はてなキーワード: 大成とは
最初に言うが、これがそういうタイトルの増田文学で、全部単なるフィクションなんてことはない。紛れもない事実だ。
私は今年で40になる。これはちょっと嘘。±30歳ぐらいの範囲で嘘をついてると思って欲しい。
そこそこ安定した業界の安定した職場で正社員をやっている。給料は良くない。
ぶっちゃけこの仕事は嫌いだ。まず面白くない。労働時間も長めだ。スキルの身につきも悪く同業他社への転職だって苦しいだろう。なまじ安定してるせいで変な人間だけが居着いて、ちゃんと他所で生きていける人間は逃げていく。
こんな妄想にいつも取り憑かれている。
夜中にアイディアをひらめいてプロットエディタに設定を並べて、次の日見たらつまらなすぎて消したことが10回ほど。
それとパロディ小説が流行っていた頃に、真似事をしようと匿名掲示板の書き込み欄に妙なものを打ち込んで5分後に完全に飽きて消したのが3回ぐらい。
ハッキリ言って、この小説を書く以前の行為の段階で自分には才能と呼べるものがないことがハッキリしている。
アイディアは思いつかないし、文章力はないし、情熱も続かない。
小中学生の頃は青い鳥や角川の文庫をよく読んでいたので同級生よりはちょとばかり文章は上手かったが、それでも読書感想文の賞すら貰ったことはない。
ある時提出した宿題の出来が良かったのか論文コンクールへの応募を薦められ、好きにしてくれと教師に伝えたら後日参加賞をそっと渡されたことはあった。惨めだった。
ブログの投稿内容を10年前と見比べると露骨に語彙が減ってきたなと感じる。
そんな状況なのに、私は今でも「私はいつか作家になるのだ。超売れるのだ。そして仕事をやめるのだ」と思い込んでいる。
信じられるかい?
ツイッターで面白い(と自分では思っていること)を呟いた時にいいねが2個ついたら喜ぶような人間が、作家として大成する可能性があるのか?
もうこんな妄想ぐらいしか自分には残ってないからなんだろうな、と。
あまりにも毎日が惨めすぎるから何かしら妄想に縋ってないともう限界なのだろう。
たとえばこれが「仕事で大成功する」とか「エンジニアとしての才能に目覚める」だったりすれば、きっとそれはもっと生々しい実感を伴って日々何も積み重ねていない自分の姿を映し出すことになるのだ。
「小説家になる」というアホみたいな夢だからこそ、本当に何もしてないままでなんとか夢を見続けられているに違いない。
なにせこうやってどうでもいい言葉を書いたり読んだりするだけでも「読み書きの練習」だと言い張れるんだから。
インプットはともかくアウトプットにはそれ相応の労力が必要になる。
昔ネットにプログラマーにもイラストレーターにもなれない奴が小説家を目指すというフローチャートが貼られたが、そのどうしようもなさがいい方向に働いているのだ。
とにかくこの妄想は私が死ぬか、次の妄想に取り憑かれるまで続くのだ。
むしろ、私の人生を貶めるような妄想から私を守ってくれているのがこの妄想と言える。
宗教や薬物や恋愛に人生の逆転を求めてのたうち回らぬようにするためのものだ。
自分の人生に余計な劇物を混ぜ込まれないよう、なにかコントロールしづらいものが始まらぬよう、不活性な夢を詰め込んで空虚なままにしているのだ。
昔2chでみたコピペ「人生を壺に例えるのなら、小石や水を詰めてしまう前に大きな岩を入れなさい」。
あの話における岩を自分の人生に入れることも出来ず、かといって手頃な石を必死に集めて人生の価値を取り繕うのも面倒だから、風船を一つ押し込んで人生を終わらせることにしたのだ。
このままつまらない仕事を続けて、結婚もせず、大した趣味も持たずに死ぬ。
酔生夢死を夢見ながら実際にはそれなりの苦痛を緩やかに味わい続けて命が潰えるのを待っていく。
そのための連れ合いとして必要不可欠だから生まれた夢だったのだと思う。
全て忘れたい。
こんな程度の人間に生まれたことも、生きるために人波の中でゆっくり針のむしろを感じて生きる時代の中に生まれたことも。
何もしたくない。
何もせずに生きていたい。
だけど、いつか何かが起きて生きててよかったと思えるからと自分に騙されてここまで生きて、今更何もなくて終わらせるのは耐えきれない。
それで選んだ夢がこんなものか。
それで結局、何もやっていない、と。
どうすればいいんだ。
駄目だ。
自分で書いて読み返すのもキツい。
