「岩波書店」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 岩波書店とは

2022-03-24

anond:20220319131726

そもそも戦争を始めたロシアを軽視し、お互い自国に有利な構図を作りたがっているだけのことを『ウクライナ戦争を広げたがっている』と片方だけ強調するの、悪意の塊にしか思えないし、要求しすぎというツイートといい、本当に『私が巻き込まれなければなんでもいい』なんだろうな、こういう人は

2022-03-19

anond:20220316073338

助けを求めるウクライナの現地人はお気の毒だけど多くを求めすぎ。と有色人種を持ち出して煽り

演説したがるゼレンスキー世界大戦を煽っているし、国連無視する野蛮な奴だと言い募る。

この期に及んでこれが反米根性か…

(こういう『こっちは苦痛に耐えて協力してやってんだ』という言動気持ちいくら傲慢だと思うんだけど、敢えてなのか気付けないようだなぁ)

2022-03-16

anond:20220316042220

ついにはウクライナは求め過ぎと言い出した。

しか有色人種を持ち出して。

求めることがわがままだと言い出すのは、その有色人種すら悪にしかねない言動だと思うのだが、頭が回らないのだろう。

anond:20220313214118

すべては欧米リベラルが隠し事するせいだ、みたいなことにしてるけど、調べた上で自ら『また隠し事してるんだ』と勝手想像し始めて、欧米リベラルの敵の言い分を鵜呑みにする癖をやめないのは自身責任だということは自覚してほしいもので…

2022-03-13

anond:20220313104337

結果としてロシアの主張の正当性証明しようと必死になるイギリス極左支持者…

anond:20220312225726

どっちの情報信頼性差っ引いてるとかいいながら、結局トランピストツイートとか、アンチ欧米中道リベラルのろくでもないの参照してるから左翼プーチン大好き』とか言われんだよ。

醜いのはアンチ正義ゆえに『ツイッター渉猟すれば、自説を補強する何物かを見つけることは簡単』といいながらトランピストに自説補強を頼るそのモラルだろう。

まさにプーチンがいろんな場所支援してるのがそういう勢力だろうということに気付いてるはずだろうに。

(どうせ支援というのは情報戦フェイクニュースとか言い出すんだろうが)

2022-03-12

欧米リベラル憎しであっさりとプーチンの言い分を鵜呑みにして、アメリカオルタナ右翼バイデン政権批判鵜呑みにするイギリス極左支持者。

見事に『情報戦』に引っかかってると思うのだけれど、気づく気もないどころか自ら能動的に引っかかってるようであまりにも残念すぎる。

(2つ目のツイート引用リツイートされてるツイートの発信者は『ジョン・マイケル・ポソビエクIIIは、アメリカオルタナ右翼およびオルタナ右翼政治活動家テレビ特派員および司会者陰謀論者、そして挑発者です。(https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Jack_Posobiec の冒頭和訳)』)

2022-03-10

出産は、意に反する苦役新生児に課すものであり、憲法違反

日本国憲法第18条は、何人も、「犯罪に因る処罰場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定めている。

そして、この条項は、私人間にも直接効力を有すると解されている※。

ところで、生きることは、必然的に苦が伴うため、「苦役」に該当する。

また、生まれることに同意することは、生まれる前の人にはできない。

したがって、出産は、意に反する苦役を、生まれてくる人に課すものであり、憲法違反である

芦部信喜憲法 第七版』252頁(岩波書店,2019)

2021-12-30

anond:20211228210756

なろう書籍化話題岩波書店みたいな文化人路線の強い出版社を出すのは筋違いな気がする。

芳文社場合大衆路線の「週刊漫画Times」や「まんがタイム」、オタク路線の「まんがタイムきらら」があるにも関わらず、なろう書籍化(コミカライズ)がない。だから話題にしているんだ。

他の会社はどこもやってるよ。

2021-11-19

あるエロ絵師の末路

過去エロ絵を描いた人が叩かれているらしい。なのであるエロ絵師の話をしたい

彼の名は ジャン=フランソワミレー。 エロ絵師である

彼は貧しい農村出身だった。家中の金をかき集めてボザール(日本で言う藝大)を出たものの、賞に落選した後は肖像画エロ絵描きをしていた。

こはちょっと説明必要かもしれない。当時、絵画写真役割を担っていた。つまり売れない絵描き金持ちポートレート写真や、ポルノ写真で食い繋いでいたのである暮らしは貧しかったらしい。ついに奥さん結核にかかり亡くなってしまった。

