はてなキーワード: 夜一とは
小2の娘がTikTokを見たいと言い出した
みんな見てるから見てないと話題に乗り遅れるとのこと。我が家は基本的には放任主義なので、まぁそういうことなら……とTikTokをインストールしてみた。
一応下調べもして、ペアレンタルコントロールを導入した。制限モードをオンにすることで子供に不適切な動画は表示されないらしい。これと時間制限を合わせたらタブレットを貸して子供に見せても大丈夫かな〜と思っていた。
が、制限モードをオンにしていても、子供に見せたくないような動画が大量に流れてくる。変わったラブボを紹介する動画やオッパイをギリギリまで露出して踊る動画、AV男優のしみけんが必殺のテクを教えてくれる動画……
動画を検索することもできるが、検索候補には「ミニスカ 着回し」「子供服 着てみた」
自分が夜一人で見る分にはおもしろいだろうから、別に規制すべきとは思わないんだがこれを小学生の子供には見せたくない
昨日は午前中病院に行き、その後ネカフェにシャワー浴びに行き、昼から半日友達と遊んで、夜は男の人と会って日付変わる頃家に帰って、信じられないくらい行動的な1日だった
病院ではそろそろ薬を減らしてもいいんじゃないかと言われて慌てて拒否した
脳内多動も全般的不安もずっと前から続く先天的な特性で、唯一それを抑えられる抗うつ剤は一生飲んでいくくらいのつもりだった
長期間飲むと飲まないのと同じになってくるのかな
それでも止めるなんてまだ考えられないな
病院終わった頃に前回の男から連絡来て、迷ったけど夜一緒に食べることにした
これがセックス前提だったらめっちゃやだなー、でもスペックでしか見てない私と性欲でしか見てない相手、人間性をぼやっとしか見てない同士お互い様だしそれがまさに東カレだよな、と思いながら一応ドラスト寄って神田のネカフェまで行ってシャワー浴びたり色々整えた
すごく癒やされた 心が潤った
お昼食べて、買い物してカフェ行って沢山喋った
その子が前男の子とデートしたーいって言ってたのを思い出して、男の子と遊ぶのってやっぱり楽しいの、と聞いてみた
やっぱり楽しいんだって 女の子と遊ぶのとはまた違って、会う前に髪や化粧を整えるときのときめきとかを話してくれた
えー!そうなの!とかはしゃぎながら、うっすら罪悪感を感じもしたけど、そういう感覚を知らないのは本当だから別にいいのか
ただ男の人と2人で会ったことある?って聞かれて、無いって嘘付いちゃった 駄目だわ
別れ難かったけど、次の約束が迫ってたので別れた
駅前に着いて初めて、まともに顔も覚えてないことに気づいた
手を振ってきた人を見て、ああこの人だったかも、と思い出した
普通に傘を差そうとしたら、一緒の傘に入るのが普通だったぽくて入れてくれた 全然自分で差すんだけどな
目星をつけておいてくれたお店が2軒ともすぐ入れなくて、看板が出てたお店になんとなく入ってみたらなんと貸し切りだった
でも俳優さんのサインとか飾ってあって、いい感じのおじさんが説明しながら料理出してくれるいい感じのお店だった
ずっと貸し切りで静かで性的な話しづらそうで相手はちょっと残念そうだったけど、料理がめちゃくちゃ美味しくて超当たりのお店だと思った
なんとなく学生時代の話とか、なんとなく職場の話とか、そういう話しながらおいしいごはん食べてそれでいいのに
日和って弱いのしか飲まなかったから、全然酔ってないですね〜笑って言いながら傘差したらじゃあもうちょっと飲も、って傘閉じられた
本気で2軒目行くと思ってた 初心だな
差してもらってる傘に入って腕を回されたら驚くほど自分に主導権が無かった
男といるときに迷うことは男の意思に従うことと同じだと前回学んだのに、改めて自分の非力さに驚いた
半分本気で動揺しながら、半分悔しかった
私に性的興奮があるとすれば、それは非日常的なシチュエーションと相手を喜ばせることへの快感で、脱がされてる時がピークなんだなと思った 本番はもう早く終わんないかなって思いしかなくなってしまう そう思いながらかわいこぶってる
疲れた!長い!セックスなんてもうしない!って思いながら、前も同じこと思ったのに…って虚無になった
