はてなキーワード: 守護とは
少なくとも今の天皇も皇太子もトランプやルペンのように「イスラム教徒皆殺し」みたいなこと絶対言わないだろ、つか言えない。
戦後70年かけてやっとこさ築いてきた平和主義者って国際的イメージは簡単に壊せんだろ。昭和天皇もそういう中庸的キャラを一生懸命演じてきた。
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少なくとも戦後の日本では「陛下は排外主義をお望みではないぞ」「陛下は平和憲法遵守のご意向であるぞ」と言える。
当然、排外的な好戦的な天皇だったら俺も反天皇主義者になってるってw
昭和天皇は「憲法を守るということについては、戦前も戦後も同じであります」(河出文庫『昭和天皇かく語りき』379p)て言うてたんやで。当人の主観では、戦前も立憲君主のつもりだった。大正時代にも当時のリベラル派による「護憲運動」てのがあって、帝国憲法を定めた天皇が議会政治の守護者と見なされてた。
天皇はタカ派だけでなく、リベラル派にも最大級の利用価値があるんだよ。
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戦前のイタリアは王政だけど国王と別にファシスト党があって、最後は国王(と教皇)がムッソリーニを解任できる解決策になった。ま、その国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世もその後は国民投票で廃位されたんだけどw
オーストリア | プリンツ・オイゲン(1663-1736) | オーストリアの名将。元はフランス貴族だが、軍人としてハプスブルク家に仕え、祖国フランスと戦い続けることになる。オスマン帝国との戦いでその西進を挫き、スペイン継承戦争においてはイングランドのマールバラ公と共に大活躍をした。 |
スイス | ウィリアム・テル(?-?) | スイス建国の英雄として知られる。オーストリアの代官に強いられて息子の頭に置かれた林檎を射抜き、後にその代官を射殺したことで、それがリュトリの誓いに始まるスイス独立運動へとつながったという。ほぼ確実に架空の人物だが、スイス国民が実在を信じているならそれでいいのだ。 |
スロバキア | ユライ・ヤーノシーク(1688-1713) | 伝説的な義賊。山間で商人や聖職者などの金持ちから金品を奪い、それを土地の貧民や有力者たちに渡していた。有力者は見返りにヤーノシークを守っていたという。やがて捕らえられ処刑されたが、民族意識の高まりと共に支配者への抵抗の象徴と見なされるようになった。 |
チェコ | ヴァーツラフ1世(907-935) | ボヘミア公。敬虔な信徒として、チェコのキリスト教化を積極的に推し進め、また神聖ローマ帝国に臣従して外圧を緩和した。キリスト教に反対する貴族たちによって暗殺されたが、その死の前後にさまざまな奇跡が起こったという。 |
ハンガリー | マーチャーシュ一世 | 反オスマンの英雄フニャディ・ヤーノシュの息子。ハンガリー王に選出されると、領土としては最大版図を、文化としてはルネサンスをもたらし、ハンガリーの最盛期を築き上げた。水戸黄門のような廻国漫遊譚があるらしい。 |
ポーランド | ヤン三世ソビエスキ(1629-1696) | 若い頃から各地で戦功を重ね、国民的人気を得たことで自由選挙によって王に選出された。オーストリアの首都ウィーンを包囲していたオスマン帝国の大軍を、かの有翼重装騎兵フサリア3000騎の中央突破によってさんざんに打ち破り、ヨーロッパの守護者として大きな名声を得た。 |
オランダ | ウィレム一世(1533-1584) | オラニエ公。ハプスブルク家の支配下にあったオランダの貴族だったが、カトリックへの強制改宗に反発して起きた独立戦争においてその反乱の中心となる。「海乞食」と呼ばれる船団を率いて港湾都市をゲリラ的に襲って勢力を拡大、事実上の独立を果たしたものの、戦争が続くなかで暗殺された。 |
ベルギー | アンビオリクス(?-?) | ガリアに住むベルガエ人の一部族、エブロネス族の王。「アドゥアトゥカの戦い」において、カエサルの麾下にあったローマの一個軍団を、谷に誘い込んで殲滅した。カエサルにとってはガリア戦争における最大の痛手となり、その後の反撃でエブロネス族の土地を占領したものの、とうとうアンビオリクスを捕らえることはできなかった。ウェルキンゲトリクスと似た扱いで、ガリアの自由を求めた英雄とされる。 |
ルクセンブルク | ヨハン盲目王(1296-1346) | ボヘミア王およびルクセンブルク伯。晩年には病を得て盲目になりながら、百年戦争の激戦「クレシーの戦い」に参戦して壮絶な討ち死にを遂げた。ルクセンブルクでは国を発展させた名君として評価が高いが、チェコでは戦争ばかりで領地に戻ってこなかった王として人気がないという。 |
ドイツ | ビスマルク(1815-1898) | プロイセン王国首相。普墺戦争・普仏戦争に勝利してドイツを統一し、外交でもフランスを封じ込めて欧州の均衡を保った。その豪腕ぶりから「鉄血宰相」の異名を取る。他の候補はオットー大帝、バルバロッサ、フリードリヒ大王あたりか。 |
フランス | ナポレオン・ボナパルト(1769-1821) | 言わずと知れたフランス皇帝。他の候補はカール大帝、ジャンヌ・ダルク、ド・ゴールあたりか。ちなみにカール大帝はドイツでも人気だけど出生地はベルギーが最有力らしい。 |
スペイン | エル・シッド(1045-1099) | 本名はロドリゴ・ディアス。通称はアラビア語の「アル・サイイド」に由来する。カスティーリャ王国のアルフォンソ6世のもと数々の戦いで活躍し、王によって追放されたあともバレンシアを征服するなど、レコンキスタの英雄として勇名を馳せた。後に叙事詩に歌われた。 |
ポルトガル | アフォンソ1世(1109-1185) | 初代ポルトガル王。伝説的な「オーリッケの戦い」でムラービト朝の大軍を寡兵で撃破し名声を得た。主君筋であるカスティーリャ王国と対立した後、和解して独立した。イベリア半島のイスラム勢力と戦いながら領土を広げ、リスボンまで占領した。 |
イタリア | ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882) | 南米でウルグアイの「大戦争」に参加し、そこでゲリラ戦術を身につけた。オーストリアの支配のもと、統一の機運が高まるイタリアにおいて「赤シャツ隊」と呼ばれる義勇軍を結成、シチリアと南イタリアを占領すると、そのままサルデーニャ王国に献上。イタリア統一に大きく貢献した。その後も何度か軍を率いて決起しつつも、政治にはほとんど関わらないまま隠遁生活を送った。 |
