はてなキーワード: 家族旅行とは
割くわけなかったら下記とか出来ませんの
■ NDSS
Today, there are approximately 250 two and four-year colleges and universities that include students with intellectual disabilities in educational, independent living and vocational/career programs.
[BBC] 娘のために遊園地を建てた米男性 総工費56億円
https://www.google.co.jp/amp/s/www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40823738.amp
家族旅行に出かけたハートマンさんたちがプールを使っていた時のことだ。ハートマンさんがプールから上がって間もなく、当時12歳だったモーガンさんがプールで遊ぶ子供たちと仲良くなろうと近づいた。だが、子供たちはすぐ水から上がってしまった。
子供たちは障害のある人とどう接したらよいか分からず、尻込みしたのだろうとハートマンさんは考えている。モーガンさんの認知理解力は5歳程度で自閉症の症状もある。
「モーガンはともかくすごく素晴らしい女の子です。いつも微笑んでくれるし、いつもハグしようとしてくれる。けれども、彼女を色々と連れていけないことが多すぎた」
ハートマンさんと妻のマギーさんはモーガンさんをどこに連れて行かれるか、ほかの親たちにも聞いてみた。モーガンさんにとって居心地良くて、周りの人も気まずい思いをせずにモーガンと触れ合える場所はないのか。
「そんな風に受け入れてくれる場所などないと、気が付いたんです」とハートマンは話す。
そこでハートマンさんは2007年、自分で遊園地を造ることにした。もともと不動産開発業のハートマンさんは、2005年に所有していた複数の住宅建設会社を売り、障害者支援の非営利団体「ゴードン・ハートマン家族財団」を設立していた。ハートマンさんは「世界初のものすごく寛容なテーマパーク」の建設に着手した。
「すべての人が何でもできる場所、障害があろうがなかろうが遊べるテーマパークが欲しかったんです」とハートマンさんは話す。
ハートマンさんは医師やセラピスト、保護者、障害のある人にもない人にも声をかけ、どんな遊戯施設が良いか相談にのってもらった。その結果、テキサス州サンアントニオの採石場跡に25エーカーの広さを持つテーマパークが誕生した。
女性には妊娠・出産とどうしてもフルで仕事をするのが難しい時期があるし、みんながみんなキャリア志向というわけでもない。
言い換えれば、デモシカで働いている女性って結構いると思う。もちろん、男性もデモシカが結構いると思うけれど、男性には妊娠・出産が無い。
そうなると、結婚を機に退職みたいな話はそうそう女にとってもデメリットというわけでもないと思うんだよな。
企業城下町とかで、〇〇社の社員と婚活みたいなのに応募してくる女性は当然そういうのを期待していると思うので、お互いにWin-Winの関係にある話だと思う。
女性としては企業城下町でそれなりのステータスもお金もある男性と結婚をして、自分の両親に手伝ってもらいながら子育てできるというイージーな感じになると思う。
元増田は男の方もそれを受け入れ・見越して結婚するし、女もそれを考えて結婚するという双方に打算があるというのが嫌なんだろうけどさ。
...多分、そういう企業はそれがモデルだから女性が家のことをやるのが当たり前で、働き方改革みたいなのからは程遠いだろうけどさ。
幼馴染がいつの間にか子持ち様みたいになってた。
幼馴染は同い年、親同士の仲も良く、祖母同士の仲も良い。
幼馴染の両親は離婚しており、幼馴染は母にほっとかれて育ってきた。
そのせいか、うちの母は幼馴染を昔から家に呼んだり、家族旅行に同行させたりして、幼馴染と自分は仲の良い姉妹のように過ごしていた。
でも互いに別々の高校に入学してからはほぼ疎遠になっていたので後から聞いた話だが、幼馴染は大学進学を機に上京し、就職し、都会で15歳以上歳上の男と付き合い始めた。
そして幼馴染は転職を機に、地元へ帰って来る事になった。その約1年後に、自分も躁鬱気味になり退職し無職ニートを謳歌していたところ、幼馴染が勤めている会社で求人を出しており幼馴染の勧めで無事転職。幼馴染と同じ職場になった。
そしてほぼ同じようなタイミングで、幼馴染は以前から付き合っていた15歳も歳上の男と結婚した。
そんな歳上の男と付き合って価値観が合うのか自分にとっては甚だ謎だったし、そもそも都内と、そこから車や電車で片道2~3時間かかる田舎の遠距離恋愛である。地元に戻って来るタイミングで別れるもんだと思っていたが、何故か別れなかったらしい。寧ろそれを機に結婚を決めていた。なんでだよ。
そんなんでいいのか、いやまぁ最近の夫婦の形なんてそんなもんかと思っていた。寧ろ普段旦那がいないっていいのかもしれないと当時の自分は思った。
でもなかなか出来ず、同じく不妊治療をしていたらしいうちの母に相談をし始めた。幼馴染の実母は子供に無頓着な人で、最近出来た彼氏に夢中らしく幼馴染は不妊についての相談さえしたくないそうだ。というか様々な大事な相談事をしたくないそうだ。
週一のペースで、幼馴染はうちの実家に来て、夕食を共にするようになった。まぁ同じ職場だし、仕事終わりだし、一緒に帰ってご飯くらいする。別にその時はまだよかった。
幼馴染は良い子だったし、いつか幼馴染の子供と一緒にディズニーに行くんだ~とか、子供に〇〇ちゃんって呼んで欲しい~とか話して笑ってた。
でも、そんな事言うんじゃなかったなと今は思う。
