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2020-11-12

認知症の父に会いに行ってきた。

2017年2月下旬、父に認知症疑惑が浮上。父を始め我が家は色々と問題がある家族で、疑惑が出るまでも紆余曲折あったがそのことは今は書かない。

私の父への感情は愛憎入り混じるというのがぴったりで、ここ何年も疎遠だった。最初検査には私が連れて行った。でもその後は姉に丸投げした。

私の中で最強で最恐な存在自分勝手わがまま子どもっぽい父。まだ若いのにアルツハイマーになってかわいそう、どころか、勝手に忘れていくなんてずるい、勝手しろと思った。

今思うと私は完全に現実逃避していたし、同じく愛する気持ちと恨む気持ち共存していただろう姉には悪いことをした。

2018年9月までは一人暮らしをしていたらしい。その後病状が思わしくないとのことで、入院施設への短期入居をするがやはり自分勝手わがまま性格が災いして施設を追い出されたりしていた。何回か会いに行こうと思ったが、姉からたまに報告を受けるだけだった。

2019年6月デート中に突然姉から電話。駅の喧騒で細かいところは聞こえなかったが、病状の悪化ひどく本人の原型がわずかかもしれない、このままだとあんたは忘れられてしまうかもしれない、会ったほうがいいと言われる。

2019年6月29日 わざわざ恋人レンタカー施設へ連れて行ってもらう。交通の便が悪く私は運転できないから、というのは言い訳で、単に1人では心細かったしまドタキャンしてしまうかもと思った。

施設に着くと、父はおやつを食べていた。私を見つけるやいなや、「ヒロ〜遅いぞ〜待ちくたびれたぞ〜」と文句を言うが、顔は嬉しそうにニヤついている。

3人で一緒にイオンに行ってコーヒーを飲み、ギターの弦が欲しいというので買ってあげる。たぶん1人ではかえられないけど。

車の降り方、割り箸の割り方などを忘れている。人格は機嫌の良い時の以前の父で、よくしゃべっていた。遠足の子どもかってくらいはしゃいでいた。恋人運転する車の中で歌い出す始末だ。

今度はカラオケに連れてってやろうか、なんて言って別れる。

から聞いていたより元気そうだったので、そんなにショックは受けなかった。こんなに喜んでくれるなら、また来てやってもいいかなと思った。

2019年9月23日 2回目の訪問。父の部屋に行くと爆音テレビを見ていた。わたしに気付いてもテレビを消さないので、テレビを消してと頼んだ。父は、「ヒロが来るとはな」と笑った。

他の家族から聞いていたように、やはりギターの音がおかしいという話になる。デジタルチューナー調子おかしいと。デジタルチューナー電池を買って一緒にチューニングしてあげる。でもうまくコードが弾けていない。たぶんそもそも押さえの指がおかしいのだと思う。Cが何かはもう忘れているのだろう。お腹減った、食事が足りないというのでコンビニで甘いパンを買ってやった、貪るように食べていた。

またそんな日を空けずに来てやろう、少しギター練習して次はコードを弾いて見せてやろう、と思った。

その後繁忙期に入り、まぁいっか、そのうち行ってやるか、と思っていた。

ところでの、コロナ

しばらく面会は禁止と聞いて、少しホッとした自分がいた。会いに行かなくてもそれは私のせいじゃない、と。

でもコロナ騒動がなかなか収まらず、春が終わったあたりでだんだん不安になった。いま父はどんな状態なのだろう、私のことは覚えているのだろうか。

10月末、調べてみると16日から厚労省が面会を段階的に解禁するよう通達を出していた。数日後、電話をして予約をとる。外出禁止飲食物差し入れ禁止20分のみ、だそうだ。

そして今日202011月22日仕事前に片道1時間かけて向かう。

施設に着くと玄関前で待っていた。帽子かぶってリュックを背負い腕時計を身につけ、ぼーっと立っていた。とにかく萎んだ、という印象だ。散歩などできやしないのに出かける気満々な出立に、滑稽さと悲しさが同時にこみ上げる。

私に気づき、でも一瞬私が誰かを認識するのに時間がかかったようだった。私が持っていた大荷物を指差して「こ、これは?」と聞いてきた。自分への差し入れだと思ったのだろう。「ごめん、お父さんのじゃなくて仕事道具。」

そのあとロビーで話す。よく見ると、萎んだというのはただの印象ではなく事実かなり痩せた感じがした。手の甲が皺々でカサカサだ。表情も暗く乏しい感じだ。うまく言葉が出てこないようで、あれこれはマジでやばい?と焦ったが、少しずつ普通っぽい感じで話し出す。

