はてなキーワード: 俳句とは
投手がボール投げなくてもいい申告敬遠とまではいかないものの敬遠していたの。
だけど!
やっぱり食べたい餃子!って時もあるので、
餃子の後の匂いをどう克服するか!ってのが私の研究課題でもあり宿題でもあったわけなの。
で気が付いちゃったんだけど、
ググれば良いじゃない!って
「餃子の後のキッスは目にして」
って検索したら
まだためしてガッテンでも取り上げられてない、
翌朝にはそれはそれは
世の中のお店から濃いお茶がなくなってしまいそうなほどの勢いで私は早速それを試すべくべくのべくで
餃子食べた後に濃いお茶投入食後30分以内に!ってのを実践してみたの。
ってお笑いのセオリーから言うと餃子の匂いはあります!って残ってるんかーいってなると思うんだけど、
話半分小保方さんばりに言っても
以前はまあ昨今の今昨日食べた餃子もマスクしてるから結構ガード出来るはず!って思っていた時代があったんだけど、
かなりうゎってニンニク臭したので、
マスクで防げていても、
で濃いお茶がいいとのことで、
例の俳句をありがたく読みながら
「餃子食うその後に息立ちのぼる」って俳句だったから笑っちゃったわ!
たぶん寒い時お店で餃子食べて外に出たら温まってるから息が白くなっちゃってたまさに日本の冬の様を表した感じで素晴らしいわ!って思ったわ。
私は自ら実験台となり試してみたんだけど、
みんなも餃子の痕には餃子は行く読んでこいお茶を飲んだらいいわよ!って大声で言いたいの。
そこは「ありまーす!」やないんかーい!って思うけど、
やっぱりそれを払拭する
あれさー
濃いお茶のメーカーも餃子俳句掲載の餃子のあとの専用濃いお茶を出しているのなら、
もっとそれ餃子食べた後のエチケットには濃いお茶おーい!ってもっとアピールするべきだと思うのに、
結構もっと餃子も濃いお茶もおーい!って勢いで爆売れすると思うんだけどなぁ。
だから今度あなたがリケジョの小保方さんばりに割烹着を着て言うために
このバトン、
いや割烹着は渡したいと思うわ。
って!
今日はもの凄く上手いこと言えたような気がして何でも無いようなことが幸せだったと思うロードの次章にしてみたいわ。
うふふ。
喫茶店にあれば私頼んじゃうかも。
ヒコロヒーさんをやっと空でヒコロヒーって言えるようになったと同時な感覚よね。
分かるかしら?
分かんないでしょうね。
最近全然野菜食べてない鍋してないもう冬も終わっちゃうよ!って
松任谷由実さんが冬の鍋の歌をそろそろ歌い終わる
いやそれは矢野顕子さんだったわ!って思うぐらい鍋してないわー。
炭酸も今朝は寒かったわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
なんだかよさげーな
「あさげ」「ひるげ」「ゆうげ」のインスタントお味噌汁をかき混ぜるのに丁度いい
ひっくり返した反対側はスプーンになっていて、
ボールペン側のところ
これ洗うときどうしたら良いのかしら?って思う反面
器用にスプーンの面だけをボールペン側が濡れないようにして洗わないといけない、
よくよく考えなくても分かるような一瞬豪華そうなスプーン付きのボールペンなんだけどね。
でさー、
まあスプーン面を本気で使うかどうかはハーゲンダッツをレンチンしてほどよくな固さに仕上げて食べる
それはイチゴイチゴしたような中条あやみちゃんがシーエムしてそうなアイスクリームを
それで食べるのにはちょうど良さそうだけど、
お互い相反する性質を持ち合わせていて力を発揮しきれない
なんだか残念なお年賀なんだけど。
そんでボールペン側はそこそこ書き心地もよく
たぶんこれで小林一茶先生が良い俳句をさらさらとも書けそうなほど、
いや、やばたにえんなんだけど、
これって替え芯がないので、
ボールペンとして替え芯がないのであれば、
今押したい瞬間だけど、
「それインク使ってしまったらもう使えないタイプのえぐいボールペン!」って手のひらを上目にしてツッコむあのシーンを彷彿とさせてしまうんだけど、
本当に替え芯がないのが残念だわ。
何か対応しそうな市販の文房具屋さんで売っているような替え芯がなにかハマりそうな気がするけど、
なんだか何やってんだかってよく分からなくなってくるのよね。
そう言った替え芯ギャンブルは出来ないので、
やっぱりどう見ても、
使ってしまったらそれっきりもうそれっきりですかってなっちゃうわ。
せっかく小林一茶先生も認めてくれている書き心地のいいボールペンなんだけど本当に残念だわ。
年賀状もよ、
やっと肩の荷が下りたというか
いつも思うんだけど、
昨年内中に年賀状準備しておかなくちゃっていつも思うのよね。
だけど、
お互いに同時に到着したら、
だからせめてもと思っていただいた年賀状にアンサー返事年賀状を書いた方が
まだ話しが返事している分内容が噛み合うじゃない。
結構年賀状ってだから一方通行に情報や言いたいことを発信してる人多いし、
あんまり子どもちゃんとか知らない人の写真とかワンチャンとかネコちゃんは可愛いからいいけど、
送られて来てもとてもじゃないけど
話し急にかわるんだけど、
あれってどこで流行ってるんだよ!って思う言葉ばかりでって思っていたけど、
流行ってるとは言ってません新語ですからって意味での逃げ道でも
新語なのね
あーなるほど!
