はてなキーワード: 存在とは
孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。
『サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身で一人二役して会話していた。
それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまりに一面的すぎる。
それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独も存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評の領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。
だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。
これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。
仮に合意形成の結果から相手の心理状態が類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。
復讐の意図を弱者男性が持ってるかは動機の主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。
これはデイヴィッド・ベネターが統計を引用して例を挙げてるが人というのは身体障害、知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己の幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。
どの立場であれ心理的抑制や環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。
━━正当防衛、一般に正当防衛が道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義のほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全が問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまりに人間的』
そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価で正当防衛の基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。
一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造に寄与している。よって社会的機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者の価値付けの基礎となる社会の進歩・前進はありえない。
社会的弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在は搾取する主体である強者が必要としてるからこそ残り続ける。
つまり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマも流行を規定するモードが存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である。絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者が剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)
万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態を規制しているのは社会的報酬である。それが除かれた場合、上記の行為が当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。
しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人が社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群の智慧である。
「一方的な愛情を向ける」というのが何を指しているのかというと、まあ端的に「自分と今後一切関わりを持つことがないであろう有名人」とか「2次元のキャラクター」だとか、そのあたりのことだ。
人から愛情を向けられるというのはとにかく恐ろしい。私は、自分というものを正しく認識することができるのは他の誰でもない「自分自身のみである」と思っていて、そこにひとを介入させること、それどころか私を解釈する余地を人に与えること自体がとにかく末恐ろしい行為だと思っている。
