はてなキーワード: 俳句とは
それが更年期のひとに、「更年期」ってことだけで猛反発くらったので
更年期女性が中心であろう反月曜日のたわわの怒りを買ったけど、
更年期のしわわの最大の反省点は「更年期のしわわ」がおもしろくないことは明白だ。
月曜日のたわわ
と
は
わわ
ひいてはユーモアがない。これが致命的。
という疑問には「必要」と答える。
なぜかというと人を傷つける言葉が不快な人よりそれを面白いと思う人が多い分にはそちらのほうが勝つからだ。
誰かがどれだけ傷ついたとしても関係はない。みんな他人の痛みより自分の面白いことのほうが大事だから。
これはとくに思想信念関係がないところが平等であり残酷なところだ。
たとえばネトフェミ、ブサヨ、ネトウヨ、ここいらはすべて自称してきたわけでも明確な命名者がいるわけでもない。
最近でいうとチー牛。これは命名者がいるし、あまつさえも明確なモデルもいるがもう誰も覚えてはいないし定着している。
チー牛も反対者はいたし残酷だと声はあがった。実際命名者はけっこう痛い目に遭っている記憶がある。でも、結果、そこそこの定着をみせてはいる。
なぜならチー牛という言葉が多くの人に腑に落ちてなおかつユーモアがあるからだ。もちろんおもしろいおもしろくないの個人差はあるが、多数の意思としてチー牛はおもしろくて使いでがいい言葉として現在でも使われている。
40代以降の女性が「月曜日のたわわ」の広告に不快を示しているという記事から、「更年期」への連想。そしてたわわの反対として造語であるしわわ。どちらも共通のキーワードは老い。単刀直入にいうと芸がない。プレバトの俳句の添削的にいうなら同じ意味の重複でありみるべきものがなさすぎる。
いいたいことや方向は正しい。だけど完成度が低いとただ不快だし反論をくらうと一気に沈んでしまうという悪例として胸に刻んでおきたい。
そう考えるとネトフェミ以降、ああいう集団を呼ぶいい言葉がないままだし、ネトフェミは個人的には的確ではあるがおもしろさがない。
というよりも、残り時間の少なさにいよいよ危機感を覚えるべきときに来ている。
正直言って、このまま死んでもいいぐらいにどうしようもない人生だ。しかし折角だから最後に創作活動を多少なりともやっておきたい。
逆になんということだ俺は天才だったのか!と人生が突然に開けだすのも悪くない。
どちらにしろこのままある日突然死んでからなんということだ俺は何者だったのだろう?と悩んで消えていくというのはどうにもしっくりこない。
そもそもをして我々の人格なるものは全身の神経の電気刺激の集合が、しっくりくる状態を求めて相互作用を繰り返した結果なのだ。
よく言う食欲や性欲についても腹が満たされればしっくりくるし適度に股間の勤労意欲を満たしてやるのがしっくりくるということだ。
さてさて、そうは言っても何をすればいいのか。
子供の頃はゲームなんぞを作りたいと思っていたが、私が今までに遊んだ俄作りの素人ゲームなんぞは100を超えようが、それらについて言えるのは本当の天才が不断の努力の果てに作り出したもの以外はクソであるということだ。
私は過去に一度や二度ゲーム作りに挑んだが天才でないのも努力家でないのも明らかであった。
次に絵や漫画も却下である。これもまた天才か不断の努力かの賜なれど、私には到底そのどちらもないことを人生が証明してきている。
音楽や芸能の類も同じく運動も駄目でそもそも手先が不器用であり物を作るのには向いてないし、感覚器官が全体をして曖昧模糊としているので料理やら目利きやらも不得手である。
