はてなキーワード: 小学校とは
うちはもう小学校高学年なのでほっといても静かに新幹線乗ってられるようになったけど、子供たちが小さかったときのこと思い出した。
みんな同じなんだなー…
うちはそういう時でも夫は全然子供を見てくれなかったし、むしろどっちかっていうと他人と同じように「静かにさせて?」って私に言うほうだったので、増田はえらいと思いました。
妻が好き。
結婚10周年を超えて11周年になって、この前2人で恵比寿に美味しいお寿司食べに行ったけど、その時もしみじみ思った。妻が好き。
結婚した時から子ども2人も産んでるけど体型も変わらずに、綺麗でいてくれてるから好き。
最近は毎晩お風呂上がりに顔に美容マスクしてるけど、そのマスクしながら子どもに早く服着なさい!みたいなシュールな光景繰り広げてくれるのも好き。
仕事も一生懸命やっていてしっかり稼いでいるし、でも私の仕事も尊重してくれて好き。
妻が出張のときは子どもたちと夜ビデオ通話するんだけど、出張先で会食が遅くなって子どもたちとはなせないときに、しょぼん、っていう内容のLINEとか送ってくるのも可愛くて好き。
仕事では管理職だからしっかりもので通ってるみたいだけど、家だとふわふわしててゆるゆるなのも好き。
孤独のグルメが好きなんだけど、この前一話まるまるみた後に「やっぱこれみたことある話だった、、なんで貴重な時間をこんなことに、、」とかいって変な落ち込み方してたのも可愛くて好き。
今度家買うんだけど、そういう時の対外交渉とかはばっちり管理していて、ほっといても論点整理とかスケジュール管理とかしてくれるから好き。
ちなみに家を買う理由も「中型犬が買いたいから」という、もはや資産形成とかではなく感情の部分で話してくるから、普段の合理的なジャッジとは違う側面もあって好き。
育ちがいいからか、日々の生活規範みたいなところが基本整ってるのも好き。でもお部屋の電気がどうもなかなか退出時に消せないあたりは気になるけど、些細なことだから関係なく好き。
服のセンスないわ、、とかよく言ってるんだけど、なんだかんだオシャレさは崩さずに会社に言ってるのもえらくて好き。なんか私は決して買わないであろうすべすべしてる生地の服とか持っててすごいから好き。
子どもたちのことを愛していて、もう小学校中学年なのに、毎晩寝る前にぎゅっとしてあげてて愛情深くて好き。私のことは毎晩ぎゅっとしてくれないんだけど、まあそこはするときはするから大丈夫、好き。
なんか寝れないから書き出したけど、終わらなそうだから寝ます。いくらでもかける気がする。今でもLINEのやりとりしてるときに、細かなことでもちゃんとありがとうって言ってくれて好き、とか。ほんといっぱいある。好き。
カンニングは卑怯であり、姑息であり、やってはいけないことだ。大前提である。
長いけど吐きたくなった。本当は墓場まで持って行くべきだと、ずっと思っていた。
だけどカンニングのニュースを見て以来、ずっとモヤモヤしていた。過去の清算をしたくなってきた。そんな年齢なのかもしれない。
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私にとってテストの点数なんかどうでもよかった。友だちと遊べて、学校の行事に楽しく参加できればそれでよかった。だけど親は違う。成績が全てだった。普段は優しくて褒めてくれるのに、点数を見たときは怒ってる。だから低い点数なんか取るわけにはいかなくてカンニングした。誰にもバレない上手いカンニングをしていた。
こんなことを言えば「カンニングをするなんてクズ」「性根が腐ってる」「カンニングした奴はぶん殴れ・退学」みたいな意見が出ると思う。そうだろう。自分もそう思う。そう思っててもカンニングはやめられなかった。やめたら点数が悪くなる。そうすると親に怒られる。第三者から指さされるより、自分の母に怒られるのだけは死ぬほど嫌だった。
「なんでこんな低いの?」「なんで勉強をもっとしないの?」「遊んでいるからだよね?」と責められる。
でも当時の私はそれに「はい、ごめんなさい」しか言えなかった。小学生だった当時の自分は「なんで?なんでがわからない」としかならなかった。しかし言えば「ふざけてんの?」と絶対に怒鳴る。怒鳴らなかったとしても頭悪いと思われるという事実が嫌だった。怖くて怖くて怖い。母が自分を否定してくるという事は、小学生の自分にとって死ぬことの次に嫌な事だった。母がキレたときの金切り声が嫌だった。
そして勉強しようと机に向かう。何もわからない。何をどうすれば覚えられるのかわからない。あ、そうだ、聞けばいい、そう思っていたのは最初だけだった。今思えばやらなければよかった。
小3くらいの時、学校の先生に「これがわからない」と聞く。先生は小ばかにしたように「こんなのがわからないの?!」と大声で驚く。クラスメイトに丸聞こえ。クスクス声が聞こえた。「わかんねーから聞いてんだよボケカス」と思った。「ひたすら書けばいい」と言われた。どうしても根本的な説明が欲しくて何度も聞いたが「あー、はいはい。これは教科書のここみて」と言われただけだった。先生はそのまま1軍のグループと一緒に遊んでいた。
また塾で算数の範囲が簡単でどんどんレベルアップして、学校で習っていない割り算に突入した時がある。初めてみる記号でわからない。いつも親切に教えてくれる信頼していた大人が休みだったので、別の人に「教えてください」と言ったら「は?!こんなのわからないの?!」と言われたのが今でも鮮明に思い出す。「えと、初めてみる記号で…」と怯えながら言うと「ぷwwww割り算なんて簡単だよ。ほら6÷2は、鉛筆6本を2人で割るんだよ」と。明らかに面倒くさそうな態度だったから「あ、はい、わかりました」と切りあげた。"割る"という概念すらわからなかった私は適当に解いて採点に出す。全部バツだった。泣きたくなった。全部バツは人生で初めてだったからだ。
