はてなキーワード: 区切りとは
元増田じゃないんだけど、この話について当の本人たちの表現よりブクマで「挙式だけなら誰でもできるんだからおかしいことはない、一人でも友達同士とでもできるんだし」って言ってるブクマカの方が気になっちゃったよ。
そりゃそうなんだけど、現状同性同士については「挙式しかできない」わけじゃん。シスヘテロが法的拘束力のある婚姻というか、入籍に加えて他の選択肢として楽しみや決意や他の動機からの挙式を当然に選択できる自由がある状態と
婚姻や入籍ができなくて区切りとしての「挙式しかできない」不自由な状態とは全然イコールじゃなくて、そのうえでそれ言うのか…と思って「入籍」の話でない方がすげえ残酷だなと思っちゃったよ。
(その人たちがその意見のまま普段なにか同性婚賛成についてアクションをしてるなら別に文句はないんだけどさ…。でも実際はただ話を聞きたくないだけの人がすごく多い気がしない?)
一応パートナーシップ制度のある市区町村や養子縁組はあるわけだけど、これって結局は「法が同性婚を認めない」上でとれる対症療法のような抜け道のような方法にすぎないわけで、
生来の権利と言われるとちょっと違うし、婚姻ができるならこちらを選ばない人がきっと多いよね。(事実婚については話がブレちゃうんで措くけど)
というか異性で、恋愛的、あるいは親愛的了解のある二人がなにか関係を結ぼうとして、婚姻を選べる状態の上でさらにこういう方法が一般的にとられていない以上、
やっぱり両者には権利の上での格差があると思うんだよね…婚姻ができない状態において法的、金銭的な不利益を被っている現在がある以上、誰でも「挙式」はできるでしょ、それなら問題ないと思うよ!と言われても、
当事者としてはやっぱりひっかかるものがあるのはあると思うんだよね…。立っているラインが全然違っているんだから、なんかそこについてはもう少し耳を傾けてもいいし、
変わってない現在とそれに対する彼らの行動が現在進行形である以上は今回あがったような声自体は別に不当でないし「性的少数者としてなにかを解決しようとしてる態度とは思えない!」みたいに
大上段から複数で言われるほどおかしな意見でもないなって思うんだよね。言い方は強かったかもしれないけど、あの写真を出した側の考えなさと商業主義の姿勢に比べて
(個人的には今回のような表現をやめろとは言わないけど、世間的に嘘をついていい日っていう了解のある日にあれを出すことについてデリカシーがないというのは全然否定はできないとこだと思ったし、
それに対する批判だって同じように表現の自由で守られていいと思ったよ)それ以上に予断や思い込みのあるものとも思えないし、
未だに同性婚が法的にできないことを知らない人もいる、それを気にしなくていい人の多い社会構造の中の現状を生きてる人間にとって
ああいう発言をすることにおいて「逡巡がない」と受け取られるのもそりゃあ違うだろって感じたよ(これはこう言っているブクマカの人がいたので)、
そもそもこういう何か言えば猛烈な反応の返ってくる状況をずっと見ていてカミングアウトできてない人だっていっぱいいるのだろうし、マジョリティ側が持ってる発言することの気楽さのある世界とはかなり違う世界を生きてると思う。
我々が特に気にすることなくブクマで見られるような発言をしているとき、もうすでに黙って何度も何度もそれに耐えて頷いているかもしれない当事者はいっぱいいて、隣の席の同僚とかクラスメイトとか家族だってそうかもしれないわけでしょ。
そのことについてちょっと考えてもいいし、元ツイート主のああいう意見を見て、じゃあこの先どうしたらいいかなって両方で歩み寄っていけないものかなって思った。別にそんなに損することなくない?
我々に話を聞いてもらいたいならそういう態度をとるんじゃないよっていうのも、「理想の〇〇」(この間橋下さんが理想の戦争被害当事者を規定して燃えてたね)をやすやす規定できる側の考え方に見えるし、
現状特に何かを変える必要にない側にいる人間だから言えることだなって思ったよ。今性的に多数派の側にいることそれ自体で被る法的な不利益が自分にはないし、
他のいろんなものを対象にしたコンテンツや表現を楽しめる状態に水を差されることの方が自分たちが持ってる権利を持ってない人がいる社会が変わらないことより重いなって思うのも結構傲慢だなって感じるし、
よっぽど他の人間の表現の自由どころか得られていない権利の自由を侵害しといてそれはないよ…と思う感情自体は否定されなくていいんじゃないのかなって思ったよ。
何か言いたい人の話をもうちょっとばっさり切り落とさずに聞いたってそんなに損なことある?って思ってしまった。とにかく多数派は多数派の論理でそうでない他者を規定しすぎている反省はあってもいいのではないかな…って少し感じた。
一連の紛糾を見ていて、そもそも戦い続けてもまだ同性婚を法制化できてないくらい全然強い力を持ってない側にいる人たちの批判を表現の自由を規制する側=権力としてとらえてるところから変だし、
とにかくもうちょっと「なんでそんな風に思ったんだろう?」って聞いたっていいじゃんってなった、「お前の態度が気に入らない」「論理が破綻している(こっちもたいてい破綻しているのに向こうにばかり完璧を求めるのヘンだよな)」で切り捨てるんじゃなくて。
社会を動かす力も現状の社会構造を温存するのもどっちに対する力もむしろ多数派の方にこそあるんだから、それでとっとと同性婚成立させて好きなような冗談好きに言いあえる世の中になるのが一番いいよ。
うちは逆だな。残業は原則禁止で、月に2時間超えると管理職からお叱りがある。
なので、できる人はきちんと終わらせて、あるいは区切りをつけて退社。
・5章で被害者が加害者を擁護するストーリーをやってしまったことで、界隈の一部の解釈も被害者と加害者の構図が逆転し、カリムが謂れのないことで悪いと言われ続けることに耐えられなかった
・4章のあの書き方だと他のパソストやイベストも含めて見た場合、明らかカリムは八つ当たりでキレられたようにしか見えないし、ジャミルが問題を本当に解決したいと考えているならばカリムにキレるんじゃなくてもっと他に歯向かうべき相手がいたと今でも思う
・カリムに思い悩んでいることに対して気づいてほしいと思っていたならば、察してくれなかったことに対して不満を溜めて爆発させて周囲を巻き込んで迷惑をかけるんじゃなくて、素直に相談したほうがよかった
・ジャミルは常識人で有能だと言いたいのか、ジャミルは抜けている一面もあって可愛い!と言いたいのか、よくわからないシナリオの匙加減でジャミルというキャラが崩壊しているのが気になる
・メインストではオバブロした本人以外の悲しみにはあまり寄り添ってくれず、オバブロしたもん勝ちなストーリーになっていることが気に食わない
・章ごとにオバブロするため、命の危険性もあるはずのオバブロが単にノルマのように見えてしまう
・ジャミルはメインスト以外のイベスト等でもキャラの心情や設定もうよく掘り下げられるのに、カリムはメインストの言い訳(ジャミル擁護)の穴埋めに都合よく使われたこと以外ではほぼほぼ触れられず、ようやく明かされるかと楽しみにしていた故郷イベではジャミルに「こんなにも自分はカリムのせいで苦労している。」と職場の愚痴を聞かされるばかりで、一生カリムのターンは来ない。カリムを掘り下げる前にまだ終わっていない他寮(イグニ、ディアソ)の掘り下げを先にして欲しい気持ちもありモヤモヤする。
・確かにカリムは人の話を聞かず、一方通行に突っ走るところがあったり、厚かましさと急に発揮する頑固さで、明らかジャミル(とその周囲)を振り回し迷惑をかけている時がある。そこは直したほうがいいと思っているけれど、その欠点はメインストーリーには全くの無関係
ジャミルがオバブロした原因は「カリムに仕事量を増やされ、手に負えないほど迷惑をかけられていること」ではなく「カリムに対して忖度していることに対してカリムが気づいてくれなかったこと」だと捉えている。もし前者ならばジャミルは尚更カリムに職場の上司として相談すべきだった。ジャミルは後者のことで悩んでいたため、カリムに幼馴染として全幅の信頼をかけ気付いて欲しがったんだと思う。でなければ「気付け鈍感野郎。」という台詞は出てこない気がする。そこを混同しメインストーリー内でのカリムの過ちとして繋げて、ジャミルを擁護していく一部のジャミル推しがキツい。もしメインスト内でのカリムの過ちを挙げるならば、説得という名のほぼ強制で、自身が上の立場であることを結果的に利用し、ジャミルを副寮長の座から降ろさなかったことだと個人的に思う。あの場で1番の被害者であり権力者でもあるカリムの言葉に反対する人間がいないというのは嫌な説得力があるのは確かなので
