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はてなキーワード: 封書とは

2022-06-28

投票面倒くさい

選挙権を得てから毎回選挙には投票してるが、この春に引っ越ししたので現住所では投票できない。

で、新しい住所に郵送されてきた不在者投票だかの封筒に入っていた用紙に記入して、封筒自分で用意しわざわざ郵送した。

その封書がもと居住地選管に届くと、今の住所に投票用紙が送られてきて、それをこちらの期日前投票所で投票して、それがもと居住地に贈られるらしい。

普通にまにあうと思うが、来週だとかなりギリギリタイムアップになりかねないよね。

このご時世でも電話Eメールネットでは手続きできないとかマジアホかと。

まあ、うっかり本音もらしちゃう馬鹿もいるが、基本政治家は「投票には行きましょう」というのの、本音では投票率なんて絶対上げたくないんだろうな。制度的に投票しずらいのを維持してるんだろうな。

昔、本籍地しか投票できなかった頃と比べればましになってるが、ネットでの投票とかもまともに進展してるようには見えないし

2022-03-30

anond:20220330172509

お前そうやって自分知識不足無茶苦茶日本語のせいで相手に伝わらないのを、相手問題にしてずっと生きてるんだな

お前の言ってることって

封書相手に届いたかどうか、確実に確認する手段はない」

に対して

「裏に自分の住所書くだろばーか

相手に届かなかったら戻ってくるんだよ、知らないのか?」

って返してるようなもんだろ?

2022-02-22

四谷大塚桜蔭同日受験体験

2/1、四谷大塚にて毎年(たぶん)開催されている「開成桜蔭入試同日体験受験」を受けてきた(娘が)。

開成桜蔭入試同日体験受験」ってなんやねん

2/1、小学6年生たちが最高峰入学試験に挑むその日の午後に5年生(新6年生)が同じ問題に挑む謎の試験

はっきりいって正気の沙汰ではない。

精鋭の小6生たちが万全の準備をして挑み、それでも涙することがある試験別に同じ合格ラインを目指すわけではないが、小5生がわざわざ一年前に挑むなんて、なんのメリットがあるのかわからんし控えめに言ってあたおか。増田もこのの試験存在を知った当初そう思っていた。

それでも結果として小5の娘に桜蔭同日を受けさせることにした経緯やその有用性について、せっかく受けたので、n=1の意見ではあるもののまとめておきたいと思った次第。だって事前にネット検索してもろくに情報なくて困ったから。誰かのなにかの役に立てば嬉しいし、そうじゃなくても娘がめっちゃ頑張ったから誰かに自慢話を聞いてほしいので記しておく。そうこれは自慢です!

増田スペック

かわいい。3年2月(新小4)四谷大塚入塾。Yにした理由は徒歩で通えるから。入塾時はA4。4年後期にC、5年夏にSに上がり以降S4〜6をうろうろ。直近の組分けは65でS4。志望校判定は67。サピックス1月組分け61。毎日めっちゃ頑張っててえらい。

  • イッヌ

かわいい。3歳のポメラニアン女子めっちゃビビリ。かわいい

かわいい公立中→県立高校国立理系院→IT社畜→ほぼ専業主婦

都内私立中高(界隈の人にはふんどしリズンとして有名なところ)→国立文系IT限界社畜

そもそもなんのためのテストなのか

増田最初にこの試験存在を知ったとき第一感は、「一年前に既にガッチガチに仕上がってる自信アリアリの猛者たちが腕試し(≒トロフィー)的に受けるいけ好かない試験」であった。なんかもういろいろまじすまん。

しかし、11月にあった6年生に向けてのガイダンス内で新事実(増田にとっての)が判明。日曜日に行われる学校コースを受講するための選抜試験だったのである

サピックスSS、早稲アカのNNと同じようなアレが四谷大塚にもあって、それが学校別。四谷大塚では前期(2月から8月)と後期(9月から1月)があり、前期の学校別は開成コース桜蔭コースのみ。開成or桜蔭と冠がついてはいものの、前期は開成or桜蔭に的を絞った問題ではなく応用や難問を広く取り扱い、後期学校別にスムーズにつなげるためのもの、という位置づけらしい。このへん、文書による説明はなく塾の先生に聞いたらこんな感じの説明をされた。また、四谷大塚ホームページには後期学校別の情報はあるものの前期のは見つけられなかった。しかし内部生しか受けられないわけではないようで、試験を受けたらもらえた文書には外部生向けの料金の案内もあった。えっじゃあホームページに載せたらよくない?四谷大塚のショボい広報力なんなの?あとホームページめちゃくちゃ見づらいんだけどもしかしてまだ中の人90年代生きてるの?そんなんだから令和の保護者にウケないんだよ!

受けることにした経緯

ともあれ、2月開講の桜蔭コース(※ただし桜蔭特化ではない)を受講したければこの試験を受けるよりほかない(もしかしたら組分けでの超優秀層はこの限りではないのかもしれないけど増田にはわからない)。

増田娘は基本的勉強が好き(えらい)だし、特に算数が大好きで、難問に苦戦しているときすごくいい笑顔を浮かべる。ちょっと心配になるぐらい。とはいえものすごくよくできるわけではないのだけれど、とにかく好きなのだ。そういう娘にとって、前期学校別はひどく魅力的にうつったようだ。わかる。増田もうちの娘に合うんじゃね?って思った。先生誘導にホイホイのせられるちょろい家族である

ほぼ腹は決まっていたような状態だったが、同日受験の是非については親ふたりで話し合った。中学受験において、最新の過去問初見ではなくしてしまデメリットは軽視できない。が、我が家にとって桜蔭そもそも志望校ではない。実際に受験する可能性は限りなく低い。そして桜蔭過去問は同校を受けるのでない限り取り組む必要性は低い(と塾の先生確認済)。最終的には、娘が希望しているのだし試しに受けてみてもいいのでは、との結論になった。