近日、「蛙化現象」という言葉があたかもミームのように流行った。流行ったそれ自体は誤用ではあったが、いっとき社会現象にまでなった。
あるとき自分を分析してみたら、単に自己肯定感がすこぶる低いだけという訳ではなく、その自己肯定感の低さの中に同じくらいの「自身の持つ気高さへの陶酔」を抱えていることに気づいた。
これが、適当な意味で使われた時の「蛙化現象」を自身が引き起こすときの根底にあるんだろう。
己のことを、何よりも愚かでおぞましくて汚いゴミみたいな人間だと本気で思っていて、だけどそれと同時に「そんな自分のことを理解し寄り添ってくれるのは自分だけ」だとも思っている。改めて文章に起こしてみるととんでもない自慰行為である。
だから、「自分のいちばん近くで自分を理解し寄り添ってくれる」、所謂恋人のような存在を作ることが怖い。
ここまで話した上で怖い、という言い方を今更しても自己保身でしかないので、言い換えると 「嫌」 なのである。紛れもなく。
だから、「私を瞳に映すことがない」「私の本性に介入することがない」「こちらもあなたを知ったような顔で語るつもりもなければ知るつもりもない」ような存在に陶酔することがいちばん心地よくなる。前述した「一方的な愛情を向ける」ということを長々と噛み砕いてみると、恐らくこんな感じ。
本題。
私は、ひとりの人間のことがすごく好きだ。 仮にAと置く。
特定されることは意図していないので、この記事を書く上で必要な最低限の要素だけ取り出して、尚且つ暈しを加えながらAのことを説明すると、主に言葉を書いているアーティストである。
ただ、私は自分のことをちゃんちゃら性善の擬人化のような人間であると思っていて、そうなるとここで既に矛盾が生じている。
「自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」、凡その人が義務教育中には会得するだろう一般論である。性善の擬人化なので、勿論日頃からこれを踏まえた行いを心がけている、のに。
私は、なんの関わりも無ければ何も知らない他人に、Aに、心底惚れている。
世に出ているAの書いた言葉は辿れる限り辿った。特に好きなフレーズを自分の中に書き留めて、反芻してをひたすら繰り返していた。
そもそも私は頭のいい人が好きなのだが、それだとアバウトすぎるので最近は「素敵な言葉を紡げる人が好き」と形容している。
要は、私はAのことをきわめて頭のいい人間だと思っている。
だから凄く辛い。
「自身の尺度で他人の持つポテンシャルや性格を測る」ことって、きっと凄く馬鹿馬鹿しいことなのに。
なのに、私はAの持つ性格上の性質や口調、趣味、その趣味を持つにあたっての根本の考え方、友達への接し方とファンへの接し方の違い、それを産んでいるであろう根底の考え方、その全てが好きで、そんな自分の盲目さと当人への申し訳なさが、果てしなく苦しい。
Aが紡いでいる「言葉」というものをもう少し詳しく話すと、架空の人物の言葉の代弁だったり、まあカテゴライズするのであれば「詩」だろうな、というものが多数。
ただ、その中に、さながら自伝のようなものがチラホラと存在する。
とどのつまり、どうしてもその言葉を紡ぐに至った、その考え方に至った思考回路やバックグラウンドを空想してしまう。
まあ、ただ考察するくらいなら至って個人の自由だとも思う。ただそれを「Aのことが好きな理由」として自分の中でつらつらと並べている自分自身が恥ずかしくて苦しいのだ。
どの角度から見ても考えすぎである。これを書きながら自分自身でも「素直に好きって言えばいいじゃん」と思っている、が、プライドと自分の性質がそれを許してくれない。
薄々感じている方も居るだろうけれど、これだって「厄介ファン」だ。紛れもなく。
私がAの言葉を好きなことは事実で、それを産んだA自身のことが好きなのも事実だ。
だけど、「自分と関わりのない人に心酔することで得られる心地良さと安心感」を求めている節が、間違いなく存在している。
私は、自分が仮に有名な活動者だとして、自分の全く知らない人が水面下で自分に対してこんな感情を膨らませてつらつらと文章を書き連ねていたら、そりゃまあめちゃくちゃに恐ろしいなと思う。
拗らせ具合に対してもだが、やっぱり「例えその考察が事実であろうと、他人が私の秘めたる感情を時間をかけて推察している事実」に不快感を抱く。
自分を測られることへの不満や知った口を聞かれる不快感、「特定の誰かに宛てた言葉では無い」ということを全面に押し出すような書き方。
そんな書き方をしているのに、分かり易く示してくれているのに、その言葉を自分の中で大事に大事に仕舞っていることが極めて愚かであると感じる。
あくまでも自伝であるのに、その言葉に共感したり感銘を受けている私が。