あるときミレー画廊の前で彼の絵を眺めている2人の若者を目撃した。若者の1人が「この絵の画家を知っているか」と聞くと、「うん、裸の女しか描かないミレーという画家だ」ともう1人が答えた。その会話を聞いたミレーは、生活は苦しくなるだろうが、もう二度とエロ絵を描くまいと心に誓ったそうだ。

その後に彼の描いた作品は我々のよく知るものである

彼は自分故郷を題材に選んだ。清貧農民暮らし、貧しい中の敬虔信仰を彼は鮮やかにキャンパスに描き出し、人々の心を打った。

落穂拾い

https://ja.wikipedia.org/wiki/落穂拾い_%28絵画%29

種を蒔く人

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jean-François_Millet_-_The_Sower_-_Google_Art_Project.jpg

おそらくこの絵は日本人のほとんどが知っているであろう。

岩波書店シンボルマークである




追記

エロ絵を一度でも描いたことのある人間の絵を使ってはいけない」なら岩波書店アウトでしょう、という皮肉なんですが誰にも伝わってなさそうで絶望しています


ミレーももしかしたらウッキウキエロ絵描いてたかもしれんし

この文章を読んでその感想なのですか・・・

ミレーも話してた若者も「エロ絵を一度でも描いたことのある人間の絵を使ってはいけない」的な価値観言動をしているこのエピソードをそういう皮肉の意で使うのはおかしいのでは



えっ そんな言動していませんが?

当時のミレーはただのエロ絵描きと見られていた、若者の会話を聞いてブチ切れて好きな絵を描くようになったというエピソードです

追記


大子紅葉たそは絵師名義の件で燃えてるけどそこじゃなくない感 健全絵なのにエロ文脈いれすぎなのはいいのか


うーむ 何がエロかはだいぶ人によるからなぁ・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/晩鐘_(絵画)

例えばこれ、ミレーの描いた「農民が神に祈りを捧げる絵」なんですけれど、サルバドール・ダリエロ解釈してまして、

サルバドール・ダリは、男性を、交尾の後にメスに食べられる運命のオスのカマキリ見立て勃起した股間帽子で隠しているという独特な解釈を行い、それに基づいて『たそがれの隔世遺伝』(1933-34年)などの作品制作した

こんなん。どう思う? 私はダリの絵は好きだけどこの解釈ないわーと思ってるわ。この絵だけじゃなくて大量に2次創作みたいのしているんよ。本人的には尊敬してるっぽいんだけどさ! ないわーー ほんとこの人の解釈ありえんわーー  

でもダリの2次創作絵を無くせなんてことは言わないし、ダリ独自解釈するのも自由だし、私も自由文句言うぞ。

いや、まじでダリ画集解説よむたびにイライラしているのでつい書いてしまった。ごめんよ。

あとごめん、温泉娘のイラストは見た感じ私にはエロには見えなかった。ただ、そう見る人もいるんだろうね。





普通に知らんかった。 過去エロ描いてた人がNGなら、「よつばと!」も全世界から回収だなあ、とは思ってたけど。



えええ?? あの絵でエロ絵描いてたん??! 作風ぜんっぜん違うじゃんか?! そっちのがびっくりだわ!



一方葛飾北斎は「ちんちんヌルヌル」みたいなフェミ激怒レベルPNを用いエロ絵を描きまくった

まあ、外人とサヨからしたら小島ジャップ猿の作品なんぞただの落書きなんだろうがね、ミレーという世界的有名画家と比べるな!とかキレそうなので


ひゃぁーーーー 葛飾北斎は別格だわ!! そうだね、浮世絵があったね。増田は頭いいなぁ。

近代美術史に思いっきり影響を与えたのが浮世絵ですよ浮世絵! 影響大きすぎてどこから話せばいいかわかんない。

モネとかドガとかセザンヌとか・・・ えーと、『印象派以降の絵画ってよくわかんないなー』みたいなこと思ったことない? その辺り、芸術が一気に自由になったその大元凶が浮世絵なんですよ。