幼馴染は、変わらず週一のペースで赤ん坊を連れて遊びに来た。
時には旦那の仕事が忙しく、土日のどちらか丸一日来た時もある。
自分だって土日休みたいのに、来たなら相手をしなくてはならない。赤子をあやしたり、ミルクをやったり、お風呂に入れたり…
来て欲しくないと思うようになった。
だが母は、実母に放っておかれる幼馴染の事が可哀想でついつい呼んでしまい、世話を焼いてしまう。(放っておかれると言っても、幼馴染は産休中も育休中も、自分が買った家ではなくほぼほぼ実家で過ごしているのだが。)
週一でも来て欲しくないと思うようになった。
仕事から帰ると、幼馴染がいる。私の家なのに、「おかえり」と言い、子供を抱く私の母にありがとう、すいませんと言いながらおやつを食べて、夕食を食べて、風呂まで入っている。
育休が明け、仕事に復帰しても変わらない。週に一度はうちの母が保育園に迎えに行き、お風呂に入れて幼馴染の帰りを待つ。私の実家でご飯を食べ、幼馴染までうちの風呂に入り、帰宅する。
私はそれに耐えられないのもあったが、以前より家を出たいというタイミングもあり家を出た。と言っても仕事は変わらないので幼馴染には毎日職場で会う。
会う度に子供の話。いや、それはいい。いいんだ。だが「先週〇〇の家でグラタン食べさせてもらった」などと言うのだ。最初は、へ~、ふ~んと聞いていたが、だんだんと苛立ってきた。
成人してしばらく経つので恥ずかしいが、私はハチャメチャにマザコンだ。母の事が好きだ。だから「私の母なのに」と毎回憤怒していたし、少しくらい1人でも育てられねぇのかよと冷たい目をしていた。
一番許せなかった事がある。
会社でコロナの陽性者が出た。もう現在ではほとんど濃厚接触者が~なんて騒がなくなっているが、やはり気になるものは気になる。
その週は実家に顔を出す予定を立てていたが、やめておいた。高齢者の枠に入りつつある両親に何かあったらと思うと恐ろしかった。そして念の為にも幼馴染にも牽制をした。
「今週行く予定だったけど行かないことにしたわ~。陽性者出ちゃったし、分かんないもんね」チラリ
だが幼馴染は行った。いつものように、うちの実家に行ったのだ。
「内緒にしとこうかって話したんだけどさ…」とか言いながら、「でもさ~なんかさ~行っちゃったんだよね…」とか言ってきやがった。
絶句したし、すぐに「は?行ったの!?」と声を荒げてしまったが、それ以上は言えなかった。
言えないのだ。
自分は家を出たと言っても、結婚の予定も出産の予定もない。なんならそんなものしたくもないと思っている。だからこそ、両親に孫を見せてあげられない後ろめたさとか、出生率が下がってるとかいう社会問題とかにも、どうにもこうにも出来ない。特に両親には本当に申し訳ない。「気にしなくていい、子供が幸せならいいんだよ」と両親は言うが、それでも本当にどうしようもない自分の不甲斐なさに毎日泣きたくなる。
そして母も父も、本当に楽しそうに幼馴染の子供の世話をする。もちろん、幼馴染の事も可愛がっている。
「でも実の子供と幼馴染の彼女は別格だ。ランクが違う」と両親は言うが、それでも、それでもどうしても許せない。
お前が選んだ歳上の旦那で、お前が選んだ出産で、お前が選んだ週末婚だ。それなのに、幼馴染といえど赤の他人の親を頼ってまで何故産んだのだろう。
しかもそんな状況で、幼馴染は2人目を産む。もう臨月。先日が予定日だった。そろそろ産まれる。幼馴染の実母はサービス業の夜勤をしていて、クリスマスなんて休まない、休めない。旦那だって仕事がある。休めないし、休まない。1人目の出産の時だって来なかった。
幼馴染は1人目を私の実家に預け、2人目を産むらしい。
家族計画というものを知っているのだろうか。自分の身の丈にあった子供を産み育てる。産めよ育てよと政府は言うが、経済状況を考えて産むなんて当たり前だ。子持ちになると現実が見えなくなるのだろうか。
子供2人をほぼ1人で面倒見なきゃならない、旦那は15歳以上歳上、家のローンもある。それなのに、大きい車も買いたい、旅行もしたい、色々な所に子供を連れて行ってあげたい、なんて能天気に言っててさ。
あぁこれが、俗に言う「子持ち様」って奴なんだと思った。
世の中には頑張ってるお母さん、お父さんが大勢いる。ただでさえ疲れる仕事をしながら子供の突然の病気、原因の分からない癇癪、夜泣き、その他ありとあらゆる事由に懸命に立ち向かっている。本当に頭が上がらない。憎たらしい時もあるだろうが、子供はさぞ可愛いだろう。宝物のような子供達を育ててくれて、本当にありがとうと言いたい。あなた達は立派だ。
そんな人達に、好きで産んだんだろうなんて言いたくない。言うつもりもない。だが幼馴染には、てめぇが好きで産んだんだろうと言ってやりたい。
子供が小さい今だけだなんてうちの親は言うけれど、このまま一生あいつにうちの実家は寄生されるんだろうな。
その内ブチギレてぶん殴ってしまったら、私はクソな独身様になるんだろうね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下追記です。
わざとらしく強い言葉ばかり使ったから叩かれたり炎上するかもしれないな、いっその事炎上して色んな人のコメントやアドバイスが欲しいな~と思ってたけれど、特にそんな事もなく、ネットの海は広大だからもうこれを読む人さえいないかもしれない。
コメントをくれた方々は本当にありがとうございました。
親身になって共感やアドバイスしてくれた方もいて、本当に救われました。
母には以前からかなりの頻度で真剣に怒ってはいるのですが、悲しい事に馬鹿みたいに慈悲深い性格の母は「でも手伝うって言っちゃったし、仕方ないでしょう」「彼女がかわいそうでしょう」「今更断れない」とのたまい、私は諭され言いくるめられてきた。
