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2022-09-07

anond:20220906162126

埼京線とか痴漢悪名高い路線に住むのをを避けることはできる

実家埼京線にあっても都心と反対方向の学校職場を選ぶとかくらいはできる

行きたい学校職場ガーって言うのなら、それは自己責任自衛してください

2022-08-25

『ただしさに殺されないために』という詭弁

饅頭の言う、『ただしさに殺されないために』ってやつ、あまりにも酷い詭弁だよな

何かさ、「昔は今なら発達障害と見なされるような弱い人間無能人間市民権を得られていた」って話題になると

「でも昔は今より喫煙し放題だったしセクハラパワハラも酷かった」という反論をよく聞く。

「そういったものを認めない潔癖で不寛容社会から、弱い人間無能人間排除するようになった」とも。

この理屈にどうも違和感あるんだよな。

そりゃ昔がパラダイスじゃないのは分かっているし、でも別に弱さを許す事と悪を許す事って不可分ではないでしょ?

弱い事や無能な事はそれ自体別に悪ではない。無能な人が、ミス遅刻忘れ物をするのはわざとではない。

寧ろ喫煙セクハラパワハラなんてのは『弱さ』とは真逆の、力を持つ権力者からこそ出来る事なのに。

社会が『正しさ』を求めた結果として弱い人間無能人間排除されるという理屈には何の論理的整合性もないし、もっともらしく見せ掛けているだけの詭弁だと思う。

本当に社会が『正しさ』を求めているのなら、寧ろ無能弱者に対しては寛容になってくる筈だよ。

故意犯罪セクハラ喫煙には断固として厳しい態度をとり、故意ではないミスの多さやコミュ障といった無能には寛容になるという社会理論的に十分成り立つ筈だ。まあ現実はどっちかっていうとその反対方向に向かっているが、どっちにしろ「悪」と「弱さ」は全くの別物であって「悪を許す事」と「弱さを許す事」もまた別物だ。

まあ、弱い人間がそれゆえに追い詰められて悪事を働く事だって勿論あるが、それはそれとして切り分けるべき。そういう人に対して必要なのは適切な更正や教育であり、悪事を許す事ではないと思う。

アンパンマンの作者やなせたかしが言ったように、正しさとはお腹が空いた相手食べ物を分け与える事だ。つまり正しさは人を生かすものなんだよ。

なのに『正しさ』が人を殺すなんていうのは明らかに詭弁。この世の中において不本意に殺されていく人が大勢いるのなら、それはこの社会が『正しく』なくて、弱者に対して不寛容からだと思う。

2022-08-10

歴史ある地域に戻って住むかいなか

迷っていることがある。

とある史跡の多い地域で育ったが、今はそこから車で1時間弱ぐらいの距離の田園地帯の中にある会社(工場)でSEやってる。(現在自然豊かな場所にある賃貸で職住近接と言えなくはない生活を送っている。)

そこの社員は大半がいったん工場の近くから通う生活をするが、子供の進学を考えてどこかのタイミング東西南北どっちかの方向の地方都市移住する選択をする。

自分出身地付近もその選択肢の一つとして割と選ばれているような(というか自分もそうするつもりで働き始めた)のだが、

いざ移住先を検討し始めると、気持ちが他の候補地の方に傾いてしまいがちであることを発見してしまい戸惑いを隠せない。

昔は、「この町は史跡が多くてなかなか面白い風情だな」と思っていて

いちばん長く過ごした場所ではあるが生まれ場所ではないし、物心ついた時は別の地方都市暮らしていた)

将来またその場所生活することを割と望んでいた。・・・が、勤務先との通勤距離のこともあって別な方角の地方都市を片っ端から比較のために調べてみていると、

出身地積極的に選ぶ理由が意外と乏しいことが浮き彫りになってきた。

考えてみれば当然のことで、史跡まみれの町ということは大胆な都市計画ができなくて、さら観光業っぽい地元商店既得権のせいで

郊外かごく限られた地域しか新しめの商業施設営業できない状態になっているし、鉄道道路といったインフラ地元住民以外に観光客のためのものとして整備されていて

普通生活が(そういうシガラミがない地域と比べると)なにげに不便なのだ。比べる対象を持っていなかった時には気にならなかったが具体的な比較をするとその弱点が際立ってしまう。

もちろん歴史上のエピソードに関連した場所が沢山あること自体マイナスではないのだが、

その価値(すなわち日本の歴史勉強する価値)は相対的に下がってきているのではないか・・・?という気持ちが沸くようになってきている。

端的に言うと、そんな優雅なことを守り伝えていく余裕は今後の日本にあるのか?という事への疑念が強くなってきてしまっていて、ただの不便な場所に見えてきているという話である

科学的な発見がされた場所とかならまだ良かったのだけど・・・

いちおう土地勘があるとか友達も若干数いると言う利点はなくはないのだけど、

きれいな水と空気に囲まれ生活に慣れた後では、不便なくせに空気が汚い出身地に戻って住むことが大して魅力のない選択肢に映って仕方がない。

ただいずれ帰るという暗黙の了解のもと両親にはいろいろ支援してもらってしまっているし、今より実家が遠くなるのは良くないという認識はあるし、

地縁もないのに子供会社周辺で育て続けることはとてもする気にならないので、どこかへの移住はすべきなのだと思っているが、

どうせなら合理的街づくりができている所に住みたい気持ちがある。

通勤時間さえ長くて良いなら条件を満たす場所はなくはないが、通勤時間がかなり長くなるので即決できない。候補バリエーションは以下のような感じで、一長一短である

 A:実家の割と近くで駅とショッピングモール中間(古い住宅地道路が狭く空気はよどみがち。通勤40分)

 B:実家と同じ市町村の辺縁部でバブル後も開発が継続していた地域商業施設が充実しており斜面が多いが道路は広くて空気も奇麗。通勤60分)

 C:実家の隣の市町村最近開発された大型分譲地(空気は奇麗で道路も広いが、切り開いた斜面であり地盤不安。また将来ゴーストタウン化の懸念あり。通勤50分)

 D:会社のあるところの隣の市町村会社のある市町村よりはメジャーチェーン店が多く来ていて道路も広い。人口は同等で実家からは30分ぐらい遠くなる。通勤30分)

 E:実家とは別の方向の現在人口増加中の地方都市大都市に近い場所であり利便性は格段に高いが、実家から距離はやはり遠くなる。通勤40分)

 F:実家とは反対方向の地方都市県内最大都市なので、利便性最重視の場所からゆったりとした郊外まで幅広い選択肢がある。実家からは当然遠い。通勤45分)

気持ちを整理するために書き出してみたが、やはり決心を付けづらい・・・。なお通勤はいずれも自家用車。体調的な理由で長時間運転は苦手なので40分以上かかるところはしんどいと思っている。

