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はてなキーワード: 信玄とは

2022-11-18

anond:20221118111028

信玄守護から始まって甲斐信濃駿河を手に入れたし、砥石川中島以外にほとんど負けてないからまあ

 

しかし、戦国時代後期に偏りすぎなような

畠山義就六角高頼朝倉宗滴北条早雲あたりが挙がってもいいと思うし、伊達政宗が挙がるなら津軽為信が挙がってもいいだろうと思う

結局、大河ドラマは強いな、って感じ(島津を除く)

anond:20221118114247

コーエー信長の野望では90年代までは信玄1位信長2位、で

2000年代以降は僅差で1位信長っていう形に落ち着いたようですね

歴史人物の最強ランキングは?

1位信玄は意外だった

ランキング結果

1位武田信玄 78.2点(1,693人が評価) ...

2位上杉謙信 78.2点(1,671人が評価) ...

3位伊達政宗 75.4点(835人が評価) ...

4位織田信長 74.9点(1,287人が評価) ...

5位真田幸村真田信繁) 74.4点(1,102人が評価) ...

6位本多忠勝 ...

7位島津義弘 ...

8位真田昌幸

2022-09-23

anond:20220923121509

よく大友宗麟とか武田信玄とか言うけど、「宗麟」「信玄」は法名から、「休庵宗麟」「徳栄軒信玄」と名乗るのが正式なんだよな。

2022-08-22

勝手に言ったことにされる名言

ルフィ「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」

武田信玄真剣だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳ばかり」

考えればこんなこと言うキャラじゃなくね?って感じられるよね。

ルフィこんな細かいこと言いそうにないしフーシャ村から新世界に至るまで思い返してみてそんな場面もなかっただろ。

真剣だと知恵が出る」は正範語録という奴なんだけど、あまりにも現代意識ビジネスマンに都合がよすぎる。作者不明とか渡辺某の作という話もあるが正範語録がまるっと武田信玄の作というネットの怪しい情報もあって、ググッた程度では真実にたどり着かない。信玄公、これをどんな局面で誰に言ってるんですかね。

2022-08-07

霞提越水洪水と思えないのは現代常識のため

長浜市高時川が氾濫した航空写真の件で「あれは遊水地だから洪水じゃない」と言ってる人が多いのだが、あれも洪水です。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/kentaoki/status/1555648450955735040

 

洪水っていうのは普通水が流れない場所に水が流れてる事をいうので、河川敷河原が水没しているのも洪水なのだ

から記事の「河川敷も水没」っていう記述文句言うのもおかしいのである

 

川と人間活動地が堤防で仕切られているという常識最近のもの

そもそも河川堤防の向こう側=人間の営み無しの地というのは今は常識になっているが、この常識は精々50~100年程度の歴史しかない。

人類文明有史以来水と戦ってきたが、それは必ずしも堤防で川を閉じ込めるという意味ではなかった。氾濫が頻発する箇所は氾濫するに任せておき、水が少ない季節に洪水で肥沃になった土で農業をするという方法もあった。

田んぼというのはこの最たるもので、田んぼに適した土地というのは要するに河川の氾濫原だ。水も引きやすいし度たびの洪水でぐちゃぐちゃで栄養豊かな土のある平地。

そもそも低地での河川というのは思いっきり出鱈目に蛇行したり枝分かれしたり三日月湖が残って沼になったりと無茶苦茶な流れ方をするもんである

例えばこれは熊谷の昔の河川状況を地質から推定した地図だが、見よ!この荒川の出鱈目ぶりを!

https://maps.gsi.go.jp/#13/36.175990/139.352903/&base=std&ls=std%7Clcmfc2&blend=0&disp=11&lcd=lcmfc2&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

 

そもそも真っすぐな箇所なんて皆無だったのだ。真っすぐな箇所は全て明治以降工事したもんだ。

そのままじゃしょうがいからこのうちのある程度真っすぐな河道を選んで繋げたのが今の荒川だ。しか江戸初期まで元荒川を流れて幸手とかをぐちゃぐちゃにしていて開拓邪魔なので切り替えられたのだな。

それでも蛇行しまくりで氾濫起こしてばかりの川から田んぼ集落をを防御しなきゃならない。

そこで河道から1km近く離れた箇所に低い堤防を築き、その堤防の中の田んぼや家の人は洪水の際は泣いてくれやとしたのである。これを「堤外地」と云う。堤防の中が堤外なんだな。

