はてなキーワード: 修道院とは
推理小説の登場人物が殺される描写を指して「殺人事件の被害者の気持ちをないがしろにしている」とか言われても困惑する。
それと同じことで、表現の規制戦士をモデルとして描かれたわけでもないマンガ絵を指して「この絵は、性的に消費された私の気持ちをないがしろにしている」とか言われても困惑する。
妄想を伴う精神疾患に罹患した人は、テレビCMや街角のポスターから"自分だけが読み取ることが出来るメッセージ"を見つけ出すらしい。それと同じ状態だと思う。こういう妄想性の精神疾患の苦しみを、罹患経験の無い人間や、精神医療の専門教育を受けていない人間は理解できない。それは仕方が無いと思う。
自分に無関係な絵を見て「私が性的に消費された被害をないがしろにしている」と言う人の精神を救えるのは、表現規制ではなくて「あなたの体験は大変でしたね」と共感の言葉を掛けてくれる医療専門家と、煩わしい世間から離れられる施設だと思う。もしくは、修道院みたいに俗世間から隔絶した女性だけの場所で自給自足生活を送るとか。
これは神学命題。プロテスタンティズムと決定論に対して言及がないので不完全。
アメリカの歴史の初期においてピューリタンが重要な役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。
フス戦争やカルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学的決定論)である。カンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」
というのがあった。
こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。
人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。
因果が逆転してるというかなんというか。
この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!
となっていった。
(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイプのプロテスタントもあります)
「世俗社会の修道院化」によって、日常生活の全てを信仰と労働に捧げる。
節制と禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神で禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。
この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像の象徴。
…というあたりで、発展しすぎた禁欲的資本主義は本来の宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。
自己研鑽しない者たちに対する憎悪や侮蔑は、従来の「つまり予定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。
・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神"という本とかで書いてたこと。
今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである。
(なぜならそのほうが発展に有利だからね)
----
補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸のカリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からのカトリック移民が多いからです。
ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想的原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的にOK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。
そして何より、【西海岸のリベラリズム】と対極っぽそうな南部のバイブル・ベルト。
この地域は基本的にプロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的。
ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想が固定化されたっていうのとかありそう。
これは神学命題。プロテスタンティズムと決定論に対して言及がないので不完全。
アメリカの歴史の初期においてピューリタンが重要な役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。
フス戦争やカルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学的決定論)である。カンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」
というのがあった。
こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。
人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。
因果が逆転してるというかなんというか。
この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!
となっていった。
(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイプのプロテスタントもあります)
「世俗社会の修道院化」によって、日常生活の全てを信仰と労働に捧げる。
節制と禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神で禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。
この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像の象徴。
…というあたりで、発展しすぎた禁欲的資本主義は本来の宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。
自己研鑽しない者たちに対する憎悪や侮蔑は、従来の「つまり予定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。
・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神"という本とかで書いてたこと。
今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである。
(なぜならそのほうが発展に有利だからね)
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補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸のカリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からのカトリック移民が多いからです。
ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想的原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的にOK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。
そして何より、【西海岸のリベラリズム】と対極っぽそうな南部のバイブル・ベルト。
この地域は基本的にプロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的。
ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想が固定化されたっていうのとかありそう。
男が嫌いで憎いという気持ちはよくわかる
すげーよくわかる
ひどい目にあったりひどい男が悪い事したのをニュースとかで見て義憤に燃えとるのは普通の感情だからな
だが憎たらしい男と結婚して女をうんで復讐してやるけど男に媚びざるを得ないのが憎いってどういうことだああ~~~っ!?じゃあ結婚なんかせず一生一人で暮らせばいいだけっつーのよーーーーーッ!ナメやがってこの言葉ァ、超イラつくぜェ~~~ッ!!男に媚びたくないけど、結婚は現実として寄生せざるを得ないってただのクズじゃあねーか!男が憎いんなら修道院なり寺に出家なりいけってんだ!チクショーーッ!
どういう事だ!どういう事だよッ!クソッ!どういう事だッ!ナメやがって、クソッ!クソッ!
