「哲学者」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 哲学者とは

2024-02-16

anond:20240216161225

追伸。

イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

anond:20240216124331

それ数学というより哲学だな。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」で有名な哲学ヴィトゲンシュタインが言う、言語ゲーム元増田の考えてるようなことを主題にしている。

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?

と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?

ここで、これらの言葉意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います

たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。

そもそも数学の根幹部分を支える論理学重要概念である否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います

「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法

そうであるのになぜ上記のような定義公理が厳密なもの認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います

結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。

そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います

どんなに高度な数学表現も究極的には自然言語還元されるはずで(どんな高級言語機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解原理的には五感に根差し感覚的なものなのだから数学記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念直観的)。

数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459

しか抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。

有効である理由リンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます

まり抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。

また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているか確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います

これ自体ある意味抽象のものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます

抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価確認テストをすることが難しくなるでしょう。

といってもそもそもわれわれは相手自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。

頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから

対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。

しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。

反応や発言いくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターン必要と思われ、原理不可能と思います

哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常範囲内で「理解齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。

ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います

あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)

特定公理範囲内において論理的矛盾のないシステム

はいますが、そもそも矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。

たとえ矛盾記号論理の表現記述して定義した気になったところで、じゃあその記号定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

dorawiiより

追記

数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。

でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベース客観的であろうとする学問ぐらいだから別にエントリ詐欺じゃないよね?

a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。

言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ

物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。

言語的なテレパシー論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。

さら追記


イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。

しろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文ごまんとあるんだよね。

哲学において焼き増しは無意味パクリじゃないのよ。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

2024-02-13

anond:20240213093304

科学読み物でよく取り上げられる、常識レベルの話しかしていないのに、なぜ通じないんだろう?としか思っていないです

増田理解できてたら下記は書けないです

意識下の自認が

多くの神経科学者や哲学者は、生物学や神経学進歩を踏まえつつ、

自由意志が完全に自律的絶対的存在するという考えは非常に疑わしいと一般的には考えてるので

つか、古典物理的な視点でも唯物論視点でも自由意志存在できないんで

 

まぁ増田には難しいかもなので、これならどうだろう?(再放送)

 

実在する物も、自己認識しか存在しない "記憶(想い)"も、万物はすべて変わる

そもそも"I (アイ)"自体が不確かなものなのだが、誓いとは、想いとはいったいなんなんだろうか?

増田"今の子どもがいい"と言っているが、いったい何に対して愛を誓っているんだ?

かの有名な『ロミオとジュリエット』の中で夜ごとに形を変える月に愛を誓うなんて不実!みたいなシーンがあるが、

その愛は、実在する"物(物理)"に対して誓われたものなの?それとも自己認識しか存在しない "記憶(想い)"に対して誓われたものなの?

2024-01-22

anond:20240122224657

はい、それは哲学者イマヌエル・カント認識論に基づく考え方です。

カントは、時間空間経験から抽象して得られたものではなく、経験に先立って存在するものであり、対象直観する際に付随する形式法則であると主張しました。

まり時間空間事物のもの独立して存在するものではなく、我々が物を知覚するとき時間空間が絶えずともなう、それは物自体にあるのではなく、主観形式として我々の中に備わっているとしたのです。

このような視点から見れば、時間空間は確かに認識によって生まれると言えます

しかし、これは哲学的視点であり、物理学や他の科学分野での時間空間理解とは異なることに注意が必要です。

2024-01-21

本当は哲学者になりたかったし、天文学を修めて学芸員にもなりたかったし、図書館司書にもなりたかった

今なんでこんな仕事をやってるんだろうと思う日もある

2024-01-17

anond:20240117181630

ツイッター名言風のなにかが量産されたことで名言というもの価値が落ちているなぁと感じた

昔の哲学者名言とか、真顔で見ると「なんかツイッターに転がってそうなやつだな」と思ってしま

2024-01-16

anond:20240116003349

リソース無限だと思っているやつは左右どちらでも実務の邪魔

宗教家哲学者にでもなるといい

2024-01-14

哲学者って

なんか洒落名前の猫飼ってるやつばっかでいけすかねェと思ってたらショーペンハウアーおじいさんはプードル飼ってたらしい。犬派は珍しいが、名前がおしゃれでいけない。なんだアートマンって。

