はてなキーワード: 功利とは
ドラマとか映画とかでしか聞いたことない話って意外と本当にあるんだなあって思った。
自分には親族、というより家族に近い関係の従兄弟家族が居て、その子供に兄弟がいた。
兄弟とは小さな頃から本当に仲良く、いついかなる時も一緒にいて、睡眠時以外はほぼ一緒に暮らしていたと言っても過言ではない程の距離感だった。
そんな幼少期にたくさん遊んだのにも関わらず、一切疑念を持たずに過ごせたことは、単に自分がアホだったのか、両親の隠し方が本当に上手だったとしか言えない。
成人も過ぎて幾年か経った頃に、突然何かのタイミングで自分の親から伝えられた。
実は従兄弟の兄は連れ子で、父さんは別の人、なんだそうだ。
従兄弟のお父さんはずっと強面で、帰ってくるとなんとなく怖い雰囲気がある人だなとか、いつも怒っているな、とかずっと思っていたのだが、自分が大きくなってからやっと、あのお父さんも子供想いの良い父親なんだなぁと思うようになっていて、
血の繋がりがないんだと聞くと、尚の事本当に"良い人"なのだった。
よく考えれば、昔から自分達の古い写真などを撮っているはずなのに一度も見たことが無かったなと、思い返してみれば不思議はある。
従兄弟の兄は成人前に知っていて、ずっとそれを弟に隠して今も生活しているらしい。
自分の親からはこの話は墓場まで持っていくつもりだったそうなのだが、いっそ知れてそれはそれで良かったとは思っている。
自分自身の親も割と稀有な育ち方生き方をしていると思っていたが、その身内にもそんな話があるなんて考えた事がなかった。
紛れもなく従兄弟家族は血の繋がった家族に見えていたし、今でもそうだとはっきり言える。
従兄弟の兄は実父にはもう会っていて、色々と自分で折り合いをつけているらしい、功利的な彼らしい結論である。
話を聞いたときには、今更知ってもどうとも思わない、と返したのだが、
実のところ結構吐き出し口が無く、なんだかモヤった思いだけが留まってしまったので、やっとどこかに吐き出せてスッキリしている。
もっと詳細があるのだけど簡潔にする為省いた。
自身の出した結論から言うと、家族は別に血が繋がってようが無かろうが家族になれる、という話だけだった。
すっきり。
おまえらのやってることなんて格差拡大の装置にしかなってねーんだよ。
インターネットが新しい産業になって社会を変えるなんて息巻いたのはもう何十年前だよ。実際にインターネットで起こっているのは格差拡大と嫉妬、怨嗟、承認欲のるつぼで地獄じゃねーかよ。ネットで民主主義も変わるとか言ってた人もいるが結局はさらにタコツボ化が加速して自民党支配のそこらへんの村社会と同じじゃねーか。
SNSが自由な発信の場だとか言ってるお花畑連中もどんだけ自分の無謬性に無警戒なのか笑うわ。おまえらの自由ってのはおまえらが見たいものだけ見て村化する自由だろ。そんなのは昔から各地で点在してたんだよ。それがインターネットを介してるから新しいんだってアホか。おまえらは所詮人間なんだよ。
クソクリエイターどもも一緒だよ。ネットでクリエイト云々なんて言ってるけどおまえらの創作物なんて他人の時間を無意味に奪うだけのクソシステムにしかなってなくて功利的に人類の幸福にまったく寄与してねーんだわ。残念ながら。クソ言論も一緒だよ。おまえらの言ってることなんてすべて過去の歴史に存在していてネットで得る思考とか価値観なんてものはニーチェやサルトルの足元にも及ばないわけ。
クソオーソライザーどももだよ。ランサーズとか完全に格差拡大のクソ業者だろあれ。バリューとかタイムバンクも一緒だよ。おまえらのやってることは市場化してその市場の恩恵のかすみをすくってるだけでいっさいの社会的意義なんかないんだよ。どれだけ綺麗なオフィスで承認顔して仕事してんのか知らねーけどな。
ゾゾタウンもヤフーもアマゾンもてめーらみんな同じだよ。権利市場化することで需要の奪い合いに着手して金儲けしてるだけでなんの意義があんだよ。てめーらのクソ市場のせいでせどりとか転売するクソが増えてクソが出す注文のせいでトラックの運転手が月給20万で家にも帰れず運転してんじゃねーか。クソ死ね。
インフルエンサーも同じだよ。そもそも人を啓蒙しようとか私は人に影響を及ぼせる人間だとかいう人間がクソほど嫌いなんだけどよ。おまえらのやってることも結局需要の奪い合いでしかねーじゃねーかよ。どんだけ自己肯定感つよいんだよ。その自己肯定迷惑だからやめてくんねーかな。