だけど、好きなのである。どうしても。
人に測られたくないから、きっと私と同じような考え方を持っているAの言葉と性格に惹かれる。
けど、この「きっと」こそが人を測っているに他ならない。
だから、絶対にAに近寄りたくない。 答え合わせをしたくもない。 これはほんとうに仮の話だが、何かの縁でAと知り合いになり、友人になり、推察が上手いこといって、同じような考え方なんだね!なんてことになってしまったら。
私はこんなにも好きなAのことを好きなままでいられるのか、わからない。
乱雑でこんがらがったままだけれど、自分の感情を推察する余地を他人に与えられるようになるまで、きっと今後とも手の届くことの無い誰かにひたむきな好意を向け続けるのだろうなと思う。
最初の方に綴った通り、自身を高尚な人間だと奥底の方で謳っていることがこの現象の原因だと考えられるので、まずはその傲慢さを取り払わないことには私は一生ひとりぼっちである。
「他人に一方的にひたむきな愛情を向ける」ことは、すごく明瞭だ。ただ、そろそろ成長したい。ひとからの好意を受け入れたい。自身の根本を推察されることを拒絶したくない。
とにかく、この半ば依存のような好意をとやかく向ける行いはそのうち卒業する予定だ。
このジレンマから抜け出せて、しがらみが解けきったときに、私が至って健全な「好き」をAに向けることが出来ていたらすごく嬉しいなあ、と思います。
Q: 「彼女は太陽のように明るい」と「彼の頭は太陽のように明るい」は同じような意味ですか。
A: いいえ、「彼女は太陽のように明るい」と「彼の頭は太陽のように明るい」は異なる意味を持つ比喩です。
「彼女は太陽のように明るい」:この表現は、その人が非常に元気で、周囲を明るく照らすような存在であることを示しています。つまり、その人の性格や態度が明るく、ポジティブであることを表現しています。
「彼の頭は太陽のように明るい」:この表現は、その人が非常に知識が豊富で、アイデアが豊かであることを示しています。つまり、その人の知識や知恵が「明るい」、つまり「優れている」ことを表現しています。
したがって、これらの表現は同じ「太陽のように明るい」という比喩を使っていますが、その意味は文脈によって異なります。他に何か質問がありましたら、お気軽にどうぞ!😊
なんか吉良上野介を開平したのと田沼意次とフェルディナント・マルコスとを掛けて2.5乗根取った様な存在がなんかゆうてるぞ。
絵を描かない連中が永遠に理解してくれないから、屋上屋を架すことになった。いい加減理解してくれ。
少しでもデジ絵を触ればわかるんだが、生成AIで出力しただけの画像は、見ればもうAI産だとわかる。なんもしてないんだなって。こいつ何も考えてないってわかるんだよ。手が3本生えてるとか、髪がめちゃくちゃとかじゃなくて。もうコンテキストがない。わかるかなぁ。
絵を描くときには基本的に目的があって筆をとってるわけ。そうすると、何処を描き込んで、どこを描き込まないかっていう、気圧の差っていうか、そういうのが産まれるわけ。
これは絵を描くことが楽しいバーサーカーでも同じ。そういうやつはだいたい、普通はそんなことまでやらんってことをしてくる。こいつやりおったって。そういう、画面の向かいのニンゲンの意思が伝わってくる。何を伝えたいのか、なんとなく伝わってくるわけ。これはなにも高尚なメッセージじゃなくても、「金髪のチャンネー最高!」とかでもいい。本当に何でもいいが、おれたちはそのメッセージと、メッセージの伝達方法の工夫を楽しみにネットの絵を見てるわけ。
でも、生成AIから「出しただけ」の絵はそうじゃない。そういうのはもう気圧がめちゃくちゃ。おまえこの絵のどこを見てほしいの?何を伝えたくて書いたの?何もわからない。その結果、おれたちはどうでもいい天井のシワを見つめて、お前たちが伝えたいのはこれなのか……?っておそるおそるプロフを見に行って、やっぱAIじゃねーか!ってなる。全く無駄な行為だったわけだ。そこに意図なんてなかった。誤解したおれが悪かった。そんなことを繰り返した結果、絵を見た瞬間に「それが生成AI産なのか」がわかるようになった。
最近はもう「その雰囲気」を感じ取っただけで見るのをやめてる。昔から知ってる神絵師だけをフォローして、新しいメッセージを、たまにしか降ってこない甘露を、延々と待つようになった。pixivをディグるのはもうやめた。イラストを凝視しても得られるリターンが担保されないので、虚しいからだ。
リターンがなければ、無視すればよろしい。それが黄金則だ。絵師と生成AI絵師は別世界に棲み分ければ良い。それも正論だ。そこは正直、問題ではない。
だがしかし、絵師には絵師なりの理由があって、今日まで論争を続けている。ある問題があるからだ。
それは、生成AI丸出しの画像が、何故が一部民衆に受容されつつあるということだ。
