はてなキーワード: 先生きのこるとは
http://anond.hatelabo.jp/20090917111551
を書いた増田です。
実は、教育係の先輩のことを改めてよく考えてみると、気づくことがあったのでエントリーします。
気づいたことというのは、先輩は「配列型の記憶方式」を持つ人で、私は「ツリー型の記憶方式」を持つ人だということです。
例えば私が「りんごとは何ですか?」と聞いた場合、先輩は「りんごは赤くて甘いものだよ」と
答えます(私は「りんごは果物」っていう答えが知りたいのに)。
さらに私が「みかんとはどう違うんですか?」と聞いても先輩は「みかんは黄色くてすっぱいんだよ」と答えます。
私はりんごとみかんの関係性が知りたいのに、先輩はそのことに無頓着です。
このことを私なりに考えてみました。
先輩はたぶん、りんごとみかんが同じ「果物」というくくりに入ることに興味がないんじゃないかと思います。
「りんごは赤くて甘いもの」「みかんは黄色くてすっぱいもの」ということさえ知っていれば
そうすると、先輩にとっては「りんごは果物」ということは知らなくていいことです。
とすれば、逆に、私はなぜ「りんごは果物」ということを知りたがるのでしょうか?
これは私の「記憶方式」が「ツリー型」だからなんじゃないかと思うのです。
私は「りんごは赤くて甘いもの」ということを教えてもらう場合、そのことを記憶しようとします。
問題はそれをどこに記憶するかです。パソコンで例えると、新しいファイルをもらったときに
どのフォルダに入れようかと考えるのと似ています。
このように、記憶の方式がパソコンのファイル管理のようにツリー型になっている人のことを
「ツリー型の記憶方式」と呼ぶことにします。
記憶方式がツリー型の人は、「りんごは赤くて甘いもの」ということを知ると、その記憶をどこに格納するのか
が問題になります。つまり「りんごは果物」ということを知りたがるのです。
一方、パソコンの例えで言うと、新しいファイルをもらった時に、
デスクトップにどんどん貼り付けていく人がいます。
こういうふうな人のことを「配列型の記憶方式」と呼ぶことにします。
先輩はこのタイプの人なのではないかと思うのです。
「りんごは赤くて甘いもの」ということを知ったら、デスクトップに貼り付ける。
だから「りんごは果物」ということについてまったく興味がないのです。
これが私なりに分析した結果ですが、これがわかったところでどうしようもありません。
配列型に対してツリー型は記憶にワンステップ多く必要なのですから、どうしても不利です。
留学を批判する上記増田記事だが、内容よりもまず目を覆わんばかりの日本語表現のつたなさに軽く目眩を感じる。それはまた『文法的には誤りではないものの日本語的ではない』表現が余りにも多いせいでもある。とてもネイティブの書いた日本語とは思えん。英語で書いて機械翻訳したものをベースに書いている感じがする。
一応以下に修正案を提示する。「○」が原文、「→」が修正案である。
[前文]
○個人的には見識を広めるというのも一つの利点であることは否めない。
→「ことを認めるのは吝かではない」または「と思う」で良い。「個人的」と「否めない」は不調和。
○だが、しかしながら…少し反対である。
→逆接を重ねるのは否定を強める場合なので、文末に「少し」がくるのはおかしい。「少し」だけ反対なら、逆接を重ねるような大げさな表現をする意味がない。
○もし君が…なのではないかと私は疑う。
→「と私は疑う」は、日本語的表現の場合、大抵は不要。ちなみに、その次の一文「アメリカ人でXXな連中は……たいてい□□する連中だ」などにも見られるこの手の『英語的重複表現』があなたの文章にはとても多い。日本語ネイティブなら、そこは普通「アメリカ人でXXな連中は……たいてい□□する」という。
○「確かに遥かに羨望に値するぐらい勉強をしないで私より良い成績を残す人はいる。」
→日本語ならこれは一文でなく二文に分けて表現した方が良い。例「確かに、私より遙かに勉強しないのに良い成績を残す人はいる。そんな人を羨ましく感じないでもない。」
○「不幸なことに…」から始まる段落
→この段落はことにひどい。日本語の文章を意識しない翻訳調が、(たとえば「しかし」の重複、未来形が推量(義務)の助動詞に置き換わることへの無配慮、など)文章の意味自体を破綻させている。完全に再考(再訳?)を求めたい文章。ちなみに「…授業の参加しなくても卒業できるように…」は「に」の間違いだろう。常識的に考えれば。(ついでながら、この「の」と「に」の誤用は、このあとも執拗に登場する。あなたの使っている翻訳ソフト(たとえそれが脳内ソフトでも)を修正した方がよい。)
○「もし君の母国が英語であったならば」
→おそらく多くの人が突っ込むと思うが、「母語、母国語」と言うべきだろう。この誤った表現は繰り返し用いられているため単なるケアレスミスではないと思われる。
