はてなキーワード: 希釈とは
流した地点での海水におけるトリチウム濃度の希釈は原液で流すより遥かに早く進むのではないかと思う。
結局流す量は同じだが海洋の量はプールと比べて遥かに大きく対流でどっかに流されるので
流す水量が同じなら薄く長く流して一か所だけ濃くするのを防ぐ効果はあると思う
もちろん何も考えてない可能性もある
福島の処理水の海洋投棄の件なんだが、ニュースでチラ聞きしたことが引っ掛かったので経産省HP見たらやっぱりこう書いてある。
【海洋投棄】
・ トリチウムを除く核種の告示濃度限度比総和が1未満になるまで二次処理を実施する
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/hairo_osensui/pdf/202011.pdf
「プールにウンコ投棄するよ」「てめふざけんな」「怒らないでよ。誰だって少量は排泄物を流してるのと一緒だから。あ、じゃあ、プールの水で1/1000に希釈したらいいでしょ?」
……って言ってるのと同じじゃね?
希釈する「海水」はそもそも海からとるんだよね? それ「そのまま流す」のと見た目以外何も違わなくね? これOKならどんな物質でも「海水で数万倍に希釈」してどんだけでも投棄できる理屈にならね? 全く同じことをたとえば北朝鮮が言ったらアンタらどう反応する?
コードレビューをずっとやっていると、伸びるタイプかそうでないかが提出してくるコードで分かるようになってくる。
ざっくり
を見る。
コードフォーマットで頻繁に同じような指摘を受けるタイプは明らかにエディタやコンソールといったツールが使えていない。
人間が作業の精度を上げるのではなく、100%の精度で作業してくれるツールにやらせれば良い。
些末なミスはツールが拾ってくれる方が高速で、正確で、なにより心理的負荷が低い。
リファクタリング機能やコードフィックスの提案を有するツールなら学習のペースも上がる。
コードフォーマットで消耗しているようでは、本来重要なはずの作業や学習に時間が取れないのは自明だろう。
命名を軽視する者は、作業の対象となっているコードがどんな責務を負うか、自身の書いたコードの内容すらも完全には理解していない傾向が強い。
(ここではあえてクラスやメソッドという表現を避けるが)扱うコードが何をするもので、何に依存し、どこから呼ばれるか。
どういったエラーが出うるか、エラーは今のレイヤで対処しておくべきものか、他のレイヤの責務か。
命名にはそういった情報が反映される。英語が苦手?プログラミングで使う語彙なんて極めて少ない。高校生ぐらいのレベルの英語ができれば十分だろう。
むしろ、先人が少ない語彙でどうやって事物を表現してきたかを学ぶべきである。
求められるのは正確さと一貫性であり、誰もボキャブラリーなんぞ求めていない。少ない語彙で正確に表現できるぐらいに対象のコードを整理しろ。
あんなにたくさんヘタとって鍋に入れたのに、煮ていくとモリモリ量が減っていって悲しくなる。アク取るのもたいへんだし。あといちご100%だとちょっと味が濃すぎるので水飴で希釈したくなるのわかる。
もともとフルリモートで三食自炊するのめんどくさくなって、お昼にかじってたりんごの残りをジャムにしてみたのがきっかけ。ジャム作りたのしい。
やっぱりりんごは紅玉が抜群においしいし、なにより皮と煮るととてもきれいな赤に染まる。王林もなかなか爽やか。比べるとふじはちょっとジャムにはむいてないかも。
甘夏ママレードも作ってみた。薄皮部分を全部入れると苦すぎる気がするけど、入れないと物足りないしママレード特有のシズル感も無くなっちゃうので加減が難しい。下処理大変だけど、ピール切り刻むのは楽しい。
室温での長期保存考えなければお砂糖の量も好みで減らせるし、今は冷凍しておいてあったかくなったらアイスクリームに紅玉ジャム乗っけて食べようと思う。
https://yt3079.hatenablog.com/
◎日本人は毎年数十万人単位で急減の一方で、移民(外国人住民)は毎年増加(コロナ渦で数年はずれるが)を続ける
→日本人と移民の人口比逆転は時間の問題「40年後の40才以下の3人に1人は移民?」
(出生率に変化がなければ、将来の人口動態もほぼ推計通りになる)
◎約90年で人口が半減するスピード(しかも子供が少なく老人が多い)。人種単位の持続性の観点では有事であり、危機的非常事態。それなのに対策は後手後手