西洋美術って、写真のかわりみたいな発展の仕方したのね。写真みたいに正確に、解剖学とか遠近法とかきっちりした絵を描いていたわけ。でも、浮世絵はその辺全部無視して 思いっきデザイン的な絵を描くのね。大胆な構図重視でおもいっきり誇張したりデフォルメしたり、色彩表現も独特ですごい鮮やか。トーンつけたり(影を入れたり)しない。絵ってこんなに自由でいいんだ・・・!って当時の人たちにものすごい衝撃を与えたの。それでみんながいろんな手法を試し始めて現在に繋がるの。

ポルノとかブロマイド写真観光土産ポストカードといった、微妙立ち位置だった浮世絵が、美術史に多大な影響を与えたなんておもしろいし、現在価値観で下賤なものでもなるべく規制しない方がよいのだろうね。


関係ないけど、モデルが居てそれを描く絵画ならエロ絵というよりヌード画として見れるしエロさよりも美しいとか素晴らしいとか思う、しか現代Twitterに居るエロ絵師性癖全開な妄想を元に描いているエロ絵はイカ臭くて気持ち悪りぃと思ってる、なんでお前の性癖通りすがりの全く関係ない俺が目にしなくちゃいけないんだよって思うな。例えばツイッター内で「緑茶」とサーチしてみ。


ははぁ、なるほど。それは同情するなぁ。

私もエロは苦手なんだけど特に嫌な目にあってないのは Twitter をやってないせいかもしれないな。

Twtter 側でどうにかできないものだろうか


これで最後

なんで世の中萌え絵ばかり溢れるかって、それ以外にお金を出してくれる人がいないからだよね

最初の一歩は萌え絵以外を描いているひとを支援することではないか

たとえば Pixiv で「オリジナルタグ検索して気に入ったイラストにいいねしてコメントして回るだけでずいぶん変わると思うよ。

https://www.nact.jp

https://intojapanwaraku.com/art/46787/

東京の人、日展明後日まで。トワイライトチケット四百円だよ。萌え絵以外も応援しよう!

2021-10-07

anond:20211006211009

共産主義がうまくいかないことは、マルクスの「共産党宣言」を読めばわかるだろ。岩波書店無料で公開してくれてるから、読めよ。オレは、読んだうえで批判する。

https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/3412450.pdf

ミクロ経済学視点から共産主義批判

供給が固定されたら、需要側が変化する必要があるわけで、それはつまり消費者選択する自由がなくなるわけだ。人間は「選択できない」という我慢はできないよ。よって、共産主義は間違っている。

マクロ経済学視点から共産主義批判

マル経会計上は資金の一致はしないといけない。そうでないと、輸出入不都合が生じるからな。じゃないと GDP計算ができないし、ソ連中共GDP の報告をしないだろ?日本GDP を気にしないのは、投資される側じゃないからだ。海外から投資というのは、マクロ経済学では大切な部位なわけだ。ソ連中共海外貿易をしてるのに、上記共産党宣言には何も書いてない。そうなるとスターリントロツキーが言うように「世界同時革命」が必要というわけさ。例えば、日本共産化すると国家というボーダーを消さないと共産主義齟齬が生じるわけ。なぁ、『日本共産党という政党いか不勉強かわかるだろう?それに、もう日本共産主義なんていらないのですよ。ケインズという、国家というボーダー使役すると経済カンフルする方法を編み出した天才のせいで。マクロ経済学を駆使すると、供給規律を持って対処できるので、もはや国家として共産主義を選ぶ理由はありません。

行動経済学から共産主義批判する

人間は「良い思いをしたい」という生き物で、ソ連においても「良いものを求めた人民」が観測されています。つまり共産主義であっても「モノは同一価値ではない」のです。共産主義自由を奪う思想です。

計量経済学から共産主義批判する

上のなかで一番 共産主義迎合する領域なのは計量経済学だ。計量経済学統計学から、数値をごまかすと一致するからな。つまり、ある時期までは共産主義は『良すぎる』はずだ。そして、ある時期から共産主義資本主義に負ける。ネトウヨが「オリンピックから何年後に中共が滅ぶ」というのは、まぁまぁ嘘じゃないと思う。そのターニングポイント計量経済学では見ることができるはずだ。それは、歴史ジャンプするときに、みられる。

