はてなキーワード: 大王とは
塔は「ご維新」の頃落ちてきたという。
その塔の主人となる大叔父は「本を読み過ぎておかしくなってしまった」という。
どんな本を読んだのだろうか?
「ご維新」の頃というのがいつか? というと、例えて言えば黒船がやって来たのが1853年だそうである。
大叔父はマルクスの「資本論」を読んだだろうか。おそらく読んだであろう。
「君たちはどう生きるか」の主人公の父親は戦時下において軍需産業で儲ける男である。
軍国教育を行っているであろう学校に対して300円寄付をして「学校なんて行かなくていい」とも言う。
鳥である。
ペリカンはどんなに羽ばたいてもその「世界」から逃れることができない。
死を予期したペリカンは「ひとおもいに殺してくれ」と言う。
インコ大王と一緒に大叔父のいる場所に行ったモブインコ2匹は、
しかし、そこは極楽などではなく、まさにいま崩壊しようとしているのである。
そして、その世界の存続を願っているはずのインコ大王の暴走によって崩壊してしまうのだ。
石によって、世界を司ることができるのが大叔父の血縁でなければならないとされている。
例えば北朝鮮のような国であったり、もしくは江戸時代の日本かもしれない。(あるいはもしかしたら戦争以前の天皇制かもしれない。)
そして、支配層が「血縁でなければならない」理想の世界は、崩壊するのである。
「君たちはどう生きるか」は広告を一切しなかった。
広告というのは、資本主義の象徴のようなものかもしれないと考える。
北朝鮮や旧ソ連のような共産・社会主義的な「"理想"の世界は崩壊する」が、かといって「資本主義の象徴」を使用しないという選択をしたのだろう。
川上量生は一時期ジブリに所属していたが(宮崎駿に怒られているシーンの動画が有名だけれど)、
川上といえばニコニコ動画であり、今回はニコニコ出身といっていいだろう「米津玄師」の曲を主題歌として起用した。
ネット出身の米津を主題歌歌手として起用するというのも「資本主義の象徴」を使用しないという選択かもしれない。
「君たちはどう生きるか」はそういった作品であった。
自分の宮崎駿監督に対する身勝手な期待とか甘えを供養するために書く。今作品は期待半分、不安半分という気持ちだった。宣伝なしということだったし、宮崎駿監督作品を事前情報一切なしで視聴できる機会というのはおそらく最初で最後であろうと思ったので、早バレ等も避けるために数日SNS断ちして初日に見に行った。ただ映画館に向かう足取りの中で最後感じていたのは恐怖感だった。子供のころにもののけ姫を見たときの衝撃を再び与えられて、おっさんになった今再度、人生観を揺るがされるかもしれないと―。
さて、いざ蓋を開けてみると、途中まではリアル物なのかファンタジーのどっちなの?というドキドキや不安感。方向性が確定したときに期待感はMAXとなったが、それ以上膨らむことはなくしぼんでいった―。
美術、アニメーションの美しさは申し分ないが、ストーリーは感情移入できない半端な作りと言ったところで、結局、いつもの宮崎監督後期作品という他ない。今、振り返ってみると監督のキャリアハイとしての作品は千と千尋の神隠しあたりになるのだろうが、その千と千尋も後半から、この半端さの片鱗がある。例えば終盤、千尋は豚の中に両親がいないことを見抜くが劇中にその説明はない。しかしながら説明不足ではあっても、千尋とハクとの心のふれあいみたいなものが十二分に描かれているから、感情的に押しきれている。手を離すシーンとか思い出しただけで泣けるわ。
しかしながら、君生きはストーリーっぽいものや感情の揺らぎみたいな表現はあるものの、説得力というか、それ自体の根拠がはっきりと提示されないから、大抵の観客は感情移入できずに戸惑いを覚えると思う。例えば劇中で主人公の自傷行為や継母の拒絶が描かれるが、その感情の根っこが分からないので観客は困る。自傷はもっと構ってもらいたかったのかな?とか拒絶はやっぱり連れ子がうざかったのかな?とか想像はできるけど見てる側はそれを確定させる要素がないから、多分こうだろうとか理由を補完して見ていくしかない。つまり作品に気を遣う状態になるわけで、それは相当きつい。忖度は要求されるが、圧倒的な感情の「分からせ」がない(※)。監督が一人で突っ走ってる。観客は置いてけぼり。かつて宮崎監督は、見終わったあとに2階から出てくる感覚になるような映画がいいとか言っていたような気がするが(ソース探したが見つからず)、君生きは観客が一生懸命2階への階段を必死に探すものの見つけられないまま塔の中で迷子になり、最後にパヤオだけが悠然と2階から出てくるという感じだろうか(画・浜岡賢次で想像してもらいたい)。
あとはヒロイン?3人は多すぎる。実母に継母に婆さんでしょ?詰め込み過ぎて破綻する典型。正直、継母は全部削除して、序盤で実母エピソード増やして、実母を探しに塔に行く形にして、最後、実母ときれいに別れてで多少は形になったろうにね。もっとシナリオ段階で練ればいいのに…もったいない。
もう一つ、主人公が大叔父と話した後に、急にインコに囚われてるシーンになるが謎過ぎる。壁につながれた手が映ってからの下にパンしたときに、実母でも継母でもなくお前かーいってなったのが一番面白かったかもわからない。宮崎監督が過去、インディジョーンズの潜水艦移動を批判していたが( https://ei-gataro.hatenablog.jp/entry/20131030/p1 )、それと似たり寄ったりだろう。いくら異世界?だからといってワープしすぎである。