私が人肌を感じるのは家族だけなのに、抱きしめられて横になってるときこれは人肌じゃん、と思った 人肌を全身で感じることなんて子供の頃に両親や祖父母に抱きかかえられたりしたときしかなくて、確実に家族愛に結びついたものなのに、性行為でそれが生じるのか
性行為が夫婦間の行為であり子作りの行為であることを考えれば矛盾は無いのかもしれないけど、私の中ではまだ家族愛と性欲は同時に存在できない
例えばこの腕の体温に家族愛を感じる日が来るかもしれないということか、試しに一回そう思って素直に体重を預けてみようか、とか考えてたらどこを触ってほしいとか言われて何もなくなった
男ってもしかして女も男と同じくらい性欲があると思ってるのだろうか
初心でいることが喜ばれるのは2回目までくらいかなと薄々感じた 今はあんなに可愛い可愛いと言われて抱きしめられていても、私がいつまでもセックスに主体的にならなければ繋ぎ止められないだろうな
でもセックスに積極的になることだけはどうしても無理だ それは自分に完全に嘘をついてる どうしても無理
好きな人だったら違うのだろうか 仕事頑張る姿とか見たらもしかしたら好きになるかもしれないのに、夜しか会わない関係の時点で破綻してる
いろいろ考えながらオリックスのユニフォームを着たポンタのぬいぐるみを見つめすぎてポンタの顔がゲシュタルト崩壊した
仲良くなりたい気持ちがあろうとなかろうと、とりあえず話すなら「ポンタはオリックス着てるのに壁にはベイスターズのユニフォーム掛けてあるの、どっちも応援してるの?」みたいな話がしたい ここ触って欲しいとかもう一回やりたいとかそういうことばっかり、疲れちゃう
それでも関係を切らないのは学歴と学歴に由来するまともさが切るには惜しいから 最悪 だけどお互い様だよ
普通に結婚したいだけなのに、そのためにはセックスに積極的にならないといけないのだろうか それともこれは普通の恋愛とは全く違うものだから一緒に考えちゃいけないのか
相手は何の目的でこういうことしてるんだろうか 性欲処理だけかな でもそういう私はなんのためにやってるんだろうか
普段いろんなことを考えてるだろうに私には性的なことしかしないし話さないの、性欲処理目的なのは明らかなのにな
性行為には男は視覚的興奮を、女は精神的な繋がりを求めるって本当そうだな
新しい学校のリーダーズのスズカちゃん、めっちゃ好きだ…
母親との距離感が近い、というのは切腹モノの”恥”という強烈な意識を私は抱くようになった。
その意識は思春期の到来によって引き起こされる内面的変化の表れで抱いたものではなく、別のきっかけによって植え付けられたものだった。
「〇〇君はなんとお母さんのことを『ママ』と呼んでま~す!!wwwwwwwwwwwwwwwww」
信じられない人もいるだろうが、少なくとも90年代まではこのレベルのキチガイ教師はザラにいた。
また、当時は『ママ』呼びする男は問答無用で気持ち悪い奴という認識が共有されていて(今どきの若い子で公然とママ呼びしている人は普通にいると大人になってから知って仰天した)、それこそロリコンに匹敵するくらいの扱いを受けていた。
だから、暴露されたクラスメートは卒業までかなりかわいそうな扱いを受けていた。
ちなみに私はこのショッキングな出来事が起きた日、家に帰ってすぐ母親に対して
と宣言した。
母親は「そうか、もう”ちゃん付け”は嫌だか!」と爆笑していたが、なんと本当にその日から私のことをを”ちゃん付け”で呼ぶことをきっぱりとやめた。
加えて、私はこの時期から約十年にも及ぶ長い間、母親との雑談を一切しなくなった。
担任の愚行一発で、私は母親との距離をもっと遠くしないといけない強烈な危機感を抱いてしまったのだ。
それまでは小学生の子供らしく母親とそれなりに会話をするほうだったと思う。
夜一緒にテレビを見ながら、かつて竹中直人がお笑いタレントで「笑いながら怒る男」の芸で一世を風靡したことや、
志村けんがドリフの初期メンバーでなかったことなどを母親から教わった記憶がある。