どうかな?共産主義理想を求めるのは、諦めたほうが良いよ。

2021-09-25

鬼いちゃん

禰豆子は「白い女」であって兄のピンチに兄を支えるわけですが、敵である堕姫は基本的に妓夫太郎おんぶにだっこで、自分が首を斬られると「皆で邪魔してアタシをいじめたの!!」(原作10巻第86話)、「お兄ちゃん何とかして」(原作11巻第94話)と泣き喚くことしかできないわけですね。無惨も「案の定堕姫が足手纏いだった」(原作12巻第98話)と、妓夫太郎と堕姫をペアしたことを後悔するような発言をしています。堕姫は兄を支えられず、男に依存することしかできない「赤い女」です。鬼に「堕ちた」ということ、遊郭に「堕ちた」ということが二重に描かれていて、「吉原遊郭編」は構成として美しいと言えると思います。なお、妓夫太郎が「お兄ちゃん」と呼ばれている点については、泉鏡花『黒百合』(1898年)における「芸妓の兄さん、後家後見和尚の姪にて候ものは、油断がならぬ」(『鏡花全集 巻四』岩波書店1941年、270頁。漢字新字体に直した)という一節を踏まえると味わい深いですね。芸妓は間夫のことを兄と呼ぶ。女の鬼が遊郭に潜んでいるという設定からして、本当に単なる「お兄ちゃん」なのか、という含みがある(笑)

https://note.com/iovis_takahasius/n/n5d806216d51c

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

2021-09-07

暗記数学が正しい Part. 1

長くなりすぎたので、概要編と実践例に分けます

本稿では、和田秀樹氏らが提唱している暗記数学というものについて述べます

受験数学方法論には「暗記数学」と「暗記数学以外」の二派があるようですが、これは暗記数学が正しいです。後者の話に耳を傾けるのは時間無駄です。

受験諸君は悪質な情報に惑わされないようにしましょう。

よくある誤解と事実

まず、読者との認識を合わせるために、暗記数学に関するよくある誤解と、それに対する事実を述べます

誤解1: 暗記数学は、公式や解法を覚える勉強法である

暗記数学は、数学知識有機的な繋がりを伴って理解するための勉強法です。公式や解法を覚える勉強法ではありません。「暗記」という語は、「ひらめき」とか「才能」などの対比として用いられているのであり、歴史年号のような丸暗記を意味するわけではありません。このことは、和田秀樹氏の著書でも繰り返し述べられています

誤解2: 受験数学は暗記数学で十分だが、大学以降の数学は暗記数学では通用しない

類似の誤解として、

などがあります。これらは事実に反します。むしろ大学理学部工学部で行わていれる数学教育は暗記数学です。実際、たとえば数学科のセミナー大学入試の口頭試問などでは、本稿で述べるような内容が非常に重視されます。また、ほとんどの数学者は暗記数学賛同しています。たまに自他共に認める「変人」がいて、そういう人が反対しているくらいです。大学教育関係者でない人が思い込みで異を唱えても、これが事実だとしか言いようがありません。

嘘だと思うならば、岩波書店から出ている「新・数学の学び方」を読んで下さい。著者のほとんどが、本稿に書いてあるように「具体例を考えること」「証明の細部をきちんと補うこと」を推奨しています。この本の著者は全員、国際的に著名な業績のある数学者です。

そもそも、暗記数学別に和田秀樹氏が最初に生み出したわけではなく、多くの教育機関で昔から行われてきたオーソドックス勉強法です。和田秀樹氏らは、その実践例のひとつ提案しているに過ぎません。

暗記数学の要点

暗記数学の要点を述べます。これらは別に数学勉強に限ったことではなく、他の科目の勉強でも、社会に出て自分の考えや調べたことを報告する上でも重要なことです。

  1. 数学重要なのは、技巧的な解法をひらめくことではなく、基礎を確実に理解することである
  2. そのためには、具体的な証明計算例を通じて学ぶことが効果である
  3. 論理ギャップや式変形の意図などの不明点は曖昧にせず、調べたり他人に聞いたりして、完全に理解すべきである

ひらめきよりも理解

一番目は、従来数学重要ものが「ひらめき」や「才能」だと思われてきたことへのアンチテーゼです。実際には、少なくとも高校数学程度であれば、特別な才能など無くとも多くの人は習得できます。そのための方法論も存在し、昔から多くの教育機関で行われています。逆に、「"才能"を伸ばす勉強法」などと謳われるもの効果があると実証されたもの存在しません。

