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2019-04-06

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緊急寄稿

「令和」から浮かび上がる大伴旅人メッセージ

品田悦一

 

 新しい年号が「令和」と定まりました。典拠文脈を精読すると、〈権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない〉という、おそらく政府関係者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてきます。この点について私見を述べたいと思います。なお、この文章は「朝日新聞」の「私の視点」欄に投稿したものですが、まだ採否が決定しない時点で本誌編集長国兼秀二氏にもお目にかけたところ、緊急掲載のご提案をいただいて寄稿するものです。

 

 「令和」の典拠として安倍総理が挙げていたのは、『万葉集』巻五「梅花歌三十二首」の序でありました。天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府長官大宰帥)だった大伴旅人が大がかりな園遊会主催し、集まった役人たちがそのとき詠んだ短歌をまとめるとともに、漢文の序を付したのです。その序に「于時初春令月、気淑風和」の句が確かにあります。〈折しも正月の佳い月であり、気候も快く風は穏やかだ〉というのです。これはこれでよいのですが、およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互依存し合う性質を持ちます一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。この場合テキストは、最低限、序文の全体と上記三二首の短歌(八一五~八四六)を含むでしょう。八四六の直後には「員外思故郷歌両首」があり(八四七・八四八)、さらに「後追和梅花歌四首」も追加されていますから(八四九~八五二)、序と三八(三二+二+四)首の短歌の全体の理解が「于時初春令月、気淑風和」の理解相互に支え合わなくてはなりません。

 

 さらに、現代文芸批評でいう「間テキスト性 intertextuality」の問題がありますしかじかのテキストが他のテキスト相互に参照されて、奥行きのある意味を発生させる関係に注目する概念です。当該「梅花歌」序は種々の漢詩文を引き込んで成り立っていますが、もっと重要かつ明確な先行テキストとして王羲之の「蘭亭集序」の名が早くから挙がっていました。この作品書道の手本として有名ですが、文芸作品としてもたいそう味わい深いもので、「梅花歌」序を書いた旅人知悉していただけでなく、読者にも知られていることを期待したと考えられます。「梅花歌」序の内容は、字面表現された限りでは〈良い季節になったから親しい者どうし一献傾けながら愉快な時を過ごそうではないか。そしてその心境を歌に表現しよう。これこそ風流というものだ〉ということに尽きます。「蘭亭集序」の語句構成を借りてそう述べるのですが、この場合、単に個々の語句を借用したのではなく、原典文脈との相互参照が期待されている、というのが間テキスト性の考え方です。「蘭亭集序」は、前半には会稽郡山陰県なる蘭亭に賢者が集うて歓楽を尽くそうとするむねを述べており、ここまでは「梅花歌」序とよく似ていますが、後半には「梅花歌」序にない内容を述べます。人の感情は時とともに移ろい、歓楽はたちまち過去のものとなってしまう。だからこそ面白いともいえる。人は老いや死を避けがたく、だからこそその時々の感激は切なく、かついとおしい。昔の人が人生の折々の感動を綴った文章を読むと、彼らの思いがひしひしと伝わってくる。私が今書いているものも後世の人にそういう思いを起こさせるのではないか……。

 

 「梅花歌」序には、人生の奥深さへの感慨は述べられていません。続く三二首の短歌も、〈春が来たら毎年こんなふうに梅を愛でて歓を尽くしたいものだ〉(八一五)やら、梅の花は今が満開だ。気の合うものどうし髪に飾ろうではないか〉(八二〇)やらと、呑気な歌ばかりが並んでいるのですが、そしてそれは、旅人大宰府役人たちの教養の程度を考慮して、「蘭亭集序」を理解したうえで作歌することまでは要求しなかったからでしょうが旅人自身は「蘭亭集序」全体の文脈をふまえて歌群を取りまとめました。その証拠に、上記「員外思故郷歌」は

  わが盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまたをちめやも(八四七)

   ……わたしの身の盛りはとうに過ぎてしまった。空飛ぶ仙薬を服用しても若返ることなどありえない。

  雲に飛ぶ薬食むよは都見ば賤しきあが身またをちぬべし(八四八)

   ……空飛ぶ仙薬を服用するより、都を見ればまた若返るに違いない。

というのです。人は老いを避けがたいという内容を引き込んでみせている。

 しかも、ここには強烈なアイロニーが発せられてもいる。旅人にとって平城京はもう都でないのも同然で、「都見ば」という仮定自体が成り立たなかったからです。

 

