はてなキーワード: 居合わせとは
なんかホストが客に刺されて医者にならなかった有名な人が救助にあたってぐちぐち言ってた。
まあ、そんなことを考えたのですよ。
親が目の前で刺されたら助けるわな。
兄や妹が刺されても助けるわな。
会社の同僚が刺されても助けるわな。
友達が刺されても助けるわな。
親戚の人が刺されても助けるわな。
顔見知りが刺されてたら助けるかな?
他人が刺されてたらやっぱり助けないのよな?
でも、それは非日常で特別な体験だし写真をとったり映像を保存するわな。
有名人とか立場ある人は、そういう場所に居合わせてた場合、よっぽど頭ガイジじゃなければ
打算的に良い立ち振る舞いを求めら得るので善行を積まざる得ない。
もし、そこで見てみぬふりをしようものならこのSNSが敏感な時代である。
なので、有名だったり立場ある人はそうせざるおえないから助ける、
だけど、そういう善行を強いられる世の中の方がええななぁーとやはり感じるなぁー。
戸籍に記載されている情報を実生活のあらゆる場面で採用すること自体今は無理があるのかもしれない。
戸籍の性別を変更する場合生殖不能の手術をしなくてもよくなったらしいが、
そうすると子宮のある戸籍上男性に子宮頸がん等女性特有の疾患の検診の案内が届かないということも起こる。
今までも男性から女性に変更した人に子宮頸がん等の案内は届いて前立腺がんの案内が来ない等実際あったようだ。
戸籍や体を手術で変えても変わらない部分は人間あるわけで、戸籍の性別を変えたんだからそんなもん知らねえ自己責任だ、は逆に差別になるんじゃなかろうかという気もする。
戸籍の情報をそのまま実生活でも根拠にするのではなく、ある意味建前というか、願望含んだアイデンティティが記載されているに過ぎないということになれば
いろいろ解決するんじゃないだろうか?
結婚して名字を変える場合も、あくまで変わるのは戸籍上の名字のみ、新しく戸籍を作るにあたり決めたファミリーネームを記載しているに過ぎない、
そのため免許証、パスポートなどの本人確認書類も、銀行口座の名義も、勤務先に届け出ている名字も住民票もすべて出生名から変更する必要はない、
実生活上で名乗る名字は自由(仕事上では出生名の方がいいだろうし、子供絡みの付き合いなら戸籍上の名字の方がいいだろう)とすれば
論文の名前が変わってキャリアが途切れるとか結婚離婚が社内に筒抜けになる等の問題はなくなる。
女性でも経済活動を行うのが当たり前になると、名字を変えると不都合が生じる。本人識別という点で考えれば名字は変わらないものとするのが望ましいが
それはファミリーネームという考え方と衝突する。女性が外で働かないとか結婚が早かった時代ならともかく根本的に戸籍制度が時代の変化に対応できてないわけだ。
そこで、戸籍の情報をある意味では形骸化させることで解決できないかというわけだ。
なぜこんな事を思ったかというと、今回の性別変更の判決文で公衆浴場等は必ずしも戸籍上の性別で判断するのではなく、身体的特徴で判断するとあったからだ。
公衆浴場以外にも、スポーツ等出生した時の性別で判断するした方がよい場面はある。
性別変更に関しては、手術していない体が男性で心が女性の人が女湯に入りたい等言い出すわけがない、本物のGIDはそんなこと言わない、偏見でヘイトスピーチという意見や、持病などが理由で手術ができない場合もある、手術した結果見た目がさほど出生した時の性別と変わらない(体格や骨格の問題で)場合でも戸籍上の性別を変更した以上取り扱いに差をつけるのは差別以外の何物でもないとかいろいろとはてなでもX(旧Twitter)でも議論があるようだが、
個人的には本物か偽物か、GIDを装っているかどうかといった点は「精神障害の診断および統計マニュアル」第5版(DSM-5)からGIDが削除され精神疾患扱いではなくなった、生まれ持った性別に違和感を持つ「性別不合」になり、医師の診断を必ずしも伴うものではなくなった以上、あまり本物か偽物か、なりすましか等で喧々諤々と議論をしてもあまり建設的ではないように思う。医師が診断するといっても診断の根拠となるGIDという病名は今はもう存在しない。
