はてなキーワード: 低学歴の世界とは
いやまー、俺も低学歴DQNの世界で育った人間だから割と気持ちわかるし
誰もが、なんていうか社会常識にぴったりくる倫理観を持ってるわけじゃないと思うよ
でもさ、それは皆なるべく上手に隠すのがルールなんだよ
んでさ、高学歴の世界はそのルールが低学歴の世界より厳密なんだよ
だからみんな上手に隠して余計なことは言わない
それだけ。
最近、身内の延長のノリで反社会的行為をアップして炎上する若い人が話題になる。けど俺らの若い時も同じくらい悪いことしてたよね、と内心思う。思うんだけどネットでは言えない。
少し前に、低学歴の世界ってエントリが流行った。あれを読んで、よりはっきりと気づいたんだ。ああ俺はこの世界にいたんだって。ずっと感じてた、ネットで知り合った洗練された人たちとのギャップっていうやつを、あらためて自分の中で認めてしまった。
俺だってそこまで馬鹿じゃないから、社会に出てから薄々それに気づいていた。その一方で、みんなほんとは若い時無茶やったり多少の悪いこともしてたけど、大人になってそんな話するのはクールじゃないからしないだけなんだよな?と思うところもあった。けど、あのエントリへの周囲での反応を見て、本当に悪いことをしたこともなく、あのような世界があることを全く実感できない人々が、相当の割合でいるということに気づいて少しショックだった。
非衛生的なことには何故か忌避感があったから、よくある炎上写真みたいに冷蔵庫に入ったりはなかったし、体が資本だったからドラッグの類は一切しなかった。ゴミのポイ捨てには逆にやたら厳しくて、海ではよくゴミ拾いしてた。けど正義感じゃなく、この綺麗な海に来年もみんなで来たいからという理由だった。金がなかったから、金になる犯罪しかしてないかもしれない。
今のネットでのお上品な知り合いに、あの頃の話をしたら、正直どういう反応返されるかも想像できない。
増田に書いた、自販機のバグ使って金抜きまくった話なんてかわいいほうだ。
仲間との連帯感は確かにあって、妙に信頼しあってた。助けられたことも沢山あった。ろくな幼少期を送らなかった自分にとって、あの平等な関係は学ぶものが大きかった。皮肉なことに、他人に対する礼儀や責任というものはあの集団でほとんど学んだ。その経験の価値を、今でも否定できない。
人並みの知性はあるから、社会的に悪いことはわかる。けれども、弱った子猫を助けたいと思うような自然さで、本当に悪いと思うかと問われると、答えは多分 No だ。
というか、そんな純粋な正義感なんていうものがあるんだろうか?いやあるんだろうな。あって当然だという態度の人は多いから。じゃあなぜ自分にそれがないのかとは少し思う。貧困がいけないのだろうか。
犯罪に手を染めないのは悪いことだからではなく、自分の基準に照らし合わせてかっこ悪いから、もしくは自分が守りたいと思う範囲のものを傷つけるからやらないだけだ。根本的に、道徳的に悪いことだからなんじゃない。多分その論理は、悪いことやってた時代と大して変わってない。あの頃は、悪いことをしてでも狭い範囲の仲間を守るのがかっこいいと思っていた。海は、俺らの守りたいものだったから綺麗にしていた。今は、自分の技術で稼いだ金で生活して、少し広い範囲の仲間やグループを守り、気が向けば社会にちょっとは貢献するのがかっこいいと思っているだけだ。守る範囲が社会的なものにまで広くなったことで、他者にリスクの及ぶ行為をしなくなった。盗みやなんかに直接に罪悪感を感じるようになったわけじゃない…
盗みをしている奴よりも、親のすねを齧って贅沢している奴に反感を感じるのは、ただの僻みなんだろうか。
純粋に知りたい。お上品に育った人たちは、弱った子猫を助けたいと思うような自然さで、反社会的行為に罪悪感を感じるのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20140724230700
これね。まず、
低学歴の世界ってのが話題になったことがあったけど
元増田の周りにそういう人が全く見当たらないとしたら、
うん、そういうことなんだよね、残念だけど。
元増田がそれまでに「バールを持っていなければと祈らなければならないような」感情の波を小さくする技術を覚えていれば、
彼らは彼らで
「結局のところ召使にして欲しい女」
「女の義務に反応する程にはリベラルだけど、男の“甲斐性”を否定するほどには平等を徹底できない女」
元増田が本当の意味で、男女平等を内面化できているかどうかが、そこで問われるんじゃないかな。
追記:高学歴の世界の男が全員リベラルだなんて全く思ってないよ。
少なくともそういう層がそれなりにいる、っていうだけ。
村八分を連発している男は
当時居た20人ぐらいの20-35ぐらいの男のうち1/3ぐらいが村八分になり脱村、
自分の育った地区であるがこういう嫌な経緯から存在をすっかり忘れていた。