他の、著作権がどうのという問題は、絵師が共通で抱えている嫌悪感のすり替えに過ぎない。無視したいが、なぜが周りの民衆が無視しないから、何かの理由を付けて批判せざるを得ないのだ。
冒頭で、審美眼がないと言った。それは一部の生成AI絵師もそうだが、何よりあれを「手書き並のクオリティ」と持て囃す消費者層を形容した言葉だ。
少しでも絵を触ったことがあれば、生成AIのファーストインパクトは「へーすごいね。でも仕事にはならないな。すげーおもちゃだ」だっただろう。それなのに一部の消費者層は、これを大変有り難いと言わんばかりに使い始めたわけだ。
おい待てと。これのどこがいいんだと。じゃあお前らはいままで俺たちが描いたもののどこを見てきたんだと。
当然、嫌悪感を抱く。だが、「だってそれAI産だぞ!」と伝えても、彼奴等は首を傾げるばかり。
最近は、どうみても実写丸出しの自称「アニメ」がニュースに載った。何より驚いたのは、あれにゴーサインを出した報道陣である。絵に対する恐ろしいまでのリテラシーのなさだ。あれのどこが良いと思ったのか、まるで理解できない。仮にもアニメ制作会社と関係のある会社の振る舞いがこれかと、閉口したものだ。
どうせ伝えても伝わらない。そのうち、この嫌悪感を「そういう層」に伝わるような問題点にすり替えて問題を論ずるようになった。やれ著作権が、権利が、そういったものに。
だが、それらは理論上は手描きでも可能で、AI独自の問題じゃないということは、誰にだってわかる。だから平行線なのだ。
この感覚は、なかなか伝わらないらしい。だから、比較的広いそうに伝わりそうな類例を持ってきた。
機械翻訳もまた著しい発展を迎えた界隈である。が、機械翻訳だけで全てが事足りるとは思っていないはずだ。
これはアカデミックに属したことがあればわかるが、英語の論文を機械翻訳して読む、という行為にはまったくの意味がない。著者が伝えたい事実を、機械翻訳は考慮しないからだ。そのうえ、業界の慣習を無視した翻訳がなされるので、その翻訳された文章に今はない。なんとなく読んだ気になるだけだ。
小説もそうだ。ハリーポッターでもなんでもいい。あれらの「機械翻訳版」と「訳者監修の日訳版」どっちを手に取るか。当然後者だろう。
そうした現状にあるのに、海外製品の公式ドキュメントは多言語翻訳版を機械翻訳によって作成する。「機械学習により作成されたため、不正確な場合があります」と但し書きを付けながら。
これはビックテックであっても例外ではない。訳者を雇う金はありながら、正確な訳を提供しない。
なぜか?日本語話者なんてよく知らないし、どうでもいいからだ。
それでも有り難がる連中がいる。英語を読めない層だ。そんな不正確な日本語読んでる暇があったら英語勉強した方が早いよと伝えても耳を貸さない。それで満足している層に恐怖する。機械翻訳版を読んで何かした気になっているニンゲンの、その感性に恐怖している。それは天井のシミなんだって。そこに別の人間が伝えたかったメッセージは存在しないんだと、伝えても伝わらないことに恐怖している。
というわけだ。
現在抱えている嫌悪感のその本質は、「メッセージ性も何もない破綻した絵を持て囃す連中の審美眼が信じられない」ということになる。
さらに恐ろしいのは、彼らが生成AIの発達とともに、その審美眼と理性を失ったわけではないということだ。
彼らとて、三歳児の落書きと、絵の修練を積んだ人間の描いた絵の区別はついていた。だから、絵師たちは自分たちが絵に込めていたメッセージが市井に伝えられているのだと信じることができた。それを感じ取ってくれているからこそ、自分は市場に支持されているのだと信じることができた。
が、今は違う。
生成AIから出しただけの画像と手書きとの区別もつかない連中がいるのだと知ってしまったからだ。
だから、自分の支持者の中にそんな「肯定派」がいないか魔女狩りもしたくなる。それを肯定する気にはなれないが、その絶望は理解できる。
そして、この価値観が行き着く先は、「誰も作品に込めたメッセージを理解してくれない」「誰も自らの磨いた技術を評価してくれない」という絶望の世界だ。
それが繰り返されれば、当然続ける意味もなくなる。そして現在の伝統的製法によるイラスト制作技術は失われ、生成AIによる模造品が市場に氾濫することになる。廃業なんて話じゃない。業界自体の喪失だ。絵にメッセージを込めるという行為時代が廃れるのだ。
雁琳はさえぼうに性的興奮を抱いてるよね
「ああいう地味顔は人文チンポ騎士に受けて姫扱いされるんだろうな」って言ってたけど
好みじゃない相手だったら、「女補正で下駄履かされてる」とかそういう叩き方になる
雁琳はさえぼうのちょうどいい地味さにブヒってるしオカズにしたことも数え切れないほどある
数年に渡る執拗な叩きの中で、文字を打ちながら射精したことさえあると断言できる
お姫様を愛でたい男ばかりではなく、叩いて踏みにじることに興奮してしまう者もいる
