はてなキーワード: 古語とは
文豪をキャラ化した作品の同人誌即売会に、元ネタとなった文豪の書いた小説や詩歌をそのまま同人誌にして頒布やDL販売しているサークルが複数ある。
イベント主催企業のFAQには「ある作品の聖地巡礼写真集(notコスプレ)はどのジャンルを選べばいいですか?」「メインとなるパロ元の作品ジャンルでお申し込みいただけます。」とあるので原作キャラとは関係のない元ネタを扱った同人誌を作品ジャンルで頒布するのは問題ない。著作権は切れているので誰かの権利を侵害しているわけでもない。
でもそれって同人誌としてどうなの?
文豪の随筆を元にキャラの漫画や小説を書いて、出典として一部引用するならわかる。詩歌を読んで得たインスピレーションを元にイラスト集を作るのもわかる。
文豪の記念館・文学館やゆかりの地を巡って旅行記にするのもいいし、文豪の作品を読んで感想文を書いたり執筆背景を調べて本にするのもいいと思うよ評論はコミケの老舗ジャンルだし。
文豪の作品をコミカライズしたり朗読CDにしたり、古語や外国語で書かれた本を翻訳したり別の作品の形に翻案するのもクリエイティブだと思う。
でも文豪の作品をそのまま同人誌にするのはうーん…二次創作とはいえ何らかのオリジナリティを発揮するのが同人イベントの趣旨じゃないのか?
〇完全に家畜化された虫として蚕が挙げられるが、実は蚕の他にも完全に家畜化された虫は存在した。しかし人間が粗雑に扱ったせいで文書に残らないうちに絶滅したということが最近の遺伝子研究で判明した
この知識は正しくないようです。私が見つけた情報では、蚕は人間によって完全家畜化された昆虫であり、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られています。他の虫が完全に家畜化されて絶滅したという記録や研究は見つかりませんでした。
→多分正しい
この知識は正しい可能性があります。奈良漬けは名前から奈良県発祥のものと思われがちですが、実際には奈良時代が発祥の食べ物であることが名前の由来となっています。奈良漬けが奈良で発祥したという確たる記録はありません。
〇「猫に小判」にちなんだ、ネコ・ニコ・バンというトリオのバンドが存在する
正しくありません。「ネコ・ニコ・バン」という名前のトリオのバンドは見つかりませんでした。しかし、「ニコバン」という名前のネコのキャラクターはあります。
正しいです。「Caenorhabditis elegans」という学名を持つ線虫は、「モヤシ」を意味する「caeno(カエノ)」と「rhabditis(ラブディティス)」という単語から成り立っています。
→正しくない。caeno(カエノ)とrhabditis(ラブディティス)は「モヤシ」という意味を含まない。
「おとす」の語源については、いくつかの説がありますが、確かなことはわかっていません。「音す」という語源とするのは一つの可能性ですが、他にも「おとろ(驚)」や「あた(当)」などからきたとする説もあります。
→落すの語源に「音す」は含まれますか?という質問をすると「語源的には関係がないと考えられます」という返答。
日本で飼われている犬で最もありふれた名前は、「ラッキー」ではなく、「ココ」です。 また、人気の犬種ランキングでは、「トイ・プードル」が1位を獲得しています。
→多分正しい
ミョウガはフランスで「狂った玉葱」と呼ばれているという知識は、私の検索結果では見つかりませんでした。ミョウガは日本料理のアクセントによく使われる食材ですが、フランスではあまり知られていないかもしれません。
→正しい
メキシコでは一般的にハバネロが拷問道具として使われるという知識も正しくありません。ハバネロはメキシコでは日常的に食べられる唐辛子であり、拷問道具ではありません。メキシコでは麻薬組織などが拉致や殺害などの犯罪を行うことがありますが、その際にハバネロを使用することは報告されていません。
→多分正しい
〇チンパンジーと人間の遺伝子情報はほとんど一緒"であるが、その尺度で言うならば"チンパンジーとアルマジロの遺伝子情報すらほとんど一緒"なのであまり意味をなさない
この知識は正しくありません。チンパンジーと人間のゲノム(全遺伝情報)は約98.8%が同じだそうです。しかし、チンパンジーとアルマジロのゲノムは約80%しか同じではありません。この差は言語や外見、脳の発達など様々な点に影響しています。
→多分正しい
2011年時点では「論語」の全編英訳は存在しないという知識は正しくありません。論語は孔子とその高弟の言行を記録した儒教の経典であり、英語に翻訳されたものは多数あります。例えば、『英語で論語』という本は、人生の叡智が詰まった100の章句を現代に通じる簡明な英語に翻訳し、漫画も添えています。
キモくなくて、事務的過ぎず、好感度を下げないみたいなラインを探ろうとするとおじさんLINE構文に陥りそうになるのなんでなの?!
