はてなキーワード: 対外的とは
子どもに興味がない。
物心ついたときから子どもに興味がない。というかむしろ苦手なのかもしれない。大の大人でかつ女だが、子どもを前にしても甘やかしたり猫なで声で機嫌をとったりできない。かわいいね〜とか適当な言葉で褒めたりもできない。全部嘘っぽくて(まあ嘘なので当たり前だ)やってられない。感情がわかない。
友だちや知り合いの子どもに対して興味がわかない。生まれたら素直におめでとうとは思うけど別に会いたいとか思わない。どうでもいい。そこまでかわいいとも思わない。一般的な「赤ちゃんかわいい」の感情の範疇を超えない。
アラサー(子どもを生んでもおかしくない年)の女をやっていると、世間からは子どもに興味があると思われる瞬間が多くてとても苦痛。アラサーの女を辞めたいと思う。
男性ならここまでにはならないと思う。
子どもの話をされたときに興味のあるふりをしなければならない(けどできない)のが苦痛。それを求められたくない。なんで求められるの?と疑問。
子どもが欲しくないのかと言われたらそれについてははっきりと答えはなくて、なんとなく、欲しいような気もするが、それは対外的な圧力に勝てる気がしないという漠然な不安を埋めるために急ごしらえした感情のような気がしてきた。(子ども欲しくないの?なんで生まないの?攻撃や、それをぶつけられなくても、あの家はおかしいと疑問視・批判的な目で見られるのではないかという不安)
それを理由に生むという決断をするとしたら、生まれる子どもにも失礼だし、いい加減な判断だからやめたほうがいいな、という気がする。私の本心ではなくなってしまうというか……。
ただ、育児というものをやるには興味がある(もちろん語り尽くせぬほどの苦労があるというのは、経験したことはないがそれなりに承知の上)し、好きなパートナーとの間にできた自分たちの子どもを育てるということに対してはちょっとやってみたいと思う。
そもそも欲しいと思っても、作ろうと思ってできるかわからない。
できるかわからないのに、なんでできる前提で言われるのか不思議。
それ以前に、なんでアラサーの女(と、一応外見で判断される)というだけで、
・異性のパートナーがほしいと思っている
・子どもに興味がある
・子どもをほしいと思っている
上のことが全部前提としてのしかかってくるのか、それが息苦しくて本当に無理な気持ちになる。アラサーの女を辞めたい気持ちが強まる。
人の目を気にし過ぎなのかもしれない。
でも私は、本心を言うと、子どもに興味がないって声を大にして主張しても変な目で見られない世の中になればいいのにと思っている。
子どもは未来の宝なので(この主張をするときにかの言い方をすると語弊がある気もするが)、子育て世帯が優遇されたり保育施策が進められたりすることはとても良いことだと思うし、それをやめろとは言わない。むしろもっと子育てがしやすいようになればいいと思っている。それには賛成するし自分の税金でも何でもどんどんつぎ込んでくれと思う。自分が子どもを持っていなくても。
ただ個人の感情として、子どもに興味がない人間がいるということも認めてほしいというか、許してほしい。
無理に興味を持とうとしても無理なものは無理だ。なんで興味を持たなきゃいけないんだろう。興味を持つことを強要されたくない。そのポーズを取ることがすごく疲れる。
もう少し歳を重ねればこの意固地な感情も変わるのだろうか。もしくはやはり、自分の子どもができて、生めたら変わるのだろうか(それはありそう)。じゃあそれまでは我慢するしかないのか。生むことになるか、生めるかもわからないのに。
9条改憲反対派です。現状では共産党支持。トランプがまたなんか言い出したから自分なりにお気持ち表明してみる。
ともかく、俺は他国の都合に付き合わされてて、日本国民が戦争の加害者被害者になったり、日本が他国から恨まれたりするのが嫌だ。
日米安保と憲法9条の関連性はざっくりいうと以下の通りだと俺は認識してる。
①日米安保によって日本は軍事的・経済的な自主独立性を米国に奪われている。
②上記①により米国の戦争に日本が加担せざるを得ない事態が起こる。(実際にイラクなどで起きている)
③武力保持と交戦権を否定している憲法9条は、上記②においての「武力行使」を制限し、自衛隊が前線に出ないよう抑制する効果がある。
つまるところこのまま③が失われた場合、アメリカの戦争に日本が付き合った場合、後方支援に留まらず、実際に殺したり殺されたりをする可能性がものすごく上がると思う。