大学入試に限って言えば、入試問題大学研究活動をする上で重要知識や考え方が身についているのかを問うているのであって、決していたずらな難問を出して「頭の柔らかさ」を試したり、「天才」を見出そうとしているわけではありません。

実例を通じて理解する

二番目はいわゆる「解法暗記」です。なぜ実例重要なのかと言えば、数学に限らず、具体的な経験と結びついていない知識理解することが極めて困難だからです。たとえば、

などを、初学者が読んで理解することは到底不可能です。数学においても、たとえば二次関数定義だけからその最大・最小値問題の解法を思いついたり、ベクトル内積定義線形性等の性質だけを習ってそれを幾何学問題に応用することは、非常に難しいです。したがって、それらの基本的概念性質が、具体的な問題の中でどのように活用されるのかを理解する必要があります

これは、将棋における定跡や手筋に似ています。駒の動かし方を覚えただけで将棋が強くなる人はまず居らず、実戦で勝つには、ルールから直ちには明らかでない駒の活用法を身につける必要があります数学において教科書を読んだばかりの段階と言うのは、将棋で言えば駒の動かし方を覚えた段階のようなものです。将棋で勝つために定跡や手筋を身につける必要があるのと同様、数学理解するためにも豊富実例を通じて概念定理の使い方を理解する必要があります。そして、将棋において初心者独自に定跡を思いつくことがほぼ不可能なのと同様、数学の初学者有益実例を見出すことも難しいです。したがって、教科書入試問題採用された教育効果の高い題材を通じて、数学概念意味や論証の仕方などを深く学ぶべきです。

そして、これは受験数学だけでなく、大学以降の数学を学ぶ際にも極めて重要なことです。特に大学以降の数学抽象的な概念が中心になるため、ほとんどの大学教員は、学生が具体的な実例を通じて理解できているかを重視します。たとえば、数学科のセミナー大学入試の口頭試問などでは、以下のような質問が頻繁になされます


不明点を曖昧にしない

教科書や解答例の記述で分からない部分は、調べたり他人に聞いたりして、完全に理解すべきです。自分理解絶対的に正しいと確信し、それに関して何を聞かれても答えられる状態にならなければいけません。

たとえば、以下のようなことは常に意識し、理解できているかどうか自問すべきです。

  1. 文中に出てくる用語記号定義を言えるか。
  2. 今、何を示そうとしているのか、そのためには何が言えれば十分なのか。
  3. 式変形をしたり、ある性質を導くために、どのような定理を使ったのか。
  4. その定理仮定は何で、本当にその条件を満たしているのか。
  5. そもそもその定理は本当に成り立つのか。自力証明できるか。
  6. どういう理屈意図でそのような操作・式変形をするのか。

ほとんどの人はまず「自分数学が分かっていない」ということを正確に認識すべきです。これは別に、「数学の非常に深い部分に精通せよ」という意味ではありません。上に書いたような「定義が何で、定理仮定結論が何で、文中の主張を導くために何の定理を使ったのか」といったごく当たり前のことを、多くの人が素通りしていると言うことです。

まず、用語記号定義が分からないのは論外です。たとえば、極大値と最大値の違いが分かっていないとか、総和記号Σ でn = 2とか3とかの場合に具体的に式を書き下せないのは、理解できていないということなのですから、調べたり他人に聞いたりする必要があります

また、本文中に直接書いていないことや、「明らか」などと書いてあることについても、どのような性質を用いて導いたのか正確に理解する必要があります。たとえば、

整数l, m, nに対して、2l = mnとする。このとき、mまたはnは2の倍数。

などと書いてあったら、これは

pが素数で、mnがpの倍数ならば、mまたはnはpの倍数。

という一般的定理を暗に使っていることを見抜けなければいけません。上の命題はpが素数でなければ成り立ちません。たとえば、l = 1, m = n = 2として、4l = mnを考えれば、mもnも4で割り切れません。他にも、

a ≡ b (mod n) ⇒ mamb (mod n)