生まれ持った性別に継続的に違和感を持っていれば性別不合の定義には当てはまるわけで、その度合いも性的志向(男が好きか女が好きか)も人それぞれ、体を変えなければ死んでしまう人、ホルモン治療までで十分という人、生まれ持った性別とは違うという証明があれば手術までは望まない、服装や髪形を変えて望む性別で扱ってもらえれば手術は不要という人も今の国際的な基準では全員性別不合だ。
なので外観要件については差戻しになったようだが、(陰茎切除などの)手術した人は女湯可、していない人は不可というのも今の性別不合に関する規定からいうとそぐわないので違憲となるのではないだろうかと踏んでいる。
とはいえ手術有無にかかわらず客観的に骨格・腰つき・体格等から体が男性が女湯にいたら、体が女性が男湯にいたら、居合わせた人は戸惑うだろう。子供の混浴可能年齢を7歳に引き下げたこととも矛盾する。戸惑うのは、恐怖するのは、勃起するのは差別と言ったところで知的面などで障害があったり、小さな子供、トラウマがある人、なんにでもエロを見出す思春期の子供が納得して適切にふるまえるかというと難しい(まあこれを言うとはてなーは周りを困惑させるような人は女湯にも男湯にも入るわけがないヘイトスピーチというかもしれないが、その一方当然に望む性別の方の湯に入る権利があるはてなーもいるのでこのように書いた。保身かと思われるだろうか?そうかもしれない。まあ保身くらいは許してほしい。賢くて優しいはてなーならわかってくれるだろう)。
ただ本人のアイデンティティは確かに男性/女性なのに逆の性別が記載されていることへの苦痛というものは確かにあるだろうから、
戸籍の性別は手術なしでも変更可能、ただし戸籍の性別をどこまで採用するかはその場面によってそれぞれ法制化するのが性別を変更したい人と
他の人の権利が衝突しないための落としどころかと。その辺りの法制化は多分「全ての女性の安心・安全と女子スポーツの公平性等を守る議員連盟」が行うのだろう。
戸籍の本籍地も実際の住所ではない場合も多い。皇居にしてる人もいるぐらいだ。
名字の記載も戸籍の性別もアイデンティティという意味では真実だが実務上・実生活上のありとあらゆる場面で採用するかは本人や周囲との問題も踏まえて
じゃあ元の話に戻るけど、その誤字を・誤用を指摘しても、現実にそれらが広まることを止められなかった例があるわけだから、既にその誤用が広まってしまってる時点で、それを目にした第三者が許容する・しない、どちらの心持ちであっても意味なくね?って話。
直接対面してる相手が誤用してるなら指摘できるけど、誰かが目の届かないところで話してる・話してた場面には居合わせられないし何も言えない。
理想的に、全ての人間がそれぞれ正しい知識を持ち、かつ学び続け、もし会話中に誤用があったらすぐそれを指摘し合う社会になったら、防げるかもね。(元マスはそういう方向に万人を啓蒙したいのかも知れないけど) だけど、そこでそれを阻害するのが上で言った「社会のグループ化」じゃないかな、と。
自分が好きだったライブコンテンツがひとりでにどっか行ってしまったという話。
基本的にお気持ちがベースの感想であるので、アレルギー症状をお持ちの方はブラウザバックなり、閉じて頂くなりが幸せに生きられると思う。
私的には世の中には自分が傷ついてまで見る事は無いというのが全てで、何でも見えるネット時代だからこそ、何でも見てしまうよりは知らず生きる幸せをかみしめてほしいと思う。
お気持ちベースで書き鳴らしているので場所によっては乱雑な文章が取っ散らかっている所がありますので、ご容赦下さい。
正確には私も私で時計の針を一歩進めてしまい、どこかへ歩んでしまったが為に私にも原因の一端があるので、
キモオタクの単なる戯言だと思って聞き流してほしい。むしろこのような記事を時間を割いてまで見るべきではないと思う。
世の中にはこういう意見もあるのだなあと思うならばそれは引き止めませんが、結果や貴方の健康までは保証しません。
九月の頭、愛知県での事だった。片日だけのチケットを握りしめた私は高く飛び過ぎたイカロスのように叩き落されてしまった。
片翼では飛べなかったのだ。それも一番最後にだ。私を好きなら今すぐ来てねという声を聴いたっきり、私は明日また会う事が出来なかった……。
…と、いう事で片翼のオタクの戯言を聞いてほしい。私は1日目しか行かなかったので1日目の演目の下、話を進めようと思う。