文筆とは時として天才たちがその天才性を抜き身のままに振り回すための土俵であるとも扱われがちだが、実際にはどちらかといえばあらゆる才能の土俵から追い出されたハグレモノの集まる無能無才が暮らす創作界のスラムである。
持って生まれた能力も努力も足らぬ私は当然のようにこのスラムにふらりとやってきて、そこで海の物とも山の物ともつかぬ某方をどうにかこうにかして有象無象をあれやこれやするのがお似合いなのである。
全くもって文筆とは素晴らしいもので、たとえば「それはそれは見事な紅葉の山」という言葉だけで「それはそれは見事な紅葉の山」を表現できる。
もしもこれを絵で描こうとすればどれほどの能力と時間を有することか。
背景画像の集合からピッと貼り付ければいいではないかと思う横着者のもおろうが、それを探してくる手間さえなくただ「山」と書けばそこに「山」が現れるが筆しらべの秘術である。
全くもって人生において遊ぶことと無能なりに食っていくことに大忙しの貧乏暇なし無学慌ただしというものだ。
才能がなければただ遊ぶということにおいても無用の時間をもって大したことも出来ぬままにいくら時間を使っても付きぬものだから創作に使っていられる時間など人生のうちの極々一部となる。
そうなるともういよいよペンを持って事を為す以外の道などないのだ。
たとえば俳句など読んで見ればわずか17文字おきに一作品が出来上がる。
全100作の俳句をつなげた一世一代の詩集を認めんと心に決めれば原稿用紙にして4と1/4で済むわけだ。
掌編小説などは原稿用紙に5枚でいいし、短編で10枚、長編でも50枚も描けば十二分に両足を突っ込めるというものだ。
原稿用紙50枚!と聞くとなんとも驚きだがなんのことはないツイッター3回で原稿用紙1枚なのだからツイッターを150回だ。
ナンセンス小説であれば「イヤー!アイヤー!チョイヤー!ドッカーン!」なんて引き伸ばしの擬音を次々に入れれば簡単に稼げるものだ。
官能小説であれば喘ぎ声や擦れ音で半分埋めるのが実にシズル感があると推奨されている。
こうなればもう簡単だ。
3作も書きあげれば(なんとツイッター500回程度でいいのだ!)もう十分、「やあやあ我こそ物書きなるぞ!我の才能が偶然この時代に噛み合わぬゆえもう諦めて余生はくだらん仕事をして糊口を凌いで残った時間はひたすら遊んで過ごそうと思ふ」と言い張れるのだ。
まずは自分が主人公のノンフィクション半生伝記を人知れずかきあげて、手塚治虫なりヘンリー・ダーガーなりを気取ってこっそりとHDDの奥に仕舞い込んでしまうのだ。
最後に自分の理想とする社会についての妄言をあれやこれやと書き連ねたらもう3作だ。
あっという間である。
後半の2作を適当なライトノベルなりハヤカワなりの賞に応募して、一次予選で落とされて帰ってくればもう残りの生涯は自由である。
「俺は自分に秘められた才能を試し終わったのだぞ。誰が文句をつけるものか。天より預かった才能は地に返してから死ぬべきだが、それが元より無いなら自由に生きるのが当然だろう」と堂々とぐうたらぐうたら暮らせるのだ。
さあ自由になるために筆を取ろう。
小説家志望の駿は、沖縄の離島で親戚のおばさんの営む宿に間借りして住み三年になる。彼は、毎日独りで海を見つめている男子高校生が気になって仕方がない。男子高校生の実央(みお)は孤児で、いまはよその家に世話になっているというが、その家には帰りたくなくて海を眺めて時間を潰しているらしい。
駿は実央に一目で惹かれてしまったのだが、実央は駿が自分を憐れみの目でみないところに惹かれていた。