それから時は流れ、大学生になっていた私は運転免許の合宿のために地方で3週間ほど滞在した。
合宿中のある日、同日入校した男連中と休憩室でテレビの情報番組を見ていた時、
画面に映る女性タレントを見て私が「この子超可愛いなあ。こういう彼女いたらなあ」と口にすると、
男の一人が「俺、家じゃそんなこと口が裂けても絶対言えないわ……」と唸った。
どういうことかとその場の皆が不思議がっていると彼は
「母親の前でアイドルとか女子アナのこと可愛いなんて言うともう……『そんなにこの子がいいなら一緒になって家出て行けばいいじゃない!!』って大泣きして怒り狂うんだよね……」
となかなか衝撃的なカミングアウトをした。
周りが騒然としながら、そうなったときお前どうしてんの?キレ返すの?と尋ねると
「いや、もうずーっと『ごめんごめん、俺が悪かったから泣かないで』って泣き止むまで言って落ち着かせてる……」。
お前それもう彼氏やんけ、と皆から引き気味にかわれていたが、私はというと「あーここまで母親との距離が近い奴もいるんだなあ」と妙に安心していた。
合宿が終わって実家に帰ると、私は母親と再び雑談をするようになった(10年以上のブランクがあったので何を話していいのかわからない状態で半年くらいはぎくしゃくしていたが)。
それから、オッサンになった今に至るまで、他人とその母親との関係性がうかがえるエピソードを聞かされる機会が結構あったが、距離感が近い母子は結構いるもんなんだなあと思う場面は多かった。
配偶者の実家の近くに家を買うつもりであると母親に伝えると「あなたを取られちゃうみたいで凄く嫌なの」と不快感をあらわにされ最後の最後まで反対されたとか、
部活の引退試合を終えチームメイトや父兄が集合している場で「〇〇ちゃん、お母さんを抱きしめて~!!w」と強烈なハグをされて死ぬほど恥ずかしかったとか、
家では『お母さん』呼びをすると完全に無視を決め込まれて食事抜きにされるからついにママ呼びを脱却する機会を逃したまま大人になってしまったとか。
「痩せてる」=「不健康」だ
運動はたしかに健康的だが、運動したら腹が減るし、カロリー消費も大したことない
30分のランニングの消費カロリーはおにぎり一個みたいなの見たことあるだろ?
一日の摂取カロリーの目安は1500(立ち仕事なら2000)くらい
ハンバーガー+ポテトとか大体の定食の一人前は600〜700kcalくらいだから
朝に軽く食う→昼一人前→夜一人前で1500になる
で、これを達成するには間食(お菓子)やおかわり(替え玉)はしてはいけない。とにかく「普通の一人前の量」に慣れるところから始める
休みの日、朝起きたら腹が減ってるだろ?そしたらそのまま布団の中で何時間でもスマホをいじり続ける
更に時間が経つと流石に体がヤバいと思い始めてまた空腹感が出てくる
その感覚を覚えろ
そして、そこで初めて「一人前の量」を食べる
多分その状態では家で自炊するのも不可能なほどだから、外食するのがおすすめだ
ご飯を食べる目的を「体がカロリーを求めているから仕方なく食べる」に変更させる
ご飯は娯楽じゃない
予想以上に面白かった
なんだこれ
ワイの知ってるBLは妹が職場の腐女子から押し付けられてくる何十冊とある国産BLぐらいだ
あとはパプワくんぐらい
セックスセックスセックスセックスセックスばかりの国産BLはタイトルも内容もよく覚えてない
どれも同じに読めるので3冊ぐらいで読み終わった
だが夜画帳はセックス以外の要素が強くて惹かれた
最新話102話が終了して半年の休養期間に入ったのだが、
コミPO!で脳内整理を兼ねて画像を作り始めて、正直、夜画帳にハマりかけてる
BLも娘にするとまた違った百合百合しい魅力が発生するものだな
(ネタバレ start)
主人公が貴族三人を斬殺して犯罪者になったところで102話終了
元々敵が多かった主人公だがこれで遺族会が発生して三面に+一面されて四面楚歌状態になった
逃げ続けられるのかを考えていると楽しすぎて時間が矢のように過ぎていく
(ネタバレ end)
しかしワイは再就活をしなければならず嵌って時間を無駄にするのはどうなのだ?!
だめだだめだだめだ
こんなんじゃんだめだ
働かないとお賃金がギンギンになれない
遠くに住む妹とも何年も会えてない
漫画にハマるのは他人に任せて彼らの感想文や考察文を読んでる方がワイには一番の利益になる
ワイは漫画と決別せねばならない
もう月末だし時間がない
とゆうわけでこの日記を書いて夜画帳熱を沈めて社会復帰への一助としたい
歯を磨いて寝る
Twitter上で仲の良かったフォロワーと相互ブロックになったので日記を書きます。
その人とは一年と少し前にとある界隈を通じて仲良くなった相手で、自分も向こうも絵を描いていたから推しを描きあって褒め合ったりもした。
向こうの方が圧倒的に上手いし今もそれは変わりないと思うけど、そんな絵の上手い人が自分の絵を褒めてくれたのがすごい嬉しかった。
それで日常アカウントでもインスタでも繋がって、所謂自我のことも結構知るようになった。お互い受験生だったから励まし合ったこともある。会ったことこそないにしろ住んでる都道府県と家族構成と顔も知ってる。
なんでだろ~~~~?!!!って今文字打ちながら考えてるけど、自分が自意識過剰でメンタルが終わっているのもだいぶある気がしてきたな。
相手は自分の思っていることをはっきりというタイプで、毒のあるツイートに共感することが何度もあった。
が、それの矛先が時々自分にも向いているツイートがあると感じるようになってきた。
ただこれは私の自意識過剰から来るものだと思ってスルーしていた。実際だいたいがそうなんだろうな。被害者意識が強い自覚はあるので……。
それはそれとして、その中で「あ、絶対これは私を指しているな」と確信したツイートがある。
私は先述したとおり絵を描いているが、趣味の範疇を出るものでない。というか全然上手くない。でも上手くなりたくて日々試行錯誤していた。
そしてこれも先述のとおり、私はメンタルが著しく弱い。絵を完成させて、ネットにあげて反応がないとかなりへこむ。評価されるために絵を描いてる状態に陥ってる!目的と手段が逆だ!と自戒すること早数年……。
もう結構前なため(冬でした)詳細は覚えていないが、私は「まず自分が自分の絵を好きにならないと他の人が好きになってくれるわけないよね」という旨のツイートをした。
そのツイートをした数時間後の深夜一時過ぎ、いつもどおり寝る前のTL巡回をしたときにその人のツイートが目に入った。
「誰も私の絵好きにならないとかいう人、評価してくれてる数人を無視してるしめちゃくちゃメンヘラでニキビ多そう」(ということをツイートしていた)
これ私のこと言ってますよね??????????!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
いや、前半に関しては正しいことを言っている。評価してくれてる人を無視していると受け取られるのはしょうがない。
だって私は「私を全く知らない大勢の他人からも」評価されたいから。ここまでは流石に公言してないですが。
ちゃんといつも見てくれている数人がいることは分かったうえで、私は他人からも評価されたい。なんか文字に起こしてみると我儘極まりなくて笑ってしまう。
多分メンヘラツイートが嫌だったんだろうな。だからそういうことはネットで言わないように控えるようになった。
問題は後半で、急に容姿批判をしてきたのは何……?としか……。あまりのショックでスマホ切って寝た。朝起きたら該当ツイートは消えてた。
その人は三次元アイドルとかも推してて、リアルだと多分陽キャグループに属しているタイプだったと思う。ストーリーにも色々友達といるの載せてたし。
クラスにいる暗い人のことを糾弾するツイートも割とあって、「ああ、自分がこの人と同じクラスだったら絶対にこうやってツイートされてるんだろうなあ」と時々思う事があった。
だからその人はやっぱり私のこともそういう風に思っていたんだな、と辛くなった。
だけどその後普通に日常的なことで会話したし、絵を褒めてくれるのも変わりなくて、分からなくなってきた。
徐々にTLを見るのが辛くなった。でもミュートをしたのちにそれがバレるのが怖かった。
例の件の数か月後、使っていたアカウントを全部消して、新しく鍵の日常アカウントを作って、繋がらないようにした。
日常アカウントで繋がっていたのは同界隈の人らなので、仲の良い相互はもちろんその人と変わらずに繋がっている。
なのでアカウントも名前もミュートにしてなるべく見ないように心掛けた。お互い同じ界隈に未だにいるからなるべく穏便に済ませたくて、ブロックはしなかった。
でもその人が絵をあげる度に他の相互が褒めているのがなんとなく伝わってきてしんどかった。日常ツイートも然り。
あとそのリア友で、同様に繋がっていた人にもなんやかんやされて(それこそ一年前くらいのことですが)もにょった出来事があり、当時はなあなあで済ませてしまったことを色々思い出して急に無理になってきた。
で結局一か月近く前に全てのアカウントでブロックした。そしたら今日向こうからブロックされていることが判明し、現在に至る。
地獄のインターネットか?いやお互い自衛が出来ていると思えばいいか……?
今その人と繋がっている相互はかなりいるし、これをツイートしたらめちゃくちゃ……なんか私がアレな人じゃん……と思ってここに記しました。
私の自意識過剰だったら恥ずかしいし……。
でも中学三年生の一年間、ずっとクラスの一軍男子グループに悪口を聞こえるように言われていたのがかなりのトラウマで、それを思い出してしまうのでこの件は最悪でした♪
インターネット上であっても、悪口を本人に聞こえるように言う人間になりたくな~~~~~~~い!少なくともそう思わせてしまうようなツイートを控えよう(これは自戒です)!
私の見えないところならいくらでも言っていいから!惨めな気持ちになるから聞こえるように言うのをやめろ!鍵引rtすな!