実際に試験を受けた方々の志望校がどこなのか知る由もないが、本命が別の学校であるほうが受けやす試験というのはなんだかなぁちょっと思う。

まりにできなくて自信をなくしてしまうんじゃないか…との懸念もあったものの、娘は基本的にめちゃくちゃ負けず嫌いだし嫌なことも一日寝ればだいたい大丈夫になるメンタル強め女子そもそも、Cに上がったときもSに上がったときも週テストこてんぱんにやられているので、太刀打ちできないテストへはある程度免疫があるのだ。なんとかなるだろう。なんともならなかったらミスド山ほど買って忘れさせよう、と思っていた。ちなみに、まるで過去のことのように書いたがSの週テではいまだにやられっぱなしである。だいたいいつも40台前半。これまでの最も楽しい記録は13。後ろから数えてトップ3だったこともある。のびしろしかない。もはや最近は週テストから(震え声)フォローすることもない。組分けさえなんとかなりゃええんや。週テストなんか全科目0点でもクラスコースも落ちんし(暴論)。

結果(自慢)

2/3昼過ぎ。あのどうしようもなく見づらいホームページからログインしてみると、得点が出ていた。

2/8、所属校舎にて受講可否の通知をもらってきた。結果は合格。受かったー!やったー!と喜ぶ娘。わけもわからキャンキャン吠えるイッヌ。増田も一緒になってヤッターヤッター騒いでたら確定申告の準備頑張ってたヨッメにうるさいとめちゃくちゃ怒られた。ごめんなさい。

それにしても、わざわざ封書に入れられた【合格】と書かれた紙を取り出す作業さながら本番のようでちょっとキドキした。いまや本番がほぼネット発表なのは知ってるけど。

ネットで見た受講許可ラインはこの試験偏差値55または直前の組分けでSコース偏差値50とのことだったけど、増田娘が貰ってきた紙には点数のみ書いてあった。4科目の偏差値53相当の点だった。

終わってみての雑感

よかったこ
  • 娘が楽しそうだった

当日の付き添いは増田担当させてもらった。来年の本番もこんなふうにして付き添うのかなとドキドキしていたが、娘はさほど時間の余裕がない道中でタピオカを飲ませろと強請ってくる豪胆な女だった。っょぃ。知らない会場(いうて四谷大塚だけど)で難しい学校試験を受けることに終始ワクワクしているようだった。娘の成長を感じて増田ドッキドキ。

娘を送り出したとき、三年生の二月に三年後に向けて走り出したときには天竺イスカンダルかと思われた受験本番が一年後に迫ってきているのだと実感できた。あしたの今ごろならぬ来年の今ごろを思い、ちょっとセンチメンタルな気分にもなった。増田もきっと泣いているような気がする。嬉し涙だといいな。そんなことを考えていたので、申し訳ないことに増田試験中に開催された説明会の内容をほとんど覚えていない。ごめんなさい。だってとてもじゃないけど受講基準クリアするとは思っていなくて…。桜蔭志望でもないし…。

繰り返しになるが、2月から前期桜蔭コースに参加するにはこれを受験するしかない。内容が桜蔭特化ではないので桜蔭志望者にとってマストではない(と思う)が、だからこそ、桜蔭志望ではない子も受講を目指してもいい、というのはもうちょっとアピールしてくれてもいいと思う。ていうか前期講座の情報のなさなんなん?四谷大塚広報力のなさはわざとなの?ほんとホームページなんとかならん?サピックステスト受けて一番ビックリしたのはマイページスマホ表示に対応してたことだよ!四谷大塚もやってくれよ!日能研対応するってよ!うらやましい!

で、結局デメリットは?

四谷大塚もっと広報せーやとさんざん文句を言ったものの、誰でも受けてどうぞの講座じゃないのはわかる。たぶん大多数の子どもにとってこの時期毎週別校舎に通ってこんなことしてる場合じゃない。始まったばかりの新6年のスケジュールに体をなじませる、新出単元がまだ続く理社の予復習、算国の強化、やるべきことは山ほどあるので。往復の時間と体力も行かなければ節約できるものなので、メリットが大きくなるかどうかは子どもによってわかれると思う。ただ、どうせ日曜講座に通うのであれば、学校別講座開催の校舎が自校舎or近隣の場合には受かったら通ってみるのもいいと増田は思う。いい刺激になって好循環を呼ぶかもしれない。ただし逆もまた然りなので、アカンと思ったらすぐ塾の先生相談&自校舎の日曜講座に戻る選択肢は常に頭に入れておく必要もあると思う。増田はこの点3回ぐらい所属校舎に確認した。無理だと思ったらすぐ戻ってきてどうぞ、とのことだったので安心して送り出している。今のところ増田娘は超たのしそう。

試験パスしたとしてやっていけるかどうかが不安場合そもそも受けるかどうか迷う場合は子をよく知っている所属校舎の先生相談するのが良いと思う。増田娘は「受けてみて受かったら行けばいいんじゃない」と言われ、増田は「受かったら行って大丈夫ですよたぶん」と言われた。(その心は、対策(過去問とか見て)せずにパスできるならなんとかなるよ、というところだと思う)

他塾生が日曜だけこの講座を取るのは、増田だったらさせないかなーと思う。何度も同じこというけど、桜蔭特化講座ではないので。各々の塾にも日曜なにかしらあるよね?だったらそれ受けたほうがいいと思う。

たぶんこれが最大のデメリットなんじゃないかなーと受ける前は思っていたけれど、今はそうでもないかなという感想。前述のとおり増田娘の第一志望は桜蔭ではないので特にフワっとしている点は否定しないけど、そうでなくてもそれほど大きなデメリットではないと思っている。そもそも四谷大塚生が使用している予習シリーズには各学校過去問の改題があちこちに散りばめられている(らしい)。予習シリーズ使用状況に限らずどこかしらに通塾していればそう大差ない状況だろう。また、トップ校の試験は最新入試トピックとして目にする機会も多い。子ども新聞とか塾配布の雑誌(四谷大塚ならドリームナビ)にもさらっと載ってたりする。まだ出題ホヤホヤ、本当に絶対初見のまま挑める2/1に受けてしまうこの荒業同日試験はなんだかんだアリでは?というのが今の感想

また、いざ桜蔭を志望するとなれば各塾桜蔭のための講座が開講されていて、腕によりをかけて桜蔭っぽい問題が作られ桜蔭っぽい採点と解答が研究されている。その気になれば塾のハシゴをして教材を手に入れることもできる。共学人気といわれる昨今ではあるが女子トップはやはり桜蔭というのがまだまだ界隈の共通認識であり、各塾が力を入れて対策をしているのは違いない。そんな信頼がおけるテキストが塾の数だけあるのに、過去問一年分消費したとてそれほどのデメリットだろうか。

とはいえ増田子の第一志望が桜蔭だったらもっと悩んだと思うからなんともいえん!自分で考えて!