だが、実央は本島の施設に移り、そのままほぼ音信が途絶えてしまった。ところが三年後、大人になった実央は駿のもとに帰ってきたのだった。
以前、続編の『春風のエトランゼ』を前提がよくわからないままなんのこっちゃと思いつつ読んだけど、こういう話だったのか。なるほどねー。
『春風の―』を読んだ時にも思ったが実央が攻めで駿が受けなのが意外だ。でも、商業BLでは年下攻めというのは案外多いらしい。攻めが未成年の場合はとくに。
絵が隅々まで綺麗でいいけど、絵に誤魔化されている感があるというか、素敵なシーンばかり見せられている感があるというか。ゲイの苦悩葛藤がなんか取って着けたように見えて仕方がない……。実央の「ノンケだけど駿のこと好きになっちゃったから大丈夫!」っていう能天気さが、ファンタスティック過ぎて私は着いていけないのかもしれない。
それに、北海道出身という設定の駿が家の為にゴリゴリに古風な祝言上げるところだったとか、元婚約者の桜子さんの大正浪漫と昭和レトロの中間的なお嬢様ぶりなところとかなー。北海道ってそんな旧態依然としたお土地柄なの? そうとは聞いたこと全くないのだが。結婚式は会費制くらいのことしか知らんけれども(そのさばさばした印象がつよいのか)。
個人的にはあまりハマれないなこれ。絵は綺麗でかわいいけど。(だがむしろ作者は百合の方が描きたいのでは? というくらいに脇役がめたくそ百合百合していた。メインのBLが霞むくらいに。そこもハマれない原因のひとつかもしれない)
今ならシーモアで丸々0円で読めるよ!
短編集。男子中学生たちを主人公にした、耽美でレトロな物語。ちなみに、『紺碧』と『紺一点』は単行本『紺極まる』に続いている。
長野まゆみ先生の持ちネタが詰まっている。水琴窟とかバードベルとか義兄に恋しちゃう義弟とか。同じネタを使って毎度似ているようで違う話を作り出すのすごい。ストーリーの内容がどうとかいうよりも、物語のバリエーションと文章構成の素晴しさに感動してしまった。
瓜はめば子等思ほゆ栗はめば況して偲はゆ
と、山上憶良の長歌の出だし部分が引用されているのを見て、『左近の桜』の『瓜喰めば』の章を思い出したので、再読してみた。↓
主人公の桜蔵(さくら)は、男と男の忍び逢う宿〈左近〉の長男で高校2年生。彼はゴシックな体質を持っている。というのは、彼はこの世ならざる者を拾い、交わることで相手を成仏させてしまうようなのだ。そんな彼のことを、父の柾(まさき)や〈左近〉の常連客の浜尾は〈女〉と呼んでからかう。桜蔵は年上の女ともだちがいて男には一切興味がないので、〈女〉呼ばわりは不本意だと憤るのだった。
これは桜蔵がこの世ならざる者達に引かれ、此岸と彼岸の境目を彷徨う、妖しくで耽美な短編連作集。
夏休み、父の柾に連れられて弟の千菊(ちあき)と共に池畔の別荘地にやって来た桜蔵。父との夏休みを満喫する千菊。一方、桜蔵は柾に雇われ高額のバイト代目当てに雑用をこなす。
柾と千菊が出かけている間、バンガローの掃除に勤しむ桜蔵。彼の前に不器用に西瓜を売り歩く男が現れて……。
瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ
章のタイトルにこの歌を冠した通りに、柾が息子を可愛がる話なのだが、ただし柾がかまう相手は実子の千菊ばかりだ。柾の実子ではない桜蔵は柾から息子を息子とも思わぬような扱いをされているが、桜蔵も柾とは血縁関係のないことをわきまえ雑用アルバイトに徹している。……という、そのわきまえっぷりが地の文に長々~と書かれているんだけど、これだけわきまえてますから! とばかりに書かれると、負け惜しみに読めるw 桜蔵が実際に弟にやきもちを焼いて当たったり父に文句を言うような場面は、シリーズ中に一度も出てこないのだが。