「叩いたら反響ありそうな人」としてなるくんに推薦されるまでろくに仁藤のことを知らなかったぐらいだし
会計ネタも前から仁藤を叩いていたエコーニュースのを剽窃しただけだ
エコーニュースは仁藤が文化祭でフランクフルト食べてる画像を探し出してフェラ連呼したり
仁藤の水着姿を発掘して何度も貼ったり仁藤を性的に貶めることへの喜びがあり数回はつい射精していそうではある
エコーニュースは仁藤追求中に突然妻に捨てられ子供を連れ去られて共同親権界隈入りをしたが、
夫が調査と称して自分より若い女を追いかけてるのは妻にとって腹立たしいことこの上ないだろう
高慢そうな女を叩き潰してぐちゃぐちゃにしてやりたい、そんな欲望が雁琳とエコーニュースには存在するが暇空には意外とない
暇空がそれを向けている相手は堀口くんだ
堀口くんの体が触れたらやわらかそうであると夢想し、シャワーを浴びながら堀口くんの体を思い、
堀口くんに半ズボンを履いて生脚を見せるよう要求し、もし自分が堀口くんの彼女になったらどのように振る舞うか語り、
堀口くんが恋人をどう抱くか、もし風俗に行ったらどんなプレイをするか、絶え間なく堀口くんへの性妄想をしている
そして暇空は、自分から相手を抱きにいくのではなく、向こうから求められてやれやれ仕方ないなあと応じることを夢見るタイプ
暇空は色んな女性とぶつかっているが、相手に対するいやらしい目線は感じさせない
堀口くんにはねとねとした情欲を見せる
人口一万人未満の町で生まれて大学時代と社会人数年を都内で過ごして、地元に戻って公務員兼農家やってる自分からすると
・隣の部屋の人に廊下やエントランスで挨拶しても怪しげな顔で会釈されるだけ
っていう都内の感覚になんとなく違和感を持ちながら学生時代や会社員時代を過ごしてきた。
会社を辞めて鬱気味になってた頃は「都会を孤独に過ごす時の疎外感」が身に染みていた。
地元で自分の情報を近所の人が全て知ってたって何も思わないし、むしろ「あれ帰って来てたの?」って言われると「この人知らなかったの⁈」ってなる。
祭りの運営は楽しいし、自分の地区が年番(神輿のコース含め祭り自体を仕切る年)だと気合いが出る。
ゴミの選別(地元では家庭では分別せずにゴミ袋を集会所に集め、自治会で決めた当番がみんなのゴミを分別して処理場に持っていく)は世間話しながらやるから暇つぶしになる。
車を1時間くらい飛ばせばイオンもあるし、車や公共交通機関使えば日本全国どこでも行けるしネットもテレビもスマホもあるから退屈はしない。
そもそも今の時代、「若い子全員が好きなもの」なんか存在しないと思う
ミラーリング・チェック
☑️ 売れそう
パルワールドのように、あえてタブーに挑戦すると爆発的に話題になりうる。
爬虫類を飼ってる家庭が多いのは、キモい生き物を所有してコントロールするのが気持ちいいという側面がある。
キモくてカネのない手乗りサイズのおっさん全12種類、とかは結構良さそう。
ソフィーのフィギュアは基本愛でる需要のために作られて、女性を傷つけるという意図がなかったのは明白だ。悪意がないからこそ無意識の迷惑さを浮き彫りにさせるためにミラーリングが必要になった。
弱者男性シリーズが当て擦りのために作られたと思われるとミラーリングの効果はないだろう。
しかし上述の通り、普通に所有欲を引き立てられるので、その恐れはない。
着替えを覗かれて涙目で怒る女性は現実には存在しない。女性を覗こうとする欲求を特に責められない男は現実に存在する。
弱者男性フィギュアが現実の男たちを風刺してると捉えられるとダメだ。
ガチャポンのおっさん達に名前をつけ、キャラクターに仕立てる必要がある。
☑️ 男女の立場の不均衡があるため、加害者側は足を踏んでることに気付かない
弱者男性が社会に置き去りにされる問題は、ポリコレへのバックラッシュとして噴出したのであり、それを主張してるのは主に男性のアンチフェミ論者などだ。
たとえば童貞いじりなど、男性をあざ笑う行為は比較的問題視されない傾向にあった。まさしく不均衡による不可視化されてる状態と言える。
…………ここまで見て、概ねミラーリングとしては成立してると判断する。
さて、その上で男性たちが「ぐぬぬ」と唸るか、「ほらね」俺らは十分我慢できるし女も我慢しろよ、と高を括るか、ミラーリングの効果を予想しよう。
☑️ 男性のアイデンティティを刺激して、共感を覚えさせられるか
おそらく弱者男性として生きづらさを訴える層は、それなりに厚い。
現代では、フェミニズムへの反抗分子だけでなく、純粋に虐げられてる立場の男性は多いからだ。
オレは弱者男性だ、と素直に手を上げてる人はたまに見るが、弱者男性だと言われて激昂して否定するシーンは見たことない。
これは弱者男性がアイデンティティとして十分機能してるためだと思う。
男性全員の心に訴えることこそできないが、しかしそもそも女性フィギュアの時点で別に怒ってない女性もそれなりにいたと思われる。