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地方都市の大学をまあまあの成績で卒業した自分は、「顧客から『先生』と呼ばれる職業」に就いた。ちなみに、学校教員ではない。
学生時代はそれなりに注目された人間で、というのも、自分には生まれつき特異な能力がひとつだけあった。それを以て、良くも悪くもほんの少しだけ特別扱いを受けて生きてきて、仕事もその能力に関わるものを選んだ。
ところがその特異な能力とやらは発達障害によってもたらされた偶然の産物であり、社会に出た瞬間に自分は無能と化した。特有の段取りの悪さ、睡眠障害、虚弱体質、感覚過敏、これら要因により溜まったストレスを引き金とした定期的なパニック発作。それまで「生きづらさ」に自力で折り合いを付けてきた自分が精神科のお世話になるまで、一年と経たなかった。
明らかに仕事の能率が落ちて、上長と相談して少しずつ雇用条件を緩くしていったが、気がついたら精神障害者保健福祉手帳が交付され、今では正社員を諦めて週4日の勤務。ボーナスも手当も全て消え、手取り月収は半減した。これを機に障害者雇用枠に収まって合理的配慮を受けようかと思っていた矢先に、どこぞのお偉いさんから、発達障害を悪く言うメールが回ってきた。そういう訳で同僚にカミングアウトする機会を完全に失い、現在の自分は「よく分からないが体調の悪い人」という扱いになっている。
それでも自分は今の仕事をやめられない。この能力を活かせる瞬間に、自己肯定感を完全に依存しているからだ。ハローワークで求職者登録をして、色々な求人を見ても、顧客の顔が頭をよぎる。転職したら自己肯定感を保証してくれるものが無くなってしまう、という恐怖に、今も苛まれている。
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仕事に自己肯定感を依存しているということは、私生活は思い切り虚無だ。
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自分も趣味と呼べるものを持っているのだが、最近はそれに興じるのが怖くなってしまった。表現に関わる趣味だったが、時が経つにつれてSNSのタイムラインは、より潤沢な資金と時間と能力、そして社会性を持つ人ばかりの世界となり、筆と心が折れてしまった。孤独に生きている横で、仲間達は別のことで盛り上がっている。それに興味を持てるような精神力は、最早残されていない。
自分にしかできない表現、なんてものも無い。これでも当初は自らの表現するものに需要があると思っていたのだが、明確にそれを覆す出来事が、つい最近あった。いや実際の所は分からない。「嫌いなのは作品ではなく、社会性に欠けたお前自身」という可能性もある。どちらにせよ活力が削がれることに変わりはないのだが。
そして、こうしたことに気付く頃には、他の趣味に没頭する気力が無くなっていた。今の自分は、余暇に何をするにも義務感を伴う。
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こんなとき、病んだ人間を救うのは家族や恋人の愛というのがテンプレートだ。一応、自分には家族も恋人もいる。
家族は、私が手帳持ちで正社員を辞めたことを知らない。彼らがイメージする自分は、いつだって明朗快活、何事も気合で乗り越えられる精神力を兼ね備えている優等生だ。それは一体、誰のことだろうか。
そして家族は、自分に何も喋ってくれない。気付いたら父母は事実上の離婚状態だったし、気付いたら自分の教育費は両親ではなく親戚が支払っていた。私の知っている一般的な家族とは何か違う、謎の共同体だ。
恋人のことは心から愛しているが、その人は自分と一緒にいるときよりも、友人と語りあっているときや、趣味に入れ込んでいるときの方が余程幸せそうに見える。と言うと、「人の感情や好みを他人が勝手に判断しないで」「好きだと何回言ったら信じてもらえるのか」といつも怒られるのだが、それほど好きならばもっと向き合ってほしかったことが色々あった。
しかしながら今思えば、お互い身内でも何でもないのだから、これで良かったのかもしれない。これ以上他人に負担をかけて生きたところで、何も楽しくないのだ。
