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はてなキーワード: 学生寮とは

2021-11-11

困窮学生を生み出さないために普段からやってたこ

学生寮を作らない

キャンパス無駄に近場で暮らしにくいような場所に作る

教育研究コスト受益者負担という名目ガンガン削る

2021-11-09

anond:20211109132706

ペットボトル入りの飲み物は、俺が学生だった80年代後半にはあったぞ。ペットボトルという言葉を知らずに買って帰って学生寮で飲んでたら、誰かがそれをペットボトルと呼んで話しかけて来たので初めてその言葉を知った。

以下、 Wikipedia から引用

デュポン社のペットボトル1974年ペプシコーラ飲料容器に採用され、世界初ペットボトルの応用例となった[2]。

日本では当初は食品衛生法PET樹脂の記載がなかったため清涼飲料用には使用できなかった[2]。1977年キッコーマン吉野工業所がしょうゆの容器を開発し、その後1982年飲料用に使用することが認められ、同年より日本コカ・コーラ(1983年から全国展開)、1985年からキリンビバレッジ(当時麒麟麦酒)が1.5リットルペットボトル入り飲料を発売。以来、多くのメーカーで使われるようになり、それまでガラス瓶入りが主流であった1リットル以上の大型清涼飲料の容器はペットボトルに取って代わられた。

2021-10-28

地元愛や郷土愛って絶対必要ものなのか?

どうせ日本なんて都道府県魅力度ランキングという単一物差しで作られた出身カーストがあるからランキング下位の出身なんてもはや穢多非人みたいな扱いなんでしょ?

そんななんの魅力もないところの人間地元が好きだとか言っても結局「必死だな」とか「何もないでしょ」とか嘲笑されて終わりだし。別にこっちだって自ら望んでこんなところの出身になったわけでもないのに

自分県人会学生寮にも住んでいたけど色々と旧態依然だったしクソ田舎はいつまでたってもクソ田舎なんだろうなぁ

2021-10-26

anond:20211026201349

学生寮に住んでた時のことだが、朝起きたら足下に見知らぬ猫が寝ていたことがある

もう20年以上前のことだが

2021-09-26

学生寮にもどりたい

暇なので誰か構ってくれないかと思うけど、こういう時構ってくれるタイプの暇な人間は大抵こちらが忙しいときもやたら連絡を入れてくる。

それに知らない人間とまた一から関係性を構築するのはめんどうだ。

面倒だから、こうやってここにひとりごとを書いているわけだが。

学生寮にもどりたい。

学生寮は、ひとりになりたいときはひとりになれるし、ひとりでいたくないときは大抵誰かがいる。

食事も出てくるし、まあ、喧嘩をしたりはあったけど。

2021-08-21

愚痴吐き出し

仕事の都合で単身マンションに住んでるが、ウチを挟んだ両隣がどうやら同じ会社の借り上げ社宅

しかも妙に仲のいい同僚同士で土日になると深夜から早朝に行き来して喋り倒しててうるせえ

てかこのマンション2020年竣工だったんだから会社も連室で借りろよ

せっかく設備や防犯考えて相場より1万高い部屋にしたのに

表向きはまともな社会人達がやってるわけだから運が悪かったとしか言いようがない

一度姿見た事あるけどかなり若かったし、向こうは学生寮の延長ぐらいの気分なんだろうな

どうせ定住するわけではないが安くない賃料でこれは腹立つ

2021-07-02

習近平さんの講話日本語訳

6月25日午後には、党中央政治局委員(トップ25)を全員引き連れて、北京西郊北京大学に乗り込んだ。ここの「紅楼」で開かれている「光輝な偉業、紅色の序章―-北京大学紅楼と中国共産党早期北京革命活動主題展」を参観するためだ。

 後述するように、100年前の中国共産党指導者たち――陳独秀、李大釗は、北京大学拠点にしていた。中国共産党創建は、1917年ロシア革命1919年の大規模抗日運動「五四運動」が基点になっているが、「五四運動」は北京大学が「震源地」となっている。私はかつて北京大学留学時、構内の学生寮一年住んでいたが、5月4日大学創立記念日になっていて、特別な日である

 習近平一行は続いて、豊沢園の毛沢東故居を参観した。毛沢東主席1949年9月21日(建国10日前)から17年、仕事生活の場にしたところだ。

 毛沢東主席を崇拝してやまない習近平総書記は、そこに飾られた毛沢東の服や読んでいた本などを、感慨深げに見つめていた。そして24人の中央政治局委員を狭い部屋に入れて、またいつものように後ろ手に組んで、腹を突き出し説教を始めた。

