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2017-10-24

砕かれた鏡

(この日記は、「副業風俗レポを連載していたのだが、」https://anond.hatelabo.jp/20171023190844を「俺が編集者ならこう書き換える」という内容に無断で編集したものです。)

お久しぶり~。とにかく更新が滞りがちなこの連載。今回はちょっと趣向を変えて、生まれて初めてアジアンエステに行った日のことを書くぞ。もう六年半も前の話だ。僕のドスケベオイルマッサージ道はこの日から始まったのだ!

某月某日、夜。駅前商店街を歩いていると、妖しく点滅する立て看板が目に入った。

中国式マッサージ 60分¥6000

インターホンを鳴らすと、異様に背の低い白髪の老婆が出てきた。待合室に通され、メニューを渡された。メニュー表には複数コースが書かれていたが、婆さんは大きな目をさらに大きくして90分一万円のコースゴリ押ししてきた。僕は気圧されて、よくわからないまま一万円を払った。

部屋に案内されて、ベッドに腰かけていると、小柄な女の子が入ってきた。名前はナナちゃん。第一印象はツンとして見えるが、笑うと一気に表情がやわらぐ。かわいい! 大きな目に長いまつげ。ピンク色のぽってりした唇が印象的。髪は長めで、えり足がスッキリとまとめられている。あらわになったうなじセクシーしかし、何より目を引くのはオッパイ。かなりでかい! 上着がパンパンに膨れあがってる。そして、むき出しになった太もも。僕が太ももフェチになったのは、この日がきっかけかも。ミニスカートからのびる二本の素足。た、たまらん....。

ナナ「初めてですか?」

僕 「はい

ナナ「先にシャワー浴びますか?」

僕 「あ、はい

ナナ「じゃあ、脱いで待ってて」

ナナちゃんが部屋を出ていく。言われるままに服を脱ぐ僕。上半身裸になったところで、ナナちゃんがバスタオルを持って戻ってくる。いたずらっぽい笑みを浮かべながら、僕のズボンベルトを引っ張る。脱ぐように促しているのだ。恥ずかしながら、僕はすでにビンビン。ナナちゃんがそれを見て、キャッと笑う。腰に白いバスタオルが巻かれると、腹部がふくれあがり、その形状はまるで雪山

一緒にシャワールームへ。ナナちゃんが全身をやさしく洗ってくれる。「後ろ向いて」「はい、前」「もう一回後ろ」ころころと向きを変える僕。後ろ向きになると、ナナちゃんの手首が僕の足のつけねを通って、さわ~、と尻の穴を通過。最高だ...。タオルで体を拭いてもらい、部屋に戻る。紙パンツを渡されたが、明らかに小さい。無理して履いてみたが、思いっきハミ出てしまう。ナナちゃんがそれを見てウフフと笑う。

ナナ「うつぶせになれますか?」

僕 「あ、はい・・・

ナナ「・・・やっぱり、あおむけでいいよ。うつぶせ、痛そうだから

うつぶせだと、いきり立ったモノが圧迫されて痛いと判断されたらしい(笑)それで急遽、あおむけの態勢から始めることに。ナナちゃんが僕のひざの上にまたがると、太もも感触がじかに伝わる。う~ん、たまらん!

まずは首筋のマッサージ。ナナちゃんが前かがみになると、はだけた胸もとから谷間が見える。膝を動かすたびに、スカートの中もちらり。これってわざと!? そして、ここから先は怒濤の展開。まだ序盤なのに、ナナちゃんが僕の全身にオイルを塗り始めた! 本来うつぶせでじっくりと肩や腰をもんでから、ようやくあおむけになり、オイルが登場するのは後半なのだしかし、ナナちゃんは通常のセオリーをすっ飛ばして、大暴走。おそらく僕の興奮が伝わり、一気にスパークしたのだ! 奇跡フュージョン国籍を越えた魂の交感。ナナちゃんの指先が、僕の体の上を縦横無尽に滑走。そのなめらかな滑りは、ロシアフィギュアスケーターユリア・リプニツカヤ選手のようだ。僕はあっという間にフィニッシュ。開始からわずか30分。瞬殺だった...。

本来、こういったマッサージは焦らしてナンボ。ナナちゃんの施術はあまりトリッキー過ぎた。でも僕は大満足! 最高のアジアンエステデビューであった。

🌑

これは、ある風俗系のサイトのために書いた原稿である。そのサイトが突然閉鎖してしまい、行き場所がなくなった。自分で言うのも何だが、本当に下らない。僕は二年近く、こんな文章ばかり書いていた。この記事は、新しい店を取材する時間が無かったので、苦しまぎれに昔話を書いたのだった。結果的にこの原稿は陽の目をみなかったわけだが、書きながら当時のことを色々と思い出した。

あの頃、実は僕はドン底の状態だった。親から継いだ会社倒産させた後だったのだ。単なる地元中小企業だったが、そこそこ歴史のある会社だった。古参幹部裏切り横領大手の参入、理由を挙げればキリがないが、結局は僕が無能だったのだ。すべてを失った。恋人も仲間も、みんな去って行った。絵に描いたような転落人生だ。酒びたりの日々。毎日、目を覚ます頃にはすでに日が暮れかけていた。時計を見るのもつらかった。起きるとすぐに冷蔵庫を開けて、安い缶酎ハイあおり、またベッドに戻る。酒が切れたらコンビニに行って、缶酎ハイカップ麺を大量に買い込む。そんな生活が何ヵ月も続いていた。

いよいよ金が尽きてきたので、警備員バイトを始めた。まわりは爺さんばかりだった。地元では警備員仕事高齢者の受け皿になっていた。爺さんたちと一緒に働いているうちに、まだ20代後半だった僕も、老後みたいな気分になっていた。

件のエステに行ったのは、そんな時期のことだった。前述の通り、僕は30分で果ててしまった。そのあとどうしたかというと、ずっと彼女とお喋りをしていた。彼女は色々な話をしてくれた。まだ来日して三年足らずで、日本語ジブリアニメ勉強していると言っていた。なぜか子供の頃の写真を持っていて、それを見せてくれた。山村風景を背にして、薄汚れたシャツを着て立っている、仏頂面の少女が写っていた。それが彼女だった。話を聞いてみると、彼女は非常に貧しい家に生まれて、家族を支えるために、日本出稼ぎに来ていたのだった。

僕も自分のことを話した。地元中小企業の二代目社長社員は26人。趣味スキーテニス、車はベンツを2台所有。どれも過去には本当のことだった。でもすべてを失っていた。僕は彼女に、会社経営の苦労や、幹部に対する不満を、現在進行形の悩みとして語った。彼女の前では社長でいたかった。悲しい見栄だ。話しているうちに、自然と涙が流れてきた。彼女がそっと抱き寄せてくれた。僕は彼女の胸に顔をうずめて泣いた。しばらくのあいだ泣き続けた。あのとき彼女はどんな気持ちだったのだろう。異国で、初対面の男が、いきなり泣きだしたのだ。理由もわからなかったはずだ。かなり戸惑ったにちがいない。

ナナちゃんと話した翌日から、僕は仕事で新しい現場に入った。美術館の警備スタッフだ。スタジオジブリレイアウト展覧会だった。そこでマズイことが起きた。彼女が客として入場してきたのだ。どうやら彼女は一人で、オレンジワンピーススニーカーを履いて、髪はポニーテールにまとめていた。相変わらずちょっとツンとしていて、喋らなければどこからみても普通若い女性だった。僕はあわてて顔を伏せた。見られてはいけない。彼女の中ではまだ僕は社長なのだ。警備服を着ているはずがないのだ。彼女は食い入るように展示物を見ていた。僕は帽子限界まで目深に被り、ばれないようにした。

午後になって、今度は外の駐車場ですれ違いそうになり、あわててトラックの背後に隠れた。警備員なのに、僕の挙動は完全に泥棒だった。彼女は僕の前を通り過ぎて、その先の角を右に曲がっていった。彼女は僕の視界から消えた。

数日後に、地面が揺れた。これまでにないぐらい、大きく揺れた。巨大な津波が来て、あらゆるもの破壊した。そう遠くない場所で、原子力発電所が爆発した。日常が奪われ、何日も、何週間も、不安状態が続いた。

僕はやることもなく、ふと思い立って再びあの店に行ってみた。当然のように閉まっていた。インターホンを鳴らすと、ゆっくりドアが開いた。中からあの大きな目の老婆が顔を出して、「やってませんよ」と言った。

僕 「いつごろ再開しますか?」

老婆「もうやらないよ。おしまい

僕 「・・・

老婆「みんな中国に帰ったよ」

僕 「ナナちゃんは?」

老婆「ナナも帰った。モモも帰った。サクラもユキもみんな帰った。日本は危ないから」

当たり前だが、ナナちゃんとはそれっきりだ。僕はほどなく上京して、小さな広告プロダクション就職した。その後、仕事で知り合った風俗関係者に請われ、メンズエステ体験レポを書くようになった。

最初のうちは、アジアンエステ取材する度に彼女のことを思い出したものだが、最近はすっかり忘れてしまっていた。女性の胸に顔をうずめて泣くなんて、あの夜が最初最後だと思う。

地震で粉々に砕かれた鏡の上に今は別々の人生が映し出されている。ナナちゃん、元気だろうか。

2017-10-23

副業風俗レポを連載していたのだが、

諸般の事情サイトが閉鎖されてしまった。原稿が一本無駄になってしまったので、はてな匿名ダイアリーに放流する。

🌑

お久しぶり~。とにかく更新が滞りがちなこの連載。今回はちょっと趣向を変えて、生まれて初めてアジアンエステに行った日のことを書くぞ。もう六年半も前の話だ。僕のドスケベオイルマッサージ道はこの日から始まったのだ!

