はてなキーワード: 展覧会とは
美術鑑賞関連の話ね。
ところで上野の森美術館は良く言えばチャレンジ精神旺盛の,悪く言えば話題先行で中身が伴っていない企画展が多く,当たり外れが大きい。面白そうでも尻込みしそうになるのだが,今回の展示は大変良かった。「怖い絵」展くらいから変わってきたのだろうか,それとも偶然かはわからないが,ここ最近は中身が伴うようになってきた。この感じだと次のフェルメール展も,あまり怖がらずに見に行ってよいのかもしれない。
「nix in desertis:科学技術史上の稀覯本の森」からの引用。おもしろい記事だったが、この点引っかかった。
フェルメール展って、上野の森でやる東京展ではフェルメールが9点展示されるのね。現存するフェルメール全35点中の9点、25%超。もちろん彼の作品にも良し悪しはあって、上から9点が来るってわけではない。にしても、フェルメールが9点だ。彼なら3点あれば展覧会が成立する。それが3倍あるのだから、これだけでまったく十分だよね。他の作品がすべてゴミクズであっても構わない。解説が間違いだらけのデタラメ放題だって問題ない。展示の仕方に問題があって、作品の魅力を大幅に損ねていたら拙いが、さすがに歴史ある上野の森がそんなヘマをするはずがないだろう。この人は何を怖がらねばならぬと思っているのか、はなはだ疑問だ。
以前とある人のツイートに文句を言ったことがある(ルーヴル美術館展に意味はないのか?)。最後に俺はこう皮肉った。
最後に、本題とはずれるが、ひとつ。美術ってなによりも作品ありきだと思う。研究も大事だけど、まずはやっぱり作品だ。先に引いたツイートの「良い作品もあったけれど(略)何も残らなくて」との言。いい作品見て何も残らない人が美術作品を見る意味とは。
玄人、もしくは玄人ぶりたい人ってともかく作品を軽視する。いい作品がでていれば、鑑賞者にとっての展覧会の意義はほぼ満たされるのだが、どうやらそういった素人くさい(と彼らが考える)立場に留まっていることが許せないらしい。
繰り返すが、フェルメール展はフェルメールが9点来るだけで十分なのだ。それは、わかりやすく素人でも楽しめる展覧会だ。であればこそ、こういう人たちは、なにか一言二言文句を言うケチをつけることによって、自分はこんな展覧会を単純に喜ぶ一般人どもとは違うのだと示したがる。そういうめんどくささが散見される展覧会になるんだろうなと。うざい。でも、それはそれで少し楽しみかもしれない。
人権問題である。と同時に、さらに言えば、障害者に厳しい世界というのは、健常者にとっても厳しい世界という話でもある。混雑した展覧会は私も辛い。
健常者に何も齎さない癖に権利ばっかり要求する五月蠅い障碍者のいない世界のほうが健常者に優しいよ
対策。人を減らすのなら値段を上げる、時間指定制にする、展示内容をしょぼくすると手はいろいろある。
ただ、博物館側には集客をしろというプレッシャーがかかっているという話を聞かないでもない。とすれば、この方向の解決は難しいだろう(時間指定の展覧会に行ったことないのだが、どの程度入れるものなのだろう?
しかも障碍者って安い料金しか払ってないじゃん。制限を受けて当然だろ。
まずできることは、その場にいる人が、障害者や子供や老人などの弱者には譲るという優しい心を持つあたりだろうか。しかし、そういう精神が浸透することこそ、あらゆる対策より困難なのかもしれない。
譲ってもらって当然と思う輩に譲る心などない。人の善意にすがる乞食が偉そうに何をほざく。
お情けが降りてくるのをおとなしく待ってろ
この前、東博平成館の縄文展に行った。会期末で混み合っていると評判だったから、夜間開館日を選んだんだが、もうこの制度は浸透してしまったらしく、残念ながらひどい混雑。展示品を見るのに一苦労で、広い会場を一巡りしたらクタクタになってしまった。
とはいえ、私は健常者の成人男性だ。空きをみて前に滑り込む機敏さや、後列から人の頭越しに見る背の高さがあるので、比較的苦労は少ないはず。老人や子供の苦労がしのばれる。
しかし、それ以上に大変なのは車椅子の人だろう。座ってるから視点が低いし、人混みの中に分け入っていくのはぶつかって危険なので遠慮してしまう。今回2人見かけた。おそらく殆ど展示を見れていないはずだ。
1974年、モナ・リザが来日した。展示されたのは東博の特別5室。このとき事件が起きた。赤い塗料の入ったスプレーがモナ・リザ目掛け噴射されたのだ。
このモナ・リザ展は相当な混雑が予想されたため(結果、8週ほどの会期で150万超え)、展覧会前に、車椅子や赤ん坊連れの人の観覧自粛を文化庁が要請した。対応出来ないから来ないでくれという趣旨の発言がなされたのだ。それに対する抗議としてのスプレー噴射だった。まあ、そりゃ怒るわな。
その事件がきっかけとなったのか否かは知らないが、40年以上たった現在、各地の博物館や美術館はバリアフリー化が進み、また託児所が臨時ながらも設けられるなどして、状況は劇的に改善していると言っていいだろう。
しかし、今回このような状況に遭遇して、まだまだ道半ばだなと思った次第。車椅子の人でもエレベーター完備なので会場に入れるし、会場内は段差がないから回るのに不便はない。障害者に優しいユニバーサルデザイン。でも結局、展示品なんて満足に見れないじゃないか!