思い出したのは、親から仲の良かった知人が脱村したと聞いたことだった。
どうやら近くの町で一人暮らしを始めたらしい。直後にSkypeで直接理由を聞いたが教えてくれなかった。
知人は性格はあまり悪くないのだが(良くもないが)、自分以上のチキンでおそらく女に告白した事も無く。
30超えても魔法使いだった。40・50代の未婚の悲惨な先輩を数人知っていたから、お節介だと思ったがナンパ方法学習サイトを複数教えてあげた。
約2年前の話である。1年前からskypeの不具合で連絡が取れなくなっていたのだが久しぶりに昨日連絡をとれた。
どうやら飲み屋でねーちゃんを口説いて付き合っているらしい、のろけ話を聞かされた。
最近は冷蔵庫に入ったりなんかくわえたりするのが流行りらしいです。
このへんのことについては、書こうと思ってうまくいかなくていくつか文章を放置してあったんだけど、今日、どこぞのまとめ見て不意にまとまったので書いてみる。
なおこのエントリは、本来だったらもうちょい精密に考えなきゃいけないところを、自分の経験に引き寄せすぎて、ちょいとざっくりと処理しちまってるので、あんまり論としてはよいものではないです。
さて、件の炎上した人たちについては、バカに見える。現実問題としてアホだなあとは思うわけだが、俺自身の思想によって、バカであるという判断では終わらせられない。もしバカなのだとしたら、過去にも同様にバカはいたはずで、過去のバカと現在のバカはあまり変わらない、彼ら、彼女らだけが特異的にバカなのではない、と考えるわけだ。つまり、彼ら、あるいは彼女らが悪いというのはではなく、環境やら状況やらに理由があってこうなった、ということをまず考える。実際悪くねえかっていったらそりゃ悪いことしてるんだけど、そういう状況に至ったのにはなにがしかの理由があるはずだ、ということだ。
話が錯綜しそうなんで、先にだいたいのところをまとめておく。代名詞はめんどくさいから「彼ら」で統一する。
彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されている。
彼らの感覚としては「所与の権利」の範囲が非常に広い。権利が広いため、たいていのことをしても許される「ことになっている」。許さないものがあるのだとしたら、それは許さない側の理屈がおかしい。「うちらなんにも悪いことしてないのになに文句言ってくるの」ということになる。
彼らには「インターネット」という概念がよくわからない。よく言われることだが、たとえばTwitterならTwitterという「個別のアプリケーションがある」というのが彼らの感覚である(LINEは使ってないんでよくわからん)。実際にはそれは、インターネットの仕組みの内部で動いているサービスなのだが、ここでSNSと「うちら」の結託が起こる。SNS=うちらとなるわけだ。なんとなくは「インターネット全体」という外部があることは知っていても、それが「うちら」に積極的に介入してくることは考えない。もしそれが容喙してきた場合、彼らの理屈に従えば「うちらなにも悪いことしてないのになに勝手に干渉してくんの」ということになる。ましてネットの場合、リアルとは違い「外部」は完全に可視範囲の外にある。おそらく彼らにしてみれば不意打ちの感覚が強いだろう。
こうして「冷凍庫に入る」という行為が「許され」、それを「うちら」の内部での武勇伝として公表し、しかし外部の存在はまったく意識しないため、炎上する可能性を想像できない。さっき見たラーメン屋のまとめでもこの流れは完全に一緒である。
なぜ想像できないのか、という問題がある。
これについては「あらかじめ許されている」という感覚との関係を考えたい。所与の権利の幅が大きいということは、逆になにやっても自分たちには危害は及ばないということでもある。つまり危機意識の低さだ。その一方で、情報はどんどん入ってくる。情報が入ってくるということは、世界は有限だということでもある。「しょせんこんなもん」という見切りが先に立ってしまう。つまり彼らは「しょせんこんなもん」という有限の世界で、手足をどう動かそうと「許され」、それだけになにをやっても手応えがない。脱法スレスレ(と彼らが考えるところのこと)のことをすれば、それなりのリアクションはあるからおもしろさはある、ということだ。
以上、ざっとまとめるつもりだったが、これだけでかなり長くなった。
俺がなにゆえこういう考えに至ったかというと、そういうものを日常的に見ているからだ。俺のブログを読んでいる人は、はてなのアカウントを持っている人がわりと多いだろうし、そしてはてなはおそらくネットのなかでも特異的に高学歴の人が集まっている場所だと思う。俺はよくこのことに言及するが、根拠は「自分の周囲から聞こえてくる会話」と、ブコメなりなんなりから漠然と把握される「はてなユーザーの平均的なイメージ」との乖離があまりに大きいからだ。