2024-01-02

anond:20240102080317

知的障害でもありますの?ちなみにガチ知的障害があっても正社員として働き、

余暇大学行ったりピアノ絵画制作を楽しんでいる人たちがいる現実を重く重く受けて止めてもろて 

一方で知的障害や重度の身体内臓障害が無くてもそれがかなわない人たちがいる

 

こんなん親以外の誰の責任でもないでしょ

 

増田やこの増田(anond:20240101135523)がすべきことは、子の特性にあった養育をしなかった親の体面を慮ることではなくて、毒親との和解

子の特性にあった養育をしなかった親の体面を慮っても無意味どころか、社会にとって極めて有害(最悪は加藤智大死刑囚や青葉被告) だが、

どーーーーーーーーしても親の名誉や体面を慮りたいなら、それ相応の振る舞いをすることですな

子は親の鏡だぞ

 

ついでに下記の常識インストールしといてね

多くの神経科学者や哲学者は、生物学や神経学進歩を踏まえつつ、

自由意志が完全に自律的絶対的存在するという考えは非常に疑わしいと一般的には考えてる

これは、脳の活動遺伝子などの要因が個体の行動や意思決定に影響を与えるという科学的な研究結果に基づくものなんだね

つか、古典物理的な視点でも唯物論視点でも自由意志存在できない

2023-12-30

anond:20231230195237

哲学者とか自称だろうしなれるんじゃない?

食っていけるかどうかは別物だけど

世界タイトル2つ保持してる現役プロボクサーだけど転職を考えている

もう30近いんだけど今から哲学者かになれるもんなんでしょうか?

身体の衰えで引退を考えてるのもあるけど小さい頃から憧れがあったので

西田幾多郎

2023-12-22

「好きな哲学者は?」と

聞かれると「サルトル」と答えるようにしている。

理由簡単だ。

サルトル小説を書いている。

作品を作ってるんだよ。

まりサルトル自分哲学ちゃん活用している。

それに比べ、他の哲学者はどうだ?

口先ばかりじゃないか

自分哲学があるなら、それを哲学としてじゃなくて、他の物を通して示さなければ意味がない。

そういう思いを抱きながら俺は仕事をしている。

から俺は哲学を抱いているし、哲学者以上に哲学者だと思っている。

2023-12-16

岸政彦氏の「社会学における大風呂敷を広げた預言者批判について

人生を変える社会学──『岩波講座 社会学刊行にあたって

https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/7681


なんだか絶賛的な評価が多いみたいようだが、社会学門外漢だけに、個人的にはモヤモヤが残った。

前回は上野千鶴子吉見俊哉大澤真幸などが全体の監修者で、巻数も26あったと記憶しています。各巻のタイトルも凝ったものが多かった。執筆者社会学プロパーだけでなく、竹田青嗣などの周辺領域の方が入っていました。文体や内容も派手で、自由で、雑多で、それほど社会学とは関係のないものもたくさんありました。もちろんそれだけではなく、当時の最先端社会学的な議論をしている論文もたくさんあって、たとえば落合恵美子が実証的な観点から上野千鶴子を強く批判する論文なども収録されていたのですが。

 そのころから比べると、社会学も大きく変わりました。どちらかといえば、より地味な、地道な、実証的なスタイル調査研究をおこなう社会学が求められるようになったのです。今回の『岩波講座 社会学』では、そうした社会学者が中心となって執筆します。特定対象特定問題に、特定理論特定方法を携えて実直に調査研究を続けるような、そんな社会学者たちはこれまでたくさんいたし、いまもたくさんいます。いま、この社会にとってほんとうに必要なのは、「職人的」な社会学者なのです。