私は両親に愛されて育ってきたので、両親には真っ向から文句や指図を言える。だが彼女は幼い頃から自分の言葉を母に聞いてもらえず育ってきたので、誰に何を言っても無駄だと諦めている。
その違いなのだと言われてきた。
私は簡単に「自分の母親に言ってみれば?」「旦那にもっと文句言いなよ」と幼馴染に言うが、幼馴染的には「話を聞いてくれない相手に話なんてしたくない」という、越えられない壁が我々には存在するのだと思う。
その後の話になるが、私は本当に耐え切れなかった為、母に「しばらく家に帰らない」旨を連絡した。
話そうが怒ろうが泣こうがどうやったって母は止めてくれないし、臨月間近の幼馴染にガチギレするのも酷い人間だし、いっその事しばらく家に帰らなければ、寄生された実家も厚顔無恥な幼馴染も目にする事はなくなる。
年末には父が趣味で作る蕎麦を貰い、年始の挨拶をして久しぶりに実家に泊まろうかと思っていたのに。
行けば自分は幼馴染の事を聞いてしまうだろうし、親も話してくるだろう。そのひとつひとつに目くじらを立てて怒りたくない。血縁でもないガキのオモチャだらけになった実家を見たくない。
母には、結果的に実の娘を優先してあげられなかった事を謝られた。悲しいけれど、当たり前だと思った。
両親は年老いていき、家を出た子供とは、日数にすればもしかしたらあと一年も過ごせないかもしれない。
だが自業自得だ。結果としてそう仕向けたのは母だ。本当に辛い、悲しいけれど、仕方ない。
幼馴染は、無事に2人目を出産したらしい。
出産時は、旦那が立会の為に帰って来て、直前まで家で待機していたにも関わらず、第一子はうちの実家で面倒を見ていたそうだ。
相変わらずキショイなと思ったけれど、出産報告LINEには可愛い絵スタンプ付きでおめでとうと返してやった。
ていうのは朝の戯言で、いかなきゃいけないから行くんだけどさ。朝から怒られに行くんだけど。 やってらんない。自己嫌悪すごいけど。
まあこれは本題ではなくて。
あのね、
すごい、私の思い描いてた普通の家庭なの。
中流階級ていうのかな。その中でも良い方っていうのかは、私の目からは分からないんだけどさ。
まだ、私の前では見せてないだけだろう、時にある喧嘩や仲違いは。
でも全体的にすごく穏やかな雰囲気なの。
うちの貧乏特有のひねくれ?みたいな雰囲気がない。まあ、その前にうちはちょっと。
すごい何か、親は若干機能不全の親で、しんどい幼少期だったんだけど。片親がまだマシだったから良かったけどさ。
あちらは、幼少期は家族旅行も年1くらいでいってたみたいだし、いま定年を迎え夫婦でゆっくりした生活を送ってる。学費も何とかなってるし。
んで、お母さん優しい。
あんまり母性って感じたことなかったけど、相手のお母さんに「お母さん」を感じている。
分かんない。これから仲違いしちゃうとか、気遣いとか色々あるかもしれないけど。
義実家にふれて、思ってた普通の?理想の一般家族ってこれだったんだって感じ。
同時に、なんか心が埋まった感じも一瞬できて。
もう30代なんだけど、ひどく自分に欠けてたものを獲得した感じがあった。
逆に実家に帰ると悲しいんだけど、すごく寂しくなるのね。
長年感じてた違和感みたいなものからようやく解放されようとしてる気になってみて。
すこしずつ埋まってくといいなと思う。
心の穴。
朝すごい嫌な仕事があって
安心感を得たやすらぎを思い出して平常心を保っていたので、このような文章になりました。
ここからまた色々なことが始まると思うので
私は情報系の国立大学院卒で、ソフトウェアエンジニアをフルリモートでやっている。結婚していて子供が1人いる。妻も同じ大学の文系の学部を卒業して、現在フルリモートで仕事をしている。
世帯年収は、800~900万ほどだ。
積立NISAを夫婦でマックスの額を入れているので、そこそこ投資信託の資産はある。
奨学金はもらったが、大学院にまで行かせてもらえるような家庭に生まれた。上には上がいるし、そんなに恵まれているとは思わないが、一般的な人よりは、恵まれていると思う。学力も恵まれていると思うが、生活は楽ではない。
もちろん、生きていくことは余裕でできるし、外食もできるし、年に一回くらいの国内の家族旅行は可能だが、子供をもう1人や2人となると破綻していくのは目に見えている。
小学校や中学校は田舎の公立の学校に通っていたので、恵まれてない人達がたくさんいることを知っている。
生まれ持ったカードがそれなりに良かったからここまで来れたが、もっとカードが悪かった人は、世の中にはたくさんいると思う。
みんな相当大変な生活をしているのではないだろうか。
https://twitter.com/mt_yamamoto_/status/1716953355002806322]
俺はこれで元妻と離婚してる。
経験談だが、こういった癇癪親は、最初からそうなのではなく「そう成っていく」のだ。
実際、元妻と付き合っていた時は癇癪なんて一切なかったし、結婚して数年、1人目の子供が生まれてからも1年くらいは仲良くしてた。
最初は、小さな物事で声を荒げたりが隔月で1回くらいから始まる。
子育てをいくら一緒にしているとはいえストレス溜まるよな、と思い許容していたが、この時すでに癇癪親への火種はついていたと思う。
子供が生まれ妻の様子がちょっとおかしいなと思った男は、妻の情報を遮断するか、早めに離婚専門の弁護士を探した方が良い。
この状態になる過程や、それらを悪化させるサイクルを助長しているのが「良き妻、良き夫」情報だ。
雑誌でもテレビでもSNSでも掲示板でもネットニュースでもそういった情報を見てしまって、某所で思想が偏る人間よろしく、理想だけ追い求める怪物になる。