中学受験期、受験用の塾に通い始めた。わからないことを塾の先生に聞いた。「この程度で質問しにくるの?こんなとこスルーしていい」と言われた。「この程度もわかんねーから聞いてんだよ」と思った。教えてくれたけど「こんなの簡単。余裕だよ。試験になんかでないよ」と言う。私にとっては本気で悩んで本気でわからなかったことだった。それは簡単なことで質問する質じゃない。自分の質問することは簡単すぎて馬鹿にされる。そう思うようになった。
親に聞く。「塾(または学校)の先生に聞きなさい」と言われた。怒られるかもと思い何度もお願いした。しかし母は上から目線で「ねぇ、なんでわからないの?こんなに説明しているのに?聞いてる?」と言った。私が「どうしてそうなるの?」「なんで?」と聞きすぎたのかぶち切れた。「理由より覚えろ!」
積み重ねによって、わからない→この程度もわからない・簡単と言われるだろう→自分は馬鹿→なら勉強したって意味ないじゃん。といったループになってた。
解説を読んで「なるほど」と思っても、何も見ていないと何もわからない。テキストを解いても見たことある問題だなで終わってしまう。そして解説を見て「あれと同じ問題だったのに覚えていない。自分の記憶力はダメなんだ。自分は馬鹿なんだ」と自分が嫌になる。もっと勉強が嫌いになる。自分も嫌いになる。間違えちゃだめだと普段の勉強で試験並みのプレッシャーを感じていた。そしてもっと勉強が嫌いになって机に向かっても宿題に答えを写す作業だけしてた。
また、父は「遊んでこそ人生。いろいろ遊べ!」そんな人間だったので、私は父親っ子だった。それもあって母に内緒で父と一緒に出掛けたり、買い物をした。バレたときは怒られたが父はヘラヘラしていた。母が父に怒らないようにカンニングをしていたのもあった。私の点数がよければ母は怒らない。父も怒られない。兄弟に飛び火がいかない。
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理科だけは楽しかった。星とか断層とか自然には興味があった。だから塾のテストでも理科だけは点数がよかった。全国順位も高かった。だけど一個だけ点数がよくても塾のクラスは上がらないし、母は「理科がひとつできたところでねぇ…」と言う。中学受験のメインは算数と国語だからと特に褒められなかった。理科のみの受験なんてないからだ。
父は勉強のことを「お母さんに聞いてね」としか言わないのでテストの点数を見せても「点数なんて気にしちゃいけないよ」と言う。励ましだと思うけど当時の自分は母と父、どちらも点数を褒めてはくれなかった。
母はいつも比べる。○○さんは、兄は、テレビのあの子は、同い年なのに、あんたも同じ塾通っているのに。そして仲の良かった友人を嫌がっていた。あの子のお母さん嘘つきだから、あの子貧乏で意地汚いから、あの子は小学生のテストすら0点だから。別に仲いいなら良いけどというが、そんな言葉は嫌いだから言うのだ。
ある時、酷かった国語のテストの点数を書き換えたこともある。先生と同じペンを使ってバレない程度に書き換えた。と思ったがうっすらとバレた。「こんなに間違えているのにこの点数なの?」その時の母の目を今でも覚えている。
母に疑われている。怒鳴られる。○○さんは×点なのにと比べられる。なんで?責めされる。また遊びが規制される。兄弟と比べられる。この子は頭がよくなくてと紹介される。こんな子に育てた覚えはないと言われる。塾の金が無駄だったと言われる。教えてもくれないのに勉強を傍で監視してくるようになる。趣味をバカにされる。
そんなことがドッと脳内を襲ってくる。おぼれて死んでしまいそうな罪悪感と恐怖で吐き気が喉元まで来るが、飲み込む。「そ、そんなことないよ」と答える。大きなため息をされた。冷や汗が止まらなかった。塾のラウンジでみんなが帰宅だと盛り上がる中、テストを見られて責められていた。小学生の頃のある日の記憶だが、今でも思い出すと頭痛と吐き気がする。
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カンニングがひどくなる。塾で一回遠回しに指摘された。親に連絡入っていなかったが、でもやめられない。「バレない方法は」と考え、バレない方法にたどり着いた。でもカンニングには限界があって多少は点数がよくなっても多少で止まる。
でも楽だった。カンニングさえすればちょっと点数が上がる。本当は自分の実力で勝負しようと勉強を頑張った。でもわからない。わからないのにやらなきゃいけない。怒られる。怒鳴られる。金切り声が響いてしまう。頭に全く入らない。やらないといけない何かをこなしているだけだった。
勉強する→わからない→宿題が進まない→進捗を見に来た親に「これしかやっていないのか」「なんで?」と責められる→わかんないと言えば「解説をみてもう一度解くの」と言われる→解説を見たときは理解する→また自力で解くがわからない→解説をみると同じ系統の問題だと気が付き自信を無くす→やる気がそがれて進まない→進捗を見に来た親に…と責められる時間と自己嫌悪の時間になる。
勉強なんて嫌いで仕方がなかった。答えを微妙にアレンジして写すだけの日々だった。勉強時間なんて写すだけなので10分で終わる。10分で終わると親が怪しむので、父が持ってた漫画を借りてこっそり読んでいた。自分の部屋があって良かったと思う。
