はてなキーワード: 光と影とは
このアニメは女性の支持が強いが、その中でも屈指の人気を誇るキャラが五条悟だ。
実際、「五条悟の女」と自称する人がSNSに溢れかえっている。
そんな五条悟を演じた中村悠一は、2015年から放送していた「新妹魔王の契約者」の主演を務めていた。
このアニメは過激なお色気描写がある。深夜アニメに放送される過激なお色気描写は、テレビ放送時に光と影で規制されていて、AT-Xや円盤で解除される。お決まりのパターンだ。事実上のR指定ポルノアニメ。
イケメン声優がそんなポルノアニメに出演したことについて、なんでスキャンダルだと騒がないのかね。週刊誌のネタにはなるはずだ。こんなもの、黄色い声を浴びるイケメン俳優がAVに出演するのと一緒でしょ。
いきなり高い道具を買っても、基礎が無いと思い通りに描けているのか判断できないから、正しく設定できずにそれだけで疲れてしまうぞ。
目で見たまま鉛筆と紙でスケッチしまくる(目標1000枚)のが簡単で堅実な練習法だけど。
立体を写し取るのが難しければ有名な写真や絵をスケッチしてもいい(プロの構図は勉強になる、なぜそのモチーフと構図にしたのか?)。
とはいえ、理屈で納得したいように見受けられるので一冊お薦めしておく。
『線一本からはじめる 伝わる絵の描き方 ロジカルデッサンの技法』
芸術性よりもまずは思い通りに線を引くための教科書として使える。
仕事でも図解が苦手な部下に説明するときの参考にしてる(言葉にするのは意外と難しい)。
とりあえず思い通りの線を引ける、これがすごく大事。
線を引いてないと禁断症状が出るくらいに線を引く習慣をつける(電話中に無意識に落書きするくらい)。
文章を書く時、情景や感情などの構成要素を日本語として自分で解釈して書いているはずだ。
絵を描くときも「何でできているのか」構成要素を自分で解釈して線に落とし込む、思考方法は文章を書く時とそんなに変わらない。
上達のコツとしてはなるべく線を引かない(線の曖昧さを許さない)ように、光と影の境目だけ、最小限を目指すと構成の理解が早いと思う。
これにつきる
暑さと涼しさは光と影、涼しさは暑さからの落差でしか生じ得ない。夏場のコンビニに入ったとき、入店音とともに感じるあの人工的な冷気!エアコンの送風口の下に立って顔で受け止めるあの風!
家を出た瞬間に感じるあの熱気、温度だけじゃないというか、むしろ湿度がメインかもしれない。まとわりつくような暑さ、扇いだ風が意味をなさない無力感!日本の夏は…ゴミ
スイカたいしてうまくないはずなんだが夏に食うと異常にうまい。かつて下宿していた街のスーパーではスイカ4分の1個が200円しないくらいの値段で売られていて、学校帰りに買って食ったものだった。
マジでうるさい。遠くで聞いたり思い出したりするぶんには風情も感じられるが、森みたいな密度で植物が生えてるところにいくと本当に笑っちゃうくらいうるさい。バカが考えた最悪の虫
夏休みもはや関係なくなったのに世間は夏休みムードになるので心に毒。今年はコロナで破滅したみたいでよかったですね。といいつつわりとご愁傷様だなとも思う。6・3・3の12年(+大学なら16年)しかない青春時代の夏が消えるっていうのはドンマイ感あるぜ。
水道から出る水がすげえぬるい瞬間にかなり夏を感じる。家にこもってるのを貫通して夏を感じさせてくるので強い
最近刺されてないが、蚊に刺されるのは夏だよなあ。だいたい夕方〜夜にかけて出歩いて刺されるパターンで、夏の夕方〜夜にかけて出歩くのはわりと青春に直結しているので蚊に刺されることも青春に直結するということになってくる。でも絶滅はしてほしい
夏にやるなよ
行かない(むかしクラゲに刺されて溺れたので)
パインを筆頭とするトロピカルフレーバーのアイスなんかが売り場に乱舞!パイナップル、昔(18世期とか)はものすげえ高級品だったらしい
皮膚が剥がれたことがない。皮膚が強くてよかった
行ったことない
死んでほしい
夏にやるなよ
同上
魔法使いと副店長を読んだ。泣くわ、こんな話。物語における光と影の対比が終始絶妙で鮮やかな物語だった。
作者の越谷オサムは、似たような話として陽だまりの彼女を書いているけど、それより今作の方が面白かった。
冒頭、単身赴任中の中年男性のアパートに、見習い魔法使いのアリスが飛び込んでくる。続く、出会いのあれこれを描写した一連の流れは少々ありきたりで、事実を受け入れられない主人公の葛藤がわずらわしく感じられた。けれど、そこを乗り越えてからはするすると話にのめり込めたし、何度か目頭が熱くなった。
魔法界では落ちこぼれで、言動がいちいち幼稚すぎるアリス。武者修行のために、人間界にホームステイしに来た彼女が何者であるのかは早々に想像ができたし、物語の中盤では呆気なく明かされてしまう。けれども、それゆえに終盤での精神的な成長や、彼女が触れ合った人々との関係性が生きてくる。現代の社会が抱えている影を絶えず漂わせているキャラクターがいるからこそ、彼女が起こす魔法の数々がまばゆく映るお話だった。
エピローグには物悲しい雰囲気が静かに広がっていたように感じられたけれど、同時にこれからの人々の幸せを願う希望に満ちた終わり方でもあったと思う。
https://nyakapoko.github.io/post/10_engeki/
この記事、読み飛ばしてしまっているひとも多いと思うので、私の解釈で完結にまとめると、
2 演劇は他業種よりもクリティカルなダメージを負っている。他よりも援助が必要である。
3 専門分野ではないことについての言及を正確にするのはコストがかかる。
4 そのコストをケチって発言してもいいよね。だって困ってるんだし。
ということです。
だったら専門分野外のことについてワザワザ語らなければよいのではないか?