コロナワクチンの被害救済金が 4500万円からその1/6の780万円に減額されることになった。
これに対して批判があるようである。 確かに、減額する根拠が不明であることは間違いない。
しかしおれは、ワクチンの被害救済金はそもそも必要ないと思っている。 それどころか、ワクチン後遺症の治療は自費で行うべきだと思っているし、 ワクチンで免ファされた人間が癌になった場合なども当然自費で治療すべきだと思っている。 なぜならば、ワクチン接種は完全に自己責任だからである。 ワクチンと自殺は、本質的にそう変わりないのだ。 今、国民の8割が自殺しました。 ただ、それだけの話である。
世の中にはおかしなことを言う人がいて、 政府はワクチンの毒性を知っていたのだから 国民を騙したということになる、 だから責任をとれというのだが、 これも間違っている。 なぜならば、 ここにれっきとした反例が存在するからである。 おれがワクチンを打たなかったのは偶然ではない。 明確な理論と意志を持ってワクチンを拒絶したことは、 このブログを読んできた人ならばわかるだろう。 だから、 明確な理論と意志を持ってワクチンを拒絶することは可能だったわけであり、 騙されたというのはただの他責思考でしかない。
では、中学生や高校生はどうだろうか。 彼らは親や学校に騙されてワクチンを強制されたという人がいる。 しかしこの意見にも同意しない。 なぜならば、 中学生にもなれば自分の頭で調査してワクチンを拒絶することは可能だからだ。 おれが麻布中学の一年生の時であれば、余裕でワクチンの毒性を看破していたと思う。 そのくらいの思考力を持たぬ人間は生きていても無駄だからワクチンして死んだ方がいい。
というわけで、 真にかわいそうだと思うのは小学生やそれ以下の子供たちだけということになる。 彼らについては、親が打つといえばそれを拒否する術はなかっただろう。 結果として、日本では小学生以下の子供に対しても20%は2回まで打ち、 10%は3回まで打ってしまった。 境界知能人間の割合がちょうど14%程度と言われるが、 この数値と近いのは何かの偶然だろうか、あるいは必然だろうか。
知り合いに高専卒の低学歴がいるが、 この男について本当に最悪だと思っていることは、 3人の子供に対してコロナワクチンを打たせたことである。 しかもやっつけ仕事のような感じで、何の疑いもせずに作業的に打たせていた。 そういった精神性が高専野郎の本質であり、それが コードにも表れているのだ。 とにかく言われたことを黙ってやる、それが高専野郎の生き方である。 そうして今後もどこかで、ゴミのようなコードを書いて荒らして回るのだろうか。 彼自身3回は打ってるから、早くファされてくれることを願うばかりである。
自分がブスなのがコンプレックスで若い頃はそれでいじられて親からもブスだと言われて、結果として生まれてきた娘もブスが遺伝して似てきてよりコンプレックスみたいな漫画があってちょっとだけ読んでたけど、でもおまえちゃんと適齢期に結婚して子供できてるじゃん・・・という気持ちになって途中で閉じた
女ってなんでああやって本当は誰かから羨まれる存在なのに意識的に外して私ってこんなに不幸って言いたがる生き物なの?
そうやってないと死ぬの?
なるほど。
じゃあ冗長だけど、さっきの内容をほぼそのまま、「国が判定仕様を作成、提供する」構造を取り除いた内容に書き換えてみるね。
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たとえば渋沢栄一には偽造防止技術が10個盛り込まれているとして、10個とも敢えて仕様を策定することなく、政府がまるごと秘匿していたとしよう。
んで、判定機メーカーは独自の検証で9個ほど解明しているのかもしれないね。
でもそれって、「2024年の渋沢栄一に盛り込まれた偽造防止技術は、個数にかかわらずそのすべてが、2044年の坂本竜馬にも盛り込まれます」という互換性が宣言されていたとしても、同じことでは?その上で、坂本竜馬の新紙幣には、渋沢栄一と共通の10個に加えて、5個ほど非公開の新技術を詰め込んどけばいいんじゃない?
こうすれば、「国が判定仕様を作成、提供する」リスクは生まれてないよね?
さて、将来、坂本竜馬の新紙幣が流通し始めたら、どんなリスクが生まれるのかな?
渋沢栄一と坂本竜馬に共通の仕様が10個存在している互換性のせいで、偽造グループは、何ができるのかな?
偽造グループが反社会的ルートで解き明かした、渋沢栄一の10個の秘匿仕様をもとに偽造しまくる?
ちなみに坂本竜馬の流通が始まっても、偽造天国にならない限りは、いきなり銀行や大手チェーンや個人ラーメン店が渋沢栄一の流通を切り捨てることはないよね?旧札を持ってるお客さんをむやみに切り捨てたくないもんね?
仮に偽造グループが渋沢栄一を偽造しまくったとして、それって、坂本竜馬との互換性とは関係なくない?