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匿名ダイアリーでの続きを読むの効き目が不明なので空行入れておきます
未だに明かされていないのは「ホームズは誰が召喚したのか」である。カルデアではありえない。
それではなぜホームズは霊基を削ってまでゲーティア打倒に協力するのか。それでいてなぜロマニを警戒するのか。
ところで、ソロモンは自らを犠牲にゲーティアを倒し、座からも消滅してしまった。
しかし彼の千里眼は過去と未来を見通す。ゲーティアが暴走する可能性を考えていなかったとは考えにくい。
そこで考えられるのが、「ホームズはソロモン(ロマニになる前)がゲーティアに仕込んだ安全装置によって召喚された」という可能性だ。
彼はゲーティアが暴走し始めた際に召喚されて、それを止める役割を与えられていたのだろう。
そしてバベッジもおそらく安全装置の1つで、「ロンドンでホームズに役割を伝える」のが役割だったのだろう。
これで「なぜバベッジは魔霧計画の主導役として召喚されたのにホームズに人理焼却の捜査を依頼していたのか」という謎も同時に説明できる。
また、ホームズが召喚される場所としてロンドン以上にふさわしいものはなく、元々ホームズが召喚されたのは4章なのではないか、とも考えられる。 (( なお、ソロモン(ゲーティア)の初登場は4章である ))
また、おそらくホームズがロマニに抱いていた疑いは「ロマニはソロモン(ゲーティア)なのではないか?」なのだろう。
ゲーティアの一部から産まれながらその計画を挫こうとするホームズ。万が一ゲーティアに漏れたら即座に消されてしまうはずだ。
事実、ゲーティアがホームズに言及している描写は一切ない(はず……)。ホームズの慎重さは功を成していた。
また、バベッジはロボなのにキャスターで、ホームズは元々キャスターだが、この仮定ならば「作ったソロモンがグランドキャスターだったから」と簡単に理由を説明することができる。
あと、英霊の身代わりになって消滅した魔神柱は覗覚星、その能力は「結果推論」。奇妙な一致。
ソロモン王の逸話との関連は他の方の考察 https://fusetter.com/tw/7Jgej に詳しい。この考察がなければここまで考えられなかったはずだ。
しかし数多いソロモンの物語・偉業のなかで、「なぜこれら4つが選ばれたのか」についての根拠が弱い。
ところがここにホームズのキャラ設定を当てはめると途端にピタリと合わさる。
ホームズ本人が6章で希望していた通りのロンドンに並び立つ大都市。探偵が活躍する場として最適。彼の「舞台」
語り部によって作られたおとぎ話の世界。ホームズは実在の人物ではなく本来は物語の中の存在。彼の「出自」
剣豪が鍔迫り合いする世界。ホームズが使う「バリツ」は「武術」もしくは「バーティツ」(柔術とステッキと殴り蹴りを組み合わせた護身術)の誤字だというのが定説で、どちらも日本との関連が深い。彼の「戦法」
クトゥルフ神話の都市「アーカム」のモデルで、ストーリー中でもクトゥルフ存在が登場する。ヨグ=ソトースは「門にして鍵」、時空を超越しておりあらゆる時代・世界に存在できる。これとホームズの関係は……?
ところでなぜホームズは複数の特異点を移動できるのか。そしてなぜ移動の際霊基数値が消耗してしまうのか。さらに、なぜその見た目がフォーリナーに似ているのか。
おそらくホームズはクトゥルフ神話の要素が付加されており、移動能力はヨグ=ソトースに由来する。英霊の存在は「逸話と信仰」によるもので、ホームズは「明かす者」である。
そのためホームズが移動のためにヨグ=ソトースの権能を借りる際、 SAN 値チェックの影響を受けて霊基数値が下がってしまうのだろう。
その失われた霊基数値は EoR で彼にまつわる物語をなぞったことで、2章開始時にはほぼ回復しているのではないか。なぜなら、ホームズは第2章で仲間として活躍しそうだからだ。
そもそも FGO でクトゥルフ要素が出てきたのはセイレムが初めてではなく、プリズマコーズでナーサリーが降ろそうとしている。
そして代わりに出てきたのは魔神柱グラシャ=ラボラス。彼は「人を透明にする」能力があり、決戦後自ら結合を拒否している。
……ホームズに関わりがあるのでは?
ただの状況証拠にすぎないが、「ホームズとダヴィンチちゃんがマシュを交えて仲良くカルタで遊び、それを主人公が見守る」という礼装を出しておいて、2章でホームズが敵に回ったり、味方でもすぐ死んだりするとは少し考えにくい。
序章においてダヴィンチちゃんが唯一残した切り札がホームズであることから、味方であることはほぼ確定したと言っていい(ほんとか?)
また、ダヴィンチちゃんいわく「探偵なのに魔術にも詳しい」ということも、ホームズがソロモン由来の存在と仮定すれば不自然ではない。
彼がソロモン(ロマニ)由来の存在だとしたら、カルデアに味方するのは当然の流れと言えるだろう。
そして、ダヴィンチちゃんいわく「探偵の特技は鍵を開けること」、「門にして鍵」であるヨグ=ソトース、またアビーの額の鍵穴、これらの要素の一致も気になるポイント。
ソロモンがゲーティアの暴走を見越していたとすれば、最終的にゲーティアを止めるためには自身の存在を犠牲にしなければならないことも予測していたはずだ。
そしてソロモンが安全装置としてホームズを用意したのなら、ソロモンがいなくても大丈夫なように代わりを作る手段か、ソロモン自身を復活させる手段をホームズに組み込んでいてもおかしくない。
またセイレム以前にもクトゥルフ存在を降臨させようとした ((しかも代わりに魔神柱が出た)) 例があった以上、FGO 世界とクトゥルフ神話には何らかの繋がりがあり、ソロモン(ロマニになる前)がクトゥルフ存在と契約・協力・利用などをした可能性は否定できない。
このことまで含めて考えると、以上の仮定の内容は、シャーロック・ホームズ体験クエストで語られた内容と奇妙な一致を見せる。
ヨグ=ソトースの一面にウムル・アト=タウィルというものがいる。彼は「門の守護者」で「ふさわしき旅人を案内する」存在であり、「夢を現実にする」ことができる。またヨグ=ソトース本体と違い、彼がふさわしいと認めた人間に対しては友好的である。
英霊ホームズの成立と能力の付与は、ソロモンとヨグ=ソトース(の一側面)の能力があれば十分実現できる。
英霊の召喚システム自体が実在の英雄だけでなく、人々の創作した物語の具現化を許している可能性がある。英霊ホームズの召喚のハードルはそこまで高くないかもしれない。
では EoR でソロモンとホームズと多かれ少なかれ関係している4つの「物語」を辿っていった理由とは……?
