はてなキーワード: 対外的とは
ハーフという呼び名はネガティブだからダブルにしよう、という働きがある
私はむしろダブルこそ言葉として、その成り立ちからネガティブさとは切り離せないものなのではないのか、という疑問を持つ
そしてそのネガティブさは多くの人間に対して向けられているものではないか、とも
少なくとも現状、違うルーツの両親を持つ呼称としてのハーフの言語的な概念は、当人を100とした、単純に両親の異なるルーツでもって50/50とする、またそれを前提としての略語、もしくは任意において一方のルーツをベースとし残り半分の割合を指すものがメディアで目にするものも含め一般的なものであるように思う
同じくクォーターも4分の3は言及せず、またベースとして略すもので、それはシンプルで客観的で図式的な概念であり、本来の単語としては感情的なあれこれの入る隙は無い
ダブルへ繋げる論拠として
あるいは血統主義から一方の国、この場合は日本人が半分「しか」入っていないという差別意識を表す
正直に言うとかなりバイアスのかかった発想だな、と思う
先にクォーターをハーフに並べたのはそれが言語として連なると解釈するからで、実際の用法としても多くでそう捉えられているからだ
彼ら、彼女らの言うネガティブさである単語からのマイナスイメージで言うならクォーターはハーフより印象は悪い
ハーフが半人前ならクォーターは人間が四分の一しか出来ていない、となる
ハーフという言葉の指すところが日本人の血の割合である、という主張も日本において多くの場合、単語が表す先が他国名となるクォーターでは通らない
繰り返すが言語的な用法としてハーフとクォーターは現実として連なっている
ハーフの「半分」という意味へ待ったをかけるのならクォーターもそうでなければ筋が通らない
クォーターに通じない論理でハーフを解釈する事は、ハーフでだけでなら可能だとしても論拠として不足が過ぎるように思える
だがダブルの法則へ従って4倍という意味を調べたはいいが、それだと元々の4分の1のルーツを表すという意味合いとは違ってきてしまい、現在使われている割合の意味での用法ではなくなってしまう
それがルーツの数を表すのなら日本3アメリカ1のクォーターは日本とアメリカのダブル、という事になってクォーターにあたる表現に穴があいてしまう
単純にハーフの上位互換として更にポジティブさを、というのならクォーターとの併用も違和感はない
だがなぜかそうではないのだ
単語の持つ意味や印象がマイナスイメージを想起させる、と主張するならハーフを否定してクォーターを許容するのでは整合性がとれない
そもそもこのハーフに対する話は日本の和製英語として、その言外にいわゆるガラパゴス的言語観への若干の批判めいた意も滲ませられ取り上げられている事も多く、それなら、と欧米で一般的にはどう表現されるのかと興味がてらにさっくりと調べると何の事はなくhalfという単語も使われていた
ただ日本のように単語自体にルーツへの意味を含ませるのでなく、そのまま単語として国名や民族名と並べてアメリカ半分と日本半分、のように使われるらしい
またpartも同じように使われるようで、こちらが日本で使われていたら分割という意味にネガティブさが見出されていたのかな、とも少し思った
ダブルはといえばこちらも結局は和製英語であり、更にhalfやpartより一般的でないようで、使うにしてもやはり単語単体では意味が通じにくい、という事だった
そういえば以前テレビ番組でハーフはネガティブだからダブルを広めたい、と言った女の子に同じくハーフのアメリカ出身の女の子がアメリカでも普通に使う、言葉自体にネガティブな要素はない、日本でもそうだと思うという風に言っていて、その認識の違いを興味深く思っていたのを思い出した
ダブルもハーフも海外で通じる通じない、という日本のガラパゴス的意識という意味では変わらず、むしろダブルの方が単語の用例としては一般的ではない様だった
略さないのであれば、また略さないそれがそのままダブルの意味なのだとするのならガラパゴス、という部分でハーフに否定的になる理由はない
ならなぜダブルなのか