 都はどうなっていたか皇親勢力の重鎮として旅人が深い信頼を寄せていた左大臣長屋王――平城京内の邸宅跡から大量の木簡発見されたことでも有名な人物――が、天平元年つまり梅花宴の前年に、藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の画策で濡れ衣を着せられ、聖武天皇皇太子呪い殺した廉で処刑されるという、いともショッキング事件が持ち上がったのでした。この事件は後に冤罪と判明するのですが、当時から陰謀が囁かれていたでしょう。旅人もそう強く疑ったに違いありませんが、遠い大宰府にあって切歯扼腕するよりほかなすすべがなかった。『万葉集』の巻五は作歌年月日順に歌が配列されているのですが、梅花歌群の少し前、天平元年のところには、旅人藤原房前に「梧桐日本琴」を贈ったときのやりとりが載っています事件は二月、贈答は十月から十一月ですから、明らかに事件を知ってから接触を図ったのです。〈君たちの仕業だろうと,察しはついているが、あえてその件には触れないよ〉〈黙っていてくれるつもりらしいね。贈り物。はありがたく頂戴しましょう〉と、きわどい腹の探り合いを試みている――あるいは、とても太刀打ちできないと見て膝を屈したとの見方もありえるかと思いますが、とにかく、巻五には長屋王事件痕跡が書き込まれている。

 

 巻五だけではありません。巻三所収の大宰少弐(次席次官小野老の作

  あをによし寧楽の都は咲く花のにほふが如く今盛りなり(三二八)

は、何かの用事でしばらく平城京滞在し、大宰府に帰還したときの歌でしょうが、『続日本紀』によれば老は天平元年三月、つまり長屋王事件の翌月に従五位上に昇叙されていますから、たぶんこのときは都にいて、聖武天皇から直接位を授かったのでしょう。すると、大宰府に帰った老は事件後の都の動向を旅人らに語ったと考えられる――そういうことが行間に読み取れるのです。また巻四には、長屋王の娘である賀茂女王大宰府官人だった大伴三依との交情が語られていて、三依は事件に憤慨しながら大宰府に向かったようです(五五六)。さらに巻六。歌を年月日順に配列する中で天平元年に空白を設け、直前に、長屋王嫡子事件ののさい自経した、膳王の作を配しています(九五四)。

 これらはみな、読者に長屋王事件喚起する仕掛けに相違ありません。偶然の符合にしては出来すぎている。

 

 「梅花歌」序とそれに続く一群の短歌に戻りましょう。「都見ば賤しきあが身またをちぬべし」のアイロニーは、長屋王事件を機に全権力を掌握した藤原四子に向けられていると見て間違いないでしょう。あいつらは都をさんざん蹂躙したあげく、帰りたくもない場所に変えてしまった。王羲之にとって私が後世の人であるように、今の私にとっても後世の人に当たる人々があるだろう。その人々に訴えたい。どうか私の無念をこの歌群の行間から読み取って欲しい。長屋王を亡き者にした彼らの所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。私は年を取り過ぎてしまった……。

 

 これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人メッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への嫌悪と敵床心が潜められている。断わっておきますが、一部の字句を切り出しても全体がついて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛烈に皮肉っている格好なのです。もう一つ断わっておきますが、「命名者にそんな意図はない」という言い分は通りません。テキストというものはその性質上、作成者意図しなかった情報を発生させることがままあるからです。

 安倍総理政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。一つは、新年号「令和」が〈権力者の横暴を許さないし、忘れない〉というメッセージ自分たちに突き付けてくること。二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。もう一つは、よりによってこんなテキスト新年号の典拠に選んでしまった自分たちはいとも迂闊(うかつ)であって、人の上に立つ資格などないということです(「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。

 

 もう一点、総理談話に、『万葉集』には「天皇皇族貴族だけでなく、防人農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌」が収められているとの一節がありました。この見方はなるほど三十年前までは日本社会の通念でしたが、今こんなことを本気で信じている人は、少なくとも専門家あいだには一人もおりません。高校国語教科書もこうした記述を避けている。かく言う私が二十年かかって批判してきたからです。安倍総理――むしろ側近の人々――は、『万葉集』を語るにはあまり不勉強だと思います。私の書いたものをすべて読めとは言いませんが、左記の文章はたった一二ページですから、ぜひお目通しいただきたいものです。東京大学教養学部主催の「高校生のための金曜特別講座」で語った内容ですから高校生なみの学力さえあればたぶん理解できるだろうと思います

 

【記】

品田悦一「万葉集はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか。」(東京大学教養学部編『知のフィールドガイド分断された時代を生きる』二〇一七年八月、白水社

 
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