どうオブラートに包んでもうまく表現できないだろうから、あえて露骨な言葉を使う。この世には「低学歴の世界」というものがある。ネットからは非常に可視化されにくい場所だ。ここでは当用漢字ですらも通用しないことが多い。最近では「試飲」という言葉が通じなかったたため「ためしに飲んでもらう」という言葉に言い換えた。特定の個人に通じなかったわけではなく「ああ、これはだいたい通じないな」と思ったから言い換える結果になった。抽象的な概念はかなり通じない。そもそも「概念」という言葉そのものが通じないだろう。個別具体的な事物を束ねて、現象として説明するような言葉では、なにも伝わらない。
そういう場所が現にある。
彼らが「インターネット」というものの全体像が把握できないと気づいたのは、バイトがmixiに個人情報をまるっと書いていて、そのことについて口を酸っぱくして注意してもまったく通じなかったからだ。どころか「コメント欄に知らない人が書いてたけど、悪い人じゃないっぽいから今度会ってくる」と言い出した。
善悪定かでない不特定多数の人間が、自分の名前、ケータイ番号、職場、交遊関係にアクセスしうるということがなにを意味するのか、彼らは理解できない。というより「不特定多数」という「人間一般」を思い浮かべることが難しい。彼らにとって人間とは「知人」か「知人でないもの」の区別くらいしかなく、そして「知人でないもの」は、彼ら自身がそうしたものになんの興味も持たないように、相手も自分に対して興味を抱かない「はず」の存在である。
結局バイトに俺の注意が伝わったのは、実際に俺が自分のPCでmixiの該当ページにアクセスしてみせたからだ。
店頭にたまるお子様たちから学んだこともある。あまり治安がよろしくない彼らだが、こちらが注意すれば、ひとまずはいなくなる。しかしまたすぐ現れる。何度注意しても同じである。こちらが見ている目の前でゴミを捨てる。カップ麺の残りはだばぁする。やりたい放題なのだが、意外にも「出入り禁止」は効果がある。ただ出入りを禁止するだけではだめで「あんたら客じゃないから」というのが効果がある。そう伝えると、彼らは裏切られたような顔をする。彼らの自意識は「客」である。客であり、買い物をしている以上「明確な犯罪でなければ」なにをしてもいい、ということになっている。実際のところ、彼らは意外なほどに万引きなどはしない。
だから「俺ら客だよ?」に対しては「別に買ってもらわなくてもいい」と言う。「ほかの店を利用してくれればいいです。うちのことは利用しなくていいです」と言う。これは彼らにとって、前提となる権利の全否定だから、裏切りにあたるわけだ。しかし諦めはわりと早い。権利を保証しない以上、彼らにとって俺はいてもいなくてもいいものになったからだ。
こういう経験を通じて、最初に書いたような考えに至ったわけだ。
彼らの常識は、いわゆる社会の常識とは異なる。異なっている以上、社会化されていない。俺はエントリとして書いた以上、彼らを社会化する方法について述べるべきだろうが、いまのところちょっとなんの対策も思い浮かばない。特にネットにああいう迷惑行為をアップしてしまうような手合いだと、なにをどうやっても制御できる方法が思い浮かばない。
とはいえ、そういうものはかならずなんらかの制裁を与えられるのがこの日本の社会というものである。よくも悪くもそういうものだ。
で、それがネットの炎上というかたちになって表れているのだと俺は思っている。
この流れは続く。続かない理由が思いつかないからだ。ひとつには彼らが炎上を避ける方法を学習すればいいのだが、それにはたぶん相当の時間がかかる。どこかでの炎上があって、それを見たとしても、それと自分たちの行為が結びつかないからだ。「あれは外部で起きていることであり、うちらとは関係ない」が原則となる。また、炎上させるほうも手を緩めることはないだろう。なにしろ彼らの傍若無人なふるまいは、同世代にとってこそいちばん迷惑になる。ならば、ネットという「力」を活用しない手はない。
俺は、俺の思想にしたがって、彼らの存在を可能な限り正しく把握し、そこに感情的色彩を挟まない努力をしなければならない。「あれはバカで、どうにもならない」でかたづけてしまうのは、俺にとって敗北だからだ。
というような話を、車のなかでうちの奥さま相手にしていた。うちの奥さまいわく、
「だから、子供できるだろ、結婚すんだろ。そうすると落ち着くんだよ。伝統芸だろ」
芸かよ。
「いまでもこの方法は有効だと思うんだけど……でもなあ……昔はそういうのが有効だった理由って、暴れるだけ暴れて、それって反抗するってことだったんだけど、やるだけやれば、反抗してた大人たちはそれなりに大したもん、というところに落ち着いたからじゃん。そういうの、ないからね、いま」
「ないですか」
「ないよ。大人もいなくなりつつあるし、反抗でもない。両方の側面からアウト」
アウトですか。