あと、対外的にもアメリカとの軍事的結びつきが深くなるから、必然的に反アメリカ系のテロの標的になる可能性も高まるのではと考えている。
これが俺は嫌だ。
逆に言えばアメリカ言いなりの状態が解消されるのであれば、別に自国の軍隊を持つのは、別に嫌でもなんでもない。
というか、自主独立した一国家が軍隊を持つのは自然なことだし、むしろ我が国の場合、自衛隊が違憲状態を解消するため、積極的に改憲すべきとさえ考えてる。
というのが大体の俺のスタンスです。
ただ実際に改憲するってことになれば、安保だけじゃなくて、日米地位協定や、集団的自衛権の見直し・破棄も前提に入れなきゃだめだと思うし、
9条の改憲自体にしても、自衛隊の違憲状態を解消することがメインで、平和主義や交戦権の否定なんかは明確に残すべきとは思ってる。
こういう立場は左翼ナショナリズムと言うらしく、俺は共産党シンパだった俺の爺様から植え付けられた。
爺様曰く、割と共産党の中にも言わないだけでこういうスタンスの人は結構いるそうな。ほんとかどうかは知らんけど。
ちなみに日米安保そのものについては、感情的には無くなってほしいと思ってるけど、無くした方がいいのかの確信は持てないスタンスです。
個人的感覚として、これからますます米中の対立ってのは激しくなるはずで、そんな中で「アメリカの対中国の尖兵ないし防壁」と国際的に認識されている今の日本の立場はすごく危ういと思ってる。
仮にこの二国が武力に訴えた場合、確実に日本はアメリカの前戦基地として、一番悲惨な形で巻き込まれるんじゃないかって気がして、すごく怖い。
そう言う意味では出来る限り早くアメリカとの関係は清算したい、と思ってる。
それに、やっぱり国家として別の国家に従属している状態が、主権者の一人としては純粋に嫌。
一方で、安保が無くなることでの国防費の増加っていう問題が出て来るとは思ってる。
でも、それがどの程度になるのかは調べても俺では正直判断がつかなかった(倍増するって言う人もいるし、現状のままで良いと言う人もいた)
米国との関係性が変化することで、国防費以外の面にもどういう影響が出るかも見えないので、そこが現状、俺の確信持てない理由。
共産党は参議院の公約で社会保障に対する7.5兆円の財源を示してるけど、この半分を切り崩して賄えるなら、俺は安保廃棄を選ぶと思う。
こまかいところにこだわらず最終的にエロいことをヤッチャッテればいい男性向けジャンルのほうが腐女子からみたら不思議だけど
「難解な腐女子」という漫画でナメクジとカエルとヘビの三すくみをつかって
上手く説明してるからよんでみればいいよ。(プロトタイプはツイッターで全部よめたんだけど商業出版されたから掲載とりさげてるかもしれん)
一つ言えることはジャンル違いは腐女子同士で戦争になることがしれてるから
表現の自由の戦士なんて聞き分けの悪いやつは腐女子だと最初からジャンルの爪弾き。
そういう状況におけるABだのBCだのってのは戦記物の陣営ごとにわけた戦力説明とおもって、分かる人だけが愉快に読めばいいだけの話。
マチズモがなんなのか、ググる気も起きないから放置して自分の事だけ書く。
共働きで妻は時短勤務、子は運良く保育園に入れているが今年2歳を迎えるところだからまだまだ手がかる。
同棲してた頃からの名残というか、支障がなかったのでそのままのスタイルで来ているが炊事洗濯掃除などの家事は明確に分担は分けずにそれぞれが状況を見つつこなすというふわっとしたやり方だ。
子供が出来てからは、殆ど常にどちらかが子供を見ておく必要がある事と自分の仕事の関係上保育園の送迎などで妻が担う負担は多い事もあり家事は殆ど自分がやるようになった。残業はなるべくしないようにほぼ定時から1時間以内には会社をでて、その代わり朝早めに出社して帳尻を合わせつつ(これも保育園の送りがあったら無理だ)、帰宅中に買い物、帰宅後夕飯を作り子供に食べさせ風呂に入れて皿を洗い洗濯を干して畳んで寝室以外の掃除をしてる間に妻が子供を寝かしつけ、続けて保育園の支度と連絡帳を書き朝食の仕込みをしてから就寝。休みの日は日中に布団を干したり子供を遊びに連れて行ったりしてすぐに過ぎてしまう。
何が言いたいかというと家事をまともにやって仕事もしてたら、対外的な評価やその反応を得る場所や機会なんて殆どありはしないし、あっても必要だからやってるだけの事でむしろ「イクメン」とか言われるとヘドが出ますよ本当に。
男同士で競う理由も無ければ競いたくもないよ。
めちゃくちゃ金あったら家事なんか全部アウトソースだよ間違いなく。
というか妻か自分しかやる人間はいないし、家事って面倒だし出来ればやりたくないじゃない?