人権問題である。と同時に、さらに言えば、障害者に厳しい世界というのは、健常者にとっても厳しい世界という話でもある。混雑した展覧会は私も辛い。
なら行かなければいいのではないかと言われるかもしれない。まあ、実際私は、行かなかったり、会期初めの空いている時に行くようにしていて、それほど苦労はない。そもそも一番好きなのはマイナージャンルなので、本命展覧会はあまり混まないし。そんなわけである程度は人ごとながら、しかしこの状況を放置していていいのだろうかと、今回思った。
対策。人を減らすのなら値段を上げる、時間指定制にする、展示内容をしょぼくすると手はいろいろある。ただ、博物館側には集客をしろというプレッシャーがかかっているという話を聞かないでもない。とすれば、この方向の解決は難しいだろう(時間指定の展覧会に行ったことないのだが、どの程度入れるものなのだろう? 上野の森のフェルメール展はぎっしり詰めそうな悪い予感がしないでもないが、はてさて)。
まずできることは、その場にいる人が、障害者や子供や老人などの弱者には譲るという優しい心を持つあたりだろうか。しかし、そういう精神が浸透することこそ、あらゆる対策より困難なのかもしれない。
以下、余談。
東博にある法隆寺宝物館という建物、訪館者にすこぶる評判がいい。確かにフォトジェニックな点は魅力である。設計は谷口吉生。
だが、私はこの建物があまり好きではないのだ。いくつかある理由の一つが、障害者対策である。
もちろん、対策はされている。入り口の段差にはスロープがあるし、館内にはエレベーターが備えつけられている。しかし、そのスロープは端っこに目立たぬように設置し、エレベーターも一見して分からないように隠している。
谷口本人が実際どのように思っていたのかは知らない。ただ私には嫌々対策したようにしか見えないのだ。それが建物からヒシヒシと伝わってきてしまう。評価してる人はそれを感じないのだろうか?