コロナから外に出れないこと、20しか面会ができないことを伝えると、子どものように唇を突き出した。「早くどうにかなってくれなきゃな」とコロナのことはわかっているようだった。

20しかないし父の存在曖昧というような様子に話すことに悩み、とりあえず何か困っていることはないかと聞くと、相変わらずギターチューナーの話をする。

「部屋にも行けないので見てあげられないよ、そのうちね。」

ふと、「今何歳?だっけ?」と聞いてみる。どのくらい忘れたのか確かめたい。

「えー?50くらいじゃね?」まさかの大幅なサバ読み!思わず「いや64歳くらいじゃない?」と突っ込んでしまう。

なんだかショックを受けたみたいだった。忘れたことに気づくの嫌だったんだな、ごめん。

チューナー以外に困ったことがないか聞くと、「特にない。でも肩が痛い」と言う。

揉んであげようかと一瞬思ったけど、父の体に触れるのが急に怖くなってやめた。子どもの頃はよく揉んであげていた。父が揉んでくれることもあった。父の体の感触を私は覚えている。でも手の甲のカサカサを見ていると、あの時とどう変わっているのか実感するのが怖くて、揉んであげるよと言い出せなかった。

とにかく肩がここから上がらないんだよ、としきりに肩を上げ下げする父に、揉んであげるよの代わりに「枕が合わないのかね?」と言うと「そうか、枕か」と妙に納得したように呟く。

「今はどんなの使っているの?」

「どんなのって…枕だよ」

「綿?」そう聞くと、まるで私が外国語を言ったような空気になった。

あんなやつだよ」と、ロビーの角にまるまった白いシーツを指さした。「シーツの枕」と、父は言った。

そうか、父にとってはもう枕はシーツの塊なのだ。中に何が入っているのかはわからない。いや、それ以前に枕とは中に何かが入ってるものだ、ということ自体を忘れたような感じだった。

元気な頃は、やれ冬は羽毛だ夏は蕎麦がらだ、パイプは安っぽくて嫌だとかうるさく、一時期はテンピュールにハマって家族全員で使っていた。そんな調子であらゆる点でこだわりがありめんどくさい男だったのだ、父というのは。

試しに、テンピュール って知ってる?と聞いてみる。「知らないなぁ」「そうなんだ、宇宙飛行士のために開発された素材でね、体の重さと温度で使う人の首にあった形になるんだよ。冬になると固くて石みたいだけどね!」と言うと笑った。かなり興味を持ったようだ。やはりこういうの、好きなんだね。同じ人だ。

「でも肩凝りにはいいよ」と言うと、明後日の方を向いて「誰か買ってくれないかなぁ」などと言う。直接は頼まないのがプライドの高い父らしい。

はいはいボーナス出たら買ってあげるよ」と適当に返す。

その後何度かチューナーのくだりを繰り返し、あっという間に20分すぎた。「そろそろ時間だ」と言うと「もういいよ」と父は言った。その反応になんだか寂しくなる。もういいんかい。まぁ、少し疲れたのかもしれない。またね、と言って別れる。

私は本業仕事が長期休暇のときテンピュールのお店で短期バイトしている。父の影響で私もテンピュール好きだから説明に熱がこもるのか、よく売れる。次にバイトした時、社割してもらって買ってあげようか。でもそのことは父には言わなかった。

最後まで父は私の名前を呼ばなかった。施設を出てから、なぜだかとにかく胸がつまり涙が出た。

あれだけ憎たらしかった父だが、なぜだか最近は良いことばかり思い出す。

次は名前を呼んでもらおって、あとは肩を揉んでやろうと思う。

2020-08-07

クーラーのついた快適な部屋で死にたいと泣いている

今年はコロナが多くのものに影響を及ぼした。私は今大学4年だが、未だに就職先が決まっていない。

全てがコロナのせいではないと思う。周りの友人も着々と就職活動を終わらせている。私はたいした努力もせず就活戦争に敗れ、今はベッドの上で壁と向き合っているか働くかの毎日を送っている。

卒論も書かなければいけない。でも私はほとんど書かずに、今は教授からも見放されていると思う。そもそも前期の単位を全く取れていないので留年確定している。両親にはまだそのことを打ち明けられていない。

6月末に祖母が亡くなった。私は遠距離彼氏に会うために大阪に出向いていたところで、その訃報を彼と一緒に寝ていたベッドの上で聞いた。私はそのことが恥ずかしくて、今すぐにでも大阪から実家に帰りたいと思った。2月ごろから祖母病気で在宅看護されているのも知っていたし、7月頭は会いに行こうと思っていた。でも私は祖母に会うことはできず、きっと祖母が亡くなった時、私は彼氏セックスをしていた。