某月某日、夜。駅前商店街を歩いていると、妖しく点滅する立て看板が目に入った。

中国式マッサージ 60分¥6000

インターホンを鳴らすと、異様に背の低い老婆が出てきた。待合室に通され、メニューを渡される。メニュー表には複数コースが書かれていたが、婆さんは90分一万円のコースゴリ押ししてきた。僕は気圧されて、よくわからないまま一万円を払った。

部屋に案内されて、ベッドに腰かけていると、小柄な女の子が入ってきた。名前はナナちゃん。第一印象はツンとして見えるが、笑うと一気に表情がやわらぐ。かわいい! 大きな目に長いまつげ。ピンク色のぽってりした唇が印象的。髪は長くて、えり足がスッキリとまとめられている。あらわになったうなじセクシーしかし、何より目を引くのはオッパイ。かなりでかい! 上着がパンパンに膨れあがってる。そして、むき出しになった太もも。僕が太ももフェチになったのは、この日がきっかけかも。ミニスカートからのびる二本の素足。た、たまらん....。

ナナ「初めてですか?」

僕 「はい

ナナ「先にシャワー浴びますか?」

僕 「あ、はい

ナナ「じゃあ、脱いで待ってて」

ナナちゃんが部屋を出ていく。言われるままに服を脱ぐ僕。上半身裸になったところで、ナナちゃんがバスタオルを持って戻ってくる。いたずらっぽい笑みを浮かべながら、僕のズボンベルトを引っ張る。脱ぐように促しているのだ。恥ずかしながら、僕はすでにビンビン。ナナちゃんがそれを見て、キャッと笑う。腰に白いバスタオルが巻かれると、腹部がふくれあがり、その形状はまるで雪山

一緒にシャワールームへ。ナナちゃんが全身をやさしく洗ってくれる。「後ろ向いて」「はい、前」「もう一回後ろ」ころころと向きを変える僕。後ろ向きになると、ナナちゃんの手首が僕の足のつけねを通って、さわ~、と尻の穴を通過。最高だ...。タオルで体を拭いてもらい、部屋に戻る。紙パンツを渡されたが、明らかに小さい。無理して履いてみたが、思いっきハミ出てしまう。ナナちゃんがそれを見てウフフと笑う。

ナナ「うつぶせになれますか?」

僕 「あ、はい...」

ナナ「あおむけでいいよ。うつぶせ、痛そうだから

うつぶせだと、いきり立ったモノが圧迫されて痛いと判断されたらしい(笑)それで急遽、あおむけの態勢から始めることに。ナナちゃんが僕のひざの上にまたがると、太もも感触がじかに伝わる。う~ん、たまらん!

まずは首筋のマッサージ。ナナちゃんが前かがみになると、はだけた胸もとから谷間が見える。膝を動かすたびに、スカートの中もちらり。これってわざと!? そして、ここから先は怒濤の展開。まだ序盤なのに、ナナちゃんが僕の全身にオイルを塗り始めた! 本来うつぶせでじっくりと肩や腰をもんでから、ようやくあおむけになり、オイルが登場するのは後半なのだしかし、ナナちゃんは通常のセオリーをすっ飛ばして、大暴走。おそらく僕の興奮が伝わり、一気にスパークしたのだ! 奇跡フュージョン国籍を越えた魂の交感。ナナちゃんの指先が、僕の体の上を縦横無尽に滑走。そのなめらかな滑りは、ロシアフィギュアスケーターユリア・リプニツカヤ選手のようだ。僕はあっという間にフィニッシュ。開始からわずか30分。瞬殺だった...。

本来、こういったマッサージは焦らしてナンボ。ナナちゃんの施術はあまりトリッキー過ぎた。でも僕は大満足! 最高のアジアンエステデビューであった。

🌑

自分で言うのも何だが、本当に下らない。僕は某風俗サイトで二年近くこんな文章ばかり書いていた。先の記事は、新しい店を取材する時間が無かったので、苦しまぎれに昔話を書いたのだった。結果的にこの原稿は陽の目をみなかったわけだが、書きながら当時のことを色々と思い出した。あの頃、実は僕はドン底の状態だった。親から継いだ会社倒産させた後だったのだ。単なる地元中小企業だったが、そこそこ歴史のある会社だった。古参幹部裏切り横領大手の参入、理由を挙げればキリがないが、結局は僕が無能だったのだ。すべてを失った。恋人も仲間も、みんな去って行った。絵に描いたような転落人生だ。酒びたりの日々。毎日、目を覚ます頃にはすでに日が暮れかけていた。時計を見るのもつらかった。起きるとすぐに冷蔵庫を開けて、安い缶酎ハイあおり、またベッドに戻る。酒が切れたらコンビニに行って、缶酎ハイカップ麺を大量に買い込む。そんな生活が何ヵ月も続いていた。

いよいよ金が尽きてきたので、警備員バイトを始めた。まわりは爺さんばかりだった。地元では警備員仕事高齢者の受け皿になっていた。爺さんたちと一緒に働いているうちに、まだ20代後半だった僕も、老後みたいな気分になっていた。

件のエステに行ったのは、そんな時期のことだった。前述の通り、僕は30分で果ててしまった。そのあとどうしたかというと、ずっと彼女とお喋りをしていた。彼女は色々な話をしてくれた。まだ来日して三年足らずで、日本語ジブリアニメ勉強していると言っていた。なぜか子供の頃の写真を持っていて、それを見せてくれた。山村風景を背にして、薄汚れたシャツを着て立っている、仏頂面の少女が写っていた。それが彼女だった。話を聞いてみると、彼女は非常に貧しい家に生まれて、家族を支えるために、日本出稼ぎに来ていたのだった。

僕も自分のことを話した。地元中小企業の二代目社長社員は26人。趣味スキーテニス、車はベンツを2台所有。どれも過去には本当のことだった。でもすべてを失っていた。僕は彼女に、会社経営の苦労や、幹部に対する不満を、現在進行形の悩みとして語った。彼女の前では社長でいたかった。悲しい見栄だ。話しているうちに、自然と涙が流れてきた。彼女がそっと抱き寄せてくれた。僕は彼女の胸に顔をうずめて泣いた。しばらくのあいだ泣き続けた。あのとき彼女はどんな気持ちだったのだろう。異国で、初対面の男が、いきなり泣きだしたのだ。理由もわからなかったはずだ。かなり戸惑ったにちがいない。

この話には後日談がある。翌日から僕は仕事で新しい現場に入った。美術館の警備スタッフだ。スタジオジブリレイアウト展覧会だった。そこでマズイことが起きた。彼女が客として入場してきたのだ。どうやら彼女は一人だった。僕はあわてて顔を伏せた。見られてはいけない。彼女の中ではまだ僕は社長なのだ。警備服を着ているはずがないのだ。彼女は食い入るように展示物を見ていた。僕は帽子限界まで目深に被り、ばれないようにした。午後になると、今度は外の駐車場ですれ違いそうになり、あわててトラックの背後に隠れた。警備員なのに、僕の挙動は完全に泥棒だった。

数日後に、地面が揺れた。これまでにないぐらい、大きく揺れた。巨大な津波が来て、あらゆるもの破壊した。そう遠くない場所で、原子力発電所が爆発した。日常が奪われ、何日も、何週間も、不安状態が続いた。再び店に行ってみると、当然のように閉まっていた。インターホンを鳴らすと、ゆっくりドアが開いた。中から背の低い老婆が現れて「やってませんよ」と言った。

僕 「いつごろ再開しますか?」

老婆「もうやらないよ。おしまい

僕 「・・・

老婆「みんな中国に帰ったよ」

僕 「ナナちゃんは?」

老婆「ナナも帰った。モモも帰った。サクラもユキもみんな帰った。日本は危ないから」

当たり前だが、ナナちゃんとはそれっきりだ。僕はほどなく上京して、小さな広告プロダクション就職した。その後、仕事で知り合った風俗関係者に請われ、メンズエステ体験レポを書くようになった。最初のうちは、アジアンエステ取材する度に彼女のことを思い出したものだが、最近はすっかり忘れてしまっていた。女性の胸に顔をうずめて泣くなんて、あの夜が最初最後だと思う。ナナちゃん、元気だろうか。

anond:20171022175706

>> 西洋美術館学芸員っていない <<

いるよ。肩書学芸員じゃなくて研究員になっているだけ。

ただ、学芸員作品研究論文を書いたり、展覧会企画構成を行ったり、展示品の管理を行ったりするのが仕事学者なんで、展示室にいることはほとんどない。

作品付近に立っている人は監視員と言って、単なるパートタイマー

2017-08-25

子供の名づけ

前提条件: 東京市部に住んでいる。糞みたいな街だ。シン・ゴジラを見たところあらゆる点で被害を受けていなった。ふざけんじゃねえぞ、たしかにこの市には何も壊して絵になるものなどない。