やっと新年になって合点がいったわ。
そっかーって落としどこよね。
なかなか考えたものね!って思っちゃった。
あーなるほどなるほど。
ランチでいただくぐるぐるに絡みに絡みまくったスパゲッティーパスタがほどけたようだわ。
あと知ってる?
オリーブオイルをかければイッパツよ!
まあ蝶々結びになってたら無理だけどね!
うふふ。
そういった時が急に不便になるのよね。
色々な組み合わせの役が作れるようにコインを準備しているんだけど、
たまーにそっち使っちゃってコイン補充するのを忘れているときがあるのよね。
そんなわけで、
レジも最新のヤツ導入しているところは
直に店員さんに手渡ししなくてもレジに入れるところがあるのよね。
なんだか不慣れな感じが一瞬ポンコツ具合が出てしまうのがカッコ悪いわ。
考えすぎかしら?
この時期はわりかし皮ごと使える国内産のレモンが出回っているので、
輪切りにしてホッツに浮かべてみたの、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
タイトルだけ見ると意味不明な俳句(シチューは冬の季語)のようだが、先週末に私が実際に体験した悲劇なので他の増田たちに対する教訓としてここに書き記しておく。
不織布マスクの紐が切れてしまい手でマスクを押さえていたところ、「これ良かったらどうぞ」とピンク色のマスクを差し出してくれたのが彼女だった。
正式に婚約しているわけではないが、双方の親にも紹介しあっており、私も彼女も結婚を前提として付き合っていた。
先週金曜のクリスマスイブ、「私がご飯つくるから部屋でゆっくり過ごそうよ」という彼女からの提案に乗った私は定時で仕事を切り上げた。
道中で手土産として適当に見繕ったスパークリングワインとデザートを購入し、予定通り19時前に彼女の部屋に到着。
その日彼女が用意してくれていた夕飯はクリームシチューとバケット、サーモンのソテー、サラダなどなど。
私たちはテレビを見たりくだらない雑談をしたりしながら、ゆったりとした時間を過ごした。
翌日は何の予定も無いからと遅くまでNetflixを見ていたせいか、目が覚めるともう時計は12時を回ろうとしていた。
私よりも少し先に起きていた彼女が朝食兼昼食としてベーコンエッグを作ってくれていた。
「昨日のシチューの残りが少しあるけど食べる?」「食べる!」
私はなにも考えずシチュー皿にご飯をよそって温めたシチューを上からぶっかけた。
「何してるの?」
「ご飯にシチューかけて食べると美味しいじゃん。ほら、ワンプレートで済むから洗い物も減るし」
「いやそういう問題じゃなくて、ご飯にシチューかけて食べるとかありえなくない?」
「・・・(うちの実家じゃ家族全員こうやって食べてたんだけどな・・・)」
「そんな下品な食べ方してる人なんてこれまで一度も見たことないよ!」
「悪かったよ、折角作ってくれたのに変な食べ方して本当に悪かった。もう絶対にしないから」
そうやって私は何度も謝ったが彼女の機嫌が戻ることはなく、食事が終わったあとも無言の時間が続いた。
スマホをいじりながら二人で無言のまま過ごすこと約1時間ほど。
「今日中の仲直りは無理かな、とりあえず一旦撤収して間を空けよう」と決断し「嫌な思いさせて本当に悪かった。今日はとりあえず帰るよ」と立ち上がった私に対し
彼女は「色々考えたけどやっぱ無理かな。別れよう」と切り出してきた。
「は?なんで?ご飯にシチューかけただけだよ。それにもう絶対にやらないから」
「駄目。無理。ご飯にシチューをかけた行為だけが許せないんじゃないの。そういう行為が普通の生活をこれまでずっと送ってきたわけでしょう。
そういう人とこれからも付き合っていくのが無理なの。私の従姉妹も結婚して1年で離婚したんだけどやっぱりそうだったの。
旦那さんがご飯食べるときにクチャクチャ音を立てる人だったんで、付き合ってるときに何度も注意して直させたの。