 さらにまだ言い足りなかったのか、中南海(最高幹部の職住地)の懐仁堂へ戻って、再び長い重要講話を行った。その要旨は以下の通りだ。

 「紅色こそが中国共産党であり、中華人民共和国の最も鮮明明瞭な色だ。わが国の960万㎢あまりの広大な大地に、紅色資源は星の如く流布している。わが党が団結して、100年の努力の偉大な歴史過程の中で、紅色血脈を代々継承し、中国人民を導いていくのだ。

 第18回中国共産党大会(2012年11月開催で習近平総書記を選出した)以来、私は地方視察を重ね、わが党の重大な歴史的意義を持つ革命聖地紅色旧跡、革命歴史記念場所など、主要な場所をあまねく仰ぎ見てきた。どこへ行っても、栄光歳月再確認し、党の苦難の歴史を回顧し、心が震撼し、精神的な洗礼を受けてきた。

 中国共産党はなぜ能力があるのか、中国の特色ある社会主義はなぜ素晴らしいのか。それらは根本的なことを言えば、マルクス主義が正しいからだ。われわれは党の100年の努力歴史から、真理のパワーを悟り共産党執政規律社会主義建設規律人類社会発展の規律への認識不断に深化させ、マルクス主義を用いた真理の光芒が、われわれの前進していく道を照らすのだ。

 全党は終始、理想の信念を堅持するよう教育し、導いていかねばならない。革命理想は天より高いのだ。100年の党史を振り返れば、千々万々共産党人は、理想の信念を頭に抱き、鮮血を撒き散らしてきた。共産主義はわが党の遠大な理想であり、この遠大な理想を実現させるため、必ずや中国の特色ある社会主義の信念を固めねばならない。

 新時代中国の特色ある社会主義の新たな勝利不断に奪取するのだ。全党の同志は党の100年の努力歴史の中から初心の使命を悟り人民を中心とした発展思想をうまく貫徹し、中華民族の偉大なる復興の実現のため、初志一貫で奮闘するのだ。

 全党が終始、教育的指導で自己革命の推進を堅持するのだ。わが党は100年の風雲を経て、依然として繁茂している。その奥義は具体的な自己浄化自己改善自己革新自己能力の強大化にある。自己革命精神は党の執政能力の強大な支えだ。

 政治性、思想性、芸術性を統一させ、精品を作り出すのだ。史実説話を用い、表現力と伝播力を増強し、生き生きした紅色文化を伝播させるのだ。革命建設改革の各歴史の時期の重大な事件、重大な節目に関する教育を強化しなければならない。

 確定した重要標識の地を研究し、党の物語革命物語英雄物語をうまく語るのだ。それらを青少年の特長が認知された教育活動合致させ、潤沢な特色ある革命伝統教育愛国主義教育青少年思想道徳教育吉を建設し、彼らが小さい頃から心の内に紅色理想樹立できるように導いていくのだ」

