はてなキーワード: 守破離とは
ペイントで描いたのから毛が生えた程度のやっぱり濃淡に乏しいビビッドな感じの絵を描く、場合によっては深淵と冠され得る絵師の絵でも個人的にはそれが良い感じに味として作用して興奮するってことはまあある。
大ざっぱにいえば目は大きく目に対する光の反射もデフォルメされて描かれているという点で萌え絵の系譜で、最初は自分なりに模範の萌え絵を意識して描いてたのだろうが、途中で(段階としては結構早い段階で)挫折して成長が止まったような絵というものだ。
しかしたとえ同じ絵柄が模範であってもその模範の結果が人による異なるわけだから、つまり枝分かれするように、おそらく意図せず自分なりの絵柄になっていくんだろう。
これは模倣の完成度の低さに由来するものだから、むしろ完全な模倣ができるなら、ある意味で才能のない絵師から独特の絵柄というのは生まれ得ない。
正統な意味で才能が有って完成形に到達できさらに守破離できるようなセンスの持主のみが新たな絵柄を創造できるのだろう。
模倣してから完璧に描けるようになるまでの過程の終点は1点に収束しているはずだから、諦めず成長を続けた場合は目標とする絵柄と同化することになる。悪く言えばここで個性が失われる。
その途上の多数に枝分かれしてるような分岐のふくらみの一つにあって、それ以上模倣の完成度を高めることを諦めることは、ある意味で肯定的に受け止めることができる。
そこで成長を諦めたからこそそういう個性的な絵柄で自分の絵柄が固まったというだから。
当然お世辞にも商業エロ漫画に掲載されるような気配は微塵もしない絵なのだが、純粋に個人的な性欲のためという視点において不思議な魅力というものはあったりする。
ほんとにおおざっぱにいえば確かに萌え絵なんだけど、それぞれこの絵師の描いたものだと判定できる程度には絵柄全体に示差性が認められるんだな。たとえ下書きのレベルでは全く判別がつかないことはありえても、塗りとかその他さまざまな要素によって生み出されてる総合的な違いなんだよなあ
とりあえずブーストはかけられない。それは諦めてほしい。
ずっと芋(申し訳ない表現だが)だったのに、一朝一夕に垢抜け感が自然に身に付くもんじゃない。守破離じゃないが、最初はただ雑誌に載ってるコーデまるっとコピーすりゃいいんだけど、最終的には自分の雰囲気や体型や顔立ちに合うものを自分で選ぶ必要がある。
メイクにしてもコーデにしても、失敗して後から写真見て「あの時期マジで黒歴史〜」なんて言って学ぶってのを周りの女子達はあなたより10年も15年も前からやってるんだから、いきなり追い付けるわけないよね。
厳しい言い方したけど、焦っても良い事ない。これは垢抜けへの道もだし、相手選びも。
あなたは今の自分をしっかり客観視できてるし、やる気も向上心もある。きっといい出会いがあるから、焦らず地道に自分を磨いてほしい。
今日知った事として、女性シェフの割合はほぼ半数に達しつつあるのに、ミシュランの星を持つ女性シェフは全体の1.3%らしいのだが
増田家は結婚二年目の夫婦で、家事は双方が負担をする感じで日々の生活を送っている。
増田は36歳で増田嫁は28歳なので、独身生活が長かった増田の方は一通りの家事も出来るし、料理も好きだったので得意な方ではあるはず。
嫁は若い事もあり、また独身時代も実家にいたので、料理や家事が得意な方ではなかった。(現在は、もうだいぶ出来る嫁になってるので、これは過去の話)
なのだが、今後の事を考えつつ彼女の希望を入れて、料理については月火水木は増田、それ以外は嫁という分担で新婚生活を始めた。
平日のしんどい時は慣れてる俺が、余裕がある時は嫁がゆっくりやると言う感じの設計だった。
料理をしたいという嫁に対して最初に言ったことは、まずはレシピ本を買おうと。
ネットのレシピは多彩だが、一人の料理研究家がまとめた基本的な料理の味付けを覚える事で、基準を覚えて欲しかったし
やがてそこから自分なりの工夫を入れられれば、楽しくなると言うのが、その理由だ。守破離って奴だね。
