はてなキーワード: 姨捨とは
じゃあ海外に逃げるか。といっても、
それを選ぶ人はしばらくは少数派なのではないだろうか。
はい。若者アウト!ってどっかのお気楽ブロガーも言ってたけど、
ほんとに日本にいる限りどうにもならないのか。
と言われるとちょっと違うんじゃないかと思う。
② 彼らがすでに既得権益を手にしている。
このあたりが本質的な理由とすると、
若者が勝つためには、
A 高齢者よりも数を増やす。
B 高齢者から既得権益をもらう。or高齢者が既得権益を持ってない領域をみつける。
という方向性が考えられます。
「何をアホな…」と思った人。よくきいてください。
上記の2つを日本全体でやるのは無理。
じゃあ、日本の一部でならどうか。
ある程度まとまっていく必要はあるけど。
あと年金は払わない。
自分の親くらいに仕送りをしてやれば、いいんじゃないのかしら。
他の高齢者は、無視。
しっぺ返しだよね。
若者は
みたいなのを基本方針にしてみたらいいんじゃないかしら。
追記① 9/17 14:00
「じゃあ他の土地で一旗あげてやるか。」っていうのは割とスタンダードかなと。
(アメリカ開拓史なんてまさにそう。)
だから、若者世代でも既存のシステム内で自分の居場所がある人は、(今すでにメリットがある人)
特にこんな話には関心を持つ必要がそもそもないけど、
局所的に、若者ばっかりの土地があればいいんじゃないかなという話。
本来であれば、こういう話はもっと行政がやるべきであって、
税収がない地方が、もっと人を呼び込みたい。
他の場所と比べて安いお金で家の建て替えができるようにする。
とかだったらちょっと現実性あるでしょう。
これと同じレベルで、
どうせなら、日本人の方が良いと考えれば、
出てくればいいよね。
著名人の死を目の当たりにして、
今日考えた事を書いてみようと想う。
まず、「死」そのものには尊厳なんて無い。
当たり前の事だが「死ぬ事」と「死」は違う。
ベッドの上で看取られる事も、山で遭難して動物の餌になる事も、
根本的には何も違わない。
精々「生き残った人間の当人に対しての感情」が、違うくらいじゃないかと想う。
どう違うのかを言及できないくらい「生き残った側からみた死」については考えてこなかった。
それが少し悔やまれる所だが、これから死ぬまでに考えればよいか。
病床と言うベッドで死を迎える事は、澁澤翁が何か書いていたな。
勿論未読。僕にとってはまだ読めないものだ。
山で死を迎える事は、当人が望む場合もある。
鳥葬とまでは言わないが、散骨を望む人もいる。
姨捨山を思い出す。おいてけ堀というマンガ日本昔話も同時に思い出す。
どちらも、子供心に嫌なにおいがした。
死の間際に、何を見るのだろう。
死にたいと声をあげる輩の多い。
不遇な死を迎える人間も多い。
死には、死という事しか意味がない。
死にたい奴が生き残り、
生きたい奴は生きて、
それで世界は回っている。
死を迎えた人間は、
そのままその世界から居なくなるだけだ。