はてなキーワード: 入社とは
氷河期が悲惨なことの一つに、すぐ上の世代がバブルだったことがあると思っている
奴らの就職活動は引くて数多、大手なんかだと囲い込みで別荘や旅行にまで招待されるような状況だった
同じ努力をしても結果がまるで違うどころか、成績やポートフォリオや資格取得に相当の努力をしたこちらより
確実に努力の量が劣る遊び呆けてた連中の方があっさり就職が決まってた
就職氷河期が努力が足りないって言われるのは腹が立つが、もっと腹が立つのは同じような努力でも時代で全然結果が違うことだ
そして俺らの就職活動では早けりゃバブル期で入社したやつやバブル期の就活生に鬱憤溜まってたやつが面接官
バブル世代のツケをいつまでも払い続けなければならないほんとうにロスジェネって言葉がぴったりだよ俺らは
自分が社会人になった2年後にバブルがはじけ、それまで毎年20~30人新卒採用していたのがゼロになった感じ。
自分はソフトウェアエンジニアとして入社後1年は本社のある東京で勤務し、その後希望していた地元に近い地方の工場にある設計部隊に勤務してた。
2年目の年度末に本社の部長がわざわざ出向いてきて、社員一人一人と面接になった。
「地方の設計部隊は閉鎖して本社に集約するので君には本社に戻って欲しい」とのこと。自分は結構仕事できる方だったのでこんな感じ。
本社に戻ると、同期や1年下の後輩のうち仕事ができる人だけが設計として残り、他は関連会社や営業に回された。神奈川出身の1年後輩が長野に営業で飛ばされたりしてたよ。
ソフトウェアエンジニアとして採用された1年後輩のおとなしい人が営業に回されて飛び込みとかさせられたけど声を掛けられなくて入り口で1時間立ちっぱなしだったよ、とか聞こえてきたりして。
直上の世代はソフトウェアエンジニア隆盛の時代だったよ?電気メーカー系の企業だったけど。
氷河期世代の悲惨さを描いた日本のテレビドラマはいくつかあります。以下の作品が、その時代や世代の苦しみをテーマにしています。
このドラマは、銀行業界を舞台にした作品で、企業社会の厳しい現実や、理不尽な上下関係、パワーハラスメントを描いています。氷河期世代が就職した後の苦労や、理不尽な状況に立ち向かう姿を反映しています。半沢直樹自身は氷河期世代とは異なりますが、ドラマの中で描かれる企業文化や競争の厳しさは、氷河期世代の経験と重なる部分があります。
「ハケンの品格」は、派遣社員として働く主人公の奮闘を描いており、就職氷河期を経験した世代の多くが派遣社員として働かざるを得なかった現実を反映しています。主人公のスキルの高さと、それにも関わらず不安定な雇用環境に置かれる状況が、氷河期世代の置かれた立場を象徴しています。
このドラマは、企業に入社した同期たちが、時代の変化とともに変わりゆく社会や仕事に直面し、それぞれのキャリアを模索する姿を描いています。氷河期世代の人々が直面した厳しい就職状況や、働く中での悩みが物語に反映されており、共感を呼んでいます。
氷河期世代の女性検事を描いたドラマで、仕事における性差別や困難なキャリアパスをテーマにしています。社会的に不利な立場に立たされながらも、自分の信念を貫く姿が印象的で、特に女性にとっての氷河期世代の厳しさが描かれています。
5. 「パーフェクトワールド」(2019年)
このドラマでは、障害を持つ主人公とその周囲の人々が、就職やキャリア形成に苦労する様子が描かれています。直接的に氷河期世代をテーマにしているわけではありませんが、厳しい就職環境や社会的なハードルがストーリーの中で反映されています。
これらのドラマは、氷河期世代の苦しみや困難を理解するうえで、象徴的なシーンや状況を描いています。氷河期世代に共通するキャリアの不安定さや社会的な孤立感などがテーマとして取り上げられているので、共感しやすい内容になっています。
