はてなキーワード: 右脳とは
ずいぶん昔には、女性の脳は、男性と比べて左脳と右脳を結ぶ脳梁が発達しているのでおしゃべりで感情的だとか、男性は空間把握能力が優れているとか、論理的思考が得意だとか言われていた。
世界的なベストセラー「話を聞かない男、地図が読めない女」は男性と女性の典型的とされる考えの違いをわかりやすく解説した本だ。その初版が発行されてから24年が経った。
最新の研究によると、脳をMRIでスキャンした結果の統計では、男女の脳で構造の差は、しかし存在しないらしい。かつて言われていた男性脳、女性脳はほぼほぼ幻想だったようだ。
NTTの社長が入社式で「私たちは女性と男性は違うと考えています。人間という意味ではもちろん一緒ですけれども、能力や特性の得意な分野が違うと思います」と述べて猛批判を受けた。でも寄せられた批判のコメントを注意深くみると、男女の能力は当然違う、と性差を前提にしてるものが散見される。はてなブックマークでは男女の脳の性差はたびたび話題になっていて、その都度、必ずと言っていいほど「性差はあってもおかしくはない」という意見があがってくる。
いつだったか増田で、“男性にも読める”少女マンガが話題になった。ジェンダー論の発展した今日でもマンガの読者が性別で分かれているのには合理的な理由はあるかもしれない。
思い出を振り返ってみると、友だちの女子はすぐ泣く傾向はあったかな、と思う。だけど小学校以降で、男が泣いているのは、まったく思い出せないんだよな… 🤔 男は、何故か泣かない。
男女の思考の差が人々に根強く信じられている一方で、科学的な調査を重ねるほどに脳には差がないことの証拠が積み上がる。そうして脳の性差のナゾは深まっていく。
女性のプロ棋士はいない。インターネットなどの技術発達によってあらゆる趣味で、学びの高速道路が整備されているにも関わらず、将棋の最高峰でしのぎを削る女性はいまだ現れていない。
この理由については色々言われている。女性のプレイ人口が少ないせいで才能の山の高さも低くなる、とする説。より男性の比率が高い囲碁での女性の活躍を持ち出して、それを否定する説。虚心坦懐に女性の生理の影響を論じたブログ。男性には圧があると語る女性。脳構造ではなくソフトウェア面——脳の機能に違いがあるとする仮説もあったが、これは証明が難しいだろう。
先日、女流棋士の顔写真が並べられてサムネイルになっているニュース記事をみた。未成年のふたりの女子。コメントは、一方だけを美人だ、とする評価が人気になってた。少なくとも将棋では脳の性差は持ち出すまでもないと思う。
SFでクローンに人格・記憶を転送して延命する技術ってわりとあるよな。例えば
・映画で言うと:シュワルツェネッガーのシックス・デイ
・漫画でいうと:からくりサーカス(転送とかいてダウンロードだっけ?)、銃夢、アンパンマン
で、そういうので転送元の旧ボディ・人格を円満に(?)処分している描写って無くない?
結局、旧ボディ側の視点では死の恐怖を免れてないよなぁと思ってしまう。(アンパンマンを挙げたのはそんなWeb漫画を観たから)
この問題に焦点を当てたり、うまいこと解決してる作品があったら観てみたい。
それと、現実に記憶の転送が可能になったとして、最初にその恩恵を受けであろう権力者は古いボディをどうするんだろう?