2022-07-27

ぶつかりおばさんを目撃した

駅ではなかったが。

日傘をさしたおばさんが前を歩いていた。

対方から複数会社員集団が縦1列に並んで歩いてた。

おばさんは日傘が確実にぶつかる位置なのに少しも位置を変えずに突っ込み2,3人に傘を強くぶつけていた。

それにもかかわらず振り返りもせずぶつけるのが当然とばかりに無反応で歩いていった。

こいつヤバいなと気になったので少し追って様子をみたが、スマホを見ながら歩いてぶつかった訳でもなく、両手で日傘を抑えていて確実に当たりにいってるのが確認ができた。

会社員たちは道路の端から1/4くらいのエリアで、ぶつかりおばさんは1/2~1/4くらいのエリアを歩いていた。

会社員たちは何もしなければ日傘が確実に当たる位置だったが、日傘無しで歩けばぶつからないし幅を取ってるワケでもない常識的立ち位置だった。

会社員が避けるにはビル壁にかなり寄る必要があるが、おばさんの横は道路の半分空いているので

性別とか一切関係なく、荷物で幅取って通れなくする側の人間配慮するのがスジだと思うが、女が避ける社会なんてNOとばかりにぶつかっていったんだろうか。クソ迷惑だ。

2022-07-18

anond:20220718184958

反発してたんだもんな。てことは是が非でも反対方向に行きたがってたはずだし。

2022-07-11

新幹線自動改札でのチケット強奪犯罪

犯罪に合われた方には同情を禁じ得ない。

同じグループで2件被害とのことだが、同一犯の可能性はあるのだろう。下記で検討したように犯人にも難易度の高い犯罪と思われる。今回の犯人が捕まればしばらく安心して新幹線改札を使えるのではないか

前提として、「在来線」「出口」での自動改札突破はかなりの件数が発生しているのではと思う。

それと比較して「入口」かつ「新幹線」は難易度が高い。

1.入口

自動改札犯罪で多いのは出口だ。突破して駅から出れば闇の中。物理的確保は不可能に近い。監視カメラから追うしかないが顔を隠されたら?入口は違う。先は閉鎖地域在来線巨大駅の改札入口ラビリンスの招待状、群衆に紛れ、ホーム多数、発着も頻繁。新幹線は違う。東京駅は最大だが東海道とそれ以外の新幹線改札は分かれおり規模は知れている。駅員の密度は高く、客の密度相対的に低い。警察もいる。泥棒と叫ばれ追跡されれば逃げ場はない。ホーム上の捕り物はダイヤ荒らし危険も招くのでできれば階段下で抑えたいところだ。換金目的なら乗車予定はないし可能だろう。

2.新幹線

そもそも不正乗車目的か、換金か。まず不正乗車を考えよう。犯人目的地までの切符を見定めて強奪するのが困難だ。ツイート主も書いているように今回は東京駅。一方向のみ。新大阪など両側来るところは反対方向を強奪したら目も当てられないので相対的に起きにくいだろう。また新幹線匿名性が低い。検札がくる。指定席券を奪っても指定席に座れば犯人ですと名乗っている状況、ほかのシートに座っても怪しまれる。自由席を見極めて強奪?それでも在来線と違い車掌が往来するし鉄道警察も頻繁に乗っている。駅間も長い。袋のネズミである在来線の改札犯罪費用対効果一定見逃されている可能性はある。新幹線チケットは高価で、かつ既に犯罪中の者が乗っている状況は危険である。次の犯罪に進む可能性もある。安全管理上注意される状況なので是非連絡して、監視して、下車を待って逮捕して欲しいところである。実際に駅から車内に連絡が行く可能性はあるだろう。特に警察乗車便なら。

換金はどうか。この可能性のほうが高かろう。だが払い戻しは御用一直線だろう。また指定券の払い戻しは出発時刻までで困難だ。もし払い戻すならカード購入ではカードを出せと言われるので現金購入を狙うのだろう。乗車券をなんとか改札の外に出て乗車券金券ショップに持ち込む。有効期限は距離に応じて当日から数日。函館博多自由席が狙われるリスクが高い。金券ショップでも足がついて御用の可能性があるし、買取金額を考えると骨の折れる犯罪だ。

3.駅員の対応

事情を言っても証明できないからと再購入。本当なら駅員の対応問題はないか新幹線切符領収書出ない?希望するボタンを押した場合のみだったか在来線改札では繰り返し襲来する酔っぱらい詐欺対応でつっけんどんな対応もあると理解しているが、新幹線改札で犯罪被害者に門前払いがもしあったなら良くない。東京駅新幹線改札内には警戒中の警察がいるはず。駅員側も犯人が他の犯罪を起こす危険からすぐに警察を呼んで対処すべきである被害状況の聴取や協力の時間が発生する、予定上許容できない場合自腹再購入で乗らざるを得ないことはあるだろう。被害者も犯人も同じ電車に乗るならお互いに気が気ではないが。

4.あえて手を出さない?

新幹線運行上の安全運行への集中を考えてあえて走行中の列車と連絡を取ってまで犯人を追い詰めない考え方もあるだろう。もしそのような方針で、かつ対応が見破られているとすると、不正乗車目的一定件数発生している可能性はある。その場合でも泥棒一言叫ばれれば改札内に逃げ場はないので犯人にとってお縄のリスクが非常に高い犯罪であることに変わりはない。NYは知らないがパリローマ地下鉄自動改札では不良集団が悠々と突破していく。駅員はいても手を出さない(私の観察範囲では)。他の乗客は言うまでもなく。危険からだ。治安一定以上悪化すると係員も一般人も見て見ぬふりになる(長距離列車では改札自体なく社内検札ですべてカバーするのでチケット強奪は起きない)。日本がこうなるとは今のところ思えないが、念を入れて割れそばから窓の修理を続けてほしいもである

見落としや仕組みの理解誤りがあったら教えてください。

2022-06-10

河田くんの思い出

引っ越し断捨離してたら、河田くん(仮名)のことを思い出した。

ただ、なんだったんだろうと言うだけの話だけど、寝る前に書こうと思う。


小学校同級生だった河田くんは、背が小さくて痩せていて、少し外斜視の目がエキゾチック男の子だった。

ちびまる子ちゃん野口さんみたいな雰囲気で、無表情かニヤッと笑っているかの2つしかたことがなかった。

河田くんは女の子が苦手で、かといって男の子友達も多くなく、よくひとりでいた。

私は彼のことが気になってよくちょっかいをかけていたし、私の母と彼の母がPTAで親しかたこともそれに拍車をかけていた。

川沿いにある薬局の2階にあるお家にも行ったことがあった。

河田くんは4人兄弟長男で、狭い和室にぎゅうぎゅうに置かれた2つの2段ベッドの右下1段が彼の唯一パーソナルスペースのようだった。

枕元に派手な色のカエルぬいぐるみ星新一小説が置かれていた。

カエルの首を掴んで「こいつかわいいだろ」と言っていたのを覚えてる、その小さなベッドの上は河田くんのお城に思えた。

なんだか私だけは特別存在だと全く誰も羨んでいないのに優越感を感じた。


でも、河田くんと私はそれからたいした友達にもならずにクラス替えやら成長期を挟み疎遠になったまま小学校卒業した。

河田くんは女の子が苦手だから男子校に進むんだとお母さんに聞いた。

川沿いの薬局は駅を挟んで反対方向で、わざわざ見に行くこともなかった。

話に登ることも思い出すことも滅多になかった。

次に聞いた河田くんの近況は、亡くなったというお知らせだった。


それは母から聞いた。

亡くなった理由は分からなかった。

葬儀は2人で行くことになった。

葬儀場には同級生らしい学ランの子たちが沢山いて、並んでいる間チラホラ小学校同級生も見かけたけど、どれも河田くんじゃなくて河田くんのお母さんと付き合いのあったような顔だった。