4を是とすれば、そのコストを聞き手、もしくは放言された当事者が負わなければいけないことがわからないのか。
そして、まさに現状がそれである、ということがわからないのか。
と思うところはたくさんですが、それより書きたいことがあります。
ただ酔っぱらっているのでしっかり書ききることができるのか少し不安です。
また、わたし自身、演劇についてたいして詳しくありません。なにぶん映像畑の分野なのでご了承ください。
まあ、そのコストをケチって発言してもいいよね。だってもやもやしてるんだし。
まず上のブログにある、演劇のコアの部分とは何かというと、観客との共犯関係なのですが、
これがライブで、そして観客の息遣いを感じられる距離でないと不可能であるという意見です。
これには一理あります。が、これが実際に“演劇”のコアなのか。
映画というのは、映像をつかってナラティブ(わかりやすく「物語る」と言い換えましょう)をすることと定義できますが映画狂から見れば、そうではありません。
(「いや映画は光と影で構成される芸術だ」という方もいらっしゃるでしょうが、今回はその定義を映像に渡してやって、映画の定義は狭くとらえます)
映画を観るというのは映画館で観る、もしくは”複数の観客がいる映像を主体とする場”で映画を観ることを、『映画を観る』と言います。
なぜなら、映画というのは観客と製作者との共犯関係にある芸術だからです。
例えば時代劇で、主人公と敵が刀に手を伸ばします。この画を1分間続けるとどうでしょうか、
映画館であれば観客は緊迫します。きっと固唾をのむことでしょう。
しかし、これスマートフォンのストリームだったらどうでしょうか。ダブルタップの15秒スキップかもしれません。
一緒に固唾をのむ観客がいない分、気持ち半分かもしれません。
映画と演劇は記録されたもの記憶されるものの違いがありますが、
観客との共犯関係で表現を強固にするのは、映画も演劇も変わりありません。
ブログではとても卑怯にも演劇とビデオという比較で書いていますが、
また映像芸術の中には特殊な上映形態をもって作品とするものもあります。
劇場でないと成り立たないのが演劇の特殊性とか馬鹿みたいなこと言っていますが。
むしろ、ライブで修正の効かない分、映画はどのように共犯関係を生み出すか、研究に研究を重ねております。
高級な映画(半分皮肉ですが)においては、視線誘導のため、まばたき一つ計算して撮影、編集しているわけです。
私は普段、何かの映画について話すとき、『映画そのもの』と、観客と生み出す共犯関係=『映画体験』をそれぞれ分けて話します。
演劇についても同じことが言えるのではないでしょうか。
上のブログの筆者が語るのは演劇体験についてです、これは確かに演劇を構成する一要素ですが、演劇そのものを単体としてみた場合に、
つまり、戯曲を演者がその身体性をもって物語るという行為についてですが、これはいったいそんなにも弱いものなのでしょうか?
身体というものには限界がありますが、その身体によって生み出される力強さというのは確かにあります。
現代舞踏なんてものはその身体という籠を生かした表現なわけでしょう。これは弱いものですか?
それを使って物語る。素晴らしいことじゃないですか。
演劇をライブで配信する。そこにはカメラがありスイッチャーがある。
ということは、それでもって映画体験の応用で演劇体験を、十分でなくても再現することはできませんか?
例えばブロードウェイの映像化なんてのは、セットを映像用に用意しカメラをかなり寄せて撮っているわけですが、
それでもあれを映画という人はいないでしょう、演劇であるという認識はしっかり与えることはできるわけです。
また演劇体験的なるものが本質になっているというので言えば、お笑いはどうでしょうか?
スポーツ選手のインタビューではよく魅せる試合なんてことが言われます。
それでも彼らは中継を行います。過去の試合の映像を販売します。
そういったことがもう何十年も前から行われている現代で、演劇は演劇体験なくして存在しないなんて本気でいってますか?
また演劇は映像にすると映画に食われてしまうなんて言ってますが、馬鹿じゃないのとしか思えません。
演劇はその身体に物語を預けていますが、映画は光と影に預けています。
映画の根本は影絵芝居といってもいいでしょう、影絵芝居は演劇に似ていますが、
影絵は物理的なものでなく、その像をうまく使えば、表現に限界はありません。
映画はその売れ筋として、マーケティング的に役者に頼ってることはあっても、大本の表現のベースとして役者や演技があるわけではありません。
勘違いしないでください。役者はあくまで影と光をフィルムに焼き付けるための遮蔽物にしかすぎません。
例えば先ほどのブロードウェイは演劇としましたが、ドッグヴィルはどうでしょうか?やはりドッグヴィル映画でしょう。
それはそれぞれ、映画として作られ、アニメとして作られたからに違いありません。
演劇として作られた映像が、映画に負けるだとか、勝つだとか、そういうことは絶対にありません。
演劇というのは、映画というより、むしろスポーツや音楽ライブの側なんですよ。
マシューボーンのなんちゃらと、タイガースの試合をまとめた奴と、ラッドピローズのライブ映像は一般の人からみたら同じ枠なんです。
で、それが映画と競り合ってるなんて印象はないです。初めから勝負なんて存在しないんです。
はっきりいってしまえばスポーツが無観客配信でなりたつというなら、演劇だって成り立ちます。
それが成り立たないというのは、おそらく上の文書にもある、演劇体験こそ演劇の本質であるという転換が原因じゃないでしょうか?