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/84619

2021-06-24

二度寝したときに変な夢を見ることが多い。

今日は、なぜか自分実家のようなところに済んでいて、そこのお手伝いさんとして中学のころ仲の良かった女子が働いてる様子だった。

その人に対してどう接すればいいのかわからないので、なんか居心地の悪い生活空間になっていたなぁと思う。

2日くらい前には、学生寮に住んでいる設定で、けどその学生寮がなぜがとてつもない広さで、部屋に帰れず道に迷っているところだった。

だれかと一緒にいたけど、それが誰かはわからない。会話はしてたのに。

30分程度の二度寝で思いっきり夢を見る。そうするととてつもない疲労感に襲われるので、本当はやめてほしい。

やめてほしいって言っても、別にコントロールできるものでもないんだけどね。

適応障害発症してから朝起きるのがとことん難しくなってきてるけど、はやくそれも治まるといいなぁ。

2021-06-18

住民票実家から学生寮に移していない学生さんは、やはり田舎へ帰ってワクチンつのだろうか

2週間後の同じ曜日に再度打つ必要があるから2回も帰省しなければならないような

その前に2週間の隔離

2021-05-24

学食とか学生寮カレーがたべたい

あの、なんの変哲もないなんのこだわりもないただのカレー

あいうのが食べたい

2021-04-30

昔住んでいた学生寮には当番があって 宅配物を本人の代わりに受け取って保管しておくという 人力宅配ボックスみたいなことをしていたのだが

ある日 当番に入ると 寮に住む学生のひとりが バイク交通事故で亡くなったという電話が 寮長にかかってきた

そのときちょうど 宅配の人が来て 受け取った荷物は ちょうどその彼のために 親御さんが送ってきてくれた 仕送り段ボールだった

ことなく親近感のある 宛名の筆跡を眺めながら ただ呆然とする 親御さんが目の前にいるようで そして かける言葉もない気持ち

私はロボットのように その段ボールを いつもどおり棚にしまい いつもどおり帳簿に記録して 無念でしたねと その段ボールに 心の中で呟き

受け取り手を失って 迷子になったその気持ちを どうしようもできないまま そんな話は聞かなかったと 自分に嘘をつくことしかできなかった

ごめんなさい

2021-04-28

首を吊ってる母親を、自分の手でドアから降ろした話。

これも結構前の話になる。

「そういえばあの時、どんな気持ちだったっけ?」と思い返す機会があったので、折角なので文字に書き残しておきたい。

そうすれば胸に落ちるものも、もしかしたらだけど多少はあるんじゃないのかな?って感じで。

内容が内容なので、少し長くなるかもしれないけど、お暇な方がいらっしゃいましたら読んでやってください。

あんまり仔細に年月日を狭めすぎるとアレなので、時期は今から7年ほど前。

ちょうど今のような、若干寒さも落ち着いてきたかな?ってぐらいの春頃のお話だと思って下さい。

当時の俺は大学入学したての、ピカピカの一年生でした。

兄の方がとても優秀だったんで、随分と見劣りはするけれど、俺の通っていた高校レベルからすれば「まあ頑張ったんじゃないの?」程度の大学へと入学

その筋のマニアには結構有名な、二郎インスパイアの名店が近くにある登り坂の長い大学ですね。

あれは本当に数少ない良い思い出です。メチャメチャ美味かったな。店狭いし、オッサン怖いし、汚いけど。

オススメは小ラーメン・麺少なめ・ニンニクマシ・アブラシマシです。

しか高校まではチャリ通で10分だったところが、電車を乗り継いで1時間半になったのは本当によくなかった。

職場学校は、絶対に自宅から近い場所を選びましょう。近い場所にないのなら、あなた引っ越ししまいましょう。(経験則

そんなこんなで深夜までゲームやらアニメうつつを抜かしては、中途半端時間に目覚めて、一限は余裕でアウト。

気付いた母親に叩き起こされて、仕方なく起床。もそもそと着替えて、遅刻前提の移動。

それで素直に大学まで向かえばいいものを、「途中で行くのも面倒くせえな」と地元カラオケで朝割フリータイムしてたり、本屋立ち読みしてたり。

入学当初からそんなんだから、とにかく授業内容は良く分からないし、眠くて眠くて仕方なかった。

何よりも人見知りだったもんで、良くも悪くも自由大学形式の授業とサークル活動に、いまいち馴染めずにいた。

大学は少中高と違って、能動的に働きかけないと友達はできないもんなんです。あの頃の俺に教えてやりたい。本当に。

夢見ていた大学生活は、俺にとってはただの眠気との闘いに成り代わっていたのである……。

そんなんで仲の良い友達全然いないもんだから、授業サボりまくって、図書施設ビデオ設備で「ロード・オブ・ザ・リング」とか「戦場のピアニスト」とか見てたな。

いや、完全に余談でした。すみません

とにかく、こんなカスの具現化みたいな大学生活を送らないよう、新入生の皆さんは頑張ってください。

話を戻します。

俺が小学校に上がるぐらいの前に、うちの母親は一度離婚している。だから俺は種親の顔をほとんど覚えていない。

自分ママとパパと話すけど、ふたり全然しゃべらないなぁ」とか「やたらと関西実家に行ったり、親戚の子がうちに来るのはなんでだろ?」とか。

そんなことを子供ながらに思ってたんだけど、今思い返せばそういうことだったんだと。

そんなこんなで気付いたら第一父親が消えて、俺が小学校二年生ぐらいの時に、新しい父親が来た。

第二の父親は、俺は子供ながらに「良い人」だと思った。

そりゃ向こうも腹を据えて、血の通ってない兄弟二人を抱えるわけだから、多少の上っ面は確保してくるには違いないんだけど。

一緒にお風呂に入れてもらったことが嬉しかったのを覚えてる。そんな第二のお父さんの背中には、ご立派な龍のモンモンが彫られていたけど。

仮初でも、その人は優しくて良い人で、色んな場所に連れていってくれたりした。なんかホテルが多かったな。海ほたるとかもよく連れていってもらった。

多分これまでの人生25年、その人が来てからの数年が一番幸せだったんじゃないかな?

中学に上がる前ぐらいの、それぐらいの間。ホント幸せだったと思う。ボンボンボンボンで、当時Xbox360COD4ネット対戦してたの俺だけちゃうレベルで。

母親も、その時が一番楽しかったんじゃないかな?