要するに、この講座のシリーズ全体でおこなうのは、社会学のものの再定義です。もっといえば、これは「本来社会学」へと立ち戻ろうとする試みです。社会学者は、大風呂敷を広げた預言者であってはならない。私はすでに、2018年有斐閣から出版された『社会学はどこから来てどこへ行くのか』という対談集で、そのような趣旨のことを述べています



まずここで説明されるべきは、「地味な、地道な、実証的なスタイル調査研究をおこなう社会学が求められるようになった」理由であり、そしてかつてはそうしたもの忌避(あるいは小馬鹿に)されていた理由である。例えば、社会学という学問の発展の結果なのか、社会経済的環境の変化や取り組むべき新たな社会問題の登場の影響なのか、社会科学研究全体のトレンドの変化の影響なのかが、きちんと説明されるべきである。上の文章はそうした説明が一切なく、以前の社会学は中身がからっぽだったが、自分たちが「地味な、地道な、実証的な」もの改善したという、それこそ中身が空っぽなことを言っているだけに過ぎない。


社会学者は、大風呂敷を広げた預言者であってはならない」というのも、別に社会学に限ったことではない。具体的には見田宗介宮台真司のことを言っているだろうが、30年以上前には「大風呂敷を広げた預言者」は、哲学者浅田彰など、社会学以外にも数多く存在していた。現在だと斎藤幸平や成田悠輔の名前が「現代預言者」として思い浮かぶが、彼らは経済学者である社会学者で思い浮かぶ名前はもういない(古市は軽薄ではあるが預言者的では全くない)。


そもそも、「地味な、地道な、実証的な」をくどいほど強調している点で、おそらくはSNS上の社会学バッシングを気にして怯えるばかりの、自分たちの中身のなさを暴露している感じがする。本当に「地味な、地道な、実証的な」人は、そんなことは口が裂けても言わない。ネット上の悪口など意に介さず、自分研究にコツコツと取り組むだけだ。「大風呂敷を広げた預言者」についても、そうした人がなぜ必要とされるのかの現代的な状況について丁寧に分析説明するだろう。

そして後半は、紙の本との出会い大事だというノスタルジック感情論に終始している。もちろん世代的に共感できなくはないが、30年前から情報環境の劇的な変化と今回のシリーズ編集方針との関係について、社会学者として何か分析的な議論があるべきだろう。


かいところだが、「巻数も26あったと記憶しています」って、なんですぐ調べないのだろうか。「地味な、地道な、実証的なスタイル」な人は、そういうところから絶対に手間暇を惜しまない。そもそも、岸氏はネット上の発言しか知らないのだが、それらを読む限り、経済政策論にも安易に口を挟んだりなど、「地味な、地道な、実証的なスタイル」の人には全く見えない。

2023-12-09

anond:20231209083906

そもそも自我自由意志なんてもの科学的根拠がないもの*1から自分自己肯定しちゃっていいって言っても、それも出来ないっていうじゃん?

素直に親子関係問題があったのだと自覚してプロ医師の手助けを受けてどうぞ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1 

多くの神経科学者や哲学者は、生物学や神経学進歩を踏まえつつ、

自由意志が完全に自律的絶対的存在するという考えは非常に疑わしいと一般的には考えてる

これは、脳の活動遺伝子などの要因が個体の行動や意思決定に影響を与えるという科学的な研究結果に基づくものなんだね

つか、古典物理的な視点でも唯物論視点でも自由意志存在できない

 

あと、Natureにも発表されてたけど、

食用として解体された豚に特定の処理することで脳や内臓の反応が戻るので(OrganEx:2022年実験、BrainEx:2019年実験)、

必要であれば自由意志、なんなら生命定義自体かえるべきだと思うよ

つか、生命と非生命には本質的な違いは無いしね。日本生物物理学会の見解でもこうやで?