冒頭のタイトルでソーサラーズストーンってかいてあって、えっ魔法使いの石?っておもた
マクゴナガル先生、原作よんだときは若い女の先生だと思ってたからはじめて映画みたときはショックだったなあ
でもどっかでみたことある・・・と思ってたらいっしょにみてたひとが天使にラブソングをの修道院長じゃないかっていった
ハーマイオニーは過剰な演技と吹き替えた子役のわざとらしい演技がぴったり
地上波用にいろいろカットしてるせいか、場面場面がかなり飛び飛びの印象うけた
結構詰め込んでんなと
原作は炎のゴブレットの途中で読むのやめて映画も2作目くらいまでしか見てないけど、
もともと人の顔を覚えるのが苦手だった。
クラスメイトの顔も三学期になってから、8〜9割覚えられるくらいだった。
見たことがあるかどうかも分かる。
ただし、誰だかわからない。
みんな似たような髪型、格好をしている。多分半分くらい入れ替わっていても私はわからないだろう
いっぱいいるEXILEの人たちも、雰囲気でEXILE諸々のグループの人々なのだろうと分かるが、個人がわからない
アイマスや、ラブライブ、あんスタなど、イケメン、美少女を謳ってメンバーが多い(5人以上から怪しくなる)と、誰が誰だかわからない。
ただの色違い、髪型違いだろ!とわからない自分を棚に上げて、わからなくて当然だと言いたくなる
もちろん誰が誰だかわからないので、始めようという気にもならない。
キャラクターエピソードを語られても、すぐ私はそいつを見失う。
「木を隠すなら森の中」をされているような気持ちだ。
興味があってDVDを借りた。修道院を舞台にしたミステリーだった。
出てくるのは、しわくちゃのおじいさんばかりで、修道院の僧服なのだろうか、とにかくみんな同じ格好をしていた。
犯人はこいつだ!
私は「誰だ」と思った。
宗教改革以前のヨーロッパなら少女がマーケティングなど考える必要もなく、「貧民救済など善行こそ天国への一里塚」の精神にもとづき、教会や修道院を基盤としたカトリックのネットワークのどこかが彼女に手を差し伸べたのではないか。
ルター派を奉じる19世紀デンマークではそれに期待できない。英国国教会のイギリスでも、修道院解体後に制定されたエリザベス救貧法は貧者を労働可能な者と不可能な者に分類し、前者には労働を義務化し、強制するものであった。
近代ヨーロッパの誕生は、ヴェーバーが言うところの「経済的個人」の析出、およびマルクスで言うところの「二重の自由=疎外」とともにある。
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200904203318
ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツを精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。
特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事そのものが精神的に不健康である」という意見には唸らされた。
一般に販売されているゲームで、自分がクリアしたことのあるものに該当はなかった。
やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲームは審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。
それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。
なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人が制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。
以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。
見た目はほんわかしているが、中身はエログロ(特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。
プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。
ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。
どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。
特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。
私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。
あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?
違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛や嫉妬や絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。
大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子。旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。
パズルゲームでの得点によって物語が分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズな誕生日パーティーをしたかっただけなのだ。
プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイルや画像データが現れたり消えたりする。
最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。
いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。
以前の作品である「愛と勇気とかしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味でビビらせることに全力を注いでいる。
プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームはプレイヤーを驚かせてくれる。
数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康な作品だ。
ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年は絶対にプレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。
体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。
作者、特に2周目の恐怖演出を担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味な演出だった。
「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷なゲームを作って社会に復讐しようとしたんじゃないか?」
私はそう推測した。
「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的な確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメントと一貫性。
プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームをクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームをクリアできた。俺はチキンじゃない!