インターネットが自明だとか時代だとか自然だとかいうクソ言い訳はもう聞き飽きたよ。定量的、功利的に判断してインターネットで巻き起こっているすべてのことはクソだろ。ビジネスにしてもSNSにしてもてめーら結局金と承認が欲しいだけなんだろ。いちいちお題目みたいにクソ理念を綺麗な表情で唱えてうざったいんだよ。じゃあな。クソインターネット。
セックスワーカーにたいして思うところはないというかちょっと前までは毎日セックスできて羨ましいなあぐらいの感想しかなかったが性欲がなくなってきた今ではそんな感想もない。
性産業差別の根本の思考としてよくいわれるのは貞操観念だけどそれを抜きにしても
セクハラは助長するし少子化は促進するし間違った性教育の温床になってるし手マンがしがしとか明らかにAVの影響だし
事実上のレイプやってるしガチドッキリとか完全にレイプだしこれで差別するなっておかしくねーか?
明らかに賤業でしょ。
AVを擁護してる人って見てると結局、似非リべか詭弁野郎しかいないんだけど
似非リべは職業差別はんたーいって馬鹿みたいに連呼してる人で本質的に他人の思考を自分にひきつけて考えられない似非自由主義者だろ?
詭弁野郎は「AVにお世話になってるから批判するのはおかしい」って意味不明な論法使うし。
この国から消えて欲しいと思ってるし生きていて欲しくないと思ってるけどな
大いに結構
大いにやれ
でもそこに準法・安全・論理・合理・功利が大きく欠けてる主張しかできない共産主義者は黙ってろ
それだけが全国民にとって有益だ、もちろん共産主義のお前にとってもな
障害者も
健常者も
勝手に区分された中でお互いしたくもないことをしなきゃならんから渋々してる
したくないとわめけば全てまかり通る
そんなことを平気で考えている、やろうとしてしまう
自分だけを救えという
お前らは他人を助けたいんじゃない
自分が助かりたいだけだ
俺は資本主義がまともだと思っちゃいない
お前らじゃなくそれを支持している
言い訳は無理だ
だから黙ってろというんだ
増田は「利己的」と書いていたが「功利的」と言うべきだろう。その上で「功利的である」ことには同意だが、その理由は異なる。その理由を少し述べる。
増田の論は、人間の能力というものが一元的に数値化できるという架空の仮定に基づいているが、これが根本的に的外れである。人間の能力というのは非常に複雑なもので、社会全体の生存を考える上ではその多様性を担保することがもっとも戦略的には正しい。たとえば日本社会で非常に高く評価される「空気読む」能力は、世界の中ではほとんど不要な能力であるが、狭い環境下で長期的に社会関係を維持しなくてはならない場合(たとえば長期にわたる宇宙船内での作業員等)では、非常に有効な能力である可能性がある(ただし、現代日本人が比較的不得意な「異文化の受容」に関わる問題をクリアできた上での話であるが)。
知能というのも残念ながらその測り方が日々検討されているような状態で、たとえば現下のセンター試験で測れるような「能力」が今後役に立たないとはよく言われているところであるが、しかしだからといってそこに全く正当性がないということもないし、また、「役に立たない」という人々が、それに代わる明確な測定方法を示しえているわけでもない。
江戸時代、「能力のある武士」をそれなりに取り立てるシステムも全く機能していなかったわけではないし、実際幕末の幕府高官が無能ぞろいだったわけではないが、明治維新を成し遂げ、またその後の新政府をそれなりに運用したのは下級武士…すなわち江戸幕府からは「能力が低い」とみなされていた人たちだった。変動期にどのような「能力」が重要なのか、社会が予測することは難しい。
だから、ある社会が持続可能であろうとするならば、さまざまな能力の可能性を排除すべきではない。いまのシステム下で測定できない「能力」をもつ人間は、この社会のあらゆる地域、年齢、階層の中に眠っている可能性があり、必要なときにそれが脚光を浴びることができるように多様性を担保しておくことは重要なのだ。これが、社会が貧困問題に適切に取り組むべき「功利的な」理由である。
京大ミス・ミスターコンテスト2015がTwitter上で盛んに行われた批判(と一部中傷)により中止に追い込まれた。私自身は京大生でもジェンダー論界隈の人間でもないのだが、この過程を見ていて多くの疑問を感じたので、ここにまとめていく。別にミスコン批判について詳しく解説する記事ではないので、そのようなものを期待していたなら別に読まなくていい。