生命システムは複雑ではありますが、非生命物質と同じ、通常の物質系(原子分子イオンなど)からできています。したがって材料的には生命と非生命物質本質的違いはありません』

そもそも無機物にも自己組織化という概念がありますし、巨大ウイルスには“免疫”の仕組みがあり、自己と非自己認識があることが分かってるやんけ

必要であれば自由意志、なんなら生命定義自体かえるべきだと思うよ(二度目)

2023-12-06

anond:20231206122104

ゆうて、『頭が悪くても日本日常生活で何も困らない、なんなら日本の平均以上貰うの余裕で可能』、

たとえ頭が悪い障害ニュアンス(知的障害等)も含むものだったとしても、

作業所ではなくフツーに正規雇用で働いて暮らしてる。なんなら障害無自覚なこともある』って言っても、増田は納得せんじゃん?

 

根本的な原因は、増田が親から無条件でありのまま肯定してもらえなかった、親から条件付きの愛情しか与えられられなかったことだと思うけど、

そもそも自我自由意志なんてもの科学的根拠がないもの*1から自分自己肯定しちゃっていいって言っても、それも出来ないっていうじゃん?

 

素直にプロやお医者さんの手助け受けた方がええと思うよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1 

多くの神経科学者や哲学者は、生物学や神経学進歩を踏まえつつ、

自由意志が完全に自律的絶対的存在するという考えは非常に疑わしいと一般的には考えてる

これは、脳の活動遺伝子などの要因が個体の行動や意思決定に影響を与えるという科学的な研究結果に基づくものなんだね

つか、古典物理的な視点でも唯物論視点でも自由意志存在できない

 

あと、Natureにも発表されてたけど、

食用として解体された豚に特定の処理することで脳や内臓の反応が戻るので(OrganEx:2022年実験、BrainEx:2019年実験)、

必要であれば自由意志、なんなら生命定義自体かえるべきだと思うよ

つか、生命と非生命には本質的な違いは無いしね。日本生物物理学会の見解でもこうやで?

生命システムは複雑ではありますが、非生命物質と同じ、通常の物質系(原子分子イオンなど)からできています。したがって材料的には生命と非生命物質本質的違いはありません』

そもそも無機物にも自己組織化という概念がありますし、巨大ウイルスには“免疫”の仕組みがあり、自己と非自己認識があることが分かってるやんけ

必要であれば自由意志、なんなら生命定義自体かえるべきだと思うよ(二度目)

2023-11-27

anond:20231127214257

働かなくていいなら

一般人お受験動機も持たないし

研究者哲学者以外みんなバカになって

食べて寝て死ぬ作業しかできない人間になって

滅びない?

2023-11-24

anond:20231124012313

結果、現代は何百年も前の作家哲学者忌避した状態になっているように思える

2023-11-23

会社内や知人と話す際、

俺はベルクソン引用する。

フランス哲学者であるアンリベルクソン曰く—」という風に。

それで事態はたいてい丸く収まるし、おおよそ納得してくれる。

休日にはスタバに通い、ベルクソン原書を読んでいる。

今日も午前はスタバへ行き、トールで二時間粘った。

手にしたのはアンリベルクソン時間自由』の原書

英語なので内容はよく分からないが、おそらく良いことを言っているのだろう。

俺はベルクソン人類で一番頭が良いと思っている。

から、彼の言説は正しいのだ。

2023-11-16

anond:20231116160539

多くの神経科学者や哲学者は、生物学や神経学進歩を踏まえつつ、

自由意志が完全に自律的絶対的存在するという考えは非常に疑わしいと一般的には考えてる

これは、脳の活動遺伝子などの要因が個体の行動や意思決定に影響を与えるという科学的な研究結果に基づくものなんだね

つか、古典物理的な視点でも唯物論視点でも自由意志存在できない

 

あと、Natureにも発表されてたけど、

食用として解体された豚に特定の処理することで脳や内臓の反応が戻るので(OrganEx:2022年実験、BrainEx:2019年実験)、

必要であれば自由意志、なんなら生命定義自体かえるべきだと思うよ

つか、生命と非生命には本質的な違いは無いしね。日本生物物理学会の見解でもこうやで?