死にたくなってしまった。
もうだめだ
こんな真夜中にもすぐにLINEが返ってきた。
そういうあなたのことを分かってくれる人を見つける努力をしなよ、見つかるまではここにいていいよ、
もう俺にはできないよ、俺が全部悪いんでしょ、頼むから寝かせてよと同居人に言われ、私は散歩に出た。
実家に帰ったところで父はいてくれるけど、でも母親がいて、またアマゾンプライムで縄を買うってところまでは見えているのだ。
自分の母親が嫌いだから自分の家族を作りたいとそういうことも同居人にも伝えていたのだけれど
もうわからない、実家帰りなよと言われて、私が今まで伝えてきたことはなんだったのだろう。
私の言葉はどこへ行ってしまったのだろうと、言葉と一緒に身体もぽーんと空中に放たれてしまってああこのまま大気圏突破して燃えてしまいたいなどど耽っては泣いてふわふわと環七をさまよった。
通り過ぎていく光と影にいちいちびっくりしながら、胃痛にカフェオレを流し込んだ。
同居人に言われた悪い言葉たちばかりが頭の中を蠅のように飛び回ってしまっている。
「サボタージュ」、「間諜最後の日」、「平原児」、「西部戦線異状なし」、「祇園囃子(1934年)」、「祇園囃子(1953年)」、「雨月物語」、「東京物語」、「地獄門」、「青い山脈 」(1949年版)、「おかあさん」など
「ローマの休日」※、「戦争と平和」※、「シャレード」(1963年版)、「風と共に去りぬ」、「アフリカの女王」、「荒野のガンマン」、「ガンヒルの決斗」、「キリマンジャロの雪」、「エンブリヨ」、「ルーシー・ショー」、「ボナンザ」など
「セカンド・サイト光と影の中で(英語版)」、「ハングマン(英語版)
「カサブランカ」、「紳士は金髪がお好き」、「カンサス騎兵隊」、「片目のジャック」、「マクリントック」、「バリ島珍道中」、「雲流るるはてに」、「恋愛準決勝戦」、「白雪姫」
「岩窟の野獣」、「ガリバー旅行記」、「スーパーマン」(フライシャー・スタジオ製作分)、「ポパイ」(フライシャー・スタジオ製作分)、「まぼろし探偵」
「C.C.ライダー」
「シェーン」、「禁じられた遊び」、「オズの魔法使」、「凱旋門」(1948年版)、「イースター・パレード」、「雨に唄えば」、「真昼の決闘」、「ウィンチェスター銃'73」、「ピノキオ」、「バンビ」、「ファンタジア」、「ダンボ」
白米の友・日本漬物史。その光と影(近代食文化研究会)/そして「福神漬」とは何か? - Togetter
戦前のカツレツはフォークとナイフで食べます。ナイフで沢庵を刺し、それを齧って、ナイフでフォークからこそげ落とし、フォークでライスをすくう。非常に面倒くさいこととなります。
沢庵をあらかじめ細切れにしておけば、その様な手間が省けます。
しかし、1日1万食以上のカレーを売った阪急百貨店をはじめ、巨大食堂や須田町食堂のようなチェーン店では大量の漬物を毎日消費します。沢庵を細切れにする手間やコストも馬鹿になりません。
そもそも、一本のたくあん漬けを輪切りにする作業すら、漬物を大量に消費する大食堂やチェーン店では、手間や作業場やコストの問題にはねかえってきます。
余談ですが日露戦争において、漬物の主役が沢庵から福神漬に変更になった理由の一つが、戦場での兵士の手間の削減にあったのではないかと推測しています。
福神漬以外だと、刻み紅生姜はフォークやスプーン、らっきょう漬はスプーンですくいやすい漬物です。いずれも、カレーの薬味となりました。梅干しはスプーンですくえますが、種が厄介です。
今さっきのことなんだが
布団でうとうとしてたら、インターホンが鳴ったんだよ
普段だったら出ないけど、インターホン+結構でかいノックでしつこくて
あとつい数十分前に出かけに行った家族が戻ってきたかと思って、ドアまで行って覗き穴で確認したら知らないおばちゃんだった
寝起きパジャマ+髪ボサボサで出る訳にも行かなくてどうせ宗教勧誘かなんかだろうと思って戻ろうとしたんだ
ここまではいいんだけど
ドアって案外薄いし中の音とか聞こえたり、覗き穴も外から見ると光と影で中にいる人の動きが見えたりするじゃない?
覗き穴で覗く時に隣にある新聞紙の山をバサバサ音を立てて落として、動くに動けなくなった
外にいる人もそれで留守じゃないって分かったのかもしれない、インターホンをやめてノックだけになった
そして衝撃の言葉
「3階の○○ですけど」
それでも最初はシカトしてたし格好が格好なので出るわけにはいかなくてその場で石像のようになった
時が過ぎるのを待った
ひたすら待った
それでもなかなか行ってくれない
トイレ行きたいな...
まだかな...