そのほか反省

各科目10点超えたら君にとっては満塁ホームランだ、的な言葉をかけたんだけど、イマイチだったなと反省してる。親としてはプレッシャーをかけたくない気持ちとうっかり期待しすぎないよう己に釘を刺すためのものであった。受講許可ライン超えるといいね、ぐらいは言ってもよかったかもしれないと今もなおぐるぐる反省している。声かけ難しいネ。

  • 平日の予習がなかなかヘビー

所属校舎の日曜講座は翌週の取り扱い単元の導入的授業をしている、というテイだけれど、増田娘の所属クラス先生方みんなドSなのでプリント課題が出てそれを解いているそう。このプリント増田娘は木曜にもらって帰ってくる。=火曜までにやって自力で追いついておけ(平日の通塾日は火曜と木曜)。桜蔭コースでは前週までの単元(前日土曜に週テストしてる分)の応用演習がメインで、理社は次週分の予習もしてくれているみたい。だけれどやっぱり火曜までにやらなければならないことは変わらないのでけっこうヘビー。今のところパンクしてるようすはないけど今後も要観察。

まとめ

以上おわり。長文拝読サンキューやで。

2022-02-16

増田♂51歳の日常

いやぁ、そういうもんだといえばそうなんだが、わかるべきなんだろうが、

DJ23曲もコンピしてくれたシティーポップCDYouTubeでその中の2、3曲を見つけて、知らん曲ばっかりだったんで『コ、コレハ!!』てAmazonで探して新品なかったんでもうなんでもいいや!て送料込みだと新品かるく上回るナニでアレして、でも封書で郵送してくるので追跡も途中は引っ掛からないのでマダカマダカと数日まってて、届いて破り裂いてトレイに放り込んで(感覚的にはね)、・・・

ちゃんと全曲最後まで流してくださいよ!!』

DJ君のドヤ顔で夜に立ってるアー写から予想するべきだった。「オレの見立てでここでこう斬ってこの順で配置したんや」ウヘェ)

※それで前の買い主も気にいらんと中古で流れてたんかもしれん、とか要らん中傷をしてまうやん

2021-11-30

anond:20211130013348

参考になるか分からないけど職場にいる多重債務者について書いとく

約4000万円の戸建て住宅ローン組んでて4人の子持ちの40代年収はざっくり400万円

少なくともカードローンサラ金など8社への返済が滞っており、それらに関する債務残高は最大時で600万円ほど

現在月給と賞与手取り額の1/4を差し押さえられて強制的に返済中

カードローンサラ金で返済できなくなると勤務先に裁判所から特別送達封書切手シマシで届く

受け取る側の私も最初ビビったが8社分も届くと流石に慣れる

封書の内容は「お前のとこの〇〇が△△社への返済滞ってるんで残債分は給料差し押さえってこと

会社の方で返済分天引きして裁判所供託してね」って内容。なので社長給料計算やってる部署にはバレる

会社側としては毎月の事務仕事が増えるので面倒くさいことこの上ないが、多重債務者本人の仕事ぶりはいたって真面目な

ので本人には口頭注意したくらいで退職勧奨やマイナス査定をしたりはしていない。

2021-08-07

「ブス顔」と部下中傷 日本水泳連盟理事有罪判決

https://www.asahi.com/articles/ASP867484P86UTIL042.html

判決は、設楽被告動機について「恋愛感情を受け入れられなかったことへの怨恨(えんこん)」と指摘。恨みを晴らすため2020年3~7月女性に対し「ブス顔を見たくないので辞めろ」「お前はコロナウイルスだ」などと書いた封書3通を送ったとした。

お前のブス顔には50万円の価値があるのか

2021-07-31

取りに行かないことにした日記

マイナンバー交付準備ができたという封書が来ていた

予約必要ということでサイトアクセスしてみると最短で4週間後…

これ準備できたっていうのかね?

受け取り期限は2ヶ月後になってるけど実質1ヶ月だな


申請したのは4ヶ月前で、その時暇だったのとスマホ撮影して申請できるようになったので話のタネとして申請したが

時給を考えると5000ポイント還元されても他に使い道のないプラスチック板を1時間以上かけて取りに行く価値はないと判断

書類ゴミに捨てた

2021-07-22

JCBスヌーピーカードが終わった後の話

anond:20201108003025増田なのですが、結局別のスヌーピーカードに切り替えず普通カードに切り替えて使い続けたところ

今日、「クレジットカード発行会社変更のご案内」という封書が送られてきました。

どうもスヌーピーカードを発行していた三菱UFJニコス事業の一部を分割してJCB継承することになり

今後はJCBの直接発行するカードということになるようです。

どうやら、スヌーピーカードを終了することになったのはこのためだったみたいです。

2021-06-17

マスキングテープって不便

マスキングテープが仮止めテープじゃなくてガムテープくらい粘着性があったら便利な道具だなぁと思うけどしょせんは仮止めテープと思ったら

封書かに使えないじゃん?