調べている中で表現としてmixというものがあり、ハーフやクォーター、またそれ以外をも内包出来る親和性の面でもいいな、と思えたし、実際日本でミックスを表現として使っている人も既に少なからずいるようだった
特に多民族国家ではhalfやpartやquarterでは表しきれない事もあり、mixが段々と単語として市民権を得ている、という印象を持った
言葉としてハーフやクォーターと平行して組み合わせる事も可能で汎用性も高く、会話や文脈によってはmixという単語自体にルーツの意を含ませる事自体も、ハーフやダブルと比較すれば難しくはないらしい
言語的にも、日本のガラパゴス的言語感覚への問題提起としてもミックスを使おう、というならすんなりと腑に落ちる
違う言語圏から見て、初めて聞くハーフというその言葉はネガティブさを含むように見えるかもしれない、と思う
そしてそれこそが嫌なのだ、という人もいるだろう
そして誤解とはいえ、ネガティブな枠で自身が定義される、それ自体への拒否感も理解できる
だがその場合ハーフという言葉に言語として、用法としてのネガティブさは認められない
問題は日本独自の略語、和製英語が生む対外的な混乱による認識の差異、ただ1点だ
単語として、ハーフを基準にそこに優るものとする発想から用意された事は明白で、それは先述した言葉としての有用性や論理を置いてけぼりにハーフという言葉への相対的な優位性のみを後ろ盾としており、当然その説得性にはハーフがどれだけダブルに劣るかの提示が不可欠であって、そのやり方としてハーフネガティブ論が持ち上がっているのではないか、と考える
実際ダブルを広めたい、とする場ではほぼ必ずセットとしてハーフのマイナス面が語られ、ダブルのポジティブさにしてもやはりそのネガティブさに対しての相対的なものに留まり、ハーフが差別的である、ネガティブであるという言ってしまえば既成事実作りとそれを踏み台にしての消去法的優位性でもってでのみ語られる姿はどこか悪く言えばプロパガンダ的だ
ハーフのマイナス面をいくら語ったところでそれはダブルの優位性の証明にはならないのだが、単語としての関連性を匂わせ、選択肢として提示する事でそう見せる、というやり方なのだと思う
そもそもダブルが持つとする言葉のポジティブさの論理は、一歩間違えば純血主義に対し方向は真逆でもベクトルは変わらない、同じ類の比較対象ありきの優生的優位性とも取れる危うさもあり、ともすれば強くハーフのマイナス面を示す事でのあくまで相対的であるとする主張はその指摘を避けるためのものでは、とも思ったが、そこまで考えていないようにも思う
賛同している多くもハーフのネガティブさ、という主張をも含め「素敵な考え方!私達は理解してるし悪い慣習は変えて行こうよ!」というような諸手をあげてのもので、単純に深く考える前に助力になれば、という意が先に出ているようでもある
それにしてもダブルを肯定するという事は当然過去遡って差別的、ネガティブな要素を持つ言葉として使っていたという事を自分も含めて認め、もしくは受け入れる事であり、違うのだとすればそれは一方的に要はレイシズムからなる加害者だとされる事であるのにそこに違和感はないのか、と首を傾げてしまう
そのポジティブさはハーフという言葉に相対的犠牲を理不尽に強いた上でのものなのに、なぜそんな肯定的に思えるのだろう、と
確かに現実としてハーフという言葉にナショナリズム等から悪い意味をのせる人間はいるだろう
しかしそれは今の通例としての言葉の概念上では明らかに例外であり、そのような人間が発する言葉に含まれたレイシズムにその他大勢の人間性を巻き込むのはナンセンスであるし、むしろ仮にダブルが使われるようになったとしてどうにかなるのか、というような現実の用法とはかけ離れるレイシストの意図をその文化圏の象徴のように語るのはそれ自体が差別的であるように思える
その上でネガティブな印象に受け取るのは個人の選択であり、本来の意図される言葉の使われ方やそれを口にした人間の人間性など意に介さずお構いなしにやるそれはあまりにも、という印象が拭えない
自身の自尊心のために半ば言いがかりのようにして他の多くの人間性を否定する
それら全部分かっていてもハーフという言葉をネガティブに取ってしまい、それがダブルという言葉で自己肯定に繋がるのなら、とも思いはする