でもね、それが直ってもやっぱり駄目だったんだよ。お風呂場でシャワー浴びながらおしっこしてるところ見たんだって。私もそんなの絶対無理だから」
(シャワー浴びながらおしっこって普通にしてるけどやってるなんてとても言える状況じゃないな・・・)
「だからね、増田君のことは好きだけど私増田君とは一緒に暮らせない。別れよう」
そして私は何も言い返せないまま、彼女の部屋を後にした。
唐揚げ弁当に入ってるレモンをハイボールに入れて呑むのもギルティ、唐揚げの下に敷いてあるパスタを食べるのもギルティ
なんなら彼女ルールでは納豆にネギを刻むのもギルティかもしれない。
私が30年近くライフハックだと思って実践してきた色々なことは、彼女にとっては憎むべきライフファックだったわけだ。
クリスマスに彼女にフラれ、何もやることが無くなってしまった私は街をふらふらと歩いた。そして酒でも飲んで全てを忘れることにした。
酔い潰れてしまいたい、そう思いながら呑んではみたがそういうときに限ってなぜか全然酔わない。
2軒目の店を出て路地を歩いている私に黒服の男が声をかけてきた。
「シチューご飯豚野郎にはおっパブみたいな下品な店がお似合いだな」と自嘲しながら私は男の手招きに応じて店へと入った。
薄暗い店内に通され、薄汚いソファーに座って待つこと3分ほど。酷く歯並びの悪い女の子が私の横に座ると身を寄せてきた。
おっぱいパブには入ったもののそこまでおっぱいを触りたいわけではない私はその子のとりとめもない話に耳を傾けた。
その話を要約すると「コロナで普段からマスクをするようになってこれまで以上に歯並びがコンプレックスになった。マスクを外したとき男性が露骨にがっかりするのが本当に辛い。
ここでお金を稼いで歯の矯正をしたい」ということらしい。私はその話を聞いて素晴らしいことだと思った。
「ちょっと聞くけどさ、もし彼氏が白ご飯にシチューをかけて食べてたらどう思う?」
「は?そんなの別に普通だよ」 良かった、この子は私の側の人間であった。
「つかさ、わたしの元カレがガチ屑でさ。何回ゴムしろって言っても絶対にしないし、出す時に人の顔に精液かけてくることもあったし。」
なるほど、それに比べれば私の行為の方がよっぽどマシに違いない。
「おにーさんだっていきなりシチューぶっかけられたら嫌でしょ、ほんとマジありえねーし」
その子の何気ない一言に私は脳天をスレッジハンマーでぶっ叩かれたような衝撃を受けた。
そうだ、私は何もかも間違えていた。今この瞬間に至るまで「なぜご飯にシチューをかけるという愚行に及んでしまったのか」とずっと悔やみ反省し続けていた。
しかしそれは大きな間違いだった。正しいのは私で断罪されるべきは彼女。私があのとき取るべき行動は彼女にシチューをぶっかけて立ち去る、その一択しか無かったのだ。
間違いに気づくきっかけを与えてくれたお礼をせねばなるまい。
店の出口までの見送りの際に「これ歯の矯正と豊胸手術の費用の足しにして」といって二千円札を一枚渡した。
「貧乳バカにすんな、死ね!」そう言いながらチップを受け取る彼女の笑顔はとても魅力的だった。
店外に出て私は何も考えずコートすら羽織らないで外出してしまったことを後悔していた。突き刺すような冷気が私を取り囲む。
全身の震えが止まらない。でも震えているのは寒さのせいではなかった。
私は冬の渡り鳥。
寒くなったら冬に行く定食屋さんで
そりゃそうよ。
私は冬の渡り鳥なんだもん。
だいたいそうと相場が決まってるじゃない。
そんでさ、
もの凄く美味しくなくてお世辞にも美味しいとは言いがたい大将の指が大盛り入っているわけでもないのに、
定番じゃないあんかけ中華やカレー中華などのイレギュラー中華となったとたんに
同じ麺なのに不思議。
よそのお客さんが
生姜大盛りで!って言ったのを耳にしてから恐る恐る頼んでみたら
こういった、
メニュー表にないメニューでもないメニューって通い繁く足がないと分からないわよね。