俺も新美はいろいろ好みでない部分も多いけど、素人向けの楽しい展覧会をやるから、結局よく行くのよね。まあ単なる催事場だと思えば、もろもろの問題は消え去る気がする。都美館も似たような立場だけど、まだ学術的な面に未練があるようで、素人には理解しにくい展覧会もなくはない。西美は玄人筋の評価高いけど面白くないなあという展覧会がちらほら。今のミケ展とか。
腹の立つ意見を目にしたので。
国立新美術館で開催中の展覧会「ルーヴル美術館展 肖像芸術——人は人をどう表現してきたか」。ルーヴル美術館所蔵品の中から肖像芸術をテーマに絵画や彫刻を集めた展覧会で、来場者数30万人を突破する人気ぶりながらも、玄人筋の評価は低い。たとえばこんなツイート。
ルーブル展、確かに良い作品もあったけれど、なんというかあんまり何も残らなくてさびしくなってしまった。人はたくさん入っていた。「ルーブル展」という名を冠し、膨大な保険料と広告料を支払い、そうしてこの展示をやる意味をどう見出しているのだろうかとかんがえてしまった。
30万を超える来場者の多くは楽しみ、喜び、感動したろうに、そんなことには意味がないと、この人は言いたいのだろうか。
本展に限らず、一般に美術館展というのは一部で評判がよくない。展覧会には学術的に意味があるべきだ、学術的意味のある展覧会こそ評価されるべきだという考え方があるからだ。調査研究の成果を示す、新たな見方を提示する、埋もれていたものを発掘する、展覧会というのがそういう場であると。もちろん、私もその考えには同意する。そして、この観点に立つと、いわゆる美術館展というのは、あまり評価できないものになるわけだ。所蔵品のうち、数点から十数点の名品とその他の数合わせ作品を、適当なテーマを作って持ってくるだけのものだから。
しかし、それでも私は、こういった美術館展が好きで足を運ぶし、開催してくれる関係者の人たちには感謝に堪えない。というのも、こういった展覧会では、少なくとも1つは、心に残るようなお気に入りの名品があるから。1点出会いがあれば、入館料なんて安いもんだと、私は思ってる。
ヨーロッパに行けば、そんな出会いはゴロゴロしてるぞって言うかもしれない。まあ、その通りだろうね。美術館展を批判している人を見ると、たいてい何度も海外に行っている人だ。でも、世の中気軽に海外に行ける人ばかりではない。私もその一人。そういう人間にしてみれば、少ないながらも名作を日本に持ってきてくれるのはありがたい話なんだよ。国立西洋美術館をはじめ、日本にも西洋美術のコレクションはあるし、それなりにがんばっているとは思うけど、ルーヴル美術館展その他の美術館展を腐せるほど、充実したものではない。
以上が、ルーヴル美術館展をやる意味の1つ。日本にいい作品を持ってきて、日本在住の人にいい作品との出会いを提供する。子供、若者、貧乏人。時間がない人だっているし、病気などで海外は難しい人もいる。十分意味あることでしょ。
もう1つ挙げると、これルーヴル美術館に多額のお金が入るわけだよね。そのお金はルーヴル美術館の運営資金に充てられる。つまり文化財の保護や修復、施設の維持、スタッフの給料、研究費などに用いられるわけだ。これって意味のあることじゃないの?
国内外の美術館・展覧会に足繁く通っていると、内容が薄いながら素人受けする展覧会に苛立つということもあるのかもしれない。でもそれって単にnot for youなだけなんだよね。見下して腐すという行為は醜い。
最後に、本題とはずれるが、ひとつ。美術ってなによりも作品ありきだと思う。研究も大事だけど、まずはやっぱり作品だ。先に引いたツイートの「良い作品もあったけれど(略)何も残らなくて」との言。いい作品見て何も残らない人が美術作品を見る意味とは。
りゅうちぇるにのっかって海外のためにもタトゥー解禁を、って言ってるブクマカは本当に馬鹿じゃないのかなって思う。
りゅうちぇるは「俺は温泉にもプールにも行かないよ」って現行のコードに甘んじてのっかる方向を選択して、そのうえで
※この点はりゅうちぇるが圧倒的に説得力がある。明文化されたルールのあるところには立ち入らないといってる人間、デメリットを甘受してる人間を叩く神経がナゾ。
りゅうちぇる叩いてるブクマカは一度呼吸を止めてみたらいいとおもうぞ。
あと、りゅうちぇるの親父が背中で展覧会してるのと、りゅうちぇる個人はあんま関係なくねえ?
そこでりゅうちぇる叩くのは筋悪だと思う
りゅうちぇるに乗っかって「タトゥー排除は悪い文化」と決め付けてなし崩しにルールを曲げようとしてるブクマカが醜悪。
何でもかんでものっかるんじゃねーよ。
別に公の場や公共の放送・広告で無駄に性的・女性蔑視的なものを垂れ流す必要はないと思ってる。
「別にこれぐらいの表現で・・・」と思うこともゼロではないが時代の流れだし別に良い。
もう九割以上の人間が数秒でネットにアクセスできる状況になってるんだから、
不特定多数の目に触れる場であえて過激な表現を開陳して耳目を集める必要なんてないのよ。
スマホ持ってれば10秒あればドギツイ無修正ポルノも見れるし、ISの首切り映像だって見れる。
全然ジャンルが違うけど、ゴア描写てんこ盛りの仮面ライダーアマゾンズとか上手くやってるよね。
これからはああ言う風に「見たい奴だけが見る」ってゾーニングを徹底すれば良いと思う。
だから今回の件で言えば、展覧会の開催中止まではまあ良しとするわ。
ただ危険な流れになってきてるな、と思うのはこの増田の指摘の通り
「弱者である女たちが作って消費するBLは尊ぶべき高尚なもので、
性的搾取側である男性が作って消費する百合は唾棄すべき俗悪なもの!」って論調が出始めてることだな。
「うるさい!弱者である自分たちの差別は良い差別!強者の悪辣な差別と違う!」ってのは流石に詭弁が過ぎる。
そういうところから無くしていかないと真の意味での平等は訪れんと思うぞ。
マジョリティ属性を持つ奴らには問答無用で投石していい、ってなったらマジョリティ内に新しい被害者が生まれるだけ。
これって平等でなく構図が180度反転して強者と弱者がスコーンと入れ替わっただけになっちゃうよね?