さて、俺は考える。俺の常識、社会の常識のほうがまちがっていて、彼らの「うちら」感のほうが正しいという可能性をだ。俺には「うちら」と「うちら」が出会ったときにどうなるのか、ということについての知識がない。しいていえば、各コンビニごとに溜まる集団はひとつだけで、住み分けが成立している、ということくらいだ。
俺に考えられるのはこのへんまで。
おそらくこういうのちゃんと論じた本とかはあると思うんだけど。
同じ場所でけっこうな期間にわたって店をかまえていて、彼らが高校生のころから見てたりもするんだけど、昔だったら、男は肉体労働、女は水商売っていう上がりのかたちがあったはずなんだけど、受け皿のほうが少ないせいか「どうやって生活してんだろこいつら」と思うようなのが増えてる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
全然わからなかったんだよね、どーも胡散臭いし金は持ってるかもしれんが実態がよくわからん。怪しい。
でも今日コンビニに「与沢翼成功の秘密~ネオヒルズ族の云々~」(うろ覚えです)
って本をみてわかった。
矢沢永吉に憧れてた田舎のヤンキーや土建屋のニーチャン的メンタリティの人間が今は都会でサラリーマンやってんのよ
それで今まで交わらなかった高学歴の世界と低学歴の世界が接近してこんなことが起こったんだな
うん、異論はあるだろうが俺は納得いった
しっくりきた
このエントリについて。
彼の頭が良すぎて萎えて別れた
わかるような、わからないような。読んですっきりしない部分があったので少し考えてみた。
このエントリの続編で触れられているように、この話の出発点には「高学歴と低学歴の世界の溝」の問題がある。
そもそもの問題として、「低学歴」対「高学歴」の世界の話というのはなぜ「低学歴」ポジションからの発言が多いのだろうか。それも「高学歴の世界」をポジティブなものとみなして、自分の所属する「低学歴の世界」をネガティブなものとして演出するという態度で書かれてるものが多い。
こういうタイプの文章がはてブを集めて多く読まれているのは、それを読むと読んだ人が心地良く感じるからではないかと思う。「高学歴の世界」の人はこういうのを読んで単純に優越感を感じる。一方こういう文章を読む「低学歴の世界」の人は、「低学歴の世界」にいながらにして自分は「低学歴の連中とは違うんだ」という意識を持っているような人なのではないだろうか。だから「低学歴の世界」が「高学歴の世界」に対して否定的に書かれていることに溜飲を下げる。「低学歴の世界」を批判することで、自分がそこから離れて「高学歴の世界」に近づけるような気がするんじゃないか。「低学歴の世界」に満足している人は、おそらくこの手の文章を読んでもピンとこないだろう。
では、自分自身は、こういう文章と向き合う時なにを感じているのだろう、と思った。こういう文章を読んだ時、私の胸には優越感などの心地よく単純な感情ではなく、言うも言われぬ複雑な感情がこみ上げてくる。
私自身はおそらく「高学歴の世界」に属する人間だろうと思う。曽祖父の代から大学教授の家系で、女性も祖母の代から高等教育を受けている。私は大学付属の小中高に通ったが、クラスメートの父親はおおむね医者か弁護士、研究者、大企業勤務のどれかだった。大学に入るときは、東大、京大、早慶上智、国立医学部までしか選択肢になかった。実際にクラスメートの大部分はこれらの大学に進学した。残りのMARCHレベルに進学した人たちが、私にとってとんでもなく「低学歴」の人たちだった。親類のなかでは東大京大以外は大学ではない、というくらいの認識であったし、私自身、ちょっと勉強すればだれでもMARCHくらい入れるものだと思っていた。この認識が変わったのは、大学に入って予備校でバイトを始めた時だった。どんなに必死で努力してもMARCHはまだ夢の夢という生徒が大勢いるのに衝撃をうけた。
こうして書くと自分は嫌な人間だなと思う。けれどこういった「高学歴の世界」が居心地のいいものだったかというと、そんなことはない。「高学歴の世界」は息苦しいものだ。「高学歴の世界」を定義づけるのは「今日よりも明日」だ。今日よりも明日、より良くなっていなければならない。より良く、より賢く、より豊かになっていること、それが「高学歴の世界」が求めるものである。失敗は許されない。一度失敗したものは、この日々の前進のルートから脱落し、また追いつくためには絶望的な努力を強いられる。「高学歴の世界」は失敗に敏感だ。私の両親はよく「一事が万事」と言っていた。たった一度失敗すれば、それは全て失敗したのと同じ。このスローガンに、子供の私は恐怖しか覚えなかった。遊びも教育の一環だった。教育的でない遊びは排除された。常に成長することが求められた。それは大人になっても続く。昨日よりも今日、今日よりも明日、より成長して改善していること。「高学歴の世界」を統治するのはこの原理である。