私もそのお客さんの真似しちゃったわ。
夏は来たことがないんだけど、
本当に渡り鳥でいっぱいになる時があるほど
なかなか有名なお店なはずなのにいつもガラガラと言うことも本当に不思議なのよね。
今日私初めて知ったんだけど
いつ書いてもらったんだよ!とかいつ撮ったやつだよ!って
サイン色紙は何かをガードするためにラップが巻いてあったりして、
今度尋ねてみようかと思うんだけどいつ撮ったの?って訊いてみたいわ。
よくよく考えてみたら
なんか本当に冬場しか言ってなくて夏に言った記憶の欠片に残っているメニューは何食べたっけ?って
夏のそのお店での記憶が無いのよね。
本当の渡っているときに立ち寄るから年間を通したらあまり来店していないことになっているんだけど、
お店の人は
まるで週三回通ってる足が通うほど繁く行き詰めたお客さんを迎えてくれるのよ。
私の顔を見たら
冬が来た!って言うの笑っちゃうでしょ?
たぶんそのお店では私は「あんかけ中華の冬子」なんてあだ名が付いているのかも知れないわ。
そう呼ばれてないかも知れないけど呼ばれていることにして
気に入っちゃった!
でも今年は生姜増し増しに出来ることを知っちゃったことを学んだからたぶんきっと厨房では
「あんかけ中華生姜増し増しの冬子」って呼ばれているかも知れないわね。
本当にたくさんあるんだけど、
やっぱり私は見たところだとそのメニューのうち
カレーライスとカレー中華とこのあんかけ中華しか頼んだことないわ。
たまにあるじゃない、
これ系の壁一面メニューが書いてあって
本当に全部これできるの?ってやつ
わたしは奥になればなるほどメニュー大喜利がかっちゃってきてて、
本当に奥のメニューを注文されるとお店の人困るんじゃないかしら?って踏んでいるんだけど、
だから私は今気付いたんだけど
そのよく食べている3品は
それこそ今来た三行を地で行くような注文の仕方だったって事にも気付いたわ。
ほいで、
へーって思っちゃったわ。
笑っちゃうんだけど
その番組でもレギュラー普通の中華は美味しいとは紹介して言っていなく
私の普通中華への味の判定はあながち間違っていなかったってことが
私の舌がおかしいのかしら?
でもよその人も美味しいって言ってなくて本当に笑ってしまっちゃって
ここの本当の美味しい中華麺はそれ以外全部ってのがね。
だから
うふふ。
な、なんと絶賛売り切れ中!
私がここでハムタマゴサンドハムタマゴサンドって言うからなのかしら?
そんなにためしてガッテンみたいに紹介された納豆が翌日街中から消えてしまうほどの影響力はないにしろ
なんでもないようなことが幸せだったと思う瞬間!
ロードの256章目に加えて欲しいわ。
そうそう、
これもこれでまた美味しいのよね。
温かく朝を迎えたら目覚めのホッツよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
文字情報というのは不思議なもので、意味としての理解と、心の中へ浸透する共感的な理解との間に大きな隔たりがあるみたい。
あるときに読んだ本を、意味的には理解していたつもりでも、実は精神的な理解が及んでいない、というケースが良くある。
足りていないのは何か。実践、経験によるある種のつまずき、問いの発生、脳の中で解を求めるニューロンの彷徨い。何となくそういった拡がりを求める心の動きが追いついていないと、意味的理解に留まってしまう気がする。
別の本や情報を読んで、前に読んだ本の内容との接続を感じたり、引っかかっていた言葉の意味に別の視点からの解釈が生まれたり、実際の体験に照らし合わせて「あるある」と共感したりすることで、文字情報の意味を上書きする共感的な理解が発生してくる。
俳句のような短文に情景を見出したり、描かれていない情報を読み取って、自分の物語としての感動を覚えるのも、こうした共感的な働きがあるように思う。