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20代半ばにしてこんなにも空っぽなのだから、限りなく婉曲的に表現すると〝損切り〟をした方が良いと思った。
転職をして自己肯定感を得られなくなる前に。働き続けて家計が壊れる前に。恋人から「そろそろ結婚を」と言われる前に。趣味仲間が大成する前に。心がすれ違った家族の最期に向き合わされる前に。
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こうして自分は今日、書店でエンディングノートを買った。とても残念なことに、おそらくここ一ヶ月で、最も行動力に満ちあふれた瞬間だったと思う。
これ程までに精神を病んでも、まだ「立つ鳥跡を濁さず」の精神は一丁前に残されていて、使っていない銀行口座や家族が見てもどうしたらいいか分からない物品がそれなりにあることに負い目を感じた。なまじ責任感が強いと困るばかりである。かといって責任感が強いところで、その責任を果たすことはしないのだ。本当に社会の穀潰しである。
まあ言いたいことはこれ。
基本的に伝記やドキュメンタリーって、監督側の意図が入りにくいんだよね。
メッセージ性を込めようとしても、どうしてもそいつ人生特有のノイズが入る。
こないだのフレディ・マーキュリーのやつもそう。
LGBTの勝利と歌を掛けてるのは理解できても、フレディの人生自体がLGBTで大きく勝利したわけではない。
LGBTから転じてみんな人生の勝利者だ、と言いたいのだろう。
しかしピントがぼやけてるし一般化できる事項ではないので伝わらない。
何より歌手として大成したのは彼らの才能と時代と努力であって、LGBTと何ら関係がない。
自己責任論を否定するときって大体どうしようもない先天的な障害とか貧困とかそのへんを引き合いに出すじゃん 本人とは関係のないところが大きいんだから努力の話にするな!みたいなさ
一方、俺のスペックは
でも現実には全然勤労意欲がなくてニートだし、自殺してえなあとずっと思ってる
なんというか、今の苦境は全部俺のせいというか俺の人格のせいな気がするんだよな
ネットでやれるADHDの診断なんかをやってみると可能性中〜大って出るから発達障害のセンも捨て切れないんだが、病院行くのがめんどくさすぎてわからんまま
恵まれた環境からクソみたいな人生だ 同じ身体でも違う性格で生まれたらもっと大成してたんじゃないかと思って申し訳なくなることがある
習い事だってやりたいといえばできただろうし、受験ももっと真面目にやってればもうちょい良いとこに行けた気がする
「俺は本気出せばすごいんだぞ」と思う時期は終わった 「俺には本気を出すことができないんだ、あるいは俺に"本気"なんてものはないんだ」と今は思う 人生掛かってても1日1時間勉強できるか怪しい 就活はノーエントリーで終わった
戸塚ヨットスクールにでもぶち込まれたらいいのかな でも終わったあと自殺しそうなんだよな
俺みたいなのはどうしたらいいんだ 自分の性格的欠陥だけが原因で人生を失敗してる 気力に障害がある なんなら幼稚園のときからそうだった ゴネて登園時間を2時間遅らせてた
助けてくれ、と思うがその「助ける」っていうのは不労所得を年200万円くれとかそういう感じだ それ以外じゃどうやっても助からない でも無理だろうな
死なせてほしい 合法的に…というか、公的な感じで 薬を飲んでスッと死にたい 死への恐怖はなくて、未来への恐怖の方が大きい
今のACG(Anime,Comic,Game)系オタクコンテンツで最も重要な要素は「てえてえ」になりつつあります。
コンテンツが「面白い」「楽しい」「美しい」「かわいい」「格好良い」「エロい」等の要素も勿論大切ですが、
最重要視されるのは「てえてえ」です。
てえてえとは、主に人と人との関係性の尊さを指していて、
漫画やアニメの登場人物同士の関係性や、最近ではバーチャルユーチューバー同士の関係性によって表現されます。
登場人物同士が互いを想い合う様や、自己犠牲や献身の精神を持つ様が「てえてえ」であり、
その様子が現実的である程に、その「てえてえ」は高い評価を得る事になります。
「てえてえ」の作り方に粗が在る、各登場人物が「てえてえ」を強要されていると受け取った場合、
「てえてえ」を作り出す為にはどうすれば良いのか?