このような世界が自分にとって当たり前だったのだが、それはまたひどく息苦しくもあった。そこには「明日」と「未来」はあっても、「今日」と「いま」はない。なにもかもが「明日のため」であるとき、いまここに生きているという感覚はどんどん摩耗していく。今、この瞬間どんなに成功していても、それを100%として認めてもらえることはない。明日さらに良くなること、明日さらに成功することが求められる。それは絶え間ない自己否定でもある。この自己否定がなければ、改善も成長も望めないから。
やがて神経衰弱のような状態になって、ふとある趣味をはじめた。そこには私と同じような育ち方をした人もいれば、そうではない人たちもいた。このとき私ははじめて「低学歴の世界」に触れたのだと思う。その「低学歴の世界」のひとたちは、多くが高卒で、男も髪を染め、女性はミニスカートや露出の多い格好をしていた。タトゥーを入れている人もいれば、道端でケンカをする人もいた。この仲間のなかに入って、私ははじめて「今を楽しむ」ということを知った。お酒を浴びるように飲んで、馬鹿な話をして、大笑いして、そういうことをしても、明日のためにはならない。明日に残るのは、二日酔いだけだ。けれどその瞬間は、ものすごく楽しい。彼らは遊ぶことがものすごく上手だった。季節ごとにいつも楽しい遊びを考えていた。バーベキュー、花見、キャンプ、スノーボード。「今、この瞬間を楽しんで生きてもいい」ということを知ったのは、自分の人生が大きく変わるほどの体験だった。
こういう経験を通して考えてみれば、「うちらの世界」の価値観も理解できる。「高学歴の世界」は未来の為にという価値観がとても強い上に、一度失敗するとその損失を取り戻すのが非常に困難であるという認識を共有している。彼らにとって「バイト先での醜態を公衆に晒すこと」は大変な過ちでありなんとしても回避されるべきものである。一方「低学歴の世界」にとって大事なのは今この瞬間である。今この瞬間を楽しむことが何より大切でなので、その行為が未来にもたらす影響は考慮しない。今、バイト先の飲食店で食材をおもちゃにすることが楽しくて、目の前にいる友人を楽しませることができるのであれば、そのことがなにより重要なのだ。
「明日のために生きること」と「今を思う存分生きること」は、本来両立しうるものであるけれど、どちらかにかたよるとそれぞれ問題をひきおこすのだなと思う。自分の生きてきた世界のことは、みなよく知っている。だからこそあらも見えるし、別の世界に憧れもする。それはもちろん幻想なのだ。どの世界にも光と影がある。ユートピアはいつだって「どこにもない場所」なのだ。
さて冒頭の「彼の頭が良すぎて萎えて別れた」というエントリーであるが、これを読んで再びなんとも言えない気持ちになった。この人はなぜこんなに彼との間に線を引きたがるのか、そこに溝を認めたがるのか。なぜそこに溝を認めた上でそれでも相手を受け入れることができないのか。この場合、二人の間にあるのは「学歴の溝」ではなくて彼女の方のコンプレックスなのだと思う。自分が手に入れたくて仕方がないものを、もう自然にもっているように見える相手への嫉妬なのだろう。けれどそれは「毎日より良く」という価値観のなかで研鑽されてきた結果なのであって、同時にそのなかで切り捨てられてきたものも存在するのだと思う。そういう自分が切り捨ててきたものを恋人に求める気持ちが、私にはよく分かる。私が強く惹かれるのは同じ世界の人ではなくて、別の世界の、ある種の「生きる智恵」を持っている人だ。多く笑い、気楽で、今を楽しむ人だ。この話で、彼は彼女にたとえばそういう魅力を求めていたのかもしれないのに、紋切り型の階級差を持ちだして自己完結する姿になにか割り切れないものを感じる。
一方で、このエントリーで語られている話自体がすでに紋切り型のものであるとも言える。語り口が現代風であるというだけで、話の中身は明治時代からでもありそうな話だ。とりわけ語り手を男にしてみると、既視感が強くなる。身分差のある恋をした男が、バックグラウンドの違いを感じて、女を捨てる。「彼女の頭が悪すぎて萎えて別れた」と男が語る。あるいは女が男を思って身を引く。でも私達が生きているのは現代日本だ。好きなように生きればいい。相性が悪ければ別れればいいし、よければ付き合えばいい。けれど「高学歴」「低学歴」という単純な構図に当てはめて自分の生き方を縛るのは、愚かなことだと思う。自戒を込めて。
どもども。通りすがりのお兄さん、お姉さん、おっさん、おばちゃん、学生さん。今日も酔っ払ってるんだけどさぁ、昨日に続いてあたしの愚痴にお暇なら突き合ってくだせぇ。
あたしは昨日「彼の頭が良すぎて萎えて別れた」ってエントリを書いた者です。
http://anond.hatelabo.jp/20130901015011
何日か前に、「低学歴と高学歴の世界の溝」って増田がホットエントリしたじゃない?