基本的にはこのtogetterに沿って発言していく。ミスコン批判者側のパースペクティヴがわかりやすく整理された良いまとめであると思う。最初に断っておくが、私はミスコンをやめさせることには賛成であり、その意味でミスコン批判者側である。ミスコンを開催するようなやつらは大抵が最も憎むべきタイプのキモい人間である。しかし今回、ミスコン開催反対派としていち早くステートメントを出していた人々の持つある決定的な傾向が私にはないと感じたので、普通の意味でのミスコン批判を〈ミスコン批判〉と呼び、この記事で疑問を投げかける対象となるものを「ミスコン批判」と呼ぶことにしよう。
注意しなければならないのは、私は「ミスコン批判」者に敵意は全くない、ということだ。ミスコンを中止に追いやったこと、ただその一点に関しては全面的に肯定したい。この記事が特定の人々に対する人格攻撃に見えたのなら先に謝罪しておこう。申し訳ない。私が考えたことのどこが間違っているのかをわかりやすく教えてくれるひとが現れれば、私は満足だ。
11月16日に「京大ミス・ミスターコンテスト」なるアカウントが取り上げられたことから騒動は始まる(アカウント作成自体は7月のようである)。
【開催】本日より京大ミス・ミスターコンテストを開催します!???????? 11/29まで1日1回投票を受け付けております????是非サイトをCHECKしてみて下さい????✨ ▶︎http://www.missmisterkyoto.com/
これまでに何度かミスコンに関し議論が繰り広げられてきた(そして開催を阻止してきた)京大でのミスコン開催がこの時点で全くと言っていいほど問題視されていなかったという事態を重く見たひでシス氏らは、「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」なる文書の公開及びミスコン運営団体に対する公開質問状の提出を実行した。
「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」草案 です。気が付いた点があれば自由にコメントや編集をしてください。 https://t.co/ZZeaWzn81b
.@kyotomissmr 京大ミス・ミスターコンテスト(京大ミスコン)に対して公開質問状送りました。https://t.co/ENgjjDZwvk 多くの京大生たちが貴団体のコンテストについて違和感・疑問点を抱いています。生産的な対話となることを期待し、誠実な回答を希望します。
正直に言うと私にはこの公開質問状の意味がわからない。大学当局主催ならまだしも、単なるひとつの学生団体(企業が関わっているかどうかは本質的な問題ではない)にこのような物々しい文書を送りつけても「一部のTwitterユーザーに臨場感を提供できる」ことくらいしか得られないだろう。
今回、貴団体が「京大ミス・ミスターコンテスト」をWeb上で開催していることを知りました。しかし、私はこのコンテストにどこか違和感を覚えざるを得ませんでした。それは、これまで京大において積み重ねられてきた、ミスコン開催を巡る歴史と議論をまったく軽視しているように思えたからです。
「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論を軽視している」のは当たり前ではないか? そんな歴史と議論を認知している学生がいったどれ程いるというのだろうか。私が部外者であるから知らないだけでほんとうは多くの京大生――あくまでも「当時の」――がミスコン問題を認知している、という可能性もあるが、そもそも前回類似の問題が取り沙汰されたのが2012年(なんと3年も前である! 当時の2回生は留年・休学あるいは大学院進学していなければもういない)らしいということからも明らかであろう(そしてあなたが京大生ならば、2012年から2015年にかけてあなたのフォロー欄にどれだけの変化があったか考えてみてほしい)。2012年のミスコン問題について調べたところ今回のものとは異なる質の問題だとも感じたので、実質2004年まで遡って議論を追っていく必要がある。Twitterも存在しない時代じゃないか。突然「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論」などと言われても混乱するだけだ。