そんな嫁が料理を始めて間もないある日、作ったポトフがあまり美味しくなかった事があり、迂闊にもそれを顔に出してしまった。
「美味しくなかった?」
「いや、美味しくないって事はないんだけど、何か足りないんだよな。これって例の買った本のレシピ通り?」
「ふーん、どれどれちょっと見てみようか」
とレシピを見てみると、素材の味を活かしたい意図があるんだろう、圧倒的に味付けが薄いことに気付く。というか、水と塩と素材だけだ・・・。
「嫁ちゃんは全く悪くないよ。この本の作者は、素材を活かしたポトフを教えたかったんだね。フランスの家庭料理ってのは本来はこうなのかもしれないし、
著者も凄くいい素材をつかってる想定なのかもしれない。でも、調理時間や材料的にも味が足りてないと思う。
明日、もう一度だけ同じのを作ってみようよ。その時には、このポトフは鶏肉つかうから、鶏がらスープの素を小さじ1.5、塩も小さじ0.5足して、
煮込む意に、粒胡椒を小さじ1、それからローリエを入れよう。これで、かなり美味しく感じると思うよ。」
と言う事で、翌日作って貰ったポトフはちゃんと美味しかったし、嫁もこっちの方が美味しいと喜んでいた。
嫁には、「とてもいい本を買ったよね。作者さんは、基本的に味付けが薄めな人のようだから、作ってみて足りなければ工夫をする事も出来る。
それに、どれも足りないんじゃなくて、たまにそうってだけだから凄くいい経験になるレシピ集だと思う。」と話した。
あれから時間が経って、嫁が作る料理が美味しくないって事は殆どなくなった。プロの料理人としてはどうか知らんが、ベテラン独身生活者の免許皆伝だ。
まだ現代社会は男の方が力を握ってる社会であることは間違いない。従って、有名なレストランの顧客も多くは男性なのだろう。
こうなると、件のレシピ集を出版した女性料理研究家の素朴な味付けよりは、パンチを効かせる調味料を用いる方を好む客も増える事になる。
俺の嫁は俺の味付けの癖をしってれば、俺からの星はいくらでも貰えるし、既にスリースターシェフなのだが、多様な男性客相手ではこうはいかない。
件の料理研究家の料理に俺が星をつけることはなかったのと同じ様に、これまで星を得て来たレストランの基準に女性らしい基準が加わるのは簡単な話でもなく、
女性シェフがどれほど増えても何かが足りないと言われ続けるのかもしれないし、おそらくはそういった背景が一流シェフと言われる機会を少なくしてるのだろう。
1.3%って小さな数字には、女性の能力よりも、まだまだ男性社会なのだって事実が反映されてるんだろうなと思った。50年くらいは変わらんだろうね。
最近勝率いいんです。大体800局くらい半荘やって平均2.2位くらい。ラス率は今確認したら17%でした。
大抵東は耐えて南場から捲りトップ。振り返れば直放銃ナシみたいな局多くてなんかあるんかな思いまして。
てなわけで、最近麻雀やってて、「これ本当にあるなあ」思ったことがあったのでちょっとまとめてみました。小手先のテクというよりはもっと根っこの部分に当たる話かと。
「そもそも地運てなんやねん」て話ですが、天運とは逆のもので、育てて培われていく運のことです。ウンチじゃないです。チウンです。
運とついているのでオカルトに捉えられがちですが、要は自分の調子、集中力を最大限に引き出せているか、ということです。
局の最初からアンテナビンビンでピンピンロクとかアガりまくれてるならいいですが毎回そうとは限りません。
下記の4つを意識して局を進めることで、中盤から後半にかけて地運を育てあげ(絶好の状態に自分を持っていき)、勝ちを掴むっちゅうわけです。
1.まずは基本を身につける
2.小さいアガリでも掴みにいく
3.でも無茶な突っ張りしない
1.まずは基本を身につける
具体的には捨て牌読み、牌効率、点数計算などなど。麻雀やる上での知識的な要素をきちんと学んでから麻雀やろうって話です。
なんでもそうなんですが、戦術知らずに戦略練るなんて無理だと思うんです。
例えるなら「武器は誰かが落としたやつ拾えばええやろw」と丸腰で関ヶ原の戦いに参加するようなくらい、リスクあるもんだと思ってます。