http://anond.hatelabo.jp/20130809115823
今日の昼間にコーヒー飲みながら足りない頭で考えて思いついたんだけど、私が彼に萎えて別れた原因って、この溝を自覚しちゃったからじゃないかな、って。
彼のスペックが高いのは昨日書いたとおりなんだけど、彼の一家・親戚も高スペック。父親は某旧帝国大学の大学院卒で某有名企業勤務、母親も県立の教育大学卒で学校の先生。彼の親戚もハイスペックで、従兄弟に某大学准教授がいるって言ってたし、彼氏と同じ高校(つまり地域で一番の進学校ね)・彼氏と同じ大学(つまり某旧帝国大学ね)に親戚のお兄さん・お姉さんも通ってて、高校・大学選択、受験のときに、親戚の人たちからいろいろ情報教えてもらった、とか。彼いわく「兄はあんまり成績良くなくて、浪人するか迷っだけど、現役で東京理科大行ったんだー」って!
あたしは人口数万人の町の外れでコメ作っている両親の下で育って短大まで行ったけど弟は同じ高校出て専門学校卒。半数近くが就職して、残りは専門学校、短大・四大に行くのは20パーセント以下って感じのあたしの高校の基準からすると東京理科大なんて過去の卒業生で何人いたんだよってレベル。それを「あんまり頭が良くない」と。
彼氏は高学歴の世界で生きてきた人だから、私のレベルの世界を知らなかったと思う。彼氏の親戚も友だちもみんな高学歴の世界。対する私は低学歴の世界。高校卒業した時に地元で親戚のおっちゃんがやっている同族経営の小さい会社で働く?って話あったけど、断って短大行ったし、今も「地元戻ってウチで働かない?」って言われる。社長のおっちゃんは叩き上げで働き者で、良い人だけど、学歴なんていらんって人間。あたしの親戚はそんな人たち。
エリート一家で育ち、エリート教育を施されてきた彼氏が、ごくごく普通に披露する感覚に、越えられない溝を感じたの。
・旧帝大、早稲田、慶応クラスの大学に行くのは当たり前(←「え、女子が短大行くのはありかもしれないけど、男で高卒の人ってほとんどいないでしょ?」って真顔で信じている)。
・英語は読み書きできるのが当たり前(←彼氏は英語の勉強なんだって言ってイギリスのニュースサイトを毎日見てた。しかも普通に辞書なしであたしに要点を解説してくれてた)。
・歴史上に名前を残すような有名作家が書いた有名どころの作品を読んでいるのは当たり前(←ごめんよ、サリンジャーの名前自体知らなかった)。
・日本史や世界史の知識があって当たり前(←生類憐れみの令をうろ覚えだったあたしが馬鹿なだけ?)。
・近代日本の主要な政策とその政策を実施した首相くらい知ってて当たり前(←田中角栄の日本列島改造論知らなかったあたしが馬鹿なだけ?)。
・30歳くらいで安くても年収500万円くらいは貰えて当たり前(←彼氏の大学、大学院の友だちとの基準)。
彼氏は「え、だれでも努力すればこのレベルに到達できるよ」なんて言ってたけど、彼氏が披露する「普通」の基準があたしに無理すぎた。低学歴の世界の住人である私が高学歴の世界の住人の世界をちょっとだけ垣間見た経験として大事に取っておくよ。彼氏には同じ世界の女が似合うと思う。