現職に入社して六年になり、日々不具合を無数に出し、コードが読めないとか、仕様が分からない、書き方が分からないという素人レベルのクレームを飽きるほど聞いてきた。
改善提案をしても暖簾に腕押し状態で日々ゴミカスのようなコードを書いているが、あまりにも不毛なので転職した方がいい気がしてきた。
たいていの会社に中途入社者紹介で報償金みたいな制度あると思う
10万くらいもらえるとなかなか美味しい
SNSなんかでいい感じに人集めて紹介しまくれば凄いんじゃないのかな
というかこれのマッチングサイトを作るといいのか
紹介する側もされる側も報償金もらえることが多いだろうし利害は一致するよな
小さな商社の法人営業職として入社した増田ちゃん!お客様も商店街の中のお店とか個人経営のクリニックとか小さなところが多くて、そもそものパイも少ないためほんのちょっぴり引き継ぎの顧客があった以外はすべて新規営業=飛び込み、セールス電話祭りでした。
飛び込みで来る営業なぞハエのようなものでまったく相手にされず、セールス電話も耳障りな蚊の羽音のようなもので、これまたまったく相手にされませんでした。
さらにルートのお客様にも「こんなもん買ってもらってもしゃーないのでわ!?」とつい思ってしまう増田はまったく良い提案が出来ず、お客様との雑談も下手くそで、こまめにフォローと提案に行くということも鬱陶しがられるのがイヤで行かず、さらに社内営業も下手くそでした。なぜ営業職に就いたんだ.....。
そんなある日、上司がお客様との飲み会があるとのことで新人の増田も着いてこいと言われましたのでいそいそと着いて行きました。
お客様4人、上司と先輩2人と増田の4人で計8人の飲み会でした。お酒は強かったのですがコミュ障なのでテキトーに相槌を打って過ごしていると唐突に上司から「お前、いつ死ぬん?」と話を振られました。
唐突過ぎてへっ?と聞き返しますと「いつ死ぬねんって聞いてるんや!!」とエラい剣幕でもう一度言われてしまいました。私もですが先輩たちもお客様も固まっていました。
増田、今まで周りに恵まれて生きてきたもので面と向かって「死ね」と言われたことがなく、顔はヘラヘラしておりましたがめちゃくちゃショックでした。あとお客様の前で言われるとすごく恥ずかしいんですね。なんて言うかちょっと気取りたい相手の前でこんなこと言われると恥ずかしいというか、みじめでした。全然違う話ですが、いじめらている子が親には頑なに相談出来ない理由が少し分かりました。
ヘラヘラしながら「い、1週間待ってください」と返すと「長いわ!すぐ死ね!お前なんかなんの価値もないねん!」「目障りや!!」と畳み掛けられました。そのまま少しの沈黙のあと、じゃあこの辺で...とお客様から終了宣言が出ました。空気も終了していました。
そのあと先輩たちが2件目に連れて行って励ましてくれましたが、解散して1人になった帰り道、電車の中で泣きました。恥ずかしい〜!
と言う話から10年後!(そう、これは10年前のお話です!日記に書いていたのを久しぶりに読み返しました)
増田は敏腕営業マンになって....いるはずもなく、あのあともう辞めますと辞表を持っていくと慰留にあい、事務員として過ごしていました。性別で括るのはよくありませんが、この件は女はイージーモードと言われてもやむなし。すみません。
やる気もスキルも無く10年も過ごしてしまい、30も越えたのに何も出来ない、実績もない人間になってしまいました。同い年の友達は世に出ているすごいものを開発していたり、弊社じゃ想像もつかないような大きなお客様とお仕事していたり、日本中、世界中を飛び回って取材をしていたり、自分はなんもしてないし出来ないなとたまに虚無になります。
まじ?なんで入社した?