てえてえを作る為にはまず、その人間関係を見せつける「場」を形成する事が必要不可欠です。
犠牲や献身の心を持つためには、何か大きな障害が存在している必要があります。
その世界の中で登場人物達に「てえてえ」を実行させることが可能です。
ただそれらはあくまでアニメやゲームの製作陣が作り出した虚構の存在であり、
どれだけ現実味のある「てえてえ」を作ったとしても限度があります。
オタク達はどこまでも「てえてえ」を求め続ける。
だけれども、よりリアルな「てえてえ」は架空の作品では享受し得ない。。
その答えの内の一つが、
最近のバーチャルユーチューバーだと言えると私は思います。
彼ら彼女らは、youtube上やtwitter上で人気を得るために、日々必死に「てえてえ」を作り出しています。
そんな彼らは、見た目はアニメキャラクターだが中には人間が入っていて、
「有名になる」という目標の為に「炎上」「アンチ」「不人気」等の障害と日夜闘っています。
バーチャルユーチューバーというキャラクターを演じる以上、かれらの設定や言動には多々虚構を含む物の、
商売でバーチューバ-を続けている以上は紛れもない真実であり、
「大きな目標と障害」のリアリティは、そもそも事実なので完璧な強度を持ちます。
そのうえで、各バーチューバー同士で助け合ったり献身し合っている様を演出する事が出来れば、
「てえてえ」の完成度は計り知れない物になります。
正し、そのてえてえが偽装された物や、会社側に強制されている物の様に見えた場合、オタクは冷めてしまう為に人気が出なくなります。
つまりバーチャルユーチューバーはより強度の高いてえてえを作り続ける事が求められる存在なんです。
企業側もその辺解ってるからこそ、イメージ戦略を必死に頑張ってるんだなあと思います。
…もしも仮に、タレント側がギリギリ乗り越えられる程度の障害を作れるプロデューサー、
言い換えると、
"タレントがギリギリ耐えられる程度の炎上を意図して生み出せるプロデューサー"
が居たとしたら…
それは良い「てえてえ」を生み出してくれるんだろうなあ…
話題になってることとちょっとそれるんだけど、ITエンジニアでも別にプログラミングが得意じゃなくてもできる職種ってあるんだよね。
例えばDBAとかネットワークエンジニアとか。インフラエンジニアは最近SREって言われ始めてプログラミングも求められるようになってきてるけど。
そういう業種の方が人が少ないので売り手市場だし、周りのエンジニアからも頼られるし、食いっぱぐれにくいと思うんだよね。
大成するかはその人次第だけど、ゴールをこれらのスペシャリストになるっていうのを設定しておくのも一つのキャリアプランとしてはありだよね。
俺が全く大成しなかった理由の一つに、記録を整理できないというものがある。
今はサラリーをもらって働いている。今年はちょっとしたことがあって確定申告する必要があるということはずっと前からわかっていた。
ということで無くさないようにしっかり封筒に入れて管理していた。
そもそも、もう一個の会社からも給料を得ているので、そっちの源泉徴収票を取っておく必要がある。確定申告に使うわけだな。
こっちは絶対に無くさないように封筒に入れておいて、そして折を見て取り出し、手帳に挟んでおいた。
俺は手帳に挟んだから、初めのメーンの職場の源泉徴収票についても同様の処理をしたと勘違いし、そのままにしていた。