うちは沢山子供がいる子育てママpodcastだとかYoutuberとか、ママに寄り添う素振りだけは得意な責任もなくひたすら発信しているオバサン共が原因だった。
そういう奴らは、本当に小さい誰でもスルーするような出来事を「こういう時は旦那に怒るべき!話し合うべきですよ!」だなんだと毎日語り続ける。
親になったり歳を経ると、こういう情報が「金儲けのために何も無い所から絞り出して供給している中身空っぽのネタである」という現実を教えてくれる友達や家族も居なくなる。
気付けば、何に対しても勝手に現実とのギャップにイライラし、家族を殴る、物は投げて壊す、家族旅行先でもイライラしているし、子供に怒鳴ったり手をあげたりするようになる。
そして、ホルモンバランスだとか自己のタイプがどうとか、科学的な根拠も詳しく知らないネットのママが使うワードによる言い訳だけが増えていく。
「このYoutuberはこう言ってた!!」みたいなキレ方をし始めたらもうその家庭は崩壊手前だと思ったほうが良い。
この状態の癇癪ママは、自分の言葉でイライラを整理出来ず、イライラしたくてイライラしているような状態になっているのでもう制御できない。
子供が居て子供が可愛いと思っている男で、癇癪ママに成ってしまった人の隣にいる人には残念だが、離婚には半年、最悪でも1年のつらい日々が必要になる。
子育てに関して、あらゆる情報や行動をできる男親でない限り、親権どころか面会の権利も得られないし、母親が子供に暴力を振るっている等は殆ど関係無しで、既にほぼ負けの状態だ。
明るく楽しい家族にする努力を演じながら、殴られた痕や壊した物を写真に収めたり、癇癪の頻度を記録し、どうせ改善しない相手に改善を促す虚無な努力をする1年になる。
俺は毎朝4時に起きて子供2人の全ての事を済ませ、保育園と職場を経由し、家事料理をしながら土日も子供を連れ出して、その合間合間にそれをやった。定期で癇癪を起こす人間の前でだ。
キツい時間だが、歩み寄ろうが家事育児にどれだけ参加してようが高い給料を貰っていようが、情報の処理ができない癇癪ママに未来は無いので、早めに弁護士に頼って作戦通り事を進めてくれ。
Twitterでは、癇癪親について「その親の行動が遺伝して」と言われたりもしているが、実際「親の情報の処理の仕方」は似ると思う。
今思えば義母もテレビで見た話を鵜呑みにして夕食時に話していたり、噂に敏感な節があったり違和感があった。
docomoの配信サービスで配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。
そんな番組に出会ってしまったことをきっかけに、自分の人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。
両親のことは大好きだ。
奨学金なんて必要ないくらいの収入があった父親に専業主婦で毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。
中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。
親ガチャとかいう言葉だって必要ないほど恵まれた環境で育った。
根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。
少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後は毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。
それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。
身バレしたらしたで仕方ない。
ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。
今から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望みだってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。
物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりするのが大好きだった。
私の通っていた郊外の幼稚園にはたしか必須のクラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆の書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。
クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。
幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉が先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。
n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分の習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。
ピアノやバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。
小学校に上がるタイミングで関東の割と都会な地域に引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値な私立の中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。