終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味な演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームをプレイした時間が無駄だったと認めることはできない。
そんなことをすると自分は愚か者だったことになる。だからこそ、個性的なゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由のひとつだ。
今までにないタイプのゲームだったのは間違いない。ホラーゲームが好きな人にとっては珠玉の一品だったと思う。私も、このドキドキ文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。
名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。
この作品は、上下巻の約700ページ(しかも行間がほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。
①ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする
②騒ぎの最中かその前後のパートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる
③ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る
エログロ小説と世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サドは貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターンで小説を書き始めたタイプの人だ。
この小説が有名になった理由のひとつは、サド自身が社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。
哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説のキャラクターは喋りの量が半端ない。ドストエフスキー並みだ。
※一部のみを抜き出した。この場面の文字数は引用箇所の軽く数倍はある。
「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16
今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。
悪徳の栄えで論じられている思想はニーチェやハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。
私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。
今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。
私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ちに気持ちを打ち明けるところだ。
※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。
「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
「なら全部すっかり話してください!」
「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
「どうしたと言うんです?」
「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58
ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエットは修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。
その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄えの醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。
物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間は自然に有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者が翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。
年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。
いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。
この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。
アメリカの田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭りの観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。
という言葉が脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。
この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。
メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。
巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。
運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元の警察に相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。
実際、一度はルースの家から脱出に成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。
ルースやその子ども達からの虐待はさらに苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…
この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。
今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックスに映画があるらしい。今度見てみることにする。
作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。
あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界の経営者として成り上がっていくというもの。