これは全てのコンテンツライブに言えるが、1日目と2日目が同じタイトルな以上は、両日お互いに対して余計な負荷を掛けたり文脈を持たせるのは間違っていると思うからだ。
同じタイトルである以上、両日はツアーの大トリで無い限りはどちらにも重きを置かずにある程度はその日だけでも楽しめる演目を組んでいただけるとありがたいと筆者が望んでいるからである。
これは、全ての人間に言えるかもしれないが、仕事などの都合がつかずに、或いはチケットの都合上、片日しか行かれなかった場合、翌日に対して意味ありげな演出をされても困るので、
そういう意味では翌日に負荷をかけるトリの演目というのは好ましくない…と思っていたのだが…。演出家は検問所にある計測所において過積載で捕まる心配をした方がいいと思う。
ただ、同タイトルであれ、二日通しでお楽しみ頂けるように組んでいくのであれば二日通し券があるべきなのでは…?と思う。折角チケット先行用のプレミアム会員もあるのに…。
と、いうのがまずはお気持ちの一つ。まあ、ゲームでは毎日会えるので不健康なオタククンはおうちでブルーライトと仲良くしてなさいと言うならばその通りに受け止めるが…。
何曲かは過去の同地で行ったウケの良い演目をオマージュしたいのだろうか、そういう選曲がなされているのは理解しているが、
余りにも毎回やっているのでそろそろ飽きが来たこと、そしてどうせこの曲が来てしまうと言う展開が読めてしまう事に一つある。
特に本年の愛知公演でも1日目13番目の演目は、一昨年に行われた同地前回の2日目に出て来ていて、更に遡ると名古屋市内の公演でも披露していて、
土地=楽曲が著しく結びついて意外性という面白味に欠けると筆者は考えているからだ。方言キャラは多くないのに曲に地域性があるらしい。凄く奇習だと思う。
近年は意外性を売りにしているコンテンツライブだと筆者が受け止めていたばかりに、楽曲が予想の立てられるものでは非常に面白くないという話でもある。
1日目を取っても5曲ほどは過去2年で同地で行われた楽曲が含まれている。なんと演目の約20%だ。降水確率なら雨の心配をするレベルでもある。
思い出話をしたい人には良い話だが、わざわざ遠征までして見たものが過去の焼き直しというのはまったく面白くない話だ。家で円盤を見た方がマシだろう。
それならば百均で売っているHIT曲のコンピレーションアルバムを買う方が安上がりだと思う。実に100分の1の値段で済むというから良心的な話だ。
当コンテンツには――――税と呼ばれるまでに高騰化しているチケット代という概念が既にあるのに、更にコンピレーションアルバムを流されているようでは溜まったものではない。
特に先ほどの13番目の曲はコロナ禍前にも同地域でやった事がある演目が故に、特に薄味として印象深い。5年で3公演に顔を出している。皆勤賞狙いか。
他、強いオマージュを感じる公演としてコロナ禍前最後の大阪での公演の事を強く思うが、今回の28曲の内3曲が被っている。概ね300曲を超える曲数のコンテンツライブとは思い難い被りようだ。
内一曲は演目の場所といい特殊バージョンのイントロといい強くオマージュを感じざるを得なかった。この曲の起用方法に関しても少し思うところがあるが、少なくとも思い出は思い出でじっとしておいて欲しかった。
もっと曲数が少ない所でももう少しいい組み方をする所はあるし、過去の演目同士を切り貼りしてもキモいフランケンシュタインが出来るだけだと思う。これからパッチワーク教室でも開くなら是非頑張ってほしい。
ここのコンテンツのファンは熱心なファンが多く、機会均等法を声高に叫ぶファンが大変多い為しっかり起用に応えてくれたのはある種一つ良かったと思う。ここだけは評価している。
ただ、その陰でこのコンテンツが元来持っていた時に人を傷つけるような美しい鋭さは失われ、特に機会が均等に機械的に割られただけで、
センターの回数までは気が回って居なかったり、楽曲が持つイメージを損なってしまったりしていた演目があったのは一つ残念な点として深く印象に残った。
出場機会の均等を図るくらいならば偏りがあってもセンターをしっかり廻すべきだったと思う。私が応援していたのは果たしてアイドルコンテンツだったのか…?と疑問に思ったくらいに。
あと、楽曲が持つイメージを損なったという点では意外性のある選出やキャラクターの新しい一面を見る為の科学反応の為の選出ならば目を瞑るが、