だが、それはあくまで自己完結としてあるべきで、言葉やそれを使う人間をも巻き込むのは傲慢が過ぎるのではないか、と思う
「ただ自分に誇りを持ちたいだけ」「ポジティブにありたい、それが悪い事なの?」というような声も目にしたが、ネガティブさを押し付けなければ得られない、相対的でしかない誇りやポジティブさとは一体何なのかとやはり首を捻る
そんなものでも彼ら、彼女らは良いのかもしれないが、そのためにレイシズムを含む言葉を使って来たと匂わされるこちらはたまったものではないし看過できるものでもない
その人間の意図や場面を限らず、元の言葉から定義をし直そうとするその行為は紛れも無くこの私も含め、多くの人間への自己肯定を理由にした小さな悪意であり、自尊心やアイデンティティと向き合うためにそうする姿は健全とは言い難く、やはり違和感は拭えない
その人が言葉に持たせた意図やその言葉の意味でなく、ネガティブだと捉えた自身を根拠にポジティブになるためにその相手に非難めく
近くにいたら少し距離をとるな、と思うし、それを「応援」する人間も怖いな、と感じるんだろうとも思う
少し前、流れていたツイートで、ハーフなんだね、と言う女の子に、それも少し前話題になっていたプリキュアの男の子が半分じゃないよダブル、のように言っている画像を見た
そこには(曖昧だが)ポジティブな考え方はマネしていきたい、というような文章が添えられていた
画像の男の子は大和撫子とパリジャンのダブルだから、という言い方をしていた
もしかしたら設定として、その男の子は日本に来て間もなく、誤解の下にハーフという響きにネガティブさを感じたのかもしれない
そんな可能性を示す、そこには何の異議もない
実際そのダブルは和製英語としてのルーツを示す略語でなく、単純に本来そのままの意味として使われているように見えた
現実的に考えてみてもそんな状況ならハーフという言葉に疑問を持ったとして、和製英語であるダブルを使う事は無いだろう
だが、これはアニメだ
この場面の意図に、ハーフに代わる略語としてのダブル、という言葉の存在が前提にあるのは明らかで、また画像に添えられたツイートもそのように捉えていたように思う
女の子が口にしたハーフ=ルーツの意味を含む略語という側面でなく、単語それ自体で受け取らせ、ネガティブだと否定させ、その上で同じく単語の用法そのままの意味でダブルという言葉を並べ、語らせ、そしてその比較をハーフとダブルの印象へと繋げる
先述した通り、略さないのであればハーフという単語を用いるネガティブさ、という方向性での疑問は海外の用例からしても杞憂でしかない
そしてまた、略さないのならダブルを用いて自身のルーツを表す事自体には大して問題もなく、それは確かにハーフを使用する場合より単純な印象としてどこかしら肯定的な雰囲気も持ってはいるようにも思える
だが、そこで略語としてのハーフを否定し、成り代わるよう安易にそこに収めようとやるから辻褄が合わなくなるのだ
もしこの男の子がハーフがルーツを表す略語であり、一般的に使われる表現であると理解しているならどうだろう
その場合、その子はハーフと口にした女の子を差別的な要素をも含むネガティブな言葉を無自覚にでも使った人間であると意識の低さを指摘し、また同時に相手の意図より自分が思う言葉の意味を優先して否定から入るような、そんな子だ、という事になる
そしてそれは当然、その女の子だけでなく見ている子供たちへ向けられるものでもあるはずだ
言葉としての意義に悪者であるハーフを否定する事が含まれているのだからそうなるのは当然だ
これはあくまで仮の話ではある
だが同時に現実としてポジティブさ、という言葉の下で同じ事が無自覚に行われているのも事実だ
そしてそれは何の悪意も意図もなく、むしろ場合によっては羨望の意味さえ含ませハーフという言葉を使う、その女の子と同じ年齢の子たちに本来そんな必要のない罪悪感を負わせる事でもあるのだ
今後、私はハーフという言葉を使い、クォーターも使い、ミックスという言葉も使い、また、もしかしたらプリキュアの男の子が言っていたような国と国でダブル、というような、より肯定的な意を込めたとする表現も本来のダブルという単語の用法のひとつとして使う時が来るかもしれない
