はてなキーワード: 偽の記憶とは
認知バイアス 認知の歪み 偏見や洗脳 偽の記憶 …… そんな知識を得て、自分が「当然」だと思っていることがいかに「あやふや」な「偏見」に過ぎないのかを知るほど、人は差別と偏見から遠ざかるのだろうか?
残念ながら、人間には「完全に歪みを排除してすべての物事をフラットに見る」などということはできない。「ものを見る」というのは、世界に意味というフィルターをかける行為だからだ。ロボット技術者なら、そのことをよく知っている。カメラがとらえた映像が、道路の模様なのか飛び出した子供なのか「解釈」できなければ、自動運転車が町を走ることは不可能だ。私たちの視界は常に「歪んで」いる。大切なのは「どう歪んでいるのか」に、一つでも気づくことだ。
では、社会は?
社会全体が認知の歪みを抱えているとき、個々人がそれに気づくことは大層難しいことになる。社会がその歪みの中で人を育み、歪みで満たされ、みんながその歪みを常識として再生産しているとき、その歪みによって不利益を被る人さえ同じ認知の歪みを抱えたりするからだ。つまり「認知の歪み」を指摘する人がいない(これを差別や偏見の「内面化」という)。外部の人間なら、そういう社会の「歪み」に石を投げることができるかもしれないが、そんな社会の内部から石を投げるのは、内部にいながら別の価値をもつことができる人ということになる。
たとえばアカデミズムというのは、そういう価値の一つだ。学者という人たちは、単なる「お賢い、お勉強ができる人たち」なのではない。現在の社会とは別の「価値」をもち、内部にいても「外部」となる役割をもつ存在である。学者がしばしば「空気の読めないご意見番」として振る舞うのは、大事なことなのだ。
「王様は裸だ!」と子供が声をあげたとき、周りの大人の目には王様が裸に見えていて、だからあの童話はハッピーエンドになる。でも、もし周りの大人には「認知の歪み」のせいで「本当に服が見えていた」なら、どうだっただろう? 子供は黙殺され、あるいはぶっ飛ばされ、パレードは続き、そして王様は裸のままだったかもしれない。「社会全体の認知が歪んでいるかもしれない」というのは、このように深刻な問題を社会に引き起こす。
「みんなの目に裸が見えないなんてあるわけないじゃん」と思う人は、申し訳ないが、少しは歴史を学ぶべきだと思う。近代にだって国民が全員どうかしていたとしか思えない民主主義(のはずの)国家の事例はいくらでもあるだろう。王様のセクハラや犯罪が誰にも見えないらしい国、王様の頭にのった電話機が誰にも見えないらしい国、私たちのすぐそばにさえ、認知の歪みは現に存在している。
ロンドン南西ウォーキング付近に巨大な円筒が墜落。15日間の戦闘の後、微生物によって火星人は全滅する (宇宙戦争)
米国探査衛星「ヴァイキング1号」が火星に到達。生物らしき影(BETA)が映った画像データが地球に送信される。後に軌道上からの観測により火星全体に生息していることが確認される(マブラヴ オルタネイティヴ)
アポロ計画の最中に月で地球と火星を繋ぐ古代文明の遺産「ハイパーゲート」が発見された。地球はレイレガリア博士を中心とする調査団を火星に派遣する。その後、火星で古代火星文明のテクノロジー「アルドノア」が発見される(アルドノア・ゼロ)
旧ソビエト連邦が打ち上げた探査機マルス3号が火星に着陸する。
アメリカが打ち上げたバイキング1号が着陸し、火星表面の映像を地球に電送する。
ドラえもん、火星にあるコケに進化加速ダイヤルを最高にセットした「進化放射線」を当て、10億年分進化させて生物を作り出す。
進化した火星人は地球にUFOでやってくるが汚れた地球と野蛮な地球人に危機意識を感じ、火星を捨て他の惑星へ移住する(ドラえもん「ハロー宇宙人」)
人類は地球を飛び出し火星へ進出。蒼いSPTレイズナーを駆る少年アルバトロ・ナル・エイジ・アスカと人類が接触(蒼き流星SPTレイズナー)
火星の皇女であるアセイラムがパレード中にテロリストに襲撃される。