ガチャ
(新聞受けを開けて覗く音)
もうどうしたらいいんだ、助けてくれ
ご近所さんなのに
なぜ新聞受けを開けて覗いた
いやそもそもなぜ私は出なかったんだ
あといい加減テレビドアホンつけたい
左派の価値観(https://anond.hatelabo.jp/20180120234044)を書いたおっさん増田っす。ダラダラ長い補足をつけるのは何なので放置していたんだけど、いくつか気になるブコメをつけていただいたので、続きというわけではなく別記事で書いてみたいと思うよ。
なるべく教科書的なおおよそのところを書くつもりだけど、やはり人間なので私見は入る。明確に個人の意見の場合はマーキングします。また左派/右派って分類は今回の場合そぐわないので、革新/保守と言う表記で書くよ。
『右翼も現状否定では一致してるからな、左翼のそれとなにが違うんだろ』
革新と保守の何が違うのか? どっちも「今の社会をより良い方向に一歩でもすすめる」という点では一致しているのにどこが違うの? っていう疑問はなかなか良い切り口だと思う。
教科書的な答えは「革新は(ある任意の)理想の状況や体勢に跳躍、急進しようとする」「保守は方向に進むにしても一歩ずつ漸進(ゆっくり進む)してゆく」なんだけど、まあ要するに違いは「アクセルの踏み方だけ」。もちろん現実的には進むべき理想の方向や、その方向に進むにしても進む方法の実現手段では様々に意見は割れるんだけど、そんなもの革新と呼ばれる人の中でも保守と呼ばれる人の中でもバラバラなので、革新と保守の違いは? といえばアクセルの踏み方くらい。
でも、「違いは速度感だけ」っていうと、凄く小さいことに聞こえるし、なんでそんなことで揉めてるかさっぱりわからないよね。
「長い歴史と非常に(っていうか非常識なまでに)ユーザーの多い複合型の巨大Webサービスが存在する。日常的なメンテやバックアップはあるのだけど、このサービスに対して現在のユーザー環境や競合サービスを鑑みて大規模改修を加えることになった。
なお、この大規模回収にあたってサービスの停止やユーザーに不利益を与えることは許されないとする。また別サービスを立ち上げてのテストやユーザーのサービス間移動も許されない。
方針A:サービスを機能ごとに切り分けて細かい部分を解析して、小さな改修を加えて、少しずつ改善していく。改善を繰り返す。
方針B:機能単位、あるいはサービス単位、あるいはそれらをより大きな範囲でコードを新作してブロックごとまるっと入れ替える。」
方針Aが保守と呼ばれている思想で、方針Bが革新と言われている思想。
こうしてみると「AとBってぜんぜん違うじゃんよ!?」ってなるとおもう。主に現場の悲鳴的な意味で。
他の競合サービスへのキャッチアップや理想の快適サービスを目指すのであれば、たしかにBが良い。最近開発された新技術も突っ込めるし、技術的負債の返済もできそう。だけど、Bでなんかトラブったときの災害ってAの比ではない……。でも競合サービスに勝つため、あるいは環境変化に追従するためにどうしてもBを選ばなきゃならんこともままあるわけで……。そもそもAではなくBでしかたどり着けないサービス設計の方針転換だってある。
じゃあAの、つまり保守の言い分ってのは何なのか? と考えると「人間の集団(および集団の作るもの)なんて絶対ろくでもないアホやアホミスが混じってるものなんだから、いきなりすごいことしようとしてもコケるんだよ。今現在サービスは稼働してるんだからゆっくり進んでいくしかないんだよ」というもの。
例えておいてなんだけど国家というのはWebサービスと違って逃げ場がない。他サービスに移住とか容易く出来ないし、サービスが停止あるいは混乱したらすごい大きな迷惑がかかる。死人とか出ちゃう。だから、ゆっくり行こうぜ。と。
保守のこの言い分は説得力がある。人間は数が増えれば増えるほどカオスになっていっちゃう生き物だからだ。
革新(この場合は左派やリベラルも)は「みんなから見て素晴らしいこの理想を見せれば、その素晴らしさを理解したみんなは協力してくれるから、この理想は実現するはずだ」という理想主義ともいえる無邪気な思いを持っている。それそのものはそこまで間違ってるわけじゃない。明るい未来のビジョンも見せずに人がついてくるかと言えばNoなので、理想を見せるというのはとても重要だ。
その一方で、理想に耽溺しちゃうと説得する手間を惜しむようになる。程度の低いリベラルは「正しい理想はこれなのになんであなたはそれが分からないの? バカなの? 死ねば?」みたいな態度になりがちだ(あえて例は挙げないけどみんな心当たりあると思う)。
そこへ行くと保守というのは「人間は全員バカなので正しい理屈が他者に必ず認められるとは限らないし、ましてやそれが正しい設計や正しい実装として実現されるとも限らない。失敗前提でいくしかない」という、ある現実的な、ある意味非常に後ろ向きとも言える考えを持っている。
だが一方で、保守のその後ろ向きさは「俺はバカだしあんたも多分バカなので、今俺が考えてることを理解してもらうためには手間ひまかけて説得しなきゃならん(それでもうまくいくかどうかは賭けである)」という考えも内包している。つまり、説得したり協力したり、時には泥臭く妥協したり、薄々間違っていると思うことでも頭を下げたりすることを前提としているのだ。
私見だけど、自民党という政党が歴史とか規模において他よりの一歩抜きん出た存在になったのは、まさにこの「説得の手間ひまを惜しまない文化、意見細部は異なる他人同士が同じ舟に乗るというノウハウを持った」という理由によると思う。これがすなわち思想的政治的な正しさを保証するわけではないけれど、多人数が話し合うという政治の現場に対して技術力があるという言い方は出来るだろう。
今の日本は概ね保守な方向の国だと思うのだけど、じゃあ、この記事で説明した保守という思想に弱点がないのか? といえばそんなこともない。
革新が原理主義と相性が良くてダークサイド落ちしやすいように、保守も泣き所がある。それはおおざっぱにいえば「怠惰」だ。