ましてやBLなんて「ゲイを性的搾取してる」という謗りを免れんジャンルの筆頭だと思うぞ。
はあちゅうが童貞叩きと無反省のせいでめちゃくちゃ反感買ったのもう忘れたか?
自分・身内の行動にはクソ甘い、自浄作用がない、って側面が露見してるのに
それを正そうとすらせずに開きなおるのはそれだけで説得力が大幅に減退する。
太もも展だか百合展だかの物販において、若い女を肯定的に描いたこの展覧会の写真集の購入者の半数が女性だったという話の引用できるソースが見てみたい。
よく女の敵は女というが、痴漢被害者に咎がないように太もも展の描くまなざしに共感する(男)女にも咎はないわけで、つまり単に若さへの嫉妬に燃える何かの敵である迷惑な(男)女がいるだけということが可視化されるよな。
地元コラボで炎上するのも大抵女性絵師が参加した時だけピンポイントで狙われるんだよな。男がいくらロリエロを描いてもコラボ文脈で問題になることはほとんどないのに。まあそれは力におもねって堕落していると説明できるが。
渋谷のマルイ(モディではない)では少しオシャレなオタク女子向けの服、安いコスメ、100均的な雑貨をそろえてオタク女子向けのイベントを揃えて開催している。
渋谷マルイは大通りに面しているがかなり精力的にオタクコンテンツの大型広告をだしたりしていて、109-MEN(こちらもエヴァやゴジラ、アメコミなどサブカル系コラボが多い)→渋谷マルイ→TOWER RECORDSとカルチャー系の大型ビルが並ぶ通りが完成した。
元々通りを挟んで向かいの旧マルイシティ渋谷(現渋谷モディ)と客を食い合っていた旧マルイJAM渋谷(現渋谷マルイ)はこの戦略が功を奏し、順調な売上になっている。
よって渋谷マルイはそこそこサブカル/オタクに優しいビルと認知されていたし、常設のイベントスペースでは何かしらのオタクイベントが開催されているのが普通だ。
ふともも展を渋谷マルイで開催した時に成功した(と仮定する)のは、それを否定してしまうと同じ女性であるオタク女子側にデメリットが生じてしまうからかもしれない。
ところで池袋マルイはオタク女子の聖地池袋にあるにも関わらず駅の反対側、しかもかなり遠方にあるためずっと集客に苦労してきた。
しかも駅ビルとして競合のルミネだけでなく西武/東武という百貨店のくせに高級でない百貨店があるせいでデパートのマルイまで足を伸ばしてくれる客が本当にいない。大型店舗なのに十年くらいずっと成績が悪い。
(新宿のマルイは目の前に伊勢丹があるが客層が違うお陰で儲かっている。なんで新宿マルイをモディって名前にしないのかは不明)
池袋マルイは割と必死で様々なイベントを行っているが、一貫性が薄くうまくいってない。
もしかしたら渋谷や、新宿にもう一件あるオタク女子向けのマルイ(ここはシネコンとくっついていて上映中のアニメーション映画とがっつりコラボする戦略/ロリータなど濃いめのオタク女子向けアパレルも取り扱う)であれば、多少のクレームに屈しなかったのではないかな、と思った。中止決定をお知らせするのは広報だが、イベント実施可否自体の決定権は各店の店長になる。
勿論2016年に渋谷で問題なく開催できたのは、モンスターが見つからなかったせいもあるかと思うが。
とにかく良かれと思って企画したイベントを潰されるのはイベント主催も場所提供側も本当につらいし、写真展覧会には何の落ち度もないとはっきりわかるので更につらい。結果的にクレームに屈してしまったのもつらい。
えーと、入場料を取る展覧会というのは一般的にゾーニングできている状態とは言わないのか?