・カリムの制服パソストにて、カリムが過去にジャミルが日々暗殺の危機に冒されるカリムに対して言ったと語る「アジーム家の長男としての宿命」という言葉。これはカリムに対して忖度しなければいけないジャミルの立場も「バイパー家の者としての宿命」と言えてしまうのではないか。なぜ人の苦しみは言葉で簡単に押さえつけるのに、自分の苦しみばかり相手にわかって欲しがるのか
・カリムの式典服パソスト1話にて、「寮長にはジャミルが指名されると思ってた。」と言ったカリムに対してジャミルは「まさか。俺は器じゃない。」と返している。4章で寮長の座を欲しがっていたジャミルはここでカリムに対して悩みを打ち上げればよかったのでないか。なぜわざわざ隠す必要性があったのか。
・カリム実験服パソスト1話にて、ジャミルが「宴は中止だ!招待者全員に謝罪してこい!」と言えばカリムは素直に言うことを聞く。このことからジャミルが本気でNoを突きつければ、ジャミルの嫌がることをわざわざしないキャラであることはわかるのに、上の立場を利用した横柄者だと一部から言われるのはなぜなのか
・カリムがジャミルをageる一方で延々とジャミルがカリムの愚痴を言い続ける一方的な関係性がしんどい。どちらのためにもならない関係性を継続させる公式の意図がわからない。そんなに嫌いならば早く物理的に距離を置いて欲しい。さっさと従者を退職して、一人旅にでも行って欲しい。「""カリムに解雇されない限り""は俺は従者の席に居座り続ける」とジャミル本人が言っているので本人の意思で退職は可能だと思う。それが出来ないのはアジーム家の長男の従者という立場が美味しいからか。一方的に不満を爆発させて、主人(被害者)の温情に甘え、自分に利がある美味しい立場に固執し、延々と主人の愚痴を言い続けるたびに、ジャミルは社会を舐めているのかと思うし、正直ジャミルがこんなにダサい男だと思っていなかった
・そもそもたった2人しかいない寮内で片方は好意をもう片方は憎悪を抱き、基本感情の一方通行で、一方的に片方の愚痴を聞くハメになるストーリーはストーリーとして面白いのかと疑問に思う
・悲しみや苦しみの大小を比べたいわけではないが、オバブロ勢よりも苦境に置かれているキャラ(姉たちに良いように扱われ家は転勤を繰り返し人に本心を出せなくなっているケイト、親が蒸発しスラム街で暮らすラギー、アジーム家の長男としての宿命から日々暗殺の危険性に追われるカリム等)がいるために、オバブロ勢の悩みが思春期の子供の癇癪のようにしか見えなくなっている。
・逆カプの解釈が地雷だったけど、自カプの解釈も段々と苦手になっていった
・界隈内の自カプと逆カプでの対立が酷く、鍵垢からのリプや引用RT、名指しでのアンチ等親がらせも横行しており、民度が低い。どう頑張っても溝が深いので、お互いに干渉しなければいいだけの話なのに、すぐに互いの逆鱗に触れて界隈の空気感が戦場と化して、何度また同じことを繰り返すのかと辟易
・愚痴垢だけでなく、愚痴垢の愚痴垢とかいう不毛な負の連鎖が続いていることが気持ち悪い
一生カリムが報われることはないんだなと何度も公式のストーリーで明示され、その度に何度も心が折れ、界隈で推しが事実無根の被害妄想で悪く言われ続けることに耐えられず、初めて愚痴垢を作ってまで自分の感情をどうにか消化して界隈から離れようと躍起になっていった。けど、そうすればするほど同じ考えを持った仲間内で愚痴を言い合うようになっていくので、感情や思想、思考がさらに煮凝り結局泥沼に嵌っていき、私生活にまで悪影響が出ていた。疲れてきたので考えることを放棄した。
一旦ツイステについて考えることをやめてみたら、私生活を蔑ろにしてまで続ける趣味ほど無意味なことはないと気付ける段階まで自ジャンルへの興味関心が薄れてきたので、ここで一区切りをつけたいと思い、今まで心内で思っていたことを全て書き綴りました。ゲームもアンストして完全にツイステとはおさらばし縁を切ろうと思う。以降このジャンルについての話題には自ら触れません。約2年ツイステで有限な人生の時間を無駄に潰してしまったことを非常に後悔しています。けれど、これから先別ジャンルでオタ活をしていく上での反面教師のような存在にもなったので、そこに関しては感謝をしています。
公式は、アプリ外ではなくアプリ内にユーザー還元し、多重課金バグとアプリ内バグを直し、一刻も早く本編更新をし、キャラ格差をなくし、杜撰な運営をやめ、今いるユーザーをどうか大切にしてあげてください。今までお世話になりました。ありがとうございました。
6章未読のため5章(イベントは新年イベまで読了)までを読み終えての感想です。本当はジャンル名を伏せ、愚痴スレに書き込もうとしたのですが、字数オーバーで書きこめなかったため、こちらにて失礼致しました。
ここまでお付き合いいただいた方、思ったことをそのまま書き連ねたため、支離滅裂になっている部分や読みづらい部分、お見苦しい部分もあったとは思いますが、お付き合いいただきありがとうございました。
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6月21日版(anond:20210621175921) から 3月17日版(anond:20220317182626) に至る記事の続き。
日曜区切りでの先週の感染者数は、予測よりも下回り、予測56691 現実53125 (-6%) となりました。ただし、前回から予測を木曜に変更したので、これは実質3日分の予測結果でしかありません。2週目にあたる本日までの推移を見ると、現実は予測よりずっと減少しています。
東京都の変異株検査 (第84回東京都新型コロナウイルス感染症モニタリング会議より)
東京都 | BA.1 | BA.2 | BA.2比率 | BA.2実数 | BA.2前週比 |
---|---|---|---|---|---|
~2月07日 | 181 | 0 | 0.0% | 0 | - |
~2月14日 | 75 | 1 | 1.3% | l 1404 | - |
~2月21日 | 412 | 33 | 7.4% | lllllll 7572 | 5.39 |
~2月28日 | 268 | 36 | 11.8% | lllllllll 9334 | 1.23 |
~3月07日 | 212 | 46 | 17.8% | llllllllllll 12970 | 1.39 |
~3月14日 | 656 | 411 | 38.5% | lllllllllllllllllllllll 23274 | 1.79 |
※ BA.2比率は判定不能を除いた全体における比率。BA.2実数は全体の感染者数を元にした推計。
2月上旬をピークに感染者数全体が減少を続ける状況にあってもなお、BA.2 は増加を続けていることがわかります。また、最後の週は検査数が1000件を超えていて、統計的な信頼性は改善されています。
全体の感染者数は、前回の予測(anond:20220317182626)より大幅に下回る推移をしています。これは、
なお説明が付かない減少幅です。このほかに考えられる要因を挙げると、
などがあり、濃厚接触者の定義の変更が最も妥当かつ影響が大きいのではないかとみています。(それでもなお減少幅は大きいので、これが要因のすべてとまで言えるかはわかりません)
3月16日以降の感染者数に統計的な連続性がないとすれば、少なくとも当面の間、発表される感染者数を予測するのは困難です。検査の飽和と違って元に戻る見込みもないので、5週予測は前回を最後として、終了します。
先に述べたようにBA.2の感染者数は実態として増加を続けているので、いずれ全体の発表数もリバウンドに至る可能性が高いと思いますが、かといって「濃厚接触者の定義の変更のせいで判断が遅れて、ふたたび医療崩壊を招く」という事態になるかといえば、ワクチンの3回目接種が進みつつあり、BA.1系統の感染による自然免疫も期待できることから、悲観はしていません。医療負荷や感染そのものについて楽観しているわけではないので、達観していると言い換えてもいいかもしれません。(※ 同日追記: 定義の変更のせいで減少して見えることよりも、発見されずに感染を広めてしまう機会が増えることで「急増しやすくなる」という恐れはあるかもしれません。その場合は、定義の変更は悪手だったということになります)
これより以前の予測結果は 1月04日の記事(anond:20220104223956) からご覧いただけます。
予測日 | 1週先 | 2週先 | 3週先 | 4週先 | 5週先 | 期間計 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1月04日(anond:20220104223956) | +129% | +179% | +36% | -35% | -60% | -41% | 都のオミクロンが全数検査でなかったと後に判明 |