俺も兄貴母親父親も、心から「家族」を感じてた最後の瞬間だったと思う。

で、俺が中学に上がった頃に、第二の父親が手掛けていた事業が一気に傾いてしまったと。

これは直接見たわけでもなんでもないけど、父親の元同僚の方に聞いた話なんで、間違いないことだと思います

首の回らないレベル借金も抱えることになったと。

そっからの酒乱っぷりたるや本当に凄くて、中学生ぐらいになると俺も兄貴も(特に俺は)夜更かしをするようになってるから

ベロンベロン状態で帰ってきた泥酔親父に、子供相手に何を言い出すねんみたいな絡み方をされだして。

うわぁ、イヤやな……って、毎日夜になる度に鬱になってたのを思い返します。寝てたら寝てたで起こしにくるし。逃げようないやん。

そんな紆余曲折を経る中で、第二の親父が俺に放った言葉

「お前なんて、オレの本当の子供じゃねえんだからな?」

この一言が本当に忘れられなかった。シグルイのあの人ばりに、(この傷は二度と戻らんな)と泣きながら感じたのを覚えてます

しかもこれ確か、母親の目の前だった気がするんですよ。なんか二人で揉めてて、俺が仲裁に入るじゃないけど、間に入ろうとしたらこうなったみたいな。

酔うと貯め込んだ本質が出るタイプの人っているじゃないですか。つまりはそういうことだったんだな、と。

それ以降、父親と心を通わすことは一切なくなった。もちろん話したりってことはあるけど、他人みたいなことで。

そんなこんなで、それでも気付いたら中学生になって、高校生になって。

第二の父親は家からはいなくなって、お金だけを入れながら、たまに連絡を取るぐらいの関係になって。

こっからはもう蛇足なんで、ちょっと飛ばし飛ばし

小中校まではすごい楽しかったんですよ。面白い友達もいたし。なんで急に大学ダメになったのか、不思議だなぁ。

母子家庭あんまり余裕のある生活じゃないけど、塾にも行かせてもらって、奨学金も出る。

大学にも行けるんだと思えば、ちょっとぐらいの家庭内のゴチャゴチャがあるぐらいで不幸ぶんなよ、俺よりひどいやつなんて山ほどおるぞと自分自分を戒めたりもして。

そして母親の様子がおかしくなりだしたのは、このあたりだったと思います。ちょうど俺が大学受験を終えたぐらいの時分。

深夜、お腹すいたなーと思ってリビングに行くと、母親ワインと大き目なビニール袋みたいなんを用意してて、一人で黙々と飲んでて。

で、ちょっとなんか変な感じがして、母親の目から。据わってるって言えばいいのかな。とにかく、明らかに普通じゃないけど、普通を装うとしているのが伝わってくるような、そんな感じで。

無言でいるのも変なので、「なにこれワイン?家での飲んでるの珍しいね、いいやつなの?」みたいなことを訊いた覚えがあります

うちは父親の件もあったので、母親とはすごく仲良しだったから。

思い返せば、極度のマザコンだったんだと思います特に兄貴が遠方の大学にいってからは、実家には俺と母親の二人だけだったから。

とにかく変な雰囲気だったから、「お酒家で飲むの初めて見たかも!俺もひとくちもらおっかなぁ」みたいな、おどけてなんとかしようみたいなムーブをした記憶があります

「いいよいいよ。飲んでみな」と、母親が余裕で許可をくれたことも結構意外でした。酔ってたのかな?分かんないけど。

ド深夜、テーブルライトだけつけたリビングの机、ワイングラス、謎の大きなビニール袋。

なんかすげえヤバイことになってんのかな?と。

なんでだろう、このあたりから薄々感じ取り始めたというか、そんな気がしました。今までにこんなことなかったよな?って。

そして寝て起きたら、横に母親がへたりこんでるんです。体育座りを右斜めに崩したみたいな恰好で。

俺は一瞬、本気で死んでると思った。でも慌てて抱き付いたら、ちゃんと体温も呼吸もしてたので、本気で安心したのを覚えてます

えっえっ?ってなって、どうしたん?って聞いたら「いや、ちょっと……」みたいなことで、手元を見たらスカーフ?とハンカチを束ねて作ったような、首吊り用の縄?があって。