こうすると水の流れが弱まるし遊水地効果で水位の上昇も抑えられるから堤防に対する攻撃性が低くなる。

で、この広い堤外地があってそこが浸水すると当然泣く人も多く出るというのが当たり前の状態だったのを近代治水で無くして来た、というのが今の状態なのだ

 

から外地浸水するのを「洪水じゃない」と考えるのは現代治水が頭にあるからなのだ

一方で霞提というのは近世からある訳で、こっちは「堤防で全てが守られるのが当たり前」じゃない時代のものなので、そのせいで水没した土地を見て「これは洪水じゃない」と言っちゃうわけだ。

現代のものを見て現代価値観を援用するので、被害が出て泣く人もいる状況を「洪水じゃないし問題ない」と処理しちゃうのだ。

という訳であれもちゃん洪水です。

以上の理由から河川敷が水没するのも洪水であるのはお分かり頂けるかと思う。堤外地があるのが当然だったし今も残るので「洪水」は堤防の向こうこっちを隔てないのでありますよ。

 

地役権近代制度

地役権の事を書いてる人もいるが、これは河川工事で誰かの田んぼを遊水地にする時に設定するものだ。

例えば先の荒川でいうと、熊谷彩湖までの河川敷というのはとても広い。特に鴻巣の辺りは河川敷が2km以上あるのだな。広すぎ!

これはこの広い河川敷洪水時の遊水地にする為で、大正工事がされた。

すると当然この中の家の人は田んぼ洪水時に水没しちゃうし、家を建ててもパーになるから建てられない。

こういう時に地役権設定がされるのだ。

地役権は元々、あんたの土地を使わせてほしいから金出すよ、でも工作物とか建てないでくれよって時に、登記簿に設定する民事契約の事だ。水路引かせてとか通路引かせてっていうのが多い。

河川場合は「この土地洪水で水没するって使い方させてくれ」っていう国と地主契約だな。

一方、霞提は近世の仕組みだから、わざわざ地役権設定する動機っていうのがないので、補償を受けらるようにはなっていない可能性が高い。(農協共済で救済されるが)

 

という訳で、堤外地と遊水地、地役権といった概念時代背景がごっちゃになって、古いものを見るのに現代基準を拡大しているのが誤解の原因と思われる。

色々トリビア

これだけじゃなんなので細かいトリビア開陳すると

 

古い堤防の跡は結構残っている

昔は河川から離れた個所に堤防を作ったと書いたけど、その跡は住宅地の中の一段高い土地として残ってる事が多い。

宅地化すると土地を均す事が難しくなるのでちょっと高い土地っていうのが残り易いのだな。~~曽根なんて名前地名があるところはあやしいぞ。

こういう土地ゲリラ豪雨の時にも浸水しにくくてお得なんだけど、その近傍は水がせき止められるので水位が上がりやすく注意が必要だ。

 

外地は実はあまり浸水しないが…

外地であっても浸水しにくい箇所と水位が上がりやすい箇所がある。

例えば荒川彩湖下流の笹目橋付近が狭いのでその下流は水位が上がり難い。また熊谷彩湖中流域の堤外地に家やサーキット教習所がある所もあまり浸水しない。40年くらい水没しなかった箇所が殆どだ。

それで当初は水没して困るものは置かなかったのだが、段々とエアコンとか高価な家電設備とかを置くようになってしまい…

そこへ台風19号ですよ。当然電気モノは全滅で結構な損害を出したと聞きます

 

横提を電車が走る

近世の霞提に対して、近代治水では横提というのを使う。

広い河川敷普通堤防と直角の堤防を築いて、洪水時に河川敷の方の流れが連続しないようにする。遊水地機能をアップさせて下流の水位が上がるのを遅らせるようになってるわけだ。

例えば荒川を渡る川越線は鉄橋を渡る前に土手を走るが、実はこの土手、新たに作ったものじゃなくて横提の上を走っているのである

 

江戸川区、洪水警報が発令されてからじゃ逃げられない

江戸川区の殆ど荒川破堤時には浸水地域になると区が警告して話題になったことがあったが、荒川上記構造により豪雨発生時から水位が最大となるのに1日以上余裕がある。

荒川堤防のかさ上げ工事を行っているが、ネックになるのが鉄道の鉄橋で、鉄橋の部分だけ堤防が低い状態になっている。

まり水位が上がると一番危険なのが鉄橋であり、越水破堤する場合は必ず鉄橋付近から起こる。

以上の為に、水位が上がると鉄道が不通となるので、サイレンがなってからでは電車で逃げる事が出来ないのである

必ず前日に決断せねばならない。

 