昭和の時代の話なので、解放同盟や共産党や右翼にヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。
問題なのは、ノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。
作中では、実際に存在した人物の名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。
作者と新潮社は解放同盟から怒られた。出版元である新潮社はHPで謝罪文を出している。作者である上原氏もnoteで反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。
巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。
きっかけは何だったか、そうそう鈴村さんの生放送のラジオに真綾さんが出演されたのを聴いたとき。
その時たまたま見かけたファンの方のツイートで、真綾さんの「from every where.」のことを知ったんだった。
調べてみると真綾さんのヨーロッパ一人旅のことを書いた本だそうな。
なんだかとっても気になって、でも正直言って真綾さんのファンなわけでもなし、旅行だってどちらかといえば好きじゃない。
いきなり買うのはなぁ、と部屋を埋め尽くす物の山々を見て、とりあえず図書館で借りよう、そう思った。
ここで大事なのは借りようと"思った"だけで、"決めた"わけではないということ。
実際それから2020年春になるまで私は地元の図書館の蔵書検索すらしなかった。
2020年、いま現在もその渦中であるが、おそらく歴史に残るであろう未曾有の事態に世界中が襲われている。
様々な業種がコロナ禍にあえぐ中、書籍の売上はどうやら好調だったらしい。
確かに営業時間を短縮し、人数制限をして営業してくれた駅前の個人書店も、いつになくレジに人が並んでいた。
私自身もご多分に漏れず本を読みたくなり、そこで思い出したのだ。
坂本真綾「from everywhere.」
iPadから蔵書検索をしてみようとアクセスすると、当然だが図書館も閉館中。
外出自粛要請が解除され、徐々にお店や施設が再開しはじめ、蔵書検索機能も復活した。
早速、気になっていた小説2冊とともに予約。最寄りの図書館には無かったものの、貸出待ちをしてる人はいないようで、すぐに他館から届くだろうと思っていた。
というか、知らないところへ行くのがあまり得意ではない。
旅行先の土地へ着いてしまえばあまり気にならないのだが、それまでが非常に億劫である。
海外へのフライト中なんて泣き出したくなるくらい不安で不安で仕方なくなってしまう。
以前たまたま見た某バラエティ番組で「寄り道をしたり、今日は違う道を通ってみよう、とならない人は適応障害になりやすい」という精神科医の発言を見た。
そのとおり、私は適応障害を発端としての諸々で長くポンコツになっている。
じゃあそうならないように寄り道をしろ、知らない道を歩けと言われても、そもそも知らない道に入るだけで不安になるのにどうしたらいいのか。
近所を2~3時間散歩するときだってグーグルマップが頼みの綱なのに。
そんな私にとって真綾さんが書き記した数々の土地での不安な気持ちは正直心がざわつきもした。
閑話休題。
読みすすめてしばらくして気付いたことがあった。
「そりゃ坂本真綾が書いてるんだからそうだろう」と思われるかもしれない。実際彼女のファンの方はそうなのだろう。
だがしかし、私が知ってる坂本真綾の声はほんの数本のアニメか、数曲の歌声か、何本かのラジオ等でしかないのだ。
彼女が長年ラジオをやられているのは知っているが、一度も聞いたことはない。(ファンの方、関係者の方もしこのブログを見てしまってご気分を害されたらすみません)
なのに何故かすべての言葉が彼女の声で、間で、温度で聞こえてくるのだ。
ローマのそばの山の頂上のB&Bにて彼女が山中湖を思い出す中で、彼女の作詞した『I.D.』という曲の歌詞が出てくる。
http://www.utamap.com/viewkasi.php?surl=k-000640
それだけでとても幸せな気分になれるんだ
だから堂々としていればいいのさ
心と同じ声になるように
何度も何度もその部分を読んだ。
指でなぞりさえした。
心のなかで読み上げた。
その時頭の中で聴こえる声は坂本真綾ではなかった。
いま私が好きなもの。
それを見ず知らずの人たちに根拠なく叩かれている。
直接言われたわけじゃない。ただのインターネット上のデカイ声に殴られているだけ。
別に私自身が貶され、謂れのない誹謗中傷にあえいでいるわけじゃない。
そう思って息を潜めて周りの様子をうかがって声を出すことに疲れていたのかもしれない。
私がいまこの本を手にとったのは、この言葉に出会うためだったのかなと思えてちょっとうれしくなった。
37日間のひとり旅を終えた真綾さんの元に届いた数々のメッセージ。
これはあの時の彼女から、これはあの時出会った彼から、読んだばかりの彼らの姿は鮮やかに呼び起こせる。
シャルル・ド・ゴール空港で書かれた真綾さんからの最後の手紙。
このとき市橋織江さんが撮った坂本真綾はどんな表情だったのかなって想像しながら読んでいた。
日本に帰ったらまず「あなた」と一緒にしたいこと、その文章を読んだ瞬間なぜか急に涙が出た。
出たなんてもんじゃない、しゃくり上げるほどの大泣きだ。
この気持は何だ?
夜、車の中から街頭を眺めていて感じる帰りたい切なさと、安心と、羨ましいほどの愛情。
きれいな気持ちじゃない、でも決してドロドロはしていない、いろんな何かがぐわっとせり上がってきたのだ。
いまだかつて経験したことのない感情の揺さぶりに驚きすぎて、私もこの事を文章に残そう、そう思って勢い任せに書き始めたのがこれだ。
誰に読んでほしいわけじゃないけど、誰かに聞いてもらいたかった。
坂本真綾の「from everywhere.」のことを。
メモ帳を立ち上げると同時に、私はこの本「from everywhere.」を購入した。
正直何度も読み返すかと言われたらわからない。
また同じように涙するかと言われてもわからない。事実この文章を書くために最後の手紙を読み返したが泣く気配はなかった。
真綾さんのファンの方で、実際同じように彼女の足跡をたどって旅行をした方もいるのではないだろうか。
ストラホフ修道院、モルダウ川、ピアノのある老舗のカフェ、素敵なご夫婦と過ごしたB&B、サン・ジョルジェ城…
どんな景色が見えて、どんな匂いがして、どんな音が聴こえるのか想像をかきたてられる場所ばかりだけれど、きっと私は行かないのだと思う。
でも何故か思ってしまったんだ。
ある宗派の僧侶でしたが先日めでたくキリスト教徒となりました。
日本では少数派ですが、教えをしっかりと守り修道院生活を続けるものです。
改宗する前の私は僧侶が妻帯することは絶対的に反対派で積極的に宗内に働きかけてきました。
変じゃないですか?戒律で決められている以前に僧侶は布施で生きる乞食なんですよ?
巷では子どもが欲しくても1人が限界という生活の中で、豪華な結婚式を挙げて何人も子どもを産むっておかしくないですか?