仮止めなんて、養生テープで充分なのに

仮止めじゃない柄テープも売ってるらしいけど、店で見るのは圧倒的にマスキングテープばかり

マスキングテープで封をしたいからと、ノリを塗るのもめんどくさい 

見た目が良いか流行るのはわかる。しかし、仮止めテープというところが本当に許せない

セロテープくらいの粘着性のあるテープだったらよかったのに

2021-06-12

借金取りの封書

連絡したら、どうなるんかなあ。

しないと、裁判はややし。

弁護士介入は未だできないし。

今は払えないんだよ

再生しないと無職から

2021-06-07

anond:20210607101439

1cmって言ってる時点で普段から封書使わんやつだなってわかるわ。

そんなにあける必要はないエアプすぎ

2021-05-25

信金インターネットバンキングを解約させてもらえない

東京から地方都市Uターンした時に預金用に開設した信金の口座がある。

残高はマネーフォワードで一元管理たかったので、有料だったが月100円程度のインターネットバンキングにも申し込んだ。

  

開設してかれこれ7年が経ったころ、投信積立に資金を回そうと証券会社連携スムーズネットバンク資金を全て移動した。

この時点で信金の残高はゼロである

もちろんインターネットバンキングに月々料金が発生するのは理解していたので、インターネットバンキングログインし、機能の解約を申し込んだ。

申し込み完了後、システムから自動返信メールには「サービスを中止いたしました」的な文章が簡潔に書かれており、ログインもできなくなっており安心だ。

  

2ヶ月後...

自宅にインターネットバンキングの料金が未納であるため口座に2ヶ月分の料金を入金せよという封書が届いた。

???

インターネットバンキングログインして解約の申請をしたが?

ログインできないし、マネーフォワード連携も解除してる。メールにも中止いたしましたと書かれているが?

  

なんのこっちゃ理解できなかったので、封書に書かれている電話番号電話して状況を説明する。

受け付けてくれた女性は「私では対応いたしかねるので担当のものから電話させていただきます」と折り返し電話を待つことに。

本店営業部男性から電話があり、もう一度状況を説明すると(かなり面倒くさそうに)・・・それはアカウント機能制限するための機能であってサービスの解約を受け付けているわけではない。とのこと。

  

???

機能制限??ログイン自体できないかサービスを何一つ利用できる状態じゃないんだが?なんのための機能なの?

まぁ、良いだろう。納得いかないが、200円程度払うよ、えぇ払いますとも。だがまずは正式に解約したい。

その旨を男性に伝えると、解約は書面でのみ受け付けておりますので当行までご来店いただく必要があります

  

???

今、コロナ禍だが?何なら、ここ緊急事態宣言出てるが?

  

あ、いや書類の郵送とかはできないんでしょうか?

「郵送もできますよ。」

  

いや、できるんかい!早く言えよ!

と、この時点ですごくムカついてきている。

これは完全に愚痴になるが、「インターネット上でお客様が行ったのはおそらく機能制限の申し込みで、完了時に赤字で目立つように解約ではない旨書かれていたと思いますがねぇ。」とか言われてさ。

そういうケースが他にもあるからあんたその推察できるんちゃうかい

んで、自動返信メールには解約じゃないから気をつけてね!とか全然書かれてないからね!!インターネットバンキングの解約の手続きオンラインでできないなんて想像してませんでしたよ!キーー!

  

怒りを堪えて電話を切ると、翌日には必要書類が送られてきていた。仕事はえーな。

中には説明書類が同封されていて、ここが一番衝撃だったんだけど。

「本解約書類を出されても、2ヶ月分の利用料金の支払いが完了しないとインターネットバンキング機能の解約を行うことはできません。支払いが完了するまで毎月自動的に加算されます

  

???

これ、まじなの??まじで法人が出してきた書類??担当者の思いつきじゃなくて??

俺が無知なだけなのか?まじで理解に苦しむ。

100歩譲って、2ヶ月分の料金は支払うとしても、解約書類が到達した時点でサービスは止めない?んで2ヶ月分の料金を請求すれば良くない?

解約自体ができないなんてことあるの?

  

解約書類ポスト投函後にこれを書いてるんだけど、最悪放っておいちゃダメかな?

100円としても10年で12,000円でしょ。なんかスゲェ面倒くさいんだけど。

2020-10-19

25歳ニートなんだけどあと5年で30歳になるんだけどヤバくね?

恐ろしい速度で歳だけ取ってるんだけど

18歳から引きこもって感覚的にはまだ3年くらいなのに

30歳が目前に迫ってるのに未だ何の準備も整っていない焦燥感と虚無感

どうすんだどうすんだこれ

もう若者じゃないのに若者陰キャと同程度の経験しか搭載してない人材未来はあるのか?

ぶっちゃけ俺がこれまでろくに働けてこなかったのは恐れていたからなんだよな

引きニートに対する実社会から評価に直面するのを恐れていた

決して高望みなんてしてないんだよ

都内正規手取り13~16賞与無しで妥協できるわって2,3年前から言ってる

ただ面接が嫌なんだよ それに履歴書を書くのもつらい

実際俺みたいな理由高望みしてなくても働けてない引きニートってたくさんいると思うわ

要するに自分から一歩を踏み出せないのね

例えばの話だけど、行政から引きニートしてる者たちに宛てて「こういう求人があってこういう企業あなた採用したいと考えていますよ」って封書とか届くシステムがあったら健康な引きニートの大半はサラリーマンになると思うよ

みんな怖いだけなんだよ実社会とのファーストコンタクト

そこを行政サポートしてくれたらだいぶ違ってくると思うよ

これ当事者からの貴重な意見

ちょっと脱線してるけど脱線ついでに俺が日頃から思っていることを開陳させていただきたい

個人主義とか自由主義って引きニート就活と相性悪くない?」

繰り返しになるけどニートは実社会自分からアクセスすることが怖いのよ、及び腰なのよ

だけど現代日本って自己決定権とか個人情報の取り扱いとか凄い厳正なルールでガッチガチ基本的には個人意思尊重されるよね

例えば生活保護なんかも適用されるレベル生活してる生活困窮者がいても彼らが自分から役所申請しないとそもそも許認可の審査がされないでしょ?