今回議論に参加したわれわれ京大生の多くは本コンテストの開催を知りませんでした。京大の名前を冠しているにも関わらず、京大生への認知不足に不信感を感じる覚える意見が多く出たのは事実です。「大部分の京大生の知らぬ間に京大ミス・ミスターコンテストを開催し既成事実を作ろうとしたのではないか」等の疑問点や不満を持っている方が多くいます。ミスコン開催容認派からもこのような声は聞かれました。本コンテストの告知をどのように行ったか具体的にご回答下さい。
これは単なる団体の体力の問題だろう。7月にアカウントを作り、9日間でフォロワーを300人まで増やし、ビラも配っていたのに「知らぬ間に」などと責めたてるのはちょっと厳しすぎる。普通にかわいそう。「京大」名義の使用には許可が必要という話は置いておくとして、京大の名前を冠しているかどうかは本質的に重要な要素なのだろうか。逆に、誰の目から見ても十分な告知が成されたところで京大の名前を冠しても良いと言えるのだろうか。ところで私の大学のミスコンも毎年知らぬ間に終わっている。あれが外見至上主義的だなんて思ったこともない(し無自覚に外見至上主義を推奨しているようにも見えない)。
「美」のほうには噛みつくのに「知」のほうには噛みつかない理由についてひでシス氏は以下のようにツイートしている。
ちなみに「人を社会的に容姿で順序付けることはよくない」と考えている人たち、その理論も論理力という権力勾配に乗って展開されてること、人を学力で順序付けることに関してはどう考えてるのだろう。ぼくは「学力による順序付けは生産性向上を通じて人類の幸福に影響する」で一応決着つけてるんだけど
故にこの批判の核、と言うか土台は、ガッチガチの功利主義であることが明らかとなった。「普遍的な道徳が前提とされていて、それに従っている」というわけではないらしい(「ミスコン批判」者の中には功利と道徳の混同が見られるステートメントを提出する者が多く見られた)。功利に基づく批判はホリィ・セン氏の以下のツイートの後半と衝突する。
「容姿」という価値基準が絶対化してしまった世界――「顔という牢獄」――からの逃げ場はあるべきで、京大はその逃げ場を担っていると思う。もし京大がミスコンを許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、ミスコンは阻止しなきゃならん。マジで。
〈ミスコン批判〉とは「多様性の維持」のためにミスコンを阻止しようという運動であるという側面を持つ、ということか。「功利」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ユーティリティという牢獄」――からの逃げ場もあるべきである。もし京大が功利主義を許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、功利主義には断固として抵抗しなきゃならん。マジで。
今回気になったのは、そういった少しでもマシな社会を引き寄せるための泥臭い活動を、シニカルを装って冷笑したりこのヒドい現状をさも世の中の真理のように説いたりする言説があったことですかね。「たしかにおかしいとは思うが仕方ない」と言った瞬間に少しでもマシな社会は手から離れていってしまう
良い社会を実現するためには何をやってもいいのだろうか。功利主義的には良いんだけど。社会的に悪い影響を与えるというただその一点だけを根拠にして、単なる一つの企画を弾圧することを手放しで称賛するような風潮を放置しているとさらにとんでもないことになるのは火を見るより明らかであろう。正当かつ普遍的な理由で反対していないのだから、中止の時点で追及はやめるべきである。
先程のホリィ・セン氏のツイートに従うなら、今回のミスコンを功利主義的に弾圧することは避けるべきなのだ。ホリィ・セン氏のツイートそれ自体が京大における 「多様性の維持」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ダイバーシティという牢獄」――を象徴してしまっているのが残念ではあるが。
さて、公開質問状に戻ろう。
突然「容姿による人間の順序付け」というワードが出てきたが、ミスコンと何の関係があるんだ? そもそも「ミスコン」と「容姿」の間に直接的な関係はあるのだろうか。これらの間接的・結果的な「つながり」がこの一文によって再生産されている、ただそれだけである。
c. 所謂「女性らしさ」や「男性らしさ」の押し付けに繋がることについてどういった意見を持っていますか?
