外の作品ではたとえば『千と千尋の神隠し』とか『しゃばけ』とか『蟲師』とか『夏目友人帳』とか『モノノ怪』とか『家守綺譚』とかそこら辺が好きな人向けなんじゃないか。あ、私の好きな『左近の桜シリーズ』(長野まゆみ)もこういう系だな、そういえば。
特定の層にピンポイントでぶっ刺さる系なので、『極夜』のレビューを某BLレビューサイトで見るとけっこう良さげなのだが、泣いたとか感動したは言い過ぎなのではないかと、私は思う。そこまですごくはない。まあまあ良い話だとは思うけど。
事前調査なし・試し読みなしで買って読んだら、表紙めくって出てきたカラーイラストが『鴆――ジェン――』のフェイ将軍とツァイホンの絵だったので、私は買う本を間違えたのか? と一瞬慌てた。調べたら、この『極夜』というタイトルの単行本、文善やよひ先生が『鴆』の大ヒットで人気作家になったために、絶版になっていた過去作品を『極夜』と改題して復活させたものだった。表題作の他に『鴆』の番外編も同人誌から再掲。なるほど、今の文善先生はかなり手練なプロ作家という印象だが、『極夜』は確かに若いなって印象だ。『鴆』はpixivコミックで2話まで無料で読める模様。
文善先生の大ファンの人で過去作品全部コンプしたい人向け。文善作品にちょっと興味があるくらいなら、回り道せずに『鴆』シリーズか『蟻の帝国』を読むといいのでは。
エロシーンがしめやかでいいな。私はあまりこれ見よがしな感じのエロシーンは好まないので。それと、ベタとスクリーントーンが少ない為にエロシーンの白抜きが煩く見えなくていい。
しかし、シンプルめな画風でもごっそりと白抜きのかかるのって。以前、某お気に入り作家さんのBL作品がシーモアで無料になっていたので読んでみたところ、修正レベルがシーモアだったのでKindleでは輝く白さに消されるべき所が薄ぼんやり見えていたのだが、薄ぼんやり越しにもそこがかなり生々しい描かれ様なので驚いてしまった。な……BL作家さんって、キャラの顔はめっちゃ漫画でもおちんだけはこんなにリアルに描くもんなのか……なんでここまでおちん描写に執心してるのかわからない……と、電子書籍派Kindle使いな私は愕然とした。そんな所どうでもいいと言い切ってしまうのも何か違う気もすると思いつつ、正直どうでもいいよなあ、どうせ消される所なんだし……と思わずにはいられない。
16ページしかない掌編なので、あらすじは省く。掌編アンソロジー『掌編歳時記 秋冬』に収録された作品。サラリーマンのほんのりオフィスラブ。現代の現代的な話だから、幻想なし。エロもなし。しかし非BLなので安定のインモラル上等ぶり。
普通に現代ものなのでビビった。登場人物がちゃんと今時のサラリーマンだなんてすごい! 漢字の字形にやたら拘るところはいつもの長野先生だけれども。
こんな短い文章でボーイズがラブしているのすごい。文章は簡潔だけど、短いなかに情報量が多く、なのに情緒と風景描写が死んでいないとは。熟練のプロ作家恐るべし。と、これを読んだ時にちょうど小説投稿サイト・フジョッシーで開催されていた掌編コンテストに応募すべく四苦八苦していた私は、震え上がり畏れ平伏叩頭したのだった。プロすごい。
ところでBLとも長野先生とも関係ないけど、『掌編歳時記 秋冬』のトップバッターが先週亡くなった西村賢太先生。訃報を知ったあとに読むとほろりとしてしまう、切ない掌編だった。
猫のチマキは飼い主のマダム・ロコとはぐれてしまい、まだ赤ちゃん同然の弟・ノリマキを連れての放浪生活ののち、小巻おかあさんの家に流れ着いた。小巻おかあさんの家・宝来家は大所帯。おかあさんの息子でありまかない担当のカガミさんの他、おかあさんの亡夫の前妻・マダム日奈子、日奈子の娘の暦さん、暦さんの兄・樹の娘のだんご姫、だんご姫の叔父の桜川くん、そしてジャン・ポールが住んでいる。
そんな複雑な家庭でクセのある人々と共に暮らすチマキは、小巻おかあさんのエッセイ『コマコマ記』を真似て『チマチマ記』を書くことにした。これはチマキが宝来家にたどり着いてから約一年間の記録。
だいぶ極まった感じのロハス生活を描いた作品だが、長野まゆみ先生らしく背景には桜川くん×カガミさんのほんのり(悪魔的な)BLがある。
長野先生がこんなにふんわりした感じの森ガール(死語)が喜びそうな文章を書くなんて意外な気がする。しかも「にゃん語」とか「萌え」とかいう単語が長野作品に登場するとは、その事自体が萌え萌えしい。
だが、文体はふんわりしているのに、ことあるごとに美味しい食べ物はカロリーが高くしかも健康に悪いという現実をビシバシ突き付けてくる。なんなの長野先生サドなの? そんなに言わなくてもいいじゃないカロリーのことなんて! 普段は現実離れした作風なのになんでそこだけリアルでシビアなのか謎。極力カロリーと塩分を抑えてしかも美味しい料理を作ろうとなった時にまずは極上の食材を調達してきてそれを干す、という異様な難易度の高さ。救いなどなかった! しょうがない、貧乏人はポテチ食ってデブるしか……。
昔、向田邦子か誰かの随筆で、戦中にこっそり隠れて読んでいた婦人雑誌に「シュウクレエムのいただき方」という記事が載っていて腹を空かせながら読んだが、結びに「淑女はシュウクレエムなど食べてはいけません」と書かれていてがっかりした、とかいう内容のがあったと思うのだが、きっとその時の向田邦子か誰かの気分が『チマチマ記』のお料理場面を読んだ時の私の気分に近いんじゃないかなと思う。
