はてなキーワード: 反証可能性とは
音楽や美術には対位法なり遠近法なりを体系的に包括した理論があるのに対し料理には理論と呼ばれてるものがない。
栄養学とか家政学はあるが料理すること自体の学問がないのが気になる。
学問として料理学なるものがないのと料理に理論と呼ばれるものがないのはリンクしてる気がする。メイラード?反応のような化学の成果の援用ならあるが、料理人が料理人の視点で発見したものの集大成としての、客観的に共有可能な形でよりよく作るための技法みたいなものは理論化されていない。どんなにプロ向けのレシピ本も専門書扱いはされてても学術書扱いされてない事がそれを裏打ちしている。
しかし冷静に突き詰めて考えるとたとえばゲーム攻略本は学術書かもしれないと思う。
編集者が誤認してない限りはゲームの挙動に関する事実しか書いてないし、記述内容に対する反証可能性もゲームをプレイするという形で明確に開かれているからだ。
ゲーム攻略本でさえそうなのなら学術書かどうかの判定基準のハードルは案外低く、レシピ本も学術書たりえるのかもしれない。じゃあ料理は学術書はあって理論はなくて学問ではないということになるのだろうか(料理は科学とはよく言うがこれを額面通りに受け入れると馬鹿を見る気がする)よくわからない
科学教育に携わるのであれば、ポパーの反証可能性やクーンのパラダイム論といった古典的な「科学とは何か?」という議論は基礎教養として通過しているからである。
それらの授業は必修じゃなく選択科目だった。教養としてはとても面白く有意義だったが、必ず基礎として習得しているはずだと考えるのは自己の経験を盲信している。
私が残りの一人ということになるのか? あなたは自分の誤読に奇妙な自信を持ちすぎている。
「その一回の行為では問題なくても、繰り返すと有害か」という意味だろう。
これでは大学教員どころか小学生の作文だろう。すべての誤りを指摘するのは時間の無駄なので、次の一文だけを取り上げる。
「科学的に無害」だが「長期間繰り返すと有害」とはどういう意味なのか?
1000人に読ませれば999人が意味不明だと答える文章であろう。
前の段落を読むと、著者は「科学的に」を「ある特定の条件下では」という定義で使っていると推測はできる。
だが、理系の大学教員が「科学的」という言葉をこのような限定的な意味で断りなく使うことは考えられない。
科学教育に携わるのであれば、ポパーの反証可能性やクーンのパラダイム論といった古典的な「科学とは何か?」という議論は基礎教養として通過しているからである。
一般的な用語をあえて一般的でない意味で使うなら必ずそれを言明しておかなければならない。
誰でも子供の頃に単語の意味を自分で「発見」して、妙な使い方をして笑われたことがあるだろう。この文章は「科学的」という言葉を自分で「発見」した文章である。
ここで分かるのは、筆者は大学教員としての最低限の知識を備えておらず、学ぶ意欲もないということだ。
そもそも、文章の核となる単語を明確に定義するという基本ができていない。
大学教員として当然有しているべき論理的な文章を書く技術も修得していないことが分かる。
ここから言えることは、著者は大学教員としての最低限の知識も技量も足りていないということだ。
自分の手で理論を組み立て、実験して、何が信ずるに値する事実なのか、どうすれば後進にそれを伝えられるのか、そうしたことを真摯に考え、先人に学ぼうとした者の文章ではない。
この文章から浮かび上がる著者の人物像は、科学の盲信とやらに一言物申したいが、科学を成り立たせるシステムについて真剣に学ぶ意欲はない人間であろう。
学びを放棄したまま生煮えの科学観をひけらかすのは個人の自由だが、「大学教員」を騙るのは明らかにやりすぎであり、不誠実の極みと言わざるを得ない。
以下に「大学教員」のための参考文献を掲げる。今後の学びに期待する。
「拷問」を告発した警察官の夫は逮捕され、異常者扱い――105歳が語る「冤罪」の長い苦しみ
