はてなキーワード: 基本的人権の尊重とは
人権というものを語るとき、必ずといっていいほどまで言われることがいくつかある。
たとえば、「人権というものは近代国家を満たす要件のひとつだ」というぐあいだ。
ホッブズは社会契約説として自然権を考えたが、彼の見据えた先は絶対君主制であり、巷で言われるような近代国家とはまた異なる。
ロックは間接民主制を見据えていたので、これはさらに民主主義を推し進めたという意味でより近代的である。すなわち、近代国家というのは民主的であるというのも大事なのだ。
他に言われることとしては、「障害者に人権がなかったら、虐殺される」というものや「お前みたいなクズが生きていられるのも人権のおかげだ」というたぐいのものだ。
常識的に考えてみて欲しいのだが、人権の有無と虐殺の有無は異なる。人権がなかろうと人を殺せば刑法に触れるのであり、ふつう虐殺など起こらない。人権がない、すなわち無法地帯というわけではないのだ。後者に至っては発言者のゲス具合が遺憾なく発揮されており、恫喝以外の何物でもないと考える。
さて、憲法改正議論にあたって基本的人権の尊重などというのが槍玉に上がっている。これを廃することは、近代国家の否定だという人が思ったよりいる。
少しシミュレートして欲しいのだが、この国から人権を廃して、何か変わるだろうか?
警察の対応が杜撰になる?そんなことはない、もとから人権など顧みない杜撰な組織だ。
国家が国民や他国の人間を守らなくなる?そんなことはない、人権等より実質的な国家的相互監視によって、そんなことは許されないし、軽微なものならこれまでも無視されている。
自由が奪われて息苦しい時代になる?そんなことはない、それはある程度は景気の問題であって、人権があるかどうかと自由があるかどうかは関係ない。人権があろうとなかろうとわれわれはこれまでも「公益及び福祉のため」にこれを実践してきたし、人権の有無にかかわらず公共の福祉のために衝突があれば調停してきた。
ここまできてわかっただろう。この国に人権などいらないのだ。人権などいらないと言いのけても矛盾ないほどまでに杜撰な国家に杜撰な国民、杜撰な社会だと言うのもいいし、人権などいらないと言うまでに自律的かつ他律的な国家国民社会なのだ、と言うのもいい。
いずれにしても、民主的手続きで人権を放擲するならそれは最大限尊重されてしかるべきだし、今回の改憲が実現したとして人権がきれいさっぱり憲法からなくなるというわけでもないのだから、反対派にしても良かったじゃあないか。
わかってて言ってるんだろうが
ここでは善良=人権重視、邪悪=人権軽視の意味で使ってる。愚か/賢いは損得=合理性の意味だ。
だからなぜ「バカ」なのかを言ってくれというのに……。増田自身も「今の医療技術とビジネスモデルじゃいろいろと厳しかろう」と言ってるじゃないか。
日本国憲法が基本的人権の尊重を原則としている以上、刑事罰でもないのにその制限を行う事自体憲法違反ではねつけられんじゃないの。
悪いこた言わないから、人権論ふりまわすまえに芦部憲法100回読んでこい。な。
>「善良だが愚かな政策」と「邪悪だが賢い政策」の選択肢があるとすれば、常に前者を優先するべきというわけだろ?
>あのさ。増田は延命治療への医療費支出が「善良だが愚かな政策」だと思ってるの? それとも「善良で賢い政策」だと思ってんの?
たぶん善良で賢い政策だと思ってるよ。印象としてはね。
つーか逆だな、延命治療への医療費強制打ち切りについて、もしやるとなれば邪悪な上にバカな政策になると思ってる。
それよりは断然マシだ。
>いや、選挙の結果にしたがうってことさ。社会権については、立法を超えて人権を主張することはできない。通説判例に従うならね。
日本国憲法が基本的人権の尊重を原則としている以上、刑事罰でもないのにその制限を行う事自体憲法違反ではねつけられんじゃないの。
人助けする人の気持ち悪い心理が書いてあったりする
それはまずいがさりとて必要な場合仕方ない
特定の人やボランティアやNPOだけがすることじゃなく、社会に基本的人権の尊重やその具体的な救済の方法がもっとわかりやすく流布されなければ、と思う。
それを道徳や精神論だけで説くんじゃなく、もっと効率と言う面から説明しておく
本来はそれが教育のはずなのに
言い尽くされてる事かもしれないけど、爪も牙もない動物である人間がここまで増えてのしあがったのは、効率的な相互扶助の性質があったせいだと思う
その時点での強さで図った単純な弱者を切り捨ててたら、ここまで増えて繁栄はできなかっただろう。
動物だって、像なんかかなり弱者を守ろうとしたり慈悲深いそうだが、人間と言う生き物が動物と違った部分や、知性というのは、こういう部分にこそあったはずなのに。
ん?
さっきも書いたとおり、そういう問題と人権の問題は関連がない。
死んだら困る人間と死んだほうがいい人間が君の周りにいてもね。
仮に君が死んだ方がいい人間に落伍した、しているとしても、君の人権は保証されているから、ムキになんなくてもいいよw
救う救わないという話じゃないんだよ。これは上にも書いた。
「救うべき、救われるべき」という価値観は、人権とは相容れない。
そりゃあ、あなたのような大学生がいっぱい輩出されれば、軽んじられもするでしょうねw
ああ、残念だ。
まず、君の言うとおり、成果をあげている人間は限られている。
だからといって成果を上げていない人間をクビにする必要はない。なぜなら、その成果をあげている人間は、同じ組織の成果を上げていない人間によって支えられているからだ。二割の働きアリを避けたって、残ったうちの二割がまた怠けるんだよ。
だから、成果を上げていない人間をクビにする必要はない。日本では、雇われているという事実だけがあればよい。「雇用者ムラ」に属していれば社会通念上認められているので、ニートがどうこう言うぐらいなら成果が出ていなくても労働したほうがよいのである。
しかしこの事実をニートは認めることができない。社内で成果を上げていない人間より俺を雇えよ、と吠えたところで、社内ニート>超えられない壁>ニートは確定事項なのだから。
社内ニートはもちろんニートがいるおかげで雇われたままでいられる。ニートが仮に皆自殺したとすれば、ますます消費は冷え込み、社内ニートがニートに転落するだろう。そして、また成果を上げていない社内ニートが誕生するのである。
ベーシックインカムを導入するということは、ニートをニートのままにさせるということであり、それは基本的人権の尊重とは程遠い。
では、ベーシックインカムを導入しないなら、ニートの生存権が侵害されているか?答えはNOだ。
経済的に自立できていないことと、人権が侵害されていることは、イコールではない。
ニートはこれまでどおり親のすねをかじり、親が死ねば生活保護を受給すればいい。
それだけでいいのだ。たった、それだけで。
http://anond.hatelabo.jp/20100123120122
こちらこそはじめまして。元増田です。英語が得意でないとおっしゃるにもかかわらず、紹介した論文に目を通す労を取っていただいてありがとうございます。そういう方がいるだけでも、2時間近くかけてあれこれ和訳した甲斐があるというものです。
(一応の確認ですが、この元増田さんの主張って「日本の植民地主義が他の帝国主義国家のそれよりも、被支配者にとって有益であった」ってことですよね?)
有益であった、というのが学者(私が読んだのは私が土地勘を持つ経済学者のそれが多いですが、American J. of Socio.の論文でも韓国の資本主義の発展についての日本の寄与について言及がありましたので、経済学者という表現は避けました)の「コンセンサスである」というのが主張です。この点についてはhttp://anond.hatelabo.jp/20100121082524 に少し詳しく書いてありますのでご覧下さい。
1) ここでCumingsが書いているのは、「日本のviceはヨーロッパの帝国主義国家と似ている(かもしれない)けど、virtueは全然似ていないよ」程度のことであって、「日本の植民地主義がヨーロッパのそれよりも有益であった」なんてことは言っていないように思われます。
コンセンサスとしての有益性はReynoldsの論文に一言でまとまっていますので、そちらを参照してください(大学図書館でないと原文は見つからないかもしれませんが、上のリンクにごく一部ながら訳を乗せてあります)。または、同じリンク先のBooth(2007)の最初の数段落(上のエントリーに若干の和訳あり、原文アクセス可)を参照して頂いてもいいでしょうし、Kohli (1997)も農業の生産性向上、資本主義の萌芽としての植民地時代(Eckertの引用も含め)、国家権力を後ろ盾にしての労使関係の(強制的な)改善と、それに伴う生産性の向上、などを挙げています。特に、農業の労働投入の増加ではなく生産性の向上による収量の増加は、多くの論文で当時の植民地経営としてはユニークなものと指摘されています。また、韓国や台湾が資本主義を受容するための有形無形のインフラストラクチャーが植民地時代に整備され、それが戦後の韓国台湾の急速な成長を支えた、という点も、広く受け入れられた見解となっていることはBoothが指摘するとおりです。