※ 宮崎監督とも対談したことのある養老孟司は「バカの壁」において強制了解という語をつかった(p.41)。例えば数学においては前提と論理を共有しているのであれば同じ結論に達せざるを得ない。ある定理の証明を正しく説明されたのであれば、その正しさを了解せざるを得ない。そういった強制力を強制了解と呼んだ。そうした強制力は感情においても成立する。例えば電車で子供が騒いでるのをぼけっと放置している父親がいたとして、普通はそれを理解できないが、もし父親が「実は母親が病院で亡くなって帰る所で、これからどうしていこうかと悩んでいたところなんです」と説明されれば、事情は理解できるだろう。事情が分かれば感情を了解できる。それは物語を受容する過程でも同じことが言えると思う。
なお、この流れで養老は他人の気持ちが理解できることを重視すると同時に、「個性」信奉を批判する。そんなに個性が大事かと。存分に「個性」を発揮している人は病院にいるという。白い壁に毎日、大便で名前を書く患者がいるらしい。芸術的にみればすごいかもわからないが、現実的には大変迷惑でたまらないだろうとのこと。奇しくも本作においては継母の美しい顔が鳥糞まみれになる描写があるのでそういう個性的なスカトロジー的芸術に理解を示す人はいるかもしれない。
こうした一見てんでバラバラに見えるような物語の断片も、もしかしたら宮崎監督だけには分かるのかもしれない。スピルバーグだか有名監督が誰にも分らない映画つくるのはホームムービー撮ってるのと同じだ的なことを言っていた気がするが、もしかしたら本当に宮崎監督はホームムービーを撮ってしまったのかもしれない。自分だけがわかる映画作品を作れるとしたら、映画監督としては最高の贅沢だろう。自分用の映画、私小説と言われたらなるほどという気もする。今回、宣伝がなかったという点でも符号する。これはもはや天才にだけ許された所業なのかもしれない(現実に実行可能という意味で)。
ナウシカだったと思うが、興行的に大失敗とはならなかったことから次の作品を作るチケットを手に入れたみたいな監督のインタビューがあった気がする。ジブリブランドが確立するまではコケたら次はない状態であったろうから、興行面は大変重視されたことだろう。つまり天才は大衆に合わせてくれていたわけである。しかしブランド確立された今となっては、大衆を気にすることなく好きな作品を作れるというわけである(ジブリの体制を維持できなかった点には目をつむるとして)。だから今もしかしたら「天才が本当にやりたかったこと」を我々は目にしているのかもしれない。
過去、パヤオ的感性としてはもっとアニメーション表現に全振りしたかったのだろうが、それじゃあ興行的に成立しないから、ストーリーもしっかりさせていたというのが過去の名作への向き合い方だったのだろうか。我々、一般大衆は天才の現実的な妥協のお陰で、(大衆的には)名作となる過去の珠玉を見せてもらえていたということなのだろうか。凡人が天才にちょっと付き合ってもらったという感じ。天才はちょっと退屈していたのかもしれない。大衆は今の退屈を嘆くのではなく、昔、天才に付き合ってもらっていたということを感謝すべきなのかもしれない。
この作品のそういった諸々の分からなさに対してなんとか理解しようとする感想や、なんとか説明しようとする解説記事などが上がっているのを見かけるが、なんとも物悲しい。めっちゃ面白い作品を骨までしゃぶりつくしたい!という渇望から生まれてくる文章はいい。例えばもののけ姫においては「『もののけ姫』を描く、語る 」というムック本があったのだが、それには一ファンから文筆家まで様々な人々の作品に対するとてつもない熱量で溢れている。でも味のしない作品をなんとかして食えるようにしたいという動機から解説を書いたり、それに群がることの虚しさよ。宮崎監督だから面白いはずなんてことはない。権威主義的だし、もうそれは諦めて次に行こうよ。これを知っていれば、本当は面白いんだよって本気で思っている人もいるかも知れない。でもそういう解説を必要とすればするほど、その面白さが作品内で素直に伝わってないことの裏返しである。野球の大谷がいくら凄いからって彼の(打者としての)ファールや三振をありがたがったりしないでしょ?今回の打席は残念だったねでいいじゃんね。(もちろん宮崎監督の場合、次があるかは分らんが)
さて、作品の表題に立ち返ってみると、これは疑問形である。作品としては名作とはとても言い難い。しかし聴衆に対する問いであると捉えたらどうであろうか。物語がてんで成立していないのに問いかけを見出すことができるのか?うーん正直、自分には無理。味がしないんだから問われたとも感じない。
しかし確かに思ったことがある。それは、大叔父のようなお爺さんに期待するんじゃなくて、自分が見たい作品があるのなら、他にそれを提供してくれる別の人を見つけるか、もしくは自分で作るべきだということ。初めから品質保証なんてものはなかった。自分が勝手に期待して、勝手に失望しているだけのことである。
最後に話がそれるが、しかしながらなぜ我々大衆は次々と名作を望むのであろうか。新作を批判すると「じゃあ、過去の名作繰り返し見とけや!」って言われるかもしれない。そう言われるとちょっと答えに窮する。何度も見ればストーリーも覚え、感動も薄れてくる。やっぱり初見の衝撃に叶うものはないということだろうか。それを再び味わいたくて次の名作を追い求めているのかもしれない。キリがないし、わがままだなって思われるかもしれないが、正直人としての性としか言いようがなくないか?そこを内省しだしたら仙人になるしかない気がする。
あとは現実がつらいからね。時には金払ってちょっといい気分になりたい!ぐらい許してほしい。こっちは作者の高尚な構想にがんばってついていく苦行やマラソンじゃなくて、自動で楽しませてくれるジェットコースターに乗りたいの!
で、初見という点で最近思っていることは「私の体験」を大事にすることが重要なんじゃないかと思っている。ゲームでもなんでもあまりレビューを見ずに体験するように心がけている。あらかじめレビューを見て他の人が面白い!星4以上!と言っている作品なら、安定して面白いかもしれないが、半分ネタバレのようなものではないか?