1月11日(anond:20220111172111) | -18% | -62% | -66% | -62% | -26% | -56% | |
1月18日(anond:20220118182610) | -15% | -18% | -40% | -55% | -43% | -40% | (検査数の飽和が報道され始める) |
1月25日(anond:20220125172023) | -11% | -21% | -43% | -44% | -50% | -36% | |
2月01日(anond:20220201171801) | -31% | -55% | -48% | -41% | +10% | -40% | |
2月08日(anond:20220208171541) | -49% | -44% | -29% | -7% | +39% | -32% | |
2月15日(anond:20220215171824) | -41% | -30% | +3% | +43% | +105% | -12% | |
2月22日(anond:20220222220022) | -23% | +17% | +40% | +83% | |||
3月01日(anond:20220301183041) | +9% | +36% | +54% | ||||
3月08日(anond:20220308172859) | +16% | +34% | この週まで予測に BA.2 の考慮なし | ||||
3月17日(anond:20220317182626) | -6% | この週から予測日を火曜から木曜に変更 |
多くの統計値が日曜区切りになっているため、予測もそれに合わせて日曜までの1週間を単位として予測しています。そのため、「1週先」はあくまで日曜までを区切りとしていることにご注意ください。
プラスは楽観しすぎたこと、マイナスは悲観しすぎたことを意味します。ただし、予測は「検査が飽和していなければ」という前提なので、検査飽和中の予測結果はマイナスになりますし、解消中はプラスにブレることもありえます。また、絶対数が少ない時期は大きくブレやすくもなっています。あくまで大雑把な目安としてご覧ください。
政府予測と比べてみたい方は 新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードの資料等 からどうぞ。国立感染研の鈴木基先生提出資料と、京大の西浦先生提出資料に予測があるほか、不定期に他の資料でも予測されていることがあります。
大きな視点で累進課税で徐々に税負担が高くなるべきなのはそのとおりと思う。
ただ、1000万円前後で、様々な補助や無償化が一気に対象外になる事が問題で、それについてはもう少し考える必要があると思う。
累進課税で徐々に実質的な負担が増えるのが理想なんだが、現実的にはそれがいびつになっていて1000万円あたりの負担が急に重くなっています。保育関連の無償化がちょうどそのあたりの年収を区切りにしていて、1000万円程度で急に税負担が高くなる事をさらに悪化させているのが大きな問題。
これの根本的な原因って400-800万円あたりで累進課税がうまく機能していなくて、あまり税率が上がらず、1000万円前後で急に上がる事がそもそもの原因。
なので年収600-800万円あたりの税率をまず引き上げる事が理想だと思う。
600-800万円あたりの年収が相対的に税負担がお得な事は、みんな知っていると思います。ただこの不公平をなくすためにこのあたりの年収帯の増税の話をすると大きな反発が出るからあまり話題にならないんですよね。
保育関連の無償化についても1000万円で急に区切るのではなく、500万円辺りから補助半額などにして、1000万円あたりで補助0円になるように徐々に減らすのが良いと思います。
なんでvtuberの「中の人」を交代するという方策があり得ないのか、またvtuberと中の人が同一視されるのか、あまり追っていない人にはピンとこないかもしれないから書いておく。
まず現在のvtuberの中心は「生配信」です。ここがすごく重要なポイント
特に人気のあるvtuberは毎日のように何時間も生配信する。
生配信コンテンツは話者の人格や人間性というものがとても強く表に出るものです。
どれだけ現実と乖離したキャラクター設定が課されてようと、どれだけ中の人がキャラを演じていようと、何時間も生配信して話していればどうしても話者の人間性を魅せるような形のエンタメになるし、それが個性であり娯楽性でもある。
それに加えてvtuberは「子供の頃に〇〇してさ~」「最近好きな漫画は~」とか、話してる本人の実体験をよく話す。
そうやって何か月も、何年も活動して、ずっと追ってきたリスナーはだいたい「このvtuberはこういう人」「こういう体験をしている人」みたいな、いわば統一した人格としてとらえるようになる。
良い言い方をすれば当人の個性を会話で表現しているようなものだし、意地の悪い言い方をすれば「自分の切り売り」みたいなものが現在のvtuberの特徴なわけです。
そこで、中の人が交代してしまうと、たとえ被っている絵やキャラクター設定が同じでも、リスナーが見てきた人格も記憶の連続性もないものになってしまう。それはすごく気持ちが悪い。何年も追ってきた人が、人格も記憶もないまま外見だけ同じになるというのは凄まじい違和感があるわけです。ゾンビを見ているような気分になる。おまけにコラボ配信とかでは他のVからは全くの別人格なのに「同じ人」として扱われてしまうとしたら、想像しただけでホラー映画なのだ。
逆に「中の人」はそのvtuberと人格や記憶を共有しているわけで、それを全く別人とは思えるかと言ったら難しい。もちろんvtuberとして活動している間は綺麗な面だけ見せて演じていることくらいは分かるけど。それでもやっぱり絵や設定よりは人格の方に連続性を見たくなる。
どちらかというと動画勢として活動することが多かったキズナアイやゲーム部プロジェクトでさえ中の人を交代や増加させたら大炎上したのだ。だが彼らもたびたび生配信を行い、コミュニケーションを取っていたからこそ受け入れられなかったのだと思う。歌が中心だった道明寺ここあは演者が交代したが、その際は同時にチャンネルもストーリーも一新してしっかりと区切りをつけて再開した。そういう区切りが必要になる。だが大手運営ならそんなことするくらいならその中の人を新しいvtuberとしてデビューさせた方が手っ取り早い。だから交代はまず起きないのです。
この記事をね、読んだんですよ。1か月前に。
熊本生まれの妻に「熊本の良さ」を全力で伝えてみた|ヨッピー
前もって言っておくけど、ヨッピー氏個人に思うところがあるわけではないし、もちろん個人攻撃をするつもりもない。
これは広告記事だというのもわかっているし、熊本の魅力を伝えてくれているのもわかっている。基本的にはありがたい。
ただなにか、なんだろう、ずっとこの記事のことが心の中でしこりになって残って日に日にもやもやが募り、ついに吐き出したくなったので書いている。
自分は熊本生まれ熊本育ちで、大学進学で上京し、地元で過ごした年月と、東京を拠点にする年月が同じくらいになったところで、不本意ながら諸事情あって一度熊本に戻った。
当時東京に出た理由は「熊本、なんにもないからなぁ」に尽きる。地方特有のローカルルールとかどこどこさんちの誰々さんでいるのに耐えられなかったこともある。
それでも故郷のことは好きだし、愛着もあるし、褒められると嬉しい。たぶん、だから余計にもやもやしているんだと思う。
ヨッピー氏が挙げてくれた熊本の良さ、それ、『熊本』じゃないんよ。
まずこれ。「熊本駅前に住む」という感覚が、熊本の人間にはいまだ馴染んでいない。
熊本駅周辺が開発されたのはここ数年の話である。近年まで熊本駅前はマジでなんもなかった。本当になんもなかった。
九州新幹線が通ったのが2011年の話だが、そのときでさえ開発は進んでいなかった。線路を挟んで土地の管轄が県と市で異なり延々喧嘩していたからである。
駅周辺の開発が進んだのは(計画は長期であったろうが)2016年の震災以降である。
まず、そもそも熊本市内の人間は電車のことを電車と呼ばない程度に熊本駅に用が少ない。(市外からの通勤通学を除く)
「電車」=路面電車(市電)であり、いわゆる電車のことは「JR」と呼ぶ。JRは「外」に行く乗り物だし、「外」から来る人間の乗り物だ。
基本的に「熊本(市内)」に住んでいる人間が移動以外の理由で「熊本駅前」に行くことはほとんどなかった。
東京に住んでいる人間が羽田空港に行くくらいの感覚だと思ってほしい。おかげで今もそんなに馴染んでいない。