そもそも、やり方勉強して試行錯誤、守破離して強くなっていくのが醍醐味であって、これやらずに「あー。なんかよくわからんけど勝った/負けたわあ」とか言ってて何が楽しいの?くらいに思ってます。
さて、本題ですが、基本が身につくことによるうまみは「相手を観察する余裕ができる」ことかと。
悩みながら切ったのか、思い切るような感じで切ったのか、他家のリーチ中に危険牌出してきたかなどなど。
これら相手の動作(それもどんな表情、様子でやったか)きちんと観察できていれば、聴牌時の危険牌がある程度読めるし、立直者以外にも警戒する必要があるのがわかったり、「そろそろこいつ聴牌しそうだから仕掛けて早めにアガッとこ」と打ち方決めたり、、
つまりは卓上の情報と絡めることで他家の手牌状況をより細かく推測できるし、それを基に早めにアガりに向かうのか、どっしり門前で聴牌目指すのか、はてまたオリるのか、ベストな打ち回し方を決めることができるわけです。
よくプロが仕掛けていても当たり牌だけビタ止めしたのが話題になってますが、あれは相手の所作や捨て牌も頭に入れていて、「あの牌は危険。なので引いたら絶対出さない」と予め決めながら打ってるからです。
麻雀において、これ来たら絶対出さないみたいに鉄の意思を持つの、結構大事です。
2. 小さいアガリでも掴みにいく
逆に小さいアガリでもいいので勝ちを重ねると自分の調子を上げることができると考えます。
気分を上げることで更に積極的に仕掛けて、次のアガリを掴むことができるわけです。(但し、調子に乗っちゃだめです。どんなに地運が高まっていても1回でもつまらんミスすると1発で崩れます)
手役にこだわったりとかしがちですが、でかいアガリ1発ではなく小さいアガリを重ねるメリットは、「自分があがることで相手のアガリをなくせること」です。
あとちょこちょこ鳴かれたりしてアガられると、相手からしたら結構神経にくるので、冷静な判断を鈍らせることもできたりします(相手の性格次第ですが)。それでヤケになってきたところをきちんとそれなりな点数で刈り取るのはあるあるパターンかなと。
*とはいえ南3局で全然点数ないのに1000点アガリとかはだめです。状況によってある程度は戦略変えることもあります。
3. でも無茶な突っ張りしない
2で書いた通り、たしかに攻撃は最大の防御ですが、無理な攻撃は逆に身を滅ぼします。このゲーム、アガリよりも振らないことの方が大事なので。
そのため、他家のリーチや仕掛け(特にドラポンとか染め手)に対して、間に合わないとわかったら徹底してオリます。この時大事なのが、他の人も意識したオリをすること。通ってる字牌を思考停止で切るのではなく、まずはひとまず安全なのがわかっている真ん中の牌から切る。他家から追いかけが入ってもきちんと逃げきれるオリをします。基本一度オリと決めたらもう攻めません。
*オリてるのに中途半端に攻めに転じたせいで放銃すると一気に調子崩すのでご注意を。
4.ミスをしない
オカルト的な話ではなくて、要はミスすると「調子が狂う」のです。
「つまらないミスで放銃してしまった…」と余計なことを考えるせいで本来の集中力が発揮できない、「またこんなミスしてしまったらどうしよう…」とビビってしまい、本来の自分の戦い方を崩してしまうことになります。
「そもそもなにをもってミスとするか」ですが、厳しめで判断してます。具体的には、
・読み誤った突っ張りによる放銃
・泣き逃し
・打牌選択誤り
・チョンボ
などなど。
てな感じで粗めですが今のところの考えまとめてみました。
ちなみに、たまにどうしようもなかった放銃を食らうこともありますが、この時大事なのは「引きずらないこと」です。ミスして放銃したわけではないので自分に非はないです。焦って取り返そうともしなくていいので、やれることをやるだけです。
通常の芸術とは何かを考える。心理学には『面白さ』とは『なんらかの予測が可能な時にその予測を裏切られるもの』という定説がある。この定説を元にすると、面白い芸術とはモチーフやジャンルといったような『予測のための型』の中に『不確定要素としての個性』が入り込んだものだと考えられる。守破離とはよく言ったものである。通常の芸術とはそういった共感性から人々を集めるものだ。