棺の中の河田くんの傍にはあのぬいぐるみカエルが寄り添っていて、一度だけ行ったお家のことを思い出して、なんだか目の焦点がうまく合わなくなった。


お葬式のあと、お食事をしていって下さいと言われて、嫌だったけど母が「こういうのは礼儀から」っていうから案内された席に着いた。

油っぽくて味のしない天ぷらを食べてると、隣で河田くんの高校同級生と思われる男の子が何人かで話していた。

「どうする?明日

告別式?は12時に終わるんでしょ?さすがに一旦帰るよ」

思い出話じゃなかった…と思って意識天ぷらに戻そうとした瞬間、信じられない言葉が聞こえた。

今日こんなキツいのに、明日はサカタの通夜とかキツすぎるわ」


え?と声に出てしまったと思う。

箸を持ったまま彼らの話を聞き入ってたけど、私の知りたかったようなことは、もうとっくに話し尽くしたみたいだった。

明日彼らはもう1人同級生を見送ること。

彼らはサカタくんとほとんど話したことがないこと。

結局、河田くんは自殺だったということ。

わかったことはそれだけだった。

声をかけようかとも思ったけど、そんな野次馬みたいなこと亡くなった2人に失礼なんじゃないかと思って声が出なかった。盗み聞きしてるくせに。

それに、訃報を聞いたようにいつかお母さんが誰かから真相を聞いて、私に教えてくれるかもしれないとも思った。

結局すこしの天ぷらだけ食べて、最後河田くんのお顔をみて家に帰った。

なんで河田くんはあんなに弟思いだったのに、とか、誰にも相談できなかったのかな、とか、河田くんとサカタくんは友達だったのかな、とか、答えの出ないことをぐるぐる考えてうまく眠れなかった。


結局今日に至るまで、お母さんが「そういえば…」ってその話をしてくれるなんて都合のいいことは起きなかった。

何もわからないしわかることもないまま、高校卒業して就職もして今引っ越ししようとしてる。

私は河田くんのことを何も知らない。これから新しく知ることもないと思う。

あの部屋の小さな河田くんの世界の記憶けが鮮明で、お別れのこともフワッとしか思い出せない。

私が知っている12歳の河田くんは、5年間でどう変わっていったんだろう。

なんかまとまらなくなっちゃったけど、もっと河田くんと話してみたかった。

川沿いのお家も薬局今はもうない

2022-06-07

https://news.yahoo.co.jp/articles/5015da26607a03ab2fd804f94bd39019607c12f9?page=5

ーー海外では今、「生活習慣病」はあまり目を向けられていないそうですね。

生活習慣病」(life style disease)という用語自体、すでに国際的に見れば使われなくなっています

医学論文検索サイトPubmed検索すると、「life style」 を含む論文は年々増えていますが、「life style disease」という言葉を用いている論文は589本(0.5%) に留まりますしかもそのうち391 本は日本施設日本人が書いた論文でした。つまり生活習慣病」は日本だけのローカル方言となっているのです。

ーー海外では、大規模な研究結果によって健康自己責任論は見直そうという動きが1980年代から広がっていたにもかかわらず、日本は反対方向に突き進んだ。

海外でもそんなにきれい見直しが進んだわけではないです。健康社会的決定要因という概念は、アメリカでは全く流行らず、政策にも取り入れられませんでした。

民主党の中でもよほどリベラルでないとあの概念は受け入れられない。ましてや共和党には全く受け入れられなかった。

ーーヨーロッパだけだったのですね。

ヨーロッパの中でも健康社会的決定要因を政策に盛り込めたのはイギリスだけです。イギリスでの公式な場で取り上げられたのは、1998年に「健康社会的決定要因 確かな事実(Solid Facts)」というWHO報告書が出てからです。当時のブレア政権が本格的に取り組みました。

この研究を率いてきたのは、ロンドン大学マイケルマーモット教授で、ブレア政権アドバイザーになりました。残念ですが連立政権になってからこの概念は外され、マーモット教授政府系の諮問委員から全て外されました。

ーー健康政策は、見事に時の政権思想に左右されてしまうわけですね。

そうです。やはりサッチャリズムレーガノミクスの影響は大きい。社会格差が広がるにつれて、「健康格差」が目に見えるようになってきたので、社会の注目を浴びるようになった。

日本場合2001年から小泉政権あたりではっきり見えるようになりました。そういう意味政権思想の影響をすごく受けるテーマです。

anond:20220607152339

男か。なら女の部屋に転がり込め。

30代中盤から後半がおススメ

駅に向かう女ではなく

駅と反対方向へ歩く女を狙うんだ

2022-05-27

パトカーネズミ捕りしてる所をすれ違ったとき

対向車線から来る、何も知らずにかっ飛ばしてる車にパッシングして警察存在を教えるという話をこないだ見たので、明らかに速度超えてるなーという車に3台ほどやってみた。うまくいってたらいいが(反対方面に向かう為結果は知らん)

2022-05-07

再度、カモに餌やり。

 五月五日、また公園にカモに餌やりをしに行った。

 前日よりも人の出が少ないようだった。広場にあったワンタッチテントの数も前日の半数以下だ。だが、駐車場の空きは少なかった。隣接のサッカー場子供サッカーチーム試合をしていたので、公園駐車場がその関係者達に占拠されてしまい、他所から公園に遊びに来た人達は、駐車出来ずに諦めて帰ったのかもしれない。

 前日は公園に着いたらまずは敷地内をぐるりと一周散歩したが、この日は真っ直ぐ管理事務所に入った。「鯉とカモの餌」を三つ買う。300円なり。上の子と下の子のぶん、そして私のぶんだ。

 池の周りでカモに餌やりをする人々やザリガニ釣りをしている人々も、少なめ。連休最後の日はインドアに過ごしたい人が多いのだろうか?