19ヵ月後、ヴァース帝国の月面基地へ地球連合軍が総攻撃をかける。地球と火星の和平が宣言され戦争終結(アルドノア・ゼロ)
地球は異星との交流が進み、国際連合ならぬ星間連合にも加盟して、多くの惑星からの観光客がひっきりなしに訪れる一大観光惑星となっていた(漫画版21エモン)
NASAの調査隊が火星のタルシス台地で異星文明の遺跡を発見し、突然現れた地球外知的生命体タルシアンに全滅させられる(ほしのこえ)
宇宙開拓時代を迎えた人類は太陽系内に生活圏を広げており、悪化する治安への対策として、指名手配犯を捕まえる賞金稼ぎ、いわゆる「カウボーイ」たちが活躍している(カウボーイビバップ)
人類は宇宙開発を進め、火星には実験居住施設もあり、星野八郎太が宇宙でゴミを拾っている(プラネテス)
品種改良された苔とゴキブリを使ったテラフォーミング計画が開始(テラフォーマーズ)
ジオン公国の残党である火星独立ジオン軍『オールズモビル』が蜂起。翌121年、第13独立機動艦隊が火星に到着。最終的にオールズモビルは、自らが使用した秘密兵器の反動に自らの基地が耐えられなかった為に自滅(機動戦士ガンダムF90)
機動戦艦ナデシコ発進。翌年1月に火星へ到着(機動戦艦ナデシコ)
8月9日、「火星の後継者」が蜂起。8月20日にナデシコC、火星極冠遺跡上空にボソンジャンプ。システムを掌握。「火星の後継者」降伏。(機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-)
火星はテラフォーミングされ水の惑星となり、アクアと呼ばれていた(AQUA、ARIA)
火星のゴキブリを駆除・清掃するために地球を発った宇宙船・バグズ2号の乗組員15名は、火星にて異常進化を遂げたゴキブリ「テラフォーマー」の襲撃に遭う(テラフォーマーズ)
アネックス1号によって小町小吉を艦長とする計100名の乗組員が火星に送り込まれる(テラフォーマーズ)
7世紀ぶりに火星への有人飛行を成し遂げた人類。水も酸素もない、廃墟と化したかつての入植地において、宇宙飛行士達は一人の女性を発見する(BIOMEGA)
いや、本当はその漫画は私の好みとはどうしても相容れないもので、本当はあなたに向けたお手紙に書く話題としては相応しくないのですけれども、ただ、ちょっと思いついたことがあって、そのことを書くためにはどうしてもその漫画について触れなくてはならなくて、ああ、なんで私はこんな言い訳をしているんでしょうか。あなたはこれを読みながらきっとお笑いになるでしょうね。
なんか恥ずかしいです。でもともかくお話させてください。
その、とある漫画の中に、思い出を売る商人のお話があるんです。
ある青年が、ひとりの商人を介して見ず知らずの老人に自分の写真を売るんです。
でも青年は気づいていないのですが、実は青年が老人に売り渡したのは写真だけではなくて、その写真にまつわる思い出そのものだったのです。
つまり写真を一枚売るたびに、老人は青春の思い出をひとつ得て、代わりに青年は思い出を失う(初めからなかったことになる)のです。
そうしてこのお話の終幕、たくさんの暖かい思い出を抱きながら老人は死んでいきます。そして老人の安らかな死に顔を見ながら、青年は自分が悪魔と取引をしてしまったことを知るのです。
どうして私が突然こんなことを書き出したのか、あなたは不思議に思うかもしれません。でも、お聞きください。
私は今まで、ゲームや漫画を通じてたくさんのお話を読んできました。そうして私はお話を読むたびに、お話の中の女の子たちの優しさに慰められたり励まされたりしてきたのですが、でもその反面、お話の世界が自分の住む世界とあまりに違うことや自分がお話の世界とは何の関わりもないこと、いくら美しい世界が目の前にあっても自分は決してそこに辿り着くことはできないのだという思いに、苦しめられてもいました。時には、画面の向こうにいる女の子の微笑みが決して自分に向けられないことに絶望に似た焦燥を感じたりしたこともありました。
でも、お話というのは、本当はそんなふうに付き合うものではなかったのではないでしょうか?