正直ワインときから厭な予感はしてたから、メチャクチャ驚いたし、なんで?ってなった。

「それはだめだって、それだけはだめだよ。これからどうすんの?」って泣きながら問い詰めた記憶があります

人間、本当に近しい人であれば、ちょっとした行動から、「なんとなく自殺しそうだ」というのが分かるものなんだって思いました。

マジでここらへんの記憶が、ずっと頭からこびりついて離れない。身体を下ろした時よりもキツかったかもしれない。

未だに良く分からない。要するに母親は、部屋のドアノブに縄を引っかけて、首吊り自殺をしようとしたんだと。

しかも俺の部屋のドアノブだった。誰のだったらいい、ということじゃないけど。この時には、兄貴はとっくに外に出ていたはずなのに。

首元を見たら、真っ赤っていうか、うっ血したようなアザになっていて、「失敗しちゃった」みたいなことを半笑い、作り笑いで言っていたような記憶があります

未だに後悔しています

あれだけ明確に希死念慮を見せていたにも関わらず、なにもできなかった。

母親がこのとき、俺に助けを求めていたのかは分からない。あるいは本当のショックを与える前に、「私は死ぬからね」という予告をしたのかも分からない。

兄にも周囲にも連絡をしなかった自分の愚かしさ。せめて身内だけには言うべきだった。

でも、言ってもどうにもならないんじゃないか、言われた側に負担を強いるだけになるんじゃないかと、どこかで想ってしまっていたのも事実です。

母親自殺をするかもしれない。どうか助けて下さい。」この言葉を俺はいったい誰に伝えればよかったのか、いまでもわからない。

救い方があるとしたら、それは俺がどれだけ母親が好きで、愛していて、感謝しているかということを、心変わりするまで何度でもいうことしかなかったんじゃないかと。

ある日、大学に行った。四月の上旬。はっきりと覚えてる。

ちょっと早めに授業が終わったのか?サボったのか。正直どっちでもいいけど、俺は家に帰った。

なんだかすごい胸騒ぎがしてた。兄も俺も家にはいない。家にいるのは母親だけ。

ただいまとドアを開けた瞬間、やはり自分の部屋の前で、足元に椅子を置いて、スカーフで作った縄を首にかけて、うなだれて扉にもたれかかる母親を見つけた。

凄まじい衝撃と同時に、「やっぱりこうなった」とどこかで思う自分がいた。

首にかけているスカーフ素手では取れなかったので、キッチンからハサミを持ってきて、片方の刃で切り落とした。

抱き抱えた母親身体は、思い返せば想像よりもずっと軽かった。

「誰か、誰か助けてください」と今までにいったことのような言葉を金切り声で叫びながら、居間の上にあおむけにさせて寝かせた。

そして震える指でスマホをうって、まず兄にコールした。

兄は大学二年生で、本来なら学生寮にいたはず。この日はたまたま里帰りをしてきて、何かを読みに本屋にいってくるといっていた記憶がある。

しかすると母親は、この日を待っていたのかもしれない。兄弟が揃う日じゃないと死ねないと思ったのか。分からない。

ママが首を吊ってた。いま俺が下ろしたけど、意識がない。救急に連絡するから、すぐに帰ってきてほしい」

と言って、すぐに電話を切った。兄は「わかった」とだけ言っていたような気がする。

家の場所を伝えて、どうか助けてくださいというと、すぐに救急車と救助隊の方々が来た。

俺は人命救助の方法とかがまったく分からなくて、もしかすると心肺蘇生とか、胸骨圧迫とか、本当はいろいろなやりかたがあって、

待っている間にそれができていれば、母親を助けられたんじゃないかと思う。

でも本当に現実現実として受け止められてなかった。頭がヘンに冷静だったのは、「こんなことになったけど、きっと助かるよな」と無根拠に信じ込んでいたからだと思う。

ここではどうにもならないから、と救急車に乗り込んだ。

ハサミで深く切った指から血が流れていることに気付いた。痛みはまったく感じなかった。

俺「こんなんなっちゃったな」

兄「俺、これからどんな顔して顔あわせればいいかわかんないわ」

俺「そうだなぁ」

こんな会話を、兄弟で悠長に会話していたのをハッキリと覚えています

ここまではすごくハッキリ覚えているのに、ここから先があいまいなのが不思議で、不思議で。

確か夜の病棟に運ばれて、「自意識が戻る可能性はない」と言われたこと以外は、実はほとんど覚えてないんです。

翌日の病室の面会で、意識のない母親を前に過呼吸になるぐらいに泣いてしまたことを覚えてます

そして「自意識が戻る可能性はありませんが医療を続けますか?」というような旨を医師の方に伝えられて、「もういいです」と伝えたことは覚えてます

そしてずっと病院に居るわけにもいかいから、家に戻って、母親のいない家で過ごして。

三日後か四日後、電話の連絡で「お母さんは亡くなりました」と同僚の方から連絡をいただきました。

母親の死に目に会わなかったのは、自分にとって幸運だったのか、不運だったのか、未だに分からずにいます

からない、本当に今でもわかりません。

あのワインの日から自分に何が出来たかをずっと考えています

間違いなくサインとなっていたあの日ちょっとでも行動を起こす勇気自分にあったのなら、もしかすると母親は今も生きていたのかと。

2021-03-09

共立メンテナンス社員寮を打診された

小さい会社社長との距離も近く、その社長から提案された。

遠方から出てきて一人暮らしをしている女性社員は私くらいなので、すごく気にかけてくれている(もう一人の母だと思ってほしいと言われている。それは流石に無理だけど)