三角形をイメージした楽曲に6人投入するのはどういう意図なのかは掴みそこねた。六角形は半分にしても三角形にはならないというのに。
こういう滅茶苦茶な演目の組み方をする事が近年の公演で増えており、イメージ先行でのみで組んで、歌詞の割り振りなどの子細にまで目がいかなくなってしまったのかと悲しみを感じる。
どの演目とは言わないが2人がユニットでの相方や一人からの選出に対して、残り一人が公式で絡みがあるだけで特にユニットが組まれた選出ではなかった演目があり、個人的には疑問に感じた。
もしその人の推しであるならば大変申し訳ないのだが、あくまでも公式として謳って出しているものが非公式的に近い事に対しては納得がいっていない為である。キャラクターや演者に罪は無い。
そういったこともあり、深い意味合いで文脈が無くなってしまったが為に演者サイドからのサインを受け取るのも難しくなった。魔法が解けた灰被りのお姫様を見ている気分だ。
私らは吊るされた男ではなく一端の魔術師としてこのコンテンツライブを見に来たつもりなんだけどな…。運命の輪というのは時に残酷なカードである。
結局大きなコンテンツと言うのは人数を収容しなければならない以上、場所を選んでしまうので多少仕方がない事ではあるという事は理解しているがやはり平面と言うのは…。
そもそもハコを見て応募を辞めようとも思えばいい事だというのは重々理解しているが、それはそうとして推しが出ている以上は行ってみるか…と応募したがばかリにこれを強く思う。
と言うのも筆者は身長が約150cmしかなく、とてもではないが前方席を引かなければ170cmや180cmなどの有象無象に埋もれてしまう事に一端があるとしても、多少手心があれば…と。
厚底の靴などで身長を積み増せばいいとは思うが、今回のハコは大変僻地もいい所の絶海の孤島なので動きやすい恰好が望ましいと思った次第でどうにもこうにもならなかったというのが一つ。
是非よろしければ低くなって頂ければありがたいが、強要をするのも間違っているとも思うので、次回から平面の客席を採用する際は竹馬を利用する事をどうか許してほしいと思う。最低限は脚立。
それから、パイプ椅子による指定席で隣の人と距離が近すぎる上に、隣人を選べないというのも一つ困ったという話だと思った。どれだけ身が細くても斜めに立たないと肩が当たる気がする。
卒業式のように姿勢よく座るならまだしも、多少動きの生じるライブでパイプ椅子というのはちょっと狭くないかなあと思うところがある。幸いにも圧迫はされたことはない。
筆者が最近はライブハウスに通う事が多くなり、様々な曲や演目、人間に対してご自由にポジショニングを取る事に慣れてしまったので致し方ない部分はあるが、
流石に外出するに際して見てくれの悪いオタクや二階三列四番の雰囲気を漂わせた隣人を2時間もの間同じ空間に居合わせてしまうのも考え物だなと思ったからだ。
頼むから家を出る前に最低限の見てくれと香りは何とかしてほしい。別にそこさえ担保してくれるなら絵具を混ぜた様な情けないナンセンスなコンテンツTシャツを着てても許すから。
因みにだが、別にオタクが好き勝手自分の頭上や近隣で暴れたり光ってくれる分には特には思わない。その人の推しが居てその人なりの表現があると筆者は考えているので。
むしろある程度元気な方が演者と観客の対話的なコミュニケーションみたいで大変面白いので積極的にやってほしいと考えている。勿論、レギュレーションの範囲内での話だが。
こう明記しておかないとこのコンテンツは勝手に余計な文脈を取って独りでに発狂する大変熱心なファンが多い為にコメントを返信する時の私が苦心するのでここに記しておく。
今回一番良かったと思うのはコンテンツの新人が暖かく迎えられたという事だ。
拍手喝采でこの大舞台に迎えられてしっかりと立っているのを見ると、私のような逆張りオタクではなく、もっと相応しい人が客席に立つべきだと感じたからである。
つい4年前はこのコンテンツの熱心な盲信者たちが私の心地よいインターネットの楽園を荒らしていたと思うともう隔世の感が出てきたが、
そういった逆張りをしなくてもよくなったというのは一つ明るい話であったと思う。もし過去にそういう事をしたと思うならばしっかり反省してほしい。