だが、ハーフという言葉自体とそれを口にする人間性の否定、というネガティブさを纏ったダブルという言葉を使う事はないだろう、と思う
恋愛ができなくなったなあ。
好きで好きで仕方がないみたいな感情はどこにいったんでせうね…。
もう最近は「浪費癖がないか」「本人及びご家族はおおらかか」「求められても苦ではないか」の3点のみしか見ていない。
20くらいの頃~昔はあ~もっとぉ~「趣味を大切にしてる人がいいな♡」とかいってバイク乗りに恋したり(そいつは今もSNSで見る限りバイク乗ってて最近複数持ちしはじめてて浪費っぷりがヤバイ結婚しなくてよかった)「寡黙な人がいいな♡ミステリアスで素敵♡」とか言って軽く発達入ってるコミュ障と付き合ったり(5年付き合った挙句「おまえのこと好きだけど結婚は一生する気ない」とバッサリいわれて別れた…)「さみしくてしかたない…」って日は自分より倍以上年上のデブでハゲのおっさんとも平気でセックスできてたのに~
気づいたらなにもかもめんどくさい。
周りは結婚ラッシュ。よくあのクソしんどい道程を完走できたね…ああ2人の人生はこれからですかそうですか。
恋愛するの好きだったんだけどな。
宇多田ヒカルとか聞いて自分の恋と重ねて自己陶酔しちゃったりして…
はあ
気持ちいいのは大好きでオナニーはどんどん上級者になっていくというかセルフ開発は進んでて感度は上がってるし性欲そのものは若いころの比ではないくらいあると思うんだけどコレが対外的な方向に全く働かない。さあ初めましての方と食事をして懇ろになって褥を重ねるに至るぞという工程を考えるとめんどいしコワイしだるい。
ツイッターとかはてなでつかず離れずの距離感でありつつ内心ひそかにシンパシーを感じている男性ユーザーと付かず離れずの絡みしてるといいなあこれくらいが落ち着くなあ気づいてる?何でもない風にいつも接しているけどあなたは私にとってその他ユーザーとは明確に違うちょっとだけ特別な存在なんだよってことでもある日突然オフとか誘ってくんないかなあ難しいなあ無理だろうなあ自分から言ってみようかなあ若いころなら何にも考えずに速攻アポとってたろうなあでもこのわたしが感じているシンパシーが実は独りよがりだったとしたら、その真実を突き付けられるのはやだなあ仮に向こうも同じように思ってくれてたとしても実物見たらうわ!デブス!ってなるだろうなあ…ああ、早いとこ痩せよ…なにをするにしてもまず痩せよう
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くるのではないだろうか
敬称や服装についてのマナーなどもだれも指図も文句も言わなくなると
思います
https://sisidovski.hatenablog.com/entry/2018/12/09/191500 を読んだ。
新聞社はもとより旧来型メディアに特有の人事について理解をしておかないと、この退職エントリに関する事情を深く理解することはできない。メディア業界の置かれている環境とエンジニアの役割を正しく認識し、できるだけフェアな視点を保ち、注意深い筆致で書かれているが、やはりキーとなる一文がこれ。
「人事異動に透明性と納得感があれば、あるいは会社を離れずに済んだかもしれない。」
先日のNTT武蔵野通研の退職エントリとは似て非なるもので、結果としてGAFAに行ってしまったのは一緒だが、給与面から見通せてしまう先々の人生設計に絶望したというわけでもなければ(日経の給与は一般産業界平均で見ても高め)、プアな社内環境に絶望したというわけでもない。
旧来型メディアの人事は、編集局や報道局といった記者中心の組織に行われている。記者出身者を頂点に、会社の組織ピラミッドを構成している。人事部の社員よりも、編集局デスクや部長の方が権限が強いのもしばしばだ。日経の場合でいえば、総務局人事部より、編集局の方が権限が強い。編集局のお偉方の鶴の一声で、人事異動が通ったり通らなかったりする。編集局内にその論理が閉じていればそれでもいいのだが、他の局にも影響力を持っていることすらある。このあたりは『週刊ダイヤモンド』10月27日号の特集「メディアの新序列」に詳しい。