マルイでやるからいけないのか?でも渋谷のマルイではやったらしいじゃん。池袋って渋谷と比べてそんなハイソな街だったかなぁ。
ちょっと特殊で人によっては引かれるようなマイナージャンル愛好家としては何かもう恐ろしい世の中になったなと思うよ。ちょうど別の観光スポットで愛好するジャンルのコラボ企画展をやってるんだけど、同じ理屈でボコボコに殴られそうだ。私のジャンルも性的要素を見つけようと思えば簡単に見つかるぐらいのやつだしな。
昔は人に自分のジャンルの布教をしてたけど、人目につけばつくほどつっつかれる状況を見ると布教なんてするもんじゃねーなって思えてきた。
【追記】
以前にmyジャンルが池袋で何かやるってなった時には、「治安大丈夫かしら」なんて心配するファン層もちらほらいたんで、今回の「池袋(マルイ)という場所の文脈を考えろ」という炎上の仕方はびっくらこいたんですよね。池袋ってそんな街だったかと。
池袋よりさらにハイソな街が、myジャンルの普段の拠点となっていますが、うちは大丈夫なのか…?と心配した次第です。
太ももよりは歴史があるジャンルだから許されてるのかな?はたまた見つかってないから許されているのかな?あるいは女性のジャンルだからセーフなのかな?
多分後者2つなんでしょうな。
【追記2】
何故「池袋マルイで太もも展がいけないのか」を解説するブコメがたくさんあるが、myジャンルもことごとくアウトになるの本当にキツい。
うちも特殊性癖に分類されそうなものだが、基本的に全年齢でも見られるし、外に向かって宣伝もしてる。ポスターが並んでるの見ると「大丈夫かな…キモイって思われないかな」ってドキドキするよ。女性向けジャンルで、女性にとって都合のいい男性性搾取的な要素がある世界観だけど、本拠地の街には当然男性も存在してるし、宣伝が目に入ることもあるだろう。もう本当に恐ろしい。
8分間のビデオ映像というのがあって
白い水面に赤いのがポタポタ落ちて広がってく映像。
なんなんだろって最後まで見ても
現代アートの芸術家って言われる人はアホみたいにセンスないよなぁって思ったのです。
まぁアニメみたいな絵を描いて評価される人とか、絵にNONUKEとか書いちゃう人とか、クソアニメ絵の模倣とか
ネットってこうなのみたいなのよ絵とか、クソロリコン絵とか、丸尾末広の模倣みたいなグロアニメとか
AKIRAのパクリみたいなガラス細工とか、ビュッフェみたいな気持ち悪い虫VRとか
どっかで見たようなものばっかりで
なんていうか、これぞ現代アートというくくりのテンプレートみたいな展覧会で
ひさびさにあーああああって感じだった。
なんかお前らもうちょっと頑張れよって思った。
本当に人がいると思って
びくってしたみたいな
なにか、新鮮な
何で頑張らないんだと怒られたことが数回だけある。
これから始まるのは、私が20数年抱えているコンプレックスの話で、楽しくもなんともないし、甘えてるとか批判が来るかもしれぬが、自己承認欲求の塊が喋ることとして、許してほしい。
論理的な構成もクソもない殴り書きであることを承知してほしい。
私は今大学院生である。この時期田舎では人権のない大学院生である。
大学院の話について詳しくはそのうち気が向いたら書きたいと思う。
さて、私には妹がいる。妹は、ザ・下の子で、そりゃあもう家族に可愛がられ育ってきた。彼女は今でこそ社会ではそこそこ高い大学に通っているが、幼い頃は何事もあまりできるほうではなかった。一方私は、運動以外はそれなりにできた。幼稚園でも、先生に色々任されていた。
そんな姉妹の扱われ方が違うのは容易に想像がつくだろう。ここが私のコンプレックスの出発点である。
父は、私に厳しかった。テストで5枚100点を取ろうが、1枚98点があれば、怒られた。75点でも取れば、しばらくテレビを見るのが禁止になる。
妹は、甘やかされていた。75点とったら褒められる。理不尽を感じた私は、母に思い切っていってみた。母は、妹はあなたと違うから。あなたはほめるとつけあがるでしょう、と。父にも言ってみたことがあるが、ほめるとつけあがるからと言われた。(ちなみに、両親にほめられたことは記憶の限りでは高校に合格したときの一回しかない。笑止。)