は正しいですが、逆は一般的には成り立ちません。nとmが互いに素ならば成り立ちます。それをきちんと証明できるか。できなければ当然、調べたり他人に聞いたりする必要があります

l'Hôpitalの定理なども、もし使うのであれば、その仮定を満たしていることをきちんと確かめ必要があります

さらに、単に解法を覚えたり当て嵌めたりするのではなく、「なぜその方法で解けるのか」「どうしてそのような式変形をするのか」という原理意図理解しなければいけません。たとえば、「微分極値が求まる理屈は分からない(或いは、分からないという自覚さえない)が、極値問題からとりあえず微分してみる」というような勉強は良くありません。

そして、教科書の一節や問題の解答を理解できたと思ったら、本を見ずにそれらを再現してみます。これは「解き方を覚える」と言うことではなく、上に書いたようなことがすべて有機的な繋がりを持って理解できているかかめると言うことです。

はじめの内はスラスラとは出来ないと思います。そういう時は、覚えていない部分を思い出したり、本を見て覚え直すのではなく、以下のようなことを自分で考えてみます

  • 問題文の条件をどう使うのか
  • 何が分かれば、目的のものが求まるのか
  • どのような主張が成り立てば、ある定理を使ったり、問題文の条件を示すのに十分なのか

こういうことを十分に考えた上で本を読み直せば、ひとつひとつ定義定理、式変形などの意味が見えてきます。また、問題を解くときは答えを見る前に自分で解答を試みることが好ましいです。その方が、自分が何が分かっていて何が分かっていないのかが明確になるからです。

以上のことは、別に数学勉強に限った話ではありません。社会に出て自分の考えや調べたことを報告する時などでも同様です。たとえば、近年の労働法道路交通法改正について説明することになったとしましょう。その時、そこに出てくる用語意味が分からないとか、具体的にどういう行為違法(or合法)になったのか・罰則は何か、と言ったことが説明できなければ、責任ある仕事をしているとは見なされないでしょう。

2021-05-17

https://anond.hatelabo.jp/20210516225443

 これは科学検証可能性反証可能性についての議論ではない。

 「権威」という言葉に納得できないのであれば、われわれは、ある話題について、誰を、どの程度まで信じることができるか、という「実践感覚」を持って生活していると言い換えてもよいだろうか。

 われわれは義務教育教科書に書かれていることは概ね正しいと認識している。義務教育で教える内容はいわゆる「定説」として確立されたものであり、すでに複数専門家による批判検証を経て正統な保守本流知識としての共通認識が成立したものである理解しているためだ。初等教育過程で学ぶ知識の体系はほぼ権威による学びである。もちろん理科であれば実験をおこなうことによって、社会科であればフィールドワークを行うことによって、学んだことを経験によって確認する機会は設けられている。しかし学ぶ知識のすべてについてそのような検証を行うわけではない。教えられる知識検証可能であることを示し正当性担保するためと、検証する方法論を学ぶためである

 われわれは新聞TVというメディア情報が概ね信頼できることを知っている。しか100%信頼できないことも知っている。各メディアごとに信頼度は異なり、同じメディアの中でも話題や分野によって信頼度が異なるという感覚も持っている。BBCCNNのいうことは信頼できるがスプートニク大紀元トンデモだとか、岩波書店の出す書籍の内容は信頼できるが幻冬社の本は紙くずだとか、われわれはこのような無数の相場感覚実践感覚を日々の生活で養いつつ、またそれを以って触れる情報の真偽のグラデーション判断しているのだ。ここで見落とすべきでないのはそれら相場感覚実践感覚あくまでも「感覚」であって客観的基準ではないということである

 元増田への反論論文査読再現可能性、反証可能性を持ち出すのは筋違い議論である。それらは原理的な主張としては正しい。しかしわれわれは全ての情報についてそのような判断をしているわけではない。例えば「SARS-CoV-2は空気感染する」という言説を聞いた時、それを主張する論文に当たり、誰が書いたものか、査読は誰が行ったか、それぞれの研究者の業績等を調べて真偽度を判定するというのは「原理的には」可能であるしかしそのようなことをあらゆる情報について行うことは余程の暇人でなければやっていられない。多くの場合はその分野の権威とみなされる研究者論文信頼性があると判断した(あるいは信頼性がないと判断した)という事実をもって自身判断の参考にするだろう。すなわち権威による判断である