若い人にはタイパを優先しすぎて自己の視聴体験やプレイ体験を損なっていないかと問いたい。面白さの保険料として自身の体験・感動を売っていないか?と。おじさんおばさんは子供のころに自分で図書館で本を表紙で選んで借りた体験とか、ネットもない時代にゲーム屋で「クソゲーかも知れんがままよ!」と覚悟してゲーム買った記憶とかを思い出してほしい。そういう多少、損するかもと思ってもクソ作品を引く勇気をもって、一対一で作品と向き合う、ぶつかってみるということを時々でもした方がいい気がする。だから、今回、作品に対しては残念だったが後悔はない。純度100%の自分の感想を持てた。展覧会的な感じでいろんなアニメーションを見せてもらったという感触では数千円も損したという気もしない。今後もどんどん色んな作品に触れていきたいと思っている。例えばポノックの次作品はちょっと子供向けだろうけど、子供と一緒に見に行こうかなと思ってる。
視聴しながら、ぼんやりと宮崎監督がゲド戦記作るとしたらこんな感じだろうなと思った。影との戦いでゲドは船で移動するし、ところどころの魔法感や大叔父は大賢者になったゲドのイメージだなと感じた。大叔父のイケオジ度は過去最高かも分らんので一見の価値はあると思う。
インコの大王を追いかける時に螺旋階段を落とされるシーンがあったが、長靴をはいた猫での魔王と主人公たちとの大立ち回りを彷彿させた。この作品の監督は宮崎ではないが、そのクライマックス部分は大塚康生との二人で原画担当した箇所であり、とにかく面白い( https://www.ghibli.jp/shuppan/old/pickup/nagagutsu/ )。1969年の作品なので絵のきれいさはどうしても現代の作品には見劣りするがアニメーションの面白さは今でも通用する。未見の人はぜひ見て欲しい。君生きよりよっぽど面白いと思う。で、君生きでは大王がラスボスっぽくでてくるが大した戦いもなく終わってしまうのであっけない。長靴をはいた猫でのアクションを思い出しただけに、「あ、これだけなのか・・・」という虚しさが半端なかった。念入りに階段落とさせたり、序盤で主人公の着替え丁寧に描写するぐらいならもっと面白いカット増やした方が良かったろうにって思っちゃう。
使いまわし多いし、特に盛り上がる曲もなし。3日で作りましたと言われても信じるレベル。久石譲も「これぐらいの作品ならこれでいいや」って感じだったと思う。絶対、名曲ストック持ってるだろうと思うが、映像側がそれを引き出せなかったというのは至極残念に思う。米津曲も悪くはないけど、作為がちょっと鼻についたかな。いつも何度でもみたいな作品とのマッチ感は正直ない。と言っても作品の味がしないのでどうしようもない気もする。そういう意味では米津もかわいそう。
君たちはどう生きるか、をみた。
自分はジブリファンではないので、物語の先にある「モデル」や「元ネタ」までは考えが及ばないのだが、
「こんなお話だと解釈したぞ〜」ってのを書きたい!(ネタバレあり)
「ライフステージ転換期の、戸惑いと受容を描いたお話」だと思った。
転換期の渦中、心や体の変化に戸惑いを抱える者たちが神隠しにあった〜みたいな。
キリコに関しては、次のステージに引き上げてくれるキャラに感じた。
ちょっと悪知恵をくれる先輩だったり、手助けしてくれる産婆さんみたいな(実際物語では船頭や見守り役に徹するし)。
だけど眞人はこの先の人生に興味がなさそうで、疎開先の学校も嫌、新しいお母さんも嫌、
気持ちはこれから先の「生」よりも、死んでしまったお母さん、つまり「過去」に向いている。
しかし体や心は先へ先へと成長していて、ナツコや父親の「性」に触れて戸惑い、怒りを感じている。
塔への侵入が失敗に終わった後の眞人の声の低さに驚いた。
2次成長の強調を感じて、眞人は少年→青年になりかけている状態なんだなと思った。
初期、アオサギヘ異常な攻撃性を持って接しているのも思春期のあまりあるパワーを感じたw
自傷行為は、クラスメイトへの嫌がらせではなく「こんな環境に送り込んだ父親」を責めたい面もありそう。
「自分が拒否しているんじゃない、周りが自分を拒否しているんだ」という状態を作り出したい、
社会への拒絶を相手のせいにしたい…という受け身な心の表現のように思えた。
アオサギはそんな「社会的死を望む眞人の心の表れ、葛藤」なのかなと。
成長なんかしないでずっと自分の中にいたい!ずっと子供でいたい!みたいな願い。
異世界に行ったのもの「ナツコを取り返しにいくぞ〜!」みたいなモチベがあったわけではなく、
ただただお母さんに会うために、流されるままにいった印象。
なんなら「お母さん=過去」に向かって、成長したくない〜〜みたいな思いも抱えながら向かっている感じ。
同様に、ナツコもつわりに苦しみ、出産が怖かった。いきなりできた息子(眞人)が怖かった。
言われなきゃ妊娠中なんてわからない、母親感のない妖艶なお姉さんビジュ。
そんな、変化が怖い!変わりたくない!状態の眞人とナツコが、同じく殻に閉じこもった大叔父に導かれて異世界へ行ったのかな〜というのが物語の始まりの捉え方。
ヒミとの出会いは、「自分の中の母親像に別の面を見つける」という体験だったんじゃないかなあ。
母親が元少女だったことを知る、そして少女が母親になるということのヒミツを知るというか。
産屋に入る=禁忌を犯す…というのは、「性行為」を知る?とかなんじゃないかなと。
(ナツコとヤったとか、ナツコで抜いたとかじゃなく、どうやったら子供ができるか知っちゃう…みたいな)
ヒミ/ヒサコ、ナツコ、眞人は性行為を知っているから楽園から追い出される…みたいな見方もできるのかなあ。大叔父はそれを知ることを拒んだからずっと楽園にいる。
