はてなキーワード: 商家とは
>よくネトウヨが勘違いしているが、日本という国は歴史が浅い。
2.みんな天皇を崇拝
5.男女はみな結婚すべき
7.みんな清潔で善良
とかいう特徴があるみたいだけど、以上すべて明治維新以降、下手すりゃ昭和以降の、それも旧武士階級のような一定以上の階層のみの習慣
1.仏教と神道をちゃんぽん信仰(神道の方がエラいという意識はない)
2.帝というのがいるらしいことは知ってるが見る機会はゼロだし拝んでもいない
3.庶民には姓がなく武士階級以上の女性は結婚後も実家の姓を名乗る
4.農家や商家では奥さんも亭主と一緒に働いていた(家業だから)
5.江戸や大坂のような大都市は恒常的に男の人口が女の倍以上だから、一人身で女郎屋通いとかしてるうちに死ぬ方が多数
6.女子は家が貧しければ10代で遊郭に売られ、男子は10代から地元の悪い兄貴分に誘われて夜這いや女郎買いが普通
7.上下水道が不充分な土地では常に道も川も臭くて汚くポイ捨てが普通。貧困が原因の暴力犯罪、少年犯罪もすごく多かった
――そんなんが実態やで
実際に1945年以降と考えても極論ではない気がする
朝から首里城が燃えてるのをニュースで見て陰鬱な気持ちになった。沖縄の方や血縁の方、首里城を訪れたことのある方はなおさらだろうと思う。
私もルーツを沖縄に持つ一人として、ほんの少し心が痛い。といっても、沖縄を訪れたことはないし、今となっては戸籍に証拠も残ってない。このまま消えてしまう私のルーツ、個人的な沖縄との関わりを書き残しておこうと思う。
私の母方の祖母は沖縄出身。母は昭和一桁生まれ、戸籍は大阪市内。小学四年生で父親が亡くなり、母ひとり子ひとりで苦労したらしい……と、母からは聞いていた。祖母が亡くなったのは私が三歳の頃。当時は沖縄はアメリカ占領下にあり、本土復帰が成されてから実の弟さんが訪ねて来られた。たしか夜だったと思うが、フェリーを見送りに行ったのか迎えに行ったのか、夜の港へ行った記憶はある。後に聞いた母の話を繋ぎ合わせると、ようやく連絡がとれたものの、祖母がすでに亡くなっていたので、分骨して持ち帰られたのだという。だからおそらく、祖母は生まれ育った土地に帰ったのだと思いたい。しかし、母はその後積極的には沖縄の親戚とは連絡を取らなかったし、向こうからも連絡はなかったと思う。今でも実家に手書きの電話帳が残っていれば、沖縄の『Tさん』の名前と電話番号が残っているかもしれない。
(私が、親が亡くなってから実家と没交渉なので確認するすべが無いのが残念なのですが)
……と、思っていたのだ。母の話は整合性あったし、墓には祖母の名前が刻まれていて、分骨はしたものの祖母の骨が入っている。沖縄から来たおじさんの記憶もぼんやりとながらある。
しかし、母が亡くなった時に確認した戸籍に、母親(私の祖母)の名前はそこにはなかった。
そこにあったのは、親戚より仲良くさせていただいていた、とある女性の名前が書かれていた。親戚よりも仲良くさせていただいてはいたけど、戦争直後に母子家庭同士で助け合ったから仲良かったんだろうなと勝手に思ってたんだけど、そうじゃなかった。
そこから遡って、いつぞや母から聞いた細切れの情報を繋ぎ合わせると、えらいややこしい話が出来上がってしまった。
母が生まれた頃(昭和一桁代)、沖縄は日本ではなかった。出稼ぎに本土へ来た人は、港湾関係、女性は紡績工場で働いてる人が多かった。沖縄出身者は差別を受けてたんで、コミュニティを作ってその中で生きるか、もしくは沖縄出身だということを隠して自活するかのどちらかだったと思う。
祖母は沖縄のコミュニティを離れたのだと思う。で、何らかのきっかけがあって、大阪のとある商家の長男の娘を授かることになる。が、ここで祖母の戸籍が問題になる。