でその面倒な事を自分がやらないとなると全部妻がやるのかって思ったらさやらざるを得ないよ。
そーゆうの押し付けてリラックス出来るほど図太くないし逆の事されたらふざけんなよってなるだろうしさ。それぞれが分業するのが精神衛生上も最も合理的だし、相手に面倒を渡す量を少しでも減らしてやりたいなと思える相手じゃないと結婚生活なんか成り立たないと思うのよ。
男同士のマチズモなんかで、ずーっとやってられるならそれはそれで良いんだろうけどな
ワイなんだけどさ
よくなんで弱者の癖に自民に入れるんだって言ってる奴に聞いてほしい
民主党に期待してたんよ
ワイも普通の生活が出来るようになって結婚や子供を持つ親になれるって期待してたんよ
けど、実際は何も変わらなかった
経済も良くならんし消費税は上げるし、なんか政治の無駄を省くみたいなパフォーマンスに必死で
一ミリでも変わったら少しは期待してたよ
けど実際は一ミリも変わらなかった
経済対策や震災への対応までお粗末で結局日本の価値を下げて悪くなったまである
一方自民党は別にワイを救うつもりは全くないが、対外的に日本の政治的経済的価値を高めることに関しては躍起になるやつらだから
そっちの方がまだワイにとってはマシなんよ
キレすぎて何にキレてるのかも分からなくなってきたので整理する。
思えばご両親にお会いした時も、お父様だけが泊まりに来た時もそうだった。
あなたにはホームでも私にはアウェイであり、何らの配慮がないことにまずキレてる。
そして所詮は家族じゃないからなあと結局そこに行き着いて、関係がどうでもよくなる。
だって私たちの間には情緒的満足しかないのであり、それがなくなったら関係を維持しなきゃいけない理由はどこにもない。
②お礼を言え
連絡なしにお友達を連れて帰ってきていきなりバームクーヘンを切って出せというのはぎりぎり許容できる。
でも何のお礼の言葉もないのはどうなの。
亭主関白なの何なの?
お友達もミソジニストらしいが、それと関係なく二度と私がいるときに来ないでほしい。
整理してみて、侮辱されたと感じてるんだなと。
でもあっちは間違いなく何も気がついていないであろうと。
生きている意味が「わからない」という理解不足の現状を終着点として結果とするなら
意味を理解できなかったという意を成す「生きている時間」を過ごしたということだよ
何をどうしたって生きているかぎり時間が経過して生きている意味が無尽蔵に
生産されていくんだよ
いまこの瞬間にも生きているものには生きている意味が積層していってるんだよ
無駄に過ごしたという意味や何か人生以外の成果・成果物生産物ができていったり
いまに意味を成す基礎や素材を集めたり作ったりしているなどの意味が発生しつづけてるんだ
そのうえで自分がなにかの目標をもって完遂することを意味として死ぬときに
これを成したという事を期待したいというなら
その最後に生産されたなにかしらの結果をだれにどこにどのように残したいか考えてみて
なにも形に残らないものを作り上げたいという人生を過ごして死ぬのであればべつにつくらなくてもよいのでは
自分がなにかの意味というのは対外的に確認できる自分の関与した時間の成果物なわけで
なにもかもわからないといいつづけわからないことを体現しわからないということの代名詞になるという
ことで後続にわからないという物理的象徴になるのもいいしなにかわかるように努めるのもいいとおもうし
わかっていることをすることもかならず同じ結果になるとはわからないので知っていくことになるし
わかりきった結果に至ったとしてもそれはそこに至ったということを知ることは想像していた時点とは
異なるもので予想と結果はそれぞれ別ものなのでそれを知るためにあるわけ
明日食べるご飯がなにか判っていたとして今日それを食べるわけでもないし明日たべた感覚を先に予想したところで
今満腹にもならないわけで知っていることわかっていることもその時点で知るとなるようにすごしてるんだ
実家から縁のない土地への引っ越し。国内ではあるが、主に飛行機で移動するくらいの距離だ。
それ以上に、幼い頃から、地元で就職して家庭を持つのが幸せなんだと繰り返し言われてきていて、