型とは共感性であり、秩序だ。そこから外れれば外れるほど、それは予測のしようがないものになっていき、最終的には『ランダム生成』のような無秩序に行き着く。
全く同一の前衛芸術を一般人と有名人が同じ条件で発表した所で名声を得るのは有名人の方に決まっており、その本質はソレを発表した人間の知名度でしかない。そこにあるのは『作品の共感性』ではなく『作者の人間性』や『人々の間での話題性』なのだ。
つまり芸術を評価する場合、評価の軸が対物的であるほど通常の芸術は評価され、対人的であるほど前衛芸術は評価されるはずである。
人と違うこと、つまり共感性の逆を行くということを評価するのであれば、サイコロや AI などを用いたランダム生成の作品の方がはるかに優れているということになるだろう。もし『そこに人間性が介在する』という前提もなしに前衛芸術に「作品としての良さがある」と語る人がいるというのなら、それはただの逆張りでしかない。そういった事に心当たりがある人は一度、本当に自分はこの作品が好きなのか考え直したほうがいいと思う。
とはいえ俺も元増田の言うように、大量の教材を持て余していた部類だ。小学生低学年の勉強なんて100点取るのが当たり前で、アスペ気味だが平均以上の学力があった俺は進研ゼミの教材なんてかったるくてやってられなかった。立派なゲーマーとなった今でこそ素振り1000回の重要性は心身共に理解できているが、8歳児の俺からすれば2回目の素振りですら苦行であり堪えられるはずがなかった。それでも高い金を払った親は少しでも元手を回収するべく半ば強制的に俺に教材を消化させようと奮闘していた。
https://www.catalina.ed.jp/wp-content/uploads/2018/04/EPSON0191.pdf
朧気な記憶から検索したが、今西祐行「一つの花」という作品だった。
問「そんなとき、お父さんは決まって、ゆみこをめちゃくちゃに高い高いするのでした。」このときのお父さんの気持ちを答えなさい。
今見ても割と難しい問題だと思う。当時の俺にとっては難しいを通り越して意味不明な問題だった。高い高いと空腹や貧困がどう結びつくのか?このお父さんは貧困に脳をやられてしまったのではないか?そもそもアスペ気味だという自覚すらない頃の俺に人の気持ちなどわかるはずもない。無理なものは無理だと見切りをつけた俺はさっさと解答を見た。
答「ゆみこに今自分が与えられるのは高い高いくらいしかないという気持ち」
その時俺に電流走る……!
当時の俺にとって正直こそが正義であり、ごまかしやはぐらかしをする大人はみんな悪だった。大人がはぐらかす時はだいたい自分のプライドを守る時か子供に余計なことを教えたくない時か単に知らない時だと、今でこそ言語化できるが、当時の俺はなんとなくそんな空気を嗅ぎ取って憎むべき悪だと思っていた。その憎むべき悪であるはずのはぐらかしが、教科書で肯定されているだと!?という衝撃がまずひとつ。
そして小学校低学年の国語教材なんて概ね素直なものだ。書いてあることを書いてある通りに理解すれば良い。言葉の裏を読む必要なんてない。ところがこの教材は高度な文脈の理解を必要としており、他の教材と比べても異質であった。小学校低学年にわかるわけがないと思った。これは俺だけじゃなくてみんな理解できないんじゃないかと思った。なんでいきなりこんなレベル差のある設問が?という衝撃。事実そのとおりで、後日学校でこの教材を扱う授業があり、先生が同じ質問をした時、それまで我先に手を上げて指名を欲していたはずの無邪気な同級生達は、しんと静まり返ってしまった。
その中で俺は恐る恐る挙手し、進研ゼミで得た通りの解を答え、先生から大いに褒められた。これが3つ目の衝撃だ。進研ゼミは悪魔の教材だと思った。「これ、進研ゼミでやった問題だ!」という言葉が恐怖とともにリフレインした。これは学習ではない。単なるカンニングだ。先生は俺がどうやってこの答えに辿り着いたと思っているんだろう?