こういうのって個人意思尊重してて大変人道的なシステムだと思うんだけど、引きニート就活にそれを当てはめると途端に非人道的スパルタシステムになるんだよ

再三になるけど引きニート自分からアクセスすることに忌避感を持ってる人が多いんだよ

自分から就職したいというシグナルを発信することが出来ない人に対して

「お前が就職したいというシグナルを発信してこいよ」というのは鬼ですよ鬼

からさぁ、そこらへん上手いこと調整してさぁ、仕事が向こうから引きニートに舞いこんでくるシステム作ってほしいんだよね

そしたら俺なんてとっくにそこらのサラリーマンだったからね

あああああああああああああああああああああああああああああああああ

こんなくだらないこと書いてる間に時は無慈悲に時は通過していくぅぅぅぅぅぅぅ

マジで異能力とか目覚めねーかな

関係ないけど最近創作物って炎タイプキャラの扱い悪いこと多くね?主人公属性やぞ

全国の引きニートに幸あれ

2020-09-06

10年かけて父は死んでいった

私が30歳の時に両親が離婚した。

その10年後、夫の後妻から連絡がきた。脳出血で倒れ、高次脳機能障害静脈瘤を患い、あなたに会いたいと言っているから来てくれないか

両親は長いこと仲が悪かった。あとから振り返れば「仲が悪かった」の一言で済むが、私が10歳の時から30歳になるまで、子供の前ではまともに口をきいていなかった。年金借家更新手続きなどはすべて娘を介してやりとりが行われた。娘の立場としては別れて当然だと思っていたが、よくある「妻が働くことをよしとしない夫」と「専業主婦を望まれて家庭に入り、まともに職歴のない妻」の組み合わせが崩壊すると、子供を養ってはいけなかったのだろう。

そして父には恋人がいた。愛人と称するべきなのだろうが、どうもなじまないので恋人とさせていただく。母によれば、口を利かなくなる前に、離婚歴があり一人で子供を養っていて立派だと、よく話していたそうだ。となると私が10歳の頃くらいには関係があったのだろう。私の前ではその人の話はしなかったから。

私が大学に入ると、恋人の子供の家庭教師というアルバイトの口があてがわれた。子供は親同士の関係を知ってか知らずか、どの教科を教えても手応えはなく、頭がいいのか悪いのかもわからなかった。家庭教師として恋人の自宅にお邪魔すると、その両親が出迎えてくれる。おやつ飲み物と軽い雑談、成立しない家庭教師役、私はうっすらと事情を察した。恋人の両親はよく父を褒めていた。頭が良くて、気が回って、本当に立派な人だ。どこの世界の人だろう、と思った。家では無口で、たまに自分を連れてファミリーレストランに行って。もっと小さい頃の思い出はたくさんあるが、10歳以降の思い出は数えるほどしかない。思えば自宅で風呂に入らないのが不思議だった。そうか、この家で風呂に入っているのか、と考えた。もちろんラブホテルの時もあっただろう。私は当時、まるで子供だった。母はアルバイトに対していい顔をしなかったし、その家で食事を勧められることをいやがっていた。今考えれば当然だと思うが、私は両親の中が悪いことは知ってはいても、両親の心境にはとんと疎かった。考えるのをシャットアウトしていたのではないかと今なら思えるが、何を考えているのかわからなかった、不可解だったというのが正直なところだ。

大人同士の機微を読むのが面倒になって、勉強が忙しいからという理由アルバイトを辞めた。

就職し、家にお金を入れ始めるようになった頃、父親が月に1回手渡してくる生活費の額ががくんと減った。バブル期でも不景気な時でもあまり額の変動はないようだったが、バブル期にはかなり儲かっていたらしく、自分の親戚にみかんを送る箱の数を間違えて発注し、4箱のはずが14箱届いたという電話を受けたことがある。父は子供に話すわけにもいかず、ましてや母に話せるわけもなく、一人でぷりぷり怒っていた。かなり面白かった。そんな状態だったから、額が増えても減っても母と私にはどうすることもできなかった。生活費がない月もあった。その頃から、父は何を思ったか子供がいない時に外から家によく電話をかけていたという。私は母の証言しか聞いていないが、母に働けと言ったり、お前が浮気をしているのは知っているんだと怒鳴ったり、大変そうではあった。母は事態かいつまんで話してはくれたが、父は何も言わなかった。ますます、何を考えているかからない両親だなとしか思えなかった。母が浮気をしていたかどうかは私にはわからないが、一度ぶっちゃけどうなの、と聞いた時には、本当に父親一人しか知らない、他の人に好意を抱いたことはあったが子供が生まれる前だった、と言っていた。真偽はどうでもよかった。なぜか父の恋人が家を訪ねてきて「あなたも働いたらどうですか」と母に説教してきたそうだ。私から見れば、母の化粧や外出、外で働くことの検討を嫌がっていたのは父の方だった。私にとってはすべてが藪の中だった。ただ、このままの両親が年を重ねていくのなら、私がずっと生活の面倒を見るんだろうという覚悟けがあった。

私が30歳になる頃、父母の電話での言い争いは激しくなったそうだ。どこまでも伝聞だ。母は不毛な言い争いに疲れ、離婚届を準備していた。証人欄ふたつのうちひとつには私がサインした。特に感想はなかったが、これで父が恋人再婚すれば、将来の面倒を見るのは母一人でいいのか、助かった、と思った。

父は離婚届にサインして、いくつかのアルバムだけ持って家を去った。私への連絡はなかった。携帯電話版号も、メールアドレスも知っていたのに、特に娘に伝えたいことはなかったのかと、不思議だった。不思議ではあったが、謎の両親の電話――本当にそういうやりとりがあったのか、私は知らない――で二人で決めたのなら、私は意見文句も言うまい、夫と妻の間の話だ、と思っていた。

それから10年間、父からの連絡はなかった。戸籍謄本から辿れば現住所が分かることは知っていたが、特に話したいことはなかったし、非常時にはいくらなんでも連絡くらい来るだろうとたかをくくっていた。結婚した時も報告しなかった。子供ができていたら連絡しただろうか?幸か不幸か、子供はできなかった。「仲の良い夫婦とその子供」というサンプルを知らない私には子供を持つのは厳しいだろうと思っていたが、ごく自然にできないままだった。