大学という本来容姿や性で判断されてはならない場でこういった企画を行うことは問題だ。という意見が寄せられています。
ミス・ミスターコンテストは、ほとんど容姿で判断されるコンテストと言って過言ではなく、そういったコンテストを男女で分けて行い、女性(男性)同士を比べてその中で1番を決めると、「この人が女性(男性)の中で1番」という「基準」が生まれてしまう。その「基準」は女性(男性)らしさの押し付けに繋がっているという意見が出ました。
同上。直接的には繋がらない。最初からルッキズムが浸透していることを仮定しており、本末転倒である。また、ミスコンごときが出場者以外への特定の価値基準の「押し付け」に繋がるとは到底思えない。
公開質問状についての主要な議題は以上である。この質問状とTwitterでの制御の効かなくなった批判・中傷によりミスコンは中止となった。
今回のコンテストの中止を決定いたしましたのでご報告いたします。
中止の決定の後4時間ほどで公開質問状に対する回答が送られてきた。ただ多くの質問に説明責任がないとして回答しないもので、不誠実だと感じられた。
説明責任はない。どうして説明責任があると思ったのだろう。純粋に、不思議だ。
京大ミスコン問題2015の公開質問状に対して回答が得られたので、議論用のDocsと総括用Docsを作成しました。ご自由にコメント・編集下さい。 回答と議論: https://docs.google.com/document/d/1BybFd2Th2NzTMQ3AK76kTrVjxB7S0jkMBSjVKGdQ4oE/edit 総括とこれから: https://docs.google.com/document/d/1L8bcokWX-gEHD0ecqT8UC_NyDBrboPULl3TSlZewjY4/edit
また、以下のような危うい意見もあった。
ミスコンの基盤となる差別的価値観は日常の模倣で、「ミスコン」はステージだけでなく日常で行われ続けているという事を認識してたら、一つ企画が中止になったところで「勝利」なんて言えないと思うけど。。ミスコン反対もクエストになってどうすんの。 >京大ミスコンクエスト
このような発言をすることによって差別的価値観を再生産し続けると永遠に闘い続けなきゃいけなくなりますよ、としか言いようがない。自足自給はやめましょう。
ちなみに言っておきますけど、ミスコンの内包している問題的構造は日常の中に浸透しているからこそ今回ミスコンがミスコンとして具現化した・言い換えるならばミスコンは日常的にも起きている、というのはその通り。
同上。
moralistよりもethicistになりましょう。そして自分たちがやったことについてもう一度よく考え直してみましょう。
以上、眠くなってきて最後の方はテキトーになっているが、ここで終わろう。言葉をうまく選べているか不安だが、最初に述べた通り、攻撃の意思はない。
ブコメより
社会的互助って奴がそーゆー単相の一対一だけで成立してるわけじゃないことぐらい分かれや お前は性格やルックスが悪いんじゃない、アタマが悪い
正論だけど的を外している。
元増田はその社会的互助の輪から自分が締め出されているように感じている、というより、信じている。
その確信の下、功利的に考えれば、自分への見返りの無い社会的互助に献身することを拒否するのは、合理的だ。
こんなやつでも、出生前は散々優しくされただろうに。
これ字面どおりに受け取るなら、元増田の母親が実際に社会的互助の恩恵を受けたかどうかはわからない、と答えうる。
が、このブコメの指摘するところはもっと深く、元増田も社会的互助の恩恵を受けているはずなのにそれに気付けないだけ、という点だろう。
電車というシステムひとつとっても、譲り合い等の社会的互助が働いているからこそ、円滑に動いているところがある。
もし皆が社会的互助を拒否したら、駅は今よりももっとずっと諍いの絶えない場所となっていることだろう。
元増田は、電車を利用するに際して、しょーもないケンカに巻き込まれずに済んでる、という点では、社会的互助の恩恵を受けてる、と言える。
世の中は割と、その場に居合わせた人間の善意だけでうまくいっている場面が多々ある。
が、元増田にはこう言っても信じないだろう。
自分の置かれている境遇が最悪だと信じ込んでいる者に「もっと酷くなる可能性を考えたら、今はまだマシ」という指摘は、何ら救いにはならないから。
金銭的であれ、制度的であれ、政治・社会が彼らの境遇を改善しようという態度を明らかにすることによってのみ、彼ら彼女らの不満や不安を解消できる。
ミストバーンと暁美ほむらと鷹野三四という愛着障害者が物語における敵になる理由 - tyokorataの日記
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20140209/1392025251
邪悪とか漆黒の意思とかそういうちゃちなもんじゃねえ……もっとドス黒い吐き気を感じるッ!