見栄ばかり張っても関係は長続きしないし、がと言ってケチくさく思われるのも損してる気がするし、AIにでも書いて貰った方が余程上手く行きそうな気がするわ
(追記)
好感度を下げないように思うこと自体が既にキモいとブコメ含めて言われてるけど、嫌われないよう気を使うのがキモいならもうおじさんLINE構文だろうが何だろうが変わらなくない?
(追記2)
ChatGPTに古語で書いてくれと頼んでみたけど、最後の文章は全部生成されずに途切れてしまった
「久しきに会へぬ、今までは○○で相見られし所であったが、今回は○○を考へて○○○で相見られることを願う。○○を恐れてはおらぬが、どうか許して頂きたく思う。今後も何卒よろしくお願い申し上げます。」
(追記3)
もう3日経つのにメール返信なし(これまでは当日中には何かしらの返信は来ていた)。
予定を聞かれてOKで答えたから返信不要だと思ってるとか…?いや正確な日付も時間も決まってませんが。
ケチくさいお願いが失礼なら失礼だと言って欲しいし、金の切れ目が縁の切れ目だと思ってるなら「去ね」の一言ぐらいは欲しいわ。
「人魚の肉を食すると不老不死・不老長寿となる」という物語は、八百比丘尼の伝説・昔話として有名でもあるし、仮にそれらを読んだり聞いたりしたことは無くても、高橋留美子の連作漫画『人魚の森』シリーズを読んだから何となく知っているという人も少なくない。
しかし、そもそも何故、人魚の肉を食したら不老不死・不老長寿となるのか?その理由というか説明については、知らない人も多いのではないだろうか。
これを書いている増田が、その理由らしきものについて書かれたものを最初に読んだのは、神話学者・大林太良の著書『神話の話』(講談社学術文庫)であった。この現物を、確かに所有しているはずなのに本棚や倉庫の中から見つけられないので、ここでは記憶を頼りに大林説を書き起こすが、もしも『神話の話』の現物を持っている人は、そちらを見た方が早い。図書館で探してもよい。
まず、八百比丘尼伝説の概要は、大同小異、以下のようなものである。「龍宮の主を助けた漁師が、龍宮に招待されて主から宴などの歓待を受け、家路につく際に主からの土産として、人魚の肉を貰い受ける。聞けば、それを食した人は、不老長寿となるという。家に持ち帰ったはいいものの、人魚の肉を食べるのに怖気づいた漁師は、いったん戸棚にそれを保管する。しかし、漁師の留守の間に、彼の娘が人魚の肉を食べてしまう。人魚の肉のことを父から聞かされるが後の祭り。はたして、娘は不老長寿となってしまう。父親である漁師も、娘が結婚した夫も、近所の人たちも、漁師の娘が愛した人たちは皆、寿命が尽きて世を去るが、彼女だけは不老長寿の若々しいまま、この世に取り残される。その孤独な境遇を嘆いた娘は、仏門に入るものの、その後も長く若々しいままで生き続け、とうとう八百比丘尼(八百歳の尼僧)と呼ばれるようになり、最後は洞窟の中に籠もり、人々の前から姿を消す」
大林太良によれば、これと殆ど同じ内容の話が、朝鮮半島・平壌の仏教寺院の伝説として残るという。但し、日本の八百比丘尼物語には見られないディテールとして「結婚して夫を迎えたが、子宝に恵まれない」という描写が、朝鮮半島版の物語には有る。
つまり、人魚の肉を食することによる不老不死・不老長寿の獲得は、生殖能力を喪失するというトレードオフになっている。このような不老不死性と生殖能力のトレードオフは、八百比丘尼の物語にだけ見られることではないことを知っている人もいることだろう。
例えば日本神話では、人間の寿命に限りが有る理由として、ニニギノミコトがオオヤマツミノカミから娘の女神を嫁に迎える物語が語られる。オオヤマツミには二人の娘、姿形が麗しくないイワナガヒメ、姿形が麗しいコノハナサクヤヒメがいた。ニニギノミコトは、見た目を重視してコノハナサクヤヒメを選ぶが「イワナガヒメを選んでおけば、不老不死でいられたものを」とオオヤマツミノカミから言い渡される。花が咲き、実を成し、種を残して枯れる植物のように、こうして人は有限の寿命となった。岩石のような、長い年月が経過しても残るような不老不死性は、こうして人から失われた。