○「だが日本の高校を出て大学受験をしていた君には、そして私には簡単は簡単ではないし、なかった。」
→翻訳調過ぎる。「だが日本で高校を出て大学受験をした人間には――あなたと同様、私にとっても簡単なことではなかった。」で良い。
○「年間安くても250万以上かかる留学を少なくとも4年するわけだ。それはとても安くはない。」
→これはもはや日本語ではない。修正案「それはとても安いとは言えない額だ。」(注:この「とても」は『途轍もなく』から来た副詞veryではなく、『とてもかくても』の省略形であるところの呼応の副詞でneverの意。)
→「課せられる」。百歩譲って「課される」。
○「勉強をしないという選択は甘美なほどに甘い選択だ。」
→『あなた自分が何を書いているか分かってますか?』と聞きたいレベルの重複。「甘美だ」で良い。
○「君は最初の1年を乗り越えられれば…君はたぶん生き残ることができるかもしれない。」
→冒頭の「君は」及び文中の「たぶん」を削除すれば、まだ読めるレベル。
○「だが君は本当に生き残られるのか?」
→ティス ティーチャー マスト ビー シャンピニオン(『この先生きのこる』)…という冗談はさておいて、「ら」を抜く、または「生き残ることができるのか?」とした方が良い。
○「授業で全く内容を触れられなかった悲しみを君は耐えれるのか?」
→ネイティブならそこは「悲しみに」だよね。この人、本当に「に」が苦手だね。ちなみに耐え『られる』だね。
○「君の懐かしい友達は簡単なモラトリアムを謳歌しているのを聞いて君は耐えられるのか?」
→「は」の重複があると文意が不明になる。友達「が」が適切。
○「たぶんだが君は宿題を諦めて寝ているか諦めないで宿題と云う名の怪物に挑んでいるかだ。」
→これは単なる悪文。「たぶん君は宿題という名の怪物に挑んでいるか、あるいは諦めて寝ているかしているだろう。」という順番の方が良い。
○「君は安易な留学という選択をしたことに後悔したことに気づくのにはすでに遅すぎた。」
→ごめん、もう意味が分からない。英文自体の意味が破綻していると思う。たとえば「君は、安易にも留学という選択をしてしまったことに気づき後悔するが、そう気づいた時には既に全ては終わっている。」とかならまだ分かる。「後悔したことに気づくのに遅い」では意味が分からない。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081228/1230437675
初見では、その自己顕示欲がだらだらと垣間見られるエントリだったものであまりの気持ち悪さから途中で読むのをやめた。
しかしながら、ここ最近では、ホッテントリやお気に入りのブクマで目にするたびにひらいてしまう。
これだけの醜い自己顕示欲はそうそうない。
この先生きのこるには選択の余地なくこの方法しかないといった三流ブロガーの開き直りと、それを盲目的に実行させる彼の肥大した自己顕示欲が行間から尽きることなくあふれ出る。しかしながら、本人はそれを意識せず書き上げたものだから、直情的なエントリとなって膨大な負のエネルギーを抱え、ほの見える彼の人生の悲しい背景とともに、ダイレクトに私に訴えかける。
金が無いから、会社休んだ。
金が無いから休むと、上司にも言った。納得してなさげだった。
わずかな資産を売却したけど、入金が1日分間に合わなかった。
貯金なんて、とうの昔に使いはたした。
既に借金ができる身分ではない。
でも、朝食・昼食代がない。
過労による自律神経失調症の治療の一環で、医者から定期的な食事を義務付けられてる。
なんでも食っていいわけじゃない。食事制限ってやつ。
深夜残業した後のタクシー代とか、一時期、出さなかったことがあって。
もちろん、明確には言わないけど。いやらしい圧力のかけかたしてきた。
これ以上、上司に追及されたら「タクシー代、出さなかったでしょ。」って言わないといけない。
業務に必要な資格試験でも、2回落ちて3回目からは自己負担みたいな社内規定は、違法じゃね?とか。
言いたくないけど。
言ってしまったら、労基署とか民事裁判とかまで一直線のような気がする。
既に時効になってる気もするけど。
それに、言ってしまったら、自分を抑えきれなくなって、何をしでかすかわからない。
不信感が溜まりに溜まってる。
てめえの自己責任じゃねえか馬鹿なだけじゃねえか逆切れじゃねーか甘えてんじゃねえとか言われそうだが、
誰もが納得してくれるような正当な理由で、犯罪なんか犯すわけが無い。
だから、私怨なんだ。これは。
とっとと転職すべきなんだろうが、転職に必要な金も体力もない。
今の会社を怨みながら、勤め続けるしかないんだ。
この先生きのこるには。
自分のブログに書いてもいいけど、
法的に何ができるのかちゃんと調べてないので、
増田に書きました。
自殺しろ?考えてはいるけど。