→例えば、ウイルスの蔓延は現在進行形で悪化のスピードが早く、人権を制限してでも効果的で思い切った対策をとる機運も生まれやすいが、少子高齢化はダメージの時間的スピードが遅いために、切迫感が低く、結果、対策が「常に」後手に回る。
◎現状の育児支援中心で自由意志に期待した少子化対策は30年以上、毎年失敗の連続。政府自治体の対策の対象世帯である「産みたくても産めない人。結婚したくてもできない人」はどれだけ存在するのか。被害者感情に流される対策は効果が出ていないのが現実。
→本当はお金ではなく、大変だから子作りをしたくない。面倒だから結婚したくない。だから育児支援で保育所をいくら作っても、育休を増やしても結婚に結びつかず、子供は増えない。(平均年収の倍で待機児童のない東京都千代田区の出生率は全国平均以下)
◎出生率低下の要因は未婚率の上昇と多産の減少。その原因とされる「格差拡大説」はどこまで正しいのか。
→独身に低所得者が多いのは「原因ではなく、結果」。1970年代までは、低所得者(年収200万円以下)でもほぼ結婚して子供がいたが、現在は戦時中よりもはるかに低い出生率。日本を含む先進国は生活が多様化しており、コスト要因の結婚の必要性と優先順位の低下により、低所得者から結婚を回避するようになった。
◎子作りしたい人への環境支援ではなく、子作り「したいと思っていない人」に子作りを促す対策が重要
→既婚者の完結出生児数は約2人であり、現実として子作りをしたい人は支援に関係なく、子供を作っている。問題は出生率低下の要因である未婚者の急増であり、結婚を諦めている人、意欲に乏しい人にどう働きかけるかがカギ。結婚は個人の自由だが、その自由により、社会の持続性を大きく損ねている。
◎動機に働きかけ効果だけ求めた少子化対策は次の通り。「3大義務同様に子作りの努力義務化の指針」「第3子以降に1000万円超など、多産ボーナス」「子作り負担のなく福祉を受ける40才以上の独身は増税(実質的独身税)」
→早婚に金銭的メリットが生じて、相手の理想ハードルが下がり、これまで結婚できなかった層も結婚相手の対象に。育児放棄など社会問題の増加より、少子化放置で起こる社会問題の方がはるかに深刻。消費性向の高い育児世帯と若年人口が増えれば内需が復活。
◎少子化対策の失敗は、効果でなく倫理的視点(受け入れられやすい育児支援のみ)で選ぶから失敗する。本来、負担の大きい子作りに対し、反発のない対策は効果も期待できないはず(作用反作用の法則)。先祖の多大な負担があったからこそ、現代人が存在する。現代人が身勝手な倫理やモラルで負担回避を正当化すれば、将来世代は先細りの一方。
→目的(少子化解消)は手段(人権に問題があるが効果を見込める対策)はを正当化するのか。メリットがデメリットを上回れば導入すべき(人が減り続ける悲惨な社会になっても、子供を作らない自由意思尊重が大事なのか? 倫理観や同義性の遵守より、手段が受け入れ難くても「問題解決を優先」すべき)
★本稿のポイント
少子化対策の「思い込み=(人権やモラルは少子化解消よりも重要)」を解消し、少子化対策にのみ人権やモラルを我慢すれば、効果的な対策を実行でき、少子化問題は解決可能。昔の子沢山を成立させていた周囲のプレッシャーや後継、労働の担い手などの子供が生まれる要素が無くなった現在、「法律一本の施行」で制度を作り、子作りに動機を与えて出生率の上昇に繋がる具体策を提案する。それを実行するには、いかにしてハードルとなる人権や倫理観を我慢してもらうのかの説得が少子化対策の本質にして、本稿の最大のテーマだ。少子化が解消し子供が増えれば、内需が復活し日本経済も回復する。本書では、このままの少子化状況が続いた場合の日本人に訪れる悲惨な運命とそれを回避するための、効果を優先した対策を提案、解説する。
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近代社会学の祖オーギュスト・コントは「国の未来は人口構成で決まる」と見抜いたそうな。人口を減らしながら常に高齢者が多い逆ピラミッド状の人口構成では、衰退は避けられません。合計特殊出生率1.36(2019年)と低迷を続ける日本。このまま人口が減り続ければ、国の発展以前に現日本人が将来的に存続できなくなります。存続できない可能性が高いのではなく、日本人の出生率が2を切り続ければ将来的に存続できなくなるのは物理現象です。それに対し、どこか他人事の日本社会と政治に問題意識を投げかけたいと思います。