女性を差別・侮辱する古語として「うまずめ(=子を産まない・産めない女)」というものがあるが、これを漢字で書けば「石女」である。言うまでもなく、この言葉にはイワナガヒメ(岩石の女神)とコノハナサクヤヒメ(植物の女神)の嫁取り物語と同じ考え・物の見方が、素朴な形で反映されている。
昔の人たちが呪術的な発想として、生殖能力の有無と不老不死性を結び付けて考えたであろうという仮説自体は、現代人も自然と受け入れられるであろう。
問題は、何故、人魚のイメージと生殖能力の有無が結び付けられたか、その点が定かではないところである。これについて『神話の話』の中で大林太良は、一つの示唆として、中国の人・袁枚(えんばい)の残した『子不語(しふご)』という書物に収められた、次のような挿話を紹介する。
「袁枚の甥が、地方の役人として赴任する旅の途上で立ち寄った集落で、住人たちが騒いでいた。何があったのかと尋ねると、その集落に住む或る夫婦の妻の下半身が魚になってしまったという。彼女の証言によれば、昨夜は夫と同衾し(夫婦の夜の営みを行い)、眠りについた。夜更け、下半身がむず痒くて堪らず、手で搔いていた記憶があるが、疥癬のように皮膚がポロポロと剥がれ落ちる感触が有った。朝になり、彼女が目覚めた時には、下半身は鱗の有る魚のものになっていたとのことである。剥がれ落ちていたのは、どうやら鱗だったようである」
大林太良は、この『子不語』の挿話について、わざわざ夫との同衾について言及しているのは「下半身が魚になる前の女性は、二本の脚を開いて男性を迎え入れる性行為が可能であったが、下半身が魚になったことで、脚を開くこと、すなわち性行為が不可能な状態になった」と言っているのだと考える。そして、人魚の肉による生殖能力の喪失も、これと同じ発想なのではないかと言うのである。
個人的には、この大林太良説を初めて読んだ時は「ううん、ホンマかいな?」という半信半疑の感想であった。しかし『神話の話』を読んでから暫く経過した後、大林説を補助するような話を、別の学者の著作で見かけた。が、やはりこの著作も、本棚や倉庫で見つけられずにいた。それがつい最近、その本を古本屋で発見して再入手した。嬉しい。だから舞い上がって、ここで記念にメモを残そうと思い立ったわけである。
件の大林太良の説を補助する記述が載っていたのは、金関丈夫の著作『木馬と石牛』(岩波文庫)である。ちなみに、解説は大林太良その人である!
この『木馬と石牛』に収められた「榻(しぢ)のはしがき」という論文が、人魚による不死性と生殖能力の喪失のイメージの結び付き仮説を補助するような記述を含むものである。この論文は何について書かれたものか、簡単に説明すれば、国文学におけるオナニー文学について論じたものである。これは、悪巫山戯で書いているのでも、嘘を書いているのでもない。本当のことである。初めて読んだ時は「お硬い岩波文庫で、こんな珍論文を読めるとは」と、かなり吃驚したものである。
本題に入ると、金関丈夫によれば、天明六年の自序がある東井春江による『譬喩尽(たとへづくし)』という俚諺(りげん)辞典の「い」の部には「一夢二千三肛四開(いちむにせんさんこうしかい)」という俚諺(ことわざ)が収められている。その意味は「性行為の中で快感が大きいものランキング・ベスト4」である。念のために言うと、男性の立場でのランキングである。4位の「開(かい)」が「女色すなわち男女の営み」を指す。この「榻のはしがき」の一節を初めて読んだ時「なるほど、『開(かい/ひらく)』の語と『男女の性行為』のイメージは、昔の人の頭の中では自然に結び付いていたのだなあ」と納得し、大林太良説も納得して受け入れられるようになったと、そういった次第である。
何?ベスト3の意味が知りたい?いちいち言わなくても、字を見れば薄々察しがつくだろうから細かい説明は書かない。なお、同「榻のはしがき」によれば、戦国時代頃に来日したポルトガル人宣教師たちが、布教活動を行うために編纂した日本初の日本語/ポルトガル語翻訳辞書『日葡辞書』には「Xenzuri」という単語が収録されているとのことである。