最近まで二子玉川には堤外地住宅地堤防の切れ目があった

多摩川二子玉川駅の真下から南に掛けて、堤防住宅地の外側にある箇所があった。

たここには煉瓦造りの堤防の切れ目があった。

元々ここは料亭芸者屋敷などがある地域で、大正近代的な堤防工事をする事になったら「堤防で川が見えなくなる、商売あがったりだ」と反対されたのである

そこでここを堤外地として堤防を築造して、交通の為に堤防に切れ目を入れた。洪水時になりそうなときは2枚の板を入れてその間に土嚢を投入する(角落しという)。

角落しが間に合わない場合ニコタマ全域洪水である。堤外地料亭群は全部水没して流されてしまうが契約なので仕方がない。

ところがこの料亭群は戦争で早々に潰れて宅地として売りに出されてしまい、危ない住宅地が出来てしまった。

この為に10数年前から新たな連続堤を作っている。つまりこれまでずっとニコタマは水害的に危険地域だったのだ。

 

信玄提あまり残ってない

霞提の代表格は信玄提なんだが、甲府盆地河川近代化が進んで殆ど連続堤に改修されてしまっている。土地利用が制限されるので発展の障害なっちゃうので仕方がないな。

支流に幾つか残すのみである

2022-06-22

anond:20220622145532

出生

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安祖父春日大社奉仕する猿楽(現能)金春流猿楽師で、父の信安の時代大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。

武田家臣時代

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。

武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。

ただし一説では、武田勝頼からまれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

徳川家時代

遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行連署傳馬掟書』慶長6年1月個人蔵)[2]。伊奈忠次彦坂元正連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている

甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。

長安大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正106月本能寺の変信長が死去して甲斐家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康本多正信伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安釜無川笛吹川堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康関東に移ることになる。この時、長安青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正らと共に奉行代官頭)に任じられ、家康関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。

また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安長谷川長綱彦坂元正伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。

長安はまた、家康に対して武蔵治安維持国境警備重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後豊臣氏支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月大和代官10月に石見銀山検分役、11月佐渡金山接収役となる。

慶長6年(1601年)春に徳川奉行補佐にて甲斐奉行8月石見奉行9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康長安経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである

慶長8年(1603年)2月12日家康将軍に任命されると、長安特別従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。

慶長10年(1605年)、大久保長安普請奉行として武蔵御嶽神社の本社普請

慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安家康から全国の金銀山統轄や、関東における交通網の整備、一里塚建設などの一切を任されていたのである現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である

これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったこから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的支配を任されていたと言われている。

慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。

しか晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さら正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日中風のために死去した[5]。享年69。

長安の死後に生前不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安嫡男藤十郎(37歳)、次男外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。

人物逸話

ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクション対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分遺体黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。

一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗幕府転覆計画賛同していたと言われている。

フィクション作品の影響

息子の義信の謀反、諏訪氏出身側室諏訪御料人(諏訪御寮人)の子の勝頼が武田氏家督を継いだ史実や、テレビドラマ小説などの創作物の影響により、信玄との不仲説や悪妻説などが流布している。また不器量で暗愚な上に公家の家柄を鼻にかけ、高慢嫉妬深い悪妻という否定的イメージを持たれることもある。

これらのイメージはほぼ全て新田次郎作の小説武田信玄』によって作られたものである。ただし、新田原作の映像である1988年NHK大河ドラマ武田信玄』では、紺野美沙子が演じる三条夫人自身信玄を慕うあまり南野陽子が演じる側室の湖衣姫(諏訪御寮人)への嫉妬心を抱く、「恋敵」としての役回りという感が強い。小説内の悪女要素は小川眞由美が演じる侍女八重が演じた。また、小説版でも中盤以降は禰津御寮人や嶺松院と良好な関係を築こうと努力したり、自分の意固地さを反省したりするなど善性の面も描かれている。