そうした状況の中、紙を中心に考えてきた記者あがりの上長や、上記のような異常な風習を是としてきた組織体制が、エンジニア、デジタル系の人材(特に中途採用)の業績を正しく評価し、キャリアパスを考えていくなどできるはずもない。旧来型メディア企業の、年次至上主義、年功序列人事の中で彼らをどう位置づけるか。日経に関しては電子版がはじまった当時から何も決まっていない。
おそらく彼は、日経の歴史をあまり知らないのだろう。成功事例になりうるビジネスが認識されると、編集局から落下傘的に「偉い人」がやってきて、その手柄をせしめるということが繰り返されてきたのだが、電子版でもそれがあったというだけだ。かつて電子版を立ち上げる準備段階でも、ここままいけば成功というのが見えてきたタイミングで急遽編集から人が降ってきた。また立ち上げ後も、電子版をリードしてきた人たちが急に子会社に飛ばされ、執行役員から外されることもあった。電子版が単月黒字になることが見えてからは、対外的な広報活動に精を出して活躍してきた人に対し、編集にもっと金を出せという圧力をかけると共に、突如なんとか長という謎の中間的上長を上にかぶせて冷や飯を食わせている。
そうした人事に抗う人に対しては、懲罰や解雇も恒常的に行われている。たとえばGoogleのサービスは便利だし、今どきのエンジニアなら必ず使いたがるものだが、いちいち「クラウド利用申請」なるものを出さなければならず、それに違反すると譴責や減給なども行われる。中にはデジタルなのに労働組合に所属していたから目をつけられ職場を追われた人もいる(裁判になっているようだ)。また、退職エントリを書いた彼も席を並べていた時期があると思うが、不正アクセス禁止法などの罪に問われた社員もいた。会社の姿勢に抗議する意味で社員約3千人分の賃金データなどを外部に漏洩させた社員もいた。
双方の言い分を聞かなければ本当のところの事情はわからないが(中には明確に犯罪もある)、彼はそうした組織に身を置き続けるリスクを実感として感じていたのではないか。優秀なエンジニアだから日本企業を捨ててGAFAへ、というのは一面的な見方でしかない。
この木グループの研論について、これほど無駄な仕事?があることに驚いた。
※研論とは…入社2年目の終わりに、2年間学んだことをまとめ、おえらいさんの前で発表する制度
・2年目までに行ったことを素直にまとめると、「薄い」や「レベルが低い」などと言われる
→2年目でプロジェクトの立て直しだとか、そんな大層なことできるはずもなく、結局は粉飾まみれになる
・昇進がかかり、強制イベントにも関わらず、論文作成は業務外に行わなければならない
→対外的に「働き方改革」が進んでいるようにアピールしているが、実際はこのような長時間残業の温床となる要因が非常に多い
・制度として古い割には、制度の目的や指導内容が不明確で、研修員の学べることが部署・指導員次第になる
→目的や指導内容が不明確なために、指導員や課長、部長で意見が食い違うのは当たり前で、最終的にご意見聞きに徹することとなり、研修員本人の成長はない
こんな内容の制度を続けてて、しかもあまつさえ「昔はなんのためにやってるかわからなったけど、今になってみれば良い制度」と言ってしまう上がいるあたり、本当にうんざりする。
この点は、全くそのとおりだと思う。
もし、管理売春の業者に対する公権力側の監督責任という面が【現代的な意味での奴隷】として定義されて、責任を問われるのであれば、
売春防止法以降の、事実上の管理売春の容認から斡旋業者の放置、それらも論理的には同罪ということにならなければおかしい。
戦時の慰安婦だけの問題ではない。では、なぜ売春全般の話にならないのか。
売春防止法の制定の背景として、管理売春そのものが国際社会から悪とみなされていたがゆえに、
国際社会への早期の復帰を目指していた日本は、GHQから公娼制(管理売春)が廃止されて以降、法の制定を急ぐ必要があった。
しかし、売春そのものに対する罪悪感は日本人には微塵もなかった。むしろ吉原など貴重な観光資源だと行政も認識していた。
売春防止法施行直前の55年、新聞社が開催した「吉原を語る座談会」において、地元と議会議員らが次のようにアドバイスしている記録がある(婦人新風1955年4月号)。