とりあえず『神話の話』も『木馬と石牛』も、どちらも非常に面白い本なので、機会があれば図書館などで探して一読することをお勧めする。
また、人魚の話に関しては、椿のモチーフなど海女文化が八百比丘尼伝承などにおける人魚のイメージに影響を与えた可能性の話、人魚の肉はフケツノカイ(キュウケツ[9つの穴]ノカイ)すなわちアワビのことではないかという可能性の話など、色々ほかにも面白そうな話が有るので、興味が有る人は調べてみることをお勧めする。
そーゆーのを古語ではデファクト・スタンダードっていうんやで
広告代理店を早期退職したキョウコは、今にも倒れそうなボロアパート「れんげ荘」に住んでいる。生活費は月10万円と決めて倹しく暮らすキョウコの楽しみは、猫のぶっちゃんに逢う事くらいだったが、ぶっちゃんことアンディは飼い主の家から出して貰えなくなってしまう。
キョウコはあまり変化のない日常を送っているが、れんげ荘の若者達は人生にもまれて忙しそうにしている。コナツさんは事実婚相手の男性の連れ子の育児、チユキさんは田舎に住んでいる彼氏の所とれんげ荘を往復しつつ、他人に貸している分譲マンションのトラブル解決に追われていた。
そんな若者達に深入りし過ぎないよう愚痴の聞き役になっていたキョウコのもとに、実家から母の死が報じられ……。
若い人達のすることに上から目線でアドバイスや批判をしたい欲と内心で静かに闘うキョウコ。その心情が、今にもアウトな方へ傾きそうなギリギリのラインに立っている感じで、ちょっとハラハラした。心の裡だって理想と現実はかなり違うもんなあ。
一時流行った丁寧な暮らし系統だが、そういうのは結局豊かさの産物であり、現実の日本社会ではもはやリアリティーを喪っているように思う。だが、本作では相変わらずキョウコは節約を頑張れば働かなくても生きていけるという設定のままだ。
ところが、彼女が実家に戻れない最大の理由だった母親(他人にとってはいい人だがキョウコにだけは害悪って感じの毒親)が死亡したので、キョウコにはれんげ荘を出て兄夫婦とシェアハウスするように同居するという、新しい道が示される。だが、キョウコは全然乗り気ではない。そりゃ長年一人で暮らしてきた人が、いきなり独居の自由気ままさを手離すことはできないよね。
クマガイさんの生き方や考え方がカッコいいのだが、先のことは知らないなんて、キョウコよりもずっと年長者(敢えて言えば老い先短いともいう)だから言えること。確かに、人生を悩まなくてもいい事に悩んで浪費したら勿体無いとは思うけど。
他人には後ろ指を差されるかもしれないが理想的なキョウコの暮らしは、ずっと手放しで幸せとだけ言えるものではなくて、いつも後悔と不安がついてまわる。
作中の時間の流れがリアルタイムよりもだいぶ遅いのか、本作は2021年に出版されたのにコロナのコの字もない。現実世界はこの数年は酷い事続きだから、現在よりも少し昔を生きているらしいキョウコがいっそ羨ましいくらいだ。もし作中の時間が2022年に追い付いたとしたら、キョウコの心境はどう変わるのだろう。「先のことは知らない」という言葉の受け止め方は、どう変わるだろうか。私は先のことが知れない事に恐怖しかないけど。
ラストでぶっちゃんと再会して急に元気になり小躍りするキョウコ。やっぱあれだ……推しは世界を救う的な……。何があっても推しが元気でいてくれさえすれば生きれるってことか。
前に今読んでるとこって書いたけど、やっと読み終わった。半月以上かかってしまった。(他に色々読んでたのがいけなかっただけだが)
舞台は古代中国のような世界で、神の住む天界、人の住む下界、そして鬼の住む鬼界がある。
主人公の謝憐(シェ・リェン)はかつて大国だった仙楽国の王太子。彼は類い希なる才能を持ち、17歳の若さで天界に飛昇し神官(現代日本で言うところの神)となった。
だが、彼は自分のやらかしによって天界を二度も追放されてしまい、下界でガラクタ集めなどをして糊口をしのぐ暮らしにみをやつすことになった。
最初の飛昇から約八百年後、謝憐は三度目の飛昇を遂げ神官に返り咲くものの、飛昇した際の衝撃で他の神官達の住居などを壊してしまい、多額の負債を作ってしまった。