子どもの頃から俺はおかしかった。別に、変な子どもとか言われたことはない。むしろ褒められることの方が多かった。学校の成績はイマイチだったが、運動や芸術の成績はよかった。
自己紹介は必要最小限にしたい。今は四年制大学でスポーツを教えてる。幼少期から柔道をやっていた。中学校の全国大会で結果を出して、スポーツの名門高に進学して、同じく名門大学に進学して、卒業後はパチンコ機器のメーカーに入社(スポンサー契約)してプロになった。
※柔道にプロ制度はない。あくまで「それ」で食ってるという意味。
回想を始めたい。パチンコメーカーの次の転職先を主題に据えて話をする。
新卒で入社した、そのパチンコメーカーとの契約期間は3年だった。最終年度になると、次の道を考えないといけない。一応、次期も残れるだけの実績は出したものの、新しい、次のステージに挑戦しようと考えていた。柔道は、野球やサッカーに比べると現役でいられる時間が少ない。体をたくさん動かす分、選手生命が短いのだ……。
当時は、全日本の強化選手(A指定)だった。合宿にはフルで参加していて、オリンピックに出場する連中とも交遊があった。あの頃は、井上康生が全日本の主将を務めていた。彼が不在の時は俺が副として動くこともあった。ウザいかもしれんが、ちょっとくらい自慢させてくれよ。こういう場で文章を書く機会は滅多にないんだから。
※ところで、この日記はとても長い。ゆっくり読まれることを推奨する。
次のステージについて悩んだ結果、選んだのは……学校の先生だった。大学時代に保健体育教諭の免状を取っていた。いざという時に潰しが効くようにと、大学時代のコーチが勧めてくれた。今でも感謝してる。
どこの学校にしようか思案したところ、やはり地元がいいと思った。出身高校の柔道部の監督に相談したところ、広島県の東の端っこにある高等学校が指導者を探しているということだった。
さっそく面談のアポを取り付けてくれて、その高校の現監督と面会すると、すごく驚いてた。まさか強化選手が高校教師に転向するなんて思ってもみなかったんだろう。
トントン拍子に話は進んで、その翌年度から、俺はその高校の保健体育の教諭(兼柔道部顧問)として赴任することになった。
指導者としてのミッションは『古豪復活』だった。その高等学校は、昭和40年代まではすべての体育会部活がインターハイで活躍していた。
だが、『何か』があって進学校路線へと方針転換し、スポーツ推薦枠を徐々に減らしていったところ……平成に入る頃には、ほぼすべての部活が市内大会ですら勝てない状況になっていた。それでいて、進学校路線にも失敗していた(学内の最優秀者の進学先が広島大~関関同立くらい)。
そんな状況で、柔道部を立て直すのが俺に課せられたミッションだった。正直難しいと思われたが、チャレンジする価値はあると思っていた。
とまあ、そんな経過で柔道部顧問としてキャリアスタートを切ったものの、部内はひどい状況だった。柔道部も地区大会止まりとは聞いていたが、冗談抜きでレベルが低かった。心・技・体以前の問題である。
部員の多くが高校から柔道を始めていたし、運動センスが抜群の子はいなかった。そして、柔道の何を教えても、どれだけ丁寧に教えてもダメだった。心構えは、まあいいよ。徐々にハートを鍛えていけばいい。ただまず、基礎体力の時点で問題があった。
例として、ベンチプレスだと80kgを上げられる子が1人しかいなかった(それは乳首が大きい子で、皆からのあだ名は苗字2字分+チクビだった。当時は高二)。ほかの子は概ね40~60kgといったところか。マトモな高校選手であれば、体重70kgくらいの子でも……ベンチ100kgは難しくとも、訓練すれば半年以内に達成できる。
800m走にしてもそうだ。なんと、150秒を切れる子が1人もいなかった。ゼロである(参考までに、当時26だった俺の記録がほぼ130秒。高校の頃は118秒がベスト)。
こんな状況で、この部員達約15名(+女子マネ3人)を、最低でも中国大会まで導かねばならないという……正直、難しかった。柔道のプロとして言わせてもらうと、不可能に近い。
難しいのはそれだけじゃない。どれだけ心構えを説いても伝わらなかった。なんというか、やる気とかいうレベル以前に、人としての器量というか……そういうのが圧倒的に足りてない。
困難な物事でも、ひとまず取り組んでみるとか、目標達成のために努力を積み重ねるとか、そういう志をもって挑んだ経験がないのでは? と感じるような子ばかりだった。
柔道部の子だけじゃない。学校全体でそうだった。本校は、「中高一貫教育により、6年間を通して自ら考え、自ら動き、目標へと達するだけの力を陶冶できる人間を育てる――」と入学パンフレットで謳っていた。そんな生徒は皆無だった。惜しい子はいたのだが。
校則は厳しかった気がする。月イチの全校集会の後、生徒らが体育館前でクラス単位で並ばされて、髪型や制服など、生徒指導担当の教師陣が細かいチェックを行う。俺の出身校も、服装やマナーは厳しい方だったが、ここまでではなかった。