ところが他の資料はだいたい集め終わったのに、封筒がないのである。
生活は一事が万事こんな感じで、取っておくべきものを取っておくのだが、取っておいたものがどこに行ったのかわからなくなる。
どうしてそうなるのかというと、取っておくべきものが連続して何個かある場合、取っておくべきものが複数ありそれぞれ適切な場所におくべきだからだ。
いろいろ対処法などを友人や家族や職場の人間から聴いて「大事なものボックス」みたいなのを作った方がいいという結論を得た。
ということで、そのボックスに入れるのだが複数の問題点がある。
現在ボックスは6個ある。保険の書類、銀行関係の書類、職場の任用などの書類、家族関係の情報、その他仕事がらみの秘匿するべきボックスがあといくつかあるのだが、そもそもそこに至るまでにボックス以外の場所で書類は作成され、あるいは自分の机上に誰かにより置いてある。そういうものを大事だと判断して無くさないように(他の紙と一緒にならないようにクリアファイルや封筒に入れて日付と内容を書いておくして、帰るときや行くときに持っていく。)そうすれば間違いなく書類は大事なボックスに入るはずなのだが、世の中必要な書類が多すぎてどれをどこに置いてどのボックスに入れるべきかいくつかの経過があり、容易に書類は失われてしまう。すなわち最初からボックスに入っていればいいのだが、私がボックスまでに持って行って管理するのだから、その私がポンコツであったら初めから同じことで、ボックスがあろうがなかろうが資料は同じ確率で失われてしまうのだ。
第二の問題点としてボックスに入れるのはいいのだがすぐにパンパンになってしまう。特に仕事関係。それで何がどこにあるのかすっかりわからななくなってしまうのだ。
モノがどこにあるのかわからないからものを捨てられず、いつも徹夜しながら探して次の日の仕事に間に合わせている。パソコンの中の資料についてはフォルダーに入れるのは諦めて8桁の年月日で管理している。8桁なのは業務上応永とか長徳とかの元号の時代の情報を扱うから6桁じゃダメなんだ。資料を作成した月や日付や資料名がわかればたどり着ける。パソコンは便利だ。
これは明らかに何か身体に問題を抱えているのかもしれないけれど、仕事はこなせているからそこは自信を持ってやっているんだが、いつもものを忘れて、もうそれに20年以上付き合って、同じようなミスを同じように何百回も繰り返しているとちょっと辛くなることがある。
そうです。彼は恐らく賢い子供なのです。彼と会った大人たちはみな「賢い子ですね、将来は大成しそうですね。」と言います。夫も「うちの子は周りの大人がちょっと変わった教育法とか試してみたくなるタイプの子だよね。」なんて言います。私もそう感じる瞬間はありますが、人より秀でている箇所が具体的にどこなのかはよく分かりませんし、先進的な教育法を試そうとしてゲームをしたい息子とケンカになるのも目に見えてます。なんというか天才風ではあるのですが、そんなことより買ったドリルをやるとか、ゲームはほどほどにするとか、そもそもすぐに泣かないとか、分かりやすいものを求めてしまいます。私と彼は相性が悪く、恐らくできるだけ彼と関わらないことが私にできる唯一の親としての愛情表現なのでしょう。それをできるだけ守るよう努力してきましたが、この休校で台無しです。長々とすみません。誰かに聞いてほしかったところにあなたがちょうど良い感じにトラバしてくれたので。