子供名前をつけるにあたってだいたい以下のようなことを考えた

はいえこれが全部満たすことは難しいので、画数はかなり多くなってしまった。 16+8 。自分は字を書くのが下手なので自分の子供の字を手書きでうまく書けないという事態になってしまっていてひどい話である

このようなことを考えるに至った最大のきっかけというのがあって、新宿東急ハンズエスカレーターのところで、渋谷区小学校児童にかかせた消防車の絵の展覧会というのが行われていた。そこでは小学校ごとに絵がまとめられていて、渋谷区のなかでも都市的ではない地域小学校児童名前全然読めなくて、私立小学校児童名前めっちゃ読めるみたいになっていた。故に私立小学校に行かせたい!!!とかではなくて、名前子供人生が決まるわけではないが、観測者の教養度に応じて名前の見え方が変わるようにしておけば子供人生において余計な障害が減るのではないかと思った。子供人生がどんな人生になるか分からないし、できれば全然俺が興味も関心もないようなわけわからん人生になってほしいのだけど。レゲエで天下とるとか。ただ俺の希望など子供にとってはなんの関係もないことではある。

この話のオチ

子供が生まれて三カ月経ってから気づいたけど神林長平小説主人公名前被ってた。

2017-08-13

同性の友達と付き合う夢を見た

夢の中で私はあの子といつも通りの休みを過ごしていて、あの子が好きな画家展覧会を見に行って、その後二人でご飯を食べた。ほんとうにいつも通りの過ごし方で、これといって変わったことはなかったんだけど、夢の中で私はあの子彼女だった。

夢なので今も記憶が薄れているんだけど、割合人の多い会場ではぐれないように手を繋いでいて、私より10センチくらい背の低いあの子ぼんやりしがちな私を引っ張って進んでくれて、手を恋人繋ぎに組み直してくれて、それが無性にしかったのを覚えている。

ご飯の場所も、考えてみると少しお洒落なところだった。お店を選ぶのは私のはずだから、きっと夢の中の私もデート気合を入れていたんだろう。食べたものは覚えてないけど、なんだかずっとすごくドキドキしていた気がする。

私とあの子はただの友達なのに、なんであんな夢を見たんだろうか。ただの友達なのに、なんでこんなにときめいているんだろう。

2017-07-11

https://anond.hatelabo.jp/20170711202345

それ、私です!良かったら今度おしゃれなツボが購入できる展覧会があるので一緒に見に行きませんか?

2017-06-27

https://anond.hatelabo.jp/20170624235903

トラバブコメをいただいたので、勝手ながら浮世絵を勧めてみる。

変な話だが、鑑賞と制作だったら、制作から入ったほうが鑑賞も楽しくなるように思う。

例えば、葛飾北斎富嶽三十六景の、有名なところで赤富士と言われる夜明けに朝日で赤く染まった富士山凱風快晴

グレートウェーブと呼ばれる、神奈川沖浪裏。

あれを見て、思うのだ。

あれは、北斎が描きたかった富士山じゃない。

北斎が描きたかった真の富士山なんて、この世に一枚もない。

それは、制作を齧ってみるとひしひしと感じとれること。

知っての通り、オリジナル浮世絵には原画というものが残っていない。

そもそも絵師が描くのは線画だけ。

それを版元、つまり出版社企画担当に渡して、それを板木屋、彫師という職人渡り、板に張り付けられてしまう。

板に貼りついた絵ごと、彫ってしまうので、原画は木屑と共にこの世から消えてしまってるわけ。

絵師というか、画工っていうイラストレータ地位というのはそれほど高くなくて、彫師が勝手アレンジすることだってある。

そもそも芸術家として心から沸き起こるもの表現するんじゃなくて、売れるものを描くのが至上命題

彫り終わると、それがすなわち線画のコピーが出来るわけで、そこから「ここを赤、ここを青」って具合で、絵師の指示が入る。

具体的な色を塗るとかでなく、文字で書き入れる程度。

そんで、また色の版が出来上がって、今度は摺り師と呼ばれる職人の手に渡る。

そして、絵師立ち合いで、色合わせを行って、微調整されたら出版、という流れ。

で、その手の浮世絵解説書なんてのだと、初摺りは手がかかってるけど、そのあとの後摺りは手抜きで改変されてるとかって書いてあり、実際初期ロットと後期ロットは色が違うってんだけど、いざ制作してみるとそれだけじゃないように思う。

明らかに自己主張がある。

摺り師の「俺上手いだろ?真似できないだろ?」

っていう自己主張をビンビン感じる。

いざ木版画を始めてみると、100人中99人はそれを目指す、ある種の技術方向性というのがあって、それが超絶レベルで、過剰なまでにそれに拘ってるのがよくわかる。

彫師と摺り師の自己主張だけじゃない。

時代流行ある意味で街の声さえも作品に取り込まれてるのが、ありありとわかる。

初摺りであっても、本当に北斎が描きたかった富士山じゃない。

彫師のエゴを、摺師のエゴを、江戸流行りを、それを引き算してやる。

北斎自身ねじくれた自尊心を解析する。

北斎という人はいい歳して「自分が一番!」と天狗になったり、「バカにされるのは嫌だ!」忙しくぐるぐる同じところを回っていて、とてもかわいい

少なくとも、自分にはそう感じられる。

ちょっと大胆すぎる実験的な試みも、「褒められたい!」という意識が見え隠れする。

それを差っ引いてあげて、初めて、あの絵の本当のコンセプトが見えてくる。

いつか、本当の北斎の心を、自分表現したい。

あるいは、摺師、彫師、版元、江戸空気北斎とのジャズセッションがあの作品だったとしたら、今度は自分北斎セッションが出来る。

なんて楽しいことだろう。

技術が追い付いたら、いつかそれをやりたい。

前置きが長くなってしまったが、そろそろどうやって浮世絵制作を学ぶか書いてみる。

いざ木版画を学ぼうとしても、浮世絵方式木版画を教える教室ほとんどない。

なにをもって浮世絵方式というのか難しいけれども、木版画においてかつてスタンダードだった、世界で最も優れてた技術体系と断言できる。

なんで今スタンダードじゃないか

その答えはわからない。

俺も知りたい。

で、そもそもその技術継承した人というのが少なく、浮世絵職人がやってる版画教室、あるいはその流れを汲むとする版画家の版画教室は知りうる限りで以下の通り。

作品展など、見に行って雰囲気を感じるとよいと思う。

朝香伝統木版画教室

所在地東京

現役彫師が教える版画教室

当然ながら彫りに詳しい。

第七回 朝香伝統木版画教室作品展 2017年6月26日7月2日

竹笹堂

摺師が教える版画教室京都だが、関西を中心に出張講座や通信講座もやっている。

今年の作品展情報不明

五所菊雄の主催する版画教室

五所菊雄という版画家で、摺師の内川又四郎氏(ポールジャクレー作品を摺ってた人)から学んでる。

東京近郊で複数教室を持ってる。

HP展覧会情報が載ってる。

まちだ版の会 木版画展 2017年9月12日9月17日

NHK文化センター 川越教室木版画講座・作品展 2017年8月21日8月27日

東京芸術大学

野田哲也が浮世絵の流れを汲む、とされてる。

作品を見ても全然そんな風に感じやしないんだけど。

入学すれば学べるんじゃないかなと思うけども、ちょっとハードルが高すぎる。

作品展というか、芸大卒業制作をみることは出来る。

野田哲也の師にあたる小野忠重の著書は浮世絵技法を知るうえでお勧め

実際、浮世絵制作面白い

毎年、数人は浮世絵制作沼に沈んでると想像される。

いったん情報収集を始めると、先に沈んだ先輩とつながれるので、芋づる式にオタと出会える。

有名なところだと、独学で浮世絵制作者に転身して、大学企業との共同研究までしてた元ジャズマン(最近亡くなられた)。

職もビザもなく、浮世絵への情熱だけで日本にきて、浮世絵で飯食って浮世絵で家建てて浮世絵子供育てたカナダ人

そのへんは浮世絵バカ一代の二代巨頭で、ほかにもごろごろ、まあいるわいるわ。

みんな平気で仕事を捨て、家族を捨て、学歴を捨て、浮世絵制作沼へ沈んでいく。

自分なんか、趣味範囲で、まだ片足だけだが、いつか完全に沈みそうな気がして怖い。

なにが楽しいって、楽しいんだからしかたない。

子供の頃にハンコを押すのが楽しかった経験がないだろうか?