問題は解決するより、発見する方が困難です。個人も組織も、自ら気づかない潜在的な問題により、傾いていきます。少子化問題は極めて深刻な問題にも関わらず、政府の少子化対策関連予算は先進国の中でも総予算に占める割合が低く、口では声高に危機感を高めていると言っても、財政支出の観点からは本気度が極めて低く、問題視していないレベルと明確に言えるでしょう。2019年末に決まった26兆円(真水4.3兆円)の経済対策でも少子化関連には1円も使っていません。使い先は電線の地中化など。。
現状の少子化対策は育児支援など環境整備の観点しかなく、30年間も同じような方向性の政策しかとられておらず、改善の兆しが全くないのに、「地道にやるしかない。環境整備が大事だ」と言い続けています。一方、日本人が減り続ける中で、近年の政府は実質的な移民政策に大きく舵を切りました。100年後の日本列島は日本人と移民の混在する国になっています。さらに、それ以降も出生率が大幅に回復しない限り、容赦無く日本人は減り続ける一方で移民の割合は増え続け、その時の日本国籍のルーツは海外由来になっている可能性が物理的に極めて高くなります。公用語が中国語などに変わっている可能性も十分あるでしょう。
そうはならない為の少子化対策。現状の育児環境改善策以外にも、視点を変えれば効果のある対策はあるはずです。出産育児は個人の権利に関わる問題ですが、残念ながら環境支援だけで結婚、子作りの有無を自由意志に委ねた現在の少子化対策では増えていない現実があります。それを改善するためには、より、子作りの動機付けに導く政策が必要であると考えます。しかしそういった対策は、個人の自由意志に反する可能性のある対策であり、モラルや倫理観の問題で実行に大きな障壁があります。しかし、動機付けの対策に有効性があって少子化が改善される可能性があっても、現代人のモラルや人権を優先すべきなのでしょうか。その優先順位がどうあるべきか、問題提起したいと思います。
少なくとも現状の育児支援中心の対策より、効果が見込めそうな対策を、モラルや現代人の自由や権利を理由に放棄してもいいのか。現代人のモラルや価値観はその人種の存続や持続性以上に重要な価値観なのかーー。
このように、少子化対策の具体策だけでなく、タブー視される少子化対策問題に対し、「どう向き合って、どう考えるべきか」。そういった観点を問いただすような内容になります。現在出尽くしている対策や論点とは違った観点と具体的な対策を提案し、実効性のある少子高齢化対策に繋げたいと思います。
【要点・トピック】
現状の少子高齢化が改善しないまま、実質的移民の外国人労働者を受け入れ続けると、いずれ日本人と移民が「人口比で逆転」する事になる。日本人の為の日本ではなくなり、多民族国家に変わる。日本人と外国由来の国民・住民の人口構成逆転に繋がる現象はすでに進行しており、人口構成比の逆転は時間の問題。不可逆になる前に手を打つべき。
政府、自治体の育児環境支援ばかりの少子化対策は結果が出ておらず、失敗との結論付けが必要。国民の自主性に任せれば、少子化は進行する一方。少子化の構成要素である未婚率の高まりは少子化現象の原因ではなく結果。日本を含む先進国が直面する少子化の原因は文明化による価値観の多様化で、結婚と子作りの優先順位が下がった事による晩婚化、非婚化が進んだ影響。現状の育児支援中心の対策の方針を「大幅に変えないと」今後もさらに日本人は減り続ける。子作りの動機付けをアメとムチの両面でやるくらいでないと解決は難しい。効果的な対策を打てば「翌年から」出生率は著しく反応する事が過去の事例からも分かっている。子供が増えだし、出生率が2を越えれば、日本の将来は明るい。
モラルや倫理観、自由意志を優先して、負担感のある少子化対策をせず、現状の効果が上がってない対策をなおもやり続け、その結果このまま滅びるか、逆にモラルや人権をある程度我慢して、有効性のある対策を実行し、安定した持続性のある社会にするかーー。
続きは以下にて
https://yt3079.hatenablog.com/
◆このまま人口が減り続けると、どうなるのか