「私、そばで見ているから」と母が監視しながら塾の宿題をしたことがある。しかし問題を見てもまず何をすればいいのかすらわからない。ずっと悩んでいると「寝てる?」「集中しなさい」としか言わない。怖い。責めてくる。「全然進んでない。なんで?」「なんでわからないの?」と責めてくる。私は「ごめんなさい。わからない」しか言えない。解説をバンと渡される。解説が難しすぎてわからないと母に言う。「文章の通りでしょうが!」と怒ってくる。ますます頭が痛くなって解説が頭に入らない。文字が嫌になる。責められる。そして私は限界に達し「わかんない!うるさい!ババァ!」と叫ぶ。母と喧嘩をして「親になんて態度だ!」と家をつまみ出される。そして「私が悪かった」と泣きながら家のドアをたたく。「勉強しないあんたが悪い」「勉強すればこんなことにはならない」と責めながら家に入れてもらう。そんなのばっかりだ。兄は第一子だから母は優しかった。弟は末っ子だったから母は優しかった。私だけいつもこんなんだった。
でも優しいところもあるからすべてが嫌いになれなくて嫌だった。誕生日は祝ってくれるし、お年玉だってくれる。私の好きな食べ物もわかっていて「あなたが好きな食べ物よ!」と夕飯を豪勢にしてくれることだってある。「男たちには内緒ね」と高級なお菓子をくれることもある。旅行にも連れて行ってくれる。だからなおさら怒らせたくないとプレッシャーがかかった。小学生の頃、勉強の話を家でしたくなかった。みんなで楽しく生活しているのに私のせいでぶち壊れる。勉強して追い込まないとと思っても全然できない。そして誰も見ていないお風呂で泣いてた。勉強のできない自分なんて。何で覚えられないんだ!バカだ!バカ!と自分が大っ嫌いだった。枕が濡れることもよくあった。
小学生の頃には戻りたくない。社会人になった今でも思う。社会のプレッシャーの方が何倍もましだ。
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小学校のテストは授業を聞いていれば簡単ですぐ解けたのでいつも満点だった。でも母は「学校のはあたりまえじゃん」と笑っていた。塾のテストだけを見て、塾のテストだけで怒っていた。
結局、中学受験は面接が重視されるところに受かった。おしゃべりは得意だった。
他の筆記だけの場所は全部落ちた。筆記だけのところはカンニングしていた。でも落ちた。そんな程度の能力だ。私は。カンニングしておいて落ちる。クズでバカだ。
親としては微妙なラインの学校だったらしく「受かって良かった」と言う裏では明らかに嫌がっていた。反抗期がくっそ尖っていた時期に「やっぱそんな学校いれるんじゃなかった」と言われていたのを覚えている。私が大好きな学校のせいにするなと私は怒ったから覚えている。
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中学に入っても母はテストの点数を見てきた。英語が酷くてすごく嫌な顔をしていたのを覚えている。英語は将来必要だとかどうでもいい必要性を1時間述べて、英語を教えてあげると言われたが上から目線だったので、案の定私はキレて断った。
そんな中、中学一年の先生は優しかった。一年が終わる時の面談で勉強が苦しいと相談した時こう言われた。
「君はどんなタイプの子でも仲良くなれる。これほどまでいろんなグループの人と仲良くなれるのは僕の教師人生40年で初めてだ。確かに成績は良くないけど、そこだけで落ち込まなくていいんだよ」そこで初めて勉強以外を褒めてくれる先生に出会った気がする。
「君の友人の**って子は成績がいいから、その子に相談してみたら?」と目から鱗だった。自分は小学生のころから同級生と比べられていたせいで同級生に聞く=恥だと思っていた。人に質問する=恥だとも思っていた。
そこからカンニングをしなくなった。した記憶もないし、していないと断言できる。
成績は悪かったが、学校生活はとても楽しかった。先生たちは私の成績に頭を抱えていた時もあったが「まぁ、君は学校を楽しんでいるからいいか」みたいな感じで責める人はいなかった。学業以外で頼られることも多かった。追試会場でも追試仲間と一緒に先生に「授業が面白くない・わかり辛い。こうしてほしい」と相談することも増えた。そこの校風で職員室がカフェのようなノリで入れるため、おしゃべりが好きだった自分は先生に遠慮なく雑談を仕掛けた。そこからテストの点数が悪いぞお前→じゃあテストどうすればいい?→ここを山にして覚えればいいんだと教えられる→山なら授業のあそこがわかり辛いなどを相談する。
追々々々試くらいまでしょっちゅう行ったことがあるが、先生がバカにしてきたことは一度もなかった。むしろ「君はよく逃げずに会場に来るねぇ」と感心していた。そこから追々々々試に来る、忍耐だけあるバカ共に一から丁寧に教えてくれた。ありがとう先生。
そこから母への反抗期が激しくなった気がする。父方の祖母が亡くなったからのもあった。祖母は戦争体験者で父と似ていて「自由で笑顔であることが一番」な人だった。私はそっち派だった。母からしたら姑としていつも喧嘩していたのは覚えている。
母から何を言われても「うっせぇんだよ!」で返した。小学生の頃は母に怒られたら怯えるしかなかったが、中学〜高校は「世の中は勉強だけで評価されるんじゃないんだ」と感じ、勉強のことしか言わない・認めない母と時には殴り合いになった。
なんなんこいつら?