生命システムは複雑ではありますが、非生命物質と同じ、通常の物質系(原子分子イオンなど)からできています。したがって材料的には生命と非生命物質本質的違いはありません』

そもそも無機物にも自己組織化という概念がありますし、巨大ウイルスには“免疫”の仕組みがあり、自己と非自己認識があることが分かってるやんけ

必要であれば自由意志、なんなら生命定義自体かえるべきだと思うよ(二度目)

2023-11-13

anond:20231112225347

なぜか死刑廃止論者は自分のことを知的インテリだと思ってるが(だからしょっちゅう反知性主義がどうのこうのと言ってる。これは反知性主義誤用なのだが)、大物哲学者死刑廃止論なのはデリダくらいなんだよな。

数学宇宙仮説とは?

人生宇宙、そしてすべての意味とは何か?「銀河ヒッチハイク ガイド」では、答えは 42となっている。

科学質問範囲は、一部の分野では縮小し、他の分野では急増した。

宇宙ある意味数学であるという考えは、少なくとも古代ギリシャピタゴラス派にまで遡り、物理学者哲学者の間で何世紀にもわたる議論を生み出してきた。

マックス・テグマークはこの考えを極限まで推し進め、宇宙は単に数学によって記述されるのではなく、数学自体であると主張している。

この議論の基礎は、人間とは独立した外部の物理現実存在するという仮定である

これはそれほど物議を醸すものではない。物理学者の大多数はこの長年の考えを支持していると思うが、まだ議論されている。

形而上学独我論者はそれをきっぱり拒否し、量子力学のいわゆるコペンハーゲン解釈の支持者は、観察のない現実存在しないという理由でそれを拒否するかもしれない。

外部現実存在すると仮定すると、物理理論はそれがどのように機能するかを説明することを目的としている。

一般相対性理論量子力学など、最も成功した理論は、この現実の一部、たとえば重力素粒子挙動のみを説明している。

対照的に、理論物理学の聖杯はすべての理論、つまり現実の完全な記述である

現実人間とは独立して存在すると仮定する場合記述が完全であるためには、人間概念をまったく理解していない、人間以外の存在、つまりエイリアンスーパーコンピューターなどに従って、現実が明確に定義されていなければならない。

言い換えれば、そのような記述は、「粒子」、「観察」、またはその他の英語単語のような人間負担排除した形で表現可能でなければならない。

対照的に、教えられてきたすべての物理理論には 2 つの要素がある。

それは数式と、その方程式私たちが観察し直観的に理解しているものとどのように関連しているか説明する言葉である

理論の結果を導き出すとき陽子分子、星などの新しい概念を導入するが、それは便利だからである

原理的には、このようなバゲッジがなくてもすべてを計算できる。

たとえば、十分に強力なスーパーコンピューターは、何が起こっているか人間言葉解釈することなく、宇宙状態時間の経過とともにどのように進化するかを計算できる。

バゲッジを含まない外部現実記述を見つけることは可能か?

もしそうなら、外部現実における物体とそれらの間の関係のそのような記述は完全に抽象的でなければならず、あらゆる言葉記号は何の事前の意味も持たない単なるラベルにならざるを得ない。

代わりに、これらのエンティティの唯一のプロパティは、エンティティ間の関係によって具体化されるものになる。

ここで数学が登場する。

現代数学は、純粋抽象的な方法定義できる構造正式研究である。つまり数学構造発明するのではなく、それらを発見し、それらを記述するための表記法発明するだけである

人間から独立した外部の現実を信じるなら、テグマーク数学宇宙仮説と呼ぶもの、つまり物理現実数学構造であるということも信じなければならない。

言い換えれば、巨大な数学オブジェクトの中に住んでいる。

そのオブジェクトは、十二面体よりも精巧で、おそらくカラビ・ヤウ多様体テンソル束、ヒルベルト空間などの恐ろしい名前オブジェクトよりも複雑である

世界のすべてのものは、あなたも含めて純粋数学であるはずだ。

それが本当であれば、万物理論純粋抽象的で数学的でなければならない。

理論がどのようなものになるかはまだわからないが、素粒子物理学と宇宙論は、これまでに行われたすべての測定が、少なくとも原理的には、数ページに収まりわずか 32 個の未説明の数値定数を含む方程式説明できる段階に達している。