実際に親戚にはそういう人が多くて、現に幸せそうだし、何かと便利だとは思う。
自分は親不孝だと思ってしまう。引っ越す話も全部無かったことにしたいとすら思う。
迷っているのに対外的には「わたしはもう決めました!この道を行きます。」という態度で元気に振舞わなければならないのがつらい。辛くなったからこれを書いた。
まとめると、周りに人生の選択をした感じの人がいたら、いろいろ話して話題が尽きた後でいいから、「でもよく決断したね。迷ったんじゃないですか?」みたいに言ってあげてほしい、自分のように強くない人もいると思うので。
表現の自由を守りたいという意見は、それを原則論として語りつつも、背後にある危機感はなんだろう。
ようするに、「快不快」によって表現の流通が左右される社会が是か否か、ということが動機のように思えた。
そうであれば、すごくよくわかる。いや、わかるというのは、同意しているわけじゃなくて、なるほどな、だから日本の表現の自由ってふわっとしてるんだなということ。
振り返ってみる。
日本の表現規制の有り様は、戦前のエロ・グロ・ナンセンス発禁にあるように、当局が国民の大多数が不快と思うであろう「不健全」で「公序良俗」に反する表現を対象としてきた。
つまり、割り切った言い方をすれば「健全」と戦っているのが表現の自由の戦士だというふうに思える。
でも、ひとたび、「表現の自由」の思想的な出発点をヨーロッパやアメリカの歴史から振り返ってみると、戦士の動機づけとしてはあまりにも心もとない。
表現の自由とひとことでいっても、思想的な背景は、それぞれ背負っている歴史が異なる。
この国の憲法や憲法判例が示してきた表現の自由は、ヨーロッパのそれとはかなり異なる。
17世紀にアメリカに最初に渡ったピルグリムファーザーズの世代は特に、当時のヨーロッパのプロテスタントに対する不寛容の被害者であった。
メイフラワー号の協約に象徴されるように、お互いに異なるFaith(信条)を持つ者同士が、どちらが正しいとして糾弾することなく、社会を構築しようという、社会の多様性の確保が原点だ。
1970年代には、ヘイトスピーチを巡ってさまざまな紛争が連邦最高裁まであがり、不協和音こそ社会の強さとまで判決の意見で述べているものがある。
当時の裁判官のたとえを援用すれば、空気を浄化しようとするやつが社会の敵なのだ。
人間は不完全なのだから、正しいものなど、最初から先験的に決められない。ということから、この国では、思想の自由市場などという言い方も生まれてくる。
しかし、他方で伝統的な価値観や習慣もそれなりに強い。いやかなり強い。
そういう土地柄では、動機づけとして、多様性の確保というのは、正直、あまりピンとこない。
むしろ、彼らの原点は、教会から弾圧された経験であり、その反動としての「神を冒涜する権利」だ。
伝統的にカトリック教徒でありながらアンチクライストを叫ぶ、そんな権利を求めている。
とくにフランスでは、公共空間を設計するにあたり、真理の判断権を持つかのように振る舞う教会がとてもまずい存在だった。
権力をふるいたがる教会に口出しをさせないことが重要なテーマだった。
それゆえ、その解決のため、一方では、表現の自由というコンセプトで権利を宣言し、他方で、政教分離という原則を確立して、公共空間設計のための理論武装をしていく。
だから、イスラムのスカーフを公立学校から排除しようとしたりする動きが起きるし、
ひとたびムスリムの神を冒涜するような表現をしたことで、襲撃を受けたりすると、社会は「涜神の権利はいずこに」とがぜん盛り上がるわけだ。
アメリカにしても、フランスにしても、それぞれ動機づけは異なるものの、表現の自由を守ろうとする信念というか確信の力は、
極めて強い。テロがあったり、社会情勢の変化で揺れ動いたりするものの、いざ事が最高裁までいくと、
じゃあ、国づくりの原点に戻ろうじゃないかという話になって、17世紀の悲惨な経験が思い出として蘇ってくる。
その動機づけの強さにこそ、新大陸にしても、旧大陸にしても、表現の自由を将来に渡って確保しようとするエネルギーの再生産があり、いわば持続性がある。
翻って、日本。
快不快のような勝手な基準で決めつけられたくはないよね、誰しも。