記事 https://www.cnn.co.jp/world/35221597.html
たぶんソース https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/chousa/r060702_houkoku.html
年齢 16〜29歳
エリア 全国
・痴漢 21%
...
・当てはまるものはない 46%
※ただし、複数回答で3つまで
現在、通勤・通学、外出時に痴漢にあう不安はあるか? はい19.4% いいえ63%
痴漢にあった人のうち
痴漢にあった人のうち
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お前らの体感治安どうなってんの?まったく信用できないわ
声がでかすぎる、何だよ8割って
前回やった一都三県在住の16〜39歳の調査では、女性の生涯被害経験率が45%
男女比は今回と変わらず
統計的な話をすると、年齢を広く取ったほうが「生涯被害経験率」は当然上がる
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注目ブコメを見ていくか
cardamom
昭和50年代から既に、小学校の通学路に「ちかんにちゅうい」って看板あったし、1割なんてもんじゃないと思うが。行政も把握してるだろ。今まで何やってたんだよ。
lisagasu
10人に1人なら私が通学してた時代より被害は減っているのかもしれない 当時は10人に8人は被害に遭ってたと思うので
loomoo
痴漢というと電車内の痴漢だけに限定されそうだけど、幼児に対する性犯罪は報告されてないものも多いだろうから潜在値はもっと高いと思ったほうが良いと思う
kurotsuraherasagi
自分の周りは体感9割痴漢被害に遭ってたな。痴漢にあったことないって言ってる人は女だと1人(1割ではなく1人)しかいなくて、「今日も痴漢にあったわ〜」を毎週誰かしら言ってる感じ。改善してるのか、地域差か…
edamametomato
日本は性犯罪が少ない国!って言うの辞めた方が良い/痴漢通報しても揉み消されるパターンをSNSでよく見る/自分が小学生の時も被害にあったし帰りの会とかでも注意喚起されてたからな。未だにトラウマだ。
全員嘘つき
子供に「首に水筒をかけてたら危ないぞ」と声をかける事案が注意喚起されたとライブドアが記事にした、多分事案に突っ込むネット文化に乗っかったバズ目的の記事だろう。
https://news.livedoor.com/article/detail/26808998/
これに対する地元民の反応が、男性は『長閑なところだし100%親切』に対して女性は『田川市ではわいせつ声かけ事案が続いてるのでおそらく警戒を強化されています』
同じ地域で住んでいても男性は変質者なんかいない平和でしっかりした地域と感じ、女性はわいせつな声かけをする事件が続いて警戒を強めている地域と感じている。
ワイの県で草
田川は長閑なところだし100%親切だろうに…道行く中高生ですら通りすがりに見知らぬワイに挨拶するくらいしっかりしてる地域やぞ
田川市ではわいせつ声かけ事案が続いてるのでおそらく警戒を強化されています。そういった背景も是非ご承知願いたく。
田舎の小学校では『不審者徘徊や声かけはとにかくすぐに通報をお願いします』ということになっています。
人の目も少ないのでやむを得ない所もあります。
俺が黒羽の10工場に配属になった7月8日の、5日後の、平成25年7月13日に、宝塚市役所の納税事務所が全焼して、地区担当員の古俣が書いた物が全焼していたり
平成30年6月26日午後3時に、交番所長の稲泉健一が30回刺されて死亡し、死体から取り上げた拳銃で、小学校警備員が殺害されている(手段、顔面への撃ち込み)
そんな女、いる?なファッションに関してはしまむらとかイトーヨーカドーとかの量販店では売ってることが多い気がする
自分で専門店で買う層にはあまり馴染みないけど、こどおば、こどおば予備軍の過保護家庭、その兄弟とかにとってはリアリティーあるんじゃないか
オタクにはそういう家庭多いだろうし
チー牛過ぎてワロス
https://news.yahoo.co.jp/articles/f7eb17a6ac143e2217a4d29dffb391a0095c0c89/images/000
警視庁捜査1課は’22年4月2日、都内の小学校に勤めていた河嶌被告を強姦の疑いで再逮捕した。河嶌被告は同年2月から3月にも、勤務する学校で女子児童が水着に着替える姿をスマートフォンで撮影したとして2回逮捕されている。