長々と語ってしまいましたが、無計画な闇鍋によって昔のような歌詞割りや演目による演者からの文脈を感じ取る事が出来なくなり、
過去公演の焼き直しと新曲披露会のような地方の産業館で見る様な薄味の展示会に高いチケット代を支払うのは勿体なく感じてしまった為に
このように文句を垂れているオタクの戯言にお付き合い頂き、本当にありがとうございます。
こうしてみるとこのタイトルは半分くらい間違っていると今思っています。でも正直向こうも半分は間違えている気もしている。私が勝手に。
これは一端のマジョリティでもあります私のお気持ちであり、大多数が今のままでいいと望むならばそのコンテンツはそのように進めばいいと思います。
たまたま持っていた銀河鉄道の切符が、今回で私の終着駅となったからです。今まで楽しい旅をさせて頂きありがとうございました。
これからが目ざましい活躍を見せる推しのオタクはここからが始発駅ですし、勿論ここに至るまでに終点に至ったオタクも居ると思います。
推し方は人それぞれで、私はここで一旦区切りがついたと思っているだけですので、是非どうか私の事は呼び留めずに忘れてください…。
今、私は安いチケット代と共に無計画な闇鍋の極みみたいなフェスなどを空中浮遊しております。別に規模や演者に一切の貴賤はありません。
もし気になれば知見を広めるためにも様々な「アイドル」に触れてみるのは如何でしょうか。素敵な音楽や出会い、様々な人々の熱い思いなど、
色んな物を吸収してみるのも一つの栄養ではないか?と思っています。このような場でお勧めするのも私としても大変心苦しいものがありますが…。
また、どこかで亡霊となった私をどこかの会場で見掛けた際は、暖かく出迎えて頂けると幸いです…。本当にお読みいただきありがとうございました。
先日、おばあちゃんが死んだ。
おばあちゃんは孫の自分にとても優しくて大好きなのだが、同居している叔父さんが大の苦手だった。
おばあちゃんの家は実家から近い場所にあったが、いつ叔父さんがいるかわからなくてなかなか行かないうちにいなくなってしまった。
いつもタバコを吸っていて臭いし、居合わせたときは必ずと言っていいほど競馬新聞とテレビに文句を言っていて怖い。
くだらないことで怒鳴り散らかされたときは本当に気分が悪かった。
だから、長い間会っていないとはいえおばあちゃんの葬式に行くのも苦痛だった。
叔父さんは葬式にどんな顔をしてくるんだろうか。泣いているのか、はたまた怒っているのか。
複雑な気持ちで向かったセレモニーホールにいた叔父さんは真っ白だった。
黒々としていた髪も、常に暗い熱を持った表情も真っ白だった。
たまたま同じタイミングで廊下に出た叔父さんはくたびれた笑顔で「腰やっちゃったよ」とだけ言った。
正直それを言われた時はおばあちゃんが死んだ一報を聞いた時よりどうしたらいいかわからなくなった。
いつから叔父さんは真っ白になったんだろうとか、怖い叔父さんに怯えていた時期はなんだったんだろうとか、今もまだ少し考えてしまう。
傷口から夢が出てきそうな気がして嫌だった
傷は硬すぎるフィッシュアンドアーモンドの21世紀にしては鋭すぎる蓋のフチで切った右指
夢はこうだった
俺は実家を売る契約の現場に居合わせた。胡散臭い不動産屋がよくわからん中年女性に売ってた。本契約が決まったあとにAIがどうたら言って手数料かすめ取ろうとしてたが女性は「知らないなー」と一刀両断してた。なんか俺達の方にも知ってるか聞いてきて知らんと答えたら満足そうに去っていった。不動産屋はイラついてた。
母親の運転する黒い車に爺ちゃんと乗ってた。どこに移り住むんだっけ、ここらへん基地の近くだからうるさいんだっけとか話してた。母親は常に暗く、途中で運転席から降りて、俺は自動運転かな~と思ったり、そんなわけないので自分で10年ぶりにハンドル握ったりした。母親に何故か問うたら、一瞬ヘラヘラして、あいかわらず暗かった。
いろんなところで買い物した。まずケーキ、次に衣料を買ったので荷物で潰れたケーキは服の上にこぼれた。で、最後の店に着く。
会計が2つある所で爺ちゃんと母が会計してた。こいつらもいろいろポイントの説明とかするタイプ。しかもガラが悪かった。じいちやんの方は眉毛がないやつで、クレジットカードを返さなかった。