県警は拷問を告発した山崎刑事を偽証罪で逮捕し、検察は精神鑑定で「妄想性痴呆症」の結果が出たことにより山崎刑事を不起訴処分にして、警察は山崎刑事を懲戒免職処分にした
なお、山崎刑事の自宅は1961年3月14日昼、不審火で焼失。二俣事件関連の書類も全て燃えた。小6の次女と小3の次男は「長靴の男が入るのを目撃した直後に火が出た」と証言したが、警察は次男を補導して犯人扱いし尋問した。火をつけたことが立証されなかったため次男の身柄は解放されたが、この不審火については未解決となった。山崎兵八は運転免許があるので、警察を辞めてもトラック運転手で生計を立てるつもりだったが、精神障害と診断されたために免許を剥奪された。
「所謂変質状態ノ基礎状態テアル生来性神経衰弱症」「表面柔和ニ見イナカラ内心即チ無意識界ニハ残忍性『サディスムス』的傾向ヲ包蔵シテ居リ両極性相反性ナル性格的傾向ヲ顕著ニ示ス」と鑑定した
1952年 5月31日 控訴審終了。Nに懲役15年の有罪判決。
1981年 4月27日 青森地裁弘前支部で一審終了。Nが部分勝訴。
足利事件菅家さんが刑事補償請求 再審無罪で8千万円 - 47NEWS(よんななニュース)
福島章教授が足利事件の精神鑑定録音テープを破棄した心理 : 少年犯罪データベースドア
犯行動機の構成と成員カテゴリー化実践 : いわゆる「足利事件」における精神鑑定をめぐって 大貫挙学 東洋大学非常勤講師 松木洋人 慶應義塾大学大学院
松木 洋人
大貫 挙学
陰謀論とかって理屈でちゃんと反論しようとしたら難しいんだよね。反証可能性って言うの?知らんけど。
それを一蹴する時って別に論理的にどうのというよりは、今までの人生で得た常識とかバランス感覚に照らし合わせた上で「ま、ないやろ……」とか「考えてもしゃあないやん」みたいにいなしてるんだと思う。
むしろ下手に論理的に考えようとするとハマるんじゃないかって思うよね。
まあ自分で考えてみるっていう事は大事だと思うけどね。例えどツボにハマるかもしれなくても、そうしないと自分の人生って自分のものにならいし。
でも全部の事柄について自分で考えたいかっていったらそうでもなくて、大切な事もあればどうだっていい事もある。
おれにとって朝どんな服を選ぶか、どんな映画を観るかは重大なこと。それは自分で考えて選ばなきゃ意味がない。
でもどの球団を応援するかはどうだっていい。そもそもプロ野球見ないし。阪神ファンの友達と一緒に球場行けば阪神を応援するし、巨人ファンでも同じこと。
PCのスペックだってどうでもいいから適当に常識的な価格帯で選んでる。
人生に関わる、生きがいにまつわる事は自分で決めたいけど、別にどっちだっていい、どうでもいい事はいちいち考えるのもメンドクセーし、そこは常識や外部に判断を委ねてるというか、思考をアウトソーシングしてる。
風邪をどう治すかのプロセスなんかどうでもよくて、治りゃいいんだから医者の言う事を聞いてりゃいい。実際今までそうやって治してきた。
確かに健康状態は大事だけど、自分で医学を志してまで科学的な正解や自分なりの納得を得たいとは思わない。
でもワクチンを打つ打たないとかあの政治家は宇宙人に違いないとか真実を伝えければみたいなそういう話に異常にこだわりたい人もいて、そこん所は不思議な話だよね。
こういうのを反証可能性がない主張というわけ
宗教進化論説か。確かにその立場は宗教の正しさを保証したりはしないけど、しかしだからと言って生き残った宗教の内容が正しいとも正しくないとも主張できないはず。次の部分がミスリーディングっぽい書き方に読めた。
進化論と同じ考え方なの。
私は進化論と同じ考え方をとってるの。って意味だよね。同じ考え方を取るべき、ではなく。
宗教進化論説の立場自体は批判できないと思う。反証可能性がない——進化的に見ることができない場合はこうなるはずだ、という事ができない。ただ、結論自体には疑問がある。宗教にも中立進化説的な形質があるかもしれない。人々に広まっていく間に、宗教自体の存続に影響しない部分が偶然に生き残り、いまに伝え得られてるかもしれない。だとすると、そのような宗教の教義が現代でも有効に働く可能性は否定できない。正しい教義はあり得る。