「’21年11月、不審に思った女子児童から学校に相談があったそうです。学校は警察に連絡。河嶌被告の自宅を家宅捜査すると、スマホから女児を盗撮した写真や動画が20点近く見つかった。他にもスマホには、インターネットからダウンロードしたと思われる児童ポルノ画像が1000点ほど保存されていました」(全国紙社会部記者)
盗撮被害にあったのは、いずれも河嶌被告が担任を受け持っていたクラスの女児だった。
「河嶌被告のわいせつ行為は、それだけではありません。以前勤務していた小学校でも、女児をヒザの上に乗せたり、身体を触るなどの行為を繰り返していたそうです。河嶌被告の行動は学校でも問題視され、TBSの報道によると’17年に3ヵ月の停職処分を受けていたとか。ただ事件性はないとみなされ、当時、警察には相談していませんでした」(同前)
「事件が起きたのは’12年5月です。自身が勤務していた小学校の元教え子のAさんを埼玉県内の知人宅に呼び出し、性的暴行を加えたとか。河嶌被告は、こう言ってAさんを口止めしていました。
逮捕のキッカケとなったのが、河嶌被告の自宅から押収したパソコンです。内部には、少女を乱暴した時に撮影した動画や静止画が保存されていました。逮捕容疑となった事件以外にも、少女は複数回性的暴行を受けていたようです。河嶌被告は調べに対し、『事実関係について何もお話しすることはありません』と供述していました」(同前)
海舟は小学校低学年の頃にお母さんが急にいなくなって大変な思いをしてきたはずです。
「中学生の頃まではサッカー一筋という感じでモテている印象はなかったけど、ずっとみんなの人気者でした。高校に入ってからは彼女もできたと聞いたことはあります。
地元愛や友達の絆を大事にする子で、高校進学後やプロに入ってからもよく地元に帰ってきて友達と大人数で遊びに行っては、全員分おごってあげるなど、大盤振る舞いしていました。
私の両親は6歳のころに離婚した。
ある日突然、父が私と姉を実家に連れて行った。
父は離婚したくて、両親に相談したところ連れて来いと言われたそうだ。
ところが、祖父母は「私ちゃんは育てられない」と言ったらしい。
父は祖父の会社で働いていたし、両親の手がないと子供を育てられない、自分だけでは育てられないから、両親の言うことを聞くしかなかったらしい。
祖父(父の)は祖母(母の)に電話をして、「その家を三日以内に出ていけ、お前の娘(母)は大阪に連れて帰れ」といったそうだ。
母は私と姉を父の実家に迎えに来た。私はその時のことを覚えている。
祖父母と母親の言い争う声、母の泣き声、今なら母が不憫で仕方ない。
母は当時28歳とかで、父は37歳とか、実家は遠方で誰も頼れず、誰にも気が付かれず、頭のおかしい義両親にいじめられていたのだ。
母の実家がサラリーマン家庭であることを馬鹿にし、週に何度も小言を言いに訪問し、二人の娘のうち、一人だけをかわいがり、母は参っていたんだと思う。
そんな状況の中で子どもを拉致られ、取り返しに来たら罵倒され、姉の方は絶対に返さないけど、妹の方なら連れて帰れと母は言われたのだ。
祖母が実際にそういったらしいが、隣にいた私の父は一言の反論もしなかったそうだ。
母と私はこうして二人で暮らすことになった。
別居状態で姉の親権を一年ほど争っていたけど、父からの婚姻費用も貰えす、離婚は成立していないので母子家庭状態かつ収入もほぼないのに児童扶養手当も貰えない状況で、母は離婚に応じるしかなかったらしい。
父は私に毎週会いに来た。父は私のことが大好きで、一緒に暮らしたいとしきりに言っていたし、なんでも買ってくれて何でも食べさせてくれた。
私は父が大好きだった。
母との暮らしは極貧だったうえに、母は病んでしまってアル中、家はゴミ屋敷だった。
家の中にコバエが死ぬほど飛んでいたし、シンクはカビだらけ、家中めちゃくちゃだった。
怖いもので、私はそんな家の中でまともな感覚を失い、その状態に完全に慣れていた。細かいエピソードは割愛させてもらうが、私も母もまともじゃなかった。
そんな中、母に彼氏ができた。(離婚後、男遊びはまあまあしていたみたいだけど、さすがに育児放棄はしてませんでした。毎日帰ってくるし、男を連れ込んだりもしてません。そんな中一人の男が彼氏になりました。)
これを読んでくださっている人の中には、ヤバイ!って思った人がいるかもしれないけど、そうです、やばいです。
この彼氏、DV男でした。すぐ不機嫌になるし、すぐキレるし、機嫌を取ってあげないといけないタイプでした。なんでや!!!!