それって全部お布施なんですよ?肉食妻帯している中で会議では檀家離れを問題にしてばかりで自分たちの行いの1つも省みない。
突然すべてを変えるのは混乱を招くので、まずは宗派を代表するような立場となる最低条件として不妻帯を提案し続けました。
ある時、突然に仲の良かった僧侶たちが私との接触を避けるようになりました。
同じく不妻帯を貫いていた僧侶が「部長級たちがお前との接触を避けるようにお達しを出した」と告げてくれました。
また上級職からは「身の振り方に気をつけろよ」「不妻帯しろって俺に言えるんか?おお?」と直接言われたこともありました。
管長や長老というものは既に世襲化し、本山は一部の有力寺院の私有財産化してしまい、もはや手遅れだったのかもしれません。
上級職の息子が不倫しようが色恋沙汰で喧嘩をしようが、エスカレーターで出世していきました。
誰も咎める人もおらず、私が僧侶以前に人としての問題であろうと言っても無駄でした。
ある時、ある僧侶の結婚詐欺をしかる機関に相談したことがありました。
女性は突然に別れを告げられ、翌日にその僧侶は別の女性と結婚。
彼は女性に対して結婚すると告げ、自分のお寺を持ちたいからと女性から数百万円の借金をしていました。
大学から何年も付き添ってきた40歳近い女性を捨てて、その僧侶は師僧が紹介した若い金持ちの娘を選びました。
その女性は心身ともにボロボロで、見る影もないほど別人と化してしまいました。
翌日、私はその僧侶の師僧(本山の塔頭寺院住職)に呼ばれて次のようなことを言われました。
「お前やろ通報したの。まあ宗教内部の問題として外部権力なんて入られへんからな、覚えとけよ」
僧侶が不妻帯なのは当然なのではないですか?カフェを開いたり客寄せをする前に僧侶としての生き方を貫くべきではないのでしょうか。
もう僧侶として僧侶というものが分からなくなっていたとき、古いキリスト教の修道士の友人に相談しました。
お前に何があっても全力で守ってやる。
お前の求める道はヨーロッパの修道院にあるから手紙を書いてやる。
そこでは手を取り合いながら厳しい戒律を守って生活をしている。
お前にはそういう場所こそ相応しい。
そう言われ、見学をさせてもらって晴れて修道院生活をすることになりました。
仏教が悪いわけではなく、それを運用する側に問題があったんだと思います。
今でも仏教は好きです。
ここは集合知に頼ろう。
ジャン・レノ主演。イタリアかそこらへんのある街に、映画のキャストを発掘する為にきた彼はオーディションを開催す。
参加者からオーディション費用を徴収するが、実はペテンで映画もオーディションも嘘。
そうとは知らず街の人々は明日の大スターを夢見てオーディションにくる。
ある人は、街のフィクサーであり武勇伝を語り、またある人は同性愛者である事を隠しながらも銀幕デビューを夢見る。
少し知的な障害を持つ少女と出会って惹かれ合うが、彼の嘘が街中に知れ渡ってしまい袋叩きと刑務所行き。
出所してきた時には、彼を迎え入れる者はおらず、かつて愛した少女は彼がいない間に男たちのいい玩具として扱われ、心を壊して修道院の保護施設で暮らしていた。
....っていうのを覚えてるんだけど、誰かタイトル知らないですかね?
修道院のシスターたちがデロリスのおかげで笑いの絶えない教会づくりをしていく姿が気に入ってる。
下手だった聖歌もデロリスの指示でどんどん上達していって、歌うだけで聴きに来ている人たちまでも身体が動くような
3作目の制作が確定してから半年くらい経つけど、またこの作品を見ることが出来るのが楽しみでならない。
ただ、ちょっと残念なのはDisney+という動画配信サービスという所。
まあ…動画配信サービスって契約しづらいんだよねっていうのも理由なのだけど。
3作ってるし…ついでに4か5くらいまでは続かないかななんて期待したい。
でも、ウーピーも高齢になってきたから辛いかな。そもそも3が売れるとは限らないし難しいかな。
今も年に軽く5~6回は見てる。
我ながら、よく飽きないなあ…。
ドラゴンクエスト5は小学生時代に何度もやり毎回フローラを選んでいた。
好きな仲間モンスターはグレイトドラゴン。 (ヘルバトラーは一度も仲間にできなかった)
今回知り合い、はてなで話題になっていたので映画館で鑑賞してきた。