桜蔵にとっては柾は単なる父親というよりは父性あるいは大人の男という概念が具現化したような存在であって、血の繋りがない事なんて大した問題ではないらしい。だが、血の繋りがないだけに、父性への憧れがなんかこう、恋心めいているように見える。
この章でもまた、桜蔵はこの世ならざる者に魂を抜かれて危うく死にかけたが、彼は窮地を柾によって救われたのか、桜蔵の欲求がそんな幻覚を見せただけのかは曖昧だ。
「(死人に)喰われたくなかったら、蛙のふりでもしてろ」
と桜蔵に言う柾。これは、
人来たら蛙となれよ冷やし瓜
という、小林一茶の俳句からの引用。これを私は、さすが風流なことを言いますなぁ、くらいにしかずっと思っていなかったのだが、今回再読して思った。瓜にそんな事を言い聞かせるのって何故? →自分が食いたいからに決まってるじゃん。
誰かが来たら蛙のふりでもしてろ。あとで私が食ってやるからさ(^_-)
激しく萌え散らかした。(だが、送られた当の桜蔵がそういう意味で受け取りときめいたかキモがったか、あるいは意味わからんと首を傾げたかは謎のまま、物語は終わってしまった)
後に、何章だったかで柾は選ぶ権利は〈男〉ではなく〈女〉にある(柾ほどの男でも〈女〉から選ばれなかったこともある)と言う場面が確かあった。選ぶ権利は〈女〉である桜蔵にあるからといって、俳句なぞ送ってアッピールしたろというのが柾の魂胆なのか、単に桜蔵をからかっただけなのかは不明だが、個人的には前者に賭けたい。
次はついでに読んだ第4章『骨箱』。
第3章にて謎の男の手により背中一面に蝶を転写されてしまった桜蔵だが、いまだに蝶を消すことが出来ないでいる。学期末となり秋の修学旅行の費用を支払わなくてはならないので、桜蔵は背中の診察もかねて柾の診療所を訪れる。旅費を出すことを二つ返事で了承した柾が桜蔵に手渡したのは、現金ではなく〈骨箱〉という銘の徳利と手書きの地図。柾は桜蔵に、〈骨箱〉を質屋〈八疋〉に売って金を工面しろと命じる。桜蔵は地図を頼りに〈八疋〉を探すが、たどり着いたのは「望月」と表札のある民家で……。
この章に登場するチャラ男の幽霊は桜生(さくらお)じゃないか。桜生かもしれないと思ってはいたが、かもしれないじゃなくて明らかに桜生だった。なんでそんな事も読み取れなかったの過去の私……。
桜生とは、桜蔵の戸籍上の伯父であり、過去に柾と付き合っていた人でもある。『左近の桜』の続編『咲くや、この花 左近の桜』で初めて名前が登場する(その時は高校生時代の容姿で桜蔵の目の前に現れる)。柾がちょっとひねくれた男を好んで愛人にしがちだということが他の章で書かれていたが、桜生もまたちょっと、いやかなり癖のある人物だ。後に、桜生に男を寝とられた〈女〉(生物学的には男性)が、桜生への報復として柾を寝とり返すというエピソードがあったりするくらい。
桜生のもとへ桜蔵は柾から預かった「桜生の形見の品」を持って訪ねて行くことになったので、桜蔵は柾の差金で桜生と出会わされたと読んでもいいのだろうか。
なんの為に桜生に会わなければならないのか? 単に修学旅行費を稼ぐためばかりじゃなくて、桜蔵の背中に転写された蝶を消してもらうためだろう。
桜蔵が桜生のもとを訪ねたとき、望月家の界隈では水神祭が催されていた。また、望月家の庭には水神の井戸がある。『左近の桜』シリーズに登場する〈男〉と〈女〉が水神に関する何かだというのは『その花の名を知らず 左近の桜』で書かれていたので、水神祭の日に桜生が現れるのは偶々ではなさそう。