母はこの男と付き合いだしてから、家にいるときはずっと電話していた。マジでずっと。
母はキッチンでずっと電話してて、私はリビングで一人でご飯を食べて一人でテレビを観て、母と会話なんてほぼしない生活になった。やば。
私が母と話したくて話しかけに行くと、あっち行ってて、って感じだった。なんかかわいそうになってきた笑
まあ当然私は不愉快極まりないわけで、最悪!!って感じでした。
その男と初めて会ったのはいつだったかな、忘れたけど、私と母でその男の住む地域に遊びに行った。
その時、その男は私と母をいろんなところに連れて行ってくれたけど、私は終止不機嫌。
なんせ父が大好きだったし、母が違う男に夢中になり、無理やり連れてこられ、何もうれしくないんだから。
その帰りの電車で母に叱られた。
私は何も反論できなくてぽろぽろ泣いた。なんか悲しくて悲しくて仕方なかった。
そのうち私と母の暮らすアパートに男は入りびたるようになった。最悪である。
母とその男の喧嘩は壮絶で、すごい怒鳴りあうし、母は携帯を折られるし殴られるしガチやばかった。
私は殴られたことないけど、なんで付き合ってるのかわからなかった。
夜、私に風呂に入ってこいって命令して、私が風呂に入っているときに子作りしていた。グロすぎ。ちょっと成長してからあの時のあれって...ってなった時吐きそうになったわ。
そのおかげで、私が小3のときに母に赤ちゃんができたので、母はその男と結婚すると言い出した。意味不明だった。
引っ越すから父や姉と会えなくなるし、転校することになって、今度は私が病み散らかした。
私と母は、その男が住んでいる県に引っ越した。毎週のように会っていた父とも会えなくなり、友達もいない、親戚もいない、来たこともない土地に連行された。
小4にして人生どん底、母しか頼れないのに、母は新しい夫の世話と赤ちゃんに追われ、私は人生でこのときが一番孤独だった。
私の反抗的な態度に腹を立てると、男はその文句を母にぶつけて喧嘩がはじまる。
喧嘩は私のせいだと母に怒られる。
(あと母のいないところで若干セクハラされたことある実は。忘れてた。)
私と母はこのころから毎日のように喧嘩していた。今思えば、私の反抗期(?)と母の余裕のなさがベストマッチだった。
私は母に殴られるし、物投げられるし、首絞められるし、髪をハサミで急に切られるし、児相案件では??って感じだった。
母も母で、めんどくさい男の機嫌を損ねるうっとうしい娘と生まれたての赤ちゃんを抱えた貧乏生活で、すっごい大変だったんだと思う。今ならわかるよ。
まあ自分で選んだんやろって昔は思っていたけど。
当時はマジで貧乏で、母は私に、「パパに電話してお金もらって」って言ってきてた。
正直これは本当にしんどくて、父は母にお金を渡したくないから、超板挟みだった。ちなみに母の再婚後に父は養育費を払うのをやめました。
母もわかっているから、私が欲しいものを買うお金をもらう体で頼めって言ってきた。あれが必要、これが必要、あれが欲しいこれが欲しいって言えみたいな。
私はその電話を本当にしたくなかったけど、母は絶対に譲らないから、電話するまで何時間でも迫ってきた。
小学生の私はそこで折れないほど強くなかったから、父に電話してた。
父にお金をせびるのは中学生くらいまで続いたかな、父には申し訳なかった。私もつらかったんだけどね。
私は本当に病んでて、小学生の頃は腕切ってた。笑
中学校に入ってからは人生楽しくなってきて、部活に勉強に忙しくしてて、私の中で家庭が占める割合が減ってきたから、そこまで病み散らすことがなくなった。
母と男と弟で普通の家族なのに、私邪魔じゃねって思っていたことぐらい。
でも母との仲は最悪で、喧嘩はヒートアップしてた。私も体力がついてきたので普通に殴り合いしてた笑
そういえば母はなぜか友達と遊びに行くことをよく思っていなかったのがすごく不思議。その喧嘩すごく多かった気がする。
高校受験の時はそれなりにもめた。私は県外の高校に行って親元を離れたかったけど母は猛反対。
私も頑張って説得しようとしたけど、結局無理で戦意喪失、勉強する気が失せて公立落ちて私立に進学することになった。
高校に入ったらもう無敵、親に何言われようが無視。なんでも強行突破できるくらいには私も強くなった。
バイトも早々に始めたけど、はじめの一年くらいは母管理だった。普通にお金取られてたけど、ほんと大したことない。小学生の頃のつらさに比べたら屁でもない。
あ、高校は自分のせいで私立になっちゃったので学費はバイト代で払うと申し出た。
3か月に一度13万くらいの引き落としがあって、私は月3万母に手渡し。
補助金は後から振り込まれるので、いったん払う必要があり、私はバイト代を渡していた。
私立助成が月3万ちょいあるから、絶対黒字だったけど、私そんなに払わなくてよかったけど払ってた。自分が私立選んだんだし、母はいるって言い張ってたし。
あと携帯代も1万円渡してたから、毎月母に4万円手渡ししていた。
だからいっぱいバイトしてた。友達出来てすごい楽しかったから、別に苦じゃなかった。
さあ大学受験!私は絶対に実家を出るという強い意志があったので、都内の大学に進学することを決めた。
父の出番が来ました。父です。私の父は先述の通り私大好きなので、私が上京するよと言ったら大喜び、生活費を出してくれることになりました。