定義が出来ない、または反証可能性がない言葉で相手を批判するやつは、貴様が相手のことを妬んでたり気に食わないだけなのを自覚しろ。
誤解のないように最初に書いとくと、俺自身、「現代」の先鋭化した「フェミニズム」「ツイフェミ」には反対だし、個別の論者も言ってることとやってることがちぐはぐ過ぎるしカルト化しているとも思う。ただ、対抗する動きとして出てきたアンチフェミニズムはどうかというと、ここ最近のネット論壇は一見説得力があるけど、どこかおかしい議論を展開する論客が支持を集めているように思う。
特に影響力のある筆頭としては白饅頭氏あたり?アンチフェミニズムにとどまらず女性憎悪を煽るような言説を(有料Note内で)ばらまいてるし、支持者も少なくないぽく見える。小山晃弘氏は女性の立ち位置に幾分理解を示してる分はマシだけど五十歩百歩。他にもその手の論客を挙げればキリがないのだけど、彼らの共通項を一つ上げるなら「疑似科学」や「疑似論理」を用いて巧妙に「だから女性が悪いのだ」「男性は迫害されている」という方向に持って行きたがることに尽きる。たとえば「現代日本では女性の幸福度の方が男性の幸福度よりも高い」ので「男性の方が差別されている」のだ、という一見もっともらしい言説が彼らの間では普及しているけど、全くもって論理的じゃない。
実際問題、幸福度に大きく寄与しそうなファクターとしては孤独でないってことが挙げられると思うのだけど、女性の方がコミュニティを作る性質が強いので男性より幸福度が高いかもしれない、とかいくらでも他の可能性は思いつくのに、女性を仮想敵にする言説ばかりをやたら量産している。あるいは、進化心理学を援用した男女の性差議論もだいぶ怪しい。そりゃ、そういう風に説明しようと思えば説明可能かもしれないが、どう考えても反証可能性がない。
もちろん、他の哺乳類でも男女の能力に性差があるように人間でも男女の性差は色々あるのは間違いないけど、彼らはとかく議論を単純化して女性を悪魔化する方向に持って行きたがる。「女性の他責性は本能的なものだ」みたいにね。それでいて、白饅頭氏も他の論客も不要な分断を埋めようみたいなことを嘯くわけで、分断を煽ってるのは一体誰なんだろうとは思う。下手したら、今のいわゆるツイフェミよりも性質悪い存在になりつつあるんじゃない?くらいには思ってる。
大学生になったばかりの若者が必ずする行いは「科学とはなにか」とググることだ。そして「反証可能性」「科学的方法」といったWikipediaの項目にたどり着く。もっと深く知りたいと思った人はさらなる文献を調べる。その知識に感化されすぎて、Twitterで非科学的な(と本人が思い込んでいる)言論を見つけるやいなや「お前たちの言っていることはエセ科学だ」と言い始める。
この段階を、科学のレベル1理解と仮に呼ぶしよう。確かに科学について全く興味のない、学んだことすらないというレベル0理解よりは進歩しているかもしれないがまだ「レベル1」である。
レベル2理解とはどういうものになるだろうか。私がそれについて見解を述べる前に「レベル1を超えるためには」という自問をしてみてもいいかもしれない。
私が思うに、レベル2とは「自然法則を発見しようとする態度」だ。どっかの自称サイエンティストは「汎化性能」とか「再現性」とかいうかもしれない。ただ、それらは「自然がどうなっているか」ということとは直接関係しているわけではない。単に、人間の仮説に対して統計というアプローチを採用しているだけだ。
科学に統計ではないアプローチがあるとすると何なのか。そこがレベル2に到達するための関門と自分は思っている。ショーン・キャロル教授は「宇宙とは、ヒルベルト空間におけるベクトルである」という仮説を述べている。それではこの仮説はどこから来たのか。それは、エヴェレット解釈がオッカムの剃刀的に機能し、コペンハーゲン解釈よりも仮定がシンプルであることから来ている。何かを統計的に判断するよりも前の段階で、まだ人間が発見していない自然法則を見つけるためには仮説そのものを見つけるセンスが要るのだ。