2007年NHK大河ドラマの『風林火山』(井上靖原作)では、原作とは違い、可憐で繊細な少女というイメージに転換。池脇千鶴が演じる三条夫人は全く高慢なところがなく、ひたすらに晴信を慕いながらも芯の強い女性を演じている。唯一、偶然に晴信から柴本幸が演じる由布姫(諏訪御料人)への恋歌を目にしてしまい、女心から嫌味を言うシーンがあるが、その直後に目に涙を浮かべるなど一貫して純情な乙女として描かれている。また一方では諏訪御料人のイメージも「軟」から「硬」へ180度転換していることから一般的に浸透してしまった歴史通念に対する、制作側の意図的な挑戦であると言えよう。なお、同じ井上原作映像である1969年邦画風林火山』では久我美子が演じている。

2022-06-19

秀吉って信玄をディスってたんだな

秀吉武田は動く動く詐欺で構えてばっかりだったなあ」

真田昌幸「いくさは動かずに勝つが至上です、武田勝利した後に押し付けたことはありません」

と若干の秀吉ディスで返している

このエピソードは知らんかった

まさゆき信玄愛が感じられる

2022-06-13

徳川家康は記録に残っているだけでも最低5回は命を狙われ、すべて事前に察知して乗り切っている

信長の野望の「暗殺システム」ってすごかったよね。

信玄とか謙信とか強い大名には

なかなか成功しないけど

にんじゃ→あんさつ

グリグリグリって暗殺できると

次の代のボンクラ即位するってやつ。

光栄テクモでも

子供作れたり(三国志8)とか

はあるけど

主人公死んで代替わりできるゲームって少ないですよね。

親子設定、義兄弟設定は出来るけど。

https://anond.hatelabo.jp/20220613155233

信長の野望の「暗殺システム」ってすごかったよね。

信玄とか謙信とか強い大名には

なかなか成功しないけど

にんじゃ→あんさつ

グリグリグリって暗殺できると

次の代のボンクラ即位するってやつ。


光栄テクモでも

子供作れたり(三国志8)とか

はあるけど

主人公死んで代替わりできるゲームって少ないですよね。

親子設定、義兄弟設定は出来るけど。

2022-06-07

日本では、戦国時代において、徳川家康が窮地を逃れた際の事例がある。元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原の戦い徳川軍は武田信玄率いる武田軍に敗れて浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外に大かがり火を焚かせた」[1]。敗走する徳川軍を追撃して、浜松城門近くまで押し寄せてきた山県昌景馬場信春の両隊は、大手門が大きく開かれ、かがり火が焚かれているのを見て、それに警戒して攻撃をためらっているところへ、三方ヶ原から引き揚げてきた徳川方の大久保康高らと遭遇し、慌てて引き返そうとしたしたところを城内から討って出た鳥居元忠渡辺守綱らの軍勢挟み撃ちになり、苦戦の末、ようやく名栗方面脱出することができた[2]。家康としては、なんの策もなかった。策のないまま、信玄が空城計と見破り、しかも、見破ったが故に、兵法家信玄が、却ってそこに策略の不審を抱いて手を出すのをためらうことに、一縷の望みを抱いたのである[3]。 つまり信玄思考の上を行ったわけで、信玄が並みの軍略家なら、むしろ空城計と見破って、直ちに城門へ突入させたはずである信玄非凡に過ぎて、却って手を出せなかったもので、結果的には、家康心理作戦勝ちであった[3]。

2022-05-31

闇に葬られたゲーム知識

高坂昌信信玄ラブレター発見された当時、

信長の野望次回作高坂の顔グラがホモ美少年みたいなものになったが、

まりにひどすぎると批判がすごくver1.01で修正された



コーエー中の人コアなファンしか覚えてないと思う

2022-05-22

20220522[アタック25]2022年5月22日クイズ実力者大会2022-05-22結果

BSジャパネクストで日曜昼に放送

BS1からボタン2回とか

 

今日の答え

・01 [ある人物名前]吉田茂 よしだしげる

・02 [バンド]SOPHIA ソフィア

・03 つつじ

・04 ドイツ

・05 [3択][列車]あをによし

・06 [島]セント)ヘレナ(島

・07 [全て]姫路城 松本城 彦根城 松江城 犬山城

・08 小松菜

・09 井上陽水

10 クスコ

11 楳図かずお うめずかずお

12 [近似値]8割3分5厘9毛

・13 武田 信玄 たけだしんげん

・14 卯の花(くたし

・15 喜多八 きたはち

・16 [2択]北上

17 モーちゃん

・18 [ふるさと][3択]さくらんぼ

・19 [曲名頭文字]ぼうし

20 おぼん・こぼん

・21 屯田兵 とんでんへい

・22 [スナップドラゴン]キンギョ(ソウ

23 原田知世 はらだともよ

24 満)25(歳以上

・25 9割

・26 クインシー(メロン

・27 [AC]『明暗

28 [AC2]V

・29 [AC3]北条 泰時 ほうじょう やすとき

・30 カンボジア

31 社外取締役(島耕作

・32 情報

33 [3択]250(円

・34e ZAZY ザジ

・xx [あるとしの名前]那覇市

2022-03-23

anond:20220323135957

信玄派と義信派で家中割れたから義信を切り捨てた信玄

家康派と信康派で家中割れたから信康を切り捨てた家康は一緒やろ!