 前日にはいくらか居た鯉の姿があまり見えない。カモは前日と同数くらいいるが、同一カモかどうかは不明

 私と子供達がカモに餌をやっている間、夫が池の周りをぐるりと回って鯉の様子を見て来た。夫によれば、鯉は燕子花の間により集まっていたそう。鯉は、産卵に忙しくて餌どころじゃないらしい。

 産卵があろうがなかろうが、この池の鯉は何故か人に餌をねだることを全くせず、人影に向かって寄ってくることもない。昔からそうなのだ。「鯉とカモの餌」は実質「カモの餌」である

 連休中、人々の投げ寄越す餌にカモは飽きてしまったのか、前日よりも食い付きが悪い。食い付きが悪いと、子供達はむきになって餌を次から次へ、なんなら鷲掴みで一度に投げつける。面倒臭そうな仕草で、カモは泳いで行ってしまう。

 前日に学んだ通り、カモは真正面に落ちて来た餌にはあまり反応しないので、横か、なんなら背後めがけて投げるのがよい。一粒ずつ投げて、食べたらより手前の方に投げて、少しずつカモをこちらの方に誘き寄せる。……と、言い聞かせても、子供達の逸る気持ちを宥めるのは無理なので、子供達がやたらめったら投げて全部外しているうちに、背後から私が投げて、カモ達をこちらに誘導する。

 公園のカモは人慣れしているが、それでも野鳥なので、決まったセーフティーゾーンを越えて近づいてくることはない。一番寄って来て、岸から1.5mくらいの所。だが、それだけ近づいてくれれば、子供の手で投げた餌でもカモはもれなく拾ってくれる。

 カモを岸に寄せたら、私の役目は終わりだ。早くも手持ちの餌を投げきってしまった下の子に残りの餌を手渡し、子供達の隣にしゃがんでカモを眺めていた。

 やがて二羽いたカモのうちの一羽が、人間相手をするのに飽きたらしく、水面に浮いた水草の根で遊び始めた。猫がねこじゃらしにじゃれつく時のように、根っこの切れっぱしを仮想敵とみなしてつつき回している。するともう一羽は反対方向へとすいすい泳いで行ってしまった。

 よく、水辺の白鳥の姿は夕方だが、水面下では白鳥の足はジタバタと不恰好に水を掻いているという。だが、カルガモ達が水面をすいすい行く時の足の動きは優雅無駄がない。茶色と緑の入り雑じった泥水の中でも、カモの足のオレンジ色は鮮やかに映えている。

 子供達は橋を渡って池の向こう岸へ行き、別のカモのコンビに餌をやり始めた。私と夫は日陰に入り、また別の二羽を眺めた。なんと、二羽のうちの一羽がうたた寝をし始めた。私と夫の他にも人間いくらかいる、その前で、自らの羽の合間に嘴を突っ込んで、うつらうつらと目を閉じたり開いたりしている。警戒心がだいぶ薄れているようで、風に吹かれるままに岸辺に流されて来て縁に敷かれた石にぶつかりそうになったところで目を覚まし、いそいそと池の中央に戻っていく。だが、しばらくするとまたこちらに流れてくる。カモ達の、ここに来る人間達への信頼度半端ない

 あまり昼寝の邪魔になるのもなんなので、こちから遠慮して岸を離れた。池の中央にかかった橋を通ると、水面に亀がひょっこり顔を出していた。種類はわからないが、外来種ではなさそうだ。どう見ても、こっちを意識している。子供達を呼び寄せて、亀がいるよと教えてやると、子供達は亀に餌を投げた。すると亀はカモよりも機敏に餌を追いかけて食べた。だが、カモほど食欲が底なしではないらしく、いくつか食べただけでくるり身体の向きを変え、泥水の中へと姿を消した。

 対岸で、子供達がカモに餌を投げるのを見守る。子供達はやはり闇雲に餌を投げるばかりで、大人のようにテクニックを駆使してカモを手懐けることは出来ないようだ。それでも、力技で遠投した餌をカモに拾われて喜んでいる。

 二人の少し後ろに、三歳くらいくらいの男の子がとことことやって来た。手には餌の袋を持っている。だが、まだ小さいので餌を遠くに投げることができない。男の子は、うちの子供達が餌を投げているのを、恨めしそうにじっと見ているだけだ。そのまた背後に、父親心配そうな顔で着いている。うちの子供達が邪魔男の子がカモに餌をあげられないという構図になってしまっていた。なので、私は子供達に声をかけて、あっちのカモに餌をやりに行こうと促した。

 池の周囲でカモに餌をあげようとしている子供の多くは、五歳以下に見える。自分の足元も覚束無い幼児もいる。彼らはどうしたらカモの気を惹けるか考えて餌を投げるということが出来ないので、節分豆まきのように餌を投げまくった末にカモ達に完全無視を決め込まれる。ガッカリしている子もいれば、とりあえず好きに餌を投げただけで満足という様子の子もいる。

 うちの子供達がその年頃のころ、私は子供達にカモの餌やりはさせなかった。うっかり足を滑らせて池に落ちることを恐れてのことでもあり、こんな小さな子に失敗が運命付けられているような事をさせても可哀想なだけなのではないかと思った。それに、その当時は池の畔に集まる子供の多くが小学生で、幼児の方こそ場違いに見えた。

 だが今は、頭の重みでいつ前のめりに転がり落ちるかわからない幼児が、器用に池の縁の石の上に立ち、池の中を覗いているのだ。

 うちの上の子はもう五年生で、この歳までカモに餌をやって遊ぶことをしないで来たわけだが、もうじき自分から幼児に紛れてこんな風に遊びたいと言うような年頃ではなくなってしまうだろう。少々の危険覚悟で、もっと小さいうちから好きに遊ばせておけば良かったのではないかという後悔を感じないでもない。だが、一人で池を覗き込んでいる年端のいかない幼児が池に転がり落ちないで済んでいるのは、単に運がいいだけにも思える。

 餌を全部投げ終わると、子供達は手を繋いで、中央広場遊具で遊んで来ると駆けていった。私が子供達の手助けをする必要はもうない。遊具で遊んでいるのも幼児とその保護者ばかりで、小学校高学年の子供達はマイナーだ。十年前は逆に大きな子供達ばかりが、少数の幼児を蹴散らすような勢いで遊具に飛び付いていて、危なっかしくひやひやしたものだ。

 後で上の子に聞いたところ、遊具には小さい子が沢山いるから、小さい子に出会ったら危なくないように道や順番を譲ったとのことだった。

 子供達が遊具で遊んでいる間、私と夫は木陰のベンチに腰掛けて待っていた。

 蓮池のところでザリガニを捕っている親子連れがいた。事務所で売られている「ザリガニ釣りキット」ではなく虫捕り網を持っている。ザリガニは釣るより手掴みした方が早いのは確かだ。

 母親が威勢よく小学校低学年くらいの息子に怒鳴っている。ここぞという時に息子が網を持ってふらふらとどこかに行こうとしたからのようだ。母親は、ザリガニ捕りどころか公園遊びにも向かないようなくるぶし丈のスカンツの裾を片手で引き上げ、もう片方の手を蓮池に突っ込んでザリガニを捕ろうとしている。根っからお転婆ではなさそうだ。そんな妻の横に立つ夫は「男らしさ」とは縁の無さそうなおっとり系だ。私の観測範囲だと、自分の息子を「男の子でしょ!」と叱る人ほどお転婆そうではなく、配偶者大人しそうな優男であることが多い。