そのような仮説の多くは数理理論から来ている。「物理学者は数学と現実を混同している」と揶揄する人もいるが、私が今書いているような自然言語よりも数学のほうが簡単だ。賢いから数学を使うのではなく、我々人間が愚かだから、数学を使わなければまともな仮説が見つからないのだ。
つまりレベル2理解とは、数理モデル化によって、まだ見つかっていない自然法則に関する仮説を見つけることだと私は考える。物理学の数理モデルは機械学習モデルとは少し違う。機械学習モデルの目的は予測だけだが、物理学上の数理モデルは現象を理解することに焦点がある。ひも理論が「我々の宇宙の物理定数の値がなぜこうなっているのかわからないから、あらゆる定数値が可能だと仮定してみよう」といって、10^500ものバリエーションの宇宙が可能であることを数理的に示しているが、このような「理論から演繹的に見つかった仮説」というのは汎化性能のことを目指したのではない。
そういう仮説に対して「反証不可能だからエセ科学だ」と言う人もいるが、なぜ「反証不可能」だとわかったのだろうか。「数理的にこういう仮説が演繹された。将来的にそれが観測されるかもしれない」という想像力さえあれば、彼はレベル1理解を脱出することができただろう。「科学とエセ科学の境界」というものについて科学者ですら認識が異なるというのに、何がエセ科学であるのかについて100%の確信を持っているというのは、ケツの青い証拠である。
しかし悲しきかな、そのようなケツの青い青二才、つまりレベル1理解のほうが圧倒的多数であり、またレベル0理解はその人数を超えている。レベル1理解の者(IQに喩えるなら100の者)から見れば、レベル0とレベル2は両方とも馬鹿に見えるものだから、境目なく「エセ科学」と言って弾圧をし始める。
「その仮説を俺は疑っている」「その仮説は反証された」「その仮説は反証不可能である」「その仮説が反証可能なのかどうなのかはわからない」「その仮説は、特定の仮定から数学的に演繹された」ということを少なくとも区別したほうがよい。間違っても「その仮説はなんとなくエセ科学っぽい胡散臭さを感じるから弾圧しよう」などという非科学的な態度は取らないほうが良いだろう。
なんか一冊だったら『人間 この信じやすきもの』をおススメするよ
何でこれをおススメするかと言うと単純に読み物として面白い本だからだよ
ああいうの信じちゃう人がいるけど、こういう理由だからだよと根拠を示しながら、ばっさばっさと誤認あるあるを切り捨てていく様は読んでいて痛快で楽しい
また、なんとなくあれって胡散臭いと思うけど、その理由が言語化できないなあってことを平易な言葉で説明してくれて、ぼくとしては腑に落ちる感じがすごくしたよ
一冊限りでこの本をおススメする理由としては、この本を読むことで他の本の説明が理にかなっているか考えることができるようになるからだよ
この本は誤認を認知的・社会的側面からとらえた本でしかないから、そもそも科学を科学ってだけで妄信していいの?って思う人には『科学哲学の冒険』がおススメだよ
『科学哲学の冒険』を読むと、文系でも科学とは云々が語れるようになるし、疑似科学と科学の線引きができるようになるよ
哲学って難しいって思う人もいるだろうけど、この本はセンセイと文系のテツオくんと理系のリカちゃんの会話形式で話が進んでいくのでとても読みやすいんだ
『チ。』っていう漫画が最近話題になってたけど、『チ。』の登場人物のセリフの中には科学哲学の考えを元ネタにしてるものがあるから、『科学哲学の冒険』を読むと『チ。』について科学哲学的な話題がだせるようになるかも
ぼく自身は『チ。』の舞台は中世なのに、登場人物が自分が思いついたこととして、1900年代のポパーの反証可能性っぽいことを言及することについていまだに上手く気持ちの整理がついてないよ