2022-01-08

anond:20220107185925

門松の松と竹からの推測

・松は花粉症原因の一つ

・竹を神聖視する中国日本向け竹製品を作らない

・竹槍を模しており危険敗戦も思わせる

竹取物語家具屋姫が女系でも男系でもなく議論を呼びかねない

松竹寅さん渥美清がもう没してしまった

門松家康から信玄への呪い起源で、自民には武田系甘利がいる

JOC竹田五輪疑惑

竹簡は古いが門松は言うほど古くないので大丈夫です

2021-11-14

信玄パパの映画が上映中らしい

歴史モノならなんでも好きなんで観に行こう

と思ったら兵庫だと西宮しかやってないんだな

神戸姫路もないのかYO

2021-10-08

anond:20211007164318

音ゲー部分は問題ない。今のところEXPERTまでだけど慣例通りならその内MASTER来そう

前身エムステ音ゲーとして非常に問題のある出来だったので尚更 良く見える

MASTER来るかなぁ……期間限定でくるとかならあるかも

エムステの1ボタンしか使わない木魚ゲーは見た目は問題あったけど逆に難しかったよ

 

MV部分はあまり魅力として感じられない。「2Dデフォルメキャラが動いている」以上のものを見受けられない

筋肉が売りの信玄誠司がデフォルメだと腕が細く、キャラクターの再現性疑念を抱く

└好きなMVを上げるとすれば喝彩。紫一色の背景が割れステージが現れる演出と「にゃあ!」

キャラはほぼ同じ規格で描かれてるよね。MVあんまり……って感じだった

 

推し可愛い。+315万点

それはそう

2021-10-07

サイスタ感想

・男版アイマス、昨日リリースされたスマホゲー

音ゲー部分は問題ない。今のところEXPERTまでだけど慣例通りならその内MASTER来そう

前身エムステ音ゲーとして非常に問題のある出来だったので尚更 良く見える

MV部分はあまり魅力として感じられない。「2Dデフォルメキャラが動いている」以上のものを見受けられない

筋肉が売りの信玄誠司がデフォルメだと腕が細く、キャラクターの再現性疑念を抱く

└好きなMVを上げるとすれば喝彩。紫一色の背景が割れステージが現れる演出と「にゃあ!」

SSR演出はかなり良い。シャニマス級とまでは行かないが、イラストが魅力的に動いてくれる

・メインストリーが平坦。さしたる障害もなく話だけが進んでいく感じ

└なおかつユニット全部の顔見せをする必要があるのか、その話に絡む必要のないユニットをわざわざ登場させている感が否めない

・新ユニットのC.FIRSTの掘り下げが甘い。他のアイドルが約7年分リードしている以上仕方のない事だが、物語が省略されている感じがする

特に花園百々人の両親の言動があからさまで舞台装置

ストーリー描写で引っかかるものもある

└「未発表の曲を外で再生し、部外者に曲を聞かれる」のは情報漏洩ではないか

エピソードゼロは良い。モバエムの雑誌が声つきのノベルゲーム形式で読めるような感じ

└ただ、一部のアイドルエピソードゼロが用意されていないのが残念。今後の配信に期待

・ガシャはSSR4%、200連天井。重なったキャラ限界突破される形式限界突破アイテムが用意されている。スマホゲーとしては良心的か

└引き直し可能10連ガシャもあるので、リセマラにも優しい

ユーザビリティが良く動作が快適。ロードは短く、UIは分かりやす

欠点を上げるとすればミッションボタンが分かりにくい。デイリーミッションがある事に気づかない人もいるのではないだろうか

推し可愛い。+315万点

2021-09-24

anond:20210924135703

信玄の子信玄に首切られる可能性もあるぞ

秀吉養子は、実子秀頼誕生後 秀吉に腹切らされる可能性あるぞ

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

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