こちらの高等学校の偏差値は、40~45くらいだった。そこまで高い方ではないが、かくいう俺も、中学や高校のテストは平均50点未満しか取れなかった。里香なんかは14点だったこともある。国語濃緑濃緑すら怪しかった……。
柔道に青春を捧げていた。それ以外はどうでもよかった。勉強の成績は最低だったけど、高校も大学も、ほかのスポーツ特待生と一緒に先生方の温情で卒業させてもらった。
でも、確かにバカだったけどさ。当時、柔道関係の書籍は年に五冊以上は読んでたし、毎月発行の『近代柔道』だって、全ページの隅々まで目を通してた。
何が言いたいかというと、向上心である。たとえ下手くそでも、誰かに馬鹿にされようと、負けまくったとしても、そんなの関係ない。もっと上に行きたい、勝ちたいという気持ち。向上心がない若者に未来なんてあるか。
俺は油断していた。百年以上もの伝統がある高等学校だったら、多くの生徒はきっとポテンシャルがあるに違いないと高を括っていた。見通しが甘かった。
それでも一生懸命に教え続けた。暖簾に腕押しだったけど。指導を続けたのだ。怒りを我慢する場面は多くあった。指導者として悔しい思いもした。
当然、結果は出せなかった。他校との合同練習も、ローカル大会・公式大会の結果も散々だった。おおよそ、彼ら柔道部員はこんな調子だった。
・試合の度に勝敗分析シートを作るよう求めたが、半数は作らない
※ベンチプレス80kgのチクビの子。最後は設備の測定限界の160kgまでいった。
俺のストレスは有頂天だった。我慢できないところまで来ていた。
なぜ、こいつらはやる気がないのだろうか。成績がいいとか、地頭があるとか、機転が利くとか、そういう能力の話ではなくて――"生きる力"とでも言えばいいのか。そういうのがなかった。
ストレスを抱えていた折、ついにやってしまった。あれは秋頃だったか。県大会があったのだ。高三が引退した後、最初にある十一月の新人大会だった。
大会は二日間あって、初日は団体戦予選だったと記憶している。当校の成績はひどいものだった。リーグ戦があって、出場校が4校ずつに分かれて戦うのだが、普通に全敗だった。最初に戦った学校は、数年に一度は全国優勝者を出すほどのレベルだった。全員もれなく数十秒以内に瞬殺された。
チクビの子は、四十秒くらいは戦えていた。対戦相手は、彼と同じ高校二年生で、81kg級のスラッとした体形の選手だった。俺の記憶だと、ケンカ四つでガッチリと組み合った後、チクビの子がバタバタと大内刈りをしかけた。全く効いてなかった。
その直後だった、内股で吹っ飛ばされていた。相手の右脚が彼の股下に入ったのを捉えた次の瞬間、その肉体が空中二回転半して畳にめり込んだ。
ほかに戦った2校も、全国レベルに準ずるところだった。そのうち1校は、毎年安定して県内ベスト4に入る伝統校だった。もうひとつは、偏差値70の私立高校で、全国有数の進学校である。なんと、この学校は週に2回しか柔道の練習をしないらしい。それでいて、団体戦も個人戦も、毎年ほぼ県内ベスト8に入る成績だった。
この2校には、当然コテンパンにやられた!……いいところがほとんどなかった。三部トーナメント行き確定である。一日目の全試合が終わった後、怒りの気持ちを我慢しつつ部員全員に静かな檄を飛ばした。惨めな気分だった。
成果があったといえば、上のチクビの子(T君)が1回だけ勝った。体重も相手の方が重かった(T君は当時85kg、相手は100kg級)。人生で初めての指導者としての喜びだった。
彼は寝技が得意だった――厳密には、運動神経が絶望的だったので寝技しか残ってなかった。寝技には運動神経は関係ない。ほぼ努力で上手になる道ができる。相手と密着している分、計算がしやすいのだ。立ち技だと、コンマ数秒の遅れで技の威力に変化が生じる。
毎日の練習では、何度も何度も得意のパターンを繰り返した。俺が何回抑え込んでも、関節を極めても、締め技をかけても、決して諦めなかった。送り襟締めや袖車締めで落とした(※頸動脈の圧迫で意識がなくなる)回数は50回を超えている。
夏場にあった合同合宿だと、T君が他校の選手に寝技で抑え込まれている時、竹刀で背中や太腿を何十発もぶん殴ったっけ……「どうしてそこで力を抜くんやっ!?」と何度も指導した。
T君はそれに応えた。土中から這い出たばかりのカブトムシとか、成虫になろうとして藻掻いているハナムグリの芋虫みたいだった。精いっぱい、本気で動き回っていた。とにかく、妥協だけは絶対しないように教えた。
振り返ってみると、彼に柔道を教えていた期間は一年半もないんだな。たったそれだけである。ヤツは諦めなかった。妥協することはあったけど、俺の指導に最後までついてきた。
そりゃあ、T君が情けない試合をした後だと、ブン殴ったことが何度もあったよ。鈍くさいし、柔道はボテボテしてるし、平々凡々の才能だった。でも、あいつはスゴイ奴だったよ。柔道を選んでなければ、別の道でインターハイに出ていたかもしれない。
さて。県大会一日目が終わって、部員一同は広島市にある古びたホステルに宿泊することになっていた。ただ、女子マネ×3と引率教師である俺は別のホテルになった。