あと駅前は川沿いで地面も低い。熊本人はあのへんを住む場所ではないと思っていた。住宅地として開発されていることに慣れない。
駅の近くに家電量販店もスーパーマーケットもドラッグストアもコンビニも飲食店もスイーツ屋さんも映画館も飲み屋も何から何まで一通りそろっている
揃ってはいるのだが、感覚として羽田なのである。ここに書かれているものは街中にもあるし、郊外のイオンにもある。つまりそんなに魅力はない。
最近できたアミュプラザ熊本はちょっと都会っぽいものが揃っているが、いまさらこれで都会ぶるのも恥ずかしい。
むしろ中心部にあったパルコがなくなったことで心に穴が開いている。かつて福岡とタイマン張るとき唯一勝ち札にできたパルコ。(そのあと福岡にもできたから負けた)
我々はパル玉(旧パルコの前にあった丸い石のモニュメント/熊本におけるハチ公前)のことを今後なんと呼べばいいのか。
これはまあそう。道路の真ん中を車と同レベルのスピードで路面電車が走っていたらおそらく事故が多発する。
なお熊本市内で自動車運転免許を取ろうとすると、上り下り計6車線の真ん中に路面電車まで走っている交差点で車線変更と右折を行う教習が発生する。地獄。
トンネルいっぱいある高速教習もするし、踏切も渡るし、側溝ギリギリ1車線ハンドルさばきを間違ったら崖から落ちる山道を走らされたりもする。地獄。
熊本市内の基本的な移動ツールは自家用車以外だとバスである。バスは優先レーンがあるので比較的スムーズ。バスに乗れ。
街中に駐輪場を増やせというのは20年以上前からずっと思ってはいるのだが、上記は駅と「まち」しか行き来していないからできる発言でもある。
もともと熊本は川をそのまま堀とした城が建てられ、その回りにできた城下町がそのまま中心市街地になっている。
(渋滞が多いのは車が多いのもそうだが、城下町ゆえ道が恐ろしく入り組んでおり、一方通行や時間区切りでの取り決めが多く、見た目より時間がかかる経緯もある)
その一方で、住宅地は中心地から離れた高台や、川から離れてくぼんだ土地に作られているもののほうが圧倒的に多い。過去に大水害に襲われているからだ。
住宅地近辺は高低差が多く、自転車での行き来には労力を要する。
また、郊外の住宅地から中心地に働きに来る人間が多いので、必然的に自動車が増え、駐輪場より駐車場が優先される。自転車はあふれる。
無法に自転車が置かれているのでチャリ泥棒も多い。進学校でも数年に一度チャリパクで停学になるやつが出てくる。犯罪、ダメ絶対。
市もだいぶ前から問題視しており、課題にもしているので、熊本で気軽にこの話をすると若干荒れる。
参考:https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=19753&sub_id=19&flid=275258
やたらとメシが美味い
これは半分正解で半分間違いである。熊本は確かにとれるものがうまい。肉も魚も野菜も果物も、質と鮮度がいい自負はある。
おかげで郷土料理がほとんど発達していない。なにもしないでもそこそこうまいからである。美点でもあり欠点でもある。
熊本はいつもそうだ。地産地消でほどほどに満足できるので、観光にも産業にも力を入れず、中途半端にのほほんと生きてきてしまった。
熊本で熊本らしい料理を食べるのは実はそこそこ難度が高いし、居酒屋も単に素材がうまいだけの場合が多い。いいことだろうけど味付けまでうまいかは人による。
あえて言えば何故か中華がうまい気はする。太平燕を食え。祝い事の際は桃花源へ行け。
水がうまい
これは素直に認める熊本の美点。水道水のカルキ抜きをしないでも金魚を飼える。
エキノコックスさえ到達しなければ誇り続けられるだろうが、いまだに井戸水や湧水を飲んでいる家もそこそこあるのであいつらが来たら終わりである。
そしてそこここで水と温泉が湧きまくるので熊本は地下鉄を通せない。地下道もほぼない。おかげで路面電車はのろいし、渋滞も起こる。
また、水が豊かな一方で、治水と環境保全に関しては、本当に何年も何年も何年もいろんな課題と論争と葛藤が続いている。
県外の人間が軽率に「ダム作っておけばよかったのに」みたいなことを言うとだいぶ傷つくので覚えておいてほしい。
その前に温泉の話をしろよ!!!!!!サウナとか言ってる場合じゃないのよ!!!!熊本の『湯らっくす』は天然温泉なんですよ!!!!!!!!
湯らっくすに限らず街のど真ん中のホテルも温泉なんですよ。熊本は銭湯感覚で温泉に行く。山鹿や黒川まで行かなくてもいいのよ。街中で温泉入れるの!!!
熊本地震のときに「風呂壊れたまんまだから温泉いくわ~~」であんまり困らなかった(当然困った人もいる)くらいのレベル。
郊外には家族湯(時間制で家族単位で貸し切れる温泉)も多いので、身体にコンプレックスがあったりタトゥーを入れていても安心。混浴デートにも使える。
熊本の自慢。
他にもいろいろ言いたいことあったけどここまで書いたらだいぶすっきりしてきた。
何度も言うけどヨッピー氏が書いていることは嘘ではないし、悪いことでもないのだ。誉め言葉は誉め言葉として受け取っておけばいいのだ。褒めてもらえるのはありがたいことだ。
だけどやっぱりもやもやするというか、なるほどこれが「内」と「外」の感覚や見え方の違いなんだなと思ったりした。
これをこじらせるといわゆる「村八分」に発展していくのだろう。怖い。自戒せねばならない。
田舎の排他的な、というか、熊本の場合は排他的というより、身内ノリや郷土愛が重い感じ(謎の高校閥とかさ)が嫌でその外に出たんだけど、外に出てなおやっぱりあの感覚から逃れられない自分に苦笑する。
今どんどん出来ている新しい綺麗な建物は、我々にとっては瘡蓋みたいなもので、地震の前にあったもののことを思ってしまうけれど。
おかげで熊本城もまた天守閣が見えるようになったし、今の中高校生にはきっと駅前が「まち」の一部になっていくんだろうし、ヨッピー氏が書いてくれたような新しい熊本がそれも「熊本」になっていくんだろうなとも思う。
阿蘇はいいよ。風は気持ちいいし馬にも乗れる。(火口は入山規制中だけど)(阿蘇はくそ広いので別に観光できないわけではない)(正直火口はそんなに面白くないので行かなくてもいい)
天草もいいよ。イルカ見れるし。太刀魚釣れるし。(泳ぐなら天草より芦北行く気がする)
人吉もいいよ。鍾乳洞探検も球磨川でのアクティビティもいい。うまい鰻屋もある。(市内から行くと高速にトンネルありすぎて気が狂いそうになるけど)
アーティストの地方ツアー大体飛ばされてたけど最近は来てくれる人もいるよ。(相変わらずテレ東映らないけど最近はもう配信があるし)
市内は基本盆地で吹き溜まりだから夏場クッソ暑くて湿気やばくて温室みたいになって死にそうになるけど。
いいとこだよ熊本。やっぱなんもないけど。
私は「インターネット上で故人のブログが閲覧できる」ということを知り、廃墟サイトまとめを閲覧していた。
そもそも一体なぜ私が故人のブログに興味を持ったのかということについて述べたいと思う。中学生の頃、図書館で南条さんの本を借りた。当時私はリスカやアムカを常習的に行っていた。そのような自傷行為がきっかけで南条さんの本に辿り着いたと記憶している。
本には、南条さんという人物について、また彼女がインターネット上に残したものについて書かれていた。
「死んだらインターネットで公開したものが残り、さらには書籍化されるパターンもあるらしい」
衝撃だった。
南条さんは、生存した証をインターネット上に残して死んだ。いや、「生存した証がインターネット上に残ってしまった」と言い表した方が正しいのかもしれない。
さて話を戻すと、インターネット上で閲覧できる故人のブログというのが、二階堂さんの「八本脚の蝶」という日記サイトだった。利用されていたのは「@niftyホームページサービス」で、このサービス名から推測できるように、当時はまだ世の中に気軽に開設可能なブログサイトは広まっていなかったのかもしれない。
二階堂さんもまた、南条さんと同様にに生存した証をインターネット上に残して死んだ。特筆しておくべき点が、二階堂さんは南条さんと異なり「自らの意志で生存した証をインターネット上に残して自殺した」という点である。
私は、南条さんも二階堂さんもインターネット上でリアルタイムにて追うことができなかった。そのことについてなぜか「残念だ」と感じてしまうの自分自身の気持ちが不謹慎でたまらなかった。
インターネットではブログサービスの代りに増田が流行り始めた。私は主にメンタルヘルスについて発信している増田を好んで見ていた。そのうちそのクラスタ内のある増田について「どうやらあのアカウントの持ち主は自殺したようだ」と囁かれている場面に何度か遭遇するようになった。
このような場面を目撃し私は、非常にモラルの欠けた発言になるのだが「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と感じるようになっていた。