血の表現の多さや、おどろおどろしいジャムパンは処女性の喪失のようにも思えたし、ジャムとパンはキリスト教で言うワイン(血)とパン(肉)にも思えた。
(あの食事シーンでキリストとの契約=人類を繁栄させ続けることを約束させられたのかな?とも思ったり。)
精子っぽい表現の多用、「命を奪う、頂く」「命が死ぬ、命をつくる」みたいなモチーフも多くて、全体的に「命の受け継ぎ」が描かれてる感じがした。
ワラワラの邪魔をする老ペリカンたちは、戦争によって死んでしまった人や今で言う氷河期世代なんかの
「そう生きざるをえなかった人々=命を繋げなかった人々」なのかなあとも思えて、
その選択や悲しみを否定する気にはならず、敵キャラだとは思わなかった。
このへんは私が出産適齢期を過ぎつつある未婚女性だからそう感じ取ったのかも。
そしてこれだけ性的な印象を感じておきながら、物語全体を通して「子を産め」というメッセージだとは思わなかった。
というか、大叔父の世界で作り出されるワラワラたち=精子たち?は…なんか受精しなさそうな感じがするw
殺生もせず、無垢なもの(加害意識を持たざるもの)の精子の放出は、オナニーなんでないかい…?と。。
ナツコが「あんたなんて大嫌い」みたいに言うのは、眞人だけに向けられた言葉じゃなくて
子供を産み育てることへの恐怖、与えられる存在から「与える・守る存在」に変わらなければならない、母になることへの恐怖の表現なんじゃないかなと。
眞人が「お母さん」と呼びかけることでやや柔和な表情に変わるのは、眞人への好意ではなくて覚悟が決まったような、我を取り戻したような感じがした。
あのシーンでナツコは母になる覚悟、眞人は大人になる覚悟(母親の死を受け入れ新しい母親を受け入れる、実社会と向き合う覚悟)が決まった感じ。
そういう意味ではこの物語は神隠しではなくて、「ナツコの出産」の寓意でもあるのかな?
13個の石の積み木が駿の作品数を意味しているとは思いもしなかった〜!(というかそんな知識なかった!)
英語で12まではeleven…twelve…て数えるけど、13からはteenで数え始めるので、そういうキッズとティーンの境目に留まる…みたいな意味なのかなと思って見てた。
大叔父はキッズにしがみついて、1から13まで積み続けるが13を超えられない(13個詰むとバランスが崩れてしまう)
眞人にとってのアオサギは、大叔父にとってのインコ大王なんじゃないかな。大叔父は、インコ大王と共に自分の楽園に閉じこもることを決めた。
眞人はアオサギを説得し、社会と向き合うことを決めた。13よりその先の世界を作っていくことを決めた。
(この異世界が聖書の楽園だとしたら、キリコは蛇の側面もあるのかな…)
大叔父もけして悪役とは思えなかった。
本をたくさん読んで知識と理想の社会への願いはたくさんあったんだろう。だけど実社会で石を積むことを選ばず、自分の楽園を"理想の世界"にすることを選んだ。
大叔父は眞人を楽園に閉じ込めようなんて思ってなくて、世界へ送り出すことを心から喜び、希望を託しているように思えた。
このシーン、これが駿からのメッセージなんだろうなと思って見ていた。
自分の理想や知識や教養を大切に、でも自分の中だけでもなく、血縁でもなく、半径5mでもない、外の世界と折り合いつけて"よく生きてくれ"みたいな。
いつまでも誰かの作品や誰かに庇護される世界に留まっているなよ〜みたいな。
私たちはみんな14個目のブロックを渡されていて、この世界をよくするためにそれを投じる責任がある。そんなことを思った。
神隠しのような、蘇りのような、胎内回りのような鑑賞体験を通して自分が感じたのは「やだ〜〜思春期追体験みたい〜〜〜」という感想。
アオサギが言ったように、私たちはじきにこの感情を忘れてしまう。
成長と共に、私たちの世界への意志(理想や希望や野望)はどんどん弱まってしまう。だけどカケラぐらいはみんな持っている。
自分が忘れても、キリコ(私たちの思春期を見守っていてくれた少し上の先輩)はうっすらとその青い時代を覚えていてくれる。
この社会の暖かさと、この社会を大人として生きていく自分の責任…みたいなものを感じらせられて、鑑賞後はなんだかじんわりと涙目になってしまったのだった。
アッ…そういえばこの映画には「おわり」がなかった。たぶん。
監督から後世を生きるわたしたちに対して「社会と関わること」「命を紡ぐこと」「ものをつくること」のバトンを受け渡されてるような気がして、
この世界はおわらない、つづいてく…さぁ、君たちはどう生きるか?みたいなメッセージを感じた。(タイトルのまんまァ!!)
この映画難しいなって思ったのは、小さな感情の動きやメタファーっぽいものがバラ撒かれていて、
それらが調理されて最終的にハンバーグやらカレーになって出されるでもなく、そのまま終わるところ。
見る人は、物語のカケラを自分なりに取捨選択して、頭のなかでそれぞれのストーリーに調理しなければいけない。
それゆえ、ジブリや駿ファンはそれを彼らの社史や人生だと捉えるし、そうでない人は何か別のものに捉えるのかも。
(当然"カケラ"だけ渡されるわけなので「なんのストーリーもなかった…なにこれ?」となるのも当たり前。)
私は出産適齢期を過ぎつつある未婚女性なので、どうしてもカケラの拾い方や積み方にクセがあると思う。
でもそういう、「見る人によって様々なミスリードが生まれる=見る人の中にいろんなストーリーが生まれる作品」って本当に面白いと思うんだよね。
結局この映画が見せているのは映画ではなく、自分自身のような気がする。
私の勝手な解釈を読んでイラだった人もいるかもだけど、もしよかったら他の方が感じたストーリーも教えてほしい!