政権に関係なく、労働や消費の担い手不足という現実問題に対応するため、政府や経済団体は、外国人労働者という形態で、実質的な移民(国連の定義では1年以上住む外国人)の受け入れをさらに推し進めるようになるだろう。実際、2018年の「骨太の方針」でも外国人労働者受け入れ拡大の方針が決まり、2019年4月には改正入管法が施行された。彼ら外国人が高齢者になった時、どうなるか。もちろん追い返す事はできず、いずれは外国人移民の高齢化問題も出てくる。
このまま、日本人の人口減少分を外国人で補おうとすると、コロナ渦で数年はずれ込むだろうが、基本的には時間の進行とともに、日本人と外国人の比率が相反し、やがて逆転することになる。この点ははるか先の未来の事として、ほぼほぼ論じられていない。このままでいいのだろうか。すでに東京都内ではかつて外国人が多かった街は新大久保と観光地くらいだったが、今や主要繁華街で昼夜問わず、その割合は静かに増え続けている感がある。
◆出生率の数字は「人口が減っていくかもしれない」危険指数ではなく、数値が2.0を下回る状況が続けば「いつまでに人口がゼロになるか」の確定年数を導ける指数。内戦中のシリア、アフガンや北朝鮮より先行きが危ない少子化日本。
出生率を人に問うても、いまひとつ危機感が薄い。出生率低下と言っても、「人口がゼロになる事は無いだろう」「単なる警告信号のような数字だ」と、漠然と認識する人は多い。しかし、出生率の1.41という数値は男女2人の親から約30年後の次の出産サイクル時の出生数は1.41人しか生まれてこない計算だ。これを分かりやすく1人に置き換えると約0.7人になる。1年間の出生数が87万人(2019年出生数)だとすると、この世代が、第一子を生む頃の30年後は87万×0.7の約60万人、その30年後は約42万人。その30年後は約30万人とどんどん減り続ける。そんなバカなと思うかもしれないが、実際、第二次ベビーブームの1973年は209万人の出生数で、彼らが出産適齢期になった30年後の2003年あたりは不景気の影響もあって、出生率が1.26程度まで減っており、その結果、113万人と親世代の半分程度の出生数に落ち込んでしまった。団塊ジュニア世代は就職氷河期世代で不況と重なる運の悪さがあったが、現実的に、出生率が2を切ると、容赦なくその数値の割合だけ、出生数は減り、人口が減り続けるのである。
この危機感の無さには、「出生率」と言う単語にも問題があるのではないか。2018年に国会を通過した「働き方改革」も「残業代カット改革」なら法案は通らなかっただろう。それほど名前は大事だ。言葉は悪いが「人口半減期」のような数字で、出生率を人口が「半減する期間」で示した方が分かりやすいのではないか。例えば、今の出生率が続くと人口の半減期はおよそ80~90年だ。つまり、2100年ころには日本の総人口は6000万人に半減している計算だ。今の出生率が続いた場合に、半減するまでの期間を書いた方が、危機感は伝わり易いだろう。
内戦のシリアやアフガン、独裁政権下の北朝鮮ではいずれも出生率が2を上回る。いくら、内戦や政治不安で経済状態が悪くても、それにより大規模な内戦に発展しない限り年間1万人も死亡する事はない。しかし、日本では団塊世代が平均寿命を迎える2030年頃は年間170万人程度の人口減を経験することになる。そして、今後70年かけて日本の総人口が6000万人に減少すると予測されている。結果的に早く滅びる国がいい国と言えるのだろうか。
◆現日本人が外国人(実質的移民)に徐々に置き換わり、日本人はやがて少数派に転落して、いずれゼロになる・・・100年後に純粋な日本人は消滅へ。アメリカではすでに16歳未満で白人が過半数割れ。
「移民が来ても、混血化するから日本人の血は残るはず」というのは大きな誤解である。出生率が2を割っていれば、人口減少は続き、その減少を補うために、時間の進行とともに、外国人移民が入り続け、日本人の血はゼロになるまで混血化しながら希釈化され続けていく。