「今現在サービスが稼働してて、変な改修をするとサービスが悪化するかもしれない」という考えは、一歩間違えれば容易く「今動いてるんだからこのままでいいじゃんよ」になりうる。そんな風にメンテをサボったシステムはリスクで膨れ上がる爆弾みたいなものだ。
また同じように「更新を停止して監視が緩んだシステム」は既得権益の温床になる。特定ユーザーが利益を受けたり、地位に居座ったりすることが固定化されてしまう。
この怠惰は話し合いの場にも及ぶ。「アホ同士の話し合いなんてどうせ完全な合意や完全な正解はないんだから、話し合いの内容なんて適当に打ち切って地位が上の人の命令に従えよ」という怠惰は、本当に発生しやすい。妥協が必要だっていうのは保守の言い分なのだけど、妥協し過ぎという怠惰には目も当てられない。
これらの怠惰と保守思想は本当に相性が良い。世襲制や不顕性のつい良い地方農村的な自治体とか、血族経営の企業とか。
しかし、左派がそうであるように「保守の綱紀を引き締めるのもやはり保守」であるはずだ。
そもそも、保守の真骨頂は「たゆまぬ、あきらめぬ」ことにある。
「社会をより良い方向に一歩でもすすめる」に関して、その理想の輝かしさは革新>保守だ。実現の確度を度外視して「一番良い理想をくれ!」で動ける革新に、保守はキラキラでは勝てるはずがないのだ。そういう革新の優位性にたいして保守ができる返答は「たゆまぬこと、あきらめぬこと」でしかない。
一歩一歩は小さくても、「ずっと歩き続ける」「不断の改善を続ける」「さぼらない」ことが保守思想の本質的な光だ。
その意味保守は「議論をつくす」と胸を張るべきだし、自分がメンテするシステムの監視を厳しくすべきだ。「相手が自分とは全く思想の違う存在でも、ギリギリのギリギリまで説得を続ける」という汗のかき方が保守の美徳であるはずなので、保守的には「むしろ議論バッチコイ!」くらいが健康的だと思うよ。
■この記事のテーマ:私の母校の薙刀部が漫画のモデルになった事実を基に、運動部漫画と現実の運動部の違い、運動部の光と影についてを書いた。
(文化部にも言えることとは思う)
その2:部活の活動時間・日数(あくまでも一般論として親のサポートと部活熱心な顧問の実態についても書いた)
■書いた目的:小中高校生とその保護者に「部活選びは将来の進路のことも見据えて慎重に考えて欲しい」と伝えるため
====================================================
今年2017年に舞台化、映画化された漫画『あさひなぐ』の薙刀部のモデルとなったのは私の出身高校の薙刀部だ。
私は『あさひなぐ』を読んでない(観てない)けど、ネットであらすじを読む限りは爽やかで熱い運動部漫画という印象を受けた。
野球にせよサッカーにせよ何にせよ運動部漫画は、運動部のきれいな部分しか見せない。
■飲酒について
時々ニュースになる先輩から後輩への暴力、指導者から生徒への暴力(いわゆる体罰)、生徒の飲酒喫煙などはまず扱われない。
先輩後輩間の暴力と顧問やOGの体罰というのは聞いたことはないが、薙刀部所属の生徒複数人は高校生(未成年)のうちに飲酒していた(喫煙は聞いたことがないし見たこともないが)。
私が知っているのは学校行事の打ち上げ(夕食会)のことであり部活関係で飲酒があったかは知らない。
しかし時・所が部活とは関係なくても未成年の飲酒は犯罪だ(軽犯罪だが)。
私も含めて先生にちくる人が誰もいなかったから彼女達は退学や停学にもならないどころか部活も引退まで続けていられた。
彼女達が飲酒していた証拠はない。少なくとも私は持っていない。
私は母校の薙刀部もしくは母校全般を貶めるためにこれを書いたのでは全くない。同様に『あさひなぐ』という作品とその関係者を貶める意図も全くない。
「部活を頑張っている高校生(未成年)が裏で飲酒や喫煙、いじめや後輩への暴行をしているというのは、特定の学校や特定の部活に限った話ではない」ということを言いたかったから書いたのだ。
部活の活動時間の長さ、活動日数の多さについても、部活漫画で触れられることはほとんどないと思われる。
(ちゃんと調べたことはないが)
多くの教師がTwitterなどで発言したり、マスコミが報道するようになって段々有名にはなってきたけど、今の部活の活動時間はとにかく長いし、活動日数も多い。
土日のどちらか1日は休みだったのか、土日両日が部活だったのかまでは知らない。
先生にも親戚付き合いはあるだろうし。
正直なところ、大学進学を目指すならこういう部活と勉強を両立させるのはすごく大変だ。
両立して、学年トップクラスの成績を維持するような生徒もいたが稀な存在だった。
薙刀部の部員ではなかったけど、同じぐらい忙しい部活に入っていて、勉強は試験1週間前から慌てて始める生徒達も高校にいた。
そういう生徒はさほど珍しい存在ではなかった。
『あさひなぐ』に限らず部活を扱った漫画等の影響でその部活をやりたがる小中高校生は多いだろう。
それ自体は悪いことではないけど、自分が卒業後(または将来)どうしたいのか(具体的に言うとどんな職業に就きたいか。高校受験や大学受験の場合はどんな学校に行きたいか)きちんと考えて、親ともよく相談して入部するか否かを決めて欲しい。
部活って、一度入ると辞めたくなっても辞めづらいので。
そうして悩んでいる間に勉強が疎かになって行きたい高校や大学に受かりにくくなってしまったら、時間の無駄なんじゃないかなと思う。
AO入試またはスポーツ推薦入学という手段もあるので、卒業さえすれば勉強できなくてもいいかもしれない(極論だが)。
私は今の入試のことは何も知らないので、入試のことも含めて親と相談してから入部を決めて欲しい。
■親のサポートについて
話は逸れるが親(ほとんどの場合母親)も子どもが運動部に入ると、朝練や土日の練習に間に合うようにお弁当作ったり、ユニフォーム洗濯したり、部費を支払ったり、大会の送迎・応援に行ったりと、子どもの部活関係の仕事が増える。
