はてなキーワード: 啓蒙主義とは
すげー納得感しかない
ここんところの一番ホットな議題が自分たちの党の名前をどうするか?な党になにも任せられないよな
立憲民主党のパンフレットで若者たちのために何をするのかを伝える前に、「あなたがたを主権者として教育する」と言う啓蒙主義的態度を取る限り、野党が若い世代の支持を得られることはありません
そこに若い世代の人間たちは、イヤも応もなく放り出されるわけです
その社会に対して、政党としてどのように責任を取っていくのか、それを示すことなく、「主権者としての力を身につけてください」ってお説教されて納得するでしょうか?
立憲民主党の対若者向けパンフレットで、職業訓練を労働政策の筆頭として掲げることで、「あなたが好きな仕事に就けないのは、スキルが足りないからだ」という自己責任論的なメッセージを、立憲民主党は若者に対して言外に送っています
「あなたがたに権利を守る教育を教えます」って言われたら、そりゃ「え、立憲民主党は私たち若者を守る気がないから、自分たちでなんとかしろってこと?」って受け取るでしょう
一部例外もあるが、例外に属する人は病院だったり刑務所だったり特殊な施設だったりに送られるが、
大多数の人間は等しく理性を持っているという前提があるので、義務教育により国家の成員としての訓練を受ける
啓蒙主義が人間に備わる合理性、理性を重視するのに対してロマン主義は非合理性、感情を重視する
啓蒙によって同等の認識に至ることができる、そして同等の認識に到ることにより、
社会を秩序立て運用することが可能であり、一部が形成する高度な思考も、啓蒙により継承することが可能と考える
対してロマン主義は、同質の理性ではなく、個々人の固有性を重視する
ネットには啓蒙主義の実践者も多いし、無料で質の高い情報を投稿し続けてる人もたくさんいるけど。
そもそも馬鹿を相手にしてないし、馬鹿に楽しんでもらおうって気持ちもないから、馬鹿には届いていないってことだと思うんだよね。
日本には放送大学もあるし、YOUTUBEでもなんでも専門的な内容を解説したりいろんな知見を広めてくれる無数の言説がある。
でもそれがターゲットにしてるのは、そういうものに興味があって科学や情報のリテラシーを持つ人であって、真に一般大衆向けではない、開かれてるけど向けられてない啓蒙だから、効果を発揮してないのではないかと思う。
ここで言う啓蒙ってのは、社会全般に知を広めることで社会全般を良くしていこう、という運動のことね。
啓蒙主義は科学が興ったおころに西欧世界で広まって、しかしこれは西欧中心的・貴族主義的な傲慢さを含む思想であるため、20世紀までには思想上でぼこぼこにされて廃れた。と、俺は理解していた。
でも民主主義や自由について考えれば考えるほど、これは啓蒙、という発想を前提している制度であって、現代のわれわれにあっても啓蒙主義を推進する以外の道はないと思えてきた。
民衆全般が賢くならないと、結局のところ民主主義は上手くいくことはない。アベ信者もアベガーも対消滅することはなく、マスコミは馬鹿向けの番組を製作してバカを量産し、SNSでは正義ぶった苛めが横行して自殺者が絶えることはないだろう。
インターネットっていうのは、理論上、その活動にすごく向いているはず。
ところが現実のインターネットっていうのは、"啓蒙が行き届いている状態"の、真逆を行っているように見える。
ネットを見れば見るほど、なぜか人は馬鹿になる、ように見える。
なぜだ?