一応は、監督の意見だった。この3人は一年生で、最初の泊まりなので配慮が必要ということだった。最初の宿泊が、あの年季が入ったボロホステルというのは、確かに……と俺も感じた。
女子マネ3人のうち、2人は双子だった。二卵性だから顔はそこまで似てない。お医者さんのご子息と聞いていた。このうち妹の方(マネ子とする)は、相当マジメな子だった。よく気が利くし、頭の回転が早いし、学業成績は最優秀である。学内では清楚キャラで通っていた。実際、練習前には必ずお茶くみをしてくれる。
ほかの2人にしても、こんな弱小柔道部のマネージャーを半年も続けてる時点でひた向きだと思う。普通だったら辞めてるよ。半年間でほとんど勝ててないんだから。県大会の個人戦だって、誰一人として出場できなかった。
責任を感じていた。柔道部が結果を出せない原因は俺にだってある。それが申し訳なかった。それで、姉妹のうち妹の方だけ、俺の宿泊部屋に呼んで話をすることにした。
この不甲斐ない状況について話を聞いてみると、彼女も思うことがあるようだった。会話をしたのは数十分である。
マネ子は、半分涙を流していた。こんな子がマネージャーで本当によかった。
ところで、俺がいた高校の柔道部は、全国でも上から数えた方が早かった。いわゆるガチのところである。女子マネージャーなど存在しようがない。いや、男子校だから本当に存在しようがないのだが。
気が付くと、マネ子の髪を撫でていた。それから何を思ったのだろうか、そのままグイっと彼女の頭を、俺の肩のあたりまで引き寄せた。変な雰囲気になってた。マネ子は無抵抗だった。左手で胸のところまで引き寄せると、暖かい感触があった。
その子の顎を右手の指先で持ち上げるようにして、キスをした。抵抗はなかった。ベッドの上に押し倒して、後は流れだった。体のいろんなところをキスしながら触っていったけど、本当に無抵抗だった。たまに、俺の肩を猫の手でちょんと押すくらいだった。そのままずっと、ペッティングみたいなことを続けた。
このくらいの年齢の子って、あんまり柔らかくはない。女の子はやわらかい、といった世間のイメージは正しくはない。柔らかいのは大人の女性である。未成年はそこまで柔らかくはない。
などと思いながら、ちょっとずつ服を脱がしていった。その時のマネ子は、体操服のような簡素な恰好だったのを覚えている。すぐに脱げた。
胸は大きくない。でもきれいな形だと思った。お互い、完全に裸になる前に明かりを消した。それから、肢体のいろんなところに触れたり、舐めあったり、くすぐったりした。マネ子は、俺に合わせて動くこともあったし、微動だにしない時もあった。全体的に反応は微かだった。
ひどいことをしている認識はあったが、それでもセックスの相性はよかったと思う。彼女は、最初の方は緊張してたけど、少しずつほぐれてきて、会話をしても大丈夫になった。お互いに唇をすぐ近くまでもってきて、囁くように会話をした。
マネ子は気分が乗ってきたみたいで、行為の最中にいろんなことを言ったり、いろんな体位をやってくれた。最後の方はイチャイチャとしていた。会話を思い出してみる。
「持ってる。財布の中」
「なんで持ってるんですか笑 彼女さんいるんですか?」
「いないよ」
「えー、だってH慣れてるじゃん」
「慣れてないよ。下手くそだろ」
「……ほんとですか?」
「うん、本当」
「うそだー」
「本当だよ」
マネ子にまたキスをすると、態勢を変えて、ベッドの中で真上に乗っかった。
顔を近づけて、両手でマネ子の頬に軽く触れて、しばらくずっと舌を絡め続けていた。舌を抜いた時、彼女がまっすぐ延ばした舌先で唾液がうねるみたいに躍動した。それから、マネ子にまっすぐに乗っかって行為をした。俺はマネ子を知ったのだ。
行為が終わると、この子は暗闇の中で俺の眼をずっと見つめていた。俺はそのままベッドを出て、もう一度、財布のところまで歩いていった……。
次の日の朝、初めてあの子を見たのはホテルの朝食をとるスペースだった。ビジネスホテルよりは少し立派なバイキング方式だったっけ。
マネ子は、別に何でもないって顔をしてた。当時の俺は若かった。罪悪感はそこまでなかった。マネ子は本当に普通の様子で、俺や、マネ子の姉とも普通に会話をしてた。
この子たちとの朝飯を済ませてから、サッとチェックアウトをして、みんなを(広島市内の実家から借りてきた)自家用車に載せて会場に向かった記憶がある。
大会二日目は、これまでの中で最大の成果だった。リーグ戦で全敗した関係で、三部トーナメント行きになったのだが、なんと……ここで優勝してしまったのだ!! 嘘ではない、事実だ。ノーシードからきっちり4回勝って、優勝トロフィーを手にした。
T君が活躍したのもあるが、ほかの選手も本気で頑張っていた。あれだけ練習したというのに、リーグ戦での完全敗北が響いたのだろう。心に火がついたといっていい。三部トーナメントの出場校について、選手の半分ほどが白帯だったのもある。
柔道の場合、一試合の時間が野球やサッカーといった団体スポーツに比べて短い。試合に必要なスペースも100㎡以下である。このように、各校の試合回数をできるだけ多くする配慮ができるのである。
ここでいったん切る。
次です
えぇ〜〜!!