したがって、すべての正しい理論は、T シャツに書ける程度の方程式説明できるほど単純であることが判明する可能性さえある。

しかし、数学宇宙仮説が正しいかどうかを議論する前に、外部の物理現実を見る 2 つの方法区別することができる。

1 つは、上空から風景を観察する鳥のような、数学構造研究する物理学者の外側の概要

もう一つは、鳥によって見渡される風景の中に住むカエルのように、構造によって記述される世界に住む観察者の内面視点

これら 2 つの視点を関連付ける際の 1 つの問題時間関係する。

数学構造は、定義上、空間時間の外側に存在する抽象的で不変の存在である

宇宙歴史映画に例えると、その構造は 1 コマではなく DVD 全体に相当する。

したがって、鳥の視点から見ると、4 次元時空内を移動する物体の軌跡は、スパゲッティもつれに似ている。

カエルには一定の速度で動く何かが見えますが、鳥には調理されていないスパゲッティのまっすぐな束が見える。

カエル地球の周りを回る月を見ると、鳥は絡み合った2本のスパゲッティが見える。

カエルにとって、世界ニュートン運動重力法則によって記述される。

鳥にとって世界パスタ幾何学模様である

2 つの視点を関連付ける際のさらなる微妙な点には、観察者がどのようにして純粋数学的になることができるかを説明することが含まれる。

この例では、カエル自体は厚いパスタの束で構成されている必要がある。

その非常に複雑な構造は、おなじみの自己認識感覚を引き起こす方法情報を保存および処理する粒子に対応している。

では、数学宇宙仮説を検証するにはどうすればよいか?

まず、自然界ではさらなる数学規則性がまだ発見されていないことが予測される。

ガリレオ数学宇宙の考えを広めて以来、素粒子小宇宙と初期宇宙の大宇宙における驚くべき数学的秩序を捉える素粒子物理学の標準モデルなど、その系譜に沿った発見が着実に進歩してきた。