2020年6月には国勢調査局の統計を基にAP通信がまとめた情勢によれば、アメリカではすでに16歳未満で白人人口が初めて半分を割ったという。流入が急増するヒスパニックや黒人、アジア系に対し、白人人口が増えなかったためだ。アメリカでは1990年に75%だった白人の割合は2020年現在は60%に急減。たった30年で約20%も人種割合が低下したことになる。さらに2045年までに白人人口が半分を割るという推計がある。白人の出生率が2を切り続けて増えず、白人人口がゼロに向かい減っていく一方で、ヒスパニックとアジア系の流入がその穴を埋めているためである。アメリカの出生率は2を上回っているが、それはヒスパニックを中心に移民の出生率が高いためである。現在、アメリカは多民族国家だが、そのうち白人が減り、やがて黒人とヒスパニックだけの国になり、逆に多様性は少なくなっていく可能性が高い。
http://kikuchidesu.hatenablog.com/entry/2020/11/27/181339 参考
ただし、ここの写真を見ただけで作るというMe163と秋水みたいな作り方ではあるので、味の再現ではない。
id:barringtonia 大衆食堂なのに、分子ガストロノミーっぽい独特なカツ丼
式にさえ出来ればPCでもなんでもいいんだけどね
意味も分からず手順だけ真似て約分するのが数学的ゾンビなら、我々はみんな科学ゾンビだ。
「二酸化炭素が増えると地球温暖化が加速する」という文は科学的に正しいというのは一般常識である。
しかし、なぜそうなるのか答えられる人がどれだけいるだろうか。
少し気の利いた人なら「二酸化炭素は温室効果ガスであり、地球から放射される赤外線を吸収してしまうから、地球の気温が上昇する」と答えるだろう。
しかし、二酸化炭素がなぜ赤外線を吸収するのか、具体的に二酸化炭素分子に赤外線の光子が当たった時に何が起こるか説明できる人がどれだけいるだろうか。
二酸化炭素分子に赤外線光子が当たった時に何が起こるか説明できる人も、なぜその説明を信じているのか説明できるだろうか。
自分は二酸化炭素に赤外線を当てて、それが吸収されることを実験で確認した、という人もいるだろう。
しかし、その実験で使ったガスが二酸化炭素分子しか含んでいないということをどうやって確認したのだろう?
実験で使用した機器から出ているのが赤外線光子だと、どうやって確認したのだろう?
自分は科学的な観測でその現象を確認したと主張する人は、多くの場合、実験で使用したガスや機器が本当に言われている通りの代物であるかどうか、自分で確認してはいない。
実験の前に自分は他の機器も使って校正を行ったという人もいるかもしれない。しかし、その校正に使用した機器が正しく動作していることはどうやって確認したのだろう?
このように突き詰めていくと、あらゆる人は、どこかのレベルで自分で確認していないことを、額面通りに受け取り事実として受け入れていることになる。
こういう意味において、世間一般の人にとって、科学知識というのは宗教上の教義と変わらないものになる。
世界は平らで巨大なカメが支えていると信じていた昔の人々と、二酸化炭素が増えると地球温暖化が加速すると信じている現代人は、誰かに言われたことを自分で確認せず信じているという点で本質的には同じである。
再現可能な実験手順とその結果の公開と相互検証によって担保されている科学の正しさは、世間一般の人にとっては関係ないものだし、科学の営みに携わる人々も、自分の専門外の分野については常識とされる知識を天下りで受け入れるしかない。
放射線でDNAが損傷することや、風邪の原因がウイルスであることを、実際に実験で確かめたことがある人間は世の中のほんの一部に過ぎないし、世の中で常識とされるすべての科学知識を実験で確かめることは、一人の人間には一生かけても不可能なことだろう。
我々が科学知識を正しいと信じるのは、基本的にはみんなが正しいと言っているから、信頼できそうな本や学者がそう言っているから、ということになる。
現実にはここに経済的な利害や政治的意図が絡んでくるので更に面倒になる。
「福島原発から出る汚染水にはトリチウムしか含まれていないから海洋放出すれば十分希釈されて安全である」と東京電力や日本政府が言っているとき、これを信じることはどれだけ妥当だろうか。
「汚染水にはトリチウムしか含まれていない」、「十分希釈したトリチウムは安全である」、「海洋放出することで十分に希釈される」、このそれぞれが世間一般の人にとってはなじみのない内容だし、個人が自ら実際に確認できるようなものではない。
特に、汚染水の処理の実態や、海洋放出が実際にどのように行われるのかについて、世間一般の人々と、東京電力や日本政府が持っている情報の量には大きな差がある。