たぶんここで、母の記憶にある『杖に長刀を仕込んだおじさま』が絡んでくるのではないかという推測ができるのだが、これはあくまでも推測であるので置いておく。とにかく、何らかのすり替えが行われて、母はH家の長女に納まった。『大事な一人娘に掃除なんかさせなくていい』と言われるくらいのお嬢様だったらしい。小学四年生で父親が亡くなったというのに、終戦直後の私立のキリスト教系女学校に入学して高校まで通っているので(同級生だった友人もいたし、写真も残っているので与太話ではないはず)、お嬢様だったのは間違いない。
母は小学校の学童疎開で生駒の方に行ったという。そこに時々、会いに来てくれていたとも、祖母が食料を求めて京都の奥だか北陸の方だかに度々買い出しに行ってたらしいという話も聞いた。
で、なんだかんだあって、次男坊だった父が婿入りって形で結婚したわけですが、祖母と母はずっと一緒にいたわけで。子供が二人出来て、下の子が1歳になるとほぼ同時に祖母が亡くなったんだけど、この時に葬儀ができないってんで大騒ぎになったとかで。
今考えると、戸籍がない、娘もその事実を知らないって、大騒ぎにもなりますわな。
でも、また何らかの大人たちの仕事により『H家のS子』として葬儀をあげて、H家の墓に収められたんですけどね。
小さい頃、祖母のことも知ってる知り合いに、よく言われたんですよ。黒々とした髪や、大きい目が祖母によく似てるって。
写真で見る祖母はすでにおばあちゃんなので、本当に似てるのかどうかは自分ではよく分かりませんが。でも、沖縄の血を引いてるから目が大きいんだって言われるのは、ちょっと、いやかなり子供心に嬉しかったのを未だ覚えています。
でも、祖母本人から沖縄の話は聞いたことがなかったし、祖母が沖縄へ行った(帰った)話は聞いていない。
私が知るのは、祖母の旧姓が『多和田』だということ。その苗字の弟が、亡くなった祖母の骨を沖縄へ持ち帰ったということ。
母は沖縄のどこに祖母の遺骨が埋葬されてるか聞いてるはずではあるが、それを書き残してはいなかった。その理由はわからない。ただ、電話帳に弟さんの名前と電話番号が書かれていた。一度も電話することはなかったけれども。
私には沖縄をルーツとする遺伝子があるはずなのだけれども、戸籍がなんだかよく分からないことになっているので証明する手立てはない。
ただ、無口で気が強いという祖母という、周りの人から聞かされる印象が『沖縄出身』というフィルターを通してみると違ったものに見えてくる気がする。
気が強いのは、強く在らねば生きられなかったから。沖縄出身者のコミュニティにいれば居心地は悪くなかったろうけれども、大阪の人達からは差別を受け続け、港湾付近の状態の良くない場所に住み続けるしかないわけで。それを抜けるには、そうするしかなかったのではないだろうか。
祖母は沖縄へ帰らなかった。母がいたから。沖縄が戦場になった時も、祖母は沖縄へ帰らなかった。帰れなかった。だから、戦争が終わったあとも帰らなかったし、連絡も取れなかったのかもしれない。
戸籍では繋がりがないけれども。でも、私の祖母なんだ。どこに埋葬されたのか、今の私ではもう探せないけれども。探すなら、母が生きてるうちに言いくるめてやれば良かったとは思うんだけど。今更言ってもしょうがない。
戦争中、首里城が燃え落ちた時、それを聞いた祖母はどう思ったのだろう。帰れない故郷を思って泣いたのだろうか。
私が3歳になる直前に亡くなった祖母の心を今更知ろうとしても難しいけれども。祖母が沖縄から大阪へ来て、何を考え、何を隠し、どう生きようとしたのか、もう少し考えてみたい。
家父長制が崩壊したのに「嫁」なんて言葉を気取って使ってるのはアホくさいからやめろという話だよ。
息子の妻。家父長制下にあった日本では,いわゆるシャモジワタシを受けて主婦となるまでの期間の妻をさす呼称であった。当時の嫁が,一家の主婦となるまでには,長い試練の生活を強いられるのが普通で,新潟県佐渡の「添うて7年子のある仲だ,嫁にしゃくしを渡しゃんせ」という民謡などにも,その間の事情はうかがわれる。しかし,家父長制の崩壊した新憲法下の今日では,嫁と主婦との間に,かつてのようなへだたりはなくなってきている。 (→杓子 )