めっちゃ質問してきたし、入社時期も聞いてきたし、面接時間もたっぷりだったじゃん〜〜
会社の困り事も話してくれたから、入れてくれる気満々だと思ったのにー!!!!
めちゃめちゃ志望度高めてたから辛い〜〜!
慰めてエエエ
https://note.com/naru_oriko/n/n9b127bbd18e0
本記事の内容は数年前の状況で、現在は修繕されている可能性があります。
また、入社希望者を止めたり、Cygamesの各ゲームタイトルへのイメージを下げる目的はございません。
Cygamesは企業イメージを落とさないよう社員による内部情報の漏洩やSNS投稿等にかなり厳しく網を張っています。
特定されたらどうなるのかが怖くて、離職から数年間は何もせずただCygamesのCMを目にする度に軽いPTSDを発症していました。
現在、労働中に患った軽度な精神疾患が元となり精神障害へと発展した為、本記事を書こうと決めました。
まず初めに所属した部署で、上長からセクハラ行為を受けました。
→その時私は所属から1週間程度だった為、断ることが出来ませんでした。
→部署内のLINEグループがあるとのことで所属して直ぐにLINEを登録していました。
これらを人事に相談したところ、私が別の部署へ異動となりました。
これらを人事に相談したところ、この方は降格処分となりました。
翌朝出社した際、まだ原因が解明出来ておらず、疲弊しきったリーダーが謝罪していました。
→私はこの時の怒声を今でも鮮明に覚えており、若干のトラウマとなっています。自身がリリースする際にかなりのストレスを感じていました。
→エンジニアリーダーと食事をした際、リーダーは会話中でもApplewatchに通知が来る度すぐに開いて確認しており、常に緊張状態にあるようでした。
→私はこれをきっかけに一過性の鬱状態となり、その方と話した後にトイレで嘔吐したり、一時他人と話すことが出来なくなり、別室で作業をするようになりました。
その後、そのプランナーリーダーと関わらない部分の実装を担当するようになりましたが、鬱状態が治らず、限界がきて離職する運びとなりました。
今や他社のゲームも盛り上がっておりあまり目立たなくなりましたが、一時期はウマ娘やゾンビランドサガ、グラブル等の広告や話題が街中・TVCM・SNS等で目にすることが多かった為、その度にフラッシュバックして嫌な気持ちになる事が多かったです。(現在進行形)
このせいで佐賀県に個人的な苦手意識が芽生え、大好きなお笑いのキングオブコントでスポンサーとなった時はショックを受けました。
3回目が発覚してどうか嘘であって欲しい気持ち。
1、2回目は会社に在籍して一年以上経ってるタイミングだった。しかし、流産。
なぜ流産したかはわからない。相手の年齢(40手前)のせいか、自分のせいか。
そして、なんだかんだ3回目の妊娠発覚前。無性なイライラ感。コロナっぽくて熱っぽい感じ。
これはまた妊娠したなって。
今の会社は入社したばかり。育休なんて申し訳ない。でも体調悪すぎてまじ仕事にならん。どこにも当てようが無い虚無感。
彼、無関心。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/86672
これ連載第一回にはさらに強烈で電話恐怖症で退職とかって話も出てきてんだけど、本質的なブコメ少なくて割と深刻じゃね。
指摘してるブコメもあるけど、コレって入社時の受け入れ環境の変化に会社側がついていけてないって話でしょ。
例えばさー、飲み屋でイッキして一発芸が出来て、良い感じに二次会を確保しつつ、朝まで接待麻雀に付き合えるのが社会人の必須技能とか、もう無いじゃん。
なんなら、もう普通自動車免許持ってなくても別に就職とかできるでしょ。
昭和の時代なら、普免もない、新聞も取らない、固定電話を引かないとか、会社でも相当変わり者だったっでしょ。
工場勤めてるとよー、未知の機械は怖いよー。指が飛ぶくらいで済めば御の字で、ちょっとしたことで重大事故になるからよ。
わかってるだろうで、新人にプレス機とか絶対に触らせないけどね俺なら。死にたくないし。
だから、電話番を新人にさせるのに、わかってるだろうでやらせる会社とか、社会を舐めてるとしか思えないね。会社の顔たる窓口業務を舐め腐ってるからこんなことできんでしょ。
大事な取引先に「はー、なんかモゴモゴ言っててわっかんねえなあ!ハッキリ言ってもらえないスか!」みたいな100%の善意で新人が聞き返しちゃって大問題とか、経験したことねえんだろうな。
学力だけが高くて高学歴になった人って(まあいわゆる高機能自閉症)じわじわ狂っていくよね。周りが恋愛もスポーツも人付き合いも学力も優秀すぎるから。
エリートが
順風満帆に過ごしてるのって見てて気が狂うけど
なまじ近くで見てると気が狂うんだろうなあ
社会的に影響力のある立場になる人物が狂ってるってことは一大事じゃん?