食事がついていたり管理人がいたりという点で、安心なんだろう。

家賃は2倍になるけど、その分給与を上げると言われた。

入寮にあたってかかるお金は、たぶん春のボーナスを充てがうことになる。

居住スペースこそ狭くなるものの、風呂ユニットからパレートになったり、トイレが温水になったり、万年からベッドになったり、何よりカップラーメンから一汁三菜になったりと、生活水準は間違いなく向上する。

テレビ(というかもはやディスプレイ)やPS4Switchやゲーミングノート×2を置く場所があるかについては、まぁ、見学しないとわからない。

せっかく揃えた家具家電の大半を手放さなければならないのは非常に悲しいが……まぁ、そういうこともある。

ただ、よくよく調べてみたら、どうも学生寮も兼ねているらしい。

今春オープンなので、入寮する学生ほとんどが大学1年生だろう。

一方の私はそろそろ三十路看板が見えてくるくらいの年だ。

10近くも離れた子たちと、果たして共同生活が送れるのか……甚だ不安だ。

そして何より、現在住んでいるマンションは今月が契約月。

その社員寮は、3月中の契約家賃の割引が適用される。

…………間に合わないと思うんだよなぁ

2021-03-06

大型シェアハウスに住みたい

清掃業者が入って、自分が片付けるスペースは最低限でよくて、学生寮感覚で住めるんでしょ?

2021-02-03

大学行ったら金持ちいっぱいいてびっくりした

田舎のちっちゃい村出身高校で隣の市に出た

大学で隣県の旧帝大に行ったんだけど、同級生に「旧華族の子息」「社長の息子・娘」「親が上場企業役員」とかいっぱいいてびっくりした。

同級生の親なんていままでは工場勤務、農家公務員教職医療職含む)しかいなかったから、親と一緒にオペラ見に行く話とか、弓がサラリーマンの月収くらいするバイオリン習ってる話とか、趣味乗馬ゴルフって話とか聞いて目ん玉飛び出そうになった。そうかと思えば光熱水費込み5000円の左翼学生寮に住んでる貧乏なやつもいるんだよな、国立から。おれは3.5万の1Rだからまあ恵まれてる方。世の中ほんと不公平だ。

2020-12-16

いよいよテレビバグってきた

Go to中止の影響はこんなところにも!といって、学生寮取材

学生に対し年末年始帰省はどうするかを聞く。

学生Go toをあてにしていたと返答。

テロップにて「新幹線は通常35000円と高額」と出る。

そこに学生を含む家族写真が挿入され、家族仲の良い姿がテレビに映し出される。

学生Go toがないと厳しいけど、今年は帰省します!と宣言

学生には厳しい現実ですみたいな感じで次の学生にシーンが移る。

以下、ひどいポイントを列挙

普段Go toなんてないのに、35,000円を高額とするのは単なるJR批判

・もともと感染拡大を防ぐためにGo toを中止したのに、帰省する学生をうっかり放送してしま

・大体にして、Go toが感染を拡大させていると批判したのもマスコミで、学生マスコミ被害者

・結果として、感染拡大を防ぐためにGo toを中止したにも関わらず、ふるさと恋しさに実費で帰省を強行する学生を吊るし上げる構図になる

ふるさと思いの優しい学生Go to中止で苦しんでいる姿を流したかったんだろうなと思うんだけど、まさか真逆の構図に。

新橋駅前とかのインタビューも、マスコミ恣意的な使われ方しかしてなくて見ててかわいそうになる。

やっぱり国民のみなさんはしばらくテレビインタビューには答えないほうがよいよ。

ちなみに今朝のzipでのこと。本当に朝に見る番組がなくなってしまった。

2020-10-29

anond:20201029165249

自分は親がJRに勤務してる人が入れる学生寮に住んでたけど相部屋で部屋に鍵もない状況だったよ

家賃格安なんだけどプライベート空間は一切ない

部屋に置いてた雑誌漫画勝手に持っていかれるとか日常茶飯

寮の中どこかで必ず麻雀大会とかパワプロ大会とか現金賭けてのモノポリーとか開催されてたから退屈することはなかったけどね

2020-08-10

筑波大学ヤバイ

anond:20200803234911

ヤバイ筑波大学ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ

 