俺はそれを取り返し、後に、カードピってやるとこにあるパスモを奪った。そして「これ違いました」といって戻した。眉無しはキレてた。
眉無しが追ってきそうだったので逃げた。足はなかなか進まない。俺はサンダルだからだと思った。
すこしして、夢はさめた
私の娘6歳(年長)は1人っ子なんだが、公園に行く度に、他の子供(たまたま居合わせた子供。初対面)に「一緒に遊ぼう」と誘う。
それで一緒に遊ぶことになるパターンもあるが、圧倒的にスルーされることの方が多く、見ていて悲しい。
私としても「2人以上で来ている子たちは一緒に遊んでくれないことの方が多いよ」「1人で来ている子に声をかけたらいいと思うよ」とアドバイスするが、今日も2人兄弟で来ている子達に「あっちで一緒に滑り台すべろうよ!」と誘い、無視されてどこかに行かれてしまい、「あれ?一緒に滑ろうって言ったのに。どこ行ったんだろ?」とキョロキョロ探し、私が「あっち行っちゃったよ」と言うと、娘は「ガーン」と言っていた。
別に娘はそこまでショックを受けているわけではないが、私の方が辛くなり、もう帰ろうよ、と言い(暑かったのもある)早々に帰宅した。
私自身は子供の頃は恥ずかしがり屋な方で、知らない子に自分から遊ぼうと誘うことはなかったので、娘を凄いなーと思う。
でも、スルーされているのを見るのが辛く、正直言って知らない子に声をかけてほしくない。それで「ママと遊ぼうよ」と言うが、娘は「ママとじゃ嫌だ。子供同士がいい」と言う。
東中山の駅で各駅停車を横目に速度を上げて通過しているとき、運転席から「あー!」という声が聞こえて直後にゴンという音と軽い衝撃。電車は駅を通り過ぎて止まった。
自分は運転席のすぐ後ろにいたが、座っていたので事故は見えなかった。60代くらいの男性らしい。駅員と車掌で救助完了とのことだが、あの速度では助からなかっただろう。処理が早かったので、恐らく車輪には巻き込まれず線路脇に跳ね飛ばされたのだと思う。高砂で運転打ち切りになった列車の先頭を覗いてみたが、なんの痕跡も見えなかった。
この列車で人身事故がー、という自動音声があったこと、20分もせず運転再開になったことの日常茶飯感がやばかった。
なお、運転再開後、勝手に踏切を渡った人がいたせいで徐行や一時停止が頻発し、真面目に待っている人が更に待たされるという、囚人のジレンマが裏切られるこの都会は💩
他人をけなすようになった。人が作るものを攻撃するようになった。人の行動を非難するようになった。
明確に創作を始める前と後で性格が変わったと複数人から言われたので、まあ客観的に見てそうなのだろう、と思う。
また、実家の仕事の関係で周囲にはプロアマ問わず創作者が多いのだが、やはり『創作の際は性格が悪くなる』『他人に攻撃的になる』という人間が多かった。
その理由を考える。
肉体的にも精神的にも健康を害したので、他人に攻撃的になった、という要因がまず考えられる。
一番有力だとは思うのだが、『生活習慣が乱れていない創作者は性格が悪くないのか』という部分については情報が足りなかった。
そもそも私含め、現代人の生活習慣は創作関係なく乱れに乱れているだろ、何を今更、とツッコまれ、確かにあまり相関性がないような気もしてきた。
創作活動により、『より良い状態とは何か』を考えたり、歴史上の偉人たちに想いを馳せたり、それについて調べる等する。
つまり、『偉人と比べて世の人々のなんと下らぬことよ』という感情が生まれたり、『世の人の何と理想と遠いことよ』といった義憤が生まれた。
さらに、世のファジーだった部分をある程度専門的な視点で観察することで、『なんて至らない活動なのだろう』と思うようになってしまった、などが考えられる。
つまり、余計なことを考える、知ったが故に他人の粗が目に付くようになってしまったという仮定。
これもあると思うが、私の場合、あまり倫理観を高めるような知識は学習していなかったので、どうなんだろう、という気持ち。
仮定③元々世に不満を抱いていて、攻撃的な人間だった(創作によって発信力や語彙力が上がった)
元々性格が悪かったのだが、創作によってその言葉を発信する方法を覚えた、あるいはその感情を文章等にする術を覚えた、のではないか。
だが、②と同じなのだが、創作活動によってそこまで知識や語彙力に変化があるかは疑問である。