仮説1 ネットを見れば見るほど個人は賢くなっているが、バカのバカ度合いとバカの流入速度が賢くなる量を上回っている
そうだとして、しかしそれはどういう理由なのか? ちゃんと考えると大変そうだ
仮説3 群衆は決して賢くなることはない
これはシンプルに間違いなので棄却する。流石に明治時代の大衆と令和の大衆では、令和のほうが啓蒙されているよ。コロナ騒動のこととかを精査すれば論証もできるだろう。
仮説4 群衆は実際に賢くなっているが、群衆の内部にいるので比較できず、わからない
これな気もするなあ。
もういいです。ネットでの正論、特にはてなで標榜されているような完全理知的な人間像を知ることはなんのメリットにもならないと確信しました。
コミュニカティブで清潔で寛容でそんな人間にはどうにもなれそうもありません。自分みたいにタバコを吸い、怠惰で向上心もなくバイタリティーもほとんどなくなってきたような人間にはどうにもはてなは劣等感をインストールする場所としてしか機能していないのです。いえ、仮にタバコをやめ寛容になり向上心を獲得し論理的な人間になれたとしてもそれはそれはとても気持ち悪いものになるに違いありません。なぜならその理想的人格はあまりにも過去の経験によって成り立っている自己とあまりにもかけ離れているからです。仮に理想的なふるまいをしてみようとすればそれはそれはとても奇妙できもちわるい人間に仕上がるでしょう。
つまりもう他人が考える理想的他人として自己を形成しようが、あるいはしまいがどちらにしてもうまくいくはずがないのです。自己は常に経験と連動してこそ自然であり魅力的であるのです。
理想的な人格から外れてるな、自分は不完全だなというシーンが会社やプライベートなどでたびたび訪れることがあります。タバコを適切な場所で吸ったり誠実な人みたいに振る舞ったり、本当はクズと罵倒したいのに作り笑いで寛容さを発揮してみたり、努力してそういうポーズをとってみたりはするのですがそのようなことをしているたびに自己がずれていく感覚を覚えます。
みんなどうやって折り合いをつけているのかわかりませんが個々人としての人格形成という点においてネットでどういう人間が批判されうるのかを知ることは同時にその思考や行動にいたる経験が訪れた時にその感情にブレーキをかけることになります。
それが例えば明らかに倫理に外れているようなことであれば自己にブレーキをかけるべきだと言えます。しかしインターネットで議論されているような理知はほとんどが無意味で無意義で無思慮な神経質なだけのものです。繊細チンピラ?マンスプレイニング?藁人形論法?いったい誰が言い出したのかわかりませんがそのすべての理想は啓蒙主義的であり一様性に人間の価値を整理していくのです。
フェミニズムやビーガンなどもその一例でしょう。男が敵だと思っている人はそう思っていればいい、野菜だけ食いたければそうすればいい、しかしそういう極端に理念化された価値観は公共性を帯び人々の思考にブレーキをかけることになります。
metoo運動にたいするカウンターとして女性自体を避けようといったようにあらゆる世論にたいして僕達はセキュリティーを装備する習性を持っている。非喫煙者の前でタバコを吸えば文句言われるだろうなと事前に考えるようにすべての価値観にたいし事前に考えるようになり公共的な自己しか発揮できなくなり、とても気持ち悪い人間が出来上がる。
事前に考え対処することが正しいと思われるかもしれないが自己は常に事後によって形成される。つまり物語、経験のない事前による自己の獲得はすべて偽である。事は常にやってしまえばいい。路上喫煙もセクハラも、パワハラも、犯罪も、なにもかも、やってしまえばいい。やってみてはじめて自己と連動した価値が生まれる。
多分こういう考え方をもう少し歴史的な表現をすると啓蒙思想って事なんだろう。目の前の事象や自分自身を機械的解釈で分解して理解することが、自分や自然をコントローラブルにすると考える思想だ。
ただ啓蒙思想についてはWW2以降に政治的、宗教的な批判の的にさらされた事も知っておいたほうがいい。それに現代の政治学や社会学などの多くの人文的学術分野は啓蒙思想から脱却して次の段階に進んでる。多くの場合は対話によって物事が理解されるという点に集約される。これは資本経済を理解することから生まれたものだし、啓蒙主義から生まれた社会主義を批判することからも見出された。
小難しい書き方になったが、要は整理整頓されていない言論を打ち捨てるより、寄り添って対話して理解しようとすることの方が、より良い結果を導きやすいだろうし、お互いの理解も進むんじゃないかということ。
ヴォルテールさんはー大層ご立派な事を言って一躍有名になったのかも知らないけどさー身も蓋もない言い方させてもらうと「それ、お互い啓蒙主義者同士でしか適用できないよね」としか思わん。
あと「主張する権利を守る」というのは具体的かつ明確にいうと『「それ」を主張する事で発言者に生じる一切の“不利益”を補償する事』であって、それ以外の行為には何の意味もないよね。
よって、現実であってもインターネッツでもそんな事できるわけないじゃん?極論?曲解?でも、ネットのくだらんつぶやき→非難囂囂の後でヴォルテールさん召喚してる奴の要求水準は絶対にそうじゃん?
日本国憲法には犯罪者である刑事被告人の権利については大量に書かれているが犯罪被害者については一切かかれていない。
犯罪者に人権を蹂躙された被害者はどうやって権利を回復すればよいのだ!
現在の憲法は国家権力と個人の対立でのみで考えられている19世紀の時代遅れの憲法なのだ。フランス人権宣言の啓蒙主義のまま進化していない!
先進諸国の憲法が細かく改正されているのは個人と個人の問題にも憲法で規定しているからなのだ1
日本も21世紀にふさわしい日本国憲法に変えるべき時に来ているのだ!
はてな民はかなりの人ができてないので注意してください。
・北米では禁煙が~などという1国だけを対象にした語りをやめる。
別の1国を出されただけで反論のしようがなくなってしまい議論できなくなる。
・喫煙者を過剰に叩きすぎるのやめる。現状は殆どヘイトスピーチ状態である
・WHOが何を持って順位を低くだしてるのか認識する。→つまり屋内での禁煙対策の話
・西洋からの日本の受動喫煙対策については啓蒙主義的な側面があること否定しない。
これをちゃんと認識しないと海外の人が道路にタバコを捨てまくってる件で国内世論が反発します。
そんな私でも冷静な議論ができるのに今のはてな民を見てるとまともな会話ができてるとは思えません。
本当に反省してください。
フェミニストからキモオタは死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミは死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。
フェミニズムとは何だろうか。
私はフェミニズムを名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタらしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミに死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。
しかしフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。
そこで手当たり次第に適当にフェミニズムの書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズムの理解の取っ掛かりになれば幸いである。
フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラル・フェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。
現在のラディフェミの理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズムと表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者の社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源はポルノであるという揺るぎない確信から、ポルノの法規制を推進する。
ポルノが性犯罪を誘発するという統計的な証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィと性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者が告発することも認められない。
ポルノには、ホモもレズも二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすいゲームやマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノンである。
なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノを諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。
J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義・ジェンダー・家族",1989,*3)であり、「女性と男性の重要な差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。
夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児が押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。
このように家庭内の賃金、労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミは女性の社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性の育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育の重要性を訴える。
なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性の創造",1965)が示すように、フェミニズムを男性と女性の権力闘争化することに否定的立場をとる。
出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである。女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統的フェミニズムである。
女性の社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。
日本ではさらにそこに独自の思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸・君が代をシンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別と男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。
レズビアン・フェミニズム、ブラック・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグ・フェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアル・フェミニズムとか。
同性愛者とフェミニストの関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイ/レズビアンの視点と、ポスト構造主義の理論を、政治的にひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線を理論的に張ることが出来るようになった。
リベフェミは広範な男性差別は否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別は肯定する。ラディフェミは男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性だけが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別は肯定されるのかもしれない。
セクハラ、家庭内暴力、中絶、女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタクと関係の深い「性の商品化」について取り上げる。
マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化」であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。
リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待、強姦、日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全な思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府の検閲に利用されると強く批判する。
一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示の権利の行使」であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本のフェミニズム6,2009)」とする。
ここから見えてくる点として、女性が「不愉快」であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから、表現の自由は全く関係のない話である。
リベフェミであるマーサ・ヌスバウムは嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニングの妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳派フェミニスト宣言",1997)としてゾーニングは効果がないと批判する。
ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。
そのような不快感を根拠とした規制は恣意的な運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているからである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである。
なお、福島瑞穂は非実在児童のポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田の見解がマルフェミの共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノの法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫・昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定数存在する見解であるように思われる。
初期の日本のフェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学の担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロとアマの距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。
こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。
「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。
「理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。
これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。
このようにフェミニズムは一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本のフェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸」フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニストの愛国心に苦言を呈している)。
最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場で上司が女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力は夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正にフェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。
私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。
いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。
「偏見を離れ冷静に考えることで真実にたどり着くことができる」というのが一つの信仰の形。
通常は、それに「科学的な手法で実験と仮説検証を繰り返すことで真実に近づくことができる」という科学信仰も加わる。
どちらも、独立した人間理性を、伝統や社会や宗教よりも上位に置く啓蒙主義的な思考法で、
20世紀以降は、人類学や言語哲学等の発展で「社会から独立した人間の理性」の存在が疑われているから、
個人的には自分の「冷静に考える」能力をそこまで信頼していないし、
原始時代の葬送儀礼から始まる宗教が、啓蒙主義の洗礼もくぐり抜けて、
現代社会に確かに生き残っていることを考えると、