ブコメを見てみるとあの人の事をどんな奴なのか知らない人もいるようで纏めてみる。
名前の由来はジョジョ第五部のゲスこと「チョコラータ」が元ネタだって昔バカッターで言ってた。
原作ジョジョを知らない人に説明すると虐殺を楽しむクズ野郎であって、こいつの数ページにわたって無駄無駄ラッシュがかまされタコ殴りにされるというキャラ。
でも結局は自分に自信がない現れらしい。
口を開けば母親への恨みをしょっちゅう吐いてる。あの人と少しでも絡んだ人なら「母親を憎んでいる人」という事はよくわかるんじゃないかな。
ぶっちゃけまどかマギカ(特にほむら)に執着してるのも、その碌でもない母親を投影してるらしい。溜まったもんじゃないけどな。
そのせいでミソジニーもこじらせてる。昔の作品に拘るけど「強い男、弱い女」がいいらしい。
今までよくTogetterとかで炎上しなかったなこの人……。
最初に言っておくけど、あいつの見てるほむらは原作のほむらじゃない。
「ゼロ年代セカイ系的な糞ヒロイン」としてのテンプレを詰め込んだモノらしい。
だから叛逆で見せたマミさんや杏子に対する捨てきれない情とか、さやかやなぎさを蘇生させた部分があるという「功利」はない。
からくりサーカスやフェイスレスみたいに改心して反省して後悔のままくたばらないと許せないらしい。
その一方でまどマギ以外の虚淵作品にはどうもそれほど執着してないらしい。
Phantomや鬼哭街、沙耶の唄やFate/Zeroとかもそれほど執着してない。男が活躍するから。
サイコパスの槙島の方がよっぽど「愛着障害者」だと思うんだが、多分あいつクレイジーサイコホモだし。
でも狡噛からある種の友情みたいなもの向けられてるからどうでもいいらしい。
それが多分見てないか、ぶっちゃけあいつが見てるのは「俺の理解出来るもの」であってそうしたものから逸脱してる作風にも興味ないんだと思う。
ちなみに彼にとって虚淵は藤田和日郎先生に似てるらしいが、俺は全く思わんけどな。
少年漫画は大なり小なり「悪い奴は反省させるか後悔させるかして負けなければいけない」という要素があるのもわかるし、荒木飛呂彦先生や藤田先生がそういう人なのは分かる。
別にそういう作風が好きでもいいさ。問題はそれを虚淵に押し付けるのを当然だと思ってるからその妄言に吐き気を催すわけで。
母親ほどではないけど父親やお姉さんにも複雑らしい。
姉だか忘れたけど(もしかしたら母親かもしれないけど)「ナウシカ原作は気持ち悪い。アニメの方が好き」という家族の意見に対してキモオタ的な蔑視のコメントを吐いてたと思う。
他に好きな作品はジョジョ・ダイの大冒険・藤田和日郎作品・荒川弘作品・トライガン・ヒラコー作品あたりはよく引き合いにしてるね。
あの人どうも最近の作品についてこれない節があって、作品の引用は70年代~90年代が多い。
別にジョジョネタや懐古ネタだけに特化してれば結構面白い人だと思う。そこは彼の強みだと思うし、ほんと勿体ない。
問題は嫌いなキャラはかなり多い。
まどマギキャラ全般(特にほむら)・ドラゴンボールの悟空はしょっちゅう叩いてるし、絶対に彼らを認める発言はしないどころかジョジョや藤田作品の下衆キャラと同類扱い。
エヴァのアスカを初めとした暴力ヒロイン全般・母性キャラ全般もしょっちゅう叩いてる。怖いらしい。
嫌いなものに対して絶対に認める事とかしない。(例に出すなら、彼がほむらや悟空に抱いてる「憎悪」はエターナル東方が艦これに対して抱いてるような「憎悪」に近い)
しかもエヴァ時代のノリをまどマギに投影しちゃってて、しかも虚淵とかシャフトとかと全く無関係の「俺が好きな作品の方が作風は上なんだ!」「虚淵先生だって俺の好きな昔の少年漫画と同じなんだ!」って偏執性がある。
虚淵が昔の少年漫画好きなのはわからんけど(多分好きだと思うがわからん) それが作風に投影されてるかっていうとね。