さすがに一緒には住まなかったけど、生活費(家賃、光熱費、食費)を毎月定額で支援してくれた。
わたしってスーパーラッキーガールだと確信しました。なんて恵まれてるんや。
ちなみに学費は全額借金です。これは仕方ないし文句もない、私の責任において私がしっかり返済する。
大学行けただけで大感謝。ほんと素晴らしい人生。ラッキー人生。
大学に入学し、一人暮らしがはじまると、お金に余裕は全然ないながらも、めっちゃ楽しい生活。
ただ定期的に母から金貸してって言われることがだるいくらい。消費者金融とかに借金してほしくないから貸してたけど返ってこないのであげたことにする。
母と距離を置くようになったらめっちゃ仲良しになった。最高。マジ友達。
私と母は一緒にいろいろ乗り越えてきた戦友で、家事育児(弟)も完全ツーオペで、離婚も再婚も貧乏もDVも全部一緒に一生懸命乗り越えてきた戦友。
母の苦労を一番わかっているのは私で、私のことを一番よく知っているのももちろん母。
母は立派な親じゃないし、立派な人間っていうわけでもない。
親なのに、母なのに、大人なのに、って私はずっと理想の母と比べていたけど、母は母でしかないことにようやく気が付いた。
母は母なりに一生懸命やったし、母もどうすればいいかわからなかったし、申し訳ないとか本当はこうしたいとか、いろいろ考えてたはず。
だから今恨んだりしない。文句は全然言うけど母を断罪できるほど私は偉くないし。
ちなみにDV男はDVこそしなくなったけど、(何回か警察沙汰になってる笑)いまだにわがままくそ自己中男です。
でも昔に比べたらほんと丸くなった。ちなみに私のこと大好き。マジで。帰省するの超楽しみにしてるっぽい笑
父は私を溺愛しているから、私と一緒に住みたいとか、将来は一緒に住もうとか、私と暮らすのが人生の目標だったとかいろいろ言ってきます。
皆さんどう思いますか。
どういった経緯で離婚に至ったのか思い出してください。
私はちょっと複雑なんです。
私と母をある日突然捨てておいてって思っちゃう。姉と突然引き離して。
離婚はどっちが悪いとかじゃないとはいえ。手段は悪かったんちゃいますの。
父がいなければ大学に行けてないし生活もできてないから感謝はもちろんしているけど、私と母がどんだけ苦労したと思ってますの???
ついでに姉も大変病み散らかして大変こじらせていて、ヲタクの高校中退のフリーター。
姉が父の実家でどんな思いで暮らしてきたと思っているの。ある日突然母親を奪って。
私は母に申し訳なくて父と一緒に住むことはとてもできない。でもはっきりそう言えない。今は父に生かされてるから。
これはコンプレックスの話なんですけど、いとこの存在が私の家庭環境コンプを刺激するんです。
それぞれ大変なこともあると思うけど、私の目には普通で幸せな家庭に写る。
いとこたちは両親がそろった家で、食べるものにも住むところにも困らず、お金の苦労も知らず、本当に大切に育てられている。
誰かを恨んでいるわけじゃないけど、自分が惨めで仕方ない。
私が欲しくて欲しくて仕方なくてどんなに努力しても頑張っても望んでも絶対に手に入らないものを生まれながらに持っているじゃん。
普段は接点ないから感じないけどたまに関わると自分が惨めになってて。
そんなどうしようもないこと考えるなよって思うけど、ほんとに誰にも言えなくて、誰かに聞いてもらったらすっきりするかなと思ってこれ書くことにした。
長すぎて誰も読まないかもしれないけど、私の誰にも言えない話を読んでくれたら本当にうれしいしこの気持ちが晴れる気がする。
読んでくれて本当にありがとう。読んでくれる人がいたらまた思い出話させて。
猫の地球儀2冊 EGコンバットと鉄コミュはkindleなかった・・・イリヤはあったけど個人的にEG・猫・鉄に比べるとあんまりだったんだよなあ・・・
つめたいオゾン 瀬戸なんとかさんの別名義 他のもレアになってるのにkindleなってねーの大杉
ロードス島戦記、新、伝説の合本 教養としてふれとかないといかんのかなと つかディードリット目当てだけど。 りういもちょっとひかれたけどまあもうよまねえだろうなと
パトレイバー小説 別媒体で買ってた気もするけどどこで買ったか忘れたから買いなおし
ギリシアローマ神話 小学校低学年のとき好きだったんだよね神話 今だと創作するときのネーミングやら元ネタにもなりそうだしってことで
中学校→体育がまるでできない&いじめで病みながらなんとか通う
高校→体育がまるでできないのでそこで病んだり親友と言える人がいないことに病みつつそれなりに過ごす
一社目→社長から言葉のパワハラを受けながらもなんとか3年勤務
二社目→いわゆるサイコパス的な先輩と会社との板挟みに病んで休職からの退職
三社目→偉い人万歳(オブラート)な社風にうんざりしたり社長から他の社員への酷い罵倒を聞いてしょんぼりしたりしてすぐ退職
四社目→今。派遣だけど緩めの仕事で日々始業前の動悸と戦いながら働いている
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なんでこんなメンタル弱いんだと思いつつ、弱いなりになんとかここまでやってきた、割と頑張ってきたんじゃないかと思う
https://x.com/sweetestslipper/status/1813221082691956919