そして、最も重要なのが、東京電力と日本政府には、危険性が低いと嘘をつく経済的・政治的な動機があり、いままでも嘘をついてきた前科があるということである。
このような状況で、東京電力や日本政府の説明をそのまま鵜呑みにするのはむしろ非科学的な態度である。情報公開の要求や、利害関係のない第三者による自由な検証や監視が実現して初めて、「福島原発から出る汚染水にはトリチウムしか含まれていないから海洋放出すれば十分希釈されて安全である」という説明が信じるに足るものになるのである。
デザインの仕事をしてるんだが、最近、企業の仕事をするようになって驚いたことがある。
納めたものをまともにチェックしない人が多いのだ。
バナー広告なんて、言葉を1語1語チェックしたところで大した時間はかからないはずだが、それをしない。それどころか渡したファイルを開きもしない。
もちろん、仕事として納めてるのでこちらでもチェックをしているけれど、
当然、何かしらのミスが起こることも考えられる。チェック漏れだとか、送信時のエラーか何かでファイルが壊れてしまうとか、いわゆる事故っていうのは起こる。
実際、人のデザインを直す案件で、ファイルが壊れていて一から作り直したなんてこともあるし、こちらでミラーしてる画面をみたからと安心せず、ちゃんと確認してほしい。でもしない。
それがなぜだか不思議だったけれど、責任を取りたくないんだな彼らは、と上の増田と、そのブコメをみて思った。
集団で作業する一番のメリットは、責任が希釈されることだと思う。
それは当然、希釈された責任を全うするからできるのであって、責任がなくなったわけではない。
集団において責任を取りたくないと、希釈する行為を拒否するのは、文字通り無責任だし、集団の仕組みにフリーライドしているだけじゃないか。
「してもいい?」と聞く奴は出世できないというが、当然だ。脱税したほうが金持ちになりやすい、といっているようなものだろうよ。
ダブルチェックしたからといって、こちらの責任がなくなるわけではない。
同じように「してもいい?」だって別に責任を投げつけてるわけでない。
そもそも、「したい」に言い方が変わったら、責任がなくなる…ってそんなわけないだろう。
責任はダブルチェックした時点で発生すると勘違いしてる。実際は納品された時点で発生してるのに。
(プロフィール:25歳、男性、大学院卒、理系、会社員、東京都在住、同性愛者)
性的少数者の権利拡大・偏見払拭が謳われるようになってもう随分と経った。そういう虹色界隈の活動家の努力のお蔭か、少なくとも都市部の若年層では「ゲイとか気持ち悪いよね」と言う人の方が白い目で見られる社会にはなって来ていると思う。パートナーシップ制度を導入する自治体も増え、同性婚を支持する人も増えている。ゲイであったとしても自分らしく人を愛し愛され、自分らしく自由に、自分らしく幸福に生きられる社会になっている。……らしい。
このような心温まるようなすばらしい虹色啓蒙活動から最も疎外されているのは誰か。性的多数者(シスジェンダーの異性愛者)ではない。彼らも「理解のある」ハートフルなムーブを取ることで仲間入りできるし、「理解のない」人も敵陣代表としてちゃんと構ってもらえるからである。一番蚊帳の外なのは、非リアで、陰キャで、オタクで、恋愛にも興味がなく、自己肯定感が低い根暗のホモだ。
大前提として、虹色啓蒙活動は非異性愛者が自由に恋愛を楽しんで社会で生きる「権利」を求めるものであって、ゲイであろうと男とも女とも恋愛をしない人には大して関係がない。当たり前だが、仮に同性婚が法律で認められたとしても相手がいないと結婚はできない。全てがそうとは言わないが、虹色活動の大部分を占める要素も、活動に携わる当事者たちも、どこからどう見ても根暗なオタクには無縁の「陽気なリア充の世界の概念」であって、全然感情移入できないのである。そればかりではない。