「悪いことした奴は苦しむか反省しなきゃいけない」という倫理に囚われてるんだと思う。
そういう善悪も結局は流動的なのにね。
『ドラゴンボール』の悟空と碇ゲンドウの共通性について - tyokorataの日記
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20100512/1273598659
こんな記事描いてたけど、こういう時期はまだ楽しめてたよ。
あんまゲンドウの事触れてないけど、少なくとも悟空のキャラ性はあながちブレてなかった。
問題は彼の思考は90年代くらいで止まっちゃってる所でね。
ただ今思えばあのマンガの「正義」「邪悪」の倫理が彼が頭おかしくした原因なんだと思う。
まどマギ10話ですごい勢いでぶちギレたらしくて、その日に「ほむらはキュゥべえの同類だった」とか言い出してすごい剣幕でほむら叩き出してなんだったんだと思った。
賛否分かれるのは分かるけど俺はあの話すごい好きだったし、何言ってんだこいつと思ったよ。
しかもどんどん「邪悪なほむら」像が蔓延して行って、「まどかがほむらをキモがってる」とかそういう前提でね。
ほむら=フェイスレスという説 - tyokorataの日記 - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20110313/1300032043
いやほんとこの人何言ってんだろ。
つーかこの人まどかも嫌いなはずだけど、エレオノールと一緒にしていいのだろうか。
だからほむらは「反省するか倒されるしかない」と思ってるのかもしれんけど、それキャルとルイリーと沙耶と切嗣と槙島とシドさんの前でも言えんの?
別にほむら叩いてもいいんだけど、あの人のほむら像って「自分の中で知ってる作品で培われたもの」だからな。
叛逆ほむらが民間人に直接的な危害を加えることしなかったし使い魔にもさせなかったこととか都合の悪いものを無視してるでしょ。
そして織莉子さん(スピンオフ「おりこマギカ」の主人公)を引き合いにしてほむらdis(笑)か、織莉子さんも可愛そうだな。
>ジョジョや少年漫画に埋め込まれた意図や作者の描いた哲学を掘りだすことがモットーです
要するにtyokorataに感じる「吐き気」は「邪悪」なんかそんなものでもない。
ですよ。
> 自分しかここにいないのよ! その自分も好きだと感じた事ないのよ!
ほんと、この人はまどかマギカに触れておかしくなったと思うのでそういう意味ではすごい同情してます。
別にほむらがどうとかじゃなくて、彼の言う「暁美ほむら」への自己投影がうんざりするというだけです。
「碇シンジは俺なんだ!」的なそういうノリなのかもしれませんけども、あれは自己投影するようなキャラでもないし、
そもそも「自己投影しやすく屈折したほむら」なんですよね。ヘイト創作でキャラをゆがめる手法そのもの。
他の漫画は見れてるけど、まどかマギカに関しては間違いなくあの人作品を見てないし、自分しか見ていない。
もうちょっと他人を認めてもいいのに。
まず。匿名だからあえて言わせてもらうけど、文章が特徴的すぎるよ。ていうか日本語として読みにくい。まず句読点を打とう。しつこいくらいに。
そういう「なんとなく嫌だ」の感覚のうち、いくつかは無意識の功利的計算かもしれない。
でも他のいくつかは「不可知の何か」「不可知と知ってはいるけど、いる何か」「不可知の高い/深い/遠い/すごく近い場所にいると思う何か」がいるから、という感触の影響下にないかな?
それは広義で「神」だし、信仰の一種、宗教じゃない? というのが宗教学の立場だと思う。
夜中に爪を切ると蛇が来る(だから切っちゃだめ)、というのは蛇信仰で、宗教の一種、じゃあ何故ヘビは信仰の対象になっているのか、他に事例はないのか、歴史文献上はどう扱われているのか……という扱い方。
こういう話であってるかな?