また、アラフィフの「魔術の領域では証拠などいくらでもある」といった言葉に対して、「現実は薄皮一枚にすぎない」「人が知る必要はなく、知ってはいけない」と返しており、「クトゥルフ神話の真実」の性質 ((人間の知る世界など宇宙的恐怖の前ではちっぽけなもの。それは狂って理性を失うことで初めて理解できる)) を彷彿とさせる。
つまり、元々のホームズは抑止力のあり方とは全く違う存在だったことがわかる。
これと抑止力が特異点に介入できないことより、本来のホームズ(キャスター)を召喚したのは抑止力ではないことはほぼ確実のように見える。
では誰が?それはこれまで一度も語られていない……
○名前
トゥーヒューマン
○デザイン
サイバネティク技術によって誕生した、人間ではない神のような存在らしいけど、イマイチこの辺の設定は理解できなかった。
右ステックを倒すことで攻撃する、というポータブル以前のモンハンのような操作スタイルなのだが、
適当に右スティックをウリウリするだけでどんどん敵を倒せるのが楽しい。
が、敵を攻撃したときのSEがへちょいし、敵のやられモーションが当たってるのか当たってないのかよくわからないせいで、動かしていて楽しい感が非常に薄いのが残念。
相手を宙に浮かして空中コンボを決めるのは中々決め! 感があるのだが、もっとSEやモーションなどを操作していて気持ちいい感触にしてほしかったかな。
専門用語が続いたけど、ディフェンダークラスは五つある主人公バルドスのクラスの一つで、防御や近接攻撃が得意なクラス。
スパイダースキルは、お供のスパイダーメカのスキルを発動するもので、このノルンの守護はダメージを吸収するバリアを貼る。
このゲーム、遠くからミサイルを乱発する敵や、無茶な数の雑魚敵に囲まれてタコ殴りにされることが多々あり、
そういう事故死を避けられる非常に便利なスキルで、とりあえず移動時間以外の敵と戦っているときはチャージが溜まったらすぐ発動しておいて損をしない。
特に、ボムやミサイルを乱発する敵が遠くにいて、かつこのゲーム特有の絶妙なロックオンの性能の悪さにうんざりするぐらいなら、
このバリアを張りつつ、さっさと近くの敵を片付けてから、遠くの敵を倒しに向かうように心がけていると、ストレスなくゲームをプレイできた。
○名台詞
地上には死者がうごめいている この私もそうだ!
やたらと専門用語が多くわかりにくく、さらにお話が明らかに途中で終わるこのゲームを象徴するような、主人公のセリフ。
チュール? 知覚兵器? 死者がうごめいてる? 私もそうだ? と一文ごとに疑問がつきない
チュールは4面の犬と相打ちになった人でしたっけ?
その人が知覚兵器の秘密を探ってるんでしたっけ? そもそも、知覚兵器ってなに? 主人公のお兄さんが主人公をロキと見間違えてしまった攻殻機動隊の「俺の目を奪ったな!」的なアレのやつ? でも、知覚兵器の調査はサイバースペースのノルンがしてるんじゃ?
地上には死者がうごめいているって、ヘルヘイム以外の場所から湧き出たアンデッドは核兵器で倒したんじゃなかったけ? ヘルを倒したのに死者の群れは治らないの?
この私もそうだ! って、その自認があるなら、死者として蘇った奥さんを殺すことなかったんじゃね? 死者同士仲良くしてればよかったのに。
そんな話題がでてたので、ファンタジーの中でもハヤカワFTのなかで印象深いものをメモしてみる。
ハヤカワFT031。ユーモアファンタジー魔法の国ザンスシリーズの1。ユーモアっていうか、ダジャレファンタジー。全編ダジャレ。好きな人と嫌いな人がかなり別れる。とはいえ、ダジャレと韜晦で煙に巻きながら、少年少女の自立とか誠意式の芽生えと思いやりとか、結構ちゃんとしたテーマはそれはそれでそれなりにやっているのが偉い。
ハヤカワFT文庫は、文庫設立当時は、あちらで有名な基本的名作をポチポチ紹介してたんだけど(マキリップ、フィニィ、ダンセイニあたり)このザンスシリーズ辺りから、複数巻にまたがるシリーズを紹介し始めて、おそらく収益的にも安定し始めたんじゃないかと思う。
ハヤカワFT055。妖魔(他作品で言うところの精霊的存在)の真の名を掴んで指輪に封じることで魔法を使う青年クレイを主人公とした上下巻。魔法の不可思議さや、おとぎ話的な雰囲気がどこまでも魅力的な作品。寓話的なストーリーとあいまって、「ファンタジーモノの原点ってそういえばこんなだったなあ」感ある。ネバーエンディングストーリー的な意味で、読者はその世界の脅威に魅了されながら読むという今では廃れきったスタイルの佳作。
ハヤカワFT055。やったー! みんな大好き俺TUEEE。序盤は地に足の着いた泥臭いファンタジーなのだが、異次元世界の魔術先進帝国から侵略をきっかけに主人公の少年が段々と魔術の才能を開花させて、無数の次元の秘密に迫る大魔術師に成長する話です。能力的なインフレもするんだけど、世界観や物語の構築がしっかりしているせいでご都合主義的な匂いはなくて、古代の英雄譚な味わいになっていくのが面白い。
FT106。大傑作大名作。指輪物語と同じような「グループが使命を果たすために旅をする物語」なのですが、読みやすさといい感情移入といい、こちらの方を押したい。メンバーが皆魅力的です。ウルフおじいさんとこそ泥王子のシルクはファンになっちゃいますね。ぶっちゃけこのシリーズがあるだけでハヤカワFT黄金時代だったと思う。
このシリーズは「ベルガリアード物語」が全5巻、続編となる「マロリオン物語」が全10巻あるので、シリーズ好きな人にはたっぷり楽しめる。。
FT137。シリーズじゃなくて一冊読み切り。現代(というか、今現在からするとちょい前?)くらいのロンドンを舞台としたファンタジー。高層ビルの屋根や屋根裏をすみかとして、ワイヤーとリールで空中を移動しながら生きている一族という、「現実世界にもファンタジーはひそんでいるんだぞ」設定がまず魅力的。子供の夢想みたいなのを実力ある作家が物語にしちゃったケースなので、読後の「もしそうだったらなー」というファンタジー特有の酩酊みたいなのが味わえます。
FT308。全五部作予定だったシリーズの最初の一巻。いろいろあって三巻までしかでなかったのだけど、話自体は一巻完結なので特に問題はない感じ。架空の中国唐代を舞台にしたチャイナファンタジーに、古典中国のアレヤコレヤを詰め込んだ、最高級の「ほら話」。文章には癖があり、何より密度がめちゃくちゃ高いので活字を読み慣れない人は体力を消耗しちゃいかねないんだけど、皮肉とブラックジョークの影に描かれた物語はびっくりするほど美しい。主人公コンビ、力持ちだけが特技の農村の垢抜けない青年十牛と、老賢者(というかイカサマ師)の李高老師は、ちっともヒーローらしくないデコボココンビなのだけど、迷宮、幽霊、過去の因縁話、宮廷につきもののスキャンダルをくぐり抜けていくと愛すべき人物だと気づく。ラストシーンは本当に素晴らしい。
生徒会モノ。
うーん面白い
生徒会、応援部会(野球のスタンドでやってるやつ)が何やってるかが相変わらず新鮮だ
会長の心残りも、野球をやめざるをえなかったやつの心残りも一応決着ついた・・・かな?