 振り返って広場の方を見ると、上から下までスポーティーな格好の母親と、やはり上から下までスポーティーな格好の小学校高学年か中学生くらいの娘がバドミントンに興じているのが見えた。楽しそうだ。子供が大きくなったら大きくなったなりの遊び方があるようだ。私の乏しい体力では、バドミントンは無理そうだが……。

2022-05-02

2000時間の遠回り英語学習を経てたどり着いた、1日30分でネイティブの会話が聞き取れるようになる練習

英語学習ノウハウ記事が定期的に話題に上がるが、自分も含め多くの方は「とりあえずブクマ」してそれっきりにしていると思う。

役に立ちそうなツールや教材をあれもこれもと紹介しているので「とりあえず後で読みそう」とブクマされる。しかし、そういった記事はとにかく情報量が多い。リーディングには○○、リスニングにはXXと、ライティングには□□、発音には△△…と網羅的でとてもやり遂げられる気がしない。いくら素晴らしいウェアやギアサプリを紹介してもらっても「では今からフルマラソンをやるぞ!」とはなかなかならないのと同じだ。結果、「役に立ちそう」と「でも大変そう」との葛藤を、私たちブクマという形で折衷させている。

そこでここでは、2000時間英語学習経験からたどり着いた、「1日30分、この練習だけ続けてもらえれば英語力が着実に伸びるはず」というシンプル方法を述べてみる。僕は海外在住や留学経験ゼロのドメドメ日本人だが、英語を身につけたことで外資への転職を果たし、今はGAFA一角で働いている。英語以外のスキル業務経験ももちろん大切だが、英語が苦手な日本人が多い中、やはり英語力はアドバンテージになる。感覚的には、面接の通過率が3-5倍になったと思う。

シンプル」な方法とは書いたが「イージー」ではない。1日30分を継続するのだからそれなりに努力は求められる。ただし、アクションには迷わないよう、やるべきことは明確にしておくので、ぜひ実行に移し、キャリアアップや夢の実現に役立ててもらえたら嬉しい。

記事想定読者

なお、本記事ではスキル領域リスニング限定して述べる。スピーキングについては機会があればまた詳しく書くが、自分場合は瞬間英作文の本を数冊反復+レアジョブでの実践で、ある程度意思疎通できるようになった。一方でリスニングについては習得にかなり苦戦した(今もしている)。以前お世話になった英語先生も「スピーキングの方が一般習得が早いんですよ」と言っていた。

なので、自分同様に苦戦している方、リスニングの伸ばし方が分からないという方も多いのではないかと考え、ここではリスニング習得法を書くこととする。仕事でネイテイブと話さなきゃいけないのにチンプンカンプンで辛いとか、ジョークを聞いて周囲が爆笑しているのに自分だけ意味がつかめていなくて寂しいとか、そんな経験のある方はぜひ読んでいただきたい。

毎日30分やる内容

一言で言えばリピーティング。具体的なやり方については↓この方(Dr.D氏)の動画があるのでそれを参照してほしい。

海外ドラマ(Friends)のコピーイング/リピーティングに挑戦【前編】

https://www.youtube.com/watch?v=l6NQykyXM-8

■超速い英語 スーツ発音チャレンジ【前編】

https://www.youtube.com/watch?v=IA1Ep37GsJQ

ネイティブ音声をシラブル(音節)に分解し、個々の発音アクセント位置確認する。そしてできるだけスムーズにつなげて発声する。発音知識がないと最初は苦労するが、解説を聞きながら見よう見まねで練習する。動画でも言っているが、練習をする前と後で、その音声の聞こえ方が変わってくる。音声に対する解像度が上がったような感じが得られるはず。

同氏のチャンネルにはドラマTEDを題材にした動画が数十個あるので、片っ端からやる。1-2ヶ月はかかると思うが、そのころには耳の改善を実感できているはず。

動画がなくなってきたら、あるいは練習のやり方がわかってきたら、おすすめの教材としてはTEDICT。僕もずっとこれでやっているが、知識インプットにもなる。あとはLanguage Reactor (旧 Language Learning with Netflix) 。あとはTOEICやってる方ならPart2の短文とか。いずれにしても、数秒のフレーズを繰り返し(+スロー再生できるツールなら何でもよい。

英語リスニングアプリなら「TEDICT」がおすすめ! 詳しい使用方法解説

https://eigomonogatari.com/tedict/

■【Netflix字幕を同時表示】Language Reactor (旧 Language Learning with Netflix) の使い方

http://english06.com/4239/

なぜリピーティングなのか

ピーティングに似た練習法で「シャドーイング」がある(詳細はググってください)。僕もけっこうやっていたが、自分にはリピーティングのほうが効果的だったと思う。約1秒遅れですぐに発声しなければならないシャドーイングよりは、余裕をもって正しい音を頭の中でイメージしてから発声するリピーティングのほうが、ネイティブの音が頭に染み込むからではないかと思う。

学習2000時間のうちリスニングに約半分の1000時間、そのうち約850時間シャドーイングに費やしていたが、急速にネイティブ言葉がわかるようになっていったのは最後の150時間、リピーティング主体に切り替えてからだった。850時間の蓄積もムダではないとは思っているが、もっと早く本記事練習法を始めていれば、ここまで遠回りすることもなかっただろうと思う。

ちなみに「聞き流し」はシャドーイング以上におすすめできない。以前、ヒアリングマラソン的な学習も500時間くらいやったが効果が感じられず止めてしまった。やはり耳だけを使った学習は定着効率が悪いと思う。

本当に1日30分で英語が身につくのか

自分場合は1日30分でも成長を実感できた。YoutubeTED英語だんだん理解できるようになっていくのが分かって嬉しかった。もちろん、やれるなら1時間、2時間勉強したほうがいい。生まれた時から英語シャワーを浴びているネイティブに近づくためには量は不可欠。

ただ、言うまでもなく「質」のほうが大切で、だらだら2時間やるよりは集中して30分のほうがよい。というか、この練習ちゃんとやれば30分でへとへとになるはず。まずは30分の習慣化で成長を実感し、自信をつけたらだんだん時間を増やしたり、他の領域スピーキングなど)に手を広げていったらよいと思う。

英語学習」だと思うな。「モノマネの修業」だと思え。

上記動画さえ観てもらえればこの記事目的はほぼ達成なのだけど、これだけだと単なるDr.Dメソッドの紹介になってしまうので、自分なりに気づいた、大切な心がまえを少し述べたい。

それは「英語学習」はなく「モノマネの修業」をするような気持ちでリピーティングに臨むこと。動画の音声について、発音アクセント、音のつながり、変化、省略、イントネーションなどを徹底的に完コピする。そのネタ明日モノマネ大会に出るくらいのつもりで再現に励む。↓こんな感じで実際に人前で披露する機会があれば言うことなし。めっちゃ懸命に練習すると思う。