10年経って、父が脳出血で倒れたという連絡をよこしてきたのは、一度だけ親族葬儀で顔を合わせた父方のいとこと、父の恋人の兄だった。Facebookで探し当て、メッセージを送ってきたそうだが、Facebookメッセージを受け取る範囲を絞っていたので、気づいたのは倒れてから半年後だった。死んでいればさすがに親族から母に連絡があってもよさそうなものだったが、そういう話は聞いていなかったので、母には何も言わずメッセージに返信した。手間をかけてすまない、父の具合はどうか、非常時にはこの電話番号とメールアドレスに連絡をくれ、いざとなったら先方に伝えてもらっても構わない。それくらいの簡単ものだった。

ところが、携帯電話にかけてきたのは父の恋人だった。私は瞬時に、失敗を悟った。留守番電話に残されていた最初メッセージは「連帯保証人になってくれ」だった。SMSには再婚したこと、病状、娘に会いたいと言っていることなどが断片的に送られてきていた。どう出ればいいか迷い、しばらく自分からコンタクトを取るのは控えておこうと思った。

次の日、会社の始業時間から終業時間まで、というのは単なる偶然だったのだが、1時間おきに着信があった。これを書くのは本当に恥ずかしいが、狼狽した私は電話留守番電話の通知が恐ろしくなり、不安障害発症して心療内科に通うようになった。簡単に連絡先を教える自分がばかだったし、想定できたはずだったのだ。1日考えて、父の後妻(結婚したことがわかったのでこう書く)の番号を着信拒否にした。着信拒否にすることで逆上されかねないとも考えたが、このままでは自分生活が壊れると思った。夫には全部ひとりで決着をつけたいと言った。

次は父の携帯電話から着信と留守番電話があった。さすがに1時間おきではなかった。留守番電話を聞くのに心の準備が必要だった。何を言われるんだろう、何をふっかけられるんだろう、本当に怖かった。父よりも後妻の方が怖かった。留守番電話は2件あり、1件目は「ほら、◯◯ちゃんよ」という後妻の声の後に父が「◯◯◯◯(父のフルネーム)です、こんにちは、どなたですか」と言った後に電話が切れた。2件目は直接父が発言したようで、「◯◯、元気か。会いたいな。子供はいますか、元気ですか。連絡くれるとうれしいです」という、私の主観では「何かを読み上げた」ような内容だった。

2件目を聞いた時に、高次脳機能障害というのはこういうことなのかと腑に落ちた。私のことがわからない父も、私に会いたいという父も両方混じっている。人前でしかさない、機嫌のよい時の父の声で「どなたですか」と言われたこと。この10年一度も親から子への連絡をしなかった父が、私の10年を何も知らずに「子供はいますか」と無邪気に尋ねること。一瞬気が遠くなった気がした。そして私のことをきちんと認識している父はもういない。いなくて当たり前だ、10年かけて私の中でゆっくり父の不在から父の死へ変化していったのだから。私の中で既に父は死んでいた。正確には「死んでいたということがわかった」。私はもう父の家族に、といっても後妻しかいないけれど、一切関わるまい。そういう決心をしながら、そういえば私が家庭教師をしたあの子供はどうしたんだろう、という思いがちらりとよぎった。

父の番号を着信拒否してから、1年に1回ほど、後妻からメールが届いた。「賢くて頼りになるお父さんのことを思い出します」。頼りになる? あなたにはそうだったんだろう、私にとっては違ったけれど。いとこからメールがきた。「今度静脈瘤の手術をするので連絡してあげてください。私の母が死んだ時にお世話になったから、恩返しをしたい」。つまり私にとってのおばがこの10年の間に死んでいて、私に連絡がこなかったのだから親族扱いされていなかったのは私の方では? 誰も彼も何を言っているんだろうと思った。怒りはなく、ただ不可解さだけがあった。両親がなぜか電話意思疎通(といっても口げんかだったそうだけど、私は聞いていないからよくわからないままだ)していたこと。すべてにおいて排除されていたのは私ではなかったのか。そして父が死にそうな時にだけ連絡が来る。不可解だった。どのメールにも返事をしなかった。

最初コンタクトがあってから4年後、おそらく戸籍の附票からたどったと思われる封書が後妻から届いた。ざっくり言えばもうそろそろ死にそうだから、面会に来てほしい。相談したいこともあるから連絡してほしい。会っていなかった10年を埋めることもなく、ただ死にそうだという連絡だけが来る、それがなんだかおかしかった。

そのさらに1ヶ月後、今度はいとこから、父が死んだこと、告別式の日時と場所の連絡があった。私は即座に相続放棄手続きを開始した。お金について計画性があったとは思えないので、相続手続きをしたところでたかが知れている。相続手続きには相続人全員の承諾が要る――つまり後妻と私は何らかのコンタクトを取る必要性があるだろう。弁護士を挟むにしても。私は一切後妻と連絡を取りたくなかった。分かり合える何かがあるとも思えなかった。年を取ってから再婚なんだからそういうこともあるだろうに、なぜ死んだからといって関係性が生まれるのか。丁寧に必要書類を集めて回り、家庭裁判所相談員の人と会話をして、「よくご存じですね」と言われた。そのことだけが、この一連の騒動の中で、本当に感情を動かされた。つまり、うれしかった。誰も彼もが私を都合良く(といってもきっと善意なんだろうけど。地獄への道は善意で舗装されているのだった)使おうとする中で、事務手続きを挟んだ人だけが、私のことを褒めてくれた。

相続放棄の申立は無事受理された。

父の名に大きく×がつけられた、後妻の名前も入っている住民票を見て考える。父にとって私はなんだったのか。かわいがってもらった記憶も、愛情をかけてもらった記憶もあるにはあるけど、空白の10年間、私が気を遣って父にコンタクトを取るべきだったのだろうか。いやそんなことはないはずだ。父は父の意思で私を家族から外したのだと思いたい。私が一連の話の中で一番ショックだったのは、面識があったはずのおばの葬式に呼ばれなかったことだったのだから

父と母と私の欄に「除籍」と書かれ、後妻の名前が連なっている戸籍謄本を見て考える。一番コンタクトを取りたくない相手名前が、同じ書類の中におさまっている。後妻の生まれた日も、両親の名前も、続柄も、再婚した日も書かれている。そういえば再婚したという報告すら父からはこなかった、それは当たり前だろうと思う。別の誰かとの再婚ならともかく、母との婚姻継続中に家族の中に割って入った人。割って入ったことすら気づくのが遅れた人。

