はてなキーワード: 岡部とは
伊集院光の深夜の馬鹿力に出会ったのはたった8年くらい前だと思う。
当時の2chの雑談スレで、ゲラゲラ笑いたいというボヤキにほぼ毎回
痴豚様と崇められていて、それを心の支えにしているという書込も少なくなかった。
今になってみると少数の信者が回していたのかもしれないが、ともかく、自分は興味を持った。
そこでまず伊集院光 ラジオで検索してみたら、深夜放送しかない。1時から3時はきつい。
伊集院光本人にYouTubeで聞いてますみたいな事を言うアホではないので、ここにしか書かない。
さて、転げまわるくらい笑った。
当時精神を患って会社から逃げて無職で家に一人でいたので、昼間ずっと家事をしながらスマホとイヤホンで聞いていた。
伊集院光→岡部さんのミキサー→TBSラジオ電波→誰かのラジオ→YouTube→Wi-Fi→イヤホン→脳へと
馬鹿力の汁がドクドクドクドク流れ込んできた。
床を拭きながらニヤニヤ、皿を洗いながらニヤニヤ、たまにイヤホンを引っ掛けてビンッとなった。
単に前職が合わなくて疲れて腰掛けていただけだが、立ち上がるきっかけは伊集院光だった。
それから同じ業界で再就職したが、今度は家庭の事情で在宅勤務になった。
コロナで強いられた奴らより6年も早くリモートワーカーだ。俺は先輩だぞ。
家庭の事情は数年で何とかなった。介護の終わりは嬉しいとも哀しいともつかない不思議なものだった。
バタバタしてる病院から戻って写真を取りに来た時、「あっ、十面鬼の投稿みたいだな」と思った。
在宅勤務でも出勤しても給与も仕事内容もそんなに変わらないので在宅で続けた。
親の声より聞いた声なんてジョークがあるが、実際のところ誰の声よりも聞いている。
投稿もした。
カルタ例文で送られてきたサイン入りは百均だが額縁を買ってきて額装し机に飾った。
そしてこのコロナ禍、赤江珠緒に感染の可能性がある。後輩芸人白鳥久美子は発症した。
自分は何か信心がある訳ではないが、イヤホンを外す時、トイレから出て手を洗う時、夜寝る前、
自分は何に祈っているんだろう。
https://www.businessinsider.jp/post-208585
(東北大の)押谷(仁)教授は「学校でクラスターが発生しないとは断言はできませんが、子供の感染例は中国でも非常に少なく、その可能性は低いです。一斉の学校閉鎖をすることは、全体の流れからするとあまり意味がない」と(Yahoo!特集 「専門家会議メンバーが明かす、新型コロナの「正体」と今後のシナリオ」2月26日)。
岡部先生(川崎市健康安全研究所の岡部信彦所長)は「全国一律に小中高校の休校を要請するという、国民に大きな負担を強いる対策を、現時点ではとるべきではないと思う」(NHKニュース「休校要請 専門家「評価難しい」2月27日)と。
「人から人への感染を防ぐという意味では、実施しないよりは感染者が少なくなる可能性はある。ただ、感染が起きている地域での休校は感染を広めないためにはよいと思うが、感染が起きていない地域で同じ対応をとることにどれほどの効果があるかはわからない。子どもたちが外に出歩き、友だちと遊んでしまっては効果は下がるだろうし、現時点で評価することは難しい」(吉田正樹氏(東京慈恵会医科大学)/NHKニュース「休校要請 専門家「評価難しい」2月27日)
「学校は、互いに近い距離の中で生活を共にするため、感染しやすい環境で、学校で感染した子どもが同居する高齢者にうつすリスクがあり、最も警戒する必要のある場所だ。インフルエンザでは、学級閉鎖などをすることで局所的に流行がおさまることから効果的で現実的な対策の1つであるといえる。本格的な流行が懸念される中で、子どもも高齢者も両方守ることにつながる措置として評価できる」(賀来満夫氏(東北医科薬科大学特任教授)/NHKニュース「休校要請 専門家「評価難しい」2月27日)
保留?
公衆衛生の専門家で国際医療福祉大学の和田耕治教授は、BuzzFeedの取材に「今のタイミングで、ここまで社会への影響の大きい対策をやるならどんな根拠をもってやるのかきちんと示さなくてはなりません。教育界も、産業界ももっと政府に尋ねた方がいいと思います。本当にそれをやって意味があるのですね? 今だけなのですね?と聞いておかないと。こうした根拠についての議論はもう少しした方がいい」と苦言を呈している。
岡部健、QiitaをBANされてからしばらくは自分のBlogspotで色々書き連ねていたようだが、ここ1年間はQuoraという実名制のQ&Aサイトを根城にしていたようだ。
ところがつい先日、そこでもアカウントBANされた模様。
Quoraのモデレーションチームが岡部 健 (Ken Okabe)さんのQuora利用を禁止しました。
コメント:
Multiple BNBR
https://jp.quora.com/profile/%E5%B2%A1%E9%83%A8-%E5%81%A5-Ken-Okabe/log
BNBRというのはBe Nice, Be Respectfulの略で、「いつも思いやりと敬意を示すこと」を意味するQuoraの心得ということなので、それに複数回違反したことという利用禁止の理由がわかる。編集履歴をざっと眺めた限りでは、コメントが抹消されているものも非常に多く、明らかな暴言をマイルドな表現に訂正した履歴もあるが、それが却って元の言動の問題を浮き彫りにしているあたりが興味深い。彼がアカウントを永久BANされたのは確認できるだけでも Wikipedia(FXST名義)、Twitter、WordPress、Qiita、Quoraといったところだが、このBAN履歴から彼は何を学ぶのだろうか。
世の中には、他人や物事を批判するときに限って、現実とフィクションの区別がつかなくなる人、二次元と三次元を区別しなくなる人、文化と実用を同じ俎上にあげてしまう人がいる。
結局の所、怖いのだ。そうした無自覚な混同に至るのは、自分の理解の乏しい分野が伸長してくることが恐ろしく、脅威に感じられるという、無知ゆえの恐怖に他ならない。
ほとんどの場合、その恐怖は杞憂である。人類の総体は、一人ひとりが認識しているよりもはるかにまともであり、良くオーガナイズされた動きをする。創発のようなものだ。
だいたいのアクティビティは、門外漢が取り沙汰し介入せねばならぬほど悪辣なものにはなり得ない。
バランサーはどこにでも存在する。外野からはそれが存在しないように見えていても。
その領域内の独自のルールが自然発生し、なんらかの形の自主規制に基づいて、守るべきラインが形成されていく。それは動的であり、だからこそ発展していくものだ。
海外の(観光客からみると)おっかないエリアであっても、そこに住み日常を営んでいる人たちがいるのと同じように。過度に干渉したりケチつけたりすべきではないのだ。
世の中のあらゆる人々や物事は、多くの側面を内包している。その側面一つ一つごとに発展の度合いも方向性も異なる。
そのうち一側面の要素を一つの尺度で「ひどく拙く粗野だ」と詰って発展段階を批判したとしても、その主体の価値がそれだけで毀損されることはない。
けれどもそれが可能であるかのように誤解させ、一事が万事のように誘導し、その主体そのものを潰そうと息巻く人々が、事あるごとに出てくる。
それは、前述のように恐怖からくるのだが、同時に、疲れているのだろう。疲れている人がたくさん居るから、そのような一つの現象を生むのだ。
世の中が多様になりすぎて、受け入れるだけのキャパシティを超えてしまった人たちの、許容疲れなのではないか。
疲れている人とそうでない人とでは、その視野も認知能力も噛み合いようがない。それが理論の屈折と、議論の非建設性を増長することになる。
この「許容疲れ」の解消こそが、21世紀の課題だと私は思っている。モダンでありながら生きやすい社会のために。
今までは、そのキャパシティは物質的(経済的)にも精神的にも余裕のある成熟した人でないと拡張できなかった。
単にインターネットを通じていろんな立場の人の声が聞ける・読めるようになった程度では、人々の意識の器は拡張されなかった。
むしろ、一気に大量のタスクを渡されたせいで混乱しカリカリと殺気立っている人、のような状況に陥っている。
インターネットがより意識の低い一般大衆に浸透すればするほどその傾向が強まってきたように感じられる。半端に意識を高められ、排外排斥および他責思考が強まっている格好だ。
これは過渡期的な、一時的な現象だろうか。いや、そうではないだろう。
おそらく、インターネット、ハイパーテキストの先にはソリューションは存在しない。
情報通信の分野の中にはあるだろうが、まったく異なるプロトコルによる情報摂取体系の普及が必要になるだろう。
多面的でファジーな意識を、負荷なく脳に取り込む――可能ならば他人の脳そのものとリンクして、認識を統合する――
仮にそれをHCTP、ハイパー・コンシャス・トランスファー・プロトコル、と呼ぼう。
それが実現したとしたら、どのような形で運用されるだろうか。
現在、一部の人々から熱狂的な支持を得ているのが、バーチャルYouTuberである。
バーチャルYouTuberとはその名の通り、顔と声を出して動画を制作する『バーチャル』なYouTuberである。
アニメチックな3Dモデルをトラッキング技術を用いることで、自由気ままに動かし、表情までも自在に操ることが出来る。
ここまで来るともはや現実のYouTuberとも相違ないのではないか。
ヒカキンやフィッシャーズなど、日本にも有名なYouTuberが数多く存在している。
彼らは動画の再生数が増加することによって広告収入を得ており、
その収入で生活をしている、いわば職業Youtuberである。
年齢問わず、だれでも楽しめるような動画を制作することが多い。
アニメ絵の3Dモデルが動き、声優のような萌えボイスでトークを行う『バーチャルYouTuber』が
これらの既存のYouTuberと横並びの存在に成れるかと言われれば、それは難しいだろう。
バーチャルYouTuberの支持層には、やはりオタク層が多く、日頃からアニメや声優ボイスに慣れ親しんでいて、
バーチャルYouTuberの絵や声に違和感を感じない人間が多いことは確かである。
バーチャルYouTuberが流行してしばらくたってはいるが、いまだに一般市民の支持を得られていない原因は
このことにあるのだろう。
しかし、これはバーチャルYouTuberを「Youtuber」としてみた場合のことである。
これをアニメのキャラや漫画のキャラなどと同じ「架空の存在」としてみると、
そのポテンシャルは非常に高いことがわかる。
バーチャルYoutuberのほとんどは女性であり、その多くが男にとって魅力的で美しいものである。
バーチャルYoutuberに魅せられた男たちが彼女たちに対して抱く最大の感情、それは
このことは以前からも「バーチャルYoutuberの誰々がかわいい」「俺のガチ恋は誰々」
などと半ば冗談のように扱われる節があったが、
つまり、バーチャルYoutuberは世界中の男性にとっての恋愛対象として
現在でも、現実で女性と会話する機会のない、もしくは女性からモテない一部の男性の多くは
などの疑似恋愛に親しんでいる。
バーチャルYoutuberはこれらの媒体を超えるほどの能力を持っている。
現実のように体が可動し、表情が変動し、それに合わせて声が出る魅力的な存在
となれば、現実の女性と同じか、それを超えるレベルの恋愛感情を
男たちに抱かせることになる。
しかしながら、ここで問題になってくるのが「恋愛における双方向コミュニケーションの重要性」である。
当然ながら、恋愛において最重要であり、かつ恋愛における醍醐味でもあるのは、双方向のコミュニケーションである。
もちろん、オタクたちが親しむアニメ、漫画といった媒体においては、双方向コミュニケーションを行うことは不可能である。
しかし、ゲームという媒体においては双方向コミュニケーションが可能である。
ほとんどのノベルゲームで採用されている「選択方式」のストーリー分岐、
後者のほうが強い恋愛感情を生むということは多くの人が知るところである。
バーチャルYoutuberにおいても、このような双方向コミュニケーションが可能になるシステムが追加されれば、
もはや現実の女性は不要になるレベルの恋愛対象として男性諸君からみなされることになるでだろう。
もしくはユーザー1人に1人のバーチャルYoutuberが存在する世界、
つまりスタンドアロンでAIとして独立して存在できるようになればそれはもはや現実の女性であるといっても過言ではないだろう。
奇しくも、現在放送中のアニメ『シュタインズゲートゼロ』においては、ヒロインの牧瀬紅莉栖の記憶を元に制作されたAI「アマデウス」が登場する。
製作者がバーチャルYoutuberのブームを予見していたのかは不明だがタイムリーな話題といえよう。
同アニメ3話においては、アマデウスの開発者の一人である比屋定真帆がアマデウスに陶酔する主人公の岡部倫太郎を叱責するシーンがある。
岡部訳(〜3巻) | 酒井訳(4巻〜) |
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家名・人名 | |
ティレル家 | タイレル家 |
スタニンス・バラシオン | スタニス・バラシオン |
タースの乙女 ブリエンヌ | タースの乙女 ブライエニー |
トンメン・バラシオン | トメン・バラシオン |
ジェイム・ラニスター | ジェイミー・ラニスター |
キバン | クァイバーン |
ピーター・ベーリッシュ(リトルフィンガー) | ピーター・ベイリッシュ |
リサ・アリン | ライサ・アリン |
ケイトリン・スターク | キャトリン・スターク |
エーモン・ターガリエン | エイモン・ターガリエン |
ジャケン=フガー | ジェクェン・フ=ガー |
用語 | |
マイスター | メイスター |
夜警団(ナイトウォッチ) | 冥夜の守人 |
燐火(ワイルドファイア) | 鬼火 |
物質(サブスタンス) | 炎素 |
キバン=クァイバーンは、はじめこんなヤツいたっけとかなり悩んだ。
西暦2015に最高裁が「選択的夫婦別姓は却下」と判断を示しました。
これを受けて原告団長の塚本協子さんは「判決を聞いて涙が止まらなかった」
「『塚本協子』として生きること、死ぬことができなくなりました。」と述べました。
しかし待ってください。それって法律で解決しなくちゃいけないことでしょうか?
真犯人の名前を教えましょう。旧姓で呼んでくれない職場、旧姓で呼んでくれない銀行、旧姓で呼んでくれない葬式。
やつらです。
数年をかけて裁判を何度も起こすより! 三井住友銀行に毎日クレームを送りましょう。
この投稿を見たら「ペンネームでも簡単に口座が! マイナンバーを持ってお近くの銀行へ!」のキャンペーンをしてください。
「パスポートに名前を記入させないで」とお便りを送りましょう。
年賀状なんてやめて、外務省とか東京都生活文化局とかに絵葉書を送りましょう。
「佐藤から始まる同姓同名なんてたくさんいるんだから『本日は晴天なり』と自筆記入させてくれませんか?」と添えて。
「子供の姓はどうするんだ」
今回の訴訟では、子供の姓のルール改正は求めていませんので、「結婚時に決めた戸籍筆頭者の姓に統一する」だけです。もし、別のニーズ(子供は新しい姓にするとか)が発生したら、また時代に合わせて改正を検討すればいいと思います。海外のように、両親の名字をくっつけて子供の姓にする時代が来るかもしれませんね。「ますだおかだ」とか。
みなさんには役人の友達がいませんか? みなさんの友達は泣いていませんか?
「鈴木と佐藤が結婚するだけで『鈴木』『佐藤』『鈴木佐藤』『佐藤鈴木』『鈴佐』『鈴藤』『佐木』『木藤』とにかくたくさんだ!」
ただでさえ無駄の多い役所仕事に無理難題を要求するのは、みなさんの反対するところではありませんか?
選択的夫婦別姓は結局、戸籍にしがみついているだけですから最高裁が別姓を認めてくれたところで無意味です。
子供の名字は、親の名字は、先祖の名字は、友達の名字は……。戸籍に全てを任せようとしてしまいます。
選択的夫婦別姓の先にあるのは、子供が「父親の名字になりたい。母は要らなかった。戸籍を変えたい」と訴訟を起こす未来です。
効率的・実務的に言って役所をただ混乱させるだけの選択的夫婦別姓制度には断固反対していくべきで、
「そういえば所ジョージさんって芳賀隆之って戸籍上なってるらしいですが、所ジョージの方が本名って感じがしません?」と不動産会社の人に言いましょう。
選択的夫婦別姓なんて結局、子供の名字をどうするのか決めなくちゃいけないんですから。
既に主旨は述べましたが、ではどうして戸籍を擁護するのか整理させてください。
みなさんもご存じの通り、夫婦別姓というのは極めて男女差別的な側面があります。
中韓が現在も夫婦別姓であるように、極東では女性は家族の中でただ一人、男の姓を名乗ることを許されないものでした。
そこで明治維新の頃、列強のルール「妻は夫の名字を名乗る」という先進的な男女差別へと乗り換えたのが日本です。
名字の話をするだけで昔の各国のパワーバランスの話になりました。
名は……ちょっと土地を変えれば全く違う理論で働いている、とても価値のあるものです。年輪です。地層です。百科事典です。
ロシアには「父親の名前が、子供に自動的に足される風習」があります。「父称」で検索。
プーチン大統領は「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン」という名ですが、ミドルネームにあたる「ウラジーミロヴィチ」は父親から来ています。
砕いて言うと「ウラジーミル、ウラジーミルの子の、プーチン」です。ウラジーミル・プーチンの父もウラジーミルだとミドルネームに書いてあるのです。
父親と子供の名前が同じというのは日本からすると変かもしれません。
しかし「名前に無頓着な名前」は世界的には多々あることで、マクドナルドは「ドナルドの息子」という意味だとされています。
マクミランは「ミランの息子」、マッカーサーは「アーサーの息子」とされています。
名は文化・歴史的に価値のあるもので、善とか悪とかそういう尺度で語るべきものではありません。
日本では源義経は牛若丸だし、豊臣秀吉は羽柴藤吉郎だし、鳳凰院凶真は岡部倫太郎だし……。
名は大切なものではありましたが、そのせいか代わりの名前がぽんぽんと出てくるものでありました。
選択的夫婦別姓の先にあるのは「寿限無」や「ピカソ」のように長い長い名前です。
「親のせいで俺の名前120字以上になった! ツイートできない!」となります。
そういう一般的な人間のユーモアと役所仕事というのは相性が悪いものです。
名乗りたい名前があるなら自由に名乗ってくれて構いません。それが国民の総意になる未来もあるでしょう。
しかしそれはともかくとして国がきちんと古くさく管理するのを許してあげてくれないでしょうか?