さて、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化され河出書房新社より発売された。文庫化されるという情報を得た時点で既に私は、自分の心の中で妙にひっかかるものを感じていた。故人の尊厳について考えた。
前置きは長くなったが、本編の日記を読んで感じたことを述べていこうと思う。
私はいつの間にか、2001年当時自分が何をしていたかということについて思いを馳せていた。2001年6月13日水曜日、私は小学6年生だった。私は6年生のゴールデンウィークに旅行先で体調を崩し、風邪をこじらせてしまい入院した。自宅で寝ていると熱がぐんぐん上がり、布団に包まっても寒くて寒くてたまらなかった。後になって改めて親とその話をしていると、どうやら熱性けいれんを起こしていたらしい。
ところで北海道の運動会は春に行われる。私は運動会当日までに退院することができた。当時の担任の先生が「持久走どうする?」と確認してきたので、私は「徒競走だけ出ます」と答えた。グラウンド5周の1キロなんて走りたくなかったのである。
私にとってそんな小学校最後の運動会が終わり、初夏なのか蝦夷梅雨(北海道にも一応梅雨のような時期が一瞬だけ存在する)なのかわからない曖昧な気候の中で、小学校生活を送っていた。おそらくそれが、私の2001年6月13日水曜日だったのではないかと思う。
2002年4月8日、月曜日。おそらくこの日に私は中学1年生になった。中学校に進学したといっても、私が通っていたのは小中併置校だった。わかりやすく説明すると、小学生の教室が校舎の2階にあって、中学生の教室が3階にあるということだ。つまり中学生になると階段を上る段数が増えるだけのことである。
私は新学期の校舎の何とも言えないにおいに敏感な子どもだったので覚えているが、小学生のフロアと中学生のフロアとでは、においが異なっていた。中学生の階の廊下や教室は、やはり中学生らしい大人っぽいとでも言ったらいいのか、とにかく少し変なにおいがしたのを覚えている。
4月も8日頃となると、多くの会社にとっては新年度の区切りを迎えてから数日経過したというところで、まだ新しい環境には慣れていないという時期ではないだろうか。
2002年4月8日の月曜日、二階堂さんにとってのこの日は、ある本に引用されていた詩を見つけることができた日ということになっている。どうしても読みたくて探していたのだという。彼女にとってのちょっとした記念日であるように感じられる。
2002年の3月末~4月初旬の彼女の日記を確認してみると、すっぽりと更新されていない空白の期間になっていることがわかった。年度末から年度初めは、やはり忙しかったのだろう。
彼女は文学部哲学科を卒業した後、編集者・レビュアーとして働いていたようだ。新年度が始まって早々しかも平日に、ずっと探していた本が見つかったという出来事を日記に書くほどに、彼女は本に対してかなり熱心な人物だったんだろうとぼんやり想像する。
2003年4月1日火曜日、この日は平日だ。
平日だが、二階堂さんの日記は「その一」「その二」「その三」「その四」「その五」「その六」「その七」、これに止まらず「その八」「その九」、さらに続き「その一〇」「その一一‐一」と綴られている。私はそのことに気付き、なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じた。「その一一‐二」「その一二‐一」「その一二‐二」と日記は続くが、いくら新年度の決意表明にしても長編すぎやしないだろうかと思う。「その一二‐三」の日記の次に、彼女はやっと翌日の4月2日を迎えられたようだ。
しかしその4月2日水曜日の日記のタイトルは「その一」とある。この日は「その七」まで綴られているが、分割されている記事もあることを踏まえるとトータル9回更新されたということなのだと思う。おそらく当時はスマホなど普及していなかったはずなので、勝手な個人的な予想になるが、彼女は自宅で夜中になるまで複数回にわたってブログ記事を投稿したのではないかと考える。もしくは、職場のPCから小分けして投稿していたという可能性も考えられる。しかし、2002年4月8日月曜日の日記から判断する限り、彼女であれば絶対にそんなことはしないのではないかと思う。
一投稿あたりの文字数は、今でいうブログ(いわゆる収益化を目的としたブログ)と比較するとかなり少なく感じられる。
しかし彼女の複数回に及ぶブログ投稿を現代の増田で例えるなら、短文の増田をかなりの回数にわたって連投しているという状態に置き換えられるのではないかと思う。多くの人はそのような増田のことを、はてなーもしくはいわゆる「病み増田(メンタルヘルス系の内容を扱う増田の中でも特に思春期の中高生が該当するように思う)」に分類すると思う。事実私も、一晩にかけてそのように連投しているアカウントを見かけると、どうしてもメンタルヘルス系の悩みでも抱えているのだろうかと見なしてしまう。
さて連続して投稿された日記の内容はというと、私が生きてきた中でそのタイトルも作者も聞いたことがないような本からの引用である。また、彼女が数年前に受け取ったと思われる知人からの手紙を引用している投稿も見られる。
ふと私は、おそらく二階堂さんは思考の整理のためにブログを使うというやり方をとるタイプの人間ではないだろうかと感じた。というのも私も時たまTwitterをそのような用途に用いるからである。そしてどういうときにその思考の整理をするかというと、それは「ものすごく死にたいが、どう対処していいか方法が見当もつかないとき」である。これについては、もしかするとピンとくる方もいるかもしれない。そのようにしばしば私はTwitterで思考の整理を行う。なぜなら自分自身の脳内の回転及びそれによって生じる思考をインターネットに吐き出さなければ、到底処理しきれない状態に陥っているからだ。
そしてなぜあえてインターネットに吐露するのかというと、リアル社会には私の話を聞いてくれる人が存在しないからだ。私にとって、リアル社会で相手の様子を窺いつつ的確なタイミングでふさわしい言葉で相談を持ちかけるという動作は、極めて難しい。過去に何度も相談時のコミュニケーションに挫折する経験を重ねたことがきっかけで、そのような事態に辿り着いてしまったのではないかと疑っている。
彼女の本心は今となってはわからない。そのため私のような人間が、勝手に彼女と自身を重ね合わせ、どこかに類似点があるのではないかとあれこれ想像してしまう。
ふと、彼女の死とはこのような在り方でよかったのだろうかと思わず考えてしまう。死後に自分の作品が残るとは、そういうことなのだと思う。
2003年4月に私は中学2年生になり、無事に厨二病を発症した。インターネットに本格的に参入したのは、この時期だったかと記憶している。休み時間には、情報の担当教諭がヤフージオシティーズのアカウント取得を手伝ってくれた。
やはり、当時はまだブログがそこまで一般的なものではなかった。私はまずは無料レンタルスペース(現代でいうレンタルサーバーのようなもの)を契約し個人サイトを作っていた。そしてレンタル掲示板を設置し、同盟バナー(ハッシュタグで繋がる文化など当然存在しなかったため、共通の趣味で繋がる同盟という文化が主流であった)を貼り、繋がっていた。あの頃はそのような時代であった。
私は夜な夜な日記(これはノートに綴った日記であった。というのも夜はインターネットができない家庭環境にあったのだ)を書き、アムカをするようになっていた。田舎特有の地域性、そこで生じた問題、そして本来の私の性格と一体何が根本的な原因であるのかはわからないが、ちょうど家庭内でもそこそこ大きな出来事が発生し、私は混乱のさなかにあった。
やがて私は個人サイトの別館を作るようになった。それはおそらく現代でいうTwitterの複垢(サブアカウント)のような類に非常によく似ているのではないかと思う。私はやがて、いかにも「メンヘラポエム(笑)」と晒されそうな文章を拙いながらも公開するようになっていた。
私は日本におけるインターネット内でポエムが馬鹿にされる風潮にいまいち納得がいかないので補足するが、あの頃は「テキストサイト」とカテゴライズされる個人サイトが充実していた。現代詩ともエッセイともいえない、インターネットならではの文章をポートフォリオのようにまとめた個人サイトは、当時かなり多くみられたように思う。
このように、思春期も相まって私は何かと思いつめて過ごす時間が多かった。先に述べたアムカをするようになったのは、確か半袖を着なくなった秋頃だったかと記憶している。