一家の経営において,社会慣行上容認される家政管理を中心とする主婦の権限。家長権が強大であった時代の商家,上層農家においては,家事全般にわたる責任者としての座が家長の妻に与えられ,これとともに食生活,衣生活など家事の切り回しに関する権限が,主婦権として確立されていた。オカミ,オウエ,エヌシ,イエトジ,オカタなどの呼称があるのはその証左である。主婦権の譲渡はヘラワタシ,シャモジワタシなどと呼ばれ,通常,嫁が婚家の家風になじんだ時期をみて,姑から嫁に対してなされた (→杓子 ) 。隠居制による家族では,夫婦単位に生活が営まれるため主婦権も姑と嫁に分散される。家長権が弱まり,核家族化した近代家族においては,家父長制下にみられたような主婦権は存在しなくなってきている。
大阪生まれの大阪育ち、母親が商家の出だったので、季節もの縁起物とは縁の深い育ち方をした。大寒(追: 正しくは冬至でしたね、恥ずかしい)には柚湯、端午の節句にはしょうぶ湯に入るし、1/7には七草粥、そして節分には恵方巻(呼称については覚えていない。単に太巻と言っていた気もする)だ。物心付いた頃(7歳位、35年以上前)からずっとだ。
最近(とはいってもここ10年程か?)、商機として恵方巻の習慣が全国展開され、それに纏わる社会問題も露になってきた。ホッテントリ入りも果たした作りすぎでの大量廃棄や、コンビニチェーンでの押しつけ、従業員への販売ノルマの強制等だ。20年以上前だが、自分も北新地のコンビニでバイトしていた時に、本部からのノルマで頭を抱える仲の良い店長に協力する形で数本引き受けていた。
こういった問題に声を上げるのは真っ当至極だしどんどんやれば良いと思う。ただ恵方巻の風習それ自体をディスるような発言がはてブでも最近よく目につくようになってきて、子供の頃から慣れ親しんだ風習を悪し様に言われて正直気分が悪い。
恵方巻やその文化自体に罪はありません。馬鹿にするなら対象を間違えず、アホウイレブンとでも言っててください。
地方軽視発言でイラっとくる。クリスマスやハロウィンは東京発なんですか?
Toteknon これを期に、伝統でも何でもない謎風習を作って煽るのもう止めてほしい。「夏越ごはん」なんか「米穀安定供給確保支援機構」がぶち上げてるんだぞ。
(少なくとも数十年は続く)伝統で、謎でもなんでもないローカル風習です。自分が知らない文化を伝統でもなんでもない謎風習というのは止めてください。
tattyu 太巻き好きだから恵方巻き文化はマジで嫌い。恵方巻きが流行る様になって太巻きが普段見かけなくなってしまった。
(恵方巻というのは基本ただの太巻です。嫌うなら(不味い?)太巻を作ったところを嫌ってください。)追:これは酷い誤読でした。自分の周りではスーパーでもコンビにでも太巻は年中みかけるので勝手に頭の中でマズい太巻が売られて腹が立ったみたいに脳内変換されてました
クソでもエセでもないローカル風習です。ちなみに広めたのはセブンイレブンだそうです。
mokomokotezawari 関西でもほとんどみかけなかった風習。平成中期ぐらいですら梅田やナンバの持ち帰り寿司屋みてて恵方巻きなんて一切やってなかったぞ
北新地のコンビニでバイトしてた時は周りの寿司屋ではやってましたし、コンビニの太巻も(メイン客層は水商売の方ですが)そこそこ売れていました。
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節分に食べる太巻の意味でも使っていますが、節分に太巻きを恵方を向いてかぶりついてしゃべらないで食べる、という風習を"恵方巻"と便宜上呼んでいます。一言で済んで便利なので。
江戸しぐさかな?