コピー機がある今だとありがたみがないが、同じものが何回もつくれるというのは、楽しい

フォトショップ原画書いて、3Dプリンターで版木制作、色のレイヤープリンターで版木塗って印刷ってのはどうだろう

意見はごもっとも。

浮世絵というのは、つまり、人力カラー印刷にすぎない。

いまだってコンビニカラープリントが80円ってのに、当時はかけそば一杯の値段だったっていうから江戸時代印刷技術スゲーって思う。

小学校でやるようなローラーで油性インクを塗る油性木版と違って、水性の絵具で摺りあげるのだが、特徴をいくつか。

まず、ベタが綺麗に決まる。

まるで、フォトショでみたいにね。

グラデーションがかけられる。

うん、フォトショみたいにね。

色を重ねて混色が出来る。

赤の上に青を重ねると紫になる。フォトショレイヤーを乗算モードにしたのと同じ。

浮世絵の目指すところは、フォトショイラレで書いた絵。

前段のほうで書いた、誰しもが目指す技術というのは、きれいなベタ、滑らかなグラデーション計算されつくした重なり、つまりフォトショイラレ

そういうことなら、原画だってフォトショイラレでつくったほうが、出来上がりイメージはしやすいだろう。

今日はここまで。

本格的に、道具の用意、構図の学び方等々の話に入れずに力尽きてしまった。

勢いに任せて書いているので、話の構成おかしいのはご容赦いただきたい。

2017-06-13

美大に行けなかった女

祖父画家だ。

美大卒業してすぐに専業画家として独立

その道の人が喉から手が出る程欲しがる賞なんかも受賞して、

から見ると画家として順風満帆人生を送ってきたように見えると思う。

しか祖父プライベートでは周囲にかなり迷惑をかけてきた。

戦争で家が燃え盛る中、貴重品には目もくれず画材だけ持って逃げたり、

駆け出しの頃余裕のなさからちょくちょくヒステリーを起こしたりとか、

そういう話はよく祖母とその息子(=私の父)から聞いたし、

画業が軌道に乗るまではかなりの貧乏暮らしをしていたらしい。

そのせいでうちの家系アート関係仕事に対して風当たりが強い。

父が美大ではない一般大学を出、一般企業サラリーマンとして就職した際は

一族からまともな奴がでた」と周りが泣いて喜んだという。


孫の私は小さい頃よく祖父の家に預けられていた。

(私も祖父都内住みなので、母が忙しい時、面倒を見てもらっていた)

父が幼かった頃はまだ生活に余裕がなく、祖父子供の面倒を見る事はなかったが、

絵が売れるようになってからできた孫の私の事はかなり可愛がってくれた。

祖父は私にお古の画材をくれ、好きに絵を描いていいと言ってくれた。

仕事をする祖父の近くに陣取り、見様見真似で絵を描き始める。

幼稚園児の絵なんてプロの目から見なくても下手くそだし、祖父から絵を褒められた事は一度もない。

それでも下手な絵を量産し続ける私を見る祖父の目がとても優しかったのは覚えている。

やがて私は外で鬼ごっこをするよりも絵を描く方が楽しいと思うような子供に育った。

近所に住む幼馴染の友達も絵を描くのが好きな子で、

放課後はその事一緒にスケッチブックを持って公園に絵を描きに行くのが定番コースになった。




そんな私に家族はいい顔をしなかった。

小学生の頃、近所のお絵かき教室に行きたいと何度頼んでも全部無視された。

でもテレビでみかけた新体操選手を見て一言可愛いと言った次の日には新体操教室を探してきてくれた。

数学が苦手だとぼやいたらすぐにそろばん教室に行かないかと勧められた。

家族は私が絵を描く事以外に興味を持ってほしかったのだと思う。

一回だけ口を滑らせて「美大とか美術専門学校に行きたい」と言ってしまった事がある。

父は大激怒あん鬼のような形相をした父親を見たのは後にも先にもあの時だけだ。

親戚中に言いふらし、それから何人もの親戚から連日の様に

「お前に祖父のような才能はない」

美大に行くような奴はそれしか生き方を知らないろくでなしだけだ」

「お前は絵の為だけに人生を棒に振れるのか、そうとは思えない」という電話がかかってきた。

安定した仕事に就いてほしいという彼らの気持ちもわかる。

でも「美大楽しそう」は中学に入ったばかりの小娘の言葉だったのだ。

それからずっと絵を描くのが好きだという気持ち封印し、

隠れてノートに絵を描いてはいものの、普通大学に入って普通にOLとして就職をする道を選んだ。

それでも社会人になっても絵を描きたい欲が抑えきれず画塾に通い始めた。

美大の夜間コース金銭的にも時間的にも無理だった)

この頃になるともうこれから芸術の道に進む事はないだろうと安心したのか、家族から白い眼で見られる事もなくなったし、

祖父コネでもらった展覧会チケットも興味があるのなら、とくれるようになっていた。

画塾に通い始めた事も「社会人になって趣味を持つの大事な事」と肯定的な目で見てくれるようになって、少し認められた気がして嬉しくなった。

ただ一言「お前、絵描くの好きだったんだな、知らなかった」と言われるまでは。

あぁ、幼稚園小学生の頃あんなにお絵描き教室に行きたいと頼み込んだの覚えていないんだ。

後、大学一人暮らしを始めてから同人漫画も描き始めた。もちろん家族には言っていないけど。

同人イベント金銭のやり取りをするようになってから、絵一本で祖母、父、そして父の妹を食わせ、大学まで行かせた祖父のすごさを再認した。

親戚が私に才能がないと言った気持ちもわかる。私は祖父になれなかった。なろうとする事すらおごましい。

でもこの趣味出会った友人達には美大とかアート系の専門学校に通っていた人も多くて、やっぱり羨ましくなってしまう。

そしてその人達ほとんどは家族の言う「芸術の道に進むしか能がないろくでなし」ばかりではないし、

卒業普通OLとして社会人をやっていけている人にもたくさん出会った。

デザイン系の仕事をして会社に雇われている人もいれば、

祖父自営業画家として生計を立てていたように、フリーランスとしてやっている人もいる。

何より皆、人より絵を描くのが得意な「社会常識のある普通の人」だったのだ。

美術系の学校に進む人は全員頭がおかしいという親戚の言葉は、

美術を専攻するとOLという道は閉ざされるから絶対に稼げないという親戚の言葉

嘘だった。

そして思ってしまうのだ。

正直言ってしまうと同人誌はそこそこ売れているので、私に絵の才能が全くなかった訳ではないと思う。

もし美大に行けてたら…祖父の様に専業画家として大成功する事は無理でも、デザイン系のOLとかで生活できる程度に稼ぐ事はできていたのかな…と。

甘い考えだってのはわかっているけれども。

父の口癖はこうだった。

「本当に何かをやりたい人はどんなに反対されても勝手にやる。祖父は家が燃え盛る中、泣きながら画材を持ちだして死にかけた。手塚治虫戦争中、絵の具がなかったか自分の血で絵を描いた。芸術の道に進むというのはそういう事だ。」

きっとそうなのだ

私が本当に美大に行きたかったのなら、親戚中に反対された中学の時点で家出でもすればよかったのだ。

バイトをできる年齢になったらお金を貯めて、学費自分で賄えばよかったのだ。

そうしなかったのは心の底から美大に行きたいと思っていなかったからなのかもしれない。

ないとは思うけど、明日北朝鮮ミサイル東京に降ってきたら、私は真っ先に通帳とか印鑑とかを持って逃げると思う。

そして、足腰が弱ってあまり歩けなくなってしまった祖父は、それでも若かった頃と同じようにパニクりながらカンバスと絵の具を持って避難するだろう。

そういうところなのだ、親戚が「芸術家ろくでなしだ」と言うのは。

通帳は全部祖母に任せて自分画材だけ持って逃げるから

明日おまんまがなくなって、家族全員打ちひしがれていても、スケッチブック燃えなかった事を泣いて喜ぶような人だから

本物のミサイルなんてそうそう見れるもんじゃないと喜び勇んでスケッチを始めるかもしれない。

因みによく一緒に公園スケッチに行ってくれた幼馴染は高校から画塾に通う事を許され、無事美大合格卒業後は有名なゲーム会社就職した。

彼女ものすごい努力をしていたのを私は知っているし、就職の報せを聞いて私も嬉しかった。

でも北朝鮮ミサイルに対して彼女はどういう行動をとるだろうか?

私が趣味世界出会ったデザイン系の仕事に就いている人達は?

紙と鉛筆を持って逃げるだろうか?