二階堂さんの日記は2003年4月26日の土曜日で更新が途絶えている。4月26日というと私の誕生日の翌日なのだが、そんなことなど今はどうでもいい。4月26日の日記は、6回更新されている。「その一」「その二」「その三」、そして「お別れ その一」「お別れ その二」「お別れ その三」という題で投稿されている。
そしてその後に、おそらくこれは投稿時間を設定したことによる自動投稿なのではないかと思うのだが、「最後のお知らせ」が更新されている。その内容は、「2003年4月26日のまだ朝が来る前に自ら命を絶ちました」という旨を報告するものである。
人の死についてあれこれ憶測することが心苦しいが、おそらく夜中のまだ朝が来る前に、最期のまとめとお別れの言葉を、何人かの対象に向けてそれぞれ投稿したのではないかと思う。そして、2001年から更新が続いていた日記をありがとうございましたという言葉で締めくくり、パソコンをシャットダウンしたのかどうかはわからないがきっと彼女のことなら身支度を整えてどこか高い建物へ向かい、そして亡くなったということだと思う。
断っておくと、私は『八本脚の蝶』すべてを読破したわけではない。二階堂さんが好んだ幻想文学などの専門分野について私は詳しくないため全文の理解が困難であるという言い訳により、私は挫折した。しかし何とも言えないモヤモヤとした疑問が残った。
冒頭で私は「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と述べた。再度ここで明記するが、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化された。
もしかするとインターネットに生きた証を残して自殺するということは最悪な選択肢なのではないかと私は思った。というのも、自らの意志に構わず書籍化され、需要や編集者の熱意があれば数年後に改めて文庫化されるというパターンもあり得るということが今回わかったからである。
果たして彼女はそのようなことを望んでいたのだろうかと、厚かましくも疑問に感じてしまう。世に広まるということは、全く想定していないターゲット層にまで届いてしまうということだ。もしかすると「自殺なんて弱い人間が行うことだ。自殺をする人間は敗者だ」などと主張する層に触れ議論を呼ぶこともあり得るかもしれない。
事実、書籍化された『八本脚の蝶』は私のような読者にまで届いたし、加えて私は今こうしてこのような文章まで書いている。果たして私のこのような行為は許されるものであろうか。
文中で軽く触れたが、私にとって増田は思考の整理のためのツールとして役立っている。
私は物心ついた頃より、「この子はぼんやりと過ごしているねぇ」と周囲から見なされることが多かった。しかしその一方で、「あなたは随分と真面目だね」などと言われる場面もたびたびあった。その理由について私は、私の脳は必要以上に過剰な思考を行っているためではないかと考えている。
私にはストレスや言いたいことを溜め込む傾向がある。「我慢しちゃだめだよ」とかなりの数の人たちから言われた経験がある。しかし、言える相手に言える範囲で相談をし、さらに増田で大量に噴出しても追いつかないのが残念ながら現状なのだ。
私は、増田を含むインターネットとは「最後の砦」であると考えている。リアル社会で捨てきれない期待をインターネットに託している。もし私がインターネットに見捨てられたなら、どうにかして確実な方法で間違いなく命を絶つと思う。それほどまでに私はインターネットに縋り付いている。
果たしてインターネットは苦しみの最中に置かれた人間にとっての救いとなるのだろうか。
今となっては、様々な利用目的によりインターネットは利用されている。インターネットで事業を興し収入を得る個人も随分と多く見かけるようになった。しかしインターネット上に人が増えたわりに、一向に私はそこで救われることがないように感じる。
私はリアル社会の中で、絶望に絶望を重ねている。冷静に振り返ると自滅して傷ついている場面が多いようにも感じられるが、何らかの救いを求めてインターネットに入り浸っている。もしも私がインターネットに絶望しきってしまったのなら、それは完全に終了の合図だ。「死」以外に何もあり得ない。
インターネットを彷徨っていると、「死ぬ以外の選択肢が無いために死ぬという選択を取った」という人間が多数存在することに気付かされる。
二階堂さんが一体どうして「八本脚の蝶」というウェブサイトを立ち上げたのか私にはわからない。もしかすると彼女の日記のどこかで触れられているのかもしれない。
しかし、私にはそのことについて何時までもこだわっている時間は無い。正直に言うと、小康状態を保ちながら生きていく上では、他人のことを気にかける余裕など皆無なのだ。そして当然なことであるのかもしれないが、健康な人間にとっても同様に、いわゆる「生きづらい人」を気にかける余裕というものは本当に無いらしい。最悪の社会だと思う。
しかしその「最悪な社会」だからこそ、インターネットは救済希望者を受け入れて欲しい。私の意図することをより明確に言い表すなら、「すべての利用者がインターネットを通じて他者を救済する世界であって欲しい」。
相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情の上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名で披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。
私は自分自身の人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。
「自分自身とよく似たパーソナリティの人物の言動や思考を知ること」は、抱えている苦しみを解消することにかなり役立つのではないかと思う。そのような情報を医療機関で提供してもらう機会が少なく、私はインターネットに救いを求めている。そういうわけで私は毎日欠かさずインターネットを利用している。
私はインターネットヘビーユーザーのまま亡くなっていったすべての人たちを観測したわけではないが、目にした限り彼らは社会に対する憎しみを叫ぶことなどせずにこの世を去っていったように思う。彼らに共通することとしては、後世に何らかの表現方法でアドバイスを残し、そして希望を託して亡くなっていったように感じられる。
私は彼らから希望を託された側として生を続けたいと思う。そしてそれがいつまでの期間になるかはわからないが、インターネットに救いを求めつつも、積極的に自分自身の不幸を開示していこうと考えている。
Covid-19による大阪府の死亡率が高いのは高齢者割合が多いからだとか、高齢者世帯の在り方によるものだという言説が飛び交っているので、実際に数字を見てみた。
死亡者数のデータ https://covid19.mhlw.go.jp/public/opendata/number_of_deaths_daily.csv
都道府県 年齢5歳階級 別 人口統計 2020年10月 https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000032153670&fileKind=4
期間1と期間2について、全年齢人口と65歳以上人口100万人当たりの死亡者数上位20都道府県を表とした。
年齢階級別の死者数データはまとまったものが見当たらないので、年齢階級別ではなく、全年齢の死者数を用いた。
1月のみでは大阪府は全人口・65歳以上人口あたりの死者数はワースト4位だが、今年に入ってから2/13日までだとワースト1となる。14,15日の分を足せばさらに格差は広がるだろう。
全年齢人口 01/01~01/31 | 全年齢人口 01/01~02/13 | 65歳以上 01/01~01/31 | 65歳以上 01/01~02/13 | |
---|---|---|---|---|
1 | 広島県 12.14 | 大阪府 34.17 | 広島県 41.26 | 大阪府 123.72 |
2 | 群馬県 7.74 | 広島県 33.93 | 群馬県 25.60 | 広島県 115.29 |
3 | 山梨県 7.41 | 兵庫県 29.64 | 山梨県 24.00 | 兵庫県 101.25 |
4 | 大阪府 6.34 | 奈良県 25.68 | 大阪府 22.94 | 愛知県 82.81 |
5 | 石川県 6.18 | 熊本県 23.01 | 石川県 20.83 | 奈良県 81.15 |
6 | 高知県 5.78 | 北海道 22.97 | 栃木県 17.76 | 福岡県 80.31 |
7 | 和歌山県 5.42 | 福岡県 22.40 | 兵庫県 17.50 | 群馬県 73.38 |