今となってはこれも立派な学習だったと言えるようになった。小学生の勉強なんてコピペで良い。原理原則の理解も大事だが、守破離の守を徹底することもまた大事で、とにかく大量の型を身につけることが重要な時期でもある。あの衝撃があったからこそ俺は文学の楽しさを理解できるようになった。
だがその後しばらく進研ゼミの教材は俺のトラウマとなった。アレは禁断の果実だ。手を出してはいけない――。
今の俺は巨人の頭頂にのり引かれたレールを爆走し人類の集積知を貪り食う日々を送っている。それでも進研ゼミと聞くとあの日の衝撃を思い出す。
芸術にも歴史や文脈があり、その流れをぶった切って原点を標榜するものがパクリ。過去の歴史の積み重ねに、先人の仕事に敬意を払わないものがパクリとして糾弾される。
オマージュ、リスペクト、パロディ、フォロワー、インスパイアは歴史を紡いでいく。
庵野世代は「俺たちはコピーでしかない」という問題意識を抱えていたが、彼らはコピーではなくフォロワーだったので、次の地平を切り開くことができた。現代はマンガ・アニメも芸術としてかなり熟してきたので守破離の守が非常に長く厚くなっており、破離に到達する難易度が爆上がりしているが故の苦悩だったというわけだ。この傾向は今後もインフレする一方なので、作家はさっさと自分が誰のフォロワーであるかを表明してしまうのがクレバーな立ち回りになるかもしれない。その究極は徒弟制度なんだけど。
くどいほど多い
章とか節、ひとつひとつの終わりに必ずくどいぐらいの練習問題がある
あと、巻末とか別冊で大量の練習問題がある
原因が前者だけの人は単なる誤解や偏見なので損するわけだよ。
だって、受験勉強とか、スポーツで言うなら野球とかで特待生になるのと同じで、
社会に出て仕事で受験勉強や野球が役立たないとしても、社会的評価にはつながるわけで、
いわゆる学校の勉強、受験勉強も朝練があって、自主練があって、ひたすら身体にしみこむまで練習する、
練習すれば比例して勉強もスポーツも成績が上がり、社会的に評価されるんだから、
できない原因が後者の場合もあるけど、それはやってみないと分からないわけで、
逆に言えば、スポーツも勉強もできない、という人は理解できる気がする
それはどちらか一方が本質的に向いてないから、もう片方もできない
つまり、守破離の守の段階で、こんなことやって何になるの?と疑問を持ってしまう、投げ出してしまうとか、
あと、思い返すと、これが根本的に誤解を生む原因のひとつなんだと思うんだけど、
いわゆる「学校の教師」という人たちが、このことを理解できてない
というか、スポーツの方はスパルタというか、叩き込むべきだとは思ってる
しかし、学校の教師は、いわゆる学校の勉強、受験勉強も最初は叩き込むべきだと思ってない
おまんこしたいという考えには言葉も不要かもしれないが、プライベートと研究をごっちゃにしてるって相当だよな。
相対性理論の研究には言葉(及び数式)が必須だろうし、言葉がなかったらかりに1人の頭の中で理論が大成してもその理論をチームで共有して人工衛星などに応用したりすることはできなかっただろう。
全ては写経から始まるなんて言っちゃってるけどそれなら人類には無文字時代も言語自体無い時代もあったわけで、その過渡期では写経(復唱)自体が不可能だったはずだけど、ここらへんのことはどう説明するわけ?そもそも誰もが写経してもいわゆる守破離の破や離に至るわけじゃないはずで、この文脈での人によっては知能とか賢さとも呼ばれ得るものは、そのことを逆に考えることで先天的な才能(優位性)の一つとして想定されるものに過ぎないのだけれど、それと「知能は多面的で一面からジャッジできない」ってことは関係ないよね。俺は文章を作ることに対する先天的な優位性(写経による伸び代、と言い替えてもいい)を持ってる奴が賢いと言いたいわけじゃないよ。ただそういう優位性というものが人々の間に有って、俺にはそういう優位性はないと思うから努力することを放棄したいというだけ。
多かれ少なかれそういう優位性を持つ人が文学の歯車を回してきたんだと思うよ。誰にもそういうのがなくただ写経などを行っているだけだったら、どんなに時代が進んでも延々と同じような文章が作られ続けていただけだったろうね。
むしろ知的コンプレックスなのは同じツリーに数か月単位で居座って妙にレイアウト凝らせて長文書き散らしてるお前だよ。
どうにも知性を相対化することで自分は人より劣ってないと思わせたい節があるようにみえる。まあちょっと真似してみるか。
twe********さん
2019/6/27 23:47
迷路の最短経路の形態をとれる粘菌に知性はあると言えそうですが、「心」もあると言えるでしょうか?
ゆえない
モジホコリという菌の一種は判断力や記憶力、学習能力も有しているようですが、「クオリア」もあると思いますか?