みつ豆でも気軽に食べにゆける吉原でなければならないのじゃないか・・・気軽に遊びにいって、そして飲んだり食べたりしているうちに最後にお互い同志気があったときに目的を達するというふうにすればよい。
当時は、東京都も警視庁も、吉原を観光資源として積極的に活用していこうという感覚だった。
こうした過程を経て制定された同法は、風営法とセットで完全なザル法。今に至るまで。
赤線がトルコ風呂と名を変え、トルコ風呂がそーブランドへ名を変え、名前は変わっても実態は管理売春の黙認だ。
現在でも、サービス提供する施設に寝泊まりさせられているなど、一昔前だとジャパユキさんと呼ばれ、
いわば監禁同然の扱いで働いている出稼ぎ外国人女性が存在する。それは興行ビザで来日しているフィリピン人であったり、韓国であったり、中国であったりする。
個人的には、アダルトビデオについての人権問題も含めて、日本の風俗産業のあり方を行政として放置していることのほうが、我々世代の責任問題だし、よっぽど気になる問題。戦時世代の悪のついての責任よりも、だ。
ところが、同じ論理だからといって、現在の日本の管理売春の黙認を、現代の奴隷制だとして、非難されているかというと、、
実は、アメリカの国務省の人身売買報告では、かなり以前から非難されている。
技能実習生とセットでね(余談だが、技能実習生についても、結局、問題の根っこは同じで、戦時の徴用問題とパラレルだ。)
そして第一次安倍政権のとき(05年頃)にも日本政府としての対応が迫られていた。外圧に近い形で法整備が求められた。
日本政府は、国際組織犯罪防止条約の「人身取引議定書」と「密入国議定書」の批准を受けて、刑法を改正し、2005年、人身売買罪を創設した。
この制定過程において、05年6月8日の国会の法務委員会で次のような答弁がある。
○江田委員 ・・・人を支配する行為全般について、この人身取引に対して実効性のあるものに今回の法改正はなっているということでございます。
次の質問をさせていただきますけれども、この人身取引議定書の要請を満たすため、これにつきましては単に形式的に文言を対照するだけでは私は足りないと思いますが、人身取引議定書の理念を十分に取り込んだ法律やその運用になっていなければならないと考えております。
・・ 売春をさせている者が、この外国人女性は売春することに承知しているんだ、同意しているんだから人身取引とは言えないだろうというふうに開き直るケースが多いと聞いております。成人の女性が家族を貧困から救うために、親からの働きかけなしに自発的にみずから売春を希望して売られたような場合など、人身売買について被害者の同意がある場合のようにも見えます。
しかし、・・人身取引議定書が、「女性及び児童に特別の考慮を払いつつ、」と規定していることからしても、女性や児童の特性を考えて、売春をすることについて承知しているとの事情、これを過大視するというのはいかがなものかと・・、今回の法律案につきましても、売春をすることについて同意をしている場合であっても人身売買罪が成立するのかどうか、そこを法務当局にお伺いいたします。
○大林政府参考人 御指摘のような事例におきまして、表面上被害者がみずから売春をして金銭を稼ぐことに同意していたといたしましても、本来は、不特定多数の相手方と性交等を行うことなどを希望しているものではなく、家族を貧困から救うため金銭を稼ぐには売春によるほかはないと考えてやむなく売春に及ぶに至ったと見る事案がほとんどであろうというふうに思われます。このような場合には、被害者の同意は自由かつ真摯な意思に基づくものとは認めがたく、当然に犯罪の成立が否定されるものではない、このように考えております。
○江田委員 ・・今、法務省の方からは、その事情を考慮して、勘案して、売春をすることに同意している、そういうふうに見かけられる場合であっても人身売買罪は成立、適用されるということでございますので、私どもの申し入れの内容にも沿った法律案の改正になっているかと思います。実効性が上がることを期待しております。