それにしても何度でも思うけどガンスリと同じ人とは思えない絵柄だなあ
顔とかはまあガンスリっぽいけど男は広告の守護者の漫画版の主人公っぽい
ユーフォのなつき先輩しかり、ポニテでだるそうな目つきの先輩ってほんとツボ・・・はあ・・・
主人こうそのた、過去にいないといけないって歴史?が判断したやつらは戻れなかったけど
うーんまあこれでいいのか・・・なあ?
これまで何気に楽しみにしてた、戦国時代に来る前の現代での仲間との関係を短く面白く書かれてたから
進撃っぽい絵柄とありがちだけどドラスティックな展開と魅力的なキャラでものすごくひきつけられて面白かった
1巻は前読んでたけど1もふくめて2-4を読んだ
1に比べると2以降は話の進みは一気に早くなった
4巻のあとがきおまけで神山健治と作者が対談しててそこで理由がわかった
1巻は読者のためじゃなくて作者がつらかったことをそのまま書いちゃってて、読者が面白いと思えることを目指してなかったって
だからかー
まあ結局ひたすら練習するってのがメインにはなるんだろうけど、やっぱりところどころでブレークスルーはあるはずで、
それをもっといろいろ教えてほしいなって思った
あと3,4巻で主人公があこがれる監督がでてくるけど、そいつが東京トイボックスの仙水そっくりwww
でも結局やっぱり主人公は努力したとはいえやっぱりもとの才能があるって書かれてるのがもやもやしたなあ
まあ作中でもさんざん、結局才能ないとダメみたいな話はあったけどさ・・・
野球選手としての才能はなかったけど野球が好きであきらめきれなかった主人こうが教師になって理論で野球を強くしようとする話
技術の部分とかで
データ分析って意味ではほかにも同じようなことやってる野球漫画はたくさんあるし・・・ってのがあって、
イケメン警察官だけど一目ぼれしやすくてすぐストーカーしちゃう男が、
美人だけどジャニオタでようやくときめいた人は近々結婚する人で自動的に失恋して落胆してた女に惚れて、付き合う話
読んでるときはなんか楽しかったんだけど、トータルの感想を書こうとすると微妙、になる複雑な漫画
一応一本の線はあるんだけど、横道のそれ方のバランスがなんかちぐはぐ感がある
キャラは魅力的だしもっと読んでいたいと思わせるものはあるんだけど長期連載の中で展開をコントロールできてない印象を受けた
あと後半やたらBL漫画っぽくなったのももとの作者の趣味が出ちゃってて、本来のテーマがずれちゃう原因になってたと思う
いや出会いのない・友達の少ない男性アイドルが、ストーカー対応してくれた警察官といちゃこらするのものなかなか楽しいとは思ったから、
それが一概に悪いというわけでもないんだけど
ただそれならそれで一本読みたいかなと思ったって感じで
イケメン警察官に横恋慕するちっちゃいマスコット扱いされる婦警もかわいかった
いや全体とおしたら悪人はいないし安心して読めたし楽しかった、ってのが結論だな
ある日バイト先でおばさんに無理やりされたことがトラウマになった男子高校生から告白されて、
少しずつ立ち直っていく
暗い話ってのはなんとなく知ってたけど、かなりエグかった
でも最後はそれなりにケジメもついたからまあよかったかなと思う
2代目でスーとくっついた以上、もうこっちは完全にifではあるんだろうけど
1巻はまだかるーくほのめかす程度だったのに2巻以降、もう3巻になるともう完全に、がっつりげんしけん派生ってことを隠そうともしなくなってきたw
まあもうそれくらいのほうがいいよw
下手にごまかそうとして展開が不自然になるよりもよっぽどわかりやすくて楽しい
スーがめっちゃナイスバディになってたり、二代目のふとってた子がやせてナイスバディになってたりする
動いてるのを見るだけで楽しいっていう
咲ちゃんとまだらめは最初はきじょういとかってことだったけど実はバックが好きというネタがあって、
それを最初読んだときはそういうギャップ萌えるよなというだけの感想だったんだけど、
今感想書きながらよく考えたら、
アニメ見ながらひたすら30分間バックで突かれるっていう話w
作者のことだから覚えててやってんだろうなあと思ってすごいなと思った
このへんの話。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170907/k10011129891000.html
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20170908/p2
事情に詳しくない人からすると「なんでそんなにカタルーニャは熱くなってるの?」って感じだろうと思うので、簡単に解説したあとで補足説明をつけます。
背景を説明するためには、時代をいっきに40年ほどさかのぼる必要があります。
1975年に、スペイン総統フランシスコ・フランコが亡くなりました。その結果スペインは王政復古し、現国王の父であり当時国王だったフアン・カルロス1世のもとで民主化への道を歩んでいくことになります。この王様、退位前の数年間はひどく評判が悪かったんですが、民主化に反対する軍将校が起こしたクーデターを鎮圧したことで即位直後は民主化の守護者としてたいそう人気がありました。ちなみに現国王のフェリペ6世は当時10歳にもならない子供だったので深夜に行われた国王とクーデター首謀者との会談の席ではおねむだったのですが、船を漕ぐたびに「おまえは王様になるんだから王様のつとめをよく見ておきなさい」と父君に優しく揺り起こされていたそうです。なにそれ萌える。
閑話休題。このフランコ政権ですが、典型的な「スペインは単一民族国家だもん!」派の政権でした。彼が在世中はカタルーニャ語やバスク語をおおやけの場で用いることはひどく抑圧され、内戦前のカタルーニャ州政府首脳陣は殺されるか投獄されるか亡命するかという感じでした。そのフランコが死んだことで、亡命州政府のトップがスペインに帰国し、民主化が進展します。このとき、フランコ体制下で抑圧されてきた「スペインは多民族国家になるべきだもん!」派が一気に声をあげはじめます。
(ここでいう「民族」ってのは、英語のネーションにあたる、スペイン語のnación、カタルーニャ語のnacióのことで、「自分で国を作れる権利や能力のある集団」みたいな感じなんですよね……うまく説明できないんですが。なので移民とかは勘定に入れてません。この文脈だと「国民」と訳した方がいいのかも。「スペインは単一民族国家だよ」というのは「スペインにいるのは『スペイン国民』だけであり、カタルーニャ人もバスク人もひとしく『スペイン国民』だよ」ということで、カタルーニャ人たちは「スペインには『カタルーニャ国民』や『バスク国民』もいるんだ」と主張してるわけですね)
民主化したからにはちゃんと民主的な憲法を作らないといけませんが、これが紛糾します。単一民族国家というのはフランコだけの思想ではなく、熱心なスペイン・ナショナリストはフランコ死後も消えてなくなりはしなかったわけです。彼らは頑強にスペインの統一、つまりスペインが単一民族国家であることを守ろうとします。一方でこれまでさんざん煮え湯を飲まされてきた地方の側もそれでは収まりません。そんななか、妥協として制定されたのが1978年憲法でした。条文の英訳をウィキソースからコピペします。
Section 2
The Constitution is based on the indissoluble unity of the Spanish Nation, the common and indivisible homeland of all Spaniards; it recognises and guarantees the right to selfgovernment of the nationalities and regions of which it is composed and the solidarity among them all.