ない
単細胞生物にも知性があるということは、知性が必ずしも脳に依存したものでは無いと言えそうです。
ゆえない
だとしたら進化は必ずしも結果というだけではなく目的因もあることになりませんか?
なるわけない(・o・)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14209757759
漫画って作者に応じて、その作者の新作を知らない状態のそれの一コマを見せられても、その作者だと分かってしまうような差異があるよね。
似たり寄ったりと言われる少女漫画でも俺は遠山えまとサカノ景子と桜乃みかの絵ならほぼ確実に見分けられる。
それぞれ端的に特徴を表現すれば、なかよし作家特有の幼い顔立ちに光る個性、順ヒロイン的な可愛さ、大人を描いても子供描いてもどこかにあどけなさが表現されていてなんか肌とかもちもちしてそう、という感じ(長文感想女みたいにはなりたくないしその才能もないのでこの辺で)。
漫画家はみんなこうやって自分だと見分けられるような絵が描けるようになりたいものなのかな。守破離で言うと破か離か。
でも同人誌とか見れるとこの人の絵だって分かるようになってるものの方が多かったし、逆に画風から個性を殺す方が難しい技術なのかもしれないとも思える。素人が上手い人の絵とか真似たつもりになってもどうしても人ぞれぞれ癖が出てしまうみたいな。
自分にとって庵野氏の作品がつまらなく思えるのは正しいのかもしれない
シン未見組だけど、高評価する人たちも不評の人たちも、
俺達の庵野が帰ってきた、
みたいな点では共通しているみたい
シンゴジラも含め、マンネリズムさえ感じるのは寧ろ当然であって、
リスペクトする過去の作品、オマージュ、パロディー、そこから新たな記号、お約束を作り出したわけで、
つまり、シンゴジラつまらんと自分が思うなら、それは庵野氏を卒業したというか、
他の何かを求めて自分が出ていくべきなんだろう
自分には庵野氏のように新たな記号、お約束を生み出せるような能力も運も何もない、
凡人以下のコロナで無職になったKKOであって、社会的にはゴミにも劣るかもしれない
そんな自分ではあるが、恐れ多くも御大、大先生の成果物に不満を思うというのなら、
それは単にnot for meであって、俺が自分のfor meを求めてさまよい続ければいい、
ただ、それだけの話なんだろう
それは学ぶは真似ぶであり、過去のコピーからスタートして、守破離の破、
庵野氏よりも若い世代だけど多分長く生きられないと思うのだけど、
社会的評価は別として、なんか自分なりに自分の人生にケリをつけなければならない、
例えば、自分に虐待された過去があったとして、それをマイナスに評価するのではなく、
その因果に何らかの自分なりの納得というか、決着をつけたいと思っている
それは単なる自己満足ではあるわけだが、そういった不愉快な過去とか、
そういったこれまでの人生の諸々にできるだけ決着をつけて、納得してから死にたい
そう思うようになった
他人の作品がつまらないというなら、おまえは代替案があるのか?
代替案はある、
つまり、商業的に社会的に成功するかではなく、自分ならこうするは明確にある、
繰り返しになるが、どことなく庵野氏は、その仕事としてはどうなのか?