やっぱバックアップのために取っておくのかな。何かの事故で目覚めちゃったら悲劇だよな。(まんま、からくりサーカスであった展開だけど)
ユヴァル・ノア・ハラリのホモ・デウスに「右脳と左脳とは別人格を持ってるけど、脳梁で繋がって何とか一つになってる」的なこと書いてあった気がする。
そのノリで新・旧ボディを同期させた状態で、自分の意思で旧ボディ側をシャットダウンできたら一番恐怖を味わなくて済むなぁとという無駄な願望を抱いてしまう。
##追記
これってよく考えると当たり前だ。
円満に済んだらお話のギミックにならないのでさらっと流されるか、何も言及されない。
ドラえもんのどこでもドアとか、スタートレックの転送とシステムとか。
(スタートレックでは事故でライカー副長が二人になってた気もするけど)
https://b.hatena.ne.jp/entry/4718247167480028386/comment/zkq
右脳が発達した。おめでとう。
先日、市役所で住民票発行されるの待ってるとき、目の前に2歳くらいの女の子とお母さんらしい女性がいたんだわ。子供の挙動って見てて飽きないもんで、観察してて面白いから、(俺なりに)不審者にならないように注意しながら眺めてたんだよな。
その女の子、この子がまあよくしゃべるしゃべる、彼女の視界に何が映っているのか、あらゆるものについて母親に次々に説明しまくる。壁のポスターだとかガラスケースの中に置かれたぬいぐるみだとか、自分が見ているものについて機関銃のように話し続ける。
このぐらいの年齢って、身の回りの世界について自分で表現できる言葉のパワー? みたいなものが実感できて、めっちゃ楽しい時期なんだろうか。俺には子供いないからわかんないけど、2歳くらいって大体みんなこう? でも、こんなよくしゃべる子供見たことねえし、この子がやっぱ、どっか変わってんのかな、すげえヤツだな、っていうかお母さん大変だ…という妙な頼もしさと戦慄を感じながら観察していた。
…
最近『神々の沈黙』って本を読んだんだけど、4,000年くらい前まで人間には意識というものがなかったそうだ。
厳密には「(今日的な意味での)意識はなかった」、ということで、じゃあ昔の人類がどうやって物事を判断していたかというと、脳内に常に「神」の声が聞こえており、その指示に従って活動していたという。
人間の脳ミソというのは、心身の大抵の機能について右脳・左脳の双方で共同して取り組んでおり、左右のどちらかが比較的優位という場合はあるにしても、一方だけが何かの役割を負うのは珍しいらしい。
そんな中、左脳にウェルニッケ野と呼ばれる領域がある。ここは言語に関する能力を司る部分なのだが、右脳側でこれに対応するエリアが何をしているのかというと、これがよくわからないのだそうだ。左脳のウェルニッケ野の役割から推測して、その謎の領域も言語の機能に関わっている(あるいは、「関わっていた」)と想定されるが、明確になっていないという。
興味深いのは、右脳のこの謎のエリアに電流などで刺激を与えると、幻聴を聞いたり異常な知覚を感じる被験者が現れることだ。そこで本の著者が持ち出した仮説が、古代、人間はこの謎のエリアを通じて声を聴く能力を持っており、この声を「神」の指示と認識して、それに従って行動していたのではないか、というものだった。
じゃあ、なんで今はその声が聴こえないのか? というと、人間の言葉の機能が進歩を止めなかった結果だという。言葉によって抽象的な思考を働かせたり、過去や未来を想像する範囲が広がっていったために、段々、人間の実生活においてみんなの脳内の「神」同士のすり合わせが難しくなってきた。結果として人間は「神」を手放し、(一応)自分の意識でものを考えるようになっていく。
つまり、言葉によって見出された脳内の「神」が、言葉の進歩についていくことができず、言葉によって追放されてしまったわけだ。人間ってのはすげえ生物だな、と思う(ただ、『神々の沈黙』は半世紀近く前の本なので、脳科学の常識はとっくにアップデートされている可能性がある。詳しい人がいたら現在はその辺どうなってるのか教えて欲しい)。
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人間の言葉のパワーのすさまじさ、この世のあらゆることを貪欲に説明しようとする姿勢を特に実感するのが小説読んでて心理描写を目にしたときで、人間のあらゆる感情の機微だとか普通なら理解不可能な狂気の心の働きだとか、もうなんでも言葉で説明してしまう。
中には、明らかにあまり実態に則しておらず、「これ、作家が『こんな奴いたらやべーよな』つって現実に有りもしない心理状態仕立ててやがんな」っていう、京極夏彦の『巷説百物語』シリーズとか、架空の狂気思いついてから逆算してキャラクター作ってんな? そんな奴は現実にいねえから、っていう場合もあるんだけど、おおよそは「確かにこういう心理ってあるよな、よく言葉で説明してくれたなあ」って感嘆することが多く、人間の言葉はマジすげえな、と思う。
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市役所の女児のことを考えると、言葉の衝動ってのは個人差はあってもほぼ制御不能というか、乗っかるかどうか是非を決定する余裕がある類のものではなく、とにかく激烈に意識にドライブがかかっていくのを前提としてどうやって付き合うか、というものっぽいのでいくらか恐ろしいが、基本的には人類を前進させてきた能力だし、幼児とか若いヤングとかに対しては「いいぞ、もっと、この世のなんでもかんでも言葉にしてやれ」と思って見ている。
実際は生きてると「これは言葉になんねーな…」という場面、出来事もある。たぶんあの女児も成長していく中で自分の口をいったんつぐまざるを得ないタイミングが訪れるんだろう。いま話題の「わきまえる」とは違う、純粋な言語化の困難さだ。
ただ、その辺は期待が現実的な予想を上回ってるというか、まあ1,000年単位で変化してきた人間の資質の前に一つ二つの世代の差なんて関係ないかもしれないが、俺自身はもう古い時代に属する側の人間に自分を組み込んでしまっていて、あの女児を含んだ子どもたちが、小説でもラップでも詩でも音楽でもいい、大いに色んなものを言葉にして征服していったらいい、と思っている。
模写
右脳で描く
自分の描きたい絵柄が違っても骨格、筋肉は無駄にならない…、と思う
あと石膏デッサン、といっても石膏像でなくて代わりにフィギュアでもいいと思う
日本の漫画やアニメみたいな絵が描きたいのなら立体にウソを適度に混ぜて描くので、
そこに記号(立体としては破綻しているけどこう描くもの)をいい感じのバランスで混ぜる
というわけで、まずは模写ではないかと
あとは幼児用の塗り絵を本気で(レンブラントとか)光学的に考えて塗ってみるとか
漫画やアニメで絵が上手い人も意外と古典的な名画とかのうんちくも多く持っているものだと思う
自分が描きたいものにとらわれない広い視野も大事だと思うけど、
知らんけど
そりゃ仕事やなんや、英語が便利なのは確かだろう。が、日本語には日本語にしかないものがある。と、思っている。
例えば、虫の声。
虫の出す音を「声」と感じるのは、日本人とポリネシア人だったかな、だけらしい。
日本人とポリネシア人は、虫の鳴き声を言語を司る左脳で聴き、西欧人は右脳で聴いているのだとか。
このため日本人は、虫の出す音を「声」と感じ、そこに様々な情緒を感じとる。しかし西欧人にとっては虫の出す音は「音」であり、うるさいと感じたりもする、と。
他にも、雨音や、川を流れる水の音。風の音なんかも同じだとか。
で、こういう違いがあらわれる原因はなにかというと、どうやら日本語にあるらしい。
日本語・ポリネシア語を母語とし、幼少の頃から触れているかどうか。それによって、こういう違いがあらわれるのだとか。
日本人じゃなくても、日本語を母語として育てば、同じく「声」と感じるようになるらしいです。
こういう様々なものに情緒を感じる力と、制約が少なく柔軟な日本語の特徴とが相まって、日本語には擬音・オノマトペが多く、多彩です。曖昧なものを曖昧なまま伝え、共有する力に長けています。これは日本人の「和」という言葉に象徴される、共感能力や協調性の高さへも影響しているでしょう。
他にも、日本語は制約が少なく柔軟という特徴をもっています。そういった特徴は、新しい言葉を作り出す能力の高さに繋がっています。
ノーベル賞を受賞した益川教授は、英語が苦手で、ノーベル賞受賞のスピーチにのぞんだ折り、日本語でスピーチをしました。
これに世界は大変驚いたらしいです。何に驚いたかというと、英語が出来ないということではありません。もちろんそれもあるでしょうけれど、もっと驚きだったのは、英語が苦手なのに、ノーベル賞を取れるほどの学を積めたことに対して驚いていたのです。
大学レベルの学問まで、ほぼ単一の単語で学ぶことができるのは、英語と日本語くらいじゃないでしょうか。(他にもあった場合はすみません)
これはなぜかというと、日本人が、全て日本語にしてきたからです。言い換えると、新しい単語を作りまくったからです。
そういうことができた理由は、日本語がとても柔軟な言語だったからに他ありません。
柔軟で、情緒溢れる言語は創作を生み、独特の感性を形作ります。それらが日本人の「日本人らしさ」に与えてる影響はとても大きいでしょう。
母語を英語にする。そりゃそれの方が楽なこともあるでしょう。けれど、古来より紡がれてきた「日本人らしさ」を、徐々に薄めてしまうかもしれない可能性を考えたら、いらないなと思うし、なによりこんなに素敵な言語を捨ててしまおうと思える気がしれないなぁと。
わたしはそう思うなぁ。
庶民に一冊の本も届かない時代にそれらを習得する(させる)には宗教システムを使うのが手っ取り早い。近代化で次々と宗教のバグが見つかり人類は宗教に絶望し緩やかに捨てた。
廉価大量の製紙技術は情報増大をもたらし宗教に頼らず個の判断で生きることも可能になった。
ネット時代に入り、さらなる情報過多は個人の知を向上させず混乱を招いた。
人類は他己による
の基準を求め始めた。
集合知、民主的な意思決定。欠点は無い。SNS同調はロジカルな収束だ。
特に推論は過去の知識と経験と言語と感情、様々な脳機能を組み合わせる必要があり、
右脳左脳脳幹前頭葉すべての部位で大量の酸素と糖が消費される。
これは人体にとってはコストパフォーマンスの悪い活動である。
丸太を右から左に移動させる単純作業ではエネルギーは筋肉で消費されるが、本来ヒトを含む動物はこういった活動に最適化されている。エネルギー効率から見るとコストパフォーマンスが高い活動といえる。
片付けして身綺麗にしましょう
今後は、
やがて離合集散の時代を経て勝者いくつかのグループにまとまるだろう。
この動きはすでに始まっている。天皇信奉するネトウヨなどもそれ。
古くからネットやっている人間に言わせりゃンな事ナニを今更だろう。
ネット勃興時代からすでに指摘されており、2ちゃんねるでも散々テーマになった。
他人の感情を集めて煮詰めるには、調理と鍋と料理人が必要であり
例え調理人になれなくても、諦めて無自覚な具材になるよりマシだ。
そうだそうだ、久しぶりに筒井の「朝のガスパール」を読み直そう。
(筒井は30年前にこうなることをあっさり見破っていた)
前提として美術は自然そのものは扱わない。自然の景色が美しく、それに感動することは素晴らしい体験だが、それは美的体験とは異なる。あくまでも人が意図を持って制作したものを対象とする。現在では自然そのものの美しさを描き出そうという作品の評価は高くなりにくいが、自然を題材に人が意図を持って何かしら工夫して表現しているなら、それは高く評価される可能性がある。上述の話からの逆張りとして、「あえて意図を排除した作品」というものもある。つまり、「意図を排除するという意図を持った作品」として美術の概念に挑戦する作品である。
このように現代の美術はその概念の拡張の歴史によって形成された複雑なものとなっており、何がアートかは「アートワールド」が規定するという言説もある。
デュシャンは、レディメイドという、既製品を作品として示し、自ら手を動かして制作したものだけが美術ではない、美術の概念を拡張した。美術にとって「美しさ」はいまだ重要な価値のひとつだが、美しくなくとも重要とされる作品も誕生している。それに付随して、快だけでなく、不快さを抱かせる作品も評価の対象となった。作品は多様化した。一時は、作品の中で表現された情報だけから評価をすべきだという話もあったが、今は作家の意図や社会課題、美術文脈などを踏まえた評価が一般的になりつつある。評価は総合的だ。現代美術は右脳だけでなく、左脳も使って美的経験を得るゲームなのだ。人々の変化とともに現代美術も変わる。つまり、その時代に合った作品が評価される。評価は複雑で可変的で相対的だが、それを面白いと思うかどうかは、人によるだろう。
ちなみに、作品について、鑑賞者が見たいように見ればよい、という言説については、本人の中で完結する場合は、自由にすればよい。それが内心の自由だ。しかし、他者に作品について、感想を話すなど、表現する際には、描かれているものの認知、そこからの美的体験、作品の背景など適切に感じ・知ることが必要だ。正解はないが、押さえるポイントはある。それが話し合う土台になる。