先人の皆さんたちの解説も楽しく読みました〜!!(ジブリいろいろ未視聴なのでほ〜そう読み取ると確かにおもろ〜と勉強になった…
https://anond.hatelabo.jp/20230714205336
ちなみに「君たちはどう生きるか」の小説は未読、過去のジブリは金ローで流し見(ハウル・ぽにょ・風立ちは映画館で観た)、宮崎駿の生い立ちも知らんしインタビュー等全く見てない。
他の人の考察も見ていない。この考察が正しいかどうかは分からない。
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→主人公=宮崎アニメを見て育ってきた(もしくはこれから見る)この映画の観客である我々だと思う。
なので主人公の原風景や心内風景と我々が宮崎アニメで見覚えのある風景を重ねることで主人公=我々を強調する意味がある。
■謎展開
そのたび
→アオサギは主人公が感じている自分の中の嫌いな部分。だから主人公は出会ってすぐ敵対したし、主人公を心理世界に誘った。
自分に誘われて冒険してるんだから主体的と言える。キリコもヒミも自分が作り出した像なので主体的と言えるのではなかろうか。
→「父が好きな人」というのが正に動機を説明していて、主人公は自分の中にある夏子への複雑な気持ちと対峙するために夏子を助けに行く。
複雑な自分の心境に触れることには痛みが伴うので禁忌となっている。
→夏子は主人公を守るためにわざと厳しく接して追い出そうとしている。
厳しくされた事によって主人公は夏子を夏子母さんだと認められるようになり、心の禁忌領域が晴れて夏子も救われた。
→異世界に来たくて来たわけじゃないって劇中で言ってた気がする(記憶曖昧)。呼ばれたんだと思う。
→映画の演出のことは全く分からんが、着替えシーンによってリアリティ出すことで、その後火事の中に飛び込んでいく視界が歪んでるシーンの非現実感が増している気がする(小並感)。
アオサギが主人公自身であることから弓矢にも意味があると思われるがその辺はまだ言語化できてない。
■ヴィランの不在
→アオサギは主人公自身なので主人公を心内世界に誘うし主人公の助けにもなるし主人公と和解する。
で、なにか代償が起きるかというと「なにも起きない」。えーーーーー!?じゃあなんで「触るな」って言ったの?
→これは根拠のない妄想だが、ばあや人形を触って倒れちゃうと、現実世界のばあやになんか悪影響でも出るんじゃないだろうか。知らんけど。
さっき主人公=我々と書いたが、大叔父は宮崎駿を表していると思う。
彼はこれまでの自身の監督作品を通して我々に「積み木」を伝えたかったようだ。
たぶん、「(ジブリ作品を通して)観客それぞれが自分にとって価値ある大事なものを見つけてそれを自分で組み立てろ。」と言いたいんだろう。
即ち「君たちはどう生きるか」と言っている。
インコは何を表しているのか。物語の力を信じないリアリストなのかな?とは思うが、禁忌を口実にヒミを使って何を取引しようとしていたか分からない。なんか大叔父と会話してたかもしれんけど忘れた。
全く何の比喩なのか分からない。インコとペリカンが分かってないということは映画の中の結構な部分が分かってないことになりそうだ。悲しい。
分からない
そんなこんなでまだ分かってないことが多い。記憶から抜け落ちてるとこもありそう。このあと他の人の考察読んで分かったことがあったら追記するかも。
おおむね同意見だけど、鳥たちは広く業界人というよりは明確にジブリスタッフに限定されていると思う。ラストでジブリタワー崩壊と共に野に放たれるのを考えても。
ワラワラはジブリスタッフとして定着できず去っていった人たち。
ペリカンは新人(ワラワラ)を潰してきた駿本人を含めたジブリの老害たち。
インコはジブリの若いスタッフたちで、インコ大王はゴローだろう。
ゴローはアニメ監督の才能はからっきしだけど、なんだかんだ作品や美術館を作りきるリーダーとしての資質は認めてるのかなとか思った。
いや~面白かった!
ネタバレはなるべく回避してたが、昨夜ははてブのタイトルでキャストバレ食らい、増田にも感想が出てきたのでSNSは避けるようにしてた。
とうじ5時に起きたが、飯食ったあと寝てしまい、起きたら10時。歳取ったせいか睡眠をコントロールできない。徹夜なんてもうできんな。
客席はかなり埋まっていて、年配の方も多い。
斜め前の席の長身爺の頭が画面に被っているうえ、メトロノームのごとく揺れるねが気になってしょうがない。尻の下に本を敷くが、その分椅子が沈むので意味がないように思う。
予告編のゴジラ、くれしんなども面白そうなのが揃っていてよい。
原作(漫画の)は貰って読んだが、面白くなかったのですぐ売ってしまった。そういう意味では不安もあったが、風立ちぬも堀辰雄そのままじゃなかったし、ファンタジーと言う話も聞いてたのである程度は楽観していた。
妊娠でうん?なったが、ヤったのか父!亡妻の妹孕ませるのは業が深いすぎる…
車で登校は悪手だろ父。案の定喧嘩になるが、いじめって感じでもなく、こっちも手を出してるから不快な感じはあんまり…
やりやがった!マヒトさんもしかしてやべーやつなのでは…免罪しなかったのは偉いが
寄付じゃねーよ糞親父!
音立ててキスすんな!
ちょくちょく母親の死のトラウマ描写があるが、ファンタジーではないっぽい…いやファンタジーだこれ!
水の波紋とか、草むらに入ったら意外と深いみたいな、こういう細かいこだわりがなんか嬉しい。
ワイはインテリなので、暗い森見たときグスタフマーラーの死の森じゃん!ヒトラーが好きだったやつ!って分かったけど、後で調べたら全然違った。石が浮いてるやつも元ネタあると思うけどわからん…マグリットではないと思う
奴隷が回すやつじゃん!
夏子さんのあれ、すずめの親子喧嘩思い出した
血を継いだ者にしか引き継げないってアレじゃん!なんか自虐ネタみたいな面白さがあった
パッパが塔に突撃するとこすき
現実に戻ったら焼死するとこ、ママンのエキセントリックさが全面に出ちゃってるけど、戻らないとマヒトも生まれないんだよな…
ママンが過去に行方不明になって戻ってきてたのも含めて、すずめの後ろ戸っぽさがある
夏子にもウンコつけるのにこだわりを感じる
エンドロール、青で手書きなのがいい。米津っぽいなと思ったら食いしん坊だった。
インコ大王、ポッと出の悪役とおもっら交渉でも紳士的だし、部下帰らせて自分が突撃するし
積木でちょっと株下げるけどちゃっかり生き残ってるし
で、パンフ買おうとしたらまだ発売してないらしい
そこまで徹底しなくても、とは思うけど、そこまで拘らないとこうはできんやな
ネタバレあるぞ。とは言っても、読んでも全く意味分からないと思うぜ。
考察だぞ
めちゃくちゃよかった
とりあえず変な情報入れる前に、自分の目と耳で感じた方がいい。
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○冒頭の火事
お母さんの病院だけ燃えてるし、病気のお母さんが燃やしちゃったんだろ〜うなぁ
○石
これはびっっっっくりした。学校をサボるために石で自分の頭を割る主人公なんて今までの駿の作品には無かったから、お前そんなのも描けるんか……って感動した。新しい駿だった
○時代
正直、戦争系かーーー、ファンタジーから逃げるなよ……って絶望したんですが、早とちりでしたごめんなさい。時代的に戦闘機とか爆弾描写とか入れたくなるはずなのに、ガチ戦争描写は一切なくて、駿のセンスが光りまくってピカピカして眩しかった。
○わらわら
あたち♡
○神描写
多分ごろーだったら、偽お母さんが水になるところは美しい顔が崩れる様を画面いっぱいに見せてくれそうだけど、駿は視点が上で、顔が崩れるところは全部見せないのが本当に本当に本当に美しかった。
○キャラクターが生きてるし考えてる。
あんなに徹底的に足場を切るの、性格が出てて最高すぎる。キャラクターが生きてる・考えてるってこういうことを言うんだろうな。
あの最後に残ったところまで切るところに痺れた。最高だった。
○下の世界
塔は上から降ってきたけど、わらわらは上に行くよな。「上の世界」が私たちの世界だし。
呪いの海とペリカンと謎の黒い人達(死んでいる?殺生ができないのはなぜ?)を考えたい。ペリカンはあとちょっとでいけそうだけど……
あとあのばーちゃんは下の世界の人だったってこと??でも「行きたくないー」とか、沈んでいったのは何でだろ?ってなるから違うんだろうな。
もっと観たい、また観にいきたい
○駿の才能
あの情報量を、あの短時間でまとめあげるのすごすぎじゃないですか??
全部辻褄が合ってるし、全部回収されていくのがストレスもなくて気持ちよかった
「なんで?」って思うモヤモヤも、すぐに自然な流れで「質問」してくれるから流石すぎた。
駿のセンスが光りまくっている。
走る時の疾走感もすごい、
これは確実に新しい作品くるやつですわ…………
キャラ魅力度【1】/4
テンポの良さ【1】/4
魅力的、独創的な演出【2】/4
映像美【3】/4
音楽の良さ【2】/4
合計【14】/50
■良かった点
・火の粉が舞う中、病院へ向かうシーンの演出、作画、凄み感じた。写真や動画じゃだせない絵だった。印象派を感じた。凄い。
・タバコを交渉材料にして、ナイフ研いでもらうシーンなんかいいよな。大人と子供が対等な感じがして良い。
・きりこさんが舟を操ってるのかっこよかった。いい作画。魚釣りのシーンも良かった。海の底からのアングル格好良い。
■気になった点
・父親の傲慢さ、剛腕さが鼻につく。姉と結婚死別してすぐ妹と結婚すんのかよ。価値観合わなさ過ぎてゲロ出るわ。
・夏子さんが、眞人の手を引っ張って妊娠してるお腹を触らせたシーン。ちょっと厭らしさを感じたな。自分は母親になったんだぞって誇示してるようで。僕はそういうのやられたらヤダな。夏子さん基本良い人なんだけどね。
・勝手な想像だけど、父親が夏子さんの金を目的に結婚してそうで、嫌だなぁって思った。
・眞人、自分で傷をつけて、同級生を貶めようとするの嫌な奴だなぁ。
・父親、自分の子供のことだけしか考えてなくて、猪突猛進で学校に抗議とかモンスターペアレントやんけ。
・アオサギの中身、ハゲチビニキビ歯茎でキャラデザ悪すぎ。声も嫌い。
・カエルが大量に体に張り付いてくるのあれなんなん??まじで不快。不快!!なんなの??演出の理由を聞きたいわ。不快。
・矢羽のなんか意味わかんない必殺技みたいな奴、あれなんなの??意味不明。ダサい。
・ペリカンをなんであんなに沢山出さなきゃいけねーんだよ。気持ち悪いわ!!不快。
・きりこさんが出してるシチューを盛るシーンの効果音が泥みたいな音で不快だった。前のシーンが魚の内臓がガッツリ出てくるシーンだったから余計にキツイ。
・塔が宇宙から降ってきた隕石ってなんなの??現実と虚構をもっとわかりやすく表現しろよ。千と千尋と同じくらいわかりやすくしてくれよ。なんか全然設定が腑に落ちない。
・ジャムパンの食べ方汚ねぇー!!音も不快。ジュルジュルじゃねえよ、汚ねぇよ!!
・夏子さんの「おまえなんか嫌いだ」って台詞、あれ要る??物語上不要だったよ。無くても成立するのに、ただ不快だっただけ。
・急な夏子お母さん呼び意味わかんない。なんで急にお母さんって認めはじめたん?心境の変化生まれる要素あった?
・塔から落ちそうになってアオサギに助けてもらっても、ありがとうも何もなく塔の中に入っていく眞人。あれでよくアオサギは眞人に対して友達とか言えたよな笑。お前眞人からは友達って認識されてねぇよ。
・ジジイはもう引退しろ。全然魅力的な世界作れてないよ。インコ大王に切られて良かったね。
・積み木にピース加えるシーン、ダサぁ。あれわざわざ描く必要ある?
・鳥の糞が落ちすぎ、汚い。
・全体的に「なにみせられてんの?」感が強い。
・わけわかんない。意味不明。
・唐突。
■別にどうでもいいけど気になった点
・あの門なんだったの?
■さようなら宮﨑駿
ありがとう、宮﨑駿。もう新作が出たとしても観ないと思います。
今までありがとうございました。
(吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」は未読なので、そこからの引用があったらごめんなさい)
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いやね、まったくダメってわけじゃないのよ?最終的には得意の異世界冒険活劇に着地させるし。そこは熟練の技。
ただ、セルフオマージュをしたいがための意味不明な設定や展開が多すぎて、全然ストーリーに乗れないの。
父親が(多分)軍用機のキャノピーを作る工場を経営してて、主人公はいいとこの子、って設定、なにかに生かされた?
あ〜「風立ちぬ」っぽい!ってシーン以外、ストーリーに絡んでなくない?
主人公が引っ越す旧家も延々歩く描写があるわりに、結局主人公が暮らすのは離れの洋館だし、舞台はほぼ塔の建物と異世界。
結果、和の旧家はばあやがたくさんいる、という描写のためだけにでてきた形。
■謎展開
そのたび
「ついてこい」「わかった。ついていく」で状況説明するもんだから主人公の主体性isどこ?ってなる
最近会ったばかりの父の再婚相手(しかも距離感微妙)を救うために冒険しなくない?
助けるモチベーションを問われて、何度も「父が好きな人だ」って説明する羽目になってる。謎動機。
あれ、いつの間にか救われてる。じゃああの描写いらないじゃん。
そもそも後妻はなんで異世界で子供産もうとしたのかも語られない。
ほかにも「母親の病院が火事だと聞いて家を飛び出すも、一旦家に帰って着替えるシークエンス」「弓矢を作るシークエンス」など
無駄なシーンが多い。その時間で主人公の動機をもっと作ってあげればいいのに。
■ヴィランの不在
宮崎アニメの魅力はやっぱり悪役だと思うんですよ。カリオストロ伯爵しかり、ムスカしかり、カーチスしかり。
インコ大王は悪役ってほどもなかったし。アオサギ?彼は何がしたかったの?
で、なにか代償が起きるかというと「なにも起きない」。えーーーーー!?じゃあなんで「触るな」って言ったの?
にも関わらず「産屋に入ったのが禁忌だった」ってまさかの後出しタブー!聞いたことねえよそんな作劇!
■結論
「塔状の建物を上に逃げる悪役を追う展開はカリオストロ!」「森のトンネルはトトロ!」「崩壊シーンはラピュタ!」「幻の船団は紅の豚!」
みたいな楽しみ方はできるけど、それだけなんだよなあ。
まるでシナリオ第1稿をそのまま映像化してしまったような、すごくもったいない作品。
出したけど聞き入れなかったのかは分からないが、
これが宮崎駿の遺作になるとしたら残念でならない。
自分はもののけ姫くらいからリアルタイムで見て、振り返ってカリオストロ以降は全作見て、本やインタビューもそれなりに追っているまあまあの宮崎駿ファンです。
千と千尋の神隠し、風立ちぬあたりがフェイバリットです。箇条書きで感想書いていきます
吉野ヶ里発掘のニュースで、自分の中の邪馬台国畿内説vs九州説へのロマンが盛り上がったので書く
まず自分は古代日本史や考古学の全くの素人であることをお断りしておく。
古事記・日本書紀が伝説として好きで子どものころから繰返し現代語訳で読んでいた。
学生時代、九州旅行で記紀に地名が出てくる場所を訪れロマンを掻き立てられたこともあり、自分は昔から九州説派である。
奈良県がまとめている古事記ゆかり地マップは全国のゆかり地がマッピングされていて親切だ。
だが、ここ5年ぐらいで専門家の間では畿内説がほぼ鉄板となったという話は何度も聞いていた。
専門家の意見に一定の価値を置く自分としては寂しさを感じつつ受け入れていたが、今回のニュースで改めてググってみると、やはり改めて九州説を自分は強く推したいと思う。
(因みにネット上の情報は圧倒的に九州説が多いので、ネット情報を中心に接種すると九州説派になる模様。)
こう書くとバカみたいだが、
⇒ 埋葬されている王は歴史に残る大王であったと考えるのが普通
⇒ 中国との交易品を考えると邪馬台国は大国であったはず。纏向にあったのが邪馬台国でないなら、中国は地方の小国と交易していたことになり不自然。
ということなので、考古学的証拠から邪馬台国=大和国で、纏向に首都があったと考えるのは納得できる。
・新版 古代史の基礎知識 (角川選書)の前半(倭の五王まで)
まず邪馬台国=大和国は自分も同意。「たい」なんて音は日本語の発音になじまない。
そのうえで、自分はこのYoutubeで関川尚功氏が指摘している「女王の住居が奈良なら、伊都国(大宰府周辺と推定されている)で女王への贈答品の確認はしないだろう」という意見に強く賛成する。
https://www.youtube.com/watch?v=dA3e14517Ek
現代にも通じる物流の常識感で、中国から奈良まで水路でこの後運ぶ荷物の確認は、一旦寄港した福岡でなく最終水揚港の大阪付近になるはずだろう。
伊都国で贈答品の確認をしたという魏志倭人伝の記載はこのリンクでも紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/25route.html
記紀ではうっかりか意図的にかの違いはあれ、三輪山の神に去られた百襲姫が女性器を箸でついて死んだとある。これはどう見ても性交または出産に関したトラブルで死んだように読める。
また、その墓は夜は神が昼は人が作ったとある。この表現は緊張関係にある2つの部族が彼女のために距離を置きつつも協力して墓を作ったように読める。
卑弥呼が何歳で他界したかはわからないが、魏志倭人伝から長い治世だったと考えると性交出産トラブルで死ぬような年齢だったのか疑問がある。
次に、魏志倭人伝に卑弥呼が死んですぐまた国が乱れ台与を女王にたてたとあるので、争いあう二つの部族が卑弥呼の墓を一定期間協力して作ったというのが想像しにくい。
九州の大和国が卑弥呼を女王に立て勢力を伸ばし、彼女の在位中に近畿に東征し、奈良の三輪山周辺に拠点を持っていた大物主一族と姻戚関係を結びながら(神武天皇の皇后も大物主の姫)、最終的には大物主一族も亡ぼしたのではないかと思う。それが記紀で神武東征伝説として書かれた内容だろう。
卑弥呼が自分の兄弟である神武(または崇神)(※二人とも「はつくにしらすすめらみこと」)と共に近畿に移動したかわからないが、中年女は引越しを嫌うので九州に残ったかもしれない。
だが、ある程度近畿で大和国が勢力を持ってから即位しただろう台与は近畿で生活していただろう。
彼女が死んだとき、大物主一族と大和国の間は既に緊張がありつつ協力して墓を作るぐらいの関係性はあったのではないか。
その後、大和が謀略か戦争かで大物主一族を滅亡させたため、その祟りを恐れ、記紀にあるように一緒に祀っていた大物主と天照(卑弥呼か?)を分けて、それぞれ三輪山と伊勢神宮に祀ったのではないか。
吉野ヶ里で今発掘中の貴人の墓は、卑弥呼の墓として魏志倭人伝に書かれている径百余歩の大きさに到底及ばない規模らしい。自分は吉野ヶ里は卑弥呼の墓ではないだろうと思う。
卑弥呼の墓はまだ発見されておらず、台与の墓は先代と同じ規模にということで箸墓が径百余歩の大きさなのではないか。
魏志倭人伝にある邪馬台国の場所の説明は、神武東征が始まる前、または、まだ卑弥呼が九州に残っている時のものなのではないか。
130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。
見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。
主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画にありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。
あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。
でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。
こういう映画ってたまにあって、それは自分が言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。
じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。
主人公マリオはニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民で大家族で暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。
会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。
おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。
映画になって肉付けされたこのマリオ像ってのは、結構好感度ありました。
主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。
それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。
これらは映画を含む既存のストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマの類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます。内面の問題や弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品の王道ですから。
歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。
そういう歴史あるテーマの歴代傑作の洗練に対して、この映画のエピソードづくりや演出が最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸なファミリー映画」ですらある。
たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家と一般ユーザーの間で、この映画の評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。
あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディアは物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定をちゃんと払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実の問題が駆逐されるなんてことはなかったわけです。
でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。
それは成功体験です。
問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!
そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲームの本質はこれで、これでしかないんです。
何か挑戦すべき課題、突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲームの世界を調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。
「努力すればなんとかなる」。
そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要な価値観が込められていることがわかるでしょうか?
スーパーマリオの歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲームの歴史です。そして、ビデオゲームの歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージの歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。
前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存の物語メディアの、少なくとも映画の文脈で言えばそのシナリオや演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。
つまり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオと任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。
マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオは映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。
それをマリオは「スマートに物事を解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。
それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲームの主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。
そう考えてみると、この映画の白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオがピーチ姫への同行許可を得るために、練習用コースに挑戦した部分だったと思い出されます。
マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。
そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。
でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題と勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンにクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワーに覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃんと理解できるのです。
ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者の理解や感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画もドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲームの文脈を抱きかかえることができた。
映画もゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。
+30点はあるよ、ちゃんと実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観をゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。
さっきブクマで「いやー、そりゃ第二世代とちゃうんやないか」とちょっと書きかけたのだが、
そう思う理由は、当時は、銀英伝やパトレイバー以外にも、もっと他にいくらでも政治や思想が混ざったサブカルが溢れてたからです
パトレイバーに引っ掛かってたらZガンダムや逆シャア、ボトムズに引っ掛かってないはずがない
特撮ヒーローは仮面ライダーやウルトラマンのリアルタイム放映はなくても再放送しまくってて、
雑誌記事やケイブンシャ大百科など児童の頃から情報がいくらでも摂取できた
というか、銀英伝やパトレイバーにリアルタイムでハマってたら、その後の大学時代に「うわーあんな台詞言っちゃうのはずかしー」ってなります
なりましたよね
そんなもん、40歳、50歳にもなって、今さら蒸し返したくありませんわ
なので今頃に銀英伝やパトレイバーをネタ元に出来るのって、もっと下の世代が後から憧れてやってんだろうなーと思って眺めてる
やはり児童の頃はまだ冷戦真っ最中で核戦争の恐怖やスターウォーズ計画が真面目なニュース番組で語られてて
それが大学に入る前に冷戦終結、ソ連崩壊し、民主主義陣営は正しかったんだアピールをたっぷり浴びせられ、
もう未来はバラ色だ1999年に恐怖の大王は来ないんだと遊びまくってて、
そしたら湾岸戦争とかオウムとか就職氷河期とかあってアレ?って思いつつも
「まあ、そのうち何とかなるんじゃね?」とフワフワっとした気分のままネットとエロゲにハマって
気が付いたら今に至る