創作を始めてから、『より性格が悪くなった』と言われているのに対し、創作活動による能力向上を高く見過ぎている気がする。
仮定④創作で脳が活発化すると攻撃的になる(頭を動かすと他人に攻撃的になる)
発想力は脳の中で前頭葉が司る分野だが、そこが活発化することにより攻撃的になる。
(ロボトミーは前頭葉をアイスピックでくちゅくちゅして他人への攻撃性を低下させる手術である)
創作をすると、前頭葉が刺激され、活発化する。これによって他人を攻撃するようになる。
逆説的に言うと、前頭葉がおかしくなると他人に攻撃的になるのであって(認知症等)創作という行動そのものが問題なわけではない。
創作活動を行うと『一人で集中したい時間が増える』ので、それを邪魔されると攻撃的になる。
そして、その瞬間瞬間に居合わせた人に『お前は性格が悪くなった』と言われている可能性。
だが、そんな一日中創作活動をしているわけではないし、そもそも創作に限らず作業や集中を乱されたらイライラするものである。
あまり有力ではない気がする。
何か他の要因が考えられるのであれば教えて欲しい。
https://anond.hatelabo.jp/20230731103637
電鉄会社は始発駅にデパートを持っているが、この二社はちょっと特別で文化をブランド化している。
両社ともデパートの一部に美術館を持ち、古典よりも現代美術などを扱う傾向が強かった。
また西武はレコード店WAVEや巨大書店LIBROなども併設して文化/流行の発信者的立場であった。更にこれら文化/流行事業がブランドとなってルイヴィトンなどのハイブランドの出店の寄せ水ともなっていた。
現在ヨドバシ西武出店で豊島区がクレーム出しているのはこういう背景があるから。
2.本屋
巨大書店が何棟かあるが、神保町三省堂、池袋LIBRO、池袋ジュンク堂、六本木青山ブックセンター、新宿紀伊国屋などは毛色が違って、売れ線の本を並べるのではなくて「推し」を優先して陳列するという特徴があった。「話題の本」が話題になる前にそこにあるという感じだ。売っているのは本じゃなくて文化文脈という感じか。ヘイト本陳列などで紛糾しているのはこの辺の事を知っていないと理解が出来なかったかと思われる。池袋ジュンク堂以外は退潮傾向。
3.レコード屋
渋谷その他のタワーレコード、西武系列のWAVE各店、CISCO、新宿/下北沢のディスクユニオン、秋葉原の石丸CD館など特徴的なレコード店があり、これらでは売れ線のJPOPなどは余り売っていない。これも流行のアンテナショップ的な感じでマイナーシーンでこれから流行るもの、ここでしか買えないものを揃えていた。
CDの退潮によりこれらも退潮傾向(石丸は大火災)だが、CDにかわりビニール盤(レコード)が復活してきたのでタワレコなどは盛り返しつつある。
広尾、六本木の欧米系、新大久保の韓国人、西川口、池袋の中国人、など外国人が集中して居住する地域があり、彼ら向けの商店など外国の風が吹いてるかの如くの雰囲気がある。またその地域では国内で見かけない外国製品が売られているなどエキゾチック。文化的な対立などの問題も起きるが都会や資本主義というのは異物に包容力があるのでなんとかやっている。外国人との対立問題で刑事事件などが根拠にされる場合があるが根本原因ではない。文化間の接触域では「文化を浴びる」感が日常で起こり、それが浸食されるという不安を産んでいることを忘れている。
東京とその近郊は戦前は軍都でもありそれらが全部占領されたのでその基地や居住地付近は米軍の文化に染まった。
占領解除と基地返還でこれらは忘れられつつあるが、近郊には所沢、横須賀などアメリカテイストが残り、それを維持しようとする住民がおり、ニューイングランド様式の家+アメ車などの組み合わせを見る事がある。東京郊外だが埼玉の入間市には米軍住宅をそのまま残したジョンソンタウンという街がある。
6.裏原宿
原宿は西から原宿駅\竹下通り\明治通り-渋谷川暗渠地域/青山(線の傾きは高低差)となっているが、この渋谷川暗渠に沿って民家改造した古着屋、インポートショップが乱立した。両方とも若い経営者が米国や西欧に行って古着市場や日本に入っていない若手ブランド服を買い付けて一般民家を簡易な改造した店舗で売るというモデル。全国展開しているBEAMSなども裏原出身。今では地方都市やショッピングモール、観光地周辺でも見られる業態だが、わざと「簡易な内装」を作るのは裏原の文脈があるから。若者のスモールビジネスからセレクトショップやアンテナショップ業態に移行しつつある。なお、渋谷川暗渠に密集したのは、暗渠沿いには高いビルが建てられず地下が低かったから。
7.お祭り
地方より東京の方が中間共同体が残っている事が多く、お祭りが維持できているケースが多い。
道路上での演奏は禁止なのだが路上演奏者は多く居て、警察が来るとダッシュで逃げるというのを繰り返している。特に外国人が民族衣装を着て民族音楽を演奏するものなどは人気がある。
単にオタクが好きなアニメの服着てるだけに留まらないレベルの人が結構いる。そういう人は総じて相当な美人/美男であり服の装飾や裁縫レベルも高くて高級感もある。文化文脈の摂取に貪欲で外国に出かけて実際の文化を見て吸収しようとするし写真のレベルも高く、サブカルなのにハイカルチャーの趣きがある。SNSの過去ログを手繰ると、昔から美人だったのではなくて文化の吸収や意識の向上に従って外見が変化している。だとするとそれを生ぜしめたコスプレという行為も文化現象として上等と結論づけるしかない。
クラブ遊びもちゃんとやろうとすると音楽の知識、海外の文化現象の理解などが必要になる。カッコだけの真似だとダサイ、浅いという評価になる。
環状八号線の世田谷地区には外車ディーラーが並ぶ。外車は単に高級品というだけではなく、その国の文化というものを纏っているもので、特に米国、イタリア、フランスがその傾向が強い。故に環八の外車ディーラーが並ぶ風景は車好きには外国の風が吹いているように見えるものである。
「ビルの内装はがして壁も天井も配管も白いペンキ塗っただけ」みたいな小さいギャラリーが多くあり、マイナー作家やマニアックな展覧会が催されている。その辺の敷居の低い部分があるのを利用してお上りさんやオタクつかまえてサブカル絵やラッセンの絵を高額ローン組ませて売りつける商法をしていた連中は万死に値するな。
13.商店街
地方ではすっかり衰退してしまった商店街が東京では幾つか健在で、若者文化を取り込んで混在する下北沢とか吉祥寺とか買い物以外でも面白いところがある。増田のおススメは赤羽で、昭和のマーケット形式の商店、カゴに小銭入れてゴムで吊るしている八百屋とかも健在で、新しい飲食店も沢山あって混在している。更に飲食店にやたらとテラスがあるのが特徴で日本じゃないみたいな感じになっている。小奇麗なカフェから昭和の立ち飲み焼き鳥屋にはしごとか出来る。
14.モグリ
人気講師がいる大学には偽学生のモグリが発生する。在籍していないのに勝手に講義を聴きに来るやつだ。大学によってはそれを止めるつもりもない。更に学外者が立ち入るのが当然のように大学内で展覧会を開催したりする。
15.TV局
テレビ局は働く人が多いので企業城下町的なものを形成していたりする。いけ好かないギョーカイ風でもあるがTVの地位低下とオフィス街と一体になった再開発などによりオフィス街と混じる形になって衰退傾向(例:TBS@赤坂、TV朝日@谷町、六本木)
16.建築
近代建築も多く残り、有名建築家の作品も多い。中に入って素材の質感、施工の程度などを触って確認できる。隈研吾のなんか食傷気味でもういらねぇとか思ったりする。但しザハ・ハディッドのは無い…。
今までも歩行者天国は色々なサブカルチャーを生み出してきた。だが加熱しすぎて警察に禁止されたり通り魔が起きたりと都度潰されるという道を辿ってきた。今ではフェアなどで自治体が大道芸を支援するような動きがある。
18.大学
身も蓋も無いが地方の大学と東京の大学では学生生活の質が違うというのはある。東京で大事なのは同質性の低さで、地方から出てきた者、エスカレータ組、留学生、帰国子女が混在している。特に帰国子女は「似た外見を持った異人」であって同質的な学校空間で育った学生に異化作用を齎す。概ね彼らはその異文化経験によって判断基準を「みんながそう言うから」に置かず、成熟して大人びていている。帰国子女とも留学生とも邂逅しない大学というのは大学と呼べるのか。
ホームレスに日常的に遭遇し、自殺の現場に居合わせるなどの経験(鉄道など)により、落伍への強烈な強迫観念が刷り込まれる。当然これはいいことではない。だが影響を強く受ける文化現象として外せないと思われる。