まぁなんというかテストに関しては理不尽は感じつつも自分も100点とらないで怒られるのは嫌だったのと勉強が好きだったのであまり追求はしなかった。(これにより姉ちゃんは出来て当然という認識が作られる)まぁこのテストの成績の"区別"は高校まで続いていくのだが。
小学校には、秋、絵画や習字の展覧会がある。小学校でうまい人が選ばれて市内の展示会に出され、そこからまた県の展覧会に行くというあれだ。小学生にしてはそこそこ絵と習字のうまかった私は、一年生のときから市内の展覧会に出してもらえていた。この展覧会に関しては小分けエピソードが3つほどある。
まず、小1のときである。初めて賞状というものをもらった私は、るんるんで家に帰り、母に賞状を見せた。すると母は、妹が羨ましがるから、うかれるのはやめなさい。見せびらかさないの。と言った。これは私にとって非常に辛かったようで、今書いていて目が潤んでくる。
次に、小4のときである。この時は、県展に入選した。1年生の出来事で学習していた私は、浮かれることはしなかった。問題は展覧会に行ったときのことである。それはもう両親に作品にケチをつけられた。ここのハネがなんとかだとかバランスがどうだとか。悲しかった。しかもそのとき幼稚園の知り合いの子のことはすごい褒めたのだ、親が。これも10年以上前のことなのに書いてて泣けてきた。幼少期のダメージよくない。
最後は中1のときである。妹が絵で県展に入選した。前年、私の絵も県展に出してもらっていたのだが、落選したのである。自分より絵が下手くそな妹が入選したことがショックだった。聞けば、妹は図工専門の先生に相当つきっきりで見てもらい描いたのだという。自分より能力の低い人間が、他人からの助けを得たことで自分を追い越していく現実を、この時初めて知ったのである。そしてこの現実は、今に至るまで、幾度となく降りかかる。
字数制限こわいのでこの辺で次につなげる。増田を書くのは初めてなのだがここでリンクするやつがいるのかよくわからない、、、
まぁいい。
新宿→小田急沿線に住んでるから東京に出る=新宿に行く、大分冷めたけど写真が趣味だった時は西口のカメラ屋街をうろうろしていた。あとみんなが出てきやすいからオフ会の街だった。
渋谷→今行くならBunkamuraで何か展覧会とか見に行くくらいかな。10代の頃ライブハウス通うのにハマって道玄坂の方とかも居たしNHKホールでライブ見る事もあるし音楽の街ってイメージ。あとラブホ街があるね、幸和ってところに適当に入ってみたらたまたまヒノキ風呂の部屋で楽しかったよ。
六本木→新国立美術館のイメージしかない。それ以外にあまり縁が無いところ
せっかくだから他の街の印象も書いてくよ
上野→美術館と動物園の街、横浜に住んでた時はアプローチしにくかたっただけど上野東京ラインが出来て気分的に近くなった、しかしその後小田急沿線に引っ越したのでまたアプローチしにくくなった。
秋葉原→私にとっては自作PCの街で再開発がされる前は8時くらいには目ぼしい店もしまってすぐに暗くなる街って印象だった。その後飲食店が増えて郊外のどの場所から出てきても不公平感が無いから新宿と並んでオフ会で良く使う街になった、まあリナカフェに入り浸るtwitterユーザーだったってのもある。JRの駅にほとんどくっついた様な形でRemmって言うビジネスホテルの少し良い奴みたいなのあるけどあれのレインシャワーは好き
御茶ノ水→長い付き合いの友達が明大に通ってたから微妙に縁がある、椎名林檎が「リッケン620頂戴 19万も持ってない御茶ノ水」って歌ってたように楽器屋街でもある、あと定額音楽サービスに入ってからは足が遠のいてるけどジャニスって言う有名なレンタルCD店がある
銀座→各県の物産店が集中してる、個人的には高知県物産店と鹿児島県物産店(場所的には有楽町だけど)がお気に入り。あと高級ブランドショップの本店があったりするからそういう用事でも行くかなあ。個人的には八重洲のあたりと含めてもうちょっと開拓したい所。
日本橋→三越と高島屋の本店がある。高島屋で月初めにプレミア焼酎の懸賞をやってるからたまに応募しに行く(当った事は無い)、あとエレベーターガールが居たりするのと年季の入った建物がやっぱり本店って感じがする。