幼馴染とは今でも仲がいい。

同人活動を通じてできた友人の中にはジャンルが変わっても付き合ってくれ、一緒に旅行に行くような仲の人もできた。

積極的美大とか専門の話はしないけれども、そういう話題になっても自分の知らない世界の話を聞くのは単純に楽しいし、新刊ネタになるかもとワクワクすることもある。

でも嫉妬心を全く覚えないと言ったら嘘になる。

日本火の海になった中で、紙と鉛筆でなくて通帳と印鑑を持って避難するような人だったとしても、彼女達が美大進学を許された特権階級である事は変わりないのだ。

そう思うと何だかもやっとしてしまう。





一時期このもやもやから逃れたくて、絵を描く事を伴わない趣味を探した事がある。

スポーツをしてみたり、美味しいご飯屋さんを探してみたり。

このスポーツ団の制服可愛いから模写したいとか、肉の「照り」の部分を絵の具でどう表現しようかとか気付くと考えてしまっていたけれども、頑張って思考の外に追い出していた。

そんな中、某韓国アイドルにハマった。

お気に入りだったのが音大出身で抜群の歌唱力を売りにしている子。

彼の美しい歌声に乗った異国の言葉は心地よくて、生まれて初めて海外アーティストの曲を買った。

ある日、彼が番組企画ファンの為にイラスト色紙を書いてくれる事になった。

その日の彼は機嫌が良かったのか、普段はあまりしないプライベートな話をしながら色紙を書いてくれた。

小さい頃から歌う事が好きだった事。

母親に勧められて合唱団に入った事。

歌手を目指し挫折した経験を持つ母が、音大合格した時泣いて喜んでくれた事。

色紙を書き終えた彼はそれを満足そうにカメラに見せ、言葉をつづけた。

「歌も好きだけど…絵を描く事も好きです。上手くはないけどね。僕の従姉妹がこの絵を見たら笑ってしまうかも、彼女美術大学に通っているんだ。」

頭を鈍器で殴られたような感覚がした。

今までアイドルと言うのは自分とは全く別の世界に住んでいる人間だと思っていた。

この世に存在しないくらい見た目が美しくて、スタイルが良くて、歌やダンスが上手で。

からどんなにイケメンアイドルを見てもこんな人と付き合いたいとか、

どんな美人アイドルを見てもこんな風に美しい女性になりたいとか、そういう気持ちが湧いてきた事はなかった。

自分人生と関連づけられなかったのだ。

特に彼は外国人だったので、そうした傾向が強かったんだと思う。

でも彼の口から美術大学」という言葉がでてきた瞬間、一気に身近な存在になってしまった気がした。もちろん悪い意味で。

音楽芸術だという当たり前の事を思い出し、生まれて初めてアイドルに対して悔しいという気持ちが湧いてきてしまった。



彼は芸術家になる事を親から応援されてきたんだ。従姉妹さんも美大に通っているという事は、きっと一族の大半が協力的なんだろう。

羨ましかった。私も応援されたかった。

美大に行きたいという言葉を発した時に、罵詈雑言を浴びせられるのではなく、彼の母親の様に応援してほしかった。

彼が歌うのが好きだと気付いた母が、彼を合唱団に入れてくれたように、お絵かき教室に行きたいとせがんだ私の事を父に認めてほしかった。

本当は新体操選手なんかに憧れてはいなかったんだ。

お絵描き教室が駄目なら新体操も駄目だろうと思って発した言葉だったのに、すぐに新体操教室を探してきてくれた親に対してショックを覚えたんだ。

美大コンプレックスから離れる為に始めた趣味だったのに、またもや同じ気持ちを味わったあの日、結局このコンプレックスはどこに行ってもついてくるんだなという絶望感を覚えた。

もちろん、高校から画塾に通って美大進学をした幼馴染、趣味を通じて知り合った美大出身友達

皆親を説得するために苦労をしたんだと思っている。

そしてただでさえ狭き門である芸術系就職活動成功させる為に、

反吐を吐く様な努力をして作品ポートフォリオを作り上げたんだろう。

きっと私には想像もつかないような辛い道のりだったに違いない。

大好きなアイドルと彼の従姉妹だって日本よりさらに厳しい学歴社会と言われる韓国音大美大進学を決めるのには相当な覚悟があったはずだ。

音大合格して彼の母が泣いたのだって、その一悶着があったからという事もあるかもしれない。

でも。本当に悪いけど。その内誰だって祖父レベルに達しているとは思えない。

祖父の様に絵の神童と呼ばれていたという話も聞かない。

祖父彼女達と同じ年齢だった頃に描いた絵を見ると、素人から見ても月とすっぽんの差がある。祖父の様な天才じゃなくても美大に行かせてもらえる彼女達。特に幼馴染は「本当は美大に行きたかった母親が大賛成」してくれて、祖父の様な絵に対する執着心もないのにすんなり画塾に通わせてもらえて、本当に羨ましかった。

もし、私の祖父画家じゃなければ。天才じゃなければ。

しかしたら説得できたんじゃないかって思ってしまう。

家出なんかしなくたって、絵の具の代わりに血を使わなくたって、北朝鮮ミサイルが降り注ぐ中、愛用の画材を泣きながら探し回らなくたって。

しかしたら、私にも美大に行かせてくれと説得できたのかもしれない。

彼女達が本当に羨ましい。泣くほど羨ましい。

祖父の様に絵を描く事しかできないわけでもなく、(少なくともデザインOLをやれる程度のコミュ力はあって)、でも祖父の様な並外れた才能があるわけでもない彼女達が

家族から美大進学を許されたのが、本当に悔しい。

祖父天才じゃなければ。数回頭を下げただけで私も美大に行かせてもらえたかもしれないのに。


祖父の事は聞かれない限り他人に話してはいない。父の職業ならまだしも祖父の事を聞かれる事は稀だし、自分から言いふらすような事でもない。

でもごくたまにある。お祖父ちゃんは何をしている人なの?と聞かれる事が。

そして答えると大抵「だから増田さんも絵が上手いんだね!」と返ってくる。

(もちろんお世辞だ。私は下手ではないと思っているけれども、上手くもないと思う。ただ、そういう仕事をしていない限り社会人になってまで絵を描いている人は案外少なく、相対的にそう見えるだけだ)

そんな時自分がどんな顔をしているのかはわからない。

絵を描く楽しさを教えてくれたのは祖父

お金にならないのに、今まで絵を描き続けてこれた情熱を持てたのも、祖父遺伝なのかもしれない。

でもそれを仕事にしなかったのも間接的には祖父が関わっている。

そして何より、私には祖父ほどの才能がなかったのだ。

2017-06-11

恋人趣味があわない

23歳の時、37歳の男性と付き合っていた。

彼とはあまり趣味があわなかった。はじめは、年齢が14歳も離れているのでジェネレーションギャップは仕方がないと思っていた。しかし、付き合いが長くなってくると、私と彼の趣味の相違は年齢が原因ではないことに気がついた。「この人と同級生でもあまり話があわなかっただろうな」というタイプだったのだ。

美大に通っていた私は、いわゆる青文字系サブカルチャーみたいなものが好きだった。好きな芸能人ピースの又吉と小松菜奈好きな音楽くるりtofubeatsや好きな映画岩井俊二とグザヴィエ・ドラン。赤い口紅をつけて、現代アート展覧会デートたかった。

大手メーカー営業をしていた彼が選ぶものは、私の感覚と少し違った。好きな芸能人磯山さやか好きな音楽キロロミスチル、好きな映画インディペンデンスデイ。カラオケ好きな人で、キロロの「長い間」という曲を覚えて歌ってほしいとリクエストされた。彼は赤い口紅を嫌っていたし、ゴッホゴーギャン区別ができなかった。

私には彼の趣味がよくわからなかった。磯山さやかかわいいし、キロロの「長い間」はいい歌だし、インディペンデンスデイは今日の土曜ロードショーだった。それらの良さがわからないわけではないが、そういうものを「良い趣味」だと感じることは難しかった。これからも難しいと思う。

彼は、私が赤い口紅をつけると「ちょっと派手だな」と顔をしかめた。彼とデートするとき、私はピンク口紅をつけ、赤文字系の店で購入したワンピースを着るように心がけた。彼はとても優しく、マメ性格で、仕事を精力的にこなしており、私はそんな彼が好きだった。ただ時おり漠然と、「この人は私のパーソナリティーにあんま興味なさそうだな、興味ないってか私の趣味領域について考えたこともなさそうだな」と思って寂しくなった。

結局、「早く結婚して子どもが欲しい」という彼の期待に応えることができず、半年もたたず破局した。

そのすぐ後、ものすごく趣味があう男性出会った。彼は当時26歳だったので、年齢も近い。ただ、「この人とは年齢が離れてても話があうだろうな」と思うような人だった。

彼の好きな芸能人二階堂ふみ好きな音楽くるりtofubeats、好きな映画ダージリン急行だった。ガロ系漫画町田康小説が好きで、とにかくサブカル臭がすごい人だった。恋に落ちるのに1秒もいらず、私は久しぶりに赤い口紅をつけて彼とデートを重ねた。彼は私の口紅をほめてくれた。音楽映画小説お笑い、彼の話はどれも面白く、「世の中にこんな趣味のあう人が存在しているんだ」と私は有頂天になった。彼は無精な性格で、仕事への情熱はあまりなかったが、それでも私は彼を好きだった。