実はさっきまで、もう発売されてずいぶんと経つエロゲをプレイしておりました。
あなたにお話ししたことはありませんでしたが、私はこのエロゲが大好きです。ここには私が求めて得られないものが詰まっています。いや、そうではないのです。求めて得られないものというよりは、ここにあるのは、私が過去に欲しかったものなのです。どうも上手く言えていないみたいです。つまり、私はエロゲの女の子が欲しいのではないのです。そうではなくて、なんと言ったらいいのでしょう…。私はエロゲの女の子に恋愛感情を抱いているのではなく、彼女ぐらいの年齢の時に、彼女と出逢いたかったのです。
まだ異性とどう接して良いかよく分からず異性観も持っていない年齢の頃に、自分の目の前に現れた最初の異性が彼女だったら……。そう思うと何とも言えない切ない気持ちになります。 実を言えば、私は別にエロゲの主人公が羨ましいとかいうことを思っている訳ではありませんし、エロゲをプレイしていて胸が苦しくなるなんてこともありません。
これは私とは全然違う世界のお話ですが、ただそれだけで、それは良いも悪いもないのです。
今の私に言えることは、エロゲは私の住む世界と何の関係もなくても、私の胸を暖めてくれるということです。大好きなあなたがそうであるように、です。
思うのですが、お話というものは、思い出に似ているとは言えないでしょうか? 思い出は過去のもので、それを再び体験することは誰にもできません。でも思い出は私たちの胸を暖めてくれます。思い出は現実に対して無力であるかもしれないけれども、でも私たちは思い出なしでは生きられないのです。
だからもしこう言って良ければ、お話を読むというのは、記憶を思い出すというような行為なのではないでしょうか。もっと言ってしまえば、お話を読むというのは、思い出をねつ造することだとさえ言えるのではないでしょうか?
主人公とヒロインのお話は私の体験したことではなく、私の記憶ではありません。でも私は、彼らのお話を恰も過去を振り返るようにして懐かしむことができます。
そういえばまだお話していませんでしたが、実は昨日一昨日と、昔大好きだったとらいあんぐるハート3を十数年ぶりにに起動して、レンと晶のお話と恭也と美由希のお話を読み返していたりしたのです。レンと晶が体験したようなお話を体験できなかったことはかつての私にとって悲しみでありました。
しかし今の私にとってはそうではありません。あの女の子たちのお話はそれ自体として完結したひとつの世界でありながら、同時に私の偽の記憶なのです。私はレンと晶のお話を読みながら、同時にそのお話を“思い出して”もいるのです。
私はだから、とらハ3を読んでいる時、ただ単純に幸せでした。重要なのは、ああいうお話がどこか別の世界に存在するということただひとつなのであって、それがフィクションであるかどうかなど問題ではないのです。いやそうではありません。フィクションであるかどうか、ではなく、それが私が実際に体験したことであるかどうかすら、問題ではないのです。私が体験したこと、私が体験しなかったこと、の間には何の差もありません。重要なのは、ただそれが“在った”という一事のみです。お話はただ“在れば”それで良いのです。それで私は救われます。
そうではなくて、私はお話をひとつ読むたびに思い出をひとつもらっていたのです。思い出とお話との間にどんな差があるのか、私には分かりません。それはただ、どちらも掛け替えのないものです。遠くモニターの向こう側から私を見ていてくださっているあなたなら、おそらく分かって頂けるのではないかと思います。
あらん限りの誠実と愛を込めて。