表参道→銀座と似ているのかな、高級ブランドショップ街がある。渋谷にも銀座にもApple storeはあるけどなんとなく表参道のを使う事が多い。冬の時期だと福井県物産店で水ようかん買ってく事が多い。
新大久保→まあコリアンタウンなんだけど最近はイスラム系の店が固まって出来たりその他モロモロの地域のエスニック料理屋あったりと混沌としている。路地裏の変な料理屋にふらっと入ってみるとカルチャーショックを味わえる、そして時々大当りの店が見つかる。
品川→アンミラがある、あのアンミラがある。実家住まいだった頃は京急で東京に出る事が多くてここで降りて何かすると言うよりは乗り替えのための場所。でも東京に出る=とりあえず品川に向うだったので結構印象深い場所。
書いてみると結構あれこれ上がってキリがないので山手線内だけでとりあえず打ち切る。池袋とか目黒・恵比寿も入れたかったんだけどあんまり印象が無い(あそこら辺も掘り下げると楽しいんだろうけど)
これだけ細々と上げられるのは東京都外に在住してるからかもしれない、それでも9割の用事は町田なり横浜なりに出れば済むんだけど……
やっぱり百貨店にしろ同人誌ショップにしろPCパーツ店にしろ東京の特定の街にある本店に行った方が売り場が広いし探しやすいみたいなのがあるのよ。
逆に言えば普通に生活するなら家のある駅と都心を往復してるだけで大抵の用は済むんじゃないかな、東京のどのあたりに住んでるのかは解らないけど。
気が向いたら山手線外編も書く。
初めて付き合った彼氏に3ヶ月で振られて、ちょうど3年が経った。
彼の名前をAとしよう。
1年めは、まるでAが私の過失による事故や災害で亡くなってしまったかのように、
日々喪に服していた。
「そんなこと言って、連絡くらいきたんじゃないの?」と思うかもしれないが、
Aが私の家に置いていた荷物を郵送してからはLINEもブロックされたし、
Aは私と会う前にすでにTwitterやFacebookを退会し、ソーシャルのまじわりを断っている人間だったし、
SNSでふと流れてくるつぶやきを目にする……ということもなく、
本当に、死んだか失踪したかと信じ込むこともできなくはなかった。
そもそもAと私は、共通のコミュニティに所属していたわけではなく、共通の友人もいなかった。
当時私が働いていた会社の後輩の女の子が主催した合コンに行ったところ、
男性側の数合わせで連れてこられていたのが、合コンに一切興味がなく、
さすがにびっくりしたのだが、その本の著者は私も名前を聞いたことのある人だったので、
Aのことは気にせず盛り上がっているメンツをよそに、私はAにあれこれ質問し、
合コン後のグループLINEに参加しようとしなかった彼のLINE IDを手に入れたのだ。
合コンの間は気難しそうに見えた彼は、28歳だというのに、「本当に合コンが初めてで、どうしていいかわからなかった……」
とのちに明かし、2人きりで会ったときには、不器用ながらも気さくに自分のことを話してくれた。
物言いはぶっきらぼうで露悪的だけど、根はいい人なんだなというのがすぐにわかり、
あっという間に好きになっていた。Aも、すぐにそれに応えてくれた。
そうして、交際期間がとても短かったのもあり、私はAとお互いの友人を紹介しあうことはなく、
そして彼の家の場所や電話番号、LINE以外の連絡先を知ることなく別れることになった。
合コン中から私はAにだけ関心があって、他のメンバーに連絡することもなかったので、
もはや彼とのつながりは一切存在しなかったのだが……
彼と別れて1ヶ月後、偶然彼の親しい友人の一人と知り合うこととなる。
それがBだ。
彼に以前写真を見せられたことのある男性にそっくりの女性が、やってきたのだ。
私が「えっBさん?」と小さな声をあげると、なんとその人も「あれっ」と声をあげた。
後から聞けば、彼女は彼女で、私といっしょに遊びに行ったときの写真や、
2人がペアリングをしている写真などを見せられていたのだという。
書店で会釈して終わりかと思ったが、彼女は私を喫茶店に誘ってくれ、
あれやこれやと話してくれた。
「◯◯がさぁ……恋人ができたっていうだけでも驚いたけど、まさか彼女とペアリング買うとは思ってなくて。本当にびっくりしたよ」
