はてなキーワード: 専制君主とは
日本は(実質的にはともかく)絶対王政専制君主国家ではなく、一応建前だけでも民主主義が日本国憲法で保証されているし、北朝鮮の正式国名が朝鮮民主主義人民共和国なのに全然民主主義でないという程度よりはわずかに民主主義が機能している国だ。
今、お前が言ったような、お上が決めたことが嫌なら日本から出ていけ、というのは民主主義の精神に反する。
政権や官僚組織、行政などの機関は彼ら自身の地位のためにあるのではなく、本来は国民のためにあるものだ。
国民が暮らしくいと感じる制度があれば、国民はそれに異議を唱える権利がある。
そういうことを言うと、こんなところに書き込んでいないで実際に行動起こせよ、という奴が決まって出てくるが、同じことを思う人間を集めて結束させるためにこのような場所に書き込むことは行動を起こすために必要なことだ。
言ってることは間違ってないんだけど、たぶん語っている場所が違うんだと思う。
セイバーの政治は今で言う民主主義だし、焚書坑儒やキリシタンの迫害などに見られるように、専制君主的な中世の政治体系から見ればむしろ邪魔な思想。
だから民草のための政治を唱えたセイバーのあり方はたしかに正しい。
だけど、イスカンダルもギルガメシュも衆愚政治の弱点についてしっかり語っていたように、現代の民主主義もその脆弱さを見せているじゃない。
当時は武力行使こそが征服の象徴であったけど、現代的な資本主義の闘争によって行われるものに置き換えて考えるとすれば
いわばそれは現代におけるスティーブ・ジョブスやビル・ゲイツ、あるいは孫正義、松下幸之助のようなものであったとも言えないか。
たぶんイスカンダルもギルガメシュも、当時であるからこその武力闘争を行っただけで、現代の資本主義のルールの中での闘争であればきちんとそのルールに則って征服すると思うよ。
そういう意味で、思想や思考の根本的な欠陥に対する明確な指摘をセイバーに示してみせたイスカンダルに、たしかに覇道たる王の生き様(というより帝王学だよね)を見たと思うよ。
もちろん、孫正義もジョブスもゲイツも、現代の一般人にとっちゃ雲の上の人で、興味のない人にとっては「なんのこっちゃ」だけどね。
元記事がどっかに流れてしまって、大したことを言ってないので探すのも面倒なのでこのまま書くけども、
民主主義より独裁のほうが効率よくないか、という話の反論というか徒然なる雑感です
まず基本的に、会社と国家だと、会社は経営者の経営が失敗したら倒産して社員は失業して、
それはそれで大変なんだけど失業保険とか再就職とかそこそこ逃げ道があるんですが、
国家が破たんすると会社と違って逃げられないという問題があります
日本語なんて日本でしか通じないですし、今どきはどの国も難民に冷たくて排斥されますし逃げられないですね
つまり会社は経営失敗してもしょうがないけど、国家は運営失敗しちゃいけない
国の運営に参加してる人(国民)は、そういう「絶対に引けない戦い」をやってる
つぎに、経営や政治がやってみて上手くいくかどうかは、究極的には「わからない」です
一部の例外を除いで正解なんかないので、特定の事業に全リソースを注ぎ込むようなカッコイイことをやって
上手くいくかどうかは時の運というのは、会社はやっていいけど国家はやっちゃまずいです
先進国のイギリスとかが成功したのはアメリカ大陸やインドアフリカを筆頭に超絶に搾取しまくったからですが、
そのあとを追いかける国が真似しまくったのが啓蒙専制君主とか重工業に集中投資とかそういうやつで、
今どきだと、いわゆる開発独裁ですよね。ソ連の五か年計画みたいのも入れちゃっていいと思うけど、
工業とか何もないところに工業を導入したら上手くいくというのが開発独裁の言い分ですけど、