太字にしたところはテストに出るので覚えておいてください。ここではスペインがひとつのネーションからなり、不可分であること、そしてネーションの他にいくつものナショナリティが存在することが謳われています。ナショナリティっていわれると普通は「国籍」って意味なんですが、この文脈では「準ネーション」みたいな意味だと思ってください。つまり、ネーションはひとつしかないけど、準ネーションっぽいものはいくつもあるよ! ってことですね。
(ところで、この憲法からもわかる通り、スペインは連邦制国家ではありません。連邦制かと見紛うばかりに地方に権限委譲がなされてはいますが、それでも「連邦制=国の集まり」ではなく「スペインは不可分のひとつの国!」ということになっているのです。これを専門用語で「自治州国家体制」といいます)
この憲法にのっとってカタルーニャは自治州の地位を得、フランコ体制下で迫害されていたカタルーニャ語を復活させるための政策に着手します(これを「言語正常化」といいます)。使用が弾圧されただけでなく、工業化が進む中でスペインの他地方からの移民が来て、カタルーニャ語を解さない州民が増えていたのです。また、なにせ相手は数億人の使用人口を誇る言語ですから、話者数数百万人のカタルーニャ語など放っておいたら自然淘汰されてしまいかねません。州政府は公教育にカタルーニャ語を導入し、様々な場面でカタルーニャ語使用を義務づけ、カタルーニャ語の使用に助成金を出し、結果として今ではほとんどの州民がカタルーニャ語とスペイン語の見事なバイリンガルに育つようになっています。
(助成金は、たとえばパソコンのOSのカタルーニャ語訳とかに出されています。数億人が使ってるスペイン語は経済的にペイするのですぐに翻訳されて、なおかつ州民はみんなスペイン語ができるので、放っておくとみんなそっちを使っちゃうんですよね……)
ところでこの憲法、実はもうひとつトラップがあります。それは公用語について定めた条文です。
Section 3
C1. Castilian is the official Spanish language of the State. All Spaniards have the duty to know it and the right to use it.
C2. The other Spanish languages shall also be official in the respective Self-governing Communities in accordance with their Statutes.
C3. The wealth of the different linguistic forms of Spain is a cultural heritage which shall be especially respected and protected.
そう、カスティーリャ語(つまりスペイン語)は、スペイン市民(たとえバスク人やカタルーニャ人であっても)にとって知る「義務」があり、使う「権利」がある唯一の言語なのです。逆に言えば、それ以外の言語を使う「義務」を州が課すことは違憲になります。
この時点で、たとえばカタルーニャ州が州内の教育をカタルーニャ語だけで行おうとしたら違憲です。カタルーニャ州が州民に高度なバイリンガル教育を施しているのは、理想が高いのではなくそうせざるを得ないということです。またカタルーニャ州の言語政策も、たとえば「お店のメニューにカタルーニャ語を使う義務」「商品のラベルにカタルーニャ語を使う義務」「企業の広報活動でカタルーニャ語を使う義務」といったものを法で定めたりしていますが、これは個々人に対する義務ではないのでギリギリ合憲ということになっています。なっているはずでした。
ところで、カタルーニャも極楽ではなく、何をするにも先立つものがいることには変わりありません。つまりお金です。ところが、スペインの自治州には基本的に徴税権がありません。バスク自治州とナバラ自治州には歴史的な事情(ありていに言うとスペイン継承戦争で官軍についた)によって徴税権があり、その一部を国庫に納入していますが、カタルーニャはあくまで国が徴税して配分するお金を受け取る立場です。そしてカタルーニャはスペイン全体でみても豊かな地域であり、多くの税金がカタルーニャから徴収され、多額の税金がカタルーニャに還元されています。
しかし、その収支が赤字だということが大問題なのです。カタルーニャから徴収される税金は、カタルーニャに交付されたり還元されたりする際に8%ほど目減りしています。しかも、これだけ払っていながらもインフラ整備は後回しにされているのです。カタルーニャだけ高速道路は有料で列車の老朽化も放置、EUから勧告されたカタルーニャの高速道路整備も中央政府は拒否っておきながらマドリードなどカスティーリャのインフラはしっかり整備しています。他州より高く払っているのに他州より低いサービスしか受けられないのは何事だと、カタルーニャ州民が怒るのももっともです。
こうした状況を受け、2000年代に入ると自治憲章(要するに自治州の憲法ですね)改正の動きが活発化します。自治州議会は、徴税権やカタルーニャがネーション(nació)であることを盛り込んだ憲章草案を可決しますが、中央政府(当時は左派の社会労働党)との交渉で徴税権は削られ(かわりに公平な交付金の支給を約束。結局実施されてませんけど)ネーション条項は前文のみ。妥協のすえ2006年にようやくスペイン国会を通過して新自治憲章が成立します。
これに待ったをかけたのが国民党(現・与党)です。彼らからしてみれば、「一地方の自治権強化はスペインの統一に反する」というわけですね。彼らはこの自治憲章が憲法違反だと憲法裁判所に提訴、これに対抗してカタルーニャではデモが盛り上がり、「我々には自決権がある」という主張が登場します。そして2010年、憲法裁判所は自治憲章の多くの条文に違憲判決を下しました。しかもその判決は、これまでカタルーニャが行ってきた自治権強化政策を否定し、自治権をより縮小する方向のものでした。カタルーニャ語を行政において優先させる規定は違憲となり、カタルーニャをネーションとした前文は、スペインにおいてネーションはただひとつとして法的拘束力はないとされたのです。そしてこの違憲判決に基づいて、カタルーニャの学校ではスペイン語で教えるべし、という判決も出されました。
ここまで妥協しても憲法違反になるのか……という絶望が、一気に民意を独立へと傾けていきます。それまで20%前後を行ったり来たりしていた独立への支持率が、この違憲判決を境に一気に30%を超え、2013年には60%に達しました。今の憲法がある限り、スペイン国家に留まっている限り、カタルーニャは自由にはなれない、と多くの人びとが考えるようになったのです。移民の子孫だってカタルーニャに暮らしているわけですから独立に傾きます。