ということに気づかず読み流していた私の読解力やばすぎ。もっと落ち着いて丁寧に本を読もう、と反省。これまでの人生で読んで来たその他の本も大いに誤読してたり理解してなかったりしそうだから、あとで再読してみようと思った。
桜蔵は桜生と出会い言葉を交わしてそれ以上のこともするが、桜生のほんとうの相手である柾は桜生を見ることも出来ないらしいというのが、切なくていい。
浮気者の若旦那とその新妻の両方を狐が美女・美少年に化けてだます話。
泉鏡花の文章って私にとっては古文の範疇なのだが、古文というほどに現代語とかけ離れてはいないせいで現代語訳がないので、調べながら読むのが難しい。だからとても苦手。それで、『長野まゆみの偏愛耽美作品集』のページをめくる手は『狐』のとこで数週間止まっていたのだが、せっかく買ったものを積んでおくのもなんだから、頑張って読んださ。七ページしかなくてよかった。『海神別荘』みたいにくっそ長かったら辛かったから短くてよかった。
ちなみに、『海神別荘』を辛い辛いおめきながら読んだのは、『シャングリラの鳥』(座裏屋蘭丸)のなかで語られるおとぎ話の元ネタがそれだったから。あーなるほどと思った。
『狐』に話を戻すけど、耽美だからすごいというよりはオチが面白い話だった。
その他に『僕らの地球の歩き方』(ソライモネ)も読んだけど、これはあとで気が向いたら感想を書こう。Kindleでプライム0円で読めるよ!
あのさ、
ゲームの紹介プロモーション映像動画とかって今の世の中よくあるお知らせや告知の仕方じゃない、
でもあれ一瞬ネタバレ的なのが映っちゃってない?懸念あるんだけど
私の最近やってる「ダンジョンエンカウンターズ」も踏んだらお金が減る床があるの!?って
しかも公式的なやつでそういうの含んじゃっていいのかしら?って
私はこれから地下に潜っていくときに恐る恐る歩いて行くことになるんだけど、
きっとたぶんそんな床はなんにも記号とか色とか付いてないのに、
ネタバレしたところで、
初見で何も知らずに床を踏んでまた借金が増える!って泣くだけだと思うんだけど、
あとなんだかカービィも
まあ同様に同じように充実した楽しそうな見たら買って欲しくなって遊びたくなるワクワクする内容なんだけど
読んでみてなるほどー!って読んでみたいけど、
初めての夏と書いてファーストサマーウイカのウイカが初夏にかかっている感じの、
初めてのことに感動に感激に感化したいわけなの。
ああ!
新鮮みの刺身の旨味のように
海原雄山さんも思わずニッコリするような美味しいお刺身定食を食べたときの感激を覚えたいの。
だから
インターネッツの世界はなんて広がる広がるワールドなの?って思う反面
なんだかあえて情報避けをしているのよ。
でも、
私の日々の努力むなしく、
ちょっとでもカービィって検索ワードの用語をサジェストするべからず、
カービィ好きなんでしょ?ほら!カービィの情報たくさんあるよ!
うわー!ってなるのよ。
私それ全部見たいけど見たくない!ってな具合で
朝ドラ次何やるのかな?って
最低でも登場人物の相関図とかだけは見たいじゃない。
そうするとあれよ!
恐ろしいほどくるじゃない。
あれで本当に恐ろしいのが
通知で見える1行で死ぬ!ってやつ。
私その1行見たくなかったんだけどなぁーって
結果楽しみにしていたり
そうそう!
結果先に言うじゃない!
田村でも金!谷でも金!てな具合に
通知の結果の弊害というか。
そういうの多くない?
一切のネタバレ避けをしていくのがむしろ難しいところでもある昨今よ。
そう思わないかしら?