偽造グループが賢ければ、2044年の坂本竜馬を待たずに、2034年から偽造することだってできるよね?
2044年に共通仕様10個+新仕様5個の坂本竜馬が流通し始めて、なんか偽造グループが得することある?
互換性が存在するおかげで古い券売機を使い続けるラーメン屋さんで、渋沢栄一の偽札が使える?
それって、「互換性が存在しない現実の世界」のおかげでしぶしぶ新しい券売機に更新したラーメン屋さんでも、渋沢栄一の偽札は通用するんじゃないの?
「互換性によって発生するリスク」というところがもう違うというか、
後方互換を実現するには国側が判定仕様を作成し判定機メーカーはそれに100%従う必要があるが、
その「国が判定仕様を作成、提供する」構造自体が大きすぎるリスクをはらむ、というのが要点だ。
漏洩する事で貨幣の信用にかかわる重大な損害が発生し得るリスクとなる。
自分の感情や意見を言葉にするのが苦手な人にとって、インターネット上に溢れる様々な意見は、とても便利な存在になっています。
言語化するのが難しいと感じる人の中には、自分の考えがまとまらなかったり、適切な言葉が見つからなかったりして、フラストレーションを抱えている人もいるでしょう。そんな時、ネット上で自分と似た意見を見つけると、「あ、これだ!」と膝を打つ経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。
ネットの意見は、自分の感情や考えを代弁してくれる心強い味方です。うまく言語化できない気持ちを、他の誰かが既に言葉にしてくれているのを見ると、安心感を覚えます。「自分だけじゃない、同じように感じている人がいる」と共感できることで、自分の感情が肯定されるような気持ちにもなれます。
ただし、ネットの意見に頼りすぎるのは危険です。自分の感情や意見を言語化する力を養うことは、とても大切なことです。他人の意見を鵜呑みにするのではなく、あくまで参考にしながら、自分の言葉で表現する努力を続けることが重要だと思います。
自分の感情や意見を言葉にするのが苦手な人にとって、インターネット上に溢れる様々な意見は、とても便利な存在になっています。
言語化するのが難しいと感じる人の中には、自分の考えがまとまらなかったり、適切な言葉が見つからなかったりして、フラストレーションを抱えている人もいるでしょう。そんな時、ネット上で自分と似た意見を見つけると、「あ、これだ!」と膝を打つ経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。
ネットの意見は、自分の感情や考えを代弁してくれる心強い味方です。うまく言語化できない気持ちを、他の誰かが既に言葉にしてくれているのを見ると、安心感を覚えます。「自分だけじゃない、同じように感じている人がいる」と共感できることで、自分の感情が肯定されるような気持ちにもなれます。
ただし、ネットの意見に頼りすぎるのは危険です。自分の感情や意見を言語化する力を養うことは、とても大切なことです。他人の意見を鵜呑みにするのではなく、あくまで参考にしながら、自分の言葉で表現する努力を続けることが重要だと思います。
仕事をはじめて3週間ほど経った。しにたいくらい辛い。これ以上犠牲者を出さないために、田舎がどれほどクソか、書き記したい。
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首都圏で生まれ、働いていた都会民だった私が、とある事情で田舎で働くことになった。
田舎といっても、人口数十万で、都内へのアクセスは悪くなく、商業施設は充実している。ただ、車がないと不便で、休日に出かける場所がイオンかイオンになってしまうような、よくある地方都市である。
田舎に住んだ経験はないが、私の想像より街が栄えていたので生活に心配はなかった。今ではいち早くここから逃げ出したいと思っている。
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1.人間関係
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他の部署の人や、社員の家族のことなど、ありとあらゆる人の悪口や噂話を、いたるところで言っている。すでに私も、私に聞こえる声で悪口を言われている。
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これだけをきくと、田舎も都会も同じだと思うかもしれない。確かに、噂好き、悪口言いたがりな人はどこの職場にもいる。しかし田舎は、社員の子供がどこの小学校に入っていて、性格がおかしいだとか、来社したお客さんがよく使うスーパーや噂話など、ありえない程詳細な情報が入ってくる。正直言って度を超えているものが多い。職場全体がこんな雰囲気なので、かなり居心地が悪い。
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残業している人は少なく、業務自体も難しいものではないが、休職者がたくさんいるらしい。どう考えてもこの職場の居心地の悪さのせいであろう。他の部署のことはわからないが、行く先々で悪口大会が展開されているのでどこも同じと推測される。