祖母申し訳なかった。私は初孫で、祖父母にとって唯一の女の子の孫で、きっと他の子たちよりもほんの少しだけ大事にされていた。しっかり者で優しい女の子。そう評価されるのが嬉しかった。でも大事な時に私は彼氏うつつを抜かしていた。母親に「今どこにいるの」と聞かれた時居場所を伝えなければいけないのが苦痛だった。

から学校サボりがちだったが、祖母葬式以来授業に出れなかった。就職活動もここ1ヶ月していない。彼氏とは祖母が亡くなった1週間後別れてしまった。

こういう風に書くと私が祖母の死にショックを受けすぎてなにも手がつかなくなった風に思われるかもしれないがそうじゃないんだと思う。私にも説明がつかないが、死にたいと思うことが日に日に増えて、夜眠れなくなって、結果生活リズムが崩れて社会的な行動が取れなくなっただけ。

私はうつなんだろうか。わからない。死にたいと思うし消えたいとも思うけど、何も自殺に繋がる事はしていない。

でも死にたいと言う割にクーラーのついた部屋にいるし、仕事で高い焼肉を食っておっさん相手に「こんなの初めて食べました!」と笑いかけている。デリヘル嬢なんておっさんが連れてった飯屋で美味しそうに食べておっさん口臭のきつい口とキスしてちんこなめて同じベッドで寝るだけの仕事だ。ずっとニコニコして必要とあれば喘いで、祖父母と同じ年代男性に「父親だと思って」と言われて「ありがとうお父さん」なんて言ってちんこしごいて射精させる仕事。週に3回仕事して大体7万もらえる。それで生活している。

ツイッターでは死にたいとずっと言っている。唯一の相互リア友が「一緒に死のうか」と言ってくれる。その子心中することを考えると幸せになるから毎日そのことを考える。でもその子は今旦那さんとの子妊娠していて、きっと私と死んではくれないんだろうなとも思う。

はやく死にたい。はやくこの世から消えたい。どうして安楽死が許されないのか理解できない。

死にたいね、これを書きながら泣いているけど、どうせそのうちトイレに行ったりして、ちょっとウトウトして、携帯いじってるうちに1日が終わるんだと思う。どうせそのうち涙も止まってる。死にたいと強く思う気持ちが、本当なのかもうよくわからない。留年確定したこと就活ほとんどしてないことも彼氏と別れたこともデリヘル嬢だと言うことも全て隠して嘘をついてきた。私の嘘はそれだけじゃないし、自分でも誰にどの嘘をついたか、どんな嘘だったか全然覚えてない。

親がこんな私を知ったらどう思うだろう。この前LINEで「大好きだよ」と言ってくれた母親。「困ったことがあったら言いなさい」 と言ってくれた父親。私は周りに恵まれていて、とても大切にされている。それなのに死にたい友達女の子と手を繋いで早く死にたい

ごめんなさい、死にたいよ。

それだけの日記です。

2020-07-28

父が死んで良かった

実家燃えてなくなった。

母の話によると父はタバコの吸い殻をダンボールにためていたらしい。なぜ父はそんなことをしていたのかは分からないし、なぜ母もそれを危険視しなかったのかはわからないが、とにかくそのせいで燃えた。

僕の昔住んでいた田舎実家はそうやってなくなった。次に見た時には簡単に整地されており、何を入れているかはわからないが小さな物置だけが建てられていてぽつんと建っていた。整地するためにお金が足りないということで僕も30万円を母に渡していた。

その後、父と母と、一緒に住んでいた次男一時的市営住宅のようなところに住んだ。向かいの家ではうさぎ放し飼いにされていた。しかしボロすぎて辛かったらしく、最終的に家を買った。今もそこに住んでいる。その家は2階建てで部屋もたくさんある広々とした家だが、前の住人が物置で首を吊って亡くなったため1千万円弱で購入できたらしい。

父はぶっ壊れていた。

僕が小さい頃の記憶を思い出してみると、父と一緒にファミコンの難しいステージ試行錯誤しながら一緒に攻略したり、将棋で対戦したりしていた。父の仕事場が家から歩いていける距離にあったため、小さな僕はたまに仕事場まで歩いていき、父が仕事が終わった時に一緒に原付きに乗せてもらって家まで帰ったりしたこともあった。

しかし父は脳に異常があった。その関係で度々入院したり、手術を行ったりしていた。何度も仕事を辞め、何度も新しい仕事をしていた。

そのためうちは母がメインで働いている。働きに出ている母のかわりに家事はおじいちゃんがメインで行っていた。食事洗濯や、子ども病気になった時に病院に連れて行ったり、雪で学校へ行けそうにない時は車で送って行ったり。

父は特に前頭葉に異常があり、理性を保てずふとした拍子に豹変することがあった。僕らがゲームをしていたら急に部屋に入ってきて怒り出したり、部屋で普通に過ごしていただけなのにちょっとした発言で急に説教をはじめたりしだした。

一時期はおじいちゃんが目の敵にされていて、おじいちゃんのやることなすこと全てに文句をつけて自分のやり方を強要したり嫌がらせをしたりしていた。ある日次男は父に「殺いたる!」と言われながら追いかけ回されてトイレに閉じこもって避難したりしていたこともある。僕もある日「ボケてるんじゃないの?」と父にいったらそれは禁句だったらしく、急に後ろから思い切り殴られ、しばらくの間耳が内出血した状態で過ごしていたことがあった。

あとは理性が効かないためパチンコにもハマっていた。生活費ほとんど持ち出してしまたこともあるらしい。そのため家族は色々と対策をしていたようだ。とにかく数え上げればきりがない。家族みんなが何度もひどい目にあっていた。いつ何で発狂するかわからない父と過ごす毎日地獄だった。僕は本当に父のことが大嫌いだった。

中学高校の頃は僕も思春期を迎え、なぜ僕だけそんな境遇なのかと自分人生を呪った。特に僕は人と接するのが不得意だったこともあり、なぜみんな日々学校あんなに楽しそうにすごしているのに僕は何もうまくいかないのだろうかと感じていた。そして僕はきっと父親のせいでこんな風になってしまったのだろうから全てが父のせいだと思っていた。

高校で1日が終わったあと、僕は毎日夕方遅くまで部室でだらだらとすごしていた。やることがあったわけではないが家で父と顔を合わせたくなかったからなんとかむりやり時間を潰していた。そうして父がご飯を食べ終えて2階の自分の部屋に閉じこもるあたりの時刻に帰宅するようになっていた。たしかそのあたりでは父に話しかけられても全て無視するようになっていたと思う。正直、早く父がこの世から消えてほしいと思っていた。

進学は田舎から遠い関東大学を目指した。高校での人間関係は何一つうまくいかないし、家に帰っても狂った父親が家にいることが耐えられなかった。とにかく全てを捨てて新たな地で心機一転新しい生活をはじめたかった。

結局僕は関東大学合格し、そっちで一人暮らしをはじめた。自分以外誰もいない家。好きなことを好きなだけでき、誰からも急に理不尽文句を言われることが決してない、人生ではじめての心から落ち着け空間だった。

外での人間関係が決して完璧にうまくいくわけではなく苦悩も多くしていたが、それでも大学サークルに入ってみんなと普段から活動し、その中でいつも遊べる友達も出来てそれなりに充実はしていた。

そんな4年間を過ごし色々なことを経験する中で、僕の心も徐々に溶けていった。

色んな失敗をした。失敗をする中でなぜ僕はこうもうまく行かないんだろう? と考えた。一生このままで生きていかなければならないのだろうかと思った。そんな人生に何の意味があるのだろうかと思った。何もないのであれば死んだほうが良いのではないかとも思った。何かある度にすぐ父のせいだ、と思った。しかし、父のせいにすることは何の意味もないことにある日気づいた。たとえ本当に父のせいだったとしても、この先幸せになりたいのであれば、僕自信が変わっていくしかないのではないかということに、運良くたまたま気づくことが出来た。

それに気づいてからは父のことが頭によぎることがなくなった。自分にとって重要なことは、今後自分がどうしていくか、ということだけとなった。過去は何も関係ない。ただひたすら未来を描いて進むことだけが重要なこと。ひたすら考えて、考えて、考えるようになった。

そうやって過ごしているうちに、いつの間にか父のことを許していた。正確には、父に対しての興味を一切失った自分がいた。

僕は性格的に、一つのことに極端に集中してしまう傾向がある。大切な物は愛おしい。しか自分に全く関わらないものには興味が無い。ちゃんと考えて話している人の言葉は気になる。しか思考停止で人を傷つけるだけの言葉には全く興味が無い。嫌悪ではない。そんな人は世の中にたくさんいることが当たり前だからどうでもよすぎて興味が持てない。だから父のことも興味が持てない。しかし形はどうあれ、許すことも興味を失うことも同列だったため、僕の中で父のことは全てが解決した。

その後の父

僕は自分普段生活のことばかりを優先して考えていて、あまり実家にも帰らなかった。たまに帰った時やたまたまから電話が来た時に話をするのだが、父は窃盗もするようになっていた。窃盗と言っても数千円を盗むくらいだったらしいが。

とはいえ特に意外性はなかったし、その後どうなったのかなども興味はなかった。しかし一緒に住んでいる母としては大問題だった。家族が盗みを繰り返すのを放置してはおけない。

結局そのあたりから、母は自分が不在の時は時々父を介護施設に入れるようになった。もちろんはたから見れば早くそうしとけばよかったじゃん、みたいな話だろうと思う。事実母も父と離れる時間が増えることで精神的にはかなり楽になっていたのではないかと思う。

しかし、施設費用はそんな安いものではない。時々だけとはいえそれなりの費用がかかる。家のローンに加え、介護費用。そのころ母はもう60近かったがとにかく定年まで働かねばと嘆いていた。

そしてなんだかんだで月日が過ぎ、父はどこかの溝に落ちて負傷してしまったらしく、自分で体を動かせなくなってしまった。完全な要介護者となった。

僕はといえば、そんな話を聞いても全く興味が持てず、帰省したときにも特に会いに行こうとは思えなかった。というかそういった発想すら出てこなかった。もう僕の中では全てが終わったことだったため、このままもう二度と会わなくても別にいいと思っていた。会ったほうがいいんじゃないかと兄弟に言われたりすることもあったが断っていた。

終わりが近づく

それから数年が経った2019年年末ちょっと前に母から連絡が来た。父がもうそろそろ長くないとの話だった。丁度正月前後に亡くなるかもしれないということだったため、喪服などを購入して準備をした。

しかし、年末近くになり、再度連絡が来た。どうも結局峠を超えて今のところ問題ないということだった。

年末になり、実家帰省した。正月はだいたいいつも帰省し、子どもたちを妹の子どもたちと遊ばせたりしている。

さすがに状況が状況だったため、自然と父のところへ行く流れとなった。僕は別に行かなくてもいいと思っていたが、妻が子どもたちと父を合わせてあげたいという事を言っていたため、それもまあ子どもたちにとって何かの意味があるだろうと思い、特に拒否もせず行くことにした。

母と僕の兄弟とその家族でそれぞれ数台の車に乗り、大人数でぞろぞろと介護施設へ行った。

部屋に入るとベッドに横たわっている父がいた。父はもう当然自分では動けない状態で、しゃべることもできないため、うー、うー、とずっと唸ったりしていた。目が合うような気もするが特に変わった反応もなく、何を考えているのかは分からないし、そもそも何かを考えることが出来ているのかもわからない。結構多い人数で来たためぐるっとみんなでベッドを囲み、ぎゅうぎゅう詰めとなる。みんなで父の様子を見て、きっと大勢来ているから父もびっくりしているだろう、とか、喜んでいるときの声だわ、みたいな話をしていた。

父はたしかの子たちを見たことがなかっただろうと思うので、子どもをそれぞれ抱きかかえて父の目線の先に連れて行った。特に反応もなく、自分の孫だと分かっているのだろうか、分かっていないのだろうかもよく分からなかった。

そんなこんなでそこで少し過ごし、写真を撮ったりして帰ることになった。

最後大人たちがうちの子に「早く元気になってね」と言ってあげて、と促した。7歳の長男と5歳の次男がそれぞれ父に、まだ幼い可愛らしい声で「早くおもちゃ買ってね」「早く元気になってね」と一生懸命伝えた。すると突然、父が今までと違うかなり大きな声であー、あー、と言った。みんなびっくりしていた。一応子どもたちの言葉は伝わったのだろうか。詳しくはわからないがそれっぽかった。

父が死んだ

それから半年ほど経った。コロナ流行し、緊急事態宣言が発令されて終了した頃。2020年6月29日、朝起きたら妹からLINEで父が3時頃に亡くなったという連絡が来ていた。月曜日

妹に電話してみたところ、コロナのこともあるし別に来なくてもいいよ、ということを母が言っているとのことだったため、僕は葬儀には行かないことにした。僕も正直葬儀には興味が無いし、それよりも子どもたちに学校に行かせたり普段生活をおくらせてあげたかった。

しかし妻が不安になって再度母に連絡をとってみたところ、そんなことは言っていないらしく、来いと言われた。一体なんなんだ。

とはいえコロナのこともあるし、妻もちょっと体調的にウロウロできる状況ではないため、僕一人だけ行くことにした。

葬儀は7/1。朝からだったため前日に仕事を終えたあと実家に帰った。弟や甥っ子たちも実家に来ていた。大切な父……というわけでもなかったため、みんな普通に過ごしており明日告別式ということも忘れそうだった。

次の日、起きて甥っ子たちはフォーナイトをしたり、みんなでだらだらと朝ごはんを食べたりしていた。そうこうしているうちに時間になり、葬儀場へ向かう。

葬儀

葬儀場は宿泊できる部屋があり、実家にいなかったメンバーはそこにいた。しばらくすると大阪のおじちゃんとおばちゃんがきた。それぞれ父の兄弟で、夏休み冬休みには僕の兄弟と同じくらいの子どもたちをつれて実家に遊びに来ていた。大勢マリオカートをして遊んだりしていた。おじちゃんはいつも海につれていってもらっていたし、おばちゃんは逆に夏休み大阪に泊まらせてもらっていたため二人とも馴染み深い。

おじちゃんによると、父は子どもの頃に事故で頭をうったという。当時は額あたりの怪我治療前頭葉があるため、簡単はいじれず、医師にも難しかったという。誰もしっかりとした治療はできなかったらしい。その後父は元気にスポーツをしたりしていたらしいが、大人になって障害が出始めたのはもしかしたらそのあたりが原因だったのかも、という話をしてくれた。とはいえ母も僕の夜泣きが原因だったのでは、と言っていたりするので何が原因かはよくわからず、おじちゃんの話も懐疑的だった。

しばらくして葬儀が始まった。みんなが部屋に集まる。何もよくわからない状態だったが言われるがままに並んで椅子に座った。部屋が暗くなる。導師さんが念仏を唱え、みんなで繰り返す。

その後も式が進行し、導師さんが話を始めたりした。誰なのかもよくわからないし、何を話していたかももう忘れてしまった。

導師さんの話が終わると、今度は親族代表ということでおじちゃんが話をすることになった。おじちゃんは前に出てきたのだが、マイク全然違うところで話をし始めた。式場のスタッフを見るとあわてておじちゃんのところに駆け寄ってマイクのところに連れて行こうとするところだった。おじちゃんはいわれるがままにマイクのところまで行ったのだが、なぜかマイクを背にしてマイクがない状態で話し始めたので再度スタッフ誘導したのがおかしかった。

おじちゃんはおじぎをしたあと、先程のように事故の話をし始めた。頭をうち、前頭葉があるため治療もできず、でもスポーツをしたりしていた、ということ。

そのあと、父が大勢の人に迷惑をかけるようになってしまたこと、そして、その父のことを母が最後まで面倒を見てくれたことを話した。すると突然、何か急にこみ上げてきたものがあったらしくウッと声を止めて泣き始めた。それを見て母も泣いた。なんとなく空気が変わった。

元々そんな雰囲気はなかったためびっくりした。僕はもらい泣きもしなかったし悲しくもなかった。ただ、みんな何かしらそれぞれ思うところがあるのだなと思った。おじちゃんからすれば身内がとんでもない状態になってしまって、父が元々赤の他人である母にひどい仕打ちをたくさんしてしまたことに申し訳ないという気持ちが非常に大きいのだろう。

母は実際にひどいめにたくさんあい、この年までずっと働き詰めで大変な思いを今もしている。しかし、お見合い結婚だったとはいえ、楽しく幸せな時期も経験し、僕らがまだ生きて経験したことのない年数を父と一緒に過ごしてきた。詳しいことはわからないが、そこには本人にしかからない無数の思いがあるのだろう。自分と妻も一緒に生きてきているが、子どもたちはそこであった多くのことを何も知らない。当たり前のことなのだが、不思議なことだ。

そして、ここにそれぞれの思いを抱えた色々な人が集まったことも不思議に感じた。みんな何を思ってここにいるのか。僕には分からないが、何かを思っている。

その後告別式は終わり、父の棺にみんなで草花を詰めた。父の顔は処理を施されてつやつやしており、蝋人形のようだった。

その後棺を閉じ、それを男たちで車へ運んだ。そしてみんながそれぞれの車で焼却場の方へ向かう。

焼却場は僕が今まで行ったことがあるような汚い場所ではなく、きれいな施設だった。コロナの影響で焼却場には15人だけが入れるということらしい。父に近い15人が部屋に入る。部屋の中にある等間隔に並んだ足のマークの上にそれぞれが立った。

次に、父が入った棺が焼却する空間に納められた。スタッフボタン類をアルコール消毒したあと、閉じるボタンを押した。機械により扉が閉じられる。

そしてどのボタンを押すと焼却が始まるかの説明を受け、準備が出来たら押すように説明があった。しかし誰も反応しないため僕が母に押しなよと促した。しかし、どうも嫌だったらしく、いやいやという手振りをしたので僕が押した。

その後は1,2時間ほど時間がかかるということで休憩の時間となった。密をさけるため、どの部屋も人数制限があり適当バラけることとなった。弁当が用意されていたためそれを食べて過ごした。

しばらくするとスタッフから声がかかったためみんなで部屋に集まった。中央には棺の台を収めるスペースがあり、今は空いている。そのそばに長い箸がたくさんあり、それぞれがその箸を手にした。

しばらくして台が運ばれてきた。まだ熱く、気をつけるよう注意があった。その上には骨が置かれている。葬儀は何度か経験したことがあるため特に新たになにか思うということはなかった。そういえば昔妻が飼っていたうさぎを看取ったのだが、その時に焼却されて出てきた骨を見た時はとても悲しくて泣きそうになった。

スタッフ説明されながら、足から順に骨を入れ物に詰めていく。みんなで行ったり来たりしながらそれぞれ骨を詰めていった。思ったよりもポロポロともろい。頭の方になると、大きすぎるため箸で割って詰めていく。頭には手術の跡の金具がついていたりした。それも母が詰めていた。

そして一通り詰め終わり、葬儀の全ての工程が終わりとなった。皆それぞれ準備をし、帰宅した。僕も一度実家に帰って着替えをして荷物を整理し、車で帰路についた。

思うこと

僕は仕事もあったし、あまり車で長距離移動をするのは事故死ぬ可能性もあるし好きではない。そのためとにかく早く全てを終わらせたいと思っていた。なんとか生きて帰ってくることができたが、かなり疲れ果てていた。とにかくいつ始まるのか分からなかった大変な出来事が一つ終わり安堵した。

父が亡くなったが、母は元々次男と一緒に住んでいる。近くには妹の家族もおり、しょっちゅう甥っ子や姪っ子たちと遊んだりしている。三男もわりと話が好きで母によく電話をかけているらしい。僕は離れていて長期休み以外は音沙汰も無いが、それでも母はみんなのおかげで楽しく暮らしているように見えるため特に心配はしていない。

父がいなくなったことで母は父の介護費用を払う必要がなくなった。だいぶ生活も楽になるのではないかと思う。僕は本当に良かったなと思っている。

昔「家、ついて行ってイイですか?」という番組を見ている時に、一人の若い女性の家に行く回があった。

その女性の家には父親がいるのだが、要介護のため自分では動けない。女性はその父親介護をしていた。自分では動けないため、あらゆる事を補助してあげなければならない。朝起きてから、昼食、夕食、風呂トイレ、あらゆることだ。もちろん生活のため仕事もしている。ヘルパーさんがいたのかもしれないが、それでも何もなく普通生活をしている僕らには想像できないレベルの大変な毎日であることは間違いない。

女性はまだ若く、色々なことがしたい年頃だろう。彼氏を作ってデートをしたり、友達ショッピングに行ったり。インドア派であればゲームをしたり、ゲームキャラにハマって腐女子をしたり、好きなアイドルライブにも行ったりしていたのかもしれない。しかし、全て介護のためできない。ただひたすら介護をしなければならない。夢もあったのかもしれない。でももう諦めてしまったのかもしれない。

父のため仕方がない、と思いながらも、女性毎日どれだけ苦しいか想像をするだけでも苦しくなる。

その父はどう思うだろうか。自分の娘が自分介護のために全てを犠牲にし、尽くしてくれている。ありがたいと思うだろうか? 僕だったら死にたいと思う。一生懸命育てた自分娘。さなから育てながら思うことは、この子楽しいことも辛いことも含め色んな事を経験し、苦悩しながらもそれでもたくさんの素晴らしいことを経験しながら歩んでいき、やりたいことをやって自分未来を掴んで幸せになってくれればいいなということ。どんな未来でも自分が進みたい方向に進んでいってほしい。

しかしその全ての未来自分の手で摘み取ってしまう事になったとしたら。耐えられる自信はない。すぐに死に、失いかけていた大切な未来を与えてあげたいと思う。若い娘がそのような境遇さらされて多くの時間を失ってしまうことは世界にとっても大きな損失だ。