私は1ミリでもネタバレというか予備知識は入れたくないときだって有るので
はぁ。
なんか情報過多になると
厨房のその情報が入ってきたらなんだか美味しくなくなる気分に気持ちじゃない。
きっと予備知識をたっぷり仕入れて思いっ切りハードルを上げて待ちに待って飛び込み前転で入店して行列を乗り切って初めて食べるその味は、
あまりにハードルが上がってしまりきってブブカ選手も飛び越えられないぐらいな高さで
あれ?美味しいのこれ?思ったより美味しくなくない?って
だから何も考えずにお腹空いてふと知らない街の知らないラーメン屋さんで食べる知らない大将の親指の入っているラーメンの方が印象的であり抽象的でもある
そう目を閉じれば写実的にジューシーなそのラーメンのセクシーなシズル感までも思い出せるほど
まるでまるで、
スポンジのように情報を欲しがっている脳みそに染み込ませることができるのよ!
そして!
ああ!美味しかった!って
そこで初めてご馳走様って心から言えると思うの。
美味しいものを走って走って走りまわって集めてきてくれた韋駄天様に感謝!
ラーメン屋の大将よりこれ韋駄天様にリスペクト感謝してない?って
なんだか本末転倒な気がするけど、
「先生すみません、手術代の何千万円とか言うお金は払えません!しくしく」
「いや手術代はあなたの心からの気持ちで奢ってくれるこの今食べているラーメンで十分ですよ!」って
私もブラックジャックみたいなこと言いたいの!
それか麺大盛りか。
だから、
知らない街の知らないラーメン屋さんの知らない味のラーメンは私の知らない脳の中の扉を開けてくれるのよ!
知り合いの美容師さんが言ってたんだけど、
世の中には美容室やらたくさんあるけど
ホットペッパービューティーに掲載されていない美容室は世の中に存在していないことになっているらしく、
お店の前を美容院を探している人からは全く見えない様になってるんだって!
でも私そこの美容室、
グーグルマップで一番家から近いところの半径秒速5メートルほどの距離で探してみたところを見付けて行ってみたのね。
そしたら「え!?ホットペッパービューティーみて来たんじゃないんですか!?」って
高菜がカウンター目の前にあるのにビールやお冷やのおつまみにちょっとでも高菜食べてみたものなら
もう高菜食べちゃった口ではうちのスープ飲む資格は三角もありません!な勢いの顔で
「え!?ホットペッパービューティーみてないんですか!?」って
あたかもこのお店にどうやって辿り着いたのか逆に不思議に思われるぐらいにホットペッパービューティーなんだって。
なんだか本当に世の中は情報だらけだなーって。
そう思うわ。
うふふ。
事前の対処が決めてよ!
五十日は忙しいの!
朝ちょっと10分で余裕があったら嬉しい緑茶ホッツウォーラーね。
なんだか今朝ちょっと寒かったので、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
そういや探してる短歌があってさ。大学の授業で出てきたやつ。うろ覚えなんだけど、
「海との没交渉に佇んでひとり」
って感じの歌。没契約かもしれない、そうするとちょっと感じ違うね。波との、だったかも。終わりは、ひとり佇んで、かも。とか、ぼんやりとしか残っていなくて、正解が分からないんだよね。誰の歌なんだろう。
明治大正あたりの、自由律俳句の流れみたいなとこで出てきたと思うんだよ。河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」と一緒の回に習った気がする。荻原井泉水かな?って思ったんだけど、ざっと見たところ見つからないんだよね。感じはすごく似てる。「かごからほたる一つ一つを星にする」とか、あーそういう感じなんだよなーって思うんだけど。
短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎
すてっちまおか、の音がいい。
捨ててしまおうか(いやそんな事はできない)の反語と習ったけど、本気で捨てたくなることがあり、同時に絶対に捨てられないとも思った。反語ではなくアンビバレントに引き裂かれる。
作者は技巧で書いたのかもしれないけど。発表当時は非難轟々だったらしい、時代的にまあそうだろうななあ。
/あっ、俳句じゃん。間違えた。