2014年、カタルーニャ自治州は「法的拘束力のない」住民投票の実施を計画しますが、違憲とされて差し止めが命じられました(提訴したのはもちろん中央政府です)。じゃあ非公式の模擬投票やろうぜ、と言ったらそれも違憲とされて差し止め命令が出されます(模擬投票も認めないなんて表現の自由に対する攻撃だと国際的に抗議が殺到した模様)。結局自治州は非公式の投票を決行しましたが、中央政府は憲法違反の投票を強行したとして当時の州首相らを刑事裁判にかけます。ちなみに裁判期日として指定されたのは、フランコ政権によって内戦前最後のカタルーニャ自治政府首相が銃殺された日でした。煽り力高い。州首相だけでなく州議会議長まで訴追するよう憲法裁判所は命じています。民主主義とは。
このような国民党政府の対応が火に油を注ぐ結果となり、今回の住民投票実施に至るわけですが、この期に及んでなお国民党は「カタルーニャ自治州に毎週会計報告を義務付け、違反した場合は交付金を停止する」と表明したり(http://www.pressdigitaljapan.es/texto-diario/mostrar/775503/)、プッチダモン州首相を訴追する準備を進めていたりして(http://www.politico.eu/article/catalonia-independence-referendum-spain-the-carles-puigdemont-factor/)、まあある意味通常運転です。「やっぱスペイン国家の枠内では自治権保証されないじゃん……」とカタルーニャ人に思わせるだけの簡単なお仕事。こうして着々と独立に向けたフラグが立っていくのでした。
スペイン政府はオプションとしてカタルーニャ自治州政府の停止も視野に入れているという報道があります。根拠となるのはスペイン憲法155条です。
Section 155
1. If a Self-governing Community does not fulfil the obligations imposed upon it by the Constitution or other laws, or acts in a way that is seriously prejudicial to the general interest of Spain, the Government, after having lodged a complaint with the President of the Self-governing Community and failed to receive satisfaction therefore, may, following approval granted by the overall majority of the Senate, take all measures necessary to compel the Community to meet said obligations, or to protect the abovementioned general interest.
2. With a view to implementing the measures provided for in the foregoing paragraph, the Government may issue instructions to all the authorities of the Self-governing Communities.
ぶっちゃけこのオプションが採られた場合投票は物理的にはできなくなるでしょうが、まあスペイン国家とスペイン憲法へのヘイトをためるには十分すぎるほどなので、余計に独立への意志を強めるだけですよね……という辺りが現状言えることです。部外者としてはワクテカが止まらない祭り出来事ですが、楽しむためには背景知識が必要だろうと野暮を承知で解説してみました。部屋を明るくして画面から離れて住民投票をお楽しみください。
そもそもなんでカタルーニャがスペインの一部になってるの? とか、カタルーニャの栄光時代はいつだよ……ジャウマ1世の時か? とかの疑問が湧いてきた時にオススメです。住民投票は……住民投票は今なんだよ!
〇米国・・・朝鮮半島の緊張材料として適度に暴れてくれればちょうど良かったのに、調子にのって戦略核まで到達されてしまうと、もう容認できない。これを容認してしまうと、北はシリア・イランへの売却、ひいてはISILのようなテロ集団への売却もしかねない。いやビジネスとして確実にやってくるだろう。そのとき世界に制御不能な混沌が現実化する。ではそうさせまじと、先制的に北朝鮮を攻撃したとき、中途半端な攻撃ではゲリラ戦術を用いられ、東アジアが中東のような長期にわたる戦場となってしまう。短時間でけりをつけようとすると、米国が核兵器を使用する羽目になる。いずれにしろ国際世論からの猛批判に長年さらされる。また、戦後の面倒を米国がみることになり、得られるものがほとんどないのに、余計な苦労だけ背負わされる。その役目は中国に担ってもらいたい。最初から中国が北を攻めればいいのに。北をあげてもいいよ。韓国はあかんけど。はよやれや中国。やらんのなら中国の責任放棄と宣伝しつつ、代わりに米国がやったげるけど。
〇北朝鮮・・・水爆核弾頭搭載ICBMの完成と配備を完了してしまえば、米国の体制保障は必要ない。中露にも脅かされることはない。あとはこれをビジネスにして儲けかつ南への脅迫材料にしてじっくり北主導での統一に追い込む。そのためにはいまのうちに(攻められ追い込まれる前に)ゴールまで駆け抜けろ。
〇韓国・・・発言権もなく、軍事指揮権もなく、誰からも注目もされない。なのに軍事攻撃時にもっとも人命が失われるのは韓国。北の核保有容認をいっそのことしてもらって、その代わり、北とイーブンになる韓国独自の核兵器を供与するべきだ、いや供与してください、お願いします。
〇中国・・・経済的に米国に肉薄する勢いを持ち、そろそろ世界での覇権の分割という分け前をもらっても良い立場になっている。なのに、米国はいちいち邪魔をして、覇権を一部でも譲ろうとしない。歴史的に清代の版図を列強に掠め取られてきた中国はいまこそ、その版図をとりもどす実力をつけつつある。ゆっくりとでも実力行使・現状追認型で徐々にとりもどしていきたい。そんなときに中国の影響下にもかつてあった領域を米国に掠め取られることはあってはならないことだ。そもそも朝鮮戦争の休戦協定時に3か月以内に外国の軍隊は朝鮮半島から出ていくという約束だったのに、それをこの60年以上米国は裏切り続けている。嘘つきは米国だ。だから北朝鮮にはひたすら米韓に敵対していてほしかった。ただしおとなしく。誰が調子にのって戦略核まで持てと許したか。いやそこまでは許していない。しかも党中央に歯向かう軍区(朝鮮族の牙城)と結託してこちらにまでミサイルを向けている。中国にも歯向かうようになった北に対し、中国のコントロール下で傀儡政府を作ろうとしたが、これも結局ルートを殺され、つぶされてしまった。こうなると軍事力でやりたいところだが、肝心の隣接軍区が党中央に歯向かっているのでそれもできない。だからいくら米国からなんとかしてくれと言われても現状では言うことをきかせる手段がない。石油禁輸は北を追い込み、必ずや隣接軍区とともに北京へ向かってくるだろう。難しい局面にあるが、なんとか北に核開発を停止させ、その代わり在韓米軍を撤退させるというダブルフリーズ案を国連の場で提唱し、双方に飲ませることはできないだろうか。できるといいなあ。できたら自分とこにとっても都合がいいんだよなあ。米国がそれはいやだ、どうしても先制攻撃するというなら、大声で批判しまくってやる。批判しながらついでに尖閣諸島を占拠してやる。