8 | 山口県 5.22 | 群馬県 22.18 | 三重県 17.01 | 熊本県 73.26 |
9 | 栃木県 5.17 | 高知県 21.68 | 和歌山県 16.29 | 北海道 71.47 |
10 | 北海道 5.17 | 宮崎県 21.50 | 高知県 16.26 | 三重県 69.94 |
11 | 兵庫県 5.12 | 愛知県 20.95 | 北海道 16.08 | 宮崎県 65.90 |
12 | 三重県 5.08 | 三重県 20.90 | 山口県 15.09 | 佐賀県 64.26 |
13 | 熊本県 4.60 | 和歌山県 20.59 | 熊本県 14.65 | 和歌山県 61.89 |
14 | 福岡県 3.70 | 佐賀県 19.73 | 愛知県 13.63 | 高知県 60.98 |
15 | 佐賀県 3.70 | 鹿児島県 17.63 | 福岡県 13.27 | 沖縄県 60.42 |
16 | 千葉県 3.66 | 香川県 15.79 | 千葉県 13.26 | 鹿児島県 54.16 |
17 | 愛知県 3.45 | 静岡県 15.41 | 佐賀県 12.05 | 京都府 51.66 |
18 | 香川県 3.16 | 京都府 15.13 | 岐阜県 9.95 | 静岡県 51.24 |
19 | 鹿児島県 3.15 | 岡山県 14.83 | 香川県 9.93 | 千葉県 50.75 |
20 | 岐阜県 3.03 | 愛媛県 14.23 | 鹿児島県 9.67 | 香川県 49.67 |
60歳以上から、5歳区切りで下限を上げてみても、上位5件程はあまり変わらなかったので、Covid-19政策においてなにかと区切りとなる「65歳」を区切りとした。
県名 | 65歳以上の割合(%) |
---|---|
秋田県 | 37.50 |
高知県 | 35.55 |
山口県 | 34.58 |
島根県 | 34.28 |
徳島県 | 34.17 |
山形県 | 33.80 |
岩手県 | 33.69 |
青森県 | 33.68 |
和歌山県 | 33.26 |
愛媛県 | 33.26 |
大分県 | 33.19 |
長崎県 | 33.00 |
新潟県 | 32.76 |
宮崎県 | 32.62 |
富山県 | 32.56 |
鹿児島県 | 32.56 |
鳥取県 | 32.37 |
北海道 | 32.13 |
長野県 | 31.93 |
香川県 | 31.79 |
奈良県 | 31.65 |
福島県 | 31.59 |
熊本県 | 31.42 |
山梨県 | 30.86 |
佐賀県 | 30.70 |
福井県 | 30.64 |
岐阜県 | 30.47 |
岡山県 | 30.35 |
群馬県 | 30.22 |
静岡県 | 30.09 |
三重県 | 29.89 |
茨城県 | 29.68 |
石川県 | 29.66 |
広島県 | 29.43 |
京都府 | 29.29 |
兵庫県 | 29.28 |
栃木県 | 29.13 |
宮城県 | 28.11 |
福岡県 | 27.89 |
大阪府 | 27.62 |
千葉県 | 27.59 |
埼玉県 | 27.01 |
滋賀県 | 26.24 |
神奈川県 | 25.56 |
愛知県 | 25.30 |
東京都 | 22.74 |
沖縄県 | 22.56 |
また、以下の資料を見ても、大阪府の高齢者世帯は、高齢者のみの世帯が多く、子と同居が多い都道府県に比べて感染症に弱いというエビデンスは無い様に思える。
https://uub.jp/pdr/j/koreisha.html
https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2017/html/zenbun/s1_2_1.html
https://www.stat.go.jp/info/ronbun/pdf/koku0701.pdf
老人ホーム・グループホーム等高齢者施設の割合が多いのかもしれないが、それならそれで対策は行えたはず。一番大事な時期(12月から1月13日)に、これらの施設従業員の社会的検査を中止していた事は批判に値する。 https://www.pref.osaka.lg.jp/iryo/osakakansensho/shisetu_kensa.html
大阪府の吉村知事は、「全国で見たら大阪の致死率は高くない、高齢者の感染が増えて亡くなる方が増えてる。高齢者をお守りしたい。東京都の致死率は低いと思ってる」と2/15の会見で言ったらしいが、今年入ってからに限ればこれは明らかに事実に反している。あとで第6波以前も数字を見てみたい。
【言いたいこと】
咳も熱もなく、いわゆるコロナ軽症または無症状の人
街にいっぱいいるんだろうな、と思った話
・無症状のため、自身がコロナだと認識していない人 →普通に出歩いている
・PCR結果待ちだけど、まあ軽症だし大丈夫でしょ? →良くないよなと思いつつ、完全自宅待機はしていない
・少し喉痛いな、風邪になったかな、と思いつつPCR受けてない人 →もうちょっと悪化してから、PCR受けようかな?と判断している
【対策】
できることとしたら
ぐらいだろう
結局のところ「withコロナ」というのは
「with健康ゾンビ」という言葉に置き換えられるかもしれない
【背景】
2月10日木曜日の朝5時に急に喉が痛くなって、「 あ、やばいこれコロナかなぁ。」と自覚。
すぐに喉の飲み薬を飲むも回復せず。
熱はなく、喉の痛みのみ。
徐々に体の倦怠感や、筋肉痛になってきて
調べたら近くの病院で当日PCR検査してくれるところがあり、予約。
病院に行く直前に、36.9度ほどあり
「あれ?熱上がってるじゃん。」と思う。
・待合室に座らずそのまま、診察室へ
・診察室のベット側4方向をビニール袋素材のカーテンで区切りの素中に座ってくださいと案内される
・問診票とかのやり取りは全てビニールカーレン越し
・喉の痛みがいわゆる普通の扁桃炎なのか、コロナによるものなのか分からないためPCR検査する
・つまり、扁桃炎が確定しておりコロナは合併症なのか、そうじゃないかの判断になるらしい
・何か薬欲しいか聞かれたので、喉の炎症を抑えるの欲しいとリクエストする→リクエストしなかったら何も貰えなかったかも
・看護師に唾液PCR検査キットを渡され、目盛まで唾液を出すように案内される
・結果については、「月曜の11時に病院に電話してください」と言われる
上司に事情を説明し、在宅勤務で社内に濃厚接触者がいなくて迷惑かけなくてよかったと思う
・喉の痛みあり →薬を飲めば回復する
・食欲あり
そして鏡で自分の口内を観察していたら
扁桃炎の症状である、白くて丸いもの(膿らしい)を発見したのだ
・コロナだったとしても軽症の方なんだな
白状するが
その日私は外に出かけ、帰り際にジムへ行ってストレッチと軽めの運動をしていた
これ、もしコロナだったらウイルス撒き散らかしているんだろうな・・・
申し訳なさはあるものの、喉の痛みの他、特に症状がないため外出したいと思っていた
これが一部始終である
・右と左ってどっちがどっちだっけ?
・エレベーターボタンって<|> と >|< どっちが開くだっけ?
・カンマ区切りのファイルって CVS と CSV どっちだっけ?
は全く問題ないんだけど、
女性を嫌悪するのって ミソジニー と ミサンドリー どっちだっけ?
は一瞬考えないと正しく確信を持てない。
ミソジニー (英: misogyny) は、ギリシア語の「μῖσος mîsos(嫌悪、憎しみ)」と「γυνή gunḗ(女性)」に由来する。
ミサンドリー(英: misandry)とは、語源はギリシャ語で、“憎悪”(希: μῖσος、mísos)と“男”(希: ἀνδρός、andrós)から。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BD%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC
gunḗ (ジニー)が女性というのがピンとこなくて、むしろアラジンのジーニーを連想して余計に混乱する。
andrós(アンドリー)→アンドリュー→男性名→男性→misos男性→男性を嫌悪する→ミサンドリーは男性嫌悪→ミソジニーはその逆だから女性嫌悪
と考えないと正解できない。
みんなはパッと見で分かるのかな?
なんであんな長いの?
推しだとしてもシンドクない??
1時間とか2時間以内なら分からんでも無いんだけど、それ以上って途中で抜けたりするのがやっぱり当たり前なの?
ただでさえチャンネル登録者数よりも再生数が少ない印象がVtuberにはあるけど、一人が複数回出入りしてるとなると、ユニークな視聴者って実はめっちゃ少なくない?