難易度高過ぎロハス暮らし描写に勝手に心折られてしまったが、桜川くん←カガミさんのBLは良さげに納まったっぽいのでいいや。
俺は裁判ってのは
・人に危害を加えうる猛獣に調教を施す期間や殺処分の可否を設定する
って機能を持った精度だと思ってる。
そして、このどれに当てはめても責任能力がないことが無罪になる理由がわからない。
起こしてしまった犯罪という行為に対して「狂ってたから仕方ないんです」では犯罪者予備軍たちに「狂ってるふりすればいいだけじゃん!!!」という動機づけをしてしまう。
犯罪予備軍度が低い人に対して「でも狂っちゃったら裁かれるならもう頑張って生きても結局裁かれるかも知れないしバレない程度に犯罪してこ」と感じさせる部分はあるかも知れない。
だがそれだって「もしも狂っても犯罪をしない内に病院に行ったり、犯罪をしないように普段から距離を置いていこう」と考えさせる効果もあるはずだ。
危険予知運転の基本として教習所で「速度を低めにする。かも知れない運転はしない」と誰もが教わっただろうが、それらを道交法以外の部分にも応用していく。
狂ってしまった瞬間の自分の瞬発力を予測し、日頃から犯罪との距離をとり、そして近づいていると感じたら早めに病院に行く。
キチガイ無罪の否定はそういったことへの動機づけになるはずだ。
有罪判決によって懲役や死刑を課する目的の本質は、犯罪者を無辜なる者達が暮らす社会から遠ざけることだ。
そして、戻ってきても再び犯罪をさせないように調教を施すことである。
調教に失敗した場合のリスクを考えると生かしておくこと自体が不適切と判断した場合はもはや殺処分しかない。
犯罪者に対する処置は保健所による害獣指定と大枠は変わらない。
実刑判決を受けた人間は人権の何割かを奪われ、そのへんのペットよりも悲惨な階級の生物となる。
さて、それでは気が狂っていたから責任能力がないとされた人間はこの調教を逃れる権利を与えられるべきなのだろうか?
与えられるべきではないだろう。
狂ってしまったからといって犯罪を犯しておきながらキチンと処罰を受けなければ、犯罪に対しての価値観が歪んでしまう。
さながら某アーチストが過去の障碍者イジメをイキりながら自慢したように、歪んだ価値観からは歪んだ行動が生まれるばかりなのだ。
歪み始めた価値観を矯正するためにも、治療と並行して刑務所での調教も施すのが本人のためではないだろうか?
もちろん、一時的な狂気によって外れたと思われるタガが殺人と行った禁忌にまで及ぶのならば殺処分も検討していくべきだ。
ここだけは少し悩ましい。
その需要とはなにかといえば、究極的に「悪いやつは裁かれる。正しいやつは裁かれない」というシンプルな勧善懲悪論の肯定だろう。
人類全体の教養レベルが向上したことで、現代人の道徳観は昔ほどは短絡的でなくなったにしろ、未だに基本的な部分はこのシンプルな理論に基づいている。
そして、裁判というシステムの需要はこれによって支えられている。
裁判においてキチガイ無罪が成立すべきか否かとは「キチガイ故に犯罪をしたものは悪いやつなのか?」という命題に置き換えられる。
悪いやつという曖昧な定義の中身に「実際に犯罪をしたら悪いやつ」「望まずに犯罪をしたのならギリ正しいやつ」といったものが含まれている。
これらの衝突によって生まれた歪の間でキチガイ無罪は宙に浮いている。
時代によって変わっていく価値観によって、最近の社会では多少人間として欠落していても許していくべきという方向で世界はまとまっている。
が、それでもなお「人に大きく危害を加えないなら」という注釈がつきがちだ。
そしてキチガイ無罪に対して考えるべき点は、「現代の精神医療を持ってすれば多くのキチガイが治るキチガイである」ということだ。
強い薬の服用によって元の人格が歪むリスクや様々なホルモンのバランスが崩れる可能性もあるが、それでも治せるキチガイの数は非常に多い。
そうなると現代の価値基準では「人に危害を加える前に病院に行く選択肢もあったのに、チンケなプライドや我が身可愛さにそれを忌避した時点で悪いやつ」となるのではないだろうか?
道徳観が進歩したからこそ多様なあり方が肯定されたが、同時に医学が進歩したことでキチガイで有り続けるという愚行権の行使が許されにくくもなってきている。
ロボトミー手術を受けろと行っているわけでもなく、単に1日3錠のカプセルを服用しろというだけのことを嫌がって、人に迷惑をかけることが、現代の道徳では許されるのだろうか?
許されないことのほうが多いだろう。
まあ自分の身体と実生活にストレートに幸福を感じられない人間がオタクになりがちってのはあると思う。「男の生きざま」とか「女の幸せ」とかそういう感じの。異性からみて守備範囲かどうかは本人にはあまり関係なく、フィクションの過剰摂取で理想があがってしまっているから、「アリだよ」って言われるレベルじゃだめなんだよな。「きゃー素敵」ぐらいでないと。
そういうキラキラした正常世界からハズレた自分にもちょっとしたサブキラキラワールドを与えてくれるのがLGBTワールドなんだと思うよ。
だから大半はほんとうの意味での性自認じゃなく、単に「イレギュラー」の舞台としてLGBT世界の住人権を得たいだけだと思う。