そこで謝憐はまた下界に降りて、人助けをしたり自分を奉る廟を作り信者を増やしたりなどして功徳を積むことで弁済をする事にしたが……。
読み終えるまでに半月もかけてしまった私が言うのもなんだが、かなりページターナーな作品。
ただの人間が修行をしたり功績をたてたりする事によって神となり、信者を増やして功徳を稼ぐことによってより強い法力を得るという設定が、ゲームっぽくも俗っぽくもあって面白いけど、中国のWeb小説ではあるあるな設定だったりするのか、それくらい解ってるよね? と言わんばかりにストーリーはサクサク進んでいく。でも文章が平易なので設定に振り回されて訳がわからなくなるなんてことはない。
同作者の『魔道祖師』もそうだったが、個々人の心情や集団心理の描写が巧み。謝憐の、お人好しなんだけどいつの間にか味方が誰もいなくなるのもやむを得ないような性格……簡潔に言えば空気を読めない独善的でアイタタタな性格とか、権力者のワガママに振り回される下々の人々の様子とか。
巨陽将軍(ジューヤン将軍。日本語にすると巨根将軍)の名付けエピソードなんかかなり風刺が利いていて、えぇ……意外と中国、表現の自由あるじゃん……(発禁になりませんように)……と思った。
ストーリーが面白いけどBL作品なので当たり前のようにボーイズがラブする。本作は『魔道祖師』のときみたいに男性同性愛の事を「ホモ」の意の古語で呼んで露骨に差別することもない(1巻時点では)。
メインカプの三郎(サンラン。攻め)と謝憐(受け)は前半くらいでもう出逢い、すぐに打ち解けて仲良く暮らしたり一緒に事件を解決しに行ったりする。三郎はなぜか謝憐に対してとても親切で優しく、謝憐は訳もなく親切にされることに戸惑いながらも、根っからお人好しのため受け入れる。
ところが、謝憐と普通の人間達以外の誰もが三郎のヤバすぎる正体を知っていて、でも三郎を怒らせたら事なので、誰も口を挟まない。謝憐と三郎が人目も憚らずに二人の世界に浸っているのを、第三者がドン引きで見てみぬふりを貫く様が滑稽で面白い。
本作ではまだ謝憐や三郎の来歴に語られていない部分が多く、楽しそうに交流しているだけなので萌え萌えでいいけど、きっとそのうち超弩級の不幸展開ややり過ぎて引くエロ展開が来るんだろうな……。
終盤の鬼市に潜入する話が好き。な、なんか鬼市の風景にデジャ・ビュが……『幽遊白書』と『ハリーポッターシリーズ』と『昭和元禄落語心中』と『千と千尋の神隠し』を足して4で割ったような雰囲気。厨二心に刺さる。
丁半賭博であからさまに謝憐が贔屓されるシーンの糖度が高くてほっこりした。
「うららか」という語自体は、万葉集の有名な歌「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも一人し思えば(大友家持)」にあるように、古くからある和語に由来する。もっとも、古語にある語だからといってそれを名前にするのが適切か否かは別問題。
ただ、名前について時代に合っているか否かを考えるのは正直無意味な気もするので(落語の寿限無ではないが、そんな議論は昔から果てしなく繰り返されており意味がない)、難読でなく周囲が呼びやすい名前であればそれでよいと思う。やれ「子」のつく名前の子は賢いとか、逆にシワシワネームだとかいろいろ言うが、「子」のつく名前が女子の名前としてメジャーになったのは20世紀も後半の話で伝統というほどの歴史もない話。それがすでに廃れ始めていることを考えれば、今生まれた子が死ぬ頃には、また全然違う常識が「伝統」のような顔をしていることだろう。ただ、自己満足に陥った名前がいただけないのは事実。名前は周囲(社会)とのかかわりに関するものなので、周囲に受け入れられにくい名前だと思えば避けた方がよい、という判断はアリ。その意味では、今なら最低限「うらら」でネット検索して、語感や関連するものが何か、他人からどういう風に受け止められるかくらいは調べてから命名するのがよいんではないだろうか。別に、今から命名するって話じゃないんなら関係ない話だけど。