そうしてきちんとされたものが百年先、千年先にどう解釈されるのか私たちには全く想像できないのですから。
第一に、それは、ストリーム(FRPの値の定義)の問題であって、ユニットテストすれば良い。もしくは単にFRPのログを取れば良い。
グローバル変数ではそういうことはできない。FRPでは、岡部氏のFRPライブラリも特にそうだけど、基本的にミュータブルな値同士が関数でリアクティブに連携されて常に整合性を保っているのだから、グローバル変数の、各所で更新されたそれぞれの値によって全体の整合性が損なわれないように気を配らなければいけないという(テスト自体困難な)問題は発生しない。それがFRPの唯一とも言えるメリットだとも言える。
使用する関数の問題じゃないし、「印」として引数に加えても別に構わないと思うが、君のいうグローバル変数の問題と一緒というのはまったく違う。
いや、それがそもそもの発端であるとブログの経緯には書かれている。説明されている方式でGUIアプリまで書けるのか?と疑念が呈されたことがきっかけ。
この論点は聞いたことがない。岡部氏がこだわっているのは非手続き型の宣言型で、純粋がどうとか議論はされてないように思う。
あと、OCamlでGUIを状態渡しで書いたら簡潔で無いのを「書けない」、「不可能」って言ってるのはわざと印象操作しようとしてるよね?
原理的に可能かという議論ではなく、実用的な範疇か?という議論。反対派ブログで出てきたコードは、本人が認めるように普通のやり方ではなく、実用的なコードだとは思えない。あと、FRPと状態渡しは同じ複雑さだという主張も崩されている。そこが重要。
段階を踏んだ上で、非FRPのHaskellのIOモナドのコードを誰かが書いたらいんじゃない?当面、最初はOCamlの話だったのに、いきなりHaskellやElmのコードで書いて、そういうのがごちゃまぜに、何がどの言語でできるのかできないのか、誤魔化しがあると見做されたから制限されたんでしょ。実際には、OCamlの関数型では冗長でしか書けないと実証されたけど、そういうのがバレないように、別の言語を利用していたと看破されて当然の状況だと俺は思うね。
定数って、プログラム中で更新不可能で、いつ読みだしても同じ値が出てくるから、グローバルでも問題無いんだよ。
ストリームは定数だ、って言ってみたところで、プログラム全体から更新可能なんじゃ、グローバル変数と同じでしょ?
バグがあって、ストリームに変な値が入った時、どこがバグなのか、追跡するのが困難でしょ?
なんで伝わらないんだろ。
複数人でプログラム開発したり、他人のプログラムをデバッグしたり、したこと無いんだろうか。
「純粋関数型」とは何か、という話と、とOCamlでそれが推奨スタイルか、って別の話だよね?
岡部氏との争いって「OCamlでGUIアプリを純粋関数型(状態渡し)で簡潔に書けるか」ってところじゃないよね?
純粋関数型とは何かといった時にHaskellのように、IOも含めて引数と戻り値で表現する、関数のふるまいが関数の外の状態に依存しない、関数に副作用が伴わないとかの性質をいうと思うんだけど、岡部氏はFRPで状態を関数の外部に持ってても純粋関数型だ、と言ってて、そこで争ってるんだよね?
あと、OCamlでGUIを状態渡しで書いたら簡潔で無いのを「書けない」、「不可能」って言ってるのはわざと印象操作しようとしてるよね?
Haskellで書けて、OCamlで冗長になっても、書けるなら「書ける」、「可能」だよね?
その発言が事実か確かめる術はないし、ここで岡部氏攻撃しているのは君ひとりなのか?他の人間まで一連の誹謗中傷集団ではない、す駱駝、住井が含まれていないみたいに断言する根拠は何か?
否。ストリームに限らず、定数は引数で与えなくても純粋関数型である、という見解はごく普通。
つまり、GUIになればもはや関数型では書けない、というのが推奨スタイルだ、って言ってるようなもので、OCamlベースでいくら関数型の講義やっても、最終的にはその関数型でまともなGUIアプリすら書けない、という批判でしょ。その批判が岡部氏からされたら、あたかも関数型で書ける、という強弁から生まれたのが「状態渡し」理論。それが無理筋だ、ということが今回実証された。
その発言が事実か確かめる術はないし、ここで岡部氏攻撃しているのは君ひとりなのか?他の人間まで一連の誹謗中傷集団ではない、す駱駝、住井が含まれていないみたいに断言する根拠は何か?