■細かすぎて伝わらないものまね ディズニーシーアナウンス

https://www.youtube.com/watch?v=WzY7vGewmNQ

完コピしようと思ったら、5回10回の反復では足りない。数十回、100回と必要になる(といっても時間はそんなにかからない。3秒のフレーズなら100回繰り返しても5分である)。繰り返すうちにネイティブ発声が耳と脳に馴染んでくる。そうなればそのフレーズは以後聞き取れるようになる。自分発声できるのだから、聞き取れないがわけない。

また、語学勉強だと思えば苦痛になるが、モノマネ芸を磨いているのだと思えば、練習に夢中になれる。絵や音楽などの芸と同じで30分くらいはすぐに経過する。だから継続やすく習慣化しやす効果が出やすい。それがこの方法を勧める理由の1つでもある。

逆に、やってはいけないのは、いわゆる「ジャパニーズイングリッシュ」に引っ張られてしまうこと。たとえばNot at allは「のっとあっとおーる」ではない。ネイティブは「ノラロー」みたいに言う。それをきちんと真似る。「のっとあっと…」と発音しているうちは、ネイティブの「ノラロー」は絶対に聞き取れない。同様に、I have to...は「あいはーふとぅー」ではなく「アィハフタ」だ。

このあたり、日本人の真面目さと丁寧さが裏目に出てしまうところである。我々はつい「あいはーふとぅー」と発音してしまう。丁寧に発音したほうが聞き取りやすいだろうという無意識気遣いもあるのかもしれない。しかし実際には逆で、ネイティブは「アィハフタ」でないと違和感を抱く。ネイティブ固有の「手抜き発音」を知り、それをそっくり真似ることに対して、我々は真面目で丁寧である必要がある。つまり「手を抜くことに対して手を抜かない」ことが肝心だ。

自分矯正に相当苦労したが、若い頃に学校で身につけてしまった日本人発音はもはや「呪いであるゼロではなく、マイナスからスタートだ。正しいネイティブ音を意識しようとする僕らを容赦なく対方面の深淵に引きずり込む。リピーティングを徹底して、洗脳と言えるくらいのレベル練習し、自分日本人であることを忘れるくらいに脳をネイティブの音で上書きしよう。

発音のやり方がわからないのだけど

ネイティブモノマネをしようと思ったら、ネイティブ発音メカニズム技術を学ぶ必要が出てくる。上記のような「モノマネマインドセット」で臨んでいれば、自然発音学習に興味が湧いてくる。そうなったらしめたもの。Dr.D氏はじめYoutubeの各種解説動画ネット解説サイト書籍などで学習する。たとえば"アィハフタ"を上手にモノマネしたいなら、"a"の発音法をきちんと学ぶ必要がある。

■【英語発音のコツ】母音(æ)をマスターする簡単方法

https://athinkingrice.com/pronunciation/ae-how-to

大切なのは、この「興味が湧く」プロセスをすっ飛ばしていきなり発音勉強をしようとしないことだ。発音英語学習に不可欠な一方で、謎の発音記号が出てきたりでわかりにくいので、モチベーションがなければ必ず挫折する。発音本を買ったものの数ページでギブアップした方も多いと思う。「もっと上手くモノマネできるようになりたい!」「そのためにはどうすればいい?」という気持ちが湧いてから発音に取り組むこと。

おわりに

…というわけで、2000時間(4年かかった)を経た今、この方法が最もリスニング向上に効くのではないかと思っている。本気で英語をどうにかしたい!という方は、30分/日をなんとか確保して上記方法チャレンジしてみてほしい。スキマ時間を集めればそれほど難しいことではないはず。

この記事が、あなたにとっての第一歩、キャリアアップきっかけとなりますように。ブクマはしないでいいからね♪

2022-03-17

anond:20220317174230

距離のもの問題ではないです、先頭車両から最後尾車両まで歩いて移動することもよくあるよ。

問題にしているのは人の多さ。

対方向行きも含めて常にごった返してるホームで、電車が頻繁に来て乗り降りが多い中、その人波に逆らって歩いていくのは口で言うほど簡単じゃないです。

その道中でぶつかられて舌打ちをされたりもするんだよ。

やったことがないわけじゃなくて、専用車両に乗って痴漢絶対ゼロにするリスクよりも人にぶつかり続けながら気力と体力を消耗するリスクのほうが高いと判断しました。

電車いちばん混んでるところで逆行してくるひとがいたらチッってなるでしょ、あれをめっちゃ受けるのしんどいんだよ。

2022-03-11

公式勝手に言ってるだけ」からはじめる文学理論半世紀

最近二次元に魂を奪われ二次創作萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。

歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである構造主義の話はしません)。

すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。

さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石作品批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石意図」に接近しようとした。

これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。

聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である

これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者あなたが「八百屋さんの隣にあるポスト手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。

これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァ世界公式に起きたこと」にアニメ劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダム関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。

話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生ノートをもとにソシュール一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。

聖書漱石研究など、ソシュール以前は「世界言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンル議論酷使されすぎだと思う)。

それに対して、「言葉世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回であるソシュールが言ったのはあくま言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまり革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてから文学理論最近半世紀である

それまでの哲学世界観と言ってもよい)においては、言語研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたまのものいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?

よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。

これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しか言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかソシュールいわく言語対象の結びつきは「たまたまである。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。

冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。

もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。

二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズエラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。

しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたし感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。

上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこ言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作アニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観いか正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。

しかしそうした努力にもかかわらず、論理学数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデル不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。

かくして文学研究者らはそうした論理的数学理論縦横無尽闊達自在引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。

しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに自分場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。

から、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情想像力こそ、人間発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから

 

最後

これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探していますPythonとかほんの少しできますよろしくお願いいたします。

2022-02-20

カーリングの石とブクマカ物理リテラシー

https://twitter.com/jiromurata/status/1494802711510155265

大盛り上がりのカーリング。石の曲がり方を見て、あれ?と思いませんか?野球変化球と同じで、上から見て時計回り回転で、右へ曲がります。 前面の摩擦をイメージするのと、逆向きなんです。

野球変化球ゴルフの曲がりでは空気の流れが本質ですが、それは速いからです。カーリングや滑り台では空気抵抗は微々たるものです。


上記に対するブクマカの反応

これが解らないって人は変化球の回転も理解してないでしょ 前面だけの三次元でも右に曲がるのに後ろ側は反対方向で相殺される平面で左に曲がる理由が無い カーリングも好きだが単に議論に参加する人の数が少ないんだ ろう 理解しても新球種作れる訳でも無いし

ベルヌーイの定理的には正しいんだよね?野球サッカーボールカーブしたり、飛行機が空を飛べる理由…に疑問を呈されてる感で、混乱する。

時計回りで右に曲がるのは直感に反しない動きだと思う。仮説1で合ってるんじゃないの?