しかし、彼とは2回目のセックスのあと連絡がとれなくなってしまった。「愛してる」、でもまさかね、そんなこと言えなかった。彼とはそのまま終わってしまった。

趣味があわない人とも、あう人とも、私の恋は上手くいかなかった。

2017-03-24

高橋留美子と言えば

その神のごとき外れない多産っぷりが有名ですが、以前展覧会で知った本人の言葉に深く納得したことがありました。

「ねえ、漫画を書く以上に楽しいことって、本当にこの世にあるの?」



2億冊突破に寄せて。

2017-03-13

http://anond.hatelabo.jp/20170313092932

ほんとこれなんだよね。

関西に住んでいた人に、「埼玉古墳あるから」といっても響くわけがない

奈良は「なんかしらんけど、裏山が古墳です」みたいな土地だし

石舞台古墳百舌鳥古墳群あたりの有名どころが日常にあった人に対して、

関東古墳提案されても「へーじゃあ足を延ばして見に行こうか」なんて思う人は

よほどの古墳好きだし、そういう人はすでに行ってるだろう。

美術館博物館薦める人も多いけど、

確かに価値ある展覧会東京しか見れないものも多いので、私も上京した当初は楽しみにしていたが、

人気館は、土日は死ぬほど並んで、やっと入れたら大混雑、立ち止まってじっくり見ることすら許されない。

ベルトコンベア状態の観覧なんか落着けないので行かなくなった。

増田が言いたいのは本人も書いているけど、「特別凄いものがあるわけでもないところに人だけが凄い」ところで

場所にしてもイベントにしてもお店にしても食べ物にしても、実は大したことがないものを「これは凄い!」と煽って大行列になるのって

東京あるある」なんじゃないかと思う。

じゃあ何がおすすめできるかというと、

もし増田寺社仏像が好きなんだったら、関東では期待に応えられないから諦めろ。と言うしかない。

興福寺阿修羅像程度であんなに行列ができるのが東京なのだ

ただ、東京のお神輿が出てくるお祭りは、江戸っ子って感じで関西では味わえない魅力があるし

伯爵侯爵が住んでいた西洋建築物赤坂迎賓館(事前申込制だが)などの明治時代建築物庭園お勧めできる。

西洋建築物はかつて神戸にも多くあったが、阪神大震災で壊れたものが多いので、

日本橋三越でも私は充分わくわくできる。

2017-02-26

http://anond.hatelabo.jp/20170225153320

「夢」の捉え方はそれぞれで良くないですか?

>私にとっての夢は特定の職に就くことではなく 自分の好きな時に水族館や、展覧会や、映画を見たり、何か素敵な体験をする事なのでそもそも社会と夢の捉え方がズレている。

特定の職に就職することが夢とされるのは何故だろう? 仮に先生になりたいとして、大学に行って勉強し、教員資格を取り、めでたく学校採用されたとする。これで先生と呼ばれる立場にはなったけど、それは法的にそうというだけで経験的にはまだ新米のはずだ。それを夢が叶ったと表現するのは私には違和感がある。

ある人にとってはあなたのように何処かに行くこと、体験することを夢とし、ある人にとっては職に就くなどの自己実現を夢とする場合もあります。人によって異なります

そしてその夢を実現し、次の夢を考えます。その繰り返しです。

>もしテーマパークに行くことが夢ならばその場所に足を運べば達成した事になるが、仕事継続するものなので採用が決まった時点で先生になった!夢が叶った!というのはおかしいと思う。どんな事でもそうだけど採用が決まった時点で完成している人などいないはずだ。

つの異なる事柄比較しているので、比較になっていません。

>生きていく為にはお金必要だ。仕事お金を稼ぐ手段であり目的ではない。

好きでやっていたことが仕事化し、社会貢献につながり、それでお金をいただくという事もあります

お金がほしいか仕事をしていたはずなのに、いつの間にか仕事をする事が目的になり、会社の皆もやっているしと流されてサービス残業…なんてことになってないかな。

誰しもがお金がほしいという目的だけで仕事をしていません。

>私は子供の時、学校の授業で夢を発表しなければならなかったのにどうしても浮かばなかったのででっち上げてその場を凌いだ。「将来の夢」という言葉は「将来の仕事」を指す言葉になっている。

全員仕事について話していたでしょうか。子供の頃の記憶なんて曖昧です。

それに、学校では「将来の夢というテーマについて考える事」を教育していたのではないでしょうか。

仕事も私の夢もやりたい事には変わりないと思うけど、「将来の夢」の認識は変わってほしいと思う。

今後どのような道に進むかを考えることは重要だけど、別に仕事が夢じゃなくてもいいはず。もしかして夢見ることさえも許されてない?

あなた「夢」に関する認識が変わってほしいと切に願います

http://anond.hatelabo.jp/20170225153320

なぜかというと、私にとっての夢は特定の職に就くことではなく 自分の好きな時に水族館や、展覧会や、映画を見たり、何か素敵な体験をする事なのでそもそも社会と夢の捉え方がズレている。

ズレてない

極めて普通

ノーマル

2017-02-25

将来の夢とは何か

あなたの将来の夢は何?」

私は今までにこの質問をされてもうまく答えることができなかった。

なぜかというと、私にとっての夢は特定の職に就くことではなく 自分の好きな時に水族館や、展覧会や、映画を見たり、何か素敵な体験をする事なのでそもそも社会と夢の捉え方がズレている。

特定の職に就職することが夢とされるのは何故だろう? 仮に先生になりたいとして、大学に行って勉強し、教員資格を取り、めでたく学校採用されたとする。これで先生と呼ばれる立場にはなったけど、それは法的にそうというだけで経験的にはまだ新米のはずだ。それを夢が叶ったと表現するのは私には違和感がある。

もしテーマパークに行くことが夢ならばその場所に足を運べば達成した事になるが、仕事継続するものなので採用が決まった時点で先生になった!夢が叶った!というのはおかしいと思う。どんな事でもそうだけど採用が決まった時点で完成している人などいないはずだ。

生きていく為にはお金必要だ。仕事お金を稼ぐ手段であり目的ではない。

お金がほしいか仕事をしていたはずなのに、いつの間にか仕事をする事が目的になり、会社の皆もやっているしと流されてサービス残業…なんてことになってないかな。

私は子供の時、学校の授業で夢を発表しなければならなかったのにどうしても浮かばなかったのででっち上げてその場を凌いだ。「将来の夢」という言葉は「将来の仕事」を指す言葉になっている。

仕事も私の夢もやりたい事には変わりないと思うけど、「将来の夢」の認識は変わってほしいと思う。

今後どのような道に進むかを考えることは重要だけど、別に仕事が夢じゃなくてもいいはず。もしかして夢見ることさえも許されてない?

2016-12-08

女性性の代償

恵比寿マスカッツ仮面女子ユーチューブ動画を見ていて、思った。

女性代用なんだなって。

ラブドールとかに近い。

  

近年、なぜAKBアイドルがこんなにもてはやされるのか理解できなかったんだよ。そもそも。

風俗行けよって思ってた。

しかし、実際に彼女たちの映像見てて思ったのは、「こんなに楽しそうで不快感の無い女性は作らないとできない」ってこと。

テレビだの、アイドルグループだのっていう枠がないと無い。

まるで剥製とか、昆虫採取のピン止めされたやつみたいな。自然状態女性はナカナカその美しさを理解できないけど、剥製にした熊や、ピン止めされた昆虫は美しいみたいな。

  

まりアイドルとかって、女性的なものを、切り取ってるんだなって。

  

もっと前の日に、箱入り娘とかい地下アイドルライブを見に行った。

わずか3000円である中学高校の、クラスで一番かわいいくらいの娘が、禿げたデブおっさんの観客に媚びを売りまくっている。

甘酸っぱい恋愛の曲を歌いながら、途中のトークで、「〇〇ちゃん押しの人は、〇〇ちゃんにそういう気持ち持ってるかもねー」→「テレテレ」みたいな。

いやいや、俺もだけどさ、オッサンたちしかいないのよ、観客席。

それに対して、クラスで一番かわいいレベルJC,JKかいう間違えたら犯罪クラスじゃないですか。

もう、見ていられなくていたたまれなくて、1時間も立たずに会場を逃げ出したんだけどさ。

なんか、犯罪みたいで怖かったんだよね。

  

でもあれでしょ、AKBですら、会いに行けるんでしょ。この子たちも、多分チェキとかでおっさんに抱き着いて写真撮るんでしょ?

いやいや。青春時代に、クラスで一番の美少女ツーショットなんてとれたやつ、どれだけいるんだよ。しかも、向こうが全力で媚びて笑顔でしょ?

こんなの、無いよ現実なら。

  

アイドルや、地下アイドルがすごいのはわかった。

しかし、もっといろいろある。AV二次元はどうだ。

二次元ばっかりやり玉に挙げられるけど、AVアイドルも似たようなもんだろ。

女性女性性を切り出して、展覧会してるわけだ。

それが、ここ数年、いや10年くらいか?一気に加速してるように思う。

サクッと生活になじんじゃってるんだよ。

俺、将棋番組日曜日に見てるんだけど、そこに、伊藤かりんっていう乃木坂46のアイドルが出てくるの、毎週。

顔だけで言えば、伊藤かりん別にきじゃなかったのに、「将棋やってる」という要素で、どんどん好きになった。

これヤバいね。コレで通るんだから、どっからでもファンが出るわ。

恐ろしいよ。「将棋やってるかわいい娘」なんて、想像産物しかなかったのが、ナチュラルに実現されるわけだから

この商法やばいよ。

  

なにを目指しているんだ?

そこに需要があるらしいことはわかるが。

じゃあそれでリアル女性をあきらめられるってことなのか?

それにしちゃー欲求がどんどん加速しているように見える。

ニンジンを鼻頭にぶら下げられて走る馬なんだろうか?