しばらくすると高成長でごまかしてたのが成長が落ちて、取り分の配分で意見が分かれるようになって
日本も明治から戦後の高度成長期、自民党一党政治でずーっと開発独裁と呼んで差支えない状態でしたが、
80年代にセカイイチな経済になったあたりで正解のない政治と向き合うようになり、それで政策失敗して今に至ります
さて、話の方向をちょっと変えまして、国会の話し合いとか時間の無駄だよねって件ですが、
選挙で自分たちの意見を表明する人を出して話し合いをするわけですが、あれで大事なのは合意形成なんですよね
政治って、「あれはやらない、これはやる」というイエスノーもありますけど、
「あれもこれもやらないといけないけど、どこから順番に手をつけようか」ということをやりまして
橋をかけるのが先か、保育園を建てるのが先か、優先順位をつける
もちろん、最終的には全部やるということで、それぞれの現場に議会の結果を持ち帰って、
「後で橋をかける順番になったので、先に保育園を作るのを協力してくれ」と、選んでくれた支持者に合意を説得する
みんなが「自分の意思で協力する」体制を作るための議会なんです
これが議会がないとどうなるかというと、合意してない人にやらさないといけなくなる
自発的にやる気がある人だったら、自分で動いてくれると期待できます
けど、やらされてると感じてる人だったら、隙を見て自分の都合でサボります
サボる奴は監視して管理すればいいだろう、と思うかもしれないけど、そうすると、管理費がかかります
人間、自分の面倒もろくに見きれないのに、他人の全部を監視できるわけがない
管理って大変なんです
会社だって、人数が増えると少人数の頃に比べて管理費が膨大に膨らみます
IT革命って「管理費がちょう安くなるよ」って話だったはずなんですが
現状、総トータルの管理費はあんまし変わらん感じでして、むしろ増えてたりもしまして
大企業で10万人単位かそこらの管理で大変なのに、日本国の場合、億ですよ億
1億の人間を監視して管理して効率よく動かそうと考えた場合のコストって、どれだけかかるか見当もつきません
警察官をどれだけ増やせばいいのか。警察官を監視する内部監査職をどれだけ用意すればいいのか
かといって、管理しきれないからと放置して、みんなが好き勝手に動いたら、効率よくなるわけがない
独裁とか専制とか、管理費用がかかりすぎる仕組みを高成長率が期待できない状態でやったら、管理コストで国家が縮小してくしかない
地下資源取り放題とか植民地搾取とか奴隷狩りとか、そういう美味しい搾取が出来るなら話は別です
独裁体制で軍事増強して韓国や中国に攻め込んで奴隷労働者を確保できるとかね
今は乱世だ、朝鮮半島を再植民地化して搾取しようとか、そういうビジョンがある人が独裁を唱えるなら、それはそれでアリかと思ったりします
それが不可能というなら、国内でコスト負担するしかないので、つまり国民負担がかなり重くなります
http://anond.hatelabo.jp/20160609124904
色々な答え方があると思う。
戦前の軍隊では「故郷では食べられなかった白米を食べられて嬉しい」という兵隊が多くいた。
稗、粟、黍などを主食とする地域、白米を主食とする地域など、日本の農業は多様性に富んでいる。一地域内での多様性という意味でも同じ。
比較史的にみて日本の人口変動がかなり安定的に推移しているのは、そのことと無関係ではないだろう。
日本においてジャガイモは「飢饉対策」として導入されており、要するに「主食の変更」というより「農業多様性の増加」を目的としていたように思われる。
ちなみに最近は「主食」という概念自体があまり普遍的ではない(特定の地域でしか通用しない)概念であるという指摘もされているのだが、ややこしいので略。