ああいう目立つ活動家たちは、確かに旧来のゲイに対する悪質な偏見(気持ち悪い、オネエ、性病とか?よく知らん)をいくぶん弱めてくれたかもしれないしそれは有難いことなのだが、それを塗り替える形で別のステレオタイプを提供している。「ゲイは恋愛やセックスが大好きで、大好きな同性の恋人と結婚したいのに頭の固い人たちのせいでさせてもらえない、自由平等博愛のため闘うかわいそうな人」という印象を、勿論ここまで露骨でなくとも数倍に希釈した形で持っている人は少なくないのではないか。俺はゲイをカミングアウトしたことは殆どないが、おそらく多くの人はまずは同情の目を向けて「気付けなくてごめん」か「話してくれてありがとう」みたいな挨拶をくれた次には俺の恋愛事情に興味を持ち始めるだろう。別にそれ自体を悪いことだと非難する気は全くないが、結局「ゲイ」とか「同性愛者」というラベルはリア充・陽キャの文化でしかなくて、単に同性に性的魅力を感じてしまうというだけの陰キャが名乗ってもあんまりピンと来ない、贅沢な称号になってしまったのだ。
そういう点では、LGBTフレンドリーな明るく健常な集団なんかより陰キャのオタク界隈の方がよっぽど自分には合うし居心地が良い。もともとオタクコミュニティには恋愛への関心が希薄な非リアが多く、セクシャリティが問題になる機会自体が健常な集団より遥かに少ない。だからオタクコミュニティの方がジェンダーフリーだなどと大それたことを言う気は毛頭ないが、趣味の話と学校や仕事の愚痴くらいしかしないのにセクシャリティが関与してくることの方が稀だし、元々何の問題もなく穏やかに存在できている。
大体、恋愛に興味のない俺にとって、自分がゲイであるという事実はアイデンティティの構成する要素のほんのごく一部でしかない。所謂ゲイコミュニティに参入してゲイ友達を作ってPrideだの何だのよろしくやってる虹色の人たちをネットなんかで見ていると"ゲイを生きている"感がすごいし、普通の異性愛者視点だと多くのゲイがそういう生き方を望んでいるように見えているんだろうなと勘繰ってしまう。異性愛者が自分をヘテロであると意識してヘテロ人生を生きるみたいなことはまずないだろうから、こういうのはそもそも少数派である宿命というか如何ともしがたい非対称だとは思うが、いずれにしてもああいうのはどうも自分とは違う世界だ。俺は「自分は男の方が好き」みたいなどうでもいい話なんかよりよっぽど先週の俺ガイルの話がしたい。ずっと原作読み直してたら連休が終わりそう。
如何ともしがたい非対称と言ったが、性的少数者の苦悩は理解のない人による差別や偏見なんかよりも、そもそも少数派であること自体の苦痛の方が大きいと思う。要は、ゲイであること自体が十分に不幸なのである。同性愛者は全体の1割にも満たない上に普通は公開しないので、当然だがラブコメのような学校や会社での自然発生的な恋愛ストーリーは期待できない。そのためゲイ専用の出会い系アプリとかゲイコミュニティで知り合うくらいしかないわけだが、どうせそういう所にいる人は明るくて自己肯定感が高くてキラキラしててbioに虹マーク引っ提げてて合わないだろう。要するに異性愛と比べて恋愛の形のバリエーションが圧倒的に少ない。別に「自分がノンケだったら彼女が出来てた」とかいう、「文系学部だったら彼女できてた」とのたまう理系大学生のようなダサい主張をする気はないが、恋愛へのハードルの高さがヘテロの比ではないことは間違いないし、色々なことを土俵に上がる前に諦めないといけないのも事実だ。女性と結婚して子供を育てるという「普通の幸せ」にも憧れるけど処女懐胎してもらうわけにもいかないし、何よりそんな茶番に付き合わされる女性や生まれてくる子供に悪い。というかこのままだと一生童貞で独身だけどどうすんじゃこれ。30代になった瞬間信じてたオタク仲間が次々に【ご報告】していって取り残される√入ってるだろ……。
今はとてもじゃないが出来ないだろうけど昔は同性愛の「治療」なる概念があって、認知療法というか洗脳というかそんな感じで治療を試みることがあったらしい。流石に洗脳は効く気がしないし御免だが、大脳に電極ぶっ刺すとかケツにケミカルXをぶち込むとかで西洋医学的に「治る」なら全然治したいと思う。今の社会に不満があるとかそういうわけではないが、俺にとって自分がホモであることは「普通に生きてるには気にならない病気」でしかないし、それを認めろだの自分らしく生きろだの、無茶を言うなって話だ。
※同性愛者、性的少数者、ゲイなどの単語は適当に使ってますごめんなさい。基本的にどれも男性同性愛者を想定して書いてると思ってください。
【追記】
コメ色々ありがとう。そういえば手術では大量輸血が必要だったのだがそれで人格が入れ替わったのか…。
よく臓器移植でドナーの記憶が、みたいなオカルト話があるけどあながち間違いではない…のか?