筑波大学ヤバイ

まずキャンパス広い。もう広いなんてもんじゃない。超広い。

東京ドーム 55個分。

 

逆方向の巡回バスに乗ると大変なことになる。

休み時間教室移動が自転車ギリギリ。体育はヤバイ。実習への移動で迷子になる奴が出る。 

 

虫が巨大。

人間の知り合いがなかなかできない。

貧困率が高い地域ランキング1位が筑波大学学生寮(2位が横浜市中区石川町

優先度は車>バイク自転車>>>人

遊歩道に「ロボットが通ることがあります」という注意書きを見たことがあるが、ロボットが通るのを見たという人はいない。

 

キャンパス内の自転車が、突風筑波おろしでなぎたおされる

 

プールからガンダム

2020-08-01

変わろうカルト

聲の形」を見て、学生のころによく見た変わろうカルトを思い出してしまった。

「変わろうカルト」というのは学生のころにしたり顔で寄ってくる連中に勝手に名付けたもので、彼らはの合言葉は「変わろうよ!」で、現状から変わることを気持ち悪いぐらい最上のものとしていた。

そういう連中は体育会系学生寮や部活動によくはびこっていて、何かにつけて新入生に変わるように促していた。ちなみに、変わるように促すが、どう変わるのか、何を変えるのかを聞いたことはない。そして、私はそういう連中をカルトだと冷ややかな目で見ていた。当時は今ほどの論客ではなかったので、何を変えるのか、なぜそれを変えるのがいいと思うのかを問いただすこともなく、ただ変わる教団を不快に感じながら生きていた。

聲の形」には「私が変われなかったから」とかなんとか、同じく変わる至上主義が出てきて、その辺がちょっと気持ち悪い。

石田西宮出会うことで過去清算が始まり、彼らはむしろもう変わっていたわけで、そんなに変わる至上主義にとらわれなくてもいいのにと思った。

2020-06-25

独身寮、学生寮などコンロのない環境

http://goldhead.hatenablog.com/entry/2020/06/25/070000

上記について、転勤族御用達マンション独身寮、学生寮でまかないを食べる前提だったものが何らかの理由で(アレルギーとかカロリーとか懐具合など)まかないを食べられなくなった場合を想定してこの文章を書きます