sweetestslipper 🇵🇸
@sweetestslipper
娘さんのものと思われるピンクの鍵盤ハモニカを "小学校で使用済み" と銘打ってメルカリに出品って、大胆ですね。しかも出品者の名前と写真からFacebookで娘さんのお姿も確認可能、特定の中学校の受験参考書まで出品とか、同じ幼い娘を持つ親としてけっこうビックリです😵
今野忍
@shinobukonno
まじで小学校低学年くらいまでは親がそういうところ気をまわしてあげないと
俺は小学校?中学校?でアルファベットのeを鏡文字で書いてるレベルだったけど、20代後半頃にふと英語やるか〜と思って1年くらいでTOEIC900くらい取ってから多少はできるようになった。全く英語得意とは思わないが。
小学校:
中学校:
高校:
社会人:
個人差が大きい気もするなー
増田のお嬢さん、授業中にいじくるなら本人の視界に入らないシニヨン(団子)とか編み込みの一つに束ねたやつ(顔の前に回り込みにくい)とかどうだろう
毎朝母にスーパーハード系スタイリング剤と太いヘアゴムで、ガッチリしたポニーテールにされており、風呂前まで解くという発想がなかった
そして、風呂上がりや外出予定のない休日も必ず一つに結んでおくこと
家の中で落ちた髪は自分で拾って捨てること
髪をおろすのはお出かけとか発表会とかの特別な日のみ
小学校低学年の頃に母が1ヶ月くらい入院したの機に髪のことは全部自分でやるようになった
増田の言うような「汚らしいボサボサロング」(の子はやはり散見された)は当時の自分の美意識でも許せなかったので、スタイリングツールを駆使して自分にもできるツーテールやおさげにしていた
ヘアケアは過去の母や雑誌・新聞の身だしなみ系記事から学んでるし、自分で言うのもアレだが人より器用で空間認識能力に長けてるので、それほど苦労しなかった
前田 久美子
娘が小学校2年生の冬にアロを迎えました。
言う理由でした。
その娘も今年24歳🌱
15年間たくさんの思い出をありがとう💓
井上修二
@shoes0929
愛犬チワワのりんちゃんが12歳と1ヶ月16日で虹の橋🌈を渡りました
僧帽弁閉鎖不全と診断された後1年8ヶ月頑張ってくれました
悲しいけど涙は流しません!
裕福な家庭に生まれた。
港区で生まれ育ち、幼少期から何不自由なく暮らし、いくばくかの愛情も与えられた。
多少要領も良かったようで、小学校から高校までをエスカレーターで過ごしたのちに一流と言われるような大学へ進学した。
容姿や周囲の人間にも恵まれ、当時は気がつかなかったが思い返せば幸せな時間をおくってきた。
こう聞けば羨ましがられるかもしれないが、これらと引き換えに失ったものもある。
多くの人は、お金持ちになりたい、いい家に住みたい、素敵な家庭を築きたい…多かれ少なかれ何かしらの目的を原動力として学業や仕事に励んでいるだろう。
自分にはそれがない。というよりも全て達成していた。
裕福がゆえに、およそ目的となるようなあらゆる体験を幼いうちに済ませてしまっていたから。
そんな空虚な中で仕事だけは小さな動機となっていたが、それなりの才があり欲しい評価をすでに手に入れてしまった。
残った人生の動機は親孝行だったが、数ヶ月前に父が亡くなってしまった。
母は幼い頃に他界したので、自分は天涯孤独の身となったことになる。
成し遂げたい目的があれば立ち直れたのかもしれないが、そんなものは残されていなかった。
社会の中で実現したい欲求があれば良かったのだが、前段階となる自己の欲求が消失している自分に見つけられるはずもなかった。
まだ20代も半ばだが、おそらく自分の人生はすでに終わった。このまま朽ち果てていくことを薄々感じる。
だらだらと書いているうちに何が書きたいのかもわからなくなってしまった。
同じような幼少期を過ごした仲間が自分のようにならないことを祈っている。
めでたく嬉しく感じている。
彼らの上の子達はディズニーの高い英語教材を買って勉強しており、一番上の子は英語のプリスクールに通っている。月に十数万かかるらしい。
兄の妻の両親も裕福だったので、そこからも援助を受けているそうだ。
近所の若い夫婦でもそういう教育をしている家庭はかなりいて、10年前には地方では考えられなかった私立小学校に行く人も増えた。
もしも自分(年収400万)と彼女(契約社員→心身壊して現在フリーター)が子供を持てたとしても、そんな教育をしてやれない。普通の保育園に行かせて、普通の公立に行かせるしかない。
しかし同級生達を見たり、保育士の友達の話を聞く限り、普通の保育園に行ってる層は正直昔より粗野な割合が増えている印象があり不安がある。
子供達が小6になった時、私たちの子供はただの小6で、兄や近所の人の子供は当たり前のように英語が喋れて、教科書の内容も中学レベルまで行っており、荒れてない環境で人生を謳歌していく小6なのだ。
私たちの子供にとって子供手当は学資保険等になるのだろうけど、兄の子供達にとっては習い事や楽しい体験に変わるのだろう。
その先も格差は拡がって行くだろう。
兄の妻には何回出産しても待っていてくれる雇用の席があるが、私の彼女にそのようなものはない。
私の職場は小さい会社なので、妻の出産のため何日か休みたいと言った人が会長と社長にボコボコに文句言われて断念するのは恒例行事だし、産休もワガママ扱いである。
家も建てられない。