というか、庵野氏より貞本氏の方が、特にオネアミスのBDだかのパッケージの絵とか、
できるだけ、昔の、スポンサーサイドに嫌われていた、
そうはいっても、作り手である若者たちは貞本氏のあの頃の絵に惚れて賭けていたとも思うわけで、
なんでエヴァみたいな絵柄を判で押したように描いたんだと思ってしまったのだけど、
自分がとやかく言う筋合いはないのだ
それより、おまえの、俺の到達点は、人生の到達点は何なのだ?ということだろう
私が人生に問うのではない、
人生が私に問うのだ、
人生に、運命に、運に、神に、なぜ俺の人生をこんな風にした?と問いかけるのが1つ目であり、
2つ目は、人生が私に、おまえは何を成し遂げられれたのか?と問うているのだ
そこには当然、仕方がなかった、怠惰と諦め、打算も入り混じっている
メディアが生存者バイアスというか、社会的成功者を持ち上げすぎる余り、
まるで、この社会に、世界に、何か正解があるように思い込んでしまう
「鈴木先生」のエンディングテーマで懐かしのナンバーを聞いたときはいい選曲だなって思った。素直にそう思った。
思春期の子供たちかれ見れば大人側であり体制側である年になり、反発される側にはなったという自覚もあるけれど。
「ログ・ホライズン」で「若者たちは産まれなおすのだ。」というセリフを見て妙にしっくり来た気がする。
武術などで修行の段階を示す話に守破離という言葉があるけれど、親が敷いた「正しいとされる制度」を守る段階からそれでは解決できない問題を解決するために破る段階に入り、自分のものにしていく、「15の夜」に出てくる「行儀よく真面目なんてくそくらえと思った」なんかはまさにそれだなーって思う。
まず、コンピュータゲームがほとんど巷に存在しない時代にPongが登場すれば、そりゃみんなゲームにワクワクしたはず
アメリカにアーケードゲーム筐体だってそのものがない時代なんだから
だからスティーブ・ウォズニアックだってApple IだのIIだのでPongの実装はやっていたはず
それもスティーブ・ジョブズは売りにしてたはずだ
Pongが動作すると、次はブロック崩し(Breakout)が作れる
プログラミングのコツの一つは他人のプログラムを改変することだ
Pongが動くなら、そこからドットやドットの塊をVRAMに描画することは可能だと気付くだろう
でも、単なる壁打ちや対戦ゲームだったPongのゲーム性を大きく変えることになる
日本のゲーム企業タイトーは、このブロック崩しをインベーダーゲームに「再々」発明した
これも実現可能であることは誰でも分かるが、ゲーム性を大きく変えることはある種の発明だと思う
ちなみに、孫正義はタイムマシン商法が得意で、このインベーダーゲームをアメリカに輸出し大儲けした
相変わらず、左から右、右から左に他人のものを移動して儲けるのが上手い(いや、本心から褒めてるんですよ
インベーダーゲームでは、ブロックは上から段々と降りてくることになる
また、ブロックが左右に動く、UFOは高速に動く、手前のバリケードがありドット単位で破壊される
プログラミングのコツの一つである、他人のコードを改造する、は本当に素晴らしい再発明を起こしてくれる
Pong → ブロック崩し → インベーダーゲーム → ギャラクシアン → ゼビウス → グラディウス → 斑鳩だの東方だの弾幕避けだの何だの
に繋がっていくわけだが、
この矢印での「パラダイムシフト」の段差が高いほど、ゲームに対するワクワク感が増すと自分は考える
つまり、ギャラクシアンのようなグラフィックからゼビウスが登場したときは、
安っぽい言葉で形容するなら一大センセーションというかエポックメイキングという感じだったわけだ
しかし、今の時代、2Dシューターにそんなにワクワクはあるだろうか?
というか、マニアでない奴が口を挟むな、と言うぐらいタコツボ化しているように思うのだが、
寧ろ、様式美とかお約束が守られてることがプレイヤーの安堵感につながる
2Dシューターができれば3Dシューターが作れるのも自明である
ただ、マシンのグラフィクスの能力が低かった時代にはリアルタイムでの3次元CGの実現が難しく、
アメリカではベクタースキャン、つまりオシロスコープやブラウン管テレビの走査線方式が主流だった時期もあったが、
アメリカではワイヤーフレームの3Dゲームが実現していた時代、日本はファミコンに向かっていた
自分にはハードウェアによるスプライトに固執し、束縛され過ぎているかのように今からすると思える
一方、ファミコンのスプライトの数はMSXと比べると段違いであったが、
ファミコンは2Dスプライトベースのゲームだけを前提としていた
つまり、ファミコンでブレゼンハムのアルゴリズムによる直線を引くとか困難だったのではないだろうか
自分はファミコンの開発はよく知らないのだが、ファミコン版のテグザーは酷すぎると思った
MSXの方がファミコンよりもトータルのグラフィック性能が劣るにも関わらず、
こうやってだらだら書き連ねてみると、
つくづくワクワクするのは何だってアーリーアダプターの段階であって、
そのあと結婚だって何だって倦怠期?ワクワクが減少する時期がやってくるのである
何もない状況にパラダイムシフトを起こす何かがやってくるとワクワクするのであるならば、
乳児はこの世界の何もかもにものすごくワクワクしていると思われる
乳児でなくなると、この世界の変化しないものは常識として脳に定着して、つまらないものにさえなる
でも、若ければまだまだ体験していないことはあるわけだ
若ければギャラクシアン → ゼビウスがどれだけスゴかったかなんて知らんし、俺も知らんw
でも、ギャラクシアンより先にゼビウス見た世代だけど、凄いなあとは思ったんだよな
だって、自分の場合はギャラクシアンを飛び越えてゼビウスだったんだから
逆にギャラクシアンの方を後から知って、古臭いゲームだなー、レトロだなーと思ったんだから
(ただ、ギャラクシアンの曲線的な軌道はゼビウスなんかより凄い発明に思うんだが。整数演算なんだよね?