期間限定暮らしでは引っ越しは考えにくい。

コンロ、まともに使えるものはついていないことがあります

まかないで済ませるならいらないので修理もされません。

水道はついていることもあれば共用スペースのみの場合も。

洗濯は自室でできる場合もあれば共用の場合も。

冷蔵庫、置くスペースが狭く1ドアのものがついているかどうか。

入れられるのはせいぜいジュース牛乳

なのでコンビニ利用が前提となります

この環境引用先の料理はできません。

自分冷蔵庫を買っておくことも電力事情とスペースの問題でできないでしょう。

となると使えるのは電気ポットと電子レンジくらい。

この2つはリサイクル品を扱っているところで安く購入できます

まり場所も取りません。

パンも焼けるしね。

冷蔵庫ほど電気も食いません。

包丁や鍋その他百均で買ってきたところで、加熱調理が難しいから使いようがありません。

だとするとお湯を用意すること、

レンチンで済ませられること、

保存は室温でも大丈夫なこと、

などが条件になります

麺つゆのもとアウト、

創味シャンタン微妙ですがちょっと使いにくいかな、

ケチャップソースマヨネーズのたぐいは冷蔵庫保存なのでアウト、

ドレッシング市販のもの冷蔵庫保存なのでアウト、

ということでちっちゃな流しの下か段ボール箱に保存できるものがいい。

基本的調味料

砂糖

塩、

味付き塩コショウ

しょうゆ、

お酢

みりん

料理酒、

味噌(今流行りの減塩もの冷蔵庫でないと傷むのでアウト)、

サラダ油

小分けしてあるだしの素、

片栗粉

カレー粉(調味してあるやつ)、

コンソメ(開けたらビニール袋みたいなので包んでおいて)、

七味唐辛子

すりごま

乾燥わかめ

乾燥ネギ系統

ラー油

などが常備品で考えられます

細々としたものスープに味付けするときに足すなりで使えばいいけれど、

面倒だと思ったら省略してもいい。

だいたい百均コンビニで手に入れれば小さいサイズになるはず。

あとは野菜は火を通さなくても包丁を使わなくても食べられるものをチョイス。

カット野菜

ニンジンスライサーでカット

プチトマト

きゅうりは塩もみしてね、

ほうれん草冷凍モノを買ってきてポリ袋に入れレンチン

本当はミックスベジタブルを使いたいところですがいっぺんに使い切れないので代わりに缶詰コーンを買ってきていっぺんに食べちゃえ、

ドレッシングはしょうゆとお酢サラダ油適当に混ぜよう、

味を変えたければすりごまとかカレー粉とかで工夫して、

きゅうりなどだと味噌で食べる手もある。

味噌汁はお椀に味噌大さじ1(大さじ小さじは百均で)、だしの素小さじ1/2、乾燥ネギ、お湯。

味噌汁に豆腐など手に入ったら混ぜてみよう。

お湯が冷めちゃうから豆腐を味しみがいいようにスプーンですくってお椀の中で先にお湯で温めておこう。

プラコップなどに使ったお湯を捨てておくこと。

それから残りの材料を加えればいいね

ということで栄養源は…

豆腐

サラダチキン

サバ缶やシーチキンなどの魚の缶詰

卵焼き

惣菜コーナーのもの

200mlくらいの牛乳

サラダ油

ピーナッツなど、

ニンジン

ほうれん草

カット野菜

焼き芋ポテトフライ

パックご飯

流水麺

パン

コーンフレーク、

無限キャベツのもとみたいなパリパリ麺もいいね

果物カットタイプみかんイチジクぶどういちごなど、

これに糖分の入っていない飲み物

少々のお菓子

などなど…

なお、バランスを考えるときは、

牛乳200ml、

豆腐一丁(腹具合でサイズを決めて)、

卵一個分、

魚一缶か一匹(一尾)、

肉は手のひらに乗るくらい、

野菜緑色のものオレンジ色のもので片手に乗るくらい、

赤いものと白いもの、薄い色のもので両手くらい、

(豆でできているものアボカド野菜には入れない、

コーンも入らない)、

果物は片手に乗るくらい、

パン8枚切りで一枚程度(大食漢で2倍程度)、

ご飯1パック(人によってサイズ変更)、

流水麺1 パック、

調味料

カロリーのない飲み物

少々のお菓子

こんな感じで栄養バランスを取れないでしょうか?

イメージしているのは女子栄養大学の4群式ですが私の知識が古いので…

これをたたき台にして、皆さんの意見をうかがいたいです。

2020-05-11

学生寮に入っていた時の話

私は学生の時学生寮を利用していた。

その時の話を書く。

学生寮と言っても人数が少なく、小さい4階建ての建物の2階が男子寮、3階と4階が女子寮、1階は教員食堂のおじちゃんの部屋と自習室それから男子の大浴場があった。

私は実家の都合で1年の後期くらいで入寮したのだけど、入寮すると同級生からまず、うちの寮は出るから!と体験談を聞かされた。

私は霊感とかもないし、今までそういった類の体験サラサラないので先輩から吹き込まれ同級生思い込みだろう。と流して聞いて終わった。

私が3年になった時、同学年の入寮者が私ともう1人しかいないため自然寮生活時間の長い同級生が寮長、私が副寮長となった。

部屋は一人部屋で私が4階、同級生が3階で私の真下の部屋だった。

ある日、消灯前に寝ていた時、同級生が私を起こしに来た。

から足音がうるさいからなんとかしてくれ!と言いに来たが私は爆睡しており怖くなって起こしたらしい。

古い建物からネズミだよ〜と笑って終わったが、次の日同じ部活の仲の良い男子の後輩から、上の部屋で走り回ってる音がうるさいので注意してくれと連絡が来た。

部屋の場所を聞くと、その部屋は空き部屋で鍵がかかっていた。

寮監の先生にも報告して念の為中を確認したがもちろん誰もいなかった。

はじめはからかわれているのかと思ったが、その後輩と同級生に接点がないためそれもない。

翌日に同級生にこの話をすると、今まではあまり意識をしていなかっただけなのでは?と言われた。

かに今まで夜中にドアをノックされドアを開けると誰もいなかったり、廊下から足音がしたりすることは多々あった。

そんなもの人が出せる音だし、誰かがイタズラしてるんだろうくらいで済ませていたが、本当はそういうものがいたのかも…と思うと怖くなり、しばらくはあまり寝れなかった。

それからもちょくちょくおかしいことはあったが、怖いと思うのが嫌で見て見ぬふりを貫き通した。

今、その寮に住んでいる寮監とたまに連絡をとっているが、未だにおかしいことがあるらしい。

当時の先輩曰く、あそこは墓を崩した所に建ってるらしいが、本当はどうなんだろうか?

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