家庭裁判所から送られてきた「相続放棄申述受理通知書」と「相続放棄申述受理証明書」だけが、私にとっての宝物だ。家庭裁判所の人はやさしかった。見知らぬ私のために、書類についてあれこれ教えてくれて、印紙が売られている一番近いコンビニエンスストアまで紹介してくれた。人のやさしさってあるんだなと思えた。

長くなりました。読んでくださってありがとうございます

2020-08-24

anond:20200824192059

事実からなぁ。コロナ騒動事実だろ?封筒はうけとっていないが、封筒を送りましたという封筒はうけとった。封書の到着率が100%だとは知らなかった。

2020-07-30

[]2020年7月29日水曜日増田

時間記事文字数文字数平均文字数中央値
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7月29日(5), 古物(6), カマトトビッチ(3), 良曲(3), めだかボックス(3), opinion(3), スンドゥブ(3), 会計事務所(3), 2種類(3), 女性患者(3), 大原優乃(5), 避妊(53), ピル(38), 薬局(27), 緊急(39), 悪用(26), 大麻(12), 副作用(13), 中出し(12), ルッキズム(14), 処方(14), ゴム(14), 馬(9), 美しい(17), 産ま(10), 緊急事態宣言(9), 貴族(7), アイデンティティ(7), 癌(7), 記述(8), 買える(18), 妊娠(24), 大阪(22), 解説(17), ノリ(16), オンライン(14), 買え(25), パートナー(13), そら(12), 恵まれ(12)

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手取り14万の底辺だけど100年前の貴族に比べても良い生活してる自覚ある /20200727231331(36), ■女ってさ、結局「美しく」ならないと自己肯定できないの? /20200728192915(17), ■父が死んで良かった /20200728182101(14), ■続きが気にならない小説が読みたい /20200728192435(14), ■癇癪起こしたい /20200729211310(11), ■ポケモン現実にいたらなぁ /20200729190524(11), ■マイナーかもしれんが教えてくれ /20200729213114(10), ■オタクのノリが苦手だ /20200728005814(10), ■子宮頸がん検診が、レイプ過ぎた /20200723034652(10), ■5ちゃん(旧2ちゃん)がやっぱり情報まとまってて使いやすいという /20200729181430(8), ■緊急避妊薬を薬局で買いたい理由ってさ /20200729125341(7), ■周囲で中国♀と結婚する男が異常に増えてる /20200728130902(7), ■緊急避妊ピル薬局で売ったら安易セックスが増えるの? /20200729111411(7), ■リアルで会ってみたいブクマカ /20200728173710(7), ■「万引き」とか「イジメ」とか言って矮小化するのやめーや /20200729223711(6), ■現実学校でのパンチラってあるの? /20200728161907(6), ■公式による推し冷遇が酷すぎるのでジャンル降りる /20200729000111(6), ■ITエンジニアにはなれません!!! /20200729015436(6), ■コロナ世界うなっちゃうんだろう? /20200729020519(6), ■年収300万円の人って焼き肉食べたい時どうしてるの? /20200729102949(6), ■ルッキズムってなんで悪いの? /20200729105410(6), ■不労所得いくらあったら働くのをやめる? /20200729155955(6), ■はてなーって韓国人差別に甘くない? /20200729162915(6), ■特別定額給付金の勧奨の封書が届いた /20200729213952(6)

2020-07-29

特別定額給付金の勧奨の封書が届いた

例の10万円の給付金、「使うことで経済を回す意味があるので、コロナで困窮していなくても受け取ろう!」とか言われているけど、自分場合は貰っても使う気がない(経済に貢献する気がない)ので、それならお役所の人の手間を一人分減らしたほうがマシだろうとほっといていた(申請書出すのがめんどいという身も蓋もない理由もある)

そしたら今日になって、「申請書(勧奨用)」と書かれた、改めて申請を促す封筒が来た。

使う気がない人が貰ってなにか意味あるのだろうか

2020-07-24

anond:20200724200314

実は俺もまだ手続きどころか封書がどこかに行ってしまってダラダラしてんだよ

めんどくさいけどレトルトシチューは旨いんだよ

2020-05-22

anond:20200521200340

 話が違う。一行目は半ば真実で、理由は四つ。

プログラムによる既存業務効率化は目に見え易いので、非効率だった多数の人材自分匹敵する能力を持っていると勘違いやすい点。

オブジェクト指向プログラミング自体事象抽象化や細分化、項目化といった思考必要で、物事数学的把握が必要な点。

効率化によって職を失う人間はこの先も増えるが、自分達の仕事は減らないだろうという漠然とした思い込み

定量的数学的把握は説明がしやすく、業務プレゼンへの応用は楽だが、数値から漏れた部分や把握できないイレギュラー無視しがちである点。

4つ目は敢えて言うなら文系素養必要で、これを持っている人間が一流。プログラムにできない(し辛い)部分を把握するプログラマー自分仕事無意味さを認める事になるが、これを抱えたまま仕事をするのはメンタルの面からも大変。他に挙げるとすれば、専門用語が多く仲間内で親交をする傾向が高いので外部からの目に気付き辛い点、一種官僚化だろうか。

それから6つ目(笑)と言ってもいいかもしれないが、プログラムその物の社会的意義まで頭の回っていない人間が多い印象はある。業務効率化による収益増は当然、自分給料に反映されるが、そこから漏れた部分の責をプログラマは問われない。

 一例を挙げれば、(文書に限り)郵便事業が縮小による情報伝達の効率化という恩恵は万人が受け、効率化に伴う収益電子化業者郵便事業者と分け合ってきたろうと推測されるが、電子化業務従事者は封書葉書印刷業者や納品業者インク製造業製紙業界までに頭を回す事が出来ない。もっと言えばパルプの精製や原料の輸出入にも関わり、産業としてはまさしく革命が起きていると言っても良いが、それを自分仕事に係わる物だと捉えているプログラマーはまずいまい。