推しは本当に急に変わったので加齢ではないとは思う。
変わった人格でも楽しく生きてるよ。
あと、そもそもオタクを治療するために手術した訳ではないからね!オタクは治る病気ではありません。
5年前、ある病気で入院しそこそこの規模の手術を受けた。産まれて初めての全身麻酔、そこから目覚めて入院生活とリハビリをしているうちに色々なものが自分の中で変わっていったので記録しておく。
まず前提として私はオタクなのだが、推しの傾向が180度変わった。急に。
それこそ小学生くらいから「黒髪・太眉・熱血主人公キャラ」なら無条件に好きになっていたものだったが、術後どうも食指が動かなくなったように思う。代わりに「金髪or銀髪・中性的・どっちかというと敵役」に急激にシフトチェンジしていった。コペルニクス的転回ってこういうこと?多分違うな。残念ながら頭の出来は変わらなかったらしい。
Twitterアカウントも変えた。友人からはジャンルで何か嫌なことでもあったのか、と心配されたが「手術を受けたら推しキャラが変わったんだよね〜」とは口が裂けても言えないのでなんとなくね、でお茶を濁した。正直に話したところで今度は頭の心配をされかねないので…。
術後のリハビリは「痛い・グロい・怖い」の三拍子だったが、詳しい内容は気分を悪くする可能性が多分にあるので割愛する。
病気をする前の私は所謂リョナ物が何より好きだったのだが、自分が実際痛い目にあってから全く読めなくなった。
今は多少は平気になったので楽しく購読している。嫌いになったというよりは読んでいて「イテテテテ!!」と当時の痛みを思い出してしまうからだったろう。好みが変わったからといって否定する気は全くなく、一つのフェチに特化した読み物は今でも良いものだと思う。
入院生活の間で実際に死や痛みと闘う患者さんや、それを懸命にケアする医療スタッフの方達を間近でずっと見ていたことも影響を受けたように思う。
それに以前の私はとにかく尖ったサブカル系ばかり読んでいた。流行り物なんてクソだと思っていた。
今では尖ったものも面白く読むが、流行り物も積極的に読んでいる。面白いから流行るんだよね…。
嗜好が変化したというか、受け入れる世界が広がった。
これは病気と一緒に中二病が治ったということになるのだろうか?
元気な頃はとにかく体系は細ければ細いほど美しいことに取り憑かれていた。ロリータファッションに傾倒し、毎月結構な金額が飛んでいった。軽自動車くらいなら一括で買えるくらいだっただろうが、可愛いものに囲まれた生活は本当に幸せだった。
今にしてみるとまるで他人のことのように思えるのだ。今通う店、GU。そんぐらい。バッグや靴はちょっといい物を買って、あとは周りに浮かない程度にトレンドを追い、ファストファッションを季節ごとに使い回す。
ロリータや裏原系は見るのは未だに大好きだがもう二度と袖を通すことはないだろう。これは加齢や太ったこともあるのかな。「ロリータはまず精神から!」という風潮があるが、精神がガラッと変わってしまったのが一番大きいかもしれない。
ロリータを着始めた切っ掛けにはまず私が熱狂的なバンギャルだったという事もある。
ヴィジュアル系は今でも聴く。これもやはり読書傾向と同じで、以前好きだったものも変わらず好きだが世界が広がりジャニーズや坂道系やEXILE系も好んで聴くようになった。アイドルソングはガチガチのその道のプロが創ってプロモーションしている訳で、いい曲なのは当たり前なのである。
アニメグッズなんかもそれ程買わなくなった。代わりに画集やフィギュアは一期一会なので買ってしまうが。
もし、5年前にタイムスリップが出来て、当時の私に「私は未来の貴女なんだよ」と告げたら、泡を吹いて倒れるだろう。精神的に脆い人だったので、世を儚んで命を絶ってしまうかもしれない。
だからタイムマシンが出来ても私はきっと使わないだろう。当時の私は、本当に幸せで、毎日楽しく過ごしていた。
今の私も、本当に幸せに楽しく気楽に生きている。GUの服を着て、流行りのギャグ漫画を読んで、たまにヴィジュアル系を聞きながら。
書きながら気になったのだが、もしかして知らないうちに臨死体験というものでもしたのだろうか?
とりあえず上記を50倍ほどに希釈した内容を長年の友人に話したら帰って着た言葉が、
その発想は、なかったな…