n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校の宿題とは別で、毎日のノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。
小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日のプリントのおかげか、成績は相当良かった。
あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元の中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。
地域のお祭りに行った時にステージで見た、小学生のダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。
お風呂でオリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分がカリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。
小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校(中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校に演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。
4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学。県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。
塾自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。
常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。
今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数は強敵だった。ほんとうに難しかった。
わからなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。
受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。
小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口や友達のグループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。
塾に行くようになったことで、授業中の発言や普段の言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。
自分に問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまり話さない子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。
5,6年生のときはクラスの3分の1が中学受験をしている子たちだった。
学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任は中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題が毎日出た。
大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校の宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。
周りの受験生も学校の宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。
クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様と揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。
泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。
そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。
中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。
頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。
怒られない日の方が珍しかった。
自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。
当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。
親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験で競争率が高い中やることだから、中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分の意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。
地元の中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言と暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。
後日優しい口調の親に丸め込まれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。
結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学はそもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学に入学することになった。
B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。
中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系の部活に入った。
チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系のダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶で女子の集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。
毎日の練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。
最初は地頭で乗り切っていた定期試験もだんだん順位が落ちていき、高校に上がってからは留年スレスレを彷徨うこととなった。
中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。
内向的になりかけていた自分の性格がさらに内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。
順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験を経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。
中高一貫校の性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。
進学校の勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活の時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。
家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。
流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないものの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。
結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベルの中学に入学したし、私は大学受験の勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立の大学のよくわからない学部に現役で合格した。
私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。
姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。
申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家は中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。
半年に一回くらい、ボイストレーニングの無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストのオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。
そして今、私は大学生をしている。
持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルやミュージカルサークルの所属してステージに立ってみたこともあった。
お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。
そして、とある前世持ち練習生の存在をきっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組の配信に辿りついた。
が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。
大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。
私もそっちに行きたいって。
アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージで表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。
私の好きなアイドルは10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。
その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。
私は音楽が好きで、自分で何かを表現したかったという気持ちは絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?