「それまでは彼女いなかったんですか?」
「過去に1人いたとは聞いてるんだけどね。彼女の家庭の事情が大変で、別れることになったみたい。私もその子とは会ったことはないから、具体的なことはしれないけど。
だから、増田さんと付き合い始めた話を聞いて、すごくうれしかったんだよ。最後のほうは、いろいろ悩んでいるのも聞いていたけど……」
Bは、見せられた写真の印象だけでも、育ちが良くて笑顔のかわいい上品な人だなあという印象だったけれど、
会って話せすと想像以上に気さくで、「この人に気に入ってもらいたいなあ」と思ってしまうタイプだった。
正直、仲のいい男友達の元カノというよくわからない存在に書店で声をかけられても、けげんな顔をして立ち去る人が大半だろうに、
その日は喫茶店に誘ってくれたばかりではなく、その後2人で飲み、連絡先も交換することになったのだ。
「この前もAと会って……」や「Aは昔からそういうところがあって……」というように、Aとの仲良しエピソードを披露してくるので、
「もしかして……本当はAのことが好きなのかな?」「というかむしろ今つきあってるのかな?」と邪推もしたが、
聞けば、すでに3年つきあっている彼氏がいるという。
たしかに、これだけかわいくて素敵なお嫁さんになりそうな人はもっと社会性のある男性を選ぶだろう。
彼が「いずれ紹介するよ」と言いながらも、結局紹介されずじまいだった相手と、
こうして偶然出会ったことにはきっと何か意味があるだろうと私は思い(思い込もうとし)、
さらに純粋に彼との話をとにかく吐き出せる人がほしくて、私はその後彼女を定期的に飲みに誘った。
最初は遠慮して月1〜2度にしていたのだが、彼女が本当にお酒を美味しそうに飲むし、実際ものすごくお酒が好きで、
毎日一人でもバーに行くことがわかってからは遠慮せずに誘いまくるようになり、
彼に振られて1年めには、私が彼女と飲む頻度は、週に1〜2度に増え、
さらに2年めには、土日のどちらかはかならず私の家に遊びに来るようになり、
そうして3年めを迎えようとしている。
合コン中に小説を読み出すほど読書家だったAと友人なだけあって、
1日あけて会えばその間に読み終えたSFの話をしてくれるし、
私が仕事で悩んでいるときには、適した分野の新書を紹介もしてくれる。
映画や展覧会にもよく足を運んでいて、おもしろかったものの感想を教えてくれる。
「次は一緒に行かない?」と誘っても、「一人で行きたいから」と断られるので、
一緒に映画や展覧会を鑑賞したことはないが、それぞれ見たものの感想を言い合ったりもする。
Aが引っ越したとか、最近はこういう本を読んでたとか、いっしょにあの映画を観に行ったとか。
頻繁に飲むようになってからは、私もそのあたりを正面からイジったりしてみて彼女の反応を見てみたが、
「え〜〜、たしかにAくんはかわいいしかっこいいけど……ほっとけない弟みたいな感じなんだよ」
と毎度否定され、そこには一切のやましさの感情がないのが見て取れる。
というか、どうやら彼女には「誰かと誰かが仲良くしていて、負の感情を感じる」
ということが、生まれてこの方ないらしい。
だから、「自分の行動で、周りが負の感情を感じる」ということも全く理解できないそうだ。
たしかに、もし私が彼女だったら「こんなに元カノと仲良くしていたら、Aに対して気まずいかも」と思うし、
私がAで、この状況を知ったら、こころよくは思わないだろう。
そのことを指摘したら、「あーーーーそういうものなの!」と目をパチクリしていて、
それも彼女の育ちの良さであり、育ちの良さゆえの鈍感さであり、美徳でもあるのだなあと、
なんだかおかしいやら腹立たしいやら、不思議な気分になってしまった。
それで気づいたのだ。
いつの間にかAの生死とか、振られたことなんてどうでもよくなっていて、
彼女はとっても育ちがよくて、鈍感で、きっと私が彼女をいつのまにか好きになっていたことに気づいておらず、
しかし一方で、彼女自身もかなり私のことが好きなのだと、最近は確信できてきた。
私の感情は間違いなく友情じゃなくて、彼女の裸を見たいなと思うときすらある。
でも、一体どうしたらいいんだろう。