そういう意味でも生徒の皆さんは忙しい部活に入る場合は必ず親(ほとんどの場合母親)に相談して理解を得てから入部して欲しい。
母親が外で働いていようが専業主婦だろうが、母親にも母親の人生がある。
大抵の親は子どものやりたい事をサポートしてくれるものだが、だからといって甘えないように(既に理解していたらお小言すみません)。
親にとって部活関係の仕事が大きな負担で、やりたくてもできないケースもあるのだから。
どこの部活の顧問かは書かないけど、部活が教師という職業のやりがいになっているかのような顧問は何人かいた。
そういう先生方は生徒・学生時代からその部活をしていて、部活の顧問になりたくて教師になった様子だった。
うち2人は体育教師。
母校に限らず、体育教師には部活の顧問になりたくて教師になった(体育大学に入った)人が全国的に多いんじゃないかと思う。
近年ネットでもそういう体育教師がいるって話を読んだことがある。
いや、体育以外の教師にも特定の部活の顧問になりたくて教師になった方もいるようだが。
しかし、国語や数学、英語なら入試に関わるから生徒や保護者から分かりやすい授業や学力向上や進学実績を求められるけど、体育は違う。
小学校ならまだしも、高校ともなれば生徒本人も運動ができない事を改善しようとしなくなるし(少なくとも私の目にはそう見えた)、保護者もそういう要望を体育教師にはしない。
部活以外の生徒及び保護者からあれこれ言われないから、部活の顧問に力を入れるなら教科は体育(もしくは音感や技術家庭など実技全般)が適任なんだろう。
そういう部活の顧問は、部活を生き甲斐にするタイプであることが多いだろう。
(部活にあまり興味ないけど保護者や生徒の要望で活動日数を増やしているケースもあるだろうが)
先生にとって部活が生き甲斐なら土日や夏休みが練習でも平気、それどころか嬉しいのだろうけど
活動日数や長時間の練習が負担になり苦悩する生徒もいるし、子どもの部活をサポートするのを負担に思う親もいる。
そういう生徒や保護者は珍しくはない。
私は『あさひなぐ』のモデルとなった薙刀部を(部員ではなかったが、同じ学校に在学して)知っている。
だからこそ漫画で描かれる運動部と、現実の運動部の違いを(運動部の光と影と言ってもいいが)、小中高校生に知って欲しい。
母校の薙刀部に限らず、運動部・文化部を問わず、部活に入る前は活動日数や時間の長さ、先輩達が飲酒喫煙や暴力に手を染めていないか、先生のパワハラ(体罰含む)を可能な限り調べて欲しい(生徒だけでなく保護者も)。
入部する前に親子でよく話し合って欲しい。
私個人的には部活をする学校生活は良い物だと思うし、本人にやる気があって部活に打ち込む中高生を悪くは思わない。
部活で勉強が疎かになり受験や就職試験に落ちたら、その人にとって部活は弊害だったと言わざるを得ない。
すぐには答えが出ないことだが、中高生のうちに「自分は将来何になりたいのか、どんな人生を送りたいのか」をよく考えて欲しい。
将来の目標や卒業後の進路に、特定の部活が必要なのかよく考えて、親ともよく相談して欲しい。
部活でやった事を将来の仕事(スポーツ選手や演奏家など)にできる人は少ない。
しかし、部活をやることで勉強が疎かになったり、健康を損ねること(多すぎる練習や飲酒喫煙などで)になるんだったら、その部活には入らない(続けない)方がいいと個人的には思う。
繰り返しになるが、私は母校の薙刀部もしくは母校全\般を貶めるためにこれを書いたのでは全くない。同様に『あさひなぐ』という作品とその関係者を貶める意図も全くない。
多くの漫画では描かれることがない「部活の実態」を伝えることで、小中高校生とその保護者に後悔のない選択をして欲しいと思い書いた。
(『忙しい部活に入るな』って意味ではありません。プロ野球選手になりたい少年には野球部が必要であるように、部活が子どもの将来に必要なら是非入部して欲しいと個人的には思っています)
なお、母校の名前は書かないでおく。
今の薙刀部のことは全く知らないし、現役の生徒達がかわいそうなので。
都立校、とだけは明かしておく。
学校の公式サイトの薙刀部のページにも『あさひなぐ』の薙刀部のモデルはウチだという主旨のことが書かれているし、検索すればすぐに分かりますよ。
それは誰の目から見ても歪で理解不能で人前にさらせないモノのなので、
私の潜在意識は蓋を固く閉じる。
だが、そんな歪な自分を傍において、様々な角度から照明を当てて
過去にSNSというこの時代の発信方を通して様々な人間と関わってきた。
それぞれが光を一切見失いそうな闇を隠し持って当たり前のように生きていた。
『 お前も人殺しなのか?』と問われることもあれば
親に捨てられた過去に縛られ、妻子と家族団らんの時間が辛くて耐えられないのだと、
大方、一般の人間には理解できない苦しみを訴えてきている人物もいた。
嘘か真実か知る由もないが、明らかにそういった闇をかかえた人間はこの世に五万といるだろう。
誰もが人に言えない秘密を幾つか胸の内に抱え
それを隠すことは何よりも大切な生きる上での処世術であるがゆえに
隠す技術を磨くことばかり、巧みになっていく。
それでも、薄汚れて懸命に何かを掴もうとしていた愚かな自分を受け入れて
常に傍らに置きたい。
そう思えるのは、SNSで今まで関わってきた男達のおかげだ。
人が一生の中で手にできる事は限られている。
光が欲しくて、闇に手を伸ばす人間の弱さを私はもう笑うことは出来ない。
絵には全く興味はないが、女の子が仲間由紀恵似で可愛かったので冷やかしがてら見てみた。
すると、
仲間「いかがですか?」
俺「ああ、いいね。この、い、い、陰影が。」
仲間「ありがとうございます。そこの光と影の部分は気に入ってるんです。」
と、俺の頭頂部を見ながら言った。
なに、陰影って言ってるのになんで光と影って言い直したんだ。
やっぱりバレてるのか。
新しいズラを新調したのに。
この女まるっとお見通しなのか。
俺「ここの光沢感がまたいいね。」
仲間「ここは敢えてツルツルさせてるんですよ。」
うお、今度は直球か。