 初等教育で学ぶ知識の体系に照らして真偽を判断するということは可能であろう。しか初等教育で学ぶ知識の体系というのは権威による学びであったことを忘れるべきではない。その知識の体系全てについて実験などによる経験として検証したと主張できる人は少ないだろう。(あとで、検証することが原理的に可能であるとしても)我々はそのように<権威によって>「定説」として与えられたものをもとに真偽を判断し、その真偽の判断が他の人の言説にどのように現れるかを以ってその人に対する信頼度評価し、その信頼度においてその人の言説に現れた事象の真偽を評価するのである。そのような信頼と評価の積み重ねから真偽のグラデーション判断する実践感覚が生まれているのだということ、多くの生活の場においてその感覚依存しているのだということを忘れるべきではない。

2021-05-11

趣味読書ですか、差し支えなければどの出版社かお教えください

大学生「(ほとんどラノベエロ本漫画だとばれないようにしないと…よし)

はい培風館共立出版有斐閣の本は何度も読み返しました、文庫本もよく読みます特に岩波文庫ちくま学芸文庫割合が多いので岩波書店筑摩書房もそうですね」

2021-04-11

anond:20210411081232

岩波書店ツイートも良かれと思って国際女性デーを盛り上げるつもりが炎上してしまったものね。

ポリコレとは一歩譲れば三歩迫る思想なり。

2020-09-20

anond:20200920150521

圧力があったものだけ見ると

人工知能学会

ブレンディCM

志摩市キャラ

のうりんキャラ

うな子

資生堂CM

駅乃みちか

東急電鉄

環境省君野ミライ

ちふれCM

ユニ・チャーム

VOCE記事

宮城県壇蜜

サントリーCM

ゆらぎ荘

岩波書店広辞苑

池袋マルイ写真

キリン午後ティー

ワコール

ヤフー

花王

ワーナー

などなど、「価値観が変わった」ではなく、「圧力をかけた」ケースなので。

枚挙にいとまがない。

この手の圧力をかけて撤回させたケースを認めるのならば、間違いなく右派系も同じことをやりだすし実際やりだしてる。

2020-07-25

植松人間非人間の線引きの意識があり、第三者同意なく(意思表示できなければ)殺して良いとする優生思想だが、

大久保山本は腐っても医師なので「全ての医療行為患者同意がいる」としており、終末医療の在り方と医療経済学的な問題意識だと思う。

欧米合法化されている終末期の安楽死尊厳死は、"命の選別"とか"優生思想"ではないのだが

マスメディア政治家がその辺りを混同してるのは意図的なのかバカなのか。

優生学(ゆうせいがく、英: eugenics)は、応用科学に分類される学問一種で、一般に「生物遺伝構造を改良する事で人類進歩を促そうとする科学社会改良運動」と定義される[2]。

 優生学とは,「人類遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問である(『広辞苑 第6版』岩波書店,2008)。

2020-07-23

全書・叢書・大系・文庫の類を適当

珍名文庫冨山房

冨山房漢文大系」

国民叢書(民友社)

立川文庫立川文明堂

岩波文庫岩波書店

岩波現代文庫岩波書店

岩波書店日本思想大系」

岩波書店日本近代思想大系」

岩波書店シリーズ世界周航記」

岩波書店日本古典文学大系」

岩波書店新日本古典文学大系

岩波書店新日本古典文学大系 明治編」

講談社文庫講談社

講談社学術文庫講談社

講談社ブルーバックス講談社

講談社文芸文庫講談社

講談社「興亡の世界史」

ちくま文庫筑摩書房

ちくま学芸文庫筑摩書房

筑摩書房近代日本思想大系」

筑摩書房現代日本思想大系

筑摩書房明治文学全集

筑摩書房世界古典文学全集

中公文庫中央公論新社

中公クラシックス(中央公論新社

中央公論社世界の名著」

中央公論社日本の名著」

平凡社ライブラリー

平凡社東洋文庫

平凡社世界教養全集

平凡社中世思想原典集成」

平凡社中国古典文学大系」

角川ソフィア文庫

光文社古典新訳文庫

河出文庫

戦史叢書防衛研究所朝雲新聞社)

ミネルヴァ日本評伝選

吉川弘文館歴史文化ライブラリー

国書刊行会叢書

大日本史

日本古代法典

古典文庫吉田幸一

国史大系経済雑誌社、吉川弘文館

日本評論社「明治文化全集」(明治文化研究会)