長い配信時間てどれほどの人間がついていけてるのかな?というのが素直な疑問。
疑問に思った発端は、
1.自分は見れて2時間。(リアルタイムで垂れ流し、アーカイブを分割で、アーカイブを一気見など、色々)
ただ、それ以上になると日を跨いでアーカイブを追う気が起きない。
2.Vtuberは登録者数は多いけど、その登録者に対してアーカイブの再生数の割合が随分と低い印象がある。
昔ながらの実況動画の方が、チャンネル登録者数と再生数の乖離が少ない例が多い印象。
例えば、チャンネル登録者数30万のゲーム実況者(A)とVtuber(B)が居た場合、
Aの平均再生数が15~20万なのに対して、Bのアーカイブの再生数は1~5万。というような傾向があるような印象を持ってる。
現状ではビジネスとして成立してるのかもしれないけど、ついていけない人間が増えたり、ついていける人間が増えないのであれば、
今後は衰退していくのかなと思ってしまう。
●コメントを見ての雑感
・さっさと切る理由が無い
個人的に、単純に見てる側の体力が信じられない。
聞き流してるとかなら分かるんだが、4時間の配信をずっと「見てる」となると飽きないのがスゴイなって思う。
・再生数って出入りで増えるの
出入りで増えると思ってたな。違うのかな。
・長時間にした方が儲かる
動画やアーカイブは特定の時間の区切りに広告が入るからその意図は分かるけど、4時間全部を見るユーザーってどれほど居るの?
統一意志じゃないのは分かるから、あなたのスタイルを一例として教えてくれると疑問が晴れる助けになりそう。
前作、創の軌跡はファーストインプレッションでシリーズに見切りを付けてしまうつもりだった。軌跡シリーズのファンではあったが、閃シリーズの質の低さに消耗してきていたので、転機と総括と位置づけているこの作品で駄目なら丁度良い区切りだろうと思っていたからだ。
そして、その予感は(少なくとも最序盤では)的中し、”さようなら軌跡シリーズ”という言葉が脳裏に浮かぶに至っていた。のだが、Cルートの存在により辛うじて「まだしばらくは追ってみよう」という気になってしまったので、投げ出すことなくクリアまでプレイ出来た。
最新作である黎の軌跡はさすがにもう予約買いとはいかないものの、PS Storeのセールを機に入手したので、不安な気持ちを抱えつつプレイしてみた。
結論から言うと面白かった。次回作は予約買いしてしまうかもしれないというぐらいには。手放しに賞賛するわけではないが、このクオリティのJRPGを定期的に供給してくれるメーカーというのは貴重なので、ちゃんと面白い物を提供してくれるのであれば応援したいという気持ちがあるからこそだ。
ではどの辺りが良かったかというと、あらゆる部分で改善しようという気持ちが汲み取れたからだ。閃シリーズの悪い部分と言えば、兎にも角にもテキストの強い癖と定番を履き違えたワンパターンにあるのだが、これがかなり抑えられていた。会話を「あ」から始めるのを辞めてみようか、と指摘されて必死に直そうと努力している人、と言えば伝わるだろうか。
ひとつひとつ挙げると長くなるので省略するが、このライターのテキストの悪い癖は多岐に渡る。そして、残念ながらそれらは全て残っているのだが、シリーズ初見の人ならそう気にならないのでは?という程度には自制しているように思われる。後2歩ぐらい抑えれば、これはキャラじゃなくてライターの癖だろう、という気配も消えるだろう。
展開のワンパターンさも決してなくなっているわけではないのだが、今作では何とか定番と呼んで差し支えない範囲に収めきれていると感じた。
敢えて言うと、主人公の変身は蛇足でしかなく、また前作の鬼やロボットといった類いの制作者の自己満足的なつまらない要素を足したのかと辟易したのだが、これは終盤で何とか取り返したと思う。ギリギリだが、まあ許容範囲ではあった。我ながら判定が甘いと思うが、この辺りも、バトルシステム的にも設定的にもお話的にも不要で邪魔でしかない要素にならないようにしようという意思があると受け取った。前作までは本当に酷かったので。
主人公はやはり皆から好かれはするが、ハーレム化はしなくなっているのも好感触だ。あくまで当社比であるところに注意は必要だが。
話運びも、かなりテコ入れされているように見受けられる。格上の敵が意味ありげな謎かけをしながらシュンと消えるパターンを延々と繰り返す事で話を進める、という手法からはどうやら卒業したらしい(なくなっているとは言わない)。今作は、ピンチに格上の味方登場といった、もはやライターの手癖にまで堕落したテンプレの連続でイライラすることもなく(何度も言うが、これもなくなっているとは言わない)、エンディングまでしっかり面白かったと評価する。
システム面ではエンジンから変えているのであらゆる部分がごっそり変わっているが、やはりまだ熟れていない感が強い。UIがかなりとっ散らかっている。特にオーブメントのセットやスロットの拡張辺りは煩雑極まりない事になっているため、触るのが億劫なレベルである。
アクション面は敵の攻撃が全周囲攻撃になっているという意味不明な作りで、とてもイースを作った会社とは思えない稚拙さだ。アクションゲームとして成り立っていないにも関わらず、アクションの難易度を最低レベルにしても無駄に敵の体力と攻撃力が高いため、アクションでも手早く処理出来る相手にのみ使う要素になってしまっている。そうでなければ時間の無駄なので、さっさとコマンド戦闘に移行する方が効率が良いからだ。そのコマンド戦闘にしても半端にアクション性が付加されたせいか、従来より戦略性が薄まっているのがまた閉口してしまう部分ではあるのだが。
アクションにしろコマンドにしろシームレスにサクサクとリザルトが進行するのはかなり良かった。酷評しているように見えるかも知れないが、将来性は非常に感じており、是非この方向で進化させてもっと面白い物に仕上げて欲しいと思っている。
総括すると、今までの悪かったところを反省しつつ着実に改善がなされている荒削りな良作だと言えよう。ここに来て急に出てきたとってつけたようなポリコレ要素に一抹の不安を覚えはするが、黎の軌跡2はさらなる改善を期待している。
「赤ん坊がなくから!」っていろんな状況で大きな障害として言われるが、本当に泣かしといたらいけないのか?
うるさくて不快なのは非常によくわかるが、赤ん坊にどれだけ悪影響なんだ?
そりゃ無限に泣かせ続けたらまずいのはわかるが、1秒2秒を争って泣き止ませる必然性がないのは明らか。
熱出てたとしても1分泣いてたら悪化するわけではないし。
5秒泣かせるのと、30秒泣かせるのと、5分泣かせるのと、30分泣かせるのでかなり違うはずだよな?
5分泣かせてて良ければ「赤ん坊が泣いてるから家事できない」って状況かなり改善されるよな。
泣き出してから一区切りつけて状況見て、大丈夫そうなら作業に戻れば良いし。
子育ての話になると、人類は理想と不安を病的に子供に注ぎ始める。赤ん坊は大人の神経を逆撫でするやつから生き残っただけなんじゃないの?
0か100かじゃなくてかなり中間があるハズなのに、極端な例ばかり挙がるよな。
なんとか普通科高校生ではあるがこのままだと進級が危ない電話がかかってきた。
テストで点がとれないのはもちろん、学校の課題もよく出し忘れているみたいだ。
性格はとてもいい子だけど、忘れ物が多いし、色々とルーズだ。脱ぎっぱなし。散らかし放題。
毎日のように部屋をチェックして片付けさせないとゴミだらけになりそうだ。
まず始めるまでにめちゃくちゃ時間がかかる。そろそろやったら?といっても
だいたい10分くらいで飽きてくる。集中力がもたないから1ページも終わらないうちに終わりにしてしまう。
今日こそ最後まで丸付けまでやりなね、と言っておいても自分で丸付けしていない。
もしくは適当丸付けだったりする。
仕方がないから「一緒に問題を解こう」といって親が隣についてやってようやく進む。
もし万が一大学に行けたとしても単位は落としまくり中退しそうな気がする。
まぁなんだかよく分からない日々を送っているわけだが、たまに凄く楽しいと思う期間がある。
でもその時逆に辛いんだよ。
いやこれが終わって、またあの日々が戻るってね。
旅行行ったりとか、イベント行ったりとか、誰かと会ったりととか、そうゆうのではない。
一度またあの日常に戻っても、また楽しい時は帰ってくると頭では思いつつ、いやこれが最後なのかもと思いなんか辛い。
自分はその種の趣味を持ったことがないのでわからないのだが、例えば数ヶ月に一度推しのライブに言っている人たちは、
その時は凄い楽しいけど、帰りの電車でも家に帰った後でもどこかで燃え上がった何かが沈む時。また次を楽しみに生きていけるのだろうか。