俺の目の前でツルツルとか言ってきやがった。
「小さなお子様 ズラのお客様はベルトにおつかまり、黄色い線の内側にお乗りください。」
だと。
W杯で初戦、南アフリカを破って日本中を湧かせたエディーJAPANが、予選リーグ3勝という史上初の快挙を達した結果、惜しくも舞台を去ることとなった。
この感動はきっと日本中、いや、世界のラグビーファンにとって忘れえぬ、ブレイブ・ブロッサムズの名に恥じぬ歴史的な快挙だと言えよう。
しかし。この勝利の影に隠された恐るべき事実から、お前たち日本人は目を逸らそうとしているのだ。
わたしは知っている。
外国籍の、それもアジアの国々の選手を強制的に、おそらくは暴力を使って徴用し、自国の戦力として組み入れる。
汚らわしい軍国主義の象徴である日の丸の国旗を掲げ、そして、天皇カルト礼賛のおぞましき国歌、君が代を唄わせる。
いくらこの事実を指摘しようとも「ラグビーってそういうものだから」と、いっこうに耳を傾けようとはしないのだ。
こいつらは「ゴール裏はオレたちの聖地、朝鮮人を叩き出せ KILL ALL KOREANS」というあの横断幕を堂々と掲示したサッカーJリーグ、浦和レッドダイヤモンズとまったく同一の存在である。
やばい。これは本当に泣ける。
蹲り地面ばかりを見ている視野は自身の影ばかり見つめ遥かな理想はもう空想の域を超えた願望と化して墜落し勝手に絶望している様が、話しかけてくる人物が男性であることと無骨な語り口調で伺える。
事情を飲み込んだ男性の説明が自身の立場および経験談から協調同和にて語るのもその人物の背景説明につながる導線となる先に悲しみが予想され切なさを誘う。
人が生命として活動する基本を関係的同意にしようと要望する下りから世界が急転する。
女の子が自分の影の中の世界ばかりみて勝手に絶望し触れもしない外界に絶望していたのが、こんどは勝手に他人の容姿に絶望し始める。
女の子自身の生きている意味は何なのか、目的は何なのか、女の子という存在はその存在たらしめる世界において何なのかという問い、存在自体への回答をすべて投げ捨てて意味のないものとする瞬間。
否定文を作成するたびに存在の意味や理由が失われていくその様。
完全に自殺していた、という状況。
他人にさそわれて、他人の主導で選択肢を作成し誘導されるままについていくことが自殺の回避になるという幻想を打ち砕くもの。
人が人の姿でありあるがままを問うたら、発生した初めての選択。
女の子は断るという選択肢を得て、自分の足で自分の選択肢をもつことができたという段階への移行。
本当に世の美を救い成り立たせ希望をもたせているのは世にある不細工であるということ、目に映る像とは影があるからこそ認識できるということ、夜のない世界は地獄だということ。
光と影が表裏一体などという単語は知りえていてもそれを理と理解するにはほど遠い難解なたとえをさらりと体現する。
そして全体として、視野狭窄にあった自意識過剰な女の子は、世界を見て世界を知り世界にむかって自己の存在を選択するということで立証していくことになる。
けれども、それは自分は着せ替え人形のお人形さんのようなものでヒロインプリンセスになるだろうという幻惑に囚われたまま、世界の存在と認識が乖離していくがままとなる様子もうかがえる。
世界の美であるもの、かわいくあるものは理想郷へと不細工により追い立てられ、他人に指図されるしか選択肢を持ち合わせていないものほど自分の意思があると強調し反発をするという比喩がたったこれだけの中に凝縮されている。
写真ノウハウ的な記事を最近やたらと目にしたのだけど、どこにも触れてなかった(ような気がした)のがダイナミックレンジという尺度だった。
これはカメラの持つ性能によって顕著な差がでるわけだけど、一番明るい部分から一番暗い部分までを再現できる性能だと思って欲しい。
人間の目には明暗の差こそあれど外の風景も室内の窓の周辺も同時に認識することができる。
窓の外を写そうとすれば室内は黒く潰れてしまい、室内を写そうとすれば窓の外は白く飛んで写ってしまう。
この、最も明るい部分と最も暗い部分の落差をダイナミックレンジと呼び、その中で写すことのできる明暗差の広さがそのカメラがもつ性能の一つであり価格に色濃く反映される部分でもある。
あなたは人物を撮影するときに逆行と順光のどちらを選ぶだろうか。
この質問は、その人の写真に対する理解度を知る上でとても有効だ。
何故なら、ある程度の成熟した腕を持った人間であれば、よほどの状況を除いて逆光と答えるからである。
逆光で撮影したら人の顔が影になって何も写らないと思ったあなたは、露出に対する理解を深めて是非写真技術の向上に努めてほしい。
Hyper Dynamic Rangeのそれぞれ頭文字を略したもので、文字通り超越したダイナミックレンジを表現するための技法だ。
一枚の写真からそのような表現をする場合もあるが、主に露出の異なる複数の写真を合成することで、白飛び・黒つぶれなく広い明暗差を再現しようという技術だ。
時にそうした明暗差が収まっている様子や色彩がデフォルメされることなどから絵画的な表現をするときにも用いられていたが、あくまで目的はダイナミックレンジを広げようということが根底にある。
昨今ではセンサーが改良されてきたことで、エントリー機においても以前では想像できないようなダイナミックレンジをもつ機種も登場するようになってきたが、基本的にはセンサーサイズに比例しやすい技術のため、コンデジやスマートフォンカメラにおいてはまだまだダイナミックレンジの限界を痛感する場面が多い。
さて、ここまでダイナミックレンジとは何かを書き連ねてきたが、写真技術の習熟度における白飛びと黒つぶれのなさは非常に重要だ。
最近ではレタッチソフトによって撮影後でもいくらでも修復が出来てしまえるように思えるのだが、残念ながらそこで失われてしまうのは豊かな階調だ。
とくに人間の肌ではちょっとしたノイズが作品の出来を左右してしまう。
後で無理矢理にレタッチするにしても、もともとの露出を理解できているのといないのとでは大きな違いがある。
