はてなキーワード: 夢じゃないとは
これの続きです。
https://anond.hatelabo.jp/20220312204148
反応をくれた人ありがとう。少し追加で書いてみる。
結論としては、
「ミックスボイスは出せつつあるが、完成には至っていない」
だと思った。
ミックスボイスというのは、簡単に言えば裏声と地声が混ざった声なのだが、
声がキンキンして少し聴きにくい。
あと、ミックスボイスで歌うとしても、低い音は地声で歌うことになる。
だから、地声からミックスボイスへ変わる地点がある(換声点と呼ぶらしい)。
でも自分の場合はちょっとバレてしまう。「あ、今歌い方変わった」みたいな。
例えばX JAPANのForever Love だと、ちょうどその換声点で曲が高くなる曲になってるので歌いやすいが、
互いの声を寄せていくことだと思う。
ただ、やっと歌に道が開けたようで、嬉しい。
今ちょっと歌ってみたら、スピッツのロビンソンを座りながら楽に歌えたよ。
おとといまでスピッツは3つキーを下げないと歌えなかったのに。
未だに信じられないよ。夢じゃないよな?
また進捗があったら書きたいと思う。
読んでくれてありがとう。
びっくりした。びっくりしすぎて、夢じゃないかと思って、本当に頬をつねった。
スマホに録音もしたし、でも夢じゃないことを確実にするためにも、ここに書いておく。
ミックスボイスというのは、歌の歌い方の一つで、地声と裏声を混ぜた声のことを言う。
特に高音を出す時に必要な歌い方で、最近の曲は軒並み高いけど、それはミックスボイスを使ってるからだ。
でもこの声が出なかった。
ネットで検索してもYouTube見ても、この話ばかりされている。
でも色々見ても、「ボイトレのスクールに通うべき」「独学は危険」とか書いてある。
習得するにも半年とか一年とか二年とかかかるらしい。その間、いろいろなボイトレをしないといけない。
でも俺はボイトレ行くお金もないし、そもそも自分の声なんだから自分でなんとかできるだろうと思って、ひたすらカラオケを歌っていた。
でもミックスボイスは出ず。
そしたら急にできるようになった。
未だに信じられない。
昨日までスピッツのチェリーを3つ下げでないと歌えなかったのに、
今ならヒゲダンとか、King Gnuの白日とか、歌える感じになってる。
YouTubeのカラオケ動画で歌ってみたら、歌は下手だけど、高音は出る。
まだ裏声寄りの声だけど、明日カラオケ行って本当に出るのか確かめてくる。
また気が向いたら続きを書こうと思う。
続き
ぼくは東京を選んだんじゃない、地元から弾き出されてここに流れ着いただけなんだよ。
可愛くて頭のいい嫁、来年小学生の可愛い娘、綺麗な中古マンション、大企業で待遇もかなり良い。仕事も職場も順調だ。2人の稼ぎを合せれば将来億近く貯めることも夢じゃないし、経済的な苦労は恐らくしないし子供にもさせない。ここには院の同期や趣味の友人も多い。健康にも気を使っているし、体も生まれながら頑強だ。
運と人に恵まれた、幸せな人生なんだよ。間違いなく。絶対に手放したくないし、そのためならどんな努力でもする。
東京で幸せそうに生きる息子に両親は鼻高々さ。地元でここまで都会的な人生を歩む人間は限られてるからね。高卒のおれらから鷹が生まれた、もうその話は聞き飽きたからw
そうだよ、ぼくはうまくやってきた。これからもやっていくだろう。
でもそうじゃないんだ。
本当はこんな人生望んでなかった。
地元のコミュニティで、大変でも楽しく生きる人生がおくれるはずだった。新居を建てて両親と住み、孫の顔を毎日見せられるはずだった。
でも祭りと村社会に馴染めない人間には田舎に居場所はなかった。
悲しいかな、ぼくにはその能力が無かった。だから都会に出て生きるしかなかった。
東京に帰る時に寂しい目をするのはやめてくれないか。残りの人生貴方達と何度顔を合わせ、たわいのない話をすることができるだろうか。本当は貴方達と同じような、貴方達がぼくに期待した人生を選ぶべきだった。
親不孝でごめん。
ピンチの時には助けに来て、みんなを救って姿を明かさずに去っていく。
かっこいい、そう思った。自分もいつかなれると思っていたんだ、誰かのヒーローに。
でも現実は甘くない、私はヒーローになれなかった。大きくなるにつれて人間にならなきゃならなかった。
私は普通という呪いにむしばまれた、でも幸か不幸か私は容量が良かった。我慢を続けて我慢を続けて、それでも私が生きる意味は少ないけれど確かにあった。
生涯の付き合いになると思っていた、そんな親友で幼馴染の二人が私にはいる。