2.税と米
こうした多様性にも関わらず、米が「主食」とみなされていることの一因は、いわゆる「年貢」の存在に求められるだろう。
白米が貨幣的な性格を持ち得たのはなぜなのか、「私鋳銭や破欠銭などの悪銭が一般に流通し、貨幣の価値が安定していなかったから」と言われている。
16世紀ごろから戦国大名が年貢を銭納から穀納に切り替えるので、そのころに画期があったのだろうと思われる。
要するに、ジャガイモが伝来した16世紀以降においても、米は作らざるを得ないものだったのである。
「税の徴収」という観点から江戸幕府が農業政策の中心を米においていたとして、
「農民・商人による自発的な変化」としてジャガイモ中心の食文化が生まれる可能性はなかったのか、という疑問は当然生じるだろう。
結論としては、「可能性がなかったことを否定するのは悪魔の証明に等しく、困難」だが、17世紀以降、国家の干渉によらずして自発的に食文化が大きく変化したという事例は極めて稀であり、日本においてもまずなかった、ということになるだろう。
不安定な生活を送る農民にとって主要作物を変化させることは大きな博打である。プロイセン、ロシア、(イギリス支配下の)アイルランド。ジャガイモで知られるこれらの地域は、いずれも専制君主や植民地政府の苛烈な支配のもと、ジャガイモの普及を進めていった(中公新書『ジャガイモの世界史』を参照)。日本においても明治以降、北海道や、満州においてジャガイモの作付が奨励されている。その意味では、日本では明治以降にこそ「ジャガイモの主食化」の可能性があったということになるのかもしれないが、一方では「日本食」という観念が広がりを見せ、他方では食の多様性が増大しつつあったのだから、ジャガイモが「唯一の主食」の地位を占める可能性はもはやなかった。
怖がれ怖がれ。もっと怖がれ。
才能があったり、優秀な人であったりする人に対し、条件反射的に
では溜息を吐いてる君のために
オレの思い出を話すことにしよう。
「俺がすべて決める。おまえらは俺の命令に従うことだけ考えろ」
毎日そう言い続け、怒鳴り続けていたのが会社の常務で、妻が専務、
社長が常務の妻の母という典型的な同族会社でオレはバイトをしていた。
なんとか職場は持ちこたえていた。
8か月苦しみ抜いて死んだ。死因は胃癌だった。
死んだあと葬式があったが
出席した従業員は一人もいなかった。
その日ほど明るく、楽しく、笑い声の多かった残業は無かった。
同僚はみんな口には出さずとも
心の中でそう思っていたのだ。
「常務! 飲んでください!」
「遠慮しないで飲んでください常務」
「常務は酒の飲みすぎで死んだよ」
「えっそうなの?」
「効果の無い抗がん剤をたっぷり使ったせいで、ムダに苦痛が長引いたそうだよ」
こんな感じで宴会はもりあがり
同僚みんなで大爆笑した思い出は
オレの人生の最高の思い出となった。
あれから21年が経つ。
労働力を確保できず自滅して解散したらしい。
かつての従業員の恨みがまだ残っている。
だが、ほんとうのジョブズは、もっと冷酷な人間だったそうです。
妹はさすが作家だけに、事実を美しく描くことに長けているけれども、たとえば、
というエピソードの実態は、
Macintoshの開発中にもスタッフらのガールフレンドや妻たちを酷評することは日常だったという。
誰だって自分の彼女や女房の悪口など他者から言われたくはないが ジョブズは他人の思いなどに気持ちが向く人間ではなかったようだ。
だったとしたら、笑えませんか?
ぜひ、ジョブズの妹の弔辞を読んだ後に、このブログ記事を読んでください。
(元の文は長いため、所々を中略している)。
スティーブ・ジョブズの陰の部分に光を当てる!