でも動機づけとして、やっぱり弱いんだよね。
ここで、仮に、日本は、アメリカ式の表現の自由を真似っ子しているのだ、としようか。
でも、日本社会は、アメリカほどには、多様性を求めてないでしょ。むしろ移民なんか大嫌いでしょ。
多様な意見なんか、どの組織でも出てこないでしょ。会議でも右に習えでしょ。
普段から多様性を確保しようというマインドがベースにあって成り立っている社会とは全く違う。
そんな社会では、エロい表現のときだけ急に表現の自由だのと盛り上がるのは、歯が浮くような思いがする。
公共空間におけるエッチなものの取扱なんて、はっきりいって、社会が合意していればどっちだっていい。
じゃあ今度は、大陸が17世紀に経験した熾烈なコンフェッショナリズム、この思想的な背景を
表現の自由として日本国憲法が参照している、と仮に想像してみる。
この場合、仮想敵は、いってみれば、国家神道とファシズムかな。
(*ところで大河ドラマの「いだてん」って、健康ファシズムの視点でみると面白いらしいね。みてないけど)
「国によって右へならえを強制され続けた結果、自分たちが戦争に動員されてひどい目にあった思い出」とでもいうべき動機づけは
定期的に思い出す機会があるかぎりは、ある程度は持続的たりうるのかもしれない。
でも、第二次世界大戦を思い起こしてみると、国民が国家のキャンペーンに煽られて動員させられる、というのは、
なにも敗戦国のドイツや日本に限った話じゃないし、アメリカ含め、あちこちの国でウイルスのようにファシズムが蔓延しかけていたのが現実。
またファシズムをコントロールできた国もない。その意味で、真の意味でファシズムに抗し切った国はないように思う。
表現の自由っていったところで、自然の摂理かのように、神がバランスをとってくれるわけじゃないんだよね。
そうすると、いざ日本にとって対外的な脅威(例えばアジアの隣あたりの国らへん)が増せば、
表現の自由なんか、どうでもよくなっちゃう程度のものなんじゃないか。
このあたりの感覚は、動機づけとしては重要なんだけど、日本の場合、ちゃんと思想として、自分たちの言葉で自分たちを守る武器として昇華してないんだよね。
敗戦で混乱していた時期にすかさず、日本国憲法を戦勝国からもらった、というところで思考停止になった、という面はあるかもしれない。
もらったもので、とりあえず勉強して運用してみよう、という時期が最初はあってもいいかもしれない。
でも、戦後30年、40年、とりいそぎ運用していたものが定着していく、という過程で
例えば「思想の自由市場」ってよくよく考えてみると、日本社会では、あまりピンと来なくね?みたいな気づきがあっても良かった。正直、「思想の自由市場」って日本社会じゃ、なんの役にも立たない理屈だと思うんだよね最近。
また、フランスの公立学校でのムスリムのスカーフ論争。大方の日本人は、何あれ?状態。背景となる歴史が違うんだから
それを知らずに無理やり、政教分離って憲法に書いてあることを適用しようとしてきて、実は消化不良を起こしているんだけど、
そういうことがよくわかったという話。
付き合い始めてもうすぐ2年。
自分は小さい時から感情を表に出すことが得意ではなかったので、喜怒哀楽をはっきりと表現することが苦手なタイプ。
例えば、映画を観て感動したり、美味しいもの食べたり、勝負事で勝ったり負けたりしても、その時々に見合った感情は抱くがその気持ちを対外的に表現することはできない。それというのも、昔から感情をむき出しにすることに対して恥ずかしさや痛々しさを感じて、人の目を気にしてきたのからだと思っている。
ディズニー行ってもウキウキで施設を闊歩できないし、サッカー好きだが代表戦を観戦しても歓声あげてはしゃいだりなんてできない。
一方、彼女は正反対で嬉しければ飛び跳ねて喜び、悲しいときはむせび泣くようなタイプ。
最初はそれが自分にはない相手の良さだと思っていたけど、今は「喜怒哀楽」の感情のはげしさに一緒にいるとすごく疲れる。
そういうタイプだからか、共感を求めるパワーが強く、それに対して反応が薄いと喧嘩になる。(喧嘩といっても、一方的に言いたいことを言われた後に泣かれて終わる。)