からみて時計回りで(進行方から見て)右に曲がるけど一般的想像の通りじゃない?石の前面側が左から右に動くんだから右に曲がると思うけどな

左回転だと進行方向を左に、右回転だけど右に曲がってるからまり変には思わなかったなあ。

ボウリングと同じ曲がり方じゃないの?(ボウリングが曲がる理由が解明されてるかは知らない)

ボーリングの玉が曲がるのも原理としては同じなのかなあ。それとも前方回転があるから別か。


上記説明は若干わかりにくいが、以下の3点は主張として読み取れる。

ストーンの動きが「野球変化球と同じ」なのはおかし

ストーンには「前面の摩擦」がある

野球変化球ゴルフの曲がりは空気の流れによるものだが、カーリングストーンの動きには関係しない

からは、カーリングストーンは地面と一点で接する球ではなく、前面が地面と接する円盤であるという意味が読み取れる。

フラフープタイヤのような円盤を転がす時、その回転方向と輪の進む方向は逆だ。右(時計)回りの回転がついている場合、フープやタイヤは左に回っていく。

ボウリングピンポン球のような球であっても、前面が壁やカーペットにぶつかれば、時計回りの回転の球であれば左に跳ねていく。

そういった想像がつかないとしても、実際にコップやボウルを机の上で時計回りに回転させてみれば、右に回らないのはすぐわかる。

手元でやる気が無いのであれば、動画検索すれば良い。

いずれにせよ、専門家が「おかしい」と主張しているものについて、無邪気に「なんで?」と返しちゃうのってどうなのかなあ。

下記は似たような書き方けど、「これまで違和感は持ってなかったけど、違ってたんだ」という気づきが含まれている。

皆これくらい素直であるべきでは。

野球と同じく抵抗が少ない方に曲がってるだけでしょ 寧ろどうして逆と思うんだ?と思ったが前面だけ見ると左に流れると思うから天動説地球が球体も解ってない時代も有ったんだなって思うし

見た通りに曲がってておかしいとも思わんかったけど。テーブル上のボウルが回転と逆に曲がる方が不思議で、カーリング違和感覚える人の方が珍しいのでは。

そうか、球(ボーリングとか卓球)と同じように考えてたので違和感を感じてなかったけど、カーリングの石だと回転方向に曲がるのは「物理的には変」なのか。知識イメージ現実事象の違いで混乱する(;´Д`)

2022-02-04

繰り上がりの計算を教えてもらえればだいたいどんな桁数でも計算できるじゃん?

同じように「光速度不変の原理」ってものさえあれば特殊相対論効果が関連するどんな状況設定に対してもこうなるという解を論理的に導き出せるはず。

でも実際は「お互いに反対方向に光速の90%で進むもの同士があるのは相対論矛盾してるか→してない」

「公転を公転を公転するものって光速超えない?→超えない」「一秒までの時計光速一秒分ある巨大な時計ってどうなってるの→秒針がうずをまく」

みたいにそれぞれに応じて適切な解を「光速度不変の原理からだけで導き出せる人は少ない。

ようするに手ほどきが雑なんだよ。もっといろいろな状況設定自分でできてかつ自分で考えられるように、つまり応用が効くようになるためには言葉足らずだと思うん

だ。

なんというか正の数と正の数を足し合わせたら数が大きくなりますってすごく雑な法則を教えてもらってるだけって感じ。それでは繰り上がりの計算ができるようにはならないし、実際もっと筆算の手順は具体化されている。

同じように「光速は不変なんです」だけじゃなくて、もっと具体的に教えるべきことがあると思うんだよね、ってか絶対あるでしょ。

科学哲学の話がしたいんじゃなくて、自分の頭で考えられるようになりたいだけ。それには教えることがが足りてなさすぎてるんじゃないのって話。

本来は同一の法則から導ける問題なのにちょっと状況設定が変わってるだけで他人に聞かないと分からないなんて状態は不便すぎるもの。いちいち会計とかで他人に聞かないと合計額がわからない頭のままなのは不便でしょっていうのと同じで。

あなたのようなすでに理解してる側は初心というか初学者の頃のことを忘れてしまっているというか、理解できない側にいる人の気持ちがわからなくなっちゃうみたいだけど。

あなたも初学者のころは光速度不変の原理提示されてもすぐにはさまざまな状況設定に対して的確にこうなるという解を導き出せなかったころはあったと思うよ。

もしそんな雑な説明理解できる人だらけだったらそんなのより程度の低い高校物理でもあんだけ問題集が出てるわけないし。

さっき手ほどきが雑って書いたけど足し算引き算なんて大人にとっては簡単概念なはずなのにわざわざ「さんすうセット」なんて買わせておはじきとかで教えるでしょ。

そりゃ子供にとっては足し算引き算だって真新しい概念から当然。これを当然とするなら相対論大の大人にとっても十分真新しい概念たりうるから学ぼうとする人には同じようにもっと直感的な理解の助けになるような教材とかも充分用意されてるべきなんだよ。

anond:20220203192223

anond:20220203193029

anond:20220204141338

2022-01-18

無重力空間のやつね

ゼログラビティで見たけど

無重力空間ロケットを一回ふかすと

慣性力がついてずぅううーーっと

その反対側に吹っ飛んでいっちゃうわけじゃん?

思ったところを掴もうとしたけど手を滑らせちゃって

無限宇宙にすっ飛んでいってしまうやつ。

思ったんだけど

今回のトンガ噴火ってあれだけ大きい爆発なわけで

そうなるとトンガの上空に

あんな勢いでどかぁああんってなって

びゅわああああって物凄い推進力がかかってるわけだよね。

でさ

ふと思い出すと

地球ってやっぱり宇宙空間に浮いてるわけじゃん?