私の都合で別れたのは本当に申し訳なくて、彼氏が「え、オレなんかダメなところあった?ごめん、気付かなくて。悪いところあったら言ってよ、直すから」なんて涙が出るような嬉しいセリフ言われたけど、低学歴の世界を知らない彼氏にはこの感覚を理解できないと思うし、理解しなくてもいいと思う。セックスのときにフェラしてあげたら「フェラは女性に奉仕させて女性を下に見ている感じがあるから好きじゃない」なんて紳士的なセリフを言う男なんてきっと金輪際現れないだろうが、あたしも自分にあった男を探すのが一番だね。
> 低学歴と高学歴の世界の溝 http://anond.hatelabo.jp/20130809115823
先日地元に帰ったら、そろそろ人生に絶望し始めてる連中が何人かいた。
4~5人、いやひょっとしたらフリーターなんてゾロゾロいたからもっとかもしれない。
25才の店長にコキ使われてる33才フリーター。ブラックだなんだという以前の人達。
思えば高校の頃堕落した青春を謳歌し、ゲームだバイクだタバコだなんだ、テストがあっても何一つせず、
周りも何となくそんな連中ばかりだから安心してか、目の前の現実をスルーして流されるまま生きてきた人達。
そのツケが眼前に立ちはだかり、気づけばパチスロ三昧(本当にパチスロしかする事がナイって言ってて、
昔のバンドマン時代を思い出して切なくなった)、負けて帰れば鬼嫁が待っている現実…。
おれはリアルカイジ(もしくは帝国住人)と名付けた。当然皆低学歴だ。
勿論その底辺にいても尚成功した奴もいて、おそらく、自分の頭で考え、流される事無くしっかりと行動できたのだろう。
そういう奴も当然いる。決して「低学歴=不幸せ」では無いのだ。というか幸せかどうかなんてそんなもん本人が決める事だ。
つらつら書いたが、こちらの勝手な思い込みで、絶望なんてこれっぽっちもしてない可能性もおおいにある。
逆に「高学歴」の称号を手にすることができても、無職の奴や失敗した人間もごまんといる。
「低学歴の世界」「高学歴の世界」と分けて認識する事は、90年後期から叫ばれ続けてきた、
「一億総中流階級から、上流・下流の二極化へ」突き進んだ現代日本に置いて、確かに意味のある事だと思う。
「地方の世界」と「都会の世界」、とか「非正社員の世界」と「正社員の世界」なんてのも当てはまるかもしれない。
しかし、親がDQNで学校もDQNだからそういう世界になりがちで、不幸になりがちだ、とかは、ある意味当たり前で、
じゃあどうすればいいかというと、環境とかそんなもんは関係無く、実にシンプルな話なのだ。
要は、「この世は奪い合いでできている」という事に気付く事から始まる。
この進撃の巨人的で実に厨二臭い、真顔では言いづらい残酷な世界の成り立ちを、ハッキリと思春期の内に認識する事。
新しいお店ができれば、古いお店が消え、誰かが儲ければ、誰かが損する。
そういう奪い合いの世の中(資本主義社会)で「お金が欲しい」のであれば、少数派になるしかない。
少数派とは「高学歴」になってお金をなるべく多くもらうか、特殊な技能を身につけてお金を稼ぐかの二択だ。
それ以外にお金をなるべく他人より多くもらうなんて虫のいい話、宝くじに当たるくらいしか無いのだ。
ではその二択を取るには、どうすれば良いのか?