時どろぼう
http://net.keizaikai.co.jp/archives/5358
江戸の町も年の瀬となると商家は書き入れ時でした。嫁いだ娘は実家の前を通りかかっても親の商売の多忙さを気遣って、立ち寄らなかったとか。商売相手に対しても「ちょっと近くまで来たから」という気軽な訪問は遠慮するのが当たり前。事前に一筆、書面でことわりを入れてから出向くのが礼儀だったと言います。
「時泥棒は弁済不能の10両の罪。借りたお金は返せるけれど奪われた時間は取り戻せない-。」
これは、人や物と同じくらい〝時間〟を大事にしていた江戸町方に暮らす人たちの心構えです。10両は現代の金額でおよそ100万円に当たります。江戸で10両を盗む大泥棒は死罪にも値するといわれ、相手の都合も考えず一方的に自分の用件を押し付けて貴重な時間を奪ってしまうことは、それほどの重罪だとみなされていました。
中山道みたけ館の「みたけのお嫁入り」展を拝見してまいりましたわ
江戸時代から昭和あたりまでの御嵩町の婚礼についてまとめられていました
結納が何度も使い回され、最大で六回にも達したことが興味深かったですわ
1933年の婦人倶楽部では嫁入り道具が744円(現在の300万円)で、
1928年の御嵩の商家竹屋が次女の嫁入りに要した費用が4270円(現在の1700万円)でしたわ
公民館での結婚が試みられた時代もあって写真や道具が残っている点が興味深かったです
それと銃後の生活のミニ展示もあって、棒の先にホタテ貝をつけただけの「杓子」には戦慄しましたの
そのはずですわ
チェリオのメロンソーダを買った自販機があったタバコ屋のカウンターから
山際の竹林の繁り方が危ういですの
くちくりんしてやりますわ、一本残らず!
前回です
専業主婦は田舎から都会に出てきて近くに家事育児に協力してくれる実家が無い人達の間で生まれた形態だよ。
田舎は自営業(農業や商店経営など)が多いというのもある。「農家や商家の嫁」が家業を手伝わないなんて選択肢はないから。
だから夫両親と同居で仕事も家事育児もさせられる田舎の嫁にとって、同居しなくて良くて家事育児だけやれば良い都会の核家族専業主婦は憧れだったし
田舎の親世代も「息子は後継ぎだから田舎に残して嫁を貰いたいが、娘は田舎の嫁になって苦労するより都会のサラリーマンの嫁になって欲しい」
と娘のみを都会に送り出す人が多く、田舎の嫁不足に繋がった。
均等法以前~均等法後もまだ浸透してなかった時代は
「大卒男子のみ」「女子は20歳まで」なんて求人が普通で大卒女に一般の就職先は少なく、
彼女との交際自体についても色々言われていたが、どうにかプロポーズまではこぎつけて両家の親にも挨拶済み。
なのだが、入籍前、挙式前の同棲については激烈に反対されており、こんなことなら結婚にも賛成しなかったとまで言われる始末。
シチュエーションとしてよくあるであろう交際中の曖昧な期間を伸ばす為のものではなく、その先を見据えた上で
① 大前提として入籍をするので、その後の生活に向けてお互いの独身生活を徐々に擦り合わせてソフトローンチを目指す
② 二人で貯金をして式や諸々の出費に備える
③ お互いの勤務地の中間くらいにして、通勤時間を減らして生活の質を上げるのは二人にとっても早いほうが良い
話していても明確な反対理由が見えてこず、聞き出すことも難しいのだが、理由としては
C クラシックな商家の後継ぎがそんな緩い貞操観念では信用がない
D 天上天下唯我独尊ジジイと認知症ばあさんとの同居という地獄から1世代だけ抜け出すのは許さない
E 可愛い息子と少しでも長く一緒に同居していたい
のいずれかもしくは複数だろうか(リストは思いついた可能性の高いであろう順)。
自分達のメリットと相手の懸念点が全く噛み合っていないので、現状説得が難しいのは分かる。
だがこれ以上どうやってクリアに説明しても、最終的には強行突破になってしまいそうで、それは避けたい。
いっそ言う通り婚前の同棲は止めて、週末通うくらいにした方がいいのかもしれない。