スティーブ・ジョブズ氏はいまや世界でもっとも有名な経営者でありそして大金持ちのひとりである。
アップルの共同経営者でLisa、Macintoshは勿論 iPodやiPhoneといった世界的ヒット商品を生み出したというだけでも歴史に名を残すのに十分だが、瀕死のAppleに復職した後の活躍たるやまさしくスーパーマンである。
しかし彼は常に負の部分を多く持つ人物としても知られている。
(中略)
彼の負の部分、陰の部分とは 誰の人生にもあるであろう例えば青春の一時期…粗野で他人を顧みない言動をする…といったことではない。
私が最も忌み嫌うことは 信頼している人たちを裏切るというその一点にある。
筆者は、ジョブズが人を裏切る例として、まずは、比較的よく知られた、ジョブズの詐欺話を紹介している。
アタリ社からブロック崩しのゲーム機の設計を頼まれたジョブズ。彼は親友のスティーブ・ウォズニアック一人に仕事を丸投げし、ウォズニアックは48時間で設計を完成させた。
ところが1,000ドルという報酬額を隠し、「600ドルをもらったので折半しよう」と言って、400ドルを懐に入れてしまった。
親友を裏切ったジョブズ。後日それを知ったウォズは、泣いたという(多分ほんとうだろう。ウォズは感激屋で、ジョブズが亡くなったときのインタビューでも、泣いている)。
しかしジョブズは、親友を裏切ったことを「覚えていない」で済ましたそうだ。
また、1978年5月にジョブズの娘・リサが生まれたものの、ジョブズは実子であることを決して認めず、その頃は億万長者だったのに、養育費もまともに払わなかった。
1979年の夏、ジョブズはやっと父子鑑定テストを受けることを承諾したが当時はまだDNA鑑定はなかったものの結果はスティーブ・ジョブズがリサの父親である可能性は94.97%と出た。
しかしそれでも彼は自分の子供ではないと主張し続け養育費を払おうとはしなかった。
リサの母親はやむなく生活保護を受け、裁判沙汰となりようやく養育費を支払うことや医療保険を与えることなどに合意したものの、当の子供に会うことを拒絶し続け父親であることを認めなかった。
暴君として振る舞う彼のエピソードもある。
また有名な話のひとつにApple社のストックオプションの話題がある。
すでにジョブズはAppleが株式公開を果たしたことでアメリカ有数の金持ちになっていたが、自身の力を見せつけるためか 創業期から苦楽を共にしてきた社員たちの多くがジョブズのひとことでストックオプションを与えられなかった。
なにしろ従業員第一号だったビル・フェルナンデスにも恩恵はなかったというのだから酷い話だ。
見るに見かねたスティーブ・ウォズニアックは「ウォズプラン」と名付けたプランを実施する。
こういう威圧的な専制君主ぶりのためか、ジョブズはよくハシゴをはずされるが、彼は、はずされたハシゴの代わりに他人を踏み台にして上を目指すのがお得意なようだ。
それは「宇宙をへこましてやる」と豪語までして開発を進めていたLisaプロジェクトから外されたことだ。
この決定は社長のマイク・スコットによるものだが、マイク・マークラらも賛同していたという。
会長というポジションに祭り上げられたジョブズだったが目標を失っていたものの、翌年ジェフ・ラスキンが細々と進めていたMacintoshプロジェクトに目をつける。
そしてCPUをモトローラの68000にするよう圧力をかけるなど大幅な路線変更を命じ、様々な口出しをするようになるが ジェフ・ラスキンはなすすべもなかった。
そのMacintoshプロジェクトでのエピソードが、冒頭に挙げたもの。
Macintoshの開発中にもスタッフらのガールフレンドや妻たちを酷評することは日常だったという。
誰だって自分の彼女や女房の悪口など他者から言われたくはないがジョブズは他人の思いなどに気持ちが向く人間ではなかったようだ。
そして開発スタッフらと外食に行けばスタッフらはジョブズの態度に目を伏せ恥ずかしさに震えなければならなかったという。
なぜならジョブズには出てきた料理を突き返すという癖というか習慣があったからだ。
自分の権力を見せつけようとするかのようになんだかんだと難癖をつけて料理を突き返す。
間違った料理が運ばれてきたわけでもないのに…である。マナーも思いやりも彼にはないようだった。