〇ロシア・・・ソ連の傀儡として作った北朝鮮も、もうちょっとで朝鮮半島全体を占拠できるところだったのに、国連軍とやらの反攻にあってしまった。休戦協定時の約束である米軍撤退を結局60年以上も果たしていない。米国は嘘つきの限りだ。ドイツが東西統一するとき、米国は裏約束として決してNATO/EU陣営を東方拡大しないと言った。それもまったくの嘘だった。そしてソチ五輪のとき、大統領がソチから離れられないそのときに、米国はウクライナでのデモと悲惨な衝突を演出し、政変を起こした。そのプロらしからぬやり方はもう許せない。相手がそんなやり方をするなら、ロシアもやり方を変える。米国の覇権を崩すためならあらゆる手段を尽くす。チャンスがあれば嫌がらせの限りを尽くす。たとえ、自国へ歯向かうテロリストへ核が流出するリスクを冒そうとも、北への石油輸出を増やし、ミサイル技術開発の支援もし、はては米国の斬首作戦から金正恩を防衛するために元KGB要員の顧問も派遣する。中国のダブルフリーズ案にのっているふりをしつつ、決して米国の思い通りにはさせない。もし米国が先制攻撃に出るなら、猛批判の急先鋒になってやる。そのドタバタついでに中国から北朝鮮ビジネスを奪い取ってやる。
〇日本・・・東アジアの防衛の要は、日米の防衛協定にある。ここが安定化・深化することが、中国の覇権主義から東アジア諸国を守る軸となる。北朝鮮への対応は、その真価を現実のものとして日本国民や他国民にみせつけるショーケースとなりうる。米軍と自衛隊が一体となって、日本国民とひいては韓国をも守護するさまをできれば見せたい。ただここまで北の開発スピードが早くなっているとは予想していなかった。すでにショーケースだのなんだの言ってる段階をはるかに飛び越えてしまったかもしれない。軍事攻撃にせよ、核保有公認にせよ、どちらにしても日本にとっては大変よろしくない結果が待っている。うーん、困った困った。状況に合わせて動くしかないか。核保有公認時には、日本の独自の核兵器保有論議に入るか。うちには大量のプルトニウムと固定燃料運用の実績豊富なロケット技術もあるし。
このところ永劫回帰のようにエロ表現における争いが繰り返され、オタクとフェミニストのラグナロクは永遠につづくかのようにおもえる。
これだけやりあっていれば普通はたしょうなりとも相互理解というものが生まれるものであるけれども、それはリアルな論戦の話なのであって、不特定多数が不特定多数に対してやたらめっぽうに機関銃を撃ちまくるインターネット塹壕戦ではただ人が死ぬだけであり、平和条約は結ばれず、ただ人が死ぬだけであり、憎しみは連鎖し、ただ人が死ぬだけである。
毎日がソンムの戦いだ。
オタクとフェミニストはそもそも互いに互いを認識しているのだろうか?
フェミニストが「えっちなのは子どもによくない」と言い、オタクを宮崎勤と池田小のやつとエド・ゲインを足してニで割ったような怪物として罵る。
オタクは「表現規制をするな」と言い、フェミニストを権力によって表現の自由を、人間の尊厳を奪うヒトラーの再来として恐懼する。
彼らにはそれぞれ「何」が見えているのだろうか。
1950年代にPTAが中心となって展開されたマンガに対するバッシング運動だ。
暴力的な表現、子どもの情操に悪そうな表現はこどもに見せるべきでない、というスローガンのもとに当時芽吹きつつあった劇画や手塚治虫などを中心として爛熟しつつあったマンガ文化に打撃を与えた。
これによってオタクたちはDNAレベルで、「(残酷だったり過激だったりする)マンガを『わるいもの』として非難するのは保守派のファシストのおばさんたち」という了解が植え付けられたのだ。
なぜ戦争を二十年で忘れることのできた民族が六十年前の、教科書にも載っていない出来事を記憶しているのかといえば、それは語り部が優秀だったからだ。
悪書追放のやり玉にあがった漫画家たちはのちに大御所となって「漫画文化の立役者」として官民両方から賞賛される身分を獲得しても、悲惨な迫害を忘れなかった。
彼らはそのときの体験をエッセイ漫画にしたり、ことあるごとにマンガのネタに織り込んだ。
そういうものを読んだ後進の世代は「今は平和にマンガを享受できている国なのに、過去にはこんな悲惨なできごとがあったんだ!」とショックを受け、苦難の記憶を継承し、そのうち漫画家となった人々は「マンガや表現を悪と呼ぶわからずやな大人」たちを戯画化して描き続けた。先人たちを見舞った悲劇を繰り返してはならない。そう彼らは叫び続けた。
悪書追放運動の記憶の継承は、歴史上のあらゆるトラウマ継承運動のなかでも最も成功した部類に入る。それはオタクが長らく被差別民だった(と少なくとも自分たちでは認識していた)せいもあるだろう。
そういうわけで、マンガの守護者たちの末裔たちは今でも各所に見ることができる。ちょっと前にもあったよね。ほら、『マンホール』描いた人の……なんだっけ、なんとか都市ってやつ。
さて、戦争から七十年も経てば、各国家における仮想敵も大きく変わるものだ。アメリカがWWIIでは影の薄かった中東を主戦場とするようになって久しいし、そのアメリカとかつて世界を二分したソ連は国ごと崩壊してしまった。
だがオタクたちはずっと敵は「既存の道徳にしばりつけられた保守的で道徳的なガミガミおばさん」のままだと思い込んでいる。自分たちの敵はヒトラーであると叫び続けている。
「反表現規制」の旗のもとに団結しているオタクたちに比べて、そもそも男性と男性社会そのものを憎悪してやまないミサンドリストからオタクとの対話を求める層までほとんど分裂状態の様相を呈していて、
そうなったときにクローズアップされがちなのはラディカルな発言だ。
しかしオタク側が言い募るように彼女たちは「こどもたちを歪ませる」表現を憎んでいるのではない。
日本にかぎった話でもないかもしれないが、マスメディアやサブカルチャーにおける性的(エロという意味に限定されない)表現や言説は男性中心的な傾向が強い。
ふた昔前はテレビで女性がおっぱいをエロティックに晒すなんてのはゴールデンタイムにすらみかけられたし、
そこまで過激なものでなくとも、女性に対するセクハラめいた言動が「ジョーク」として受容される環境があった。
それはジャンプなどの漫画メディアにあっても同様で、男性読者からは「問題ない」描写、ジョークとしてスルーされる描写であっても、そこに女性に対する男性的な欲望、ひいては暴力を読み取る多感な少女は数多い。
そういうものがある種の社会に対する不信となって根強く彼女たちの底に残る。
男は言う。いや、あの程度の表現で傷つくのはあまりにか弱すぎるだろう。自意識が過剰すぎるのでは? たんなる一過性のメンヘラでは?