Cumingsの著作の中からは、p486の第2段落を参照してください。また、有益の度合いは下がりますが、p489の「多くの植民地ではde-developmentが進行したが、日本の統治下の韓国で起こったのはover-developmentであった」という指摘はなかなか興味深いので一読をお勧めします。
2) で、virtue=美徳ですが、一般的には「あのひとは勤勉だ/勇敢だ」のように、人間が持つ性質や姿勢のことを指すと思います。
virtueにはいくつか意味があり、どれも日本語では美徳の言葉でくくりえるように思えたので、一番一般的な訳を用いました(それでも疑問が残ったので訳出元の単語を併記しました)。この単語はモラルの高さを示す意味のほか、長所や有意義であること、のような意味合いも持つので(後者の場合、必ずしも人間の姿勢や性質を表すことに用いられるとは限りません。ODEで念のために確認しました)、そちらの意味で取るのが正しかろうと思います。
"The virtues that the Japanese shared"を元増田さんは「軍事的な成功、急速な経済発展などの、日本がもたらした美徳の数々」と訳して、日本が朝鮮半島にいいことをした!と主張されていると思うのですが、実際はこれ「軍事的な成功、急速な経済発展といった、日本人が持っていた優れた点」ぐらいの意味じゃないでしょうか。
その訳ではsharedの単語がそっくり抜けてしまいますし、その直後のwere hard to justify philosophicallyと繋がらなくなってしまいます(日本の急速な経済成長や近代的工業構造といった日本人の優れた点それ自体がunjustifiableだというのはおかしいですよね)。
軍事的成功というのは私も少し引っかかりましたが、p479にある、韓国の指導者の幾人かが日本の訓練した軍を率いていたり日本軍に参加していたりしていたことを指している、と解釈したのですが、いかがでしょうか。多くの朝鮮人が日本軍で訓練を受けたことは確かですし、その中には士官がいたことも事実なのですから。
それから、私は日本の植民地政策が朝鮮にとって有益であったというコンセンサスがある、と書いていますが、『いいことをした!』とは書いていませんし、思ってもいません。良いか悪いか、善か悪かは、有益かどうかとはまた異なる評価基準が介在するでしょうから、ここでは議論の対象にしていません。だからこそ「善政かどうかはともかく」という但し書きを入れています。そもそも、「日本の植民地政策は正しかったというコンセンサスがある」と主張するなら、私がCumingsの『日本人には、信じるに足る「自らを正当化する神話」は存在しない。』という言葉を引用した段階で、その主張は破綻してしまいます。
3) 論文冒頭(479ページ)でCumingsは、
「アメリカが朝鮮半島に深く関わるようになって長い時間(日本の侵略期間と同じくらい)が経つのに、自由選挙・自由民主主義・基本的人権の尊重といったことが根付かないのは、日本の侵略の影響がいまだ継続している、つまり、日本の侵略の影響が、大戦後の韓国・北朝鮮の両国家をさまざまな方法で形作っていったからなのだ」
この点は私の引用部とほとんど同じことを書いていると思います。日本は自主独立のよき教師でもなければ、民主主義のよき規範でもなかったのです。ですが、Cumingsはそのような「悪い」側面を鋭く批判する一方で、ヤヌスの顔のもう片方、practical virtues(実用面における長所、有意義性、有益性とも訳せるでしょう)についても語っているのです。個人的な感想になりますが、こういうバランスの取り方は大切だと思います。このバランスは専攻分野の違いによって左右されるものの、学界で一般的な態度といってよいのではないかと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20100119124726
挙げられた論文のうち、Cumings(1984)を少し読んでみたのですが、疑問が出てきましたので匿名ダイアリーに書かせていただきました。
英語があまり得意ではないこともあり、読み間違いなども多いかと思いますが、遠慮なく指摘していただけると幸いです。
本題。元増田さん(こういう言い方でいいんでしたっけ?)の主な主張は、
日本の韓国統治が善政だったかどうかはともかく、「その植民地政策が、他の帝国主義国家の政策とは明らかに異なる、有益なものであった」ことについては、学者の間である程度のコンセンサスがある
とのことですが、例として挙げられているCumingsの文章を読んでみても、そのようなことが書いてあるようには読み取れませんでした。
(一応の確認ですが、この元増田さんの主張って「日本の植民地主義が他の帝国主義国家のそれよりも、被支配者にとって有益であった」ってことですよね?)
Professor Eto remarks that Japan's vices were no different than those of European colonists. This may be true, but its virtues were quite different. There was no legitimizing myth that the Japanese could make stick. They were not good tutors to teach their subjects how to achieve the goal of independence, as at least some Filipinos thought was true of American colonialism. They were not good exemplars of liberal democracy, as at least some thought that the British were in India. The virtues that the Japanese shared were hard to justify philosophically, but easy to adopt practically: military success, the uses of a strong state, rapid economic development, modern industrial structure. Thus Koreans greeted liberation in 1945 with a profound rejection of Japanese colonialism, yet have never been able to rid themselves of its Janus-faced influence.
(元増田さんの訳)
エトウ教授は日本の悪徳はヨーロッパの植民者のそれと何ら変わるところがなかった、と述べている。それは正しいのかもしれないが、一方でその美徳はヨーロッパ人のそれとは全く異なっていた。日本人には、信じるに足る「自らを正当化する神話」は存在しない。少なくとも何人かのフィリピン人は、アメリカの植民地主義は独立というゴールへと至るための良き教師であると信じていたが、日本は良き教師ではなかった。少なくとも幾人かはイギリスはインドにとって自由民主主義の良き模範であったと信じているが、日本は良き模範でもなかった。日本がもたらした美徳の数々は、倫理的には(philosophically)正当化するのは難しいが、実際的には(practically)容易に受け入れられるものだ:軍事的成功、強力な国権の運用、急速な経済発展、そして近代的な工業セクター。それゆえ、1945年に韓国人達は日本の植民地主義に対する全面的な拒絶を唱えて解放を謳歌したが、その一方で日本がもたらした様々な影響からは抜け出すことが出来ないという、二律背反に直面することになったのである。
1) ここでCumingsが書いているのは、「日本のviceはヨーロッパの帝国主義国家と似ている(かもしれない)けど、virtueは全然似ていないよ」程度のことであって、「日本の植民地主義がヨーロッパのそれよりも有益であった」なんてことは言っていないように思われます。
2) で、virtue=美徳ですが、一般的には「あのひとは勤勉だ/勇敢だ」のように、人間が持つ性質や姿勢のことを指すと思います。
"The virtues that the Japanese shared"を元増田さんは「軍事的な成功、急速な経済発展などの、日本がもたらした美徳の数々」と訳して、日本が朝鮮半島にいいことをした!と主張されていると思うのですが、実際はこれ「軍事的な成功、急速な経済発展といった、日本人が持っていた優れた点」ぐらいの意味じゃないでしょうか。
(「日本が朝鮮に軍事的成功をもたらした」って、なんか変ですよね?)
つまりこの部分は、「戦後の韓国・北朝鮮が日本のやり方(富国強兵・殖産興業・国家権力の強化)を『隠れた』ロールモデル=お手本とした/せざるをえなかった」と読むべきではないでしょうか。
あと、もう一つ。
3) 論文冒頭(479ページ)でCumingsは、
「アメリカが朝鮮半島に深く関わるようになって長い時間(日本の侵略期間と同じくらい)が経つのに、自由選挙・自由民主主義・基本的人権の尊重といったことが根付かないのは、日本の侵略の影響がいまだ継続している、つまり、日本の侵略の影響が、大戦後の韓国・北朝鮮の両国家をさまざまな方法で形作っていったからなのだ」
筋ジストロフィーの話とフィリピンの話とのつながりが、分からない。
なぜ公的扶助を期待したらいけないのかも、分からない。
障害者も人間である以上、他の人間(もちろん、その大部分は障害者でない人々)と同じように自己実現できる社会を作る、というのが、基本的人権の尊重という考え方でしょう。
この増田は、障害者に対する公的扶助に充てる財源を削って、何に使うべきと考えているのか、分からない。
この部分は現状を追認してばかりだと思う。
子どもを生み育てるのが普通でない社会は変えるべきだし、今ある制度の中で障害者が十分に自己実現できないなら、制度を変えるべき。
こんな不幸とストレスと悪意に満ちた地獄に子どもを呼び寄せるなんて、まさに外道。
幸せが100あるからって、不幸100が打ち消されるわけじゃないし。