そんな縛られた観念だから還暦を越えた当代の家長と夫人になっても二人して90近い爺様のいいなりになっているのでは、という捨て台詞は、
森の中にある葦の草むらへ叫んで捨ててきた。
同性婚かどうか以前に、婚姻制度自体が庶民含めた全ての国民に対して法制度化されたのは明治からなので。歴史はそんなに古くない。
一般庶民にとっては、結婚ってのは、ある程度お金のある人しかできない、というのが、明治中ごろまで続いたところらしい。
夫婦ものの落語にでてくる、「結納を取り交わした間柄」か「仲人なしのひっつきあい」か、というくだりが出てくるけど、
前者が「比較的余裕がある庶民の結婚」で、後者がそれ以外の一般庶民という感じ
当時の庶民でも、商家や農村なんかは、家同士のやりとりで「働き手」「財産の跡継ぎ」を求めて結婚をするというパターンがあった。
やっぱり現代式の結婚というよりは、家と家の結びつきなんだろうなぁ。
統計の見方にもよるが、一家庭内において男子が産まれる確率というのは、
「子をX人授かる可能性」その中から、さらに「男子である確率」となり、
一般的な出生率(⇓)など用いて算出すると、どうしても減少傾向(右下下がりの傾き)とならざるをえない。
(参考: http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei15/index.html )
これらを鑑みると、純粋に「男系男子」だけで家を維持しようとした場合は、
確率的に「3〜5世代」のどこかで、維持が困難という事になってしまう。
なので、旧くからある商家などは、早い内に丁稚やら、婿養子候補などを招き入れ、家が存続できるような仕組みを担保するようにしていた。
(今となっては考えられないが、それ故、「妾」といった存在が、時と場合に応じては許容されていた時代もあった・・・)
もう一寸、分かりやすくまとめると、
・再婚OK → 分子を微増(西欧では重婚が不可なので、この形式をとった王室がある)
・側室制度の復活 → 分子の数を増やす(増やしたければ、いくらでも調整可能)
分母が増える策は、確かに、一時的な維持確率を引き上げる事が可能だが、減少傾向(傾き)を留められるような策ではない。
(増加傾向に転じさせる事は不可能)
いま、皇統継承者4名中、50代未満の男子は `悠仁親王殿下` お一方だけと・・・、なんで、これもっと問題にならないんだろうか。
共通の敵と戦ったことで各家にくすぶっていた敵愾心は冷却された。
それ以上に効果的だったのは増田家(八)が他の三家に送った軍目付の存在だ。
いざとなれば暗殺されるだけの存在にみえて、彼らには赴任先の軍を「まじめに訓練する権限」が与えられていた。
増田家(五)の強硬な反対を押し切って付与されたこの権限によって、各家の軍隊は雑魚ナメクジ化した。
戦争を起こそうとしても雑魚ナメクジ同士のにゅるにゅるしたナメクジ試合になると悟って、
次世代の当主たちは軍事面での野望を抱かなくなった。一方で海外から侵略者は増田家(八)の戦略を洗練させた戦い方で、にゅるにゅると迎撃される事になった。
最終的に増田島は以下の形に落ち着いた。
アルファマスダ家 | 当主 | 領国 | 石高 |
---|---|---|---|
増田家(八) | 大便公方 | (八)(六)半国(七)(九) | 560万石 |
増田島の統一に中心的な役割を果たした増田家(八)は、石高にして全体の半分近くを領する。
増田島の中央に位置するのをいいことに島中から名産品をかき集め、みやこの人間を飽食させる島最大の人肛を誇るうんこ生産国でもある。
旧増田領(九)に運河を建設して南と北の交流を活性化、平和の中でのさらなる発展を目指している。
当主の意向で公衆便所の整備が熱心に進められ、多数抱える人口密集地が衛生的なことは海外の商人にも感心されている。
増田匿兵衛は自分は戦争向きの人材だとして引退し、増田家(四)から預けられた増田四五郎などの育成にあたっている。
増田騎馬軍団は馬の機動力を活かして各地をむすぶ伝馬に新しい役目を発見した。