  

なんだか、恐ろしくなる。

どういう需要があるのか、この先に何があるのかが見えてこない怖さがある。

  

衝撃的だったんだよね。恵比寿マスカッツがクッソ面白いから

AV女優なんて、メンヘラ社会の隅っこでやくざと同じジメジメした世界と思ったら、イキイキと女の子女の子してる。

そういうのってマジで衝撃。

AV女優人間として見ていなかったからだろうね。

マジで人間なんじゃんってのを見て、恐ろしくなった。

  

からない。

女性性を要素要素で細かく提出してきている資本主義社会

イッタイ、この先どうなってしまうんだ。

2016-10-14

あいちトリエンナーレのラウラリマ作品についての要望

あいちトリエンナーレ実行委員会事務局 様

現代アート愛好家であり愛鳥家のひとりとして、意見を申し上げたいと思い、メール差し上げるとともに、郵送いたします。同時にウェブでも公開します。2つの要望があります

(1)展示を即時中止してください。

ウラリマ氏による『フーガ』に関して、ずさんな管理によって鳥を逃がしたり、病鳥を放置したり、適切な環境を整えないなど、目を覆いたくなるほどの展示がなされていたことを知りました。鳥に対して明らかな虐待行為が行われ、また会期終了後の鳥の扱いが宙に浮いたまま、その場しのぎの対策が行われました。このことは、多くの現代アート愛好家と愛鳥家を悲しま失望させました。

この作品小鳥いのちを軽視し、いのちの尊さを毀損していますアートコンセプト「想像力結集した創造の旅」というメッセージのもと、小鳥たちのいのちが傷めつけられるのを目撃するのは愛鳥家として胸が張り裂ける思いです。そればかりではなく、上記の鳥の扱いは、「動物の愛護及び管理に関する法律動物愛護法)」、「愛知県動物愛護及び管理に関する条例」及び「豊橋市動物愛護及び管理に関する条例」に違反しています

(2)批判を受けた件について、説明責任があります

創作したラウラリマ氏、国際展キュレーターダニエラ・カストロ氏、チーフキュレーターの拝戸雅彦氏、芸術監督港千尋氏、及び実行委員会委員長の、この作品継続に対するそれぞれの公式見解を求めます。「無限想像力結集」した「創造の旅」というコンセプトのもとで展覧会を開催したにもかかわらず、寄せられた多くの批判沈黙したまま、作品公開を継続するというのは、アートや鑑賞者に対してあまりにも無責任姿勢です。展示終了まで、まだ時間が残されています。この件で、現代アートに対する不信感が愛鳥家をはじめとする多くの動物愛する人々に広がっています。一刻も早く、アーティストキュレーター芸術監督、及び実行委員会委員長による見解公式サイトで明らかにしてくださるよう求めます

平成28年10月14日 一愛鳥家

2016-09-20

海外が凄いという風潮が嫌い

僕は京都大学に通っている.元々東京で育っていたがその大学への憧れと京都に住みたい実家を飛び出したいという気持ち京都大学への受験を決めた、そして何とか拾ってもらい今京都に住んでいる。

大学生になって実感したのは周りの人間がどんどん海外に行くということ。高校同級生と久々の同窓会で再会したときも、夏休みに数カ月留学してたんだとか、今度どこどこの国に行くとか、そういう話ばっかだった。

そういう人間は多かれ少なかれ海外に行ったことを示すためにTwitterFacebook写真投稿する。どんな人もまあそうするよね海外風景なんて珍しいんだから

でも行って何をしたかって言ったらサバイバル力磨いただけじゃないの?正直海外に行くことで何を得ているのかよく分からない。

単純に海外旅行に行って遊んできました~ならうわ羨ましいなお前でいいんだけど、留学、これは本当に何をしているんだ?

例えばサッカー選手海外に挑戦するみたいに、よりレベルの高い環境自分の力を試すなら分かる。自分の専門についてその本場で学びたいと言うのならよく分かる。「○○先生のところで勉強したくて!」って理由なら「おお頑張れよ!」って思える。

でも、大抵の留学に行く人間ってそういう理由で行ってないだろ?他人とは違う経験がしたいから、その場にあった留学に飛びついたんじゃないの?お前は何しに海外に行ってんだ?

1回気になって留学に行く人に「なんで留学に行くの?」って聞いたことがある。そしたらそいつは「なんでだろうね。でも行きたいんだ。君は留学行きたくないの?」って答えやがった。ふざけるな真面目に考えてくれよ。

正直に言って俺は英語が苦手だ。文章を読むことは出来るけど会話は絶望的に出来ない。これはまあ中高の英語教育が(喋ることを重視し始めているとは言っても)読み書きに偏重しているから、そういう訓練を積んでいない、それだけだ。

京都という土地外国人に道を聞かれることは多い。そういう時「OK」「there(指差し)」「I don't know」ぐらいしか言えないぐらいにはクソな英語力だ。しかも超キョドってる。我ながらひどい。

から、そういう英語弱者コンプレックスから海外に行く人間を妬んでいるのかもしれないって自分でも思うよ。でも、だからこそ海外に行くメリットをちゃんと教えてくれよ。英語の出来ない俺を見捨てて海外に行かないでくれ。

海外に行くのは凄く怖いことに思える。



http://www.suzutaro.net/entry/2016/09/18/174626

でもこういう記事を読むとやっぱり本当にムカつくんだよな。大学に通っていても勉強してないのはお前だろ。そういう留学に行く人間の方が授業を真面目に聞かないんだろ。ふざけるな。

俺は今京都大学で凄く授業が楽しいよ。そりゃ眠くなったり、全然集中出来ないときだってあるけど、それでも授業受けるだけでどんどん自分の中で知が広がっていく。特に哲学の授業なんかはこれまで考えもしなかったことを考えるんだ。俺はデカルト認識論観念論現象学講義を受けたけど今まで知らなかったことしかなくて本当に面白かったよ。でも友人はLINEで突然「○○の授業ってレポート課題出てたっけ?」とか試験直前に「○○の授業取ってるー?」とか聞いてきやがる。

今まで授業で一回も見なかった人間だ。他にも、授業後に「今の授業聞いてた?笑」とか聞いてくるやつだっている。興味ないなら来ないでくれよ。興味ないのに来るならもう少し申し訳なさそうにしてくれよ。。。

大学は授業出てるだけで面白いことはたくさんある。最初からそれを無視して勝手大学講義はつまらないとか行く価値がないとか言い切らないでくれよ。

上に貼った記事でも「ただ大学卒業して、」って書いてあるけど、それ自体面白いだって

他にも日本楽しいことはたくさんある。怪しげな地下イベントとか行ったことあるか?テレビタモリ倶楽部見たことあるか?展覧会は行ったことあるか?

本を読んだことはあるか?京都古本屋がたくさんある。古本屋で棚から棚へ視線をじっくり動かして掘り出し物探したことあるか?映画は行ったことあるか?ただあてもなく散歩したことあるか?何も考えずに路地裏を探検したことあるか?

毎日生きているだけで精神的に充実させることが出来てしまう。インターネットいくらでも面白い記事が読める。YouTubeMVを見てるだけで一日が終わったことがある。毎日生きるだけで楽しい。なあ、日本ってそんなにつまんないのか?

別にそんなことないだろ?京都にいるだけでも毎日を充実させようと思ったら出来てしまう。だから特別日本がつまらないって俺は思わない。

日本の文化面白さって言ったらなんか薄っぺらいけどさ、でも面白さはあるんだよ。日本の文化っていうよりもうそ自体面白い価値はよくわかんないけど好きだってものが。

から日本を軽く見て海外に目を向ける大学生はまずもっと毎日生活を見つめてみようぜ。音楽でも文学でもアカデミックでもスポーツでもゲームでも何でもいいからハマれるものにハマってみようじゃんか。

意外と面白いものって視界のすぐ外側とか隅っこにあったりするんだって。だから安易日本を捨てて海外に行くなんて言うなって。海外に素晴らしいものもたくさんあるだろうけど、日本で生きていたって十分面白い

2016-06-28

増田を書いて1ヶ月

さっき初めて個々の記事にどんな反応があったのかを見る方法を知った。

真面目なものからレトリックを駆使したものまで数本書いたけど、結局反応が多かったのは、他の記事漠然と見渡して「こんなのが良いのかねえ」と半信半疑で書いたような超やっつけの代物だった。

恋愛だのアニメだの身近な話題で、とにかく愚痴っぽく、くだくだしく、何かに対する不平不満を出来るだけ主観的言葉で延々と垂れ流す。

主張の筋が通ってる必要はない。それどころか、ナンセンスすぎるくらいでちょうど良い。

最初最後で言ってることが違っても気にしない。

無理矢理いちゃもんをつけるのに必死過ぎて、小学生でも言わないような屁理屈になっていても気にしない。

自分で書いてて、あまりにも話がとっ散らかり過ぎだろうと思ったくらいでも、全然問題はなかった。

しろ、それが良かったのだろう。

読んで勉強になるような耳に新しい話よりも、自分でも完璧理解出来るぞと思うような話題で、自分の方が頭が良いぞと思えるような突っ込みどころの多い記事が「彼ら」のテイストなのだ

ロジックの穴は多ければ多いほど良い。

わざとらし過ぎて、俺なら相手するだけむしろ恥ずかしいと思うような破綻ぶりでも、むしろかえって丁寧に突っ込んでくれる。

なんてくだらない「言論空間」だろう。

ここで行われているのは終わることのない資源無駄遣いだ。

馬鹿馬鹿を書いて、それを大喜びで歓迎する馬鹿が嬉々として更なる馬鹿をそこに付け足す。

何の生産性もない。恨みと溜飲がひたすら溜め込まれていくだけの集積場。

集団幼児退行の展覧会

精神的に向上心のないもの馬鹿だって学校で教わらなかったのか。

昔のはてなはこんなところじゃなかった。

日本人は退化してしまった。

くだらない、実にくだらない。

自分はもう二度とこんなサイトには近づかない。

今後も君たちがこの空しい人生の浪費を続けていくさまを、生暖かい目で見守っていてやろう。

せいぜい、このまま自分たち知的遊戯に耽っているとでも勘違いしてれば良い。

ああ、時間無駄にした!