写真技術をいまより向上したい、とくに濃淡や階調の豊かさをもっと表現したいと思うのであれば、このダイナミックレンジという言葉をよく理解して欲しい。
それはカメラの性能によって大きく異なるものであり、それの傾向を理解することができればカメラの性能に合わせた撮影が可能になるからだ。
その手始めとして、日中の人物を逆光で撮影するにあたって身につけて欲しい技術に日中シンクロというものがある。
日中の日が照りつける中、人物に向かってフラッシュをたいて撮影するという技術だ。
これを身につけることで、逆光の人物の顔が黒く潰れてしまうことを回避することができる。
つまりは黒つぶれしてしまうだろう部分に光をあてることによって背景の明るい部分との明暗差を減らしダイナミックレンジに収めてしまおうというテクニックなのだ。
この説明でピンときたあなたはもうダイナミックレンジという言葉の半分を理解できたようなものといっていいだろう。
完成度の高い写真は、どれも当然のようにダイナミックレンジを理解した上に成り立っているといって過言ではないだろう。
そこにある被写体にただがむしゃらにシャッターを切るのではなく、被写体を取り巻く光と影に目を向けることでダイナミックレンジに収まるように撮り方を工夫することだってできるのだ。
手ブレ・被写体ブレを恐れるがあまり、思考停止状態でフラッシュを使ってしまってはいないだろうか。
ダイナミックレンジを理解できてはじめて、あなたのフラッシュはあなたの写真をよりよく演出する素晴らしい道具へと進化してくれることだろう。
自分にとってはこのダイナミックレンジを体感的に理解できた時が写真品質向上の大いなるブレイクスルーポイントとなったのだが諸先輩方においてはいかがだったのだろうか。
dg_lawとのやりとり。一番最新。結構強烈。この定義だと私ももれなくレイシスト。
そのちょっと前に話題になっていたもの。ブクマページで「シャベッタアアァァァ」的なコメントがある。やはり珍しいようだ。
今度はscopedogのブログ。どうも、フェミ、政治にアンテナを張っているようにみえる。
2013/05/17 09:58 共産、社民党以外の国会議員を全員殺すくらいしないと、この国が立ち直るのは不可能でしょう。
Apemanのエントリにも登場。相手にされていなくて、ちょっとかわいそうだと思った。
2012/12/04 20:11 わたしは南京虐殺は100万人規模だと思っていますし、
それについて日本政府は永久に謝罪を続けるべきだと思いますし、
日本の国旗は日の丸にバッテンをつけた屈辱的なものに変更すべきだと思います。
2012/12/04 20:19 すみません、「屈辱的」というのは語弊があるかもしれません。
ネトウヨや橋下・石原や自民党の老人たちにとって屈辱的だろう、という程度の意味です。
個人的には国旗(国家)なんてなくしてもいいんじゃないかと思います。
オリンピック等も参加しなければいいだけですし。
hagexの記事にも現れる。これは例の岩手県議の自殺の件。あれから1年が経つ。
死んで当然だし死んでよかったとしか思わないですね今回の件は。
コンサルは仕事をする能力より仕事を取る能力のほうが大事なのか
(削除済。記事内容はコメントより「ああ、あの記事か」と各自お察しください。)
kiya2015 2014/02/04 11:33 有村にも言えるがリボ払い地獄に陥ってしまうような前頭葉機能不全者が天下国家を批判する資格はない。
bogus-simotukareとのやりとりが見られる貴重なページ。
2013/07/22 11:31 わたしも選挙区比例とも共産党に入れましたし、共産党の躍進が良いことであるのは間違いないのですが、
これでもまだ大惨敗した民主党17に対し共産党8でしかないというのはひとつの現実でしょう。
今度は打って変わってnoiehoieのブログ。穏当だと思う。
2013/05/14 11:03 ドライで普通な人びとは政治の話題なんかに首突っ込まずに自分自身の小市民的な幸福を維持することに注力していると思われます。
だってね、政権が自民か民主かとか右翼と左翼の政治的争いより、愛する人や家族と上手くいっているか、仕事が順調か、のほうが遙かに重要ですもん。人生にとって。
「はてサ」と括らずに個々の論者に取り上げるべきと言われたのでやってみた
2012/12/02 00:42 自分ははてサ全般好きじゃないですが、彼らを説得するなんて2chのまとめサイトにいるネット右翼を説得するのと同様に不可能だと思うので、なぜkanoseさんがこんな無駄なことに労力を割いているのか不思議です。
インターネットはかつては集合知を実現し社会を変革する強力な手段と期待されていました(自分も期待していました)が、現実は炎上マーケティングと進歩しないライフハックとありきたりな思想長文とSNSでの表層的なコミュニケーションしか生み出しませんでした。インターネットから生まれた運動も、フジテレビデモにしろ官邸デモにしろ(ウォール街デモですら)社会をいささかも変えませんでした。
ここで、村長に辿り着いた。すべては、やはりkanoseにつながっているのだろうか。現時点(同日14:00頃)で、すでに村長の観測範囲に補足(ブクマ)されている。
どうもお久しぶりです。元気なようでよかったです。
相手を説得できるとは思っていませんが、こういう事例があったという記録はしたかったというところです。
kiya2015 さんはネットでひどい目にあったから、ネットに不信感を持つのはよくわかります。同様にひどい目にあった人もあるでしょうが、同時にネットは強力なツールの部分もあると考えています。強力な道具にはどうしても光と影ががあると思います。
kiya2015氏はかつてネットでひどい目にあったという。これは、http://anond.hatelabo.jp/20140526231242の記事にあるkiya2014の存在が抹殺されたこととつながりがあるのだろうか。
謎は深まるばかりである。