売春行為が好きでそうした職業につくことなど、そんなに多くは考えられないだろうから、貧しい国からの移民のケースでは、多くの場合に適用がありそうだということになる。
人身売買罪の創設は、対外的なアピールとしては政府として大きな動きだったとは思う。
しかし、アピールとしはそうかもしれないが、風俗に関するさまざまなザル法は放置され続けている。
出稼ぎ外国人の母国はどう対応しているか、というのも気になるだろう。
同法の制定過程において、出稼ぎ労働者の有力な送り出し国のひとつ、フィリピン政府は、当初「就労機会を奪うな」などとごねていて、実態把握の動きが遅かったという報道はみたことがある。なるほど、そういう背景は重要だなと思う。
慰安婦問題に戻ると、私は、いつになったら、慰安婦問題が現在進行形の風俗問題に飛び火するんだろうという視点で十数年前から関心をよせていた。
しかし、そういう気配は微塵もないなかで、慰安婦というフレーミングだけがヒートアップしていったように思う。
慰安婦の問題に封じ込めたいというメカニズムがどこかに働いているんだろうとは思う。
それは社会的にも経済的にも、そして文化的にもいろいろあるんだろう。
我々の心理かもしれないし、自国もしくは相手国の政治経済的な背景かもしれない。
ここからは毎回お願いしている部分……だったのですが、女性島について様々ご意見をいただき、次回からは女性島という大規模な配置寄せは廃止することにいた致しました(続く)。
C80まで男性向ジャンルでは、ジャンルの特性上、申込責任者が女性のサークルを独立させて配置しておりました。担当者内では通称「女性島」と呼んでおり、女性島内でさらにジャンルを分けて配置しておりました(続く)。
女性島につきまして、同ジャンルのサークルが周囲に少なかったり、売り子さんが全員男性等の理由でサークル内に男性が多い場合には周りから浮いてしまう、また、作家さんが女性であることを対外的に公開していないサークルもいる、という観点から、問題がないわけではありませんでした(続く)。
男性向に女性サークルが極端に少ないことからスタートした女性島ですが、男性向での女性サークルの増加が顕著な昨今、メリットよりもデメリットを感じる方のご意見を多くいただく形になっておりました(続く)。
ここ数年の間、様々な検討を重ね、今回女性島の暫定廃止を決定しました。暫定としているのは、強い要望があれば復活の目を残すという意味です。可能な限り多くの参加者にとって気持ちの良い参加をお手伝いするのが配置担当の役目じゃないかなと思っておりますので、思考停止せずに検討していきたいと思います(続く)。
ただ、男女比としては傾きが大きいので、女性サークルが孤立しないよう配置配慮はできるかぎり行なっていきます(続く)。
今回の女性島廃止により「男性島希望」などの記載は不要になります。よろしくご承知おきください。また、お知り合いのサークルさんなどにもお伝えいただけると助かります。
例の会社員の自殺の件で、社長の知り合いの大学教授とかが「信じられない!」「でっちあげだ!」っていうツイートしているけど。
うーん、対外的にはまともでも一部の弱者には冷酷になるやつって普通にいるよなぁ。
例えば、会社ではふつうに働いていて評価高いけど女子社員にセクハラLINEしていたとか。
まぁ、セクハラじゃなくても対女性になると態度が変わるとか。特定の新入社員にキツくあたるやつとか。
社会人生活を何年もしていると、そういう「別の面を見てゾッとする」って経験あると思うんだけど、そういうのなかったのかなぁ。
例の記事をみて、「自分の前以外では、こういう人格だったかもしれない」ってゾッとして、経過を見守る、ぐらいが普通の反応だと思うんだが。
職場でうちの会社のOBの人がお手伝いアルバイトで働いているのだけれど見ていてすごくイライラしてしまう。
もうトシなんだろうけど理解が遅いし無駄口が多いしずっと貧乏ゆすりしてるし対外的な対応でニュアンスの違う説明もザラなのではらはらする。
とはいえ業務に支障はない。なぜなら所詮お手伝いのアルバイトさんなのでクリティカルな業務は行わない。外部の人に失礼をしてしまっている瞬間はままあれど炎上はいまのところしていない、明らかにちょっと耄碌しかかったジジイだからかもしれない。