アメリカの大学が「学力重視による選抜やめました」っていってるのってそういう狂った人間が社会に及ぼす影響を危険視してるからだよね。大学も入社試験に近くなっていくんじゃないか?
【前提】
事業の将来性のなさから数年前から漠然と転職を考えていたところ、理不尽に異動させられてイラっときたので半ば衝動的に転職活動を開始。
思った以上に順調に進み数か月で一社から内定を得る。年収もアップすることから転職を決意。
「JTC歴が長いので『脇を固めながら合意形成を図っていく』スタイルに慣れているので、ベンチャーよりもJTCに適性があると思う」
という割と思っていることをそのまま面接で伝えたら、評価されたというかカルチャーに合致していると判断されたっぽい。
業種としては完全に畑違いではあるが、元のJTCもジェネラリスト育成とかいう名目で畑違いの部署に飛ばされる事が多く、
その中でもキャッチアップしてきた経験もあるのでまあなんとかなるだろうと判断。
【結果】
入社して数か月が経過した。
業種の違い、企業文化の違いについて苦労はしているもののまあ想定の範囲内。
思った以上にしんどいのが、人間関係が0からスタートということ。
人間関係がないと、表の調整はできるけど裏の調整ができない。
JTCなんて事前の段取りが9割なので、
・ 「〇〇の会議の非公式議事メモ入手しといて」みたいな上からのオーダーへの対応
・ 「今度うちの部長から〇〇の件でそちらの部長に話いくからそれとなく事前に話いれといて」みたいな根回し
こういった転職前であれば問題なく対応できていたことが(誰にお願いすればいいんだ...?)となり全くできない。
(もちろん転職前でも全ての部署に知り合いがいたわけでもないが、その部署の知ってるやつから「誰だったら話通じやすい?」みたいな事前リサーチができた)
そう、自分はこんな匿名ダイアリーを書くほどであるから基本的にコミュ力が低い。
仕事は人並みにできると思うので、前職では20年弱仕事してきてきた結果として人間関係があっただけであり、
転職先でサッと人間関係築けるようなコミュ力を持っていないことに気づいていなかった。
前職でも事業所をまたぐ転勤とかすると人間関係はほぼ0からのスタートとなっていた訳だが、
「転勤前の職場の上司が〇年前にお世話した人」みたいなのがいたりして、全く0ということは少なく、
そういったところを突破口にして人間関係を広げていったりしたものだった。
ただし転職ともなると本当に0からなので、思った以上にしんどい。
転職先は元々純血主義の強いJTCで、なんとなく世の中の人材不足的な流れの中で中途採用をはじめたっぽく、
「みんなが薄く知り合い」であることを前提で物事が進んでいる気がする。
JTCなので、先輩の仕事ぶりを見ていてもそこまで求められているレベルが高いとは思わない。
円滑に業務をまわすことこそが求められている風潮がある。だからこそ、それをできない自分がなんとももどかしい。
若い世代で転職が増えているというのは、そもそも人間関係の貯金がないというのも大きいだろう。
今の仕事は簡単に言えばデータ入力のようなもので正直誰でもできるし、そこまで難しくないと思う。
けれど見落としたり、思い込みで動いたりして変なものを作ってしまう。
手順を抜かしたり忘れたりはよくあるし、質問リストを作って管理してもよく考えず衝動的に質問してしまうので同じことを聞いて怒られたり。
何度か繰り返していれば慣れることもあるが、慣れる頃には案件が終わる時期だったりすることもよくある。結構案件によって細かい部分が変わるため新規案件のたびに1週間はごちゃごちゃとミスを繰り返している。
なんか私にだけあたり強いな……いじられキャラと思われてるのかな……と思ってたんだけど私の仕事ができなさすぎるからかも!と最近気づいてきた。遅すぎる。