ベータマスダ家 | 当主 | 軍目付 | 領国 | 石高 |
---|---|---|---|---|
増田家(四) | 鎮寇将軍(鎮北将軍あらため) | 増田出羽守 | (四)(一)(二)北半国(三) | 290万石 |
増田家(四)は連合軍から制圧した旧増田領(一)を預けられる代わりに、(二)南半国を増田家(五)に、(六)半国を増田家(八)に割譲した。
ただし、海上の交易利権はより広く得ており、増田家(四)の廻船は大洋側でも盛んに活動している。
当主は北方異民族の来寇にそなえる意味で公式に鎮寇将軍の名をたまわった。
狄人には和戦両様で対応し、彼らとの交易や旧増田領(三)を中心とする金山銀山の開発で豪華絢爛な文化を興した。
金製の馬糞ウニ模型など「出来は素晴らしいけど、なんで作ったの?」と言われる日々である。
増田家(八)はこの芸術品への対抗に金の雲細工を作らせた。後の金のうんこである。
ガンママスダ家 | 当主 | 軍目付 | 領国 | 石高 |
---|---|---|---|---|
増田家(五) | 東上管領 | 増田金吾 | (五)(二)南半国(六)半国 | 290万石 |
まったく動かずに北と西から半国ずつ奪った増田家(五)は増田島全体の穀倉となった。
収穫期が訪れるたびに大量の穀物が北や西に送られ、ここでの穀物の出来が相場に大きな影響をあたえた。
穀物の形で西に流出する栄養素を補うため、漁業によって得た魚を肥料にする方法が開発された。
その魚の栄養は増田家(五)の穀物を食べた人々のうんこの形で海に流出し、潮に乗ったものであり、
ここに穀物とうんこと魚(とプランクトン)を媒体とした元素の循環が完成した。
また、受け入れたカラトラヴァ騎士団との交流が増田家(五)を海の果ての国々との取り次ぎ役にした。
彼らは居住を制限されながらも、布教と皮膚病を治す薬草の探査にあたっている。
緯度が異なる旧増田領(二)の半分を手に入れたことは増田家を気象変動に強くして、飢饉の防止に貢献した。
なお、石高は増田家(四)と互角ながら、鉱山や商業の収入では大差があり、文化的には他からゆっくりと遅れて行った。
デルタマスダ家 | 当主 | 軍目付 | 領国 | 石高 |
---|---|---|---|---|
増田家(十) | 西国大宰相 | 増田大学 | (十)(士) | 210万石 |
増田家(十)は他の増田家に比べて独立性が低く、増田家(八)からの干渉を強く受けている。
しかし、増田家(四)(五)の思惑もあって、第四の増田家として存在できている。
二位から四位の三家を足せば、石高では増田家(八)を上回るのである。
増田家(八)も西の外様大名を削るよりも、強い藩屏に育てる選択をした。
また、大陸との取り次ぎ役には歴史的に増田家(十)が適任であった。
歴代の当主は気性のあらい増田家(士)の武士を制御するのに苦労する。連中の雑魚ナメクジ化が増田大学最大の功績であろう。
その他
大名格の増田家 | 旗本格の増田家 | 商家になった増田家 | 消滅(吸収された)増田家 |
---|---|---|---|
(三)(九) | (二)(士) | (七) | (一)(六) |
役目を終えた忍者たちは、走狗として煮られない自衛のために、集まって一つの村を作った。
文化背景の異なる彼らを結びつける手段として、俳句が盛んに利用された。
俳句でなくても「決まりきった単語」を用いて100文字以内で伝えるのが作法であった。
より荒っぽい忍者はコミュニケーションに手裏剣を投げつけあった。
帰農した忍者が増えてからは野良仕事に使う手斧が活躍することもあったという。
また、村内の政治的対立を回避するためカラトラヴァ騎士団からもらった異国の犬が名目的な村長に推戴された。
村民は独身のおっさんばっかりだったので、将来性には乏しかった。
ひとつの戦乱の果てに増田家は以上のように整理されたが、勝ち残った増田家が次々と分家の増田家をつくったことは言うまでもない。世に増田の種は尽きまじ。
そじゃーな!