中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかったことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか。
小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組のステージに立てたのではないか。
私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強を自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。
今考えたらあの習い事もクラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強は自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。
中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。
元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。
家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。
私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元の中学でもよかった。
やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。
それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立の学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。
それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミングで部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ
docomoの配信サービスで配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。
そんな番組に出会ってしまったことをきっかけに、自分の人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。
両親のことは大好きだ。
奨学金なんて必要ないくらいの収入があった父親に専業主婦で毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。
中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。
親ガチャとかいう言葉だって必要ないほど恵まれた環境で育った。
根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。
少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後は毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。
それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。
身バレしたらしたで仕方ない。
ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。
今から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望みだってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。
物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりするのが大好きだった。
私の通っていた郊外の幼稚園にはたしか必須のクラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆の書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。
クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。
幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉が先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。
n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分の習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。
ピアノやバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。
小学校に上がるタイミングで関東の割と都会な地域に引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値な私立の中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。
n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校の宿題とは別で、毎日のノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。
小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日のプリントのおかげか、成績は相当良かった。
あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元の中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。
地域のお祭りに行った時にステージで見た、小学生のダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。
お風呂でオリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分がカリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。
小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校(中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校に演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。
4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学。県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。
塾自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。
常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。
今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数は強敵だった。ほんとうに難しかった。
わからなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。
受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。
小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口や友達のグループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。
塾に行くようになったことで、授業中の発言や普段の言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。
自分に問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまり話さない子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。
5,6年生のときはクラスの3分の1が中学受験をしている子たちだった。
学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任は中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題が毎日出た。
大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校の宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。
周りの受験生も学校の宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。
クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様と揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。
泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。
そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。
中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。
頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。
怒られない日の方が珍しかった。
自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。
当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。
親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験で競争率が高い中やることだから、中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分の意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。
地元の中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言と暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。
後日優しい口調の親に丸め込まれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。
結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学はそもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学に入学することになった。
B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。
中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系の部活に入った。
チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系のダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶で女子の集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。
毎日の練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。
最初は地頭で乗り切っていた定期試験もだんだん順位が落ちていき、高校に上がってからは留年スレスレを彷徨うこととなった。
中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。
内向的になりかけていた自分の性格がさらに内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。
順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験を経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。
中高一貫校の性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。
進学校の勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活の時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。
家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。
流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないものの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。
結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベルの中学に入学したし、私は大学受験の勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立の大学のよくわからない学部に現役で合格した。
私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。
姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。
申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家は中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。
半年に一回くらい、ボイストレーニングの無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストのオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。
そして今、私は大学生をしている。
持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルやミュージカルサークルの所属してステージに立ってみたこともあった。
お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。
そして、とある前世持ち練習生の存在をきっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組の配信に辿りついた。
が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。
大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。
私もそっちに行きたいって。
アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージで表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。
私の好きなアイドルは10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。
その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。
私は音楽が好きで、自分で何かを表現したかったという気持ちは絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?
中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかったことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか。
小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組のステージに立てたのではないか。
私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強を自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。
今考えたらあの習い事もクラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強は自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。
中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。
元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。
家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。
私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元の中学でもよかった。
やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。
それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立の学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。
それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミングで部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ
子供がいなければ父親はクソ家族旅行なんて計画しなくて済むし、子供達の面倒を見たり心配して怒ったりしなくて済むんだよ
就職を期に無理矢理でも一人暮らしして自立して、親に穏やかな暮らしをさせてあげなよ
子育て終わらせてあげなよ
家族旅行の行き先について自分の希望を言うとか反映させるという発想が今の今まで全く無かったわ。実際の家族旅行は田舎親戚の家とか父親の会社の保養所とか決まった場所に行くだけだった。
そんな親が一生懸命働きながら楽しんでもらおうと旅行を計画したものに対してネットで言い放った内容がこれ
学費や生活費は親頼みの癖に文句だけは一人前で成人してもなお反抗期を卒業できない子供
思いを汲んで楽しそうにふるまうのが大人なのに、思いやりの欠片もない恥ずかしい人間性
親不孝がどれだけ恥ずかしいことかわからないのはある意味幸せなのかも知れない
成人にもなって言葉の大切さがわからないようなので人間のクズに刺青をいれておく
https://web.archive.org/web/20231004095946/https://anond.hatelabo.jp/20231004135345