2016-05-15

今日が最終日の展覧会など

浅草 三社祭 -5/15

表参道 根津美術館国宝 燕子花図屏風」 -5/15

上野 東京国立博物館 「生誕150年 黒田清輝日本近代絵画巨匠」 -5/15

上野 東京藝術大学奏楽堂 「サティとその時代 世紀末からベル・エポック今日は一日、サティの日」 5/15

竹橋 東京国立近代美術館安田靫彦展」 -5/15

渋谷神泉渋谷区松濤美術館 「頴川美術館の名品」 -5/15

新宿初台刀剣博物館鈴木嘉定コレクション寄贈品展」 -5/15

清澄白河 無人島プロダクション小泉明郎展『空気』」 -5/15

銀座 教文館ウェンライトホール偕成社子どもの本とあゆんだ80年」 -5/15

銀座 メゾンエルメスフォーラム 「YÔKAÏNOSHIMA シャルル・フレジェ展」 -5/15

両国 江戸東京博物館近代百貨店誕生 三越呉服店」 -5/15

武蔵小金井 中村研一記念小金井市立はけの森美術館 「開館10周年記念 中村研一回顧展」 -5/15

浅草橋 TODAYS GALLERY STUDIO 「ふともも写真世界展」 -5/15

2016-03-24

http://anond.hatelabo.jp/20160323192417

ゲーム自体プレイしたことはないので推測だけど、

知識欲を刺激される面もあるのでは。

刀剣それぞれの背景とかエピソードみたいなものを知る喜びと、

それに沿ったキャラクター性格が設定されているわけでしょう。

刀剣関連のニュースでよく目にするのは実際に美術館などの展覧会へ足を運ぶファンが増えてるという話でもあるので。

このあたりは戦国武将に対する興味だったり、戦艦とか戦車とか戦闘機とか銃器類、鉄道、その他諸々、

どちらかというとコレクター趣味みたいな面もあるのかも。

2016-03-03

[]日本大邸宅の庭の置物として売られていった…高麗初期の石塔が80年ぶりの帰郷

1935年、無断で日本に持ち出される…所蔵者を説得して韓国

朝鮮の石造の品が人気だった植民地時代違法な持ち出しの規模は把握されず


1935年11月26日東京上野公園で大規模な展覧会が開かれた。

タイトルは「時代民芸石灯籠展覧会」。

日本朝鮮陶磁器や木製の器具など2500点、石造の品100点、織物350点が展示された。

見事な美術品の間でひときわ目立ったのが、朝鮮から渡ってきたさまざまな石造の品。

高さ2.9メートルもある「新羅三層石塔」をはじめ、朝鮮の石灯、小型石塔、石人などが人気を集めた。


世界的な骨董(こっとう)商だった山中商会が主催したこの展示は、実は売るために物を並べた競売展だった。

山中商会は図録で「数年にわたって収集した朝鮮古代の各種石造物を展示し、見どころを豊かにした」と宣伝した。

最初の二日間はVIPを招待し、続く三日間は一般に公開、ほとんどの品を売り切った。

威風堂々たる「新羅三層石塔」は11月28日、ある日本人コレクターに売られた。

そのコレクターは、佐賀にある邸宅庭園石塔を運び、生涯これを鑑賞した。

当時一緒に購入された朝鮮の石灯や石人などは、駐車場などあちこちを飾った。


植民地時代に無断で日本に持ち出され、80年にわたり個人宅の庭園の飾りと化していた三層石塔が、故国に戻ってきた。

学古斎ギャラリーの禹燦奎(ウ・チャンギュ)代表は「10年かけて日本人の所蔵者を説得した末に購入し、昨年11月韓国へ持ってきた」と語った。

石塔研究している檀国大学のパク・キョンシク石宙善記念博物館長は「新羅の塔と誤認されたが、新羅塔の様式継承した高麗初期の石塔。堂々としていて素晴らしい比例の美が際立ち、新羅から高麗に至る過渡期的な建築様式が生きている秀作」と語った。

石塔運命は数奇なものだった。

朝鮮のどこにあって、いつ持ち出されたのか、正確な記録はない。


『石造文化財、その受難歴史』の著者、チョン・ギュホン氏は「朝鮮において塔や仏塔宗教的意味合いが強い上、村の象徴などとして尊ばれており、個人の所有物だとは考えられなかった」と語った。

また、石塔研究しているシン・ヨンチョル梁山市立博物館長は「贈り物としても数多く海を渡った仏像仏画とは異なり、日本にある韓国の石造の品のほとんどは、植民地時代違法に持ち出されたもの」と語った。


当時、日本では朝鮮の石造の品を「観賞用」として購入し、庭園に据えることが流行した。

石造りの物への需要が爆発的に増えたことを受け、士大夫知識人官僚階級)の墓にある「魂遊石」まで持ち出したという。

1933年11月大阪で開かれた山中商会主催競売展では、澗松チョン・ヒョンピル(1906-62)が日本のある財産家と最後まで競り合って「統一新羅三層石塔」などを買い入れた-という逸話もある。


現在日本韓国石塔がどれだけあるのかについては、おおまかな数字を把握することも困難だ。

1965年の「文化財および文化協力に関する協定」で返還された文化財の中に石塔類が含まれなかったのも、ほとんどが個人の所有だったから。戻ってきた「高麗三層石塔」は現在ソウル市昭格洞の学古斎新館横に立っている。

引用ソース

http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=shm&sid1=103&oid=023&aid=0003148851



>>植民地時代に無断で日本に持ち出され、80年にわたり個人宅の庭園の飾りと化していた三層石塔が、故国に戻ってきた。

>>石塔運命は数奇なものだった。朝鮮のどこにあって、いつ持ち出されたのか、正確な記録はない。

矛盾認知できない」という病気


>>1933年11月大阪で開かれた山中商会主催競売展では、澗松チョン・ヒョンピル(1906-62)が日本のある財産家と最後まで競り合って「統一新羅三層石塔」などを買い入れた-という逸話もある。

チョン・ヒョンピルとは朝鮮人と思われる。

1933年というと日韓併合の真っ最中

そのころの朝鮮人はひたすらニッテイに収奪され、創始改名強要され、過酷植民地支配にあえいでたのでは?

なんで競売普通に参加してるのか?

矛盾認知できない」という病気

2016-02-01

http://anond.hatelabo.jp/20160201155321

例えばそこらへんで買った便器展覧会に出品するとして、

それをアートか否か(良し悪しでない)を定めるのは、

観覧した際の個人的心象でなければ、技巧の巧みさでもなくて、

「なんでこれを出品したいのか、

どういう状況になることを狙ったのか、

何を目的としているのか」

という疑問にちゃんと答えて納得させられるかなんだわ。

美的感覚アートの捉え方は各々違うわけだから

根底にある思想提示できなければ

観てる方も直感的な好みの判断しか出来ないし

それじゃ伝えたいことが伝わらない

今回の関係者は「面白そうだったから」とか

常識にぶつからなければアートは何もできない」というようなことしかいってないはずだけど

それじゃどうも、このパフォーマンスを通して結果として何を残したかったのか見えてこない

ましてワークショップ形態で何も知らない人々を巻き込んで

特に何も考えてませんでした、面白がってもらえると思ったんですけど」という態度は

浅はかだとか不遜を通り越して無責任だよ

2016-01-02

正月で暇を持て余している東京の人へ

美術館に行ってはいかがでしょうか?

以下の4館はお正月特別公開で所蔵品展(常設展)の入場料が無料ですよ。

2015-12-05

褒められたい人生だった

子供の頃から割と何でもできる子だった。

自転車もすぐ乗れたし、幼稚園の頃から漢字の読み書きもできた。

持ち前の好奇心記憶力の良さから勉強不自由したことはなく、

4月まれなので体も大きく、運動にも苦労しなかった。

そして気付いたら「できて当たり前の子」になっていて、特に褒められた記憶がない。

からわざと大人受けの良さそうな作文を書いて賞を取ってみたり

大好きな絵をたくさん描いて展覧会に出品してもらったりもしたけど、

私の心はどんどん冷めていくばかりだった。

親や教師は転びながらも頑張る子を高く評価した。

からわざと転んでみたりもしたけど「あなたにしては珍しい」と言われただけだった。

もっと特別にならないといけないと思っていた。

すごいことをやらなければならないと思っていた。

その呪縛は長く私を苦しめ、正直今も時々苦しんでいる。

私は天才でもなんでもない、ごくごく凡人であるのだから

誰か褒めて。

あなたあなたのままでいいと、よく頑張ったねと、一度でいいから言われたい。

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