さらに大金持ちなのに払い汚いことでも知られていたという。
先日ジョブズが通った寿司屋のインタビュー記事を読んだが、TBNというニュースサイトの主は、そういうジョブズを「海原雄山」みたいだと指摘していて、笑った。
記事にはこの後、彼がアップルに返り咲いて、彼を引き上げてくれた恩人たちをどのように追放していったかも書かれている。
この辺り、講談社の最新の伝記には、どう書かれているんでしょうね……。
さらに、彼の恐怖政治の実態について。
とにかくAppleの体制を立て直し業績を上げるという目的のためには恐怖政治さながらの雰囲気を社内に作ったことでも知られている。
よく話題になることだが、この頃Apple社内ではジョブズとエレベータに乗り合わせるのを怖がり階段を利用する社員たちが目立ったという。
エレベーターでいきなり「お前はクビだ」といわれる恐怖。
ヤダヤダヤダ。
考えたくもない。
こんど私が社長と一緒にエレベーターに乗ったら、この話を思い出して、オシッコをちびりそうだ。
さてAppleに復帰しAppleを盤石の体制にした功績は間違いなく彼にあるし最近ではジョブズも丸くなったという説もある。
まあ、こんな憎まれ口をたたいても何の得もないわけだが、世間にはAppleの躍進を追い風にし諸手を挙げてスティーブ・ジョブズを素晴らしい人物と評価する傾向があるのが些か気になるのだ。
確かにビジネスで成功することや金持ちになる…有名になるということが人生の目標であってもそれが悪いわけではない。そしてAppleという企業や魅力的なプロダクトも無くなっては困るわけだがスティーブ・ジョブズという人物は正当な理由も無く、理不尽きわまりないことで立場の弱い人はもとより、信頼すべき周りの多くの人たちを不快にし傷つけてきた男であることも忘れてはならない。
( 引用元 http://www.mactechlab.jp/from-mactech-with-love/11840.html )
なお、こういう文章をはてなに転載すると、「筆者乙」などと書かれそうだけど、違いますよ~。
そして、こんなに立派なジョブズが、リサの母親と別れた理由は何かを「ジョブズ」「離婚」「理由」などの言葉で検索するうちに、一年前以上前のこの記事をみつけたのだ。
妹の弔辞を裏打ちする、面白い記事だと思うけど、どうでしょう?
(もしもブログ主の筆者にとって不愉快ならば、すぐに削除するのでご自身のブログにてそのようにお書きください。すぐに指示に従います。)
そして、それとかけ離れた、彼と仕事をともにした人々から見た、ジョブズの姿。
異なるエピソードならともかく「スタッフの恋愛に関心を持つジョブズ」のように、まったく同じエピソードですら、正反対の評価になるのだから、なにが正しいのか、よくわからなくなる。
天皇制とか王制というのは、政府が外交の一部を天皇家や王家に外注してるようなもんだと思う。
あるいは、こうもいえるかも。
ニッポン放送とフジテレビの関係みたいに、子会社(政府)のほうが大きくなっちゃって親会社はお飾りになってしまったと。
外交システムの一部としてみるなら、まあまあ効率がいいシステムであるわけだし。
上場会社だったらニッポン放送の株を買われたらフジテレビも傘下になってしまうとかそういうのがあるんだろうけど、天皇家が惨殺されてしまったら日本という国がなくなるというわけでもなさそうだし。
別に神様を信じてなくたって神社で手を合わせたりするのと一緒で、なんとなく尊敬してるふりして、なんとなく日の丸や君が代に敬意を払ってもいいんじゃね?
(敬虔なクリスチャンは神社で手を合わせたりしないそうだ。神前式の結婚式に参列したときとかどうするんだろう?なんか大変だなぁ。)
たぶん、中高の教育のせいだと思うのだけど
でも、君主制か民主制かなんて政治システム上たいした違いじゃないような気がする。
たとえばギリシャ連合vsアケメネス朝だって、どっちのほうが国家としてのシステムが優れてたかっていったらアケメネス朝のほうが近代国家に近い政治システムを持ってたと思う。
都市、あるいは村みたいな小さな単位で話し合いで政治をしてたところと、官僚制が整備されて腐敗防止に中央直属の監察官がいて、軍制が敷かれ、統一通貨制度がある国の戦争をとりあげて、「民主主義対専制君主制の戦い」と言うのはどうしたものだろう?