集英社「全釈漢文大系」

明治書院「新釈漢文大系」

明治文化資料叢書明治文化資料叢書刊行会、風間書房

明治大正農政経済名著集(農文協

昭和前期農政経済名著集(農文協

河出書房新社世界の大思想

春秋社世界思想全集

明徳出版社陽明学大系」

明徳出版社朱子学大系」

日本評論社「学生叢書」(河合栄治郎

こぶし書房こぶし文庫 戦後日本思想の原点」

有朋堂「漢文叢書

早稲田大学出版部漢籍國字解全書」

国民文庫刊行会「国訳漢文大成

国民文庫刊行会「続国訳漢文大成

2020-07-07

オリンピック中止の候補にも合理性がある。

こういう陳腐一般論しか呟けず調査もみないし戦略理解できず分析もできないという人間はいる。

しかし、オリンピック中止の主張は、合理性のある戦略である

知名度や実績のある候補カリスマ候補無名または知名度が低く碌に実績もないような候補を平凡候補と呼ぶことにする。

もし、カリスマ候補オリンピック賛成を主張し、平凡候補も同じ主張をすればみんなカリスマ候補に入れるだろう。

そうであれば、カリスマ候補オリンピック賛成を主張したとき、平凡候補オリンピック反対を主張することでオリンピック反対の票を確保しようとするのは合理的である

なお、オリンピックを「中止すべき」と考えている都民は36%いる。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200705/K10012497581_2007052019_2007052022_01_06.jpg

参考文献

鎌田雄一郎(2019)『ゲーム理論入門の入門』、岩波書店

2020-05-30

anond:20200529235420

昆虫記』の日本語訳をした日本人

大杉栄 - 初めて昆虫記を訳した人物

小出正吾 - 『ファブ昆虫物語』 - 国立国会図書館

平野威馬雄 - 『ファブ昆虫記 少年少女のために』 - 国立国会図書館

林達夫 岩波書店のち岩波文庫

山田吉彦 児童向けの訳書もある。

古川晴男 偕成社から少年少女ファーブル昆虫記』を訳出、ロングセラーとなっている。

奥本大三郎 - 『完訳版 ファーブル昆虫記』全10巻(20分冊)、集英社2005-2017菊池寛賞

中村浩、江口清 講談社青い鳥文庫ほか

大岡信 岩波少年文庫榊原晃三 偕成社 

昆虫大人気じゃんw

日本人は、平安時代にすでに、虫めづる姫君 なる物語を書いてるから

虫に対する感覚欧米人とは違うのかもね。

2020-05-22

anond:20200519063840

参考文献だけど、さすがに個々のフレーバーテキストに入れるのは野暮だし、参考文献書くべきって言ってる人も別にそこまでは求めてないと思うんだよね……。

たとえば、ゲーム内に参考文献を提示するだけの画面を作って(キャラ紹介みたいな感じで)、そこに参考文献を番号を振って並べておいて、フレーバーテキストには「参考①」とだけ書く、ってのはどうや。

詳しく知りたい人は、参考文献リストの①を見てね、って運用にすれば、参考文献を明示することもできるし、フレーバーテキストへの影響も最小限で済むでしょ。

というか、本当に「参考にしただけ」なら、別に書く義務はないし。

引用したのなら引用元は書くべきだけど、たとえば史実を参考にした(文章自分で作った)とかそういう話なら、娯楽作品に参考文献を書かないことは責められるようなことじゃない。

宮内悠介みたいに巻末にビッチリ参考文献書いてる著者もいるけど、書いたらきちんとしてるなって評価になるだけで、書かなくてもマイナスじゃないか別に書かなくてもええんやで。学術論文じゃないんだから

引用引用元を書かないとあかん。これはむしろ史実というよりも文学作品とかで発生しうると思う。有名な文豪神話の一節を引用したいときとか。

たとえばギルガメッシュやらエルキドゥやらになにかかっこいいこと言わせようとして月本訳を持ってくるなら引用元は書く必要がある。別にそんな難しいことじゃなく、『ギルガメシュ叙事詩月本昭男訳、岩波書店1996年、って書いておけば十分。

もちろん、大本ギルガメシュ叙事詩はとっくに著作権が切れてるので、FGOスタッフ自力アッカド語から現代語に翻訳したのなら「ギルガメシュ叙事詩より」って付け加えるだけでも何ら問題ない。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん