はてなキーワード: 伝家の宝刀とは
クリスマスのプレゼントとは、渡す側の「期待値調整」作業である。
人は勝手に期待し、勝手に裏切られる。プレゼントの場合、貰えると思っていなければ貰った時に嬉しいし、思っていたほど欲しくないものであればガッカリする。この期待とのギャップを、事前に埋める作業が期待値の調整である。
対して受け取る側は、自分から調整を行うことが難しい。「10万円以下のプレゼント渡すやついる?いねぇよなぁ!!」とは言い難い。だから渡す側にこの作業が委ねられる。
とはいえ、事前に露骨にやり過ぎると、それは予感や予期、期待を下げていき、確定、渡されるプレゼントが決まりきった状態になる。これは期待値ゼロと同じなので避けたい。(「覚悟」とは「幸福」派の人たちは事前にプレゼントを擦り合わせて良い。)
そんな複雑な条件の中で、今年も伝家の宝刀を繰り出すことになる。
座り込みとかハンストって要求が通るまでそこを動かないエクストリーム行動だから意味があるのでは?
24時間365日ここを動かないぜ!メシは仲間に持ってきてもらってノグソだぜ!っていうエクストリーム感が座り込みで、
さらにメシも食わないぜほっとかれたら植えてここで死んでやるぜ!っていうウルトラエクストリームがハンストじゃん?
「座り込み!」とか「ハンスト!」とか言われたら周囲や抗議相手も「やべえ…」ってざわざわするわけじゃん。
本来は。
どんどん条件を緩くしながら「座り込み」や「ハンスト」と名乗る抗議活動が増えてきて、
それは座り込みとかハンストとかいう言葉は使わない方がいいんじゃないの?
とは思わない?
活動家の内部で「あんた本当に断食しないのにハンストという言葉を使ってもらっちゃ困るよ!言葉の特別性がなくなるじゃないか!」みたいな議論はなかったんだろうか。
1日10分で「座り込み」と呼ばわるのもいいし、8時間の断食を「ハンスト」と名乗るのもいい。
けどそれをやっていけばもう「座り込み」「ハンスト」の霊験は失われて、誰もビビらない空虚な概念になる。
ほんと俺にゃどうでもいいんだけどさ。
こういう感じに疑問やツッコミを受けるとたいてい
「生活を犠牲にしないと座り込みと認めないのか!」とか「命を危険にさらさないとハンストと認めないのか!」とかキレてくるけどさ。
ちっげーだろっつーか逆だろ。
元々生活を犠牲にするとか命を危険にさらすという掛け金で怖さや威力を出したのが「座り込み」「ハンスト」だろ。
なんでその威力を自分達で削いでるのかなーって言うことはただただ素朴な疑問としてわいただけなんだよ。
別に活動家に生活犠牲にしてもらったり命危険にさらしてもらったりしても俺に何の得もないし、
当人もやりたくないならやらんのがいいと思うよ。
(逆にやるならライブカメラでずっと中継すると迫力やコンテンツ価値は出るよな。)
……でもさすがに8時間断食してハンストってのはどうか思うぞ。
ただのラマダンじゃねーか。
Arturo_Ui 座り込みもハンストも「相手側の対応によっては命を落とす場合もある」という前提をお忘れではありませんかね。 マジレス
ええ……
なんだこのブコメ。
生活や命を危険にさらすことでアピールしたり動かしたりするのが座り込みやハンスト。
良い悪いは別にして。
生活や命を晒さない通常の抗議活動(それ自体悪いわけではない)が
いざという時の宝刀の切れ味神通力がなくなっていくのでは?
と言う話をしたのです。
「どうせ家に帰ってるんだろ」「日が暮れたら食べるやつだろ」と誤解されますよね。
未来のその人が、その人の責任じゃないのにオオカミ少年扱いされそう。
逆に「一度座り込みやハンストと口にしたものは必ず本当にやる」と言う実績積み重ねたら
抜かずにチラつかせるだけで威力のある宝刀に仕上がるのでは?と思っただけです。
自分達で作ったブランドを自分達で毀損しちゃってるような?と。
どうもおもわねっすよ
こういう話するとどうしてもなんか抗議活動してる人に敵意あるのかとか勘繰られるけどほんとにないっす
自分が活動家ではないって断りは活動家へのネガティブ感情表明ではなくて関係ないのに好奇心で口だしてすまんくらいのニュアンス
沖縄には同情の気持ちなくもない(よく知らないのでおこがましいけど)
ただ数年前くらいに都心部か国会前かなんかで優雅にレジャーチェアみたいのに座って本読んで5時に帰るのをハンストだって言ってる人いて
その人にはそれはないだろというか本気でハンストやる人に迷惑でしょという憤りを少し感じてそれ思い出したの
あの自称ハンストがなにに抗議してる人だったか思い出せないんだけど釣りとかネタだったら嫌だな
kuzudokuzu そう言うのなら、「ひろゆきと同じ論調で相手を組み伏せる戦い方で相手が素直に引いて問題が解決すると思うの?」じゃね?それ自分が気持ち良くなるために言ってない?心の底から誰かのことを思ってやってんの
誰を組み伏せたというんだ...
誰かになにかを引けとも言ってなくないっすか?
心の底からの心配かはわからないけどこの先エクストリーム抗議に踏み切る人が出た時のことは心配してます
衰弱死に瀕していくとこを世間へ見せつけられるのは抗議される側にはきつい
木綿の着物ならお安いですよといっても、仕立て代込みで三万円がせいぜい。
木綿の着物って、洋服で言うTシャツとGパンにあたるから、マジで「その辺に着ていく服」っていう扱い。
そういう服に三万円、出せます?
ましてや絹の着物となると、もとのお値段も張る。
着物屋からすると、五万の着物なんて「めっちゃ安いもの」扱いになる。
多分ディスカウントショップで売ってる品物くらいの価値なんだと思う。
だから
「美術館とか友達とお茶するとき、 気 軽 に 着られますよ~」
なんて言うんだ。
でもさ、五万の服着て、気軽に外出できます?
私はそんなに裕福な方ではないのでアレかもしれないけど、絶対無理。
美術館とか友達と食事に行くとかなら、全身一万五千円以内(バッグ・靴除く)がせいぜいだよ。
もちろん何かの式典に出る場合は別だよ。
……って断ってるのに、着物屋の人はだいたいしつこい。
「これがあれば、お出かけから冠婚葬祭全部いけます」って言うんだわ。
でも冠婚葬祭ならレンタルするし、私の場合子供の卒入学式の時期はもうとっくに過ぎてるんだよね。
そうやって断ったら、着物屋の人は『伝家の宝刀』を出してくる。
「冠婚葬祭以外なら、 ち ょ っ と し た パ ー テ ィ ー で着られますよ」
仮にパーティーに出ることになったとしても、やっぱ八十万もする着物は怖くて着ていけないよ。
それに、リサイクルショップに行けば、価値が同等の着物が三千円くらいで買えるんだよ。
庶民はそれで十分。
着物業界の人は、斜陽だと嘆く前に、価値観を変えたほうがいいと思う。
若い人はお金がないから、今やお出かけ着にも一万円は出せません。
ファストファッションの店で数千円で買った服を、下手したら十年着る時代だよ。
「三万円の着物」はめっっっっっっっちゃ高級品だから、気軽なものとして勧められると違和感ありありです。
私のように小物目当てで来店してて、着物買いそうもない人には声を掛けない方が賢明。
一着1980円で売れとは言わないけどさ
・せめて五千円以内
・家でガンガン洗える
着物屋で働く人は、ちょっとその辺に行くのに、TシャツとGパン感覚で
三万円する服を着ていってるんですか?
八十万円の着物を、平服で来る人も多い公立小中学校の卒入学式に着ていきますか?
その日は雪かもしれないし、大雨かもしれません。
校庭は砂埃だらけです。
凄く汚れて洗い張りなんてことになったら、クリーニングに数万円かかります。
ありもしないものを想定しないでください。
庶民にとっては高級すぎる品物を「気軽に使える」と嘘をつかないように。
「お高いけど一生モノですよ」
これは正直な言い方だけど、ハッキリ言って庶民は誰も手が出ません。
上にも書いたけど、数千円の服を何年も着ているのが現状なんです。
一生ものだと言われても、服に出せるのはせいぜい十万円まででしょう。
でも、ショッピングモールとかに入っている着物屋さんなら、客層をもっと把握してください。
庶民にぜいたく品は売れませんよ。
幼稚園について書いた増田だけど、幼稚園は選べるけれど公立小学校は選べないみたいなのはあるなぁとちょっと思った。
幼稚園の場合、各園で面倒くささに大きな差があり、特色も違うので親が自分に合うものを選べばよかった。
例えば、登園。
クレヨンしんちゃんみたいに家の前まで幼稚園バスがお迎えに来るところから、集合場所に連れて行くところ (その後、毎日ママ会 orz)、親が連れていくのが当たり前のところまである。
例えば、保護者会。
別に来ても来なくてもOkなところから、毎月の参加 + 平日のイベントに保護者お手伝いが当たり前みたいなところまである。
毎年、各園児と保護者のプロフィールを載せたパンフレットを作成 (当然、保護者が情報を提供するし、保護者の中の委員がパンフレット作製をやらされる)があったり、
毎年、なにかの役員をやらないといけない所から、ごく少数の役員だけ大変いうところまである。
例えば、お弁当。
完全給食のところから、給食にするか選べるところ、毎週決まった曜日に必ず給食を食べるところ、完全弁当まである。
例えば、延長保育。
延長保育が全くないところ、長期休暇に無いところ、有料で実施する所などいろいろある。
例えば、園庭。
広い、狭い、遊具の数とか。
例えば、規模。
園児1学年5クラス以上で100人オーバーのところから、園児1学年1クラスで20人くらいのところまである。
男女ともに雇用されているところもあれば、完全な女社会ってところもあるね。
公立小学校は住んでいるところで一律ここって決まるから、いくら面倒だと聞いていてもよそを選べないというのはあるなぁって思った。
まあ、面倒でも多かれ少なかれどこでも同じって感じだと思うけど...
教育業界はなんでも教育の一環で...という伝家の宝刀を取り出して変わろうとしないところがあるし、外の力を借りることに否定的な感じがあるよね。
それでもって、予算がそんなにないから、受益者負担として親に負担させざるを得ないものも多いんじゃないかな。
だから少子化が...と思うなら、もう少し子供にお金をかけてくれる人たちを選挙で選びたい...けど、そんな奴いねぇ!!!!!!!!!!!!!!!!
ウクライナとロシアはお互いに戦車をぶつけ合っているからお互いに主張をぶつけ合えるんだ。
もしも片方だけが戦車を持っていたら交渉のテーブル自体が最初から生まれなかっただろう。
少なくとも、交渉のテーブルの上でウクライナが発言力を持つ事なんできず、朝鮮戦争のようにどこかの傀儡となるのが関の山だったはずだ。
たった一言、心の奥底で伝家の宝刀として持ち合わせなければ何も始まらないものが有るのだ。
「俺たちの意見を蔑ろにするなら、俺は最悪お前らと刺し違えるからな」
このたった一言を胸に誰もが収めていて、始めて交渉が始まるのだ。
大人だけが銃を持つ社会で、子供だけが銃を持つことを禁じているというのは、子供に交渉の権利がないということだ。
屋台の店主が釣り銭をちょろまかしてきたとき、大人であれば縺れた交渉のはてに相手の五体に銃弾を撃ち込むという選択肢を胸ポケットに入れたまま交渉に挑めるだろう。
そうなればどんなに世の中を舐め腐った店主だろうと、最後には銃弾という神の目を恐れうやうやしく罪を認めるはずだ。
だが、子供にはそれがない。
それは公正や正義を司る神の庇護から外れて生きていることにほかならない。
騒ぎ立てても「子供の言っていることですから」とはぐらかされても、その舌に鉛の鉄槌を叩きつけることが出来ないのでは、そこに交渉など発生しない。
ただ、子供という存在に対して慈悲を持って接しているだけなのだ。
対等に扱おうなんて気持ちはどこにもない。
そんな社会でいいのか?
子供が銃を持つことに対する是非についての議論は、ある特定の人間を交渉のテーブルにつかせる事を許可しない社会を容認するのかということだぞ。
まあ俺はそれでもいいと思うけどね。
ボケた老人からは運転免許証を取り上げるべきだし、免許さえ取り上げられた機能障害のポンコツに対しては慈悲を持って接してやるべきだ。
だが、そういった他人を見下し権利を制限することに端を発する社会をおかしいと日頃声を上げておきながら、いざ子供が銃を持とうとすれば規制すべきだというのは自己矛盾が過ぎやしないかね?
そのことを考えろと言っているのだよ。
いや、今回の件で「人権て言葉を軽く使うのがよくない」みたいなことを難しい顔をして宣ってはる人らがいるけどさー。そういうのどうなんかな?そもそも何があかんねん。
うちのセンセーもよー言うてはったわ。「え、ジンケンジンケンて、犬とちゃうねんで」てな。人権なんてな、そのぐらい、もっと軽ーく使たらえーと思うねん。
「うわ人権ない」って軽く使って笑えるのは、それはみんなが「いや人権はあるやろw」「人権てw大げさww」ってツッコミ入れられるからやろ?
「人権はあって当たり前のもんや」「それでいてメチャメチャ大事なもんや」ってみんなが共通で思っとるからやろが。めっちゃええことやないかぃ。
だいたい人権なんて、当たり前にどこにでもあって、誰の人生にも少しずつ関係してるもんやろ。だから人権なんて、後生大事に棚に飾っておくような宝物と違うし伝家の宝刀とも違う。もっとトイレットペーパーくらい景気よく使い倒すべきもんなんや。そんでひとしきり使ったら、あとは笑い飛ばして水に流すくらいでちょうどいいんや。
胸ナイから人権ない。身長ナイから人権ない。アホか上出来やで。人権はあるやろて。マジに悩むなやーw。アッハッハ。
……でもな、なんで胸やら身長やら、そんな見た目で、俺らそーやって悩まなあかんのかな…? さてその辺から、そろそろ本気で人権の話になってきたりもするわけや。
せやからな、「人権なんて気楽に使うな、真面目に語れ」なんて話には、あんまり耳を貸さんでええんとちゃうかと俺は思う。
真面目さと笑いの分量、四分六くらいがちょうどエエで。せやから「人権」なんて言葉も、笑い六分、ライトに使うくらいでちょうどええんよ。