以下感想箇条書き。
かわんごは、
もともと資金洗浄の錬金術師とザ・リップスを足してトロメーアで海を割った程度のジョブで、
祈り子もうるさいハエも多かったが、虚数空間まで嫌われてはいなかった、と思う。
ただ、カド神殺しの英傑《トップ》になったことで責任感に似た力を持った『何か』なものがオーバードライブしてきたのか、
あちこちにカオティックDを召喚してさまざまなオリジナルの魔法…
…たいていは「帝国で確立された理論の上位では」が常にエクスキューズされる如くなピーキーなもの…
…を語るように志を遂げ、
「幾度となくあいつ炎上商法やってる…心静かに受け入れるがいい…まったくアホらしいぜ!」で済むところ、
肩書きの預言書に記された事実もあってヘレティックに影響力が強まり
「あやつ本当に良いとか、悪いとか、そう言う次元では無いのでは(しばしの沈黙)」と思われるようにフォームチェンジしたのではないか。
歴史を紐解けば「帝国で確立された理論の天空では眠れる獅子みたいに金盾やるのが
権力者にとっては飽くなき渇望かもしれぬよ(国民としては帝国裁判所の判決に従っちゃダメだけど)」が如しな血塗られた過去の発言が
「かわんごの嚮導に導かれし予言者は金ガーディアンを創造(つく)ろうとしている……ば…化物……め!!!」などと言われていたな。
直接的にはこれが最大のオプティマと同等の戦力を有する。
(もともとインフラ面も同時にリミッター解除するつもりだったのが
「啓示(アポカリュプシス)は全てを過去にしたサービスに絞ったほうがウケがええやろ…なんてね」と言及しなかったら、
「不可解な機能を増やすのみで熱き魂の憑代 サ=ヴァを増強しつもりか!」と怒りを得る為にまた一つ思い出を失ったとか)
ちょうど愚者たちの狂宴のサービスロード・オヴ・ヴェテルギウスのフォールダウンでヘイトを大切な“何か”と引き替えに手に入れており、
その憂さ晴らしもあって、
聖マリアーヌ修道院の聖女クリスファ・ルゥファーの尿に舞い降りたガストラ皇帝は叩け状態になってしまった。
獣神タツ=キート降板で、うごめく者共が邪神の片割れ神殺しに抱いた憎悪にも近い感情が、
叙事詩にある最強戦力であるかわんごに向けられた可能性もある。
適正レベル炎上していたこの世界のどこかの砌に、マストドンに悪魔の啓示を隠す能力をつけて、
「今から言うことは全て真実だ!よく聞けよ!けもフレにはやる気持ちを抑えられずて」というナンバリングタイトル→(クリックしたら)「これが帝国の……書く“世界の真実”さあ、星よ! 答えを見せろ!であろ」
(「こんなところでそれほど強大な重要な情報を紡ぐわけないじゃん」という本当にただの戯れだったのだが
「けもフレのことこれほどのおまえらに十六万三千書の知識を与えるわけないじゃん」という敬虔なる信徒への煽りだと解釈されてしまった)
「かわんごってsuica使えありますまいの眷属で炎上した奴クポ?」
みたいな戯言を“罪【シン・ギルティ】”イクツ・カ・マジカント見た気がする。
「理屈を説けば誤解という名の総体してもらえる」みたいにみたいに預言書を信じてらぁんじゃないか。
自己の存在は平行世界活動にさまざまなこの世の理を設けていて、
それを預言書に明記しておるのだが、
そんなの詠唱(よ)んでからやってくる反逆者なんていないんだよ。
(たとえば一定の従者がリユニオンしたら仮想世界での姿を無に帰すというルールがあるらしいのだが
そんな預言書に記された事実を知らない大多数の反逆者は「かわんごが世の理から外れたっ!」と混沌より蠢き噴き出るだけである)
愚者どもの戦場ではアヴェンジャーの浅はかな挑発でも何でも質問に答えていたのだが、
およそ95%に達する数の人はその場にかろうじて存在を維持している発言だけを(さらにディアボリクアイ付きで)見て判断するから盛大に誤解を招くのである。
ただでさえエクスキューズが増殖を続けているのに、厳選された個のエクスキューズを伝えようとしない!
「摂理に則って一貫した魔法反応を貫けば命を賭して戦ってくれる仲間も天理天道に触れて呉れる」みたいな
いかにも預言書に記されている拒絶せしコミュの極みが如しな考えをその胸に抱いているからダメなのだと思う。
存分にその“力”を振るうがよい、かわんご!