僕は事なかれ主義なんで、流される。
躊躇なく流される。
神社で拍手を打つし、卒業式では君が代を歌うし、キリスト教式の結婚式では賛美歌を歌うし、宴会ではゴム手袋を頭からかぶって鼻息で割る。
著者自身がくりかえしそのことを強調している。「文明の生態史観」は今後の研究のための作業仮説であり、デッサンであり、研究計画、である、と。つまり研究者にとって、もっともしんどいけど絶対に必要な、史料や文献によって自分の仮説を検証したり補強したりするという作業をすっ飛ばしている。記者が、裏をとらずに想像で書くようなものだ。政治家が、公約だけで政治を行うようなものだ。
なぜ世界(ことユーラシア大陸内)には経済が発展し豊かな国々がある一方で、貧しい国があるのだろうか。なぜ他ならぬ日本だけがアジアの中でこれほどまでに高度な経済発展を遂げているのか。まずこの問題意識がいい。こうした問題意識は、こんにち「グローバルヒストリー」として、世界史の1つの重要な研究テーマになっている。著者は50年前の早くからそれを予見し、問題提起をおこなっていた。この先見性には、正直舌を巻く。
また、その問題意識のもとで提示した仮説も面白い。とくに著者が両者を分け隔てたものとして強調するのは、西洋と日本はともに封建制で、それ以外のユーラシアの国々は、独裁制、専制君主制をもっぱら、敷いてきたという指摘だ。前者は1人当たりの富を育成する方向に進むが、後者は特定の為政者に富が集中したまった富がおりていかない。(ただ、一口に封建制と言っても、日本と西洋の封建制は実はかなり違うものであることが専門家から指摘されていることには注意したい)。
それは、この本で扱われる日本のポジションだ。西欧社会に唯一肩を並べる、ユーラシア大陸でも特別な存在、として描かれている。日本が今繁栄しているのは、(後進国の中国ではなく)先進国の西欧社会に文明史的な共通点があったためだ、と主張する。「日本とそれ以外のアジアでは交通、通信など密度がぜんぜん違う。決定的な違いは工業力だ」とまで言い切っている。梅棹先生がも50年後にこれと同じテーマで本を書いたとして、日本について同じような見方をできるだろうか。興味深い
中世以降の中国の科学が著しく衰退した現象を思い出さされるんだわ。
元来中国って、火薬・紙・印刷を発明したりと、中世まではダントツで欧州にも(技術的な意味で)勝っていたのだが、
その後明らかに逆転され、最終的には植民地化されるほどの憂き目を見る。
・・・なぜか?
専制君主の定着と
なぜなら、専制君主だと簡単に開発が止められてしまうからだ。
鄭和が中国から、アフリカまで欧州より遥かに大きく技術的にも優れていた大船団で
航海出来たのも、(正直、欧州より先に世界分割出来てても可笑しくはなかったのに)
時の皇帝に止められてしまった。
だからこそ数世紀後、立場が逆転する・・・・。
文化圏において、結合度合いが小さいのから大きいのまであるけど、
一番発展するのは
大きめだが政治的に分割されてるってとこみたいなのさ。(このへんはシャレド・ダイアモンドの本に譲る)
だからオーストラリアやパプアニューギニアの人口過疎の人々が技術も作れず、
原始時代よろしくの生活を送っていたし、
食料豊富な古代イラクやエジプト、中国、インドにおいて、初期文明が発達した。
しかし政治的結合が強くなりすぎると、
それ周辺に在り、なおかつ、彼らより政治的結合が弱い国々、つまりヨーロッパとか日本とか
が台頭してくる。
・・・・自由なきところに技術は育たないから。
そして現代。