二人のヒーローに、二人が私のヒーローに、そんな存在だと思っていた。
一緒に過ごすのが本当に幸せだった、それだけでよかった、それだけでよかったのに。
今こうやって文章を書いてどうにかならないかと願って逃げている。救うべき相手から逃げたんだ、私は
今年の五月、精神を病んでいた私に、深夜訃報が流れた。弟から私のヒーローの一人が自殺したと電話越しにそんな言葉が聞こえた。
夢じゃないかと思った、頭が回らない、世界がスローモーションになっていく、思考が沖に逃げていく。
わからない馬鹿なふりをするので精一杯だった、考えたら受け止めなきゃいけない気がしたから。
今涙を流したら顔を合わす時までに自分の心が持たない気がして、そんな気がしてまた我慢した
それでも時は止まらない、葬儀に出席するために色々な用意もあれば、日常も止まってくれるわけじゃない、洗濯しなきゃと喪服を引っ張り出して、洗濯を済ませて取り込んだ時、春の香りがして、もう駄目だった。
涙が止まらなかった、思いが止まらなかった、動けなくなるぐらいその日は泣き続けた。
実家への帰路、バスの中でまた涙が出てきた。人目も気にせずまた泣いた。
葬儀が始まって、亡き骸を見たとき寝てるんじゃないかと思った。本当は質の悪いドッキリなんじゃないかって思い続けた。
それでも時間は進んでいって火葬場に行かなきゃいけなかった。吐きそうだった、世界が歪に見えた。これは夢だからと自分に言い聞かせた。そうしないと自分をだましていないと世界の速度に追いつけなくなっていた。
煙が見えた後、もう一人の幼馴染とふたりで骨を拾った、すべての時間が夢ならどんなに良かっただろうか。
現実感がないまま、時だけが進んで思考が置き去りにされていく。
私は生きる意味が減ってしまった、こんな苦痛を味わって生きた先に待っているものは何だろうか。
時間が解決すると皆が口をそろえて唱える、ヒーローがいない世界で、長い時間をかけて何が解決するんだよ。解決ってなんだよ、人が、私の大切な人が死んだんだ。もう会えないんだよ。
私は救えなかったし、救われなかった。
眠れない日々が続いて、毎晩私は彼への後悔と自分の不甲斐なさにイライラして泣いて朝が来る。
この後の人生、人のふりをしていきていけるといいな。
どういたらいい、教えてくれよヒーロー
いつの間にか浸透したメダルを噛むポージングの背景というか由来について、よくわかってない人がけっこういるみたいなのでメモしておく。
金(きん)と金(かね)が紛らわしいので、以下、金(きん)は元素記号で Au と書く。
今は管理通貨といって中央銀行の刷った紙きれ一枚が1万円の価値を持っていたりするけれど、おおむかし、世の中が金本位制だった頃は Au そのものが通貨だったんだ。ヨーロッパでも、日本でも。
金貨1枚は(当たり前だけど)同じ重さの Au と同じ価値を持っていたわけ。
ということは、混ぜものをして原価の安いニセ金貨を造って儲けようとたくらむ悪人が出てくるし、実際にそういう粗悪な贋金貨が市中に出回ることになる。
そこで、もっとも簡易な贋金鑑別法として「噛む」というのがあったのよ。
Au は純度が高ければ高いほど軟らかく、混ぜものをすると硬くなっていく。
噛んで歯型がつくほど軟らかければ、それはたしかに純度の高い Au だね、ということ。
洋画でも邦画でも、テレビの時代劇でもよく出てくるしぐさで、純度の確認であると同時に、「これは本物だろうな?」と相手との取引に警戒を抱いていることの表現だったりもするわけ。
ひるがえって、アスリートがメダルを噛むポーズだけれども、こうした文化的背景を踏まえると、最初にこれをやった人は「このメダル、本当に Au なのかしら?」というユーモアでやったんだと思う。首にかけられた金メダルの純度を疑うというジョーク。
あるいは、「夢じゃないか?」と自分のほっぺたをつねるように、メダルを噛んでそれが本当に Au であることを確認することで、「まだ現実と思えない、夢見心地である自分」みたいなものを表現したのかもしれない。
いずれにしても冴えた、粋なやりかただと思う。
で、そもそも、噛んで純度を確認するのは Au くらいである。
銀は高純度でも十分に硬くて純度を歯で確認することはできそうにないし、銅についてはよくわからないけれど、贋金を造ったり、いちいち純度を確認したりするほど価値の高い金属でもない。
つまり、かじってニッコリのポーズが意味を持つのは本来は金メダルだけなのである。カメラマンが銀メダルや銅メダルの選手にメダルをかじるポーズをねだるのは非常に不自然なのだ。噛んだって何もわからないのだから。