前回
夫婦同姓の強制が合憲だという、にわかに信じられないような最高裁判決が出ました。
「夫婦同姓」という制度は、江戸時代の武家文化が、とりわけ明治期以降に広められたものであり、古来の文化ではありません。氏は職業の家柄を表しているわけで、武士ならば武家の氏、商家ならば屋号、職人も師弟で名を世襲し、農家はその土地を表していたものです。江戸時代は、公的には氏を名乗ることは武士の特権でしたが、既に姓の通称が一般的には広まっていたようだと思われます。
江戸時代の段階でも武家の特権に憧れる人々は多かったでしょうが、明治維新で「四民平等」が施行されたのを機に、皆が「武家並み」を目指したものであることは想像に容易いでしょう。
江戸時代の政治、社会統制は、武家一般の信仰である儒教に基づいて行われてきました。儒教では、男尊女卑ですし、年長者を敬えだとか、先祖を尊べだとか、そういった「道徳」があります。こうした儒教の教義も、江戸時代以降には社会に浸透させられ、それが未だに「日本文化」だと信じこまれてしまっています。
氏は職業柄を表しているものです。ですから、現代の、「夫婦共働き」や、職業のいわば個人主義化の時代にあっては、夫婦同姓の強制というのは江戸時代からの儒教信仰の帰結でしかなく、合理性を欠いています。また言うまでもなく、「信仰の自由」に反しています。日本の、いわゆる「ガラパゴス」「鎖国」、閉じ籠り根性の表れだといえましょう。
「女性の活躍」などと誰かさんが言っていますけれど、まったくもって口ばっかりで、言行不一致ですよね。これからはとくに、労働者の実人口の減少を少しでも抑える必要があるはずなのに、結婚や妊娠や出産といったできごとのたびに就労から疎外されるような社会慣行が根強いのが現実です。
「日本古来の文化」と声高に叫ぶ人がいるようですが、そのほとんどは信仰です。しかも江戸時代以降の、ながくて数百年程度のものでしかありません。誇りが無いから、こうしたプロパガンダ、信仰にすがるのでしょうね。到底目覚めそうにないようですから、私は哀しいし、絶望的です。
形式的には「妻の姓にも合わせられる」といっても、それは養子婿のような形態に合わせた制度です。実際にはほとんどの事例で、夫の姓に合わせられています。
氏名というのは根源的なアイデンティティですが、そのアイデンティティを奪うということが未だに正当化されているわけです。そして、奪う側に「差別している」「加害している」という自覚が無いことがほとんどですし、さらには奪われる側にまで喜んで差別される人がいるというのも残念ながら事実です。
「選択的夫婦別姓」という案は極めて light な案です。「奪いたくない」「奪われたくない」という意思のある人だけが改姓を避けるのですから。
(以前、普通に話している時、「随分高座からの物言いだな。」と話している相手では無い人間に横槍を入れられ、揚げ足を取られ、怒鳴り返そうかと思ったことがある。まぁ、それはどうでもいいんだが。)
身分制度がこの国から表層的に消え、(職業)身分による分類・分析が出来なくなった今、何か別の指標・方法を使わなければ社会現象を分析する事はできない。
(実の所、「身分制度解体」もその嫉妬心から「士族階級」をスケープゴートにして寄って集って叩くと言う単なる日本の伝統芸能()であるイジメと全く同じ構造であった。今で言う「公務員叩き」と同じ。その証拠に士族以外は殆ど身分を解体されていない。何故なら元々平民が9割以上であったから。「士族のみ」が社会的追い剥ぎにあっただけ。それ以外はいつもながら安穏とした生活を続けているだけで終った。平和ボケして暇だったからストレスの捌け口として士族を狙った八つ当たりに過ぎない。平和ボケすると人は傲慢になる。それまで守ってもらっていた人間を攻撃すると言う恩を仇で返す事を平気でするようになる。それどころか明治維新の混乱に紛れて不義を働き、ぼろ儲けしたような成金もいる。まぁ、それは商家や豪農と呼ばれる大規模農民が主だが。長くなるので別の時に残すか、、、)
様々な分類法が考えられるが、社会学的・経済学的に見るならばやはり所得や資産が解り易いだろう。
そして更にその所得を細かく分析すると、ある特徴が現われてくる。
(もしこれが解らないようであればこの先の記事は読まない方が時間を無駄にしなくて済む。)
経済学や社会学をやっている人間、或いは企業経営をしている人間にとっては「市場分析」が当たり前になるが、それが出来ない人間が一部ではいるようだ。(もしかしたらその能力がないのかもしれない。)
個人的にも実際、会社経営をしながら市場分析が出来ない人間を何人も知っている。
勿論、そう言う人間は大抵経営に失敗している。(まぁ、必然ではあると思うが。)