これはもう、当然、努力しか無い。忍耐強く勉強をするか、好きな事・得意な事を見つけて、
努力をしなければ、遠慮なく他に全て持っていかれる。どんなDQN親だろうが、どこに住もうが、それは関係なく共通している。
親がいくら賢くったって、高学歴エリアだからといって、自動的に勝手に頭が良くなる訳ではないのだ。
ただ、努力した上で、「超一流」とかになったとしても、それでも運が悪かったりすれば、敗者になる可能性だって十二分にある。
それを踏まえて、じゃあ自分はどう生きたいのかを、人生の節目に選んだかどうかの違いだ。
ボーっと大学進学選んだやつもアホだが、同じ流されるのなら、まだそっちの方がマシだったって事だ。
ネットインテリによる良エントリがどれだけはてブにホットエントリ入りしたところで、この流れは止まる気配がない。
巷では「低学歴の世界が可視化」などとそれらしい分析がされているが、
「昔からあったことが見えるようになった」という結論で思考停止してはいけない。
なぜ昔からあったのか、というところまで考えなければ、問題の本質はぼやけてしまう。
中高生にもなると、自分が何者でもなく、中身が空っぽであることに気付く。
彼らはただただ渇望していて、何者かになりたがっている。
これはきっと、今も昔も変わらない。
渇望は成長するために必要なエネルギーであり、それ自体は間違っちゃいないけれど。
勉強、スポーツ、芸術、音楽、創作、趣味など、没頭して打ち込めるものがあれば健全だし、
では打ち込めるものがないとどうなるか。
例えば、酒やタバコに手を出す。彼らは大人になったふりをして、満たされた気持ちになる。
例えば、犯罪や非行に走る。悪いことができる自分、という不健全な満たされ方をする。
で、最近になって登場した不健全な方法が、インターネットの活用である。
インターネットは、恐ろしいほど簡単に自己を満たすことができる。
特にTwitterはやばい。田舎で犯罪に手を染めるよりも、簡単かつ高い効果を得られる。
結局のところ、彼らは満たされたいだけなんだ。
誰かに認められ、自分が何者かになったように錯覚しているだけだ。
でも、それはやっぱり錯覚で、そんな方法で満たした自己というのは、あまりにも脆い。
自己を満たす最も強固で揺るぎない方法が恋愛であると言ってもいい。
中高生の頃に脆い自己を形成した彼らは最終的に、恋愛して結婚して家庭を持つことで満たされる。
彼らは愛で満たされるのである。
それは傍から見て「落ち着いた」「丸くなった」とも表現される。
少し話が逸れた。
つまりは、炎上は若さゆえの渇望の、一つの結果であるってこと。
で、ここからが本題。
少し考えてみて欲しいんだけれど、炎上させ、晒しあげ、退学させれば、問題は解決するのか。
たぶん、解決はしないだろう。
彼らはインターネットの使い方を知らないのだ、という話で終わり、
若者が健全な方法で自己を満たすことを覚えなければ、この問題は解決しない。
もちろん、どんな理由であれ、悪いことは悪いことであると、誰かが教えなければならない。
親も学校もそのことを教えないのならば、それは炎上させた本人よりも業が深いのだが、
それでもともかく、あなたの役目ではないことに変わりはない。
インターネットは、炎上騒動をコンテンツとして消費している。これも不健全だと思う。
勝手な正義感で炎上させている人間もまた、満たされない人間なのだろう。
アホ言うなwww
小学校が公立だったから俺は低学歴の世界を知ってるって言いたいのか?www
雑魚がwww
で、中高一貫行ったくせに東大も行けないようなくせしていばんなよwww
雑魚がwww
お前が馬鹿なプライドをも元に、そういう仲間を切ってるんだろ、糞やろうwww
東大行ったって、どんな仕事に就こうが、普通に地元に帰れば地元で仕事してる奴等と遊ぶわwww
お前ただ、小学校の時友達いなかっただけだろうwww頭でっかちの割に頭悪いwww友達いないwww
そうなんですか?中高一貫に行ける人なんて結構限られてることを知りませんか???
まあ、公立中学、公立高校へ行って、貴方ほどの高度な教育を金かけて受けなくても、
自分の努力次第で東大行ける当たり機会平等なんでしょうかね?www
お金持ちは何の努力もしないで同じ"機会"を得られるのねwww楽ねwww
当たり前だろwww30で独身なら、世の中殆どの人間が不自由なく過ごしてるわwww
さみしいねwww
ここのところ話題になってた「低学歴の世界」ってのは高学歴でもおこりうるってことだろ?言葉のチョイスは悪いかもしれんが、そういう重箱の隅をつつくようなことは意味ないと思うが。
嫁はそれなりの高校を出て国立大学を出て就職し、今は某財団法人で働いているみなし公務員だ。
大学時代に知りあって結婚して5年が経つが、たまに喧嘩をする。
何かわからないこと、できないことがあると嫁が「習ってない」「教えて」の一点張り。
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嫁は「自分で自分でばかり言わないで。あなたが言ったんだから、あなたが最後まで教えるべき」と言う。
対象によって少しずつ違うのだが、結局このパターンにはまる。
よくよく考えてみると、嫁の父親がこれと同じ考え方だったことに気がついた。
嫁の父親は自分の範疇でしか考えられず行動できない人であった。
自分で調べて行動することが一切できない人間になってしまったのだ。
結婚してからはなるべく自分でできるように色々と教えているので少しは良くなったのだが、
22年間、染み付いているものを変えるのは容易ではない。