この仮説は、並行宇宙存在という、より劇的な予測も行う。

長年にわたって多くのタイプの「多元世界」が提案されてきましたが、それらを 4 つのレベル階層に分類することが役立つ。

最初の 3 つのレベルは、同じ数学構造内の非通信並行世界対応します。レベル I は単に、光がまだ到達していない遠い領域意味する。

レベル II は、介在する宇宙宇宙論的膨張により永遠に到達できない領域カバーする。

レベル III は「多世界」と呼ばれることが多く、特定の量子事象中に宇宙が「分裂」する可能性がある、量子力学のいわゆるヒルベルト空間の非通信部分が含まれる。

レベル IV は、根本的に異なる物理法則を持つ可能性がある、異なる数学構造並行世界を指す。

現在の最良の推定では、膨大な量の情報、おそらく Googolビット使用して、観測可能宇宙に対するカエル視点を、すべての星や砂粒の位置に至るまで完全に記述する。

ほとんどの物理学者は、これよりもはるかに単純で、T シャツには収まらないとしても、本に収まる程度のビット数で特定できるすべての理論を望んでいる。

数学宇宙仮説は、そのような単純な理論が多元宇宙予測するに違いないことを示唆している。

なぜなら、この理論定義上、現実の完全な記述であるからである

宇宙を完全に特定するのに十分なビットが不足している場合、星や砂粒などの考えられるすべての組み合わせを記述しなければならない。

そのため、宇宙記述する追加のビットは単にエンコードするだけである

世界電話番号のように、私たちがどの宇宙にいるのか。このように、複数宇宙記述することは、単一宇宙記述するよりも簡単になる可能性がある。

極限まで突き詰めると、数学宇宙仮説はレベル IV の多元宇宙意味し、その中に他のすべてのレベルが含まれる。

宇宙である特定数学構造があり、その特性物理法則対応している場合、異なる特性を持つそれぞれの数学構造は、異なる法則を持つ独自宇宙である

実際、数学構造は「作成」されるものではなく、「どこか」に存在するものではなく、ただ存在するだけであるため、レベル IV の多元宇宙必須である

スティーヴン・ホーキング博士はかつてこう尋ねた。

方程式に火を吹き込み、それらが記述できる宇宙を作り出すものは何でしょうか?」

数学宇宙場合重要なのは数学構造宇宙記述することではなく、それが宇宙であるということであるため、火を噴く必要はない。

レベル IV の多元宇宙存在は、物理学者のジョン・ウィーラーが強調した混乱する疑問にも答える。

たとえ宇宙を完全に記述する方程式が見つかったとしても、なぜ他の方程式ではなく、これらの特定方程式が使われるのか?

他の方程式が並行宇宙支配しており、観察者をサポートできる数学構造分布考慮すると、統計的可能性が高いため、宇宙にはこれらの特定方程式があるということだ。

並行世界科学範囲内なのか、それとも単なる推測に過ぎないのかを問うことは重要である

並行宇宙はそれ自体理論ではなく、特定理論によってなされた予測である

理論反証可能であるためには、そのすべての予測を観察および検証できる必要はなく、少なくともそのうちの 1 つだけを検証できれば十分である

たとえば、一般相対性理論は、重力レンズなど、私たちが観察できる多くのことを予測することに成功しているため、ブラックホールの内部構造など、私たちが観察できないことについての予測真剣に受け止めている。

ここに数学宇宙仮説の検証可能予測がある。

多くの並行宇宙存在するのであれば、我々は典型的宇宙にいると予想されるはずです。

ある量、たとえば、この量が定義されている多元宇宙の一部の典型的観測者によって測定された暗黒エネルギー密度空間次元確率分布計算することに成功したと仮定する。

この分布により、我々自身宇宙で測定された値が非常に非典型的ものになることが判明した場合、多宇宙、したがって数学宇宙仮説が除外されることになる。

生命要件理解するまでにはまだ程遠いが、暗黒物質、暗黒エネルギーニュートリノに関して私たち宇宙がどの程度典型的であるかを評価することで、多元宇宙予測テストを始めることができる。

なぜなら、これらの物質銀河形成など、よりよく理解されているプロセスにのみ影響を与えるからである

これらの物質存在量は、多元宇宙ランダム銀河から測定されるものとかなり典型的ものであると測定されている。

しかし、より正確な計算と測定では、そのような多元宇宙は依然として除外される可能性がある。

結局のところ、なぜ数学宇宙仮説を信じるべきか?

おそらく最も説得力のある反対意見は、直感に反して不安を感じるということである

数学宇宙仮説が真実であれば、科学にとって素晴らしいニュースであり、物理学と数学の洗練された統合により、深い現実理解できるようになる可能性がある。

実際、多元宇宙もつ数学宇宙は、期待できるすべての理論の中で最良のものであるかもしれない。

なぜなら、規則性を明らかにし、定量的予測を行うという科学的探求から現実いかなる側面も立ち入れないことを意味するからである

しか宇宙についての究極的な疑問を再び変えることになる。

どの特定の数式が現実のすべてを記述するのかという問題は見当違いであるとして放棄し、その代わりに、鳥の視点からカエル宇宙観、つまり観察をどのように計算するかを問うことになる。

それは、宇宙の真の構造を明らかにたかどうかを決定し、数学宇宙のどの隅が私たち故郷であるかを理解するのに役立つ。

 

参考文献: 数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて by マックス・テグマーク (著), 谷本 真幸 (翻訳)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん