はてなキーワード: 商業捕鯨とは
ブコメでも言ってる人が複数居ますが、鯨肉・イルカ肉食とそのための捕鯨・イルカ漁を偏った観点から「非人道」的と言われることはちょっとどうなんでしょうね。先のケネディ大使のツイートは,真に「国際的」観点というより一部の欧米文化における価値観からの批判のように思えます。ということでちょっと学術チック(?)なバックグラウンドの補強を…需要ないかもしれませんが。
わたしは今20代後半なのですが、少なくとも個人の経験の中で鯨肉を食べたことはありません。父や母からは鯨肉が給食に出ていたと聞いた覚えがあるという程度です。そもそも鯨肉食、お今の日本ではどれくらい一般的なものでしょうか?経験的に言っても牛肉や豚肉より食べられていないことは確かで、たとえばクックパッドで「鯨肉」と検索すると、37件しかヒットしません。
http://cookpad.com/search/%E9%AF%A8%E8%82%89
やはりそれほど一般的な現代の食文化とは言えない様子。そもそもわたしが鯨肉を食べたことがない理由の一つに、70年代の米国での商業捕鯨禁止を受け、80年代後半(つまりわたしが生まれた頃)にIWCが国際的にそれを禁止にしたことがあると思います。鯨肉は入手がしづらくなり、日本人にとって一般的な食料ではなくなりました。わたしは鯨肉を食べる文化に抵抗はありませんが(父や母の話を聞いていたからか?)、自分では進んで食べることはこの先ないと思います。元増田を書いた人も恐らくこういう感覚の持ち主ではないでしょうか。
続いて英語圏のレシピサイト(たとえばfood.com)で「whale meat」を検索してみると3件。そのうち2件がアラスカの鯨肉シチュー、1件はトンガの料理本からコピーされたものです。
http://www.food.com/recipe-finder/all?layout=desktop&inclingre=17714
クックパッドのほうがレシピの母数が3倍くらいあるのですが、それでもやっぱり英語圏の人間(米国人に限らない)にとって鯨肉食は身近な文化でないことがわかります。米国の歴史家ナンシー・シューメイカーによれば、ほとんどの米国人が鯨肉を普通の食材(normal diet)として見なしたことがないそうです。
以下は彼女の論文からの受け売りです。実はニューイングランドの先住民は鯨肉を普通に食材として見なしていました(シューメイカーはもともと米国、主にニューイングランドの先住民史を研究している人です)。ただ欧州等から入植してきた人々はそうではなく − 19世紀、ニューイングランドへ入植してきた人々は鯨の油やひげが高く売れるため鯨漁を行いましたが、鯨肉は先住民に分けるか捨てるなどしていたのです。鯨漁師(というよりは捕鯨業者)は海の上では食料に困り、鯨肉を食べることもありました。しかし彼らやその家族の日記に、本物の肉が食べたい…という趣旨の記録があるとのこと。つまり鯨肉は彼らにとって「肉」ではなかったのです。入植者であった捕鯨業者は鯨肉を食べる人々を牛肉を買うには貧し過ぎる(too poor to buy beef)と考えていました。端的に言えば所謂皆さんが思い描く現代の「米国人」の鯨肉食に対する嫌悪感はこういう由来もあるのです。我々とは違う先住民(primitive other)が食べるものなんて食べられるものか。米国は70年代に、鯨肉の食物としての不法性(illegitimacy as food)を理由にほとんどの商業捕鯨(「伝統的な(traditional)」捕鯨を除く)を禁止にしました。
要は、こういう風に批判されることは「日本の捕鯨やイルカ漁は文化ではなく商業だから非人道的」という含みが少なからずあるのでしょう。でも、食べるためにではなく油とひげを売って儲けるために「商業」捕鯨をしていたのはもともと米国の入植者なのです…日本をはじめ、古くから食料にするための捕鯨の歴史がある民族(たとえばノルウェー、フェロー諸島、西インド諸島、トンガなどの人々)にとっては捕鯨そのものが文化であると同時に、捕鯨に関する文化(たとえば絵巻物など)もたくさんあります。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kujira/
日本の捕鯨やイルカ漁は、伝統や文化でないというのでしょうか?シューメイカーは米国の視点で世界中の捕鯨を取り締まる…そういう単文化的な視点に警鐘を鳴らしています。欧米の一部の国から商業捕鯨に対する風当たりが強くなった結果、80年代後半生まれのわたしは(そして恐らく同世代の日本人は)少なくとも鯨肉をもう「普通の食材(normal diet)」とは見なさなくなっています。まあ伝統なんてそんなもんと言われればそれまでなのですが、よく言われるように、欧米だけが「世界」ではないでしょうし、このような批判に安易に迎合するようではどんどん伝統とか失っていくんじゃないですかね、ということです。グローバル(笑)な時代に伝統とか笑える、と思う人も居るんでしょうが。
ちなみにシューメイカーの論文はこれですが、
http://envhis.oxfordjournals.org/content/10/2/269.full.pdf+html
サブスクリプションがないと読めませんのでこちらのpdfで読めるほうを貼っておきます。
http://www.hcs.harvard.edu/eac/wp-content/uploads/2012/04/3986115-1.pdf
元増田です。どうもありがとうございます。
データはちゃんと公開されているのですね。これと合わせてIWCでの議論の議事録とか読めば正確なところが結構分かりそうですね。(議事録はまだ見つけ出していませんが。)
実際の所、捕鯨に関するIWCでの議論では「(幾つかの種については)○○頭までの捕獲であれば、持続資源として問題ない」という点(○○頭の主張には開きがありますが)では既に一致しています。IWCは「捕鯨委員会」なので、建前上は「鯨を持続的資源として活用するため」に捕鯨規制をやっています。ですから建前に従えば「100頭だ!」「いや50頭だ!」の争いなら捕鯨国が「50頭でいいです」にすれば収まるはずなのですが、ミンククジラなどはIWC自身の算出式が「○○頭までなら100年余裕!」とかの数字が出してしまっているので、反捕鯨国としては「100頭の根拠のこの部分の数字がはっきりしないぞ!」とかのデータの不確定部分をついて「確実な数字が出るまで商業捕鯨再開は認められない」というロジックを使っています。一応「○○頭」を算出する根拠の科学的正確性を巡って争っていることになりますが、実質は反捕鯨国の引き延ばし工作です。
なるほど、もはや本質的なところからはだいぶ離れてしまっている感じですかね。
横ですが。
基本的な話はwikipediaで「国際捕鯨委員会」「ミンククジラ」あたりをひいて頂けばよろしいかと。
実際の所、捕鯨に関するIWCでの議論では「(幾つかの種については)○○頭までの捕獲であれば、持続資源として問題ない」という点(○○頭の主張には開きがありますが)では既に一致しています。IWCは「捕鯨委員会」なので、建前上は「鯨を持続的資源として活用するため」に捕鯨規制をやっています。ですから建前に従えば「100頭だ!」「いや50頭だ!」の争いなら捕鯨国が「50頭でいいです」にすれば収まるはずなのですが、ミンククジラなどはIWC自身の算出式が「○○頭までなら100年余裕!」とかの数字が出てしまっているので、反捕鯨国としては「100頭の根拠のこの部分の数字がはっきりしないぞ!」とかのデータの不確定部分をついて「確実な数字が出るまで商業捕鯨再開は認められない」というロジックを使っています。一応「○○頭」を算出する根拠の科学的正確性を巡って争っていることになりますが、実質は反捕鯨国の引き延ばし工作です。
正しいかどうか分からないことを、正しいと信じて試して間違いだったと決まったとき、「奴らは馬鹿だったからあんなことしたんだ」という外野は手を汚さずに後出しジャンケンをしているようにしか見えない。
今間違っていると思っている人も、昔の時代にタイムスリップしたら、間違っているかどうか分からないだろうし、間違っていると思わない可能性がある。間違っていると言えるのは先人が間違ったからだ。我々はそこから学ばなければならないのであって、先人を一概に全否定すればいいという代物ではない。我々は何も知らなければ先人と同じ間違いを繰り返すことがありうるからだ。
それに、なぜ間違っているか分からないのに間違っていると言うことはおかしなことだ。それではおかしいと思う人たちが反対側に行ってしまうことを止められない。ネオナチや在特会なんか正にそんな感じだ。彼らを生みだしたのはレッテルを貼ることしか出来ていない世間に他ならない。
あげく正しいか間違っているかを証明しようとする努力を否定するに至っては訳が分からない。エスパーでもないのにやらずに間違っているか証明できるのか? 間違っていると証明してこそ、間違っているからやめろと初めて言える。
調査捕鯨の結果、ミンククジラは別に増えていないし、生態系に大勢に影響はないという結果が出た。このことについて「だから調査捕鯨なんてやるべきではなかったんだよ」という論者がいる。じゃあその論者はその結果を出すために何か努力したのか? してないなら偉そうに言うな。
調査捕鯨の問題は商業捕鯨の禁止を受け入れた結果生じたものであり、商業捕鯨の禁止の正当性を探るための、そして商業捕鯨の禁止を不当と考えていたからこその調査捕鯨だったはずだ。調査捕鯨は控えめに言っても証明のため必要なプロセスだったと言えるだろう。
これからは商業捕鯨の禁止は正当化されるだろう。ただしこれまでの調査捕鯨はプロセス的に必要不可欠だったし、失敗にもかかわらず、その失敗をこそ評価しなければならないはずだ。
私は「失敗した奴らは馬鹿だったからあんなことをしたんだ」的な論者を憎んでいる。彼らは知識に対するフリーライダーであって決して偉くないし、さらに悪いことに反知性主義者だ。そういう奴が正しさにフリーライドしているからといって、評価されることがあってはならない。何もしてないくせに何だ。さらにそういう奴らが説明責任を果たさないでネオナチや在特会を生むのを見るとますますムカムカしてくる。
今となっては想像もつかないことだと思うが、商業捕鯨「禁止」当時はまだまだ鯨というのはそれなりに喰われていた食い物で、マルハとか大洋とかの大手水産業者にとって、南氷洋捕鯨ってのはかなり規模の大きな部門であった(というか、大規模に船団組めるような大手水産業者でもないと南氷洋捕鯨とか出来ない)。それが即「禁止」ですよとなれば船団が全てゴミになるし、売り上げも減るし、乗組員全員クビになるし、と水産業界への影響がものすごく大きいものになることが見込まれた。
それで半官営であっても細々とでも捕鯨業界を維持し、いずれ商業捕鯨が復活する日を待つ意味で調査捕鯨を始めたという側面がある。文字通り護衛船団。
まあ、今となっては「鯨なんて食ったこともねえよw」な人もかなり多い時代で、ために儲からないもんだからマルハも大洋も捕鯨部門を手放してしまって、文字通り半官営になってしまっているわけだが。
これまた今となっては想像も付かないことだと思うが、タンパク質危機というのが吹聴された時代があった。曰く、たとえば米ソ全面戦争で牛の輸入が停まったらどうしますか? とか、199X年地球が核の炎におおわれたら何喰いますか? とか、自然破壊とかで大干魃でも起きて牛の生産量減ったら何喰いますか? とか、このまま中国あたりの人口爆発が進んだら牛の頭数が人口の増加に追いつきません! とか。そういう文脈の中でクロレラ喰おうぜ! とか、オキアミ喰おうぜ! というような研究があったわけだが、その一環で「牛が喰えないなら鯨喰えばいいじゃん、って言えるように捕鯨技術維持しよう」って論調があった。
や、今冷静に考えたら、そんな牛が喰えない状態で南氷洋まで捕鯨に行く余裕があるとは思えないわけだが。
割と本命。 http://www.whaling.jp/qa.html#05_01
鯨を獲りに行けば、獲れ具合で鯨の頭数、分布がより正確にわかる。耳石で年齢分布がわかる。獲った鯨のサイズや腹の中身で栄養状態がわかる。そういったデータの積み重ねで、鯨と南氷洋全体の生態系研究に資する。そういった、真面目に「調査」としての要素も大きい。(調査だから、恣意的にならないように獲る場所をランダマイズするなんてことまでする http://www.whaling.jp/qa.html#04_01)
調査してる目的が「増えたから、反捕鯨国が言うほど鯨資源は危機にないから、もう鯨獲っていいよね?」なのが本末転倒ではあるが。