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ある時、上司が「あの人は多分発達障害だから」と言ってきた。わざわざ言ってくるあたりがキモい。
発達障害であろうとなかろうと、苦手なところは他がカバーするなり、やり方を変えるなり、方法はあるのではないか。コソコソ噂するのみで、配慮のかけらもないクソ職場である。
今は新人だからで済まされているが、私も発達障害っぽいので、化けの皮が剥がれたら干されるだろう。
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都会ではいまや町内会は存続の危機に瀕しており、私は町内会の存在すら知らなかった。隣に誰が住んでいるのかわからない、それが当たり前だと思っていた。
こちらでは町内会は強制で、地域のお祭りなどを開催しているようだ。ゴミ袋に住所を書けと言われたり、町内会で使うからと言って、名前や職業、電話番号などを聞き取りにきたこともある。情報の使用目的を聞いても教えてもらえなかったため、必要最低限の情報を伝えたが、個人情報保護の概念はないのだろうか。
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2.職場に逃げ場がない
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周りにお店などなく、職場内にも買い物をするところがないため、息抜きが出来ない。コンビニすら車がないと行けない。昼食を職場で食べざるを得ないため、ご飯も美味しく感じられない。
おまけに職場内の高齢化が進んでいるため、職場に同年代がいない。1で書いた通り、全員が敵のような職場なので、精神的に孤立している。
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観光地は行き尽くしたし、近場のイベントやお店は職場の人と出くわすため心が休まらない。休日は引きこもりになってしまう。精神衛生が悪い。
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まだまだあるが、余力のある時に追記したいと思う。
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主に職場がクソだが、田舎というコミュニティの狭さに加え、働き先がないので転職が難しいこと、遊ぶ場所もないことが田舎のクソさに拍車をかけている。
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ここで一生を終えるのかと思うと本当に辛い。仕事を辞めることも出来ない。人事部門的なところに相談したり、メンクリに行くことも考えたが、コミュニティが狭く確実にバレるため、行くことができない。しぬしかないのかと思い詰めている。
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他人に無関心で、働く場所も出かける場所もたくさんある都会に戻りたい。
転職や移住の計画がある人は、生半可な気持ちでこちらにきてはならない。田舎に来なくてはならない理由があるならば、職場選びだけは力を入れてほしい。
具体的に考えてみようよ。
たとえば渋沢栄一には偽造防止技術が10個盛り込まれているとして、7個は判定機メーカーに公開されていて、3個は政府が秘匿していたりする感じ?
んで、判定機メーカーは独自の検証で秘匿の2個も解明していて、それでもなお政府だけが1個の秘匿仕様を保持していたら安心かな?
でもそれって、「2024年の渋沢栄一に盛り込まれた偽造防止技術は、個数にかかわらずそのすべてが、2044年の坂本竜馬にも盛り込まれます」という互換性が宣言されていたとしても、同じことでは?その上で、坂本竜馬の新紙幣には、渋沢栄一と共通の10個に加えて、公開3個と秘匿2個ほど新技術を詰め込んどけばいいんじゃない?
渋沢栄一の時点では、まだ誰とも互換性がないから、「互換性によって発生するリスク」は生まれてないよね?
さて、将来、坂本竜馬の新紙幣が流通し始めたら、どんなリスクが生まれるのかな?
渋沢栄一と坂本竜馬に共通の仕様が10個存在している互換性のせいで、偽造グループは、何ができるのかな?
ちなみに坂本竜馬の流通が始まっても、偽造天国にならない限りは、いきなり銀行や大手チェーンや個人ラーメン店が渋沢栄一の流通を切り捨てることはないよね?旧札を持ってるお客さんをむやみに切り捨てたくないもんね?
仮に偽造グループが渋沢栄一を偽造しまくったとして、それって、坂本竜馬との互換性とは関係なくない?
偽造グループが賢ければ、2044年の坂本竜馬を待たずに、2034年から偽造することだってできるよね?
2044年に共通仕様10個+新仕様5個の坂本竜馬が流通し始めて、なんか偽造グループが得することある?
互換性が存在するおかげで古い券売機を使い続けるラーメン屋さんで、渋沢栄一の偽札が使える?
それって、「互換性が存在しない現実の世界」のおかげでしぶしぶ新しい券売機に更新したラーメン屋さんでも、渋沢栄一の偽札は通用するんじゃないの?