負の側面として電子文書は膨大な労力をかけてフォントや外字の整理を今も強いられ、ファイルフォーマットや送受信データ形式の細かな不整合放置したまま進んできたが、それに関して電子化業務から社会への問いかけといった視点はなきに等しい。加えて、数値化不能な(文書に限る)郵便業務の益は、配達員顧客コミュニケーション地域事情の把握、高齢者福祉に関わる面にまで及ぶのであり、それをモニターの前にいるプログラマが担うのは不可能である


 二行目に関しては特権意識とは全く関係がなく、言語による思考を行っていない人間言語で話しかけるのが間違っているのではないか、と考える。

絵描き作曲家の例を挙げれば理解は容易である。これらは頭を使っている、いない、の問題ではなく使い方が違うだけの話だ。

 そもそも、頭を使うの対義は身体を使う、になるのかしれんが、ヒトがどちらか一方だけを使うなど有り得ないし、その活動比重が脳に偏っていれば偉い、と言うのは思い上がりである

2020-04-27

ラジオさらっと失言するくらい想像力のない人に芸能界にいてほしくない

岡村のクソ発言

飲み屋一般人のおじさんたちがこういうことを言うくらいには問題ない。

私がもしそういうシチュエーションでそういう下品な話を盗み聞きしたら「うっわ、きっしょ」くらい思って終わる

でも岡村芸能人から。注目されない一般人とは違う

今回の発言で、私は「こんなやつにTVにでてほしくない。事務所クビになれ」って思った

コロナのせいで会社つぶれそうで大変な思いしてる人達がいるのになんなんだよ。

岡村芸能人からTVに出て来て、うっかり私の視界に入ってしま可能性があるし、芸能人から影響力あるしもう芸能活動してほしくないし、こんな気持ち悪い人間が人前にでてお金稼ぎするのはクソ過ぎるだろ

岡村所属事務所調べて、電話をかけたり封書を送ったりして「大変なときあんなこといううんこ野郎芸能界必要ないんで解雇してくれ」っていうメッセージを送りたくなった

私がしなくてももう苦情を送っている一般人たちはいるはずだ

どうか岡村芸能界から追放してくれ

もう二度とどこのメディアにもでないでくれ

謝罪会見したって

きっとTVで顔見るたびきもち悪くなる

それくらいこんかいのは胸糞発言過ぎた

胸糞中の胸糞だよ

消えてくれ

2020-04-08

信書を送れるのは郵便局だけ

ヤマト佐川等の運送業手紙等の信書を送ることができない。

独占禁止法があるのに政府郵便局の独占を許してるよなと思って調べたんだけど

全国にポストを置かないと信書を送ってはいけないとかルールがあるみたい?

郵便局みたいに日本全国にどこでも信書を受け付ける施設がないと信書の送付を取り扱ってはダメなんだよみたいなルールがあるっぽい?

佐川ヤマト日本全国にポストを置く予算を出せるはずがない

それで運送業信書配送を取り扱えないらしいんだけど

では、もし佐川ヤマトが現状で信書を送れるようになったとすると郵便局封書の郵送料の売り上げが減るから郵送料をさらに値上げしなければならなくなる。

郵便局信書の郵送を独占しているのは誰でも安く郵便物を送れるようにするためらしい。なるほど。

独占禁止法のことを考えたらヤマト佐川福山通運でも手紙配送やらせてあげてよって思うけど

貧乏な人でも郵便物を安く送れるようにするためのシステムが今の郵便局の独占状態なんだね。

考えてみれば

たとえば私が東京から東京の住所にはがきを送っても

沖縄から北海道の住所にはがきを送っても

どちらも63円なの

人件費、郵送コスト全然ちがうのに同じ63円なの

これって当たり前だけどすごいことだったんだなぁ。

郵便局の郵送料高いなーって思うときもあるけれど、それでも庶民に向けてギリギリのお値段でやってるのかな?

昔は封書が62円で送れたのに今84円ってずいぶん値上げしたなぁと思うけどしょうがないのか。ゆうパックとかは荷物の重さや送り先で値段変わるけど

信書とか手紙とかの郵送は大きさと重さだけで送り先は関係なく一律の料金で届けてくれる。

これってすごいことだったんだなぁ

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-20

日本年金機構からクソみたいな手紙が届いた

事情年金事務所に届出書を出さなければいけなくなって手続きしていた。

提出したのは「二以上事業所勤務届」。事前に記入したもの社労士健保組合に見せて記入内容に問題がないかチェックしてもらっていた。

しばらくして日本年金機構から封書が届いたので、てっきり書類受理された通知かと思ったら、

なんと提出した書類が返送されてきた。

「この度ご提出いただきました届書申請書・請求書)につきまして、下記の理由のため返戻いたします。

なお、ご不明な点がございましたら、担当者までお問い合わせください。

署名

1 健康保険厚生年金保険 被保険者 所属選択・二以上事業所勤務届 1枚

返戻理由

1 通信欄をご参照ください。

通信

個人番号でご提出の場合は、添付書類必要となります。添付書類につきましては、別紙の見本をご参照してください。再提出については、お返しした二以上事業所勤務届と添付書類を併せてご提出してください。

※尚、個人番号マイナンバー)を二重線で削除し、基礎年金番号で届出されますと添付書類は省略できます。」

とのことだった。

なんという無駄文書なのだろう。

提出した書類には確かに

個人番号(または基礎年金番号)」という欄がある。

個人番号で記入した場合に追加の添付書類マイナンバーカードまたは身分証明書の控え)が必要になるなんてどこにも書いてない。むしろ基礎年金番号のほうが括弧つきだから補助扱いじゃないか

必要になる添付書類の取り扱いが変わるんだったらちゃんとそう書いてくれないとたいていのひとはどっちでも同じだと勘違いするだろう。

だいたい、マイナンバーで記入するならマイナンバーカードの控えも提出してもらいます、ってそれじゃあいったいなんのためのマイナンバー制度なのかわからない。

本当に無駄な手間がかかった。

2020-01-18

anond:20200118145044

知り合いに封書を託すってとこからむしろ退化しすぎ

頭が

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