活路があるなら、そこに一手を打つべきだと思うので。
その手が有効だって思うなら、一手ささずにはいられないのが、
一手打つ元気も無くなったら、次が最期の一手になるのかなあ。
最近よく思う。
「もうだめだ。行き詰った。人生八方塞がりだ。どうにかしなきゃ」
行き詰ってるのは例えば生活とか、キャリアとか、人脈とか、向上心とか、まぁ色々なんだけれど。
こういう状態を自分は「どんづまり」と呼ぶのだけど。
このままじゃホントダメだ…ダメダメだ…自分がこの先生きのこるには?とか考えていて、
で、ふと思った。
「行き止まり」と「どんづまり」は語感は似ているけど違うな、と。
進んでいるときに突如行く手が塞がると「行き止まりだ」と感じる。
でも、進んできたんだから最低限「道」はある。
左右に道があるかもしれない。後ろに下がってみてもいい。何か見えるかもしれない。
「どんづまり」は、つまるところ、
自分が怠惰で動かないでいる間に周囲が動いていて、気付いたら東西南北上下左右、みっしり動けなくなっている状態かな、と。
動く方角がわかんないんだよ!ってのはもっともな言い訳で、でもそれは自分の為にならないかもしれない。
動かないと見えない景色や道もあるよね。もちろん未知の危険に遭う確率も上がるけれど。
結局、未来はだれにもわからない。だからとりあえず動けよ。
まぁ結論としては
「どんづまりだとか悩んでる暇があったら、とりあえず自分の好きなもん見るか食うために外出ろ」
見えなかった道が見えるかも。
・あるところに、赤字続きで経営が苦しいお店があった。
「今の店長が悪い!一度、俺に店長をやらせろ!そしたら売上アップ間違いなし」と
大声で主張する人が現れた。しかしこの人は、お店を経営した経験が一度もない。
(ただし、ボーナスを大幅に減らす事はナイショ ← 配偶者・扶養控除廃止)
・そんなお金どこにあるの?と聞かれたら、
「お金は、ここにある!これを使えばいい」と金庫の現金を見せた。 ← 外貨準備金
(でもそれは取引先に支払う分のお金で、手を付けたら商売終了なのは、ナイショ)
・その時、近所で大火事が発生。あちこちに燃え広がり、そのお店にも火が! ← 米国金融危機
「話は後だ、まずは火を消せ!店が燃えちまう」と消化作業に向かう店長。しかし、
「火事なんかどうでもいい。俺が新店長になって、経営を立て直す方が先」
「俺が新店長になることこそ最大の消火活動」などと、わけのわからないことを主張。
・「何を言ってるんだ、店が無くなると元も子もないだろ!」
「お前も店員の一人なんだから、協力して一緒に水をかけろ」と、諭されると、
「……協力してもいいけど」と呟きながら、最後にこう切り出した。
さっきさー、ニコニコ動画で美味しんぼ見てたら、元ヤクザが更生したことを証明するのに、その気持ちを料理で表すって話があったんだけどさ、そのコメントに「こんなクズは一生直りません」とか、そういうのが多かったんだよねー。
ニコ厨だからっていうのもあるんだろうけど、まあ世間一般的にも前科者が「更生しました」なんていうのは歓迎されてないっぽい雰囲気はあるよね。犯罪にもよるだろうけど。
たぶん、人殺しした人間が何年かムショ暮らしして出てきたくらいで「善良な市民」ぶるな、って感情があるんだろうな。
本当は、ムショで刑期つとめて、ムショの中で手に職つけて、出所してからまっとうな会社勤め始めるってのが日本の司法や行政が機能してるってことで歓迎すべきことなんだろうけど。
ちゃんと法に定められた罰則受けてるのに、更生して、平和に暮らしていることそれ自体が「罪から逃れてる」みたいな感じがするんだろうな。
でも、そういう風に思う人はその前科者が立ち直ったりしない方がいいっていうのかな?
それならそれでやっぱり「自分の罪を反省していない」ってことになる上に再犯の危険も生んでしまうと思うんだが。
どういうのが世間の皆様がお好みなのかな。
法定の罰を受けたうえに出所後も良心の呵責にさいなまれ、生きるうえでギリギリの生活をして、「犯罪者」とののしられても甘んじてそれを受け入れるような前科者でいてほしいんだろうか。
俺にもそんな頃があったし、周囲にもそういう忙しい人が結構いたりするのだが。
ちょっと書いておきたい。
俺の観察結果によると、長時間労働を続ける人は必ずと言っていいほど壊れていった。俺含む。
具体的には鬱になったり、体調を崩す(病気になる)ということ。入院や休職、退職とロクな結果にならなかった。
仕事が自分の好きなことであっても関係ない。むしろそっちの方が無理をしてしまいやすいので危ない。
基本的に俺らが働いて会社に貢献すればするほど、会社は喜ぶ。昇進させたり昇給したりはしてくれる。
しかしその結果体や家庭を壊したり、趣味の時間がなくなったりして不幸な人生になっても自己責任。
会社は一人一人に対して人生の面倒まで見ることはできない。自分の身は自分で守るしかない。