少女たちはテレビやマンガを消費するには、あまりにもセンシティブすぎるのだろうか?
一面にはそれもあるかもしれない。しかし、傷つきやすすぎることとの何が問題なのか?
刃のついた表現が現実に存在し、それで傷つけられる肌が現実にある。
何も知らない無垢な肌が刃に触れたときに血が出るのだとして、たしかに近づいてきたのは肌のほうかもしれないが、刃の危険性も知らないものにあらかじめ避けておけばと非難するほうもどうかしている、根本的に事故を防ぐためには刃のほうを鈍らせておけばいいのでは? 自動車会社などはそうやって事故を軽減しようとつとめているだろう?
私たちは次の世代を「正しく」育てようとは思わない、ただ、不慮の事故から守りたいだけだ。
傷つきたくないこと。傷つきたくないこと。
そういう意味では、オタクが表現規制運動の歴史を語りつぐことと少し似ている。
フェミニストの場合はあまりに内部で混乱しすぎていて、個別の問題の何が問題であるのか、その問題をどう解決していくべきなのかで定義の統一がはかれていないことだ。
これは攻める側の弱さでもある。
守る方は現状を維持しさえすればよく、つまりは「表現規制反対」に各員の意志を集約させればよい。
だが、フェミニスト側は具体的に個別の問題のどこをどういった理由でどう修正していけばよいのかまでを提示しなければならず、これに関する意見を調整出来ない場合、もっとも極端な意見ーーすなわちオタクたちが最も恐れる「全面的な表現規制」が対立を煽る人々によってショーアップされてしまう。
そうなってしまえば、あとは殺し合うだけだ。
彼らはお互いに敵を「保守派」として捉えている。
オタクの眼に映るフェミニストは「道徳を重んじて表現を認めないファシストガミガミおばさん」
フェミニストの眼に映るオタクは「男性社会の無思慮な暴力を肯定しつづけるレイピストクソ野郎」
ここでは、もはや誰が敵か味方かもわからない。
もしかしたら、敵も味方もいないのかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇は後鳥羽天皇を即位させ、寿永二年の宣旨で頼朝の東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝の上京を要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝は東国の支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経が上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。
義仲が京都で乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。
兵糧不足のまま進撃して首都を占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件(南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?
また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います。
(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝が西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ、自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)
「頼朝は挙兵以来、北条氏や三浦氏などの東国の武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察を担当する侍所を設けて、有力御家人の和田義盛を別当(長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。
頼朝は後白河法皇の要請を受け、範頼と義経に平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏を滅亡させた。後白河法皇は頼朝の権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿・九条兼実(藤原兼実)らを朝廷の重要政務を担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族を追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝は義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝は東国や西国の多数の武士を御家人として組織しながら、主に東国の支配を確立していった。
1190(建久元)年、頼朝は挙兵後はじめて京都に入り、右近衛大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」
当然ながら『詳説日本史』にも、侍所、政所、問注所、地頭というキーワードは出てきます。しかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています。
それに比べて、この教科書は歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから、時系列に即してこれらの言葉の意味を理解することができるはずです。
結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。
鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます。名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府の政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。
あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。
一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護・地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職が地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?
例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています。守護は「おもに東国出身の有力御家人」から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内の御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人を支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公の関係となって封建制度の基礎となりました。
ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されています。しかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。
私は最初にこれを読んだとき、わけが分からなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許で守護・地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。
1960年に石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたものが守護・地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護の前身となりました。
三省堂の教科書は、次項でそのことが説明されています。頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園・国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢・公事の徴収、治安維持に当たらせた」としています。
このように、三省堂の教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。
実教出版もこの新説を採用しています。こちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります。東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護の前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います。
それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護・地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用な矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。
なお、山川の参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語が掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭の前身だったと思わせるような記述です。
地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝の要請で後白河法皇は諸国の公領・荘園に地頭を設置することを認めた。当初は1国単位に荘園公領を支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家・寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務は土地管理、年貢・兵糧米の徴収、治安維持など。
ですが三省堂・実教出版・東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています。
「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語を独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。
(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭が掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。
予防線を張っておくと、私は高校で日本史Bを履修しなかったし、大学も理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。
はじめに書いたとおり、最新版の教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます。
再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)
(追記2
複数の教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます。
『詳説日本史』では、前九年合戦・後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから、教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています。
ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)
つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。
『詳説日本史』によると、戦国大名の性格は次のように説明されています。戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人や地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準で統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代を下り、別のページで豊臣秀吉の太閤検地を説明しています。太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分の田畑の所有権を法的に認められることになった」わけです。
このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版『日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ、大名の統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しか分からないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。
この視点を最もわかりやすく記述しているのが、三省堂『日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉は太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地の一元的支配の確立、荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。
ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制の体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)
三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。
目次 [非表示]
1 概要
2 平安初期の仏教界
2.1 法相宗と徳一
3 論争の経緯
3.1 論争の発端について
4.2 南都教団への対抗
4.3 中傷者徳一に対する怒り
4.4 蝦夷征討との関係
5 その後
6 注・出典
7 関連項目
8 参考文献
「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗(声聞乗・縁覚乗)・大乗(菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。
ただし、徳一と最澄の論争は三乗と一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経の正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作を執筆しており、これは徳一からの批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗の空海(774年 - 835年)への論難である『真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である。
いずれにしろ論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。
奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗・律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである。
この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇(737年 - 806年)が平城京から長岡京・平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあった。
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
徳一は一説には藤原仲麻呂(恵美押勝とも。706年 - 764年)の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。
前述のごとく、徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。
天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教の理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。
最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇は最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年(805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年)帰国した。
帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海に師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗の鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教の既得権益との対立を深めていた。
論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判・法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。
ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身は鑑真の弟子で、律宗の僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄が東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁(794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要な役割を果たしていた存在であった[6]。
筑波山を開山し、会津を拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的に東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。
三一権実諍論に関する著作としては、
≪徳一側著作≫
『法華肝心』2巻
『法華権文』1巻
『中辺義鏡』20巻
『慧日羽足』3巻
『遮異見章』3巻
『義鏡要略』7巻?
『法相了義灯』11巻
『通破四教章』1巻
『照権実鏡』1巻
『依憑天台集』1巻
『守護国界章』9巻
『決権実論』1巻
『通六九証破比量文』1巻
『法華秀句』5巻
などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、
徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。
徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。
最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。
となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。
一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。
天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。
最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海に師事することになる。
最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年)から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年(806年)に帰国していた。最澄は空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海の高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海の弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。
しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さらに最愛の弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり、密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。
天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗は最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義そのものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。
宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。
最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮・香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。
これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原は最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<