以上結論です。
これだけ書いといて言うのも悪いのですが、これは私の一方的な視点から書いているものなので無茶苦茶なところが多々あります。身バレに若干フェイクも交えてます。
あと確実に私が勝手に被害者ぶってるところとかもある。ので、「ウケるンゴねえw」くらいの気持ちでいてください。日記を終わります。
フ、フ、フ、フレッシュ~
朝はフレッシュな頭で
こんがらがったややこしいことでも
パスタのお皿に盛られたパスタ麺も1本1本ほどいて解くことが出来るけど、
夕方になるとやっぱり
やる気の気持ちはあってもくたくたなので、
お腹減ったーって具合に。
もちろん夜型にそう言う仕事する方が捗る人もいるかも知れないけど
私は阿佐ヶ谷姉妹が唐突にスパイスガールの曲を歌い出すぐらいに
朝方かな。
でね、
こないだどうしても夜なべして手袋を編む級な的の作業をやんなくちゃいけないときがあって、
さすがに
1回スパッと家帰ってシャワーでも浴びてきてリフレッシュしてきてから夜一人で夜な夜な作業をやろうとしてやってたのね。
そんでその時、
どうやら隣のフロアの誰かも残っていたみたいで、
帰る寸前だったので
悪いんだけど今要らないともらっておいて文句言う感じはさすがに悪いかなと思ったけど、
夜カフェイン取るのはなーって
飲んだんだんけど
シュウクリームはお行儀良くストロー刺して中のクリームだけを吸って
差し入れに困っちゃいました。
そんでもって
終わって帰ろっかーって寸前だったので、
私は早く帰りたいのよって
きっとみんなは朝起きたら出来ていると思ってる
まるで7人のコビトさんたちが夜中に作業してくれたんでしょ?って思ってるぐらいになんとも思ってないようなことが一番幸せだったかのような、
トラブリューのロードの250章あたりまで暗唱して歌えるぐらいそう思ってるに違いないわって。
でもさ、
私が本当にここのビルの関係者の者か電話口じゃ証明できないじゃない。
私がどうやってここのビルの関係者だということが分かるんですか?って訊ねたら、
もし怪しい人がビルにいて警備会社から夜電話が掛かってきても、
そもそも出ませんって言われちゃって、
なるほどなと思ったけど、
そう思わない?
それとも適当な名前を言ったら予め事前に登録でもしているビル関係者の名簿とかあるのかしら?
あれも適当に返事しておけばいいのかしら?って
おもったけど、
あんまり夜中に夜な夜な作業するのは良くないわねって思ったわ。
人間はやっぱり朝が来たら起きて夜暗くなったら寝る的な概念の意味でのことよ。
それに限ると思わない?
思わないかー。
うふふ。
2つは多すぎだわ。
ゆくゆくは自分でもタマゴサンドが美味しく作れたら最高なんだけどなぁ。
水出しのを作って置いたんだけど、
今朝方肌寒かったので、
ちょっと冷えたルイボスディーウォーラーは身体が冷えそうだったわ。
まだ白湯よりのルイボスティーウォーラーの方が良かったかもね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。
どの作品を入れるべきか迷った。古典の翻案に見られる知性とユーモア、晩年の作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に「歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活の不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。
「河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界の架空の言語に魅せられたのか、その理由はわからない。
アンデルセンの小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。
で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。
ところで、ディズニーの作品の価値を貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫」だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニーは普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)
「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンがニュートンとアインシュタインの物理学を自力で発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者とエンジニア最高、政治家と宗教家と文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。
そうしたえぐみが比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。
友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代に適応できない英国の執事の物語である。
彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものだから、登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。
カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。
彼の作品は不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかった(2023年10月3日追記。「処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった」が近いか?)。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい。
作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき、人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯に思考した書物である。
ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。
僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程を子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。
そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物の意識から別の人物の意識へと、外界の描写や連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本の映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分の意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。
「灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。
さえない少年が万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれてしまう。これは主人公が異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式でチートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白い小説なのに、その小説が現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨の台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。
ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆のメッセージのストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人と商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。
基本的に自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉や文字で物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。
元々SFの人だけれども、最近は日本の古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。
どうしてこれほどあなたを信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやかな奇跡であなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。
以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。
ただただ弱くて情けない人物が遠藤周作の作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。
「男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である「女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。
世界の文学をパロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語の関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマが物語レベルとメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。
知的障害者のチャーリー・ゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者とセックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。
チャーリーは女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。
天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか。
素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点が距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。
子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類の運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。
人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙で意味があるのか。
人類の運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。