バブル経済に作った蓄財を細々と消費しながら何とかやっている人間も少なからずいるようだが、まぁそう言う人間の先は永く無いだろう。
そして「最近の若者は消費をしない」と言うマスコミの低レベルなスケープゴート作りが愚かしく、滑稽に思える。
自ら調べて分析する事も考察する事もなく、ある一部の人間が垂れ流す駄情報だけを取り入れ、飲み込み、踊らされてしまう人間達。
そして、その結果が齎す事に対して何の責任も感じていない。
自分は高座に上がって、それより下に抑圧されている人間を叩くのは簡単だろうな。
(大抵、イジメ撲滅運動をやっているような市民団体の構成員がイジメをやるような皮肉が世の中には多いから、理由は容易に理解できるのだが。)
「何故、最近の若者は消費しないのか。」を考えた事がないらしい。
意図的に「消費しない」のではなく、消費する元手がないから消費できないのである事さえ理解していない。
滑稽であり、愚かしい。
(そう言えば他人を何の理由も根拠も示さないままに「愚かしい」と誹謗中傷していた零細企業の社長がいたが、ソイツが一番愚かしいと言う事には気づいていなかったようだな。無知・無学・無教養なのに他人を罵る愚かさは過去俺が関わりを持った人間の中でも一番酷かった。慈悲深いならまだしも本当にソイツ以外の他人を全員見下し、貶めていた。まぁ、そう言う最低な人間も世の中にはいる。)
http://www.jili.or.jp/lifeplan/houseeconomy/asset/3.html
http://www.nli-research.co.jp/report/gerontology_journal/2011/gero11_007.pdf
http://rh-guide.com/data/kojin_sisan.html
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4690.html
バブル経済が崩壊してからと言うもの、給与は右肩上がりにもならない上に若年層の給料は低い水準で停滞したまま。
その人口層に「お前らがカネを使わないから経済が回らんのだ。不況はお前らの責任だ。」とする人口層がいる。
或いは自分達で持っているから意図的にそう言っているのだろうか。
まぁ、自分が優位に立てる立場におかれている時に、自分より立場の悪い状況下に置かれている人間を罵る事など誰でもできるし簡単な事である。
しかし、それでは何の問題も解決できないどころか、問題は時間経過と共に悪化していくだけである。
「水は高きより低きへ流れる。人の心もまた、高きより低きへ流れる。」
夫を「主人」て呼ぶのがイヤンっていう話題へのブコメにこういうのがあって、
私は自分の夫の事を「主人」と言うより「旦那さん」と言う人の方が気持ち悪い。小学生から国語をやり直してこいと思ってしまう。
日常会話では「旦那」派の自分としては「え??何??小学生からやり直せって、何がそんなにいけないの???」となったので調べたんだけど、
だんな【×檀那/旦那】
1 ほどこし。布施。転じて、布施をする人。檀越(だんおつ)。檀家。
3 商人が男の得意客を、また役者や芸人が自分のひいき筋を敬っていう語。また一般に、金持ちや身分のある男性を敬っていう。「―、これはよい品でございますよ」「顔見世に―衆を招く」
4 妻が夫をいう語。他家の夫をいう場合もある。「お宅の―」
5 妾(めかけ)の主人。パトロン。「―がつく」「―を取る」
えーと、ほどこしとかパトロンとかの意味合いを含む言葉を対外的に使うのが気持ち悪いってことでいいんでしょうか。すみません、本当にわかりません。失礼にあたる言葉なら今後使わないようにするので教えてください。
女性の社会進出を進めた結果、派遣で定職には付けないわ、婚期は逃すわで
一生働けるんじゃなくて、一生働かなきゃいけない(派遣で)みたいなの量産してどうすんだ?
激しく勘違いしているようだが、昔から女性の大多数は働いていた。いや働かされていた。馬車馬の如く。
結婚=夫の家の女中兼跡継ぎ製造機となる、と言う意味でしかなく
家事も育児も介護もやり、「家」の仕事(が農家だろうが商家だろうが嫁が一切タッチしなくて良いなんて有り得なかった)もやり、
勿論給料など貰えないのが「嫁」ってやつだった。
それでも昔の女性はそれ以外に食う道が無いから、結婚するしかなかった。
その時代の女性と比べたら「派遣で定職に就かず婚期を逃す」道を選べる現代の女性は遥かに恵まれた状態だよ。
家事は自分の分だけでいい。出産も育児もしなくていい。介護もしたとしても自分の親だけでいい。働いた分はちゃんと給料が出る。