ただ、レトロレトロとバカにする人はプログラマーでないとかなんだろうけど、
ゼロからコード書くって、何もないところから作ることを考えさせられるわけで、
それはゲームのプログラムを書くならば、ゲームの基本のPongから考えさせられることになる
例えば、ゲームプログラムを書くときSDLとかSFMLみたいなライブラリは使うかもしれないけど、
自分も何か新しいゲーム開発のライブラリとかフレームワークとか検証するときは、
から始めて、次に倉庫番、簡単なブロック崩し、テトリスを実装するとかやることにしている
そこで開発の大まかな進行とかフレームレートとか、色々分かってくるわけだ
ジョン・カーマックがどこで語ってたのか忘れたけど、最近のFPSは完全にMOD開発になっていて、
そのMOD開発の費用はどんどん膨らんでいっていると言ってた気がする
つまり、レベルエディットとかキャラクターだアイテムだとか、そういうコンテンツの緻密な開発だけが進んでいる気がする
GTAみたいなゲームもFPSとかで培った技術の集大成にすぎない
可視領域をどう区切るか?遠くの建物にLODを使うか?インポスターを使うか?とかそういったゲームエンジンの話は、
マシンパワーの向上やUnityなどのゲームエンジンの登場であまり議論する意味がなくなってきている感がある
もっとも、Unityなり導入すれば簡単に作れるという話ではないと思う
思うが、もうゼロからチマチマCのベクトル計算のコードを書く時代ではなくなっているのは確かだろう
カーマックはその高騰するMOD開発をマインクラフトは意図的に安価にしたと言ってた気がする
つまり、マインクラフトであれば子供でもゲームを改造する体験ができるようになる
それはマインクラフトの開発者であるnotchがそういうゲーム開発に対する思想を持っていたからだ
私はnotchはシンプルなものを積み上げるのが好きなように思っている
ただ、jsdo.itだかに投稿していたソフトウェアレンダリングのコードは北欧のメガデモっぽさがあって、
読もう読もうと思って未だに読んでいないことを今思い出した
文章書き直す気がないまま、だらだら書いてみたが、読み返して自己分析するに、
まず、ゲーム開発でなくてもそうだが、
まず何かがあって、それをコピー改造した何かが生まれる、この連続で物事は進化していく
手塚治虫があって、それを高橋留美子がコピー改造して新しい漫画が生まれ、
次に若い漫画は高橋留美子の漫画をコピー改造して、また新しいものが生まれていく
開発する側も消費者もワクワクするのは、この改造して新しい何かが生まれる、守破離の離のインパクトであろう
黎明期はその離のインパクトが大きいが、どんどんそのインパクトは小さくなっていく
そして、ありふれたものが溢れるようになっていく
これが成熟期と言える
しかし、その成熟期に溢れるものは様式美であり、お約束であり、マンネリズムである
あの時代は3DOが先行したがコケたり、ドリキャスも登場してコケたり、面白い時代だったのである
ただ、今の時代にああいう群雄割拠というか、戦国時代というか、そういう活気がゲーム業界にあるようには思えない
VR元年って毎年言ってない?というツッコミは分からんでもないが、まだまだVRは伸びると思う
物体を触れないなんてのはまだまだVR市場が伸びる余地があるということだと思っている
あと、FPSみたいに走るゲームだと自分も走るのか?ということになるけど、うーん、ルームランナー方式はなあ…
あと、これも自分は専門でも何でもないので、
というか、この文章自体がダニング=クルーガーなのは認めざるを得ないわけだけど、
敵というかNPCというか、今の時代だったら高度な汎用性のある人工知能をゲームでも実現するべきだと思うわけで、
そうすれば当然、同じセリフを延々と喋るドラクエの村人みたいなのは笑い話にしかならなくなる
ゲーム内に高度な人工知能が実現すれば、それらと会話したり、それらとマルチプレイと同様の感覚の連携プレイが可能になる
今までと同じことを繰り返しててもワクワクしないし、