ふわふわーって。

その浮かんでる宇宙空間って

ご存知の通り、そりゃもちろん無重力なわけで

そう考えると

今、この星はトンガの反対方向に

あら?あららら?あららららららら?って感じで

すぃぃーーっと進んじゃってるんじゃないか

思うんだよね。

そうなるとあれ

警報でたの夜だったのから考えると

地球の周りを回ってる月のほうに

おっとっとって進んじゃったりして

距離感おかしくなってたりするんだと思うの。

こりゃもしかするとヤバいなぁって

今日帰り道で夜空を見上げてみたら

やっぱり月がいつもより大きく見えちゃったか

わぁなんか噴火って怖いもんだなぁと

思ったの。

なんかやっぱヤバいよね。

2022-01-12

anond:20220112093850

還元しなくていい」ってのは、金を直接流さなくていいってこと。

開発者に敬意を持って宣伝してる配信者もいるし、別に開発者無視しろと言ってるわけじゃない。

もっと言うなら、「配信者はゲーム寄生してる」という意見へのカウンターとして書いてる。

から対方向に極端に主張しているわけ。

2022-01-01

売る性やつら

いっそ反対方向へ走って行くスタイル、わるくない…

2021-12-29

出かけるの大好き人間の気がしれない

都心に住んでた頃は用事のついでに買い物であれこれ見て回るのは好きだったが

わざわざ家から出かけるために出かける、みたいなことはしなかった

平日は会社と家の往復

休日は週一のジム通いのためになんとか家から出る

くらいのもんだった

ジムコロナで辞めて、その後引っ越して、郊外住み

もう出かける気力とか微塵もない

周り家しかない

駅も遠い

15分歩いてスーパー、反対方向に20分歩いてドラッグストア、駅まで30分

なんのために外に出るのか意義を見出せない

散歩ぐらいどこでもできるもんだろうと思っていたが違うんだよ

景色のうちに興味があるものが多い場所とただの住宅地アンド畑では

道も細くて古い歩道で人一人やっと歩ける程度

すれ違う人とギリギリの道幅を肩窄めてかわすこと数分に1回の頻度 もう息が詰まる

都心じゃ徒歩ベースなせいか歩くのにここまで窮屈な思いをした記憶がない

もう何が言いたくなったかからなくなったが

ここはクソ

あと出かけるのだるい

2021-12-03

anond:20211202172336

脳も神経もないんだから痛みの形は動物とまったく違うでしょ

我々動物が痛みを耐え難い苦しみとして感じるのは

痛みを回避する行動をとることに大きなインセンティブがあるから

回避行動が取れない植物が耐え難い苦しみを感じ続ける仕組みになっているとは思えない

せいぜい「ん?どっか葉っぱ取れたか?じゃあ反対方向の葉っぱ茂らせてみるかー」

ぐらいの信号が出てるだけだろ

2021-11-22

今更の話なんだけど、

日見つけたいくつかのGitHubリポジトリ面白く眺めてる

20代フランス人だったり、40代ブラジル人だったり、色々である

ブラジル人は体力有り余ってるのか、

過去ゲームゼロから車輪の再発明とかしてて面白

自分にはもうそんな体力ない

あと、スターが4みたいな他人ライブラリ使って、

あんたのライブラリでこんなもん作ってみたよ、とかできるの、

SNSとして機能してるなぁ、と思う

Pixivみたいなサービスに例えるなら、

他人作品を使って別の作品を作ったりするわけだけど、

絵だとやりにくいなぁ、と思ったりする

音楽だったらリミックスできるけど

そんな感じで、金にならないコードも、金になるコードも、

GitHubみたいな銭湯というか沼というかに

みんなでブクブク浸かって楽しむみたいな世界は、

いわゆるFacebookMixiと似てくるけど、

似てるようで違うのは、言葉キャッチボールや殴り合いが、

言葉でなくコードになるところである

で、思ったのは、やはりプログラミングというのは、

今の時代はもうコミュニケーションなのだということである

ゲームMMOとかでコミュニケーションツールになった

チャットクライアントと同じである

ネットに繋がっていない環境ゲームに没頭するのではなく、

過去ゲームルール発明だったこととかは古臭いものとなり、

他人とのコミュニケーションが重視されるようになる

端的に言えばリア充世界とも言える

そして、コミュニケーションにおける言葉と同じように、

コード言葉と同じように無償自然と発するものに近づいていく

ここで思うのは、スティーブ・ジョブズがこの世界IBMの、

いわゆる、ソフトハードのおまけ、の世界に戻したことであり、

ビル・ゲイツだったかソフトウェアは無償化していくという予言は当たっていたのだろう

それをマネタイズするには、ApacheWebサービスを立ち上げるみたいな、

いわゆるGNUライセンスであれ、運用サポートではお金が取れるが、

HTTPサーバお金を取るのは難しくなっていく

Node.jsを開発したら、開発者は当たり前だが一番Node.js精通しているわけで、

企業顧客Node.jsサポート有償ですることでマネタイズできる

お金は次のプロジェクトにつぎ込むこともできる

しかし、凡人は、自分のようなパンピーはどうすればいいのか

ソフトウェアは無償化し、コードは会話のように無償で、ライブものになり、

あー、そういう世相を予測して、

先に牛耳っておこうという点でMicrosoftによるGitHub買収は正しかったのである

ソフトウェアがなんでも無償に向かうのはMSとしても良くは思えない動きだったはずだが、

今はまったく反対方向にMSは向かっており、収益の基盤をAzureなどに移している

今すぐはありえないが、WindowsというOS意味はなくなっていく

OSは単にネットに繋がるためとか、透明な存在になっていく

これはAppleGoogleのような企業でも同じ考えのように思う

もちろん、そのレベルでのシェア争いや小競り合いが今すぐ消えてなくなるわけではないが、

長い目で見ればいつかはそうなっていくことは容易に予想できるわけで、

まりソフトウェア産業というか、近年のバズワードでもあるテック産業というのは、

これはこれでもう斜陽なのだということである

そんなこと言うなら、誰の人生だって同じである

人生だって、みんな崖に向かって歩いたり、走ったりしてるだけである

その崖がどれだけ近いかいかとか、どれぐらいのスピードで崖に向かってるかとか、

それだけの違いであって、誰もがいつかは崖に到達して落ちる、つまり死ぬである

その死のときまで、せいぜい人生を楽しめということである

ソフトウェアが無償化し、あらゆる情報無償化し、

みんなで銭湯に浸かってるような世界楽しい

しかし、そこには一発逆転や一人勝ちするチャンスも乏しくなり、

そういった金を求めるギラギラしたアブラギッシュは寧ろ嫌悪される存在となり、

しかし、そうやってった末に待っているのはコモディティ化であり、

ただの暇つぶしにさえなっていく

今は楽しい

でも、その楽しさの果てに死が待っている

2021-11-20

anond:20211120110534

片方の道がふさがってるんだったら

まり行きたくなくても反対方向に行かざるを得ないだろう

2021-11-08

無敵の人」には敵しかいない

彼らは敵のいない人ではない。味方のいない人だ。

無条件に愛されること、肯定される経験大事なのだと人は言う。それがその通りだとしたら、その経験が出来なかった人たちはどう生きていけばいいんだろう。誰もが一人残らず愛されるわけがないって想像できないだろうか。

法を整備して仕組みを変えることはできる。だけど、国が出来るのはそれだけ。道徳強制して罰則規定するのが関の山だ。落ちこぼれわからず屋の一人ひとりに向き合えない私たちは「無敵の人」の凶行を甘受しなければならない。

なんらかの理想を掲げることで、その反対方向に存在する人たちが除け者にされる。もちろん、無敵の人もその除け者の中の一人。本当の敵は人の持つ強さ、弱さ、賢さ、愚かさ、美しさ、醜さ、そして方向性を持つその他すべての性質だろう。

2021-09-26

今の日本フェミニズムに対する素朴な疑問

例の騒ぎで、今の日本フェミニズムは、女性容姿に対して制限をかけようとしてるように見えるわけだけど、今の日本フェミニズムは、昔の女性解放運動(平塚らいてうとか)とで反対方向に走ってるのはなんでだぜ?

女性である私は「フェミニズム」と聞くと、後者イメージを求めたくなるんだが、これって間違ってるんだろうか?

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