あと人間関係の面でも、思い込みの激しさとプライドと攻撃性の高さからすぐに言い返したり言い訳をしてしまう。否定されるとヒスってしまい、その後私が悪いと気づいても口に出してしまってるしもう終わり。
同期は私よりも年下の人が多いが、とてもしっかりしていて、頭も良く、字が綺麗で羨ましい。私もどうにかしたい。
これまでの人生友達は少ないもののそこまで不自由せず大学院までスムーズに進学したが、所属したラボが結構ブラックなところで適応障害を起こし、精神科受診。その際発達障害の検査を勧められADHDと判明。
鬱の時は受けられないからと知能検査は受けてないんだけどワーキングメモリ低そうだよねとその時の主治医には言われた。
鬱がなんとなく治った気がしたのと、働いてないとおかしくなりそうだったから就職して、引越したから今は通院してない。
一番最初に派遣社員として働いてた時は遅刻とか社員証忘れが多いのを注意されてたものの業務は特に問題なく勧められていた(と自分の中では思っている)
その時は検査員をしていた。
その後正社員として今の会社にいるが、仕事内容があってないのか私が無能すぎるのかいつも怒られてるし誰とも仲良くないし早く辞めたいと思ってしまっている。
今の会社では遅刻しなくなったし社員証忘れる頻度も減ったので働くコツは掴めてきていると思うけれど、とにかく仕事ができない。
どうしたらいいんだ〜
まずはきちんと通院して服薬かな。でもちゃんとした保険入りたいから精神科通院歴作りたくないよ〜
助けてくれ
こっぴどく叱られて勢いで書いた文だけど色んな人に見てもらえたようで嬉しいです。
よくある反応に答えていきます。
・なんで通院&薬飲まないの?
適応障害とADHD診断受けてからまだ5年経ってなくてちゃんとした保険入ってから通院しようかなと思ってます。
あと生活圏内の精神科や心療内科は評判悪いところ以外初診受け付けてなかった。
学生の頃は結構黙々と作業するの得意だったのでいけるかな〜と思っちゃいました。
あと一応技術職として入社してて、色々と体制が変わり当初の予定よりもかなり事務っぽい仕事になっちゃったのはある。
・配信者やれば?
昔やってたことあってそれなりにいい思いもしたけど今からやるのはレッドオーシャンすぎない?
・営業向いてそう
性格がカス&不注意強めなので免許更新のたび違反者講習受けています。社用車で事故るの怖い!
・結婚しちゃえば?
一人暮らししてると、よくうっかりでボヤ起こしたり死にかけたりしたのでリスク管理としてかなりあり。
でもそれに巻き込まれても許してくれるような人はもっとちゃんと幸せになって欲しいから結婚はないな〜
これめっちゃやってます。心の中でやってるけど側から見るとぼーっとサボってるやつなので最近はわーっと書き出してる。
あと「何か忘れてることを忘れる」ので毎日なんでもない時間にアラームかけて行動振り返るようにしてます。ほんのりマシになっている気がする。続けよう。
これに関してはタイトルに「仕事ができないADHDを〜」って書いた私が悪いが、多分会社の人に嫌われてるのは注意欠陥によるミスの多さよりも性格に難があるからだと思う!
機嫌のいい人を心がけたいけど快不快関係なくリアクションがでかいのでフラットな対応ができない!あと多分被害妄想とかも酷い!本当はADHDよりも先に認知の歪み直したり思考を変えないといけないんだろうな〜とは思う。本とか読んでみます。
読もうとしてはあらすじに出てる「筆者の自我」にイライラしてあまり読めないからいつまでもアンガーのマネジメントができない。今度腹括って読んでみます。
以上!
書き出したりみなさんの意見聞くことで「このままでもいいか」と思えた部分もありましたが、やはり人に迷惑をかけまくってるな〜と実感できたので、高くてもいいから現状で入れそうな保険探して、保険に入れても入れなくても半年以内には通院(とできれば服薬も)できるように環境整えようと思います。
ありがとうございました。