見ていて死ぬほどもどかしいが迷惑もかかってないし、教育して成長する未来もないので無関心を貫きたいが内心でイライラしてしまう。
下町育ち? だからか、「教えて」を「おせーて」と言うのだけど、それにオシエテって言えよオラァと思ってしまう。
貧乏ゆすりだって、以前の病気以来手がずっと震えるのだと言っていたから、それで、自分で揺らしてると気がまぎれるとかそういうのあるのかもなあ、と思う。
ポヤンポヤンしているけれど知識の蓄積はまさに生き字引だし、人当たりも良い。
が、イライラする。
こういうしょうもないイライラは、こちらの些細な気の持ちようで、いつのまにか忘れたり、どうでもよくなるのだと知っている。
はやくそれになりたい。どうすればその境地になるんだ。
この記事の射程範囲って「子供がほしいと(たとえ対外的な欺瞞であっても)言ってる人」だけではなくて、子持ち/非子持ち、未婚/既婚を問わない日本の社会構成員全員向けなんすよ。そのつもりで書いた。
なぜなら「ぇー年収xxxで子作りはありえないよねー」「そんなの子供かわいそうだよねー」という雰囲気を作っているのは、なにも結婚や子作りを悩んでいる層だけではなくて、社会全部だと思うから。個別に言ってしまえば、バブルの価値観がまだ抜けきってない現在60代とかが息子とか娘にたいして「子供(60代から見れば孫)にはこれくらいしてやって当たり前だろ」と、本人なんの悪意もなく接したりしてるとか。大学生やヤングサラリーマンの遊び文化に寄生しているホイチョイ/フジテレビ的な広告代理店文化が、「豊かで優雅な都会の子育て」をさも常識であるかのように流布してるとか。
そういう色々を含めて、この問題は社会全体の問題だと思うのよ。けっして、子供がほしい世帯の収入が低いとか、努力が足りないとかではない。社会全体でハードルを上げてるのが問題。きついことを言えば「裕福な子育てをしない両親を弾劾しようとしている」。
「もう、夢なんか見ないでね。」
諦めること、期待しないことを骨身に染み込ませて生きてきた人の言葉だった。
ああ、こんな言葉、生き方から離れたくて国を出たのに、どうして戻って来てしまったのか。
とりあえずの生活と仕事を得るために、住み込みで縁もゆかりもない土地に流れ着く。
外国人として制限を受けながら模索するよりも、一度祖国でやり直した方がいいだなんて、
やり直しを是としないこの国で、私は何を期待していたのだろうか。
この閉塞感が嫌で、年齢や学歴、身分で対外的にも内省的にも息がつまる環境から出て行きたくて、
「のたれ死んでも本望だ」って鼻息荒く飛行機に乗ったのに、海外生活に疲れ死にたくなるほど思い悩めば、
「死体だけは帰国させなければ」と、生ゴミのような自分自身を飛行機に乗せて、なかば逃げるように帰国したのだ。
年老いた母に、訳の分からない、英語ですらない外国語の街まで娘の死体を引き取らせる訳にはいかない。
親不孝をしてはいけないからと、死体を持ち帰るのだ、その気持ちだけで飛行機に乗っていた。
生ゴミが腐敗しないうちにと、即座に履歴書で包み隠しては、せめて堆肥にならねばと死体の再利用を試みた。
アルバイト、パート、派遣社員、契約社員、ヒエラルキー、パワハラ、理不尽、ブラックまっくろくろすけ。
夢もクソもないって?そこらじゅうがクソだらけじゃないか、あるよ、あるある。
いつからか自分自身がまだ動くだけの死体であると考えるようになった。
ほとんど死体だけども、私はまだまだ生きている、もう一度生きられるかもしれない。
死体にジャケットを着せて、真っ当なことを喋らしては椅子取りゲームに興じる。
でも、やはりあの街で最後の一呼吸をついて、のたれ死んでおけばよかったよ。
夢破れた街で、夢の最後を嘗め尽くして、自分勝手に終わらせておけばよかったよ。
スーツケース一つに収まる荷物を、そのまま粗大ゴミに出してから朝一番の電車に乗ろう。
ねえ、お母さん。
私たちは夢を見て生きてこればよかったのかもしれないよ。
夢があるから欲が湧いて戦って勝ち取って生きていけるんじゃないのかな。
夢すら見れない日常の中で、死体として生きるよりもずっとよかったんじゃないかな。
君死に給うことなかれ。