でも、死ぬということは難しい。自分死ぬ覚悟ができるものかどうかは全くわからない。さら介護されている状態自分死ぬこと自体そもそもできない場合もあるだろう。

この世には安楽死必要だと思う。死にたくても死ねない人を助ける制度必要綺麗事だけでは救われない人達がいる。その人達が救われる世界になってくれればいいと思う。しかしどうすればそういう世界にできるのかは壮大すぎて僕にはわからない。とにかく僕にはこうやって苦しむ人達がいるということを文字にして発することしか出来ない。

とにかく、その一つとして父が死んで本当に良かったと思う。

2020-07-22

推しの全ての可能性と瞬間と感情をずっと観測していたい

増田腐女子などに代表される女オタク発見されて1ヶ月程度だろうか。

私はどちらかと言えば手斧を投げ合うインターネッツの住人なんだと思うんだけれど、昨今のこういったムーブはそのうち去ると思うので、今のうちに便乗をさせてほしい。

既に辟易している増田諸君も多いかと存じますが、増田という海の懐は深いと思うし、そもそもこんな記事はすぐ流れて藻屑になるだろう、どうかお許しください。

何より、自分思考は恐らく異端と判じられることなのだろうなと常々考えていた。

から増田に書き捨てておきたい。

 

かれこれ20年程前から、ずっと好きであり続けているキャラクターがいる。

私がインターネット世界に身を投じる少し前にプレイした、ややマイナーゲーム登場人物だ。

その当時のオタクは、同人誌即売会などの直接的なものを除けば、雑誌への投稿交流の中心だった(10年前の個人サイト、5年前のpixiv現在Twitter等の役割に近い)。

親指の先ほど小さなイラストでも、そのキャラが描かれたイラストが1枚でもあれば、雑誌を購入する理由になっていた(今になってなぜ雑誌スクラップを作っておかなかったかと後悔している)。

学生の頃、それも義務教育の枠内である時分にのめり込んだので、それまでの短い人生の中でも形成されていた嗜好を、そのキャラ存在が塗り替えた。

それまでは分かりやすいくらいの熱血漢で優しさもあるような性格キャラクターが好きだったのだが、

以後は他作品であってもそのキャラに似た、少し長めの黒髪で深い青の瞳、淡々として気難しい性格キャラクターが好みになる。

 

さて、私が好きになったキャラは、前述の通りゲーム登場人物だ。

そのゲームマルチエンディング採用しており、プレイヤーのとった行動によってはそのキャラは死を迎えることがあるが、幸福を得るエンディングもあった。

どのエンディングも余韻や想像余地を残すものであり、創造意欲を掻き立てられるものだった。

20年前当時の私は(そして多分今でも)、このキャラに恋をしていた。いわゆる夢女子である

まったくそういう性格付けはされていないのだが、彼は私にとっての王子様だった。私にだけは優しくしてくれるなどという愚かな妄想をし、どうしたら彼の心を解すことができるかを悩み、

眠りから覚めたばかりで夢と現実境界曖昧ときは『こんなに苦しいならば直接会いに行こう』とさえ本気で思い、そして現実にこの人がいないことに気づいて、我ながら馬鹿すぎると落ち込むのだった。

ゲームで描かれた物語ハッピーエンドベースとして、このキャラを中心とした夢小説をいくつも書いた。

その頃の私は夢女子であったけれど、元々は男女の組み合わせで話を書くのが好きだった。別のゲームとかマンガとかではそういうお話をよく書いていたし、

このキャラが出ている原作ゲームでも他の男女の組み合わせの話を書くこともあった。

でも、このキャラと他の女性キャラクターの組み合わせだけはどうしても苦手で、殊更苦手な組み合わせは目にすることすら苦痛に思うこともあった。

私の思い描く世界幸せになってほしい、というエゴ押し付けた話を量産していたのだ。

しかし、二次創作とはおおよそそのようなものだろうとは思っている)

そして、当時の私は悪い意味で若く、一途ではなく、新しい刺激があればすぐさまそちらに寄っていった。

まり、他の新しい作品に入れ込んで、このキャラ主体二次創作をすることがだんだんとなくなっていったのだ。

新しい世界の扉を次々と開いて、その中で繰り広げられる物語に浸る。

そしてときどき、思い出してはそのキャラのいる世界に戻って、やはりいつになってもこの人は素敵だと幾度となく確認してから、また別の世界へと渡っていく。

どんな世界を覗いても、心を惹かれるのは例のキャラにどことなく似ている人物ばかりで、こんなにも己の内を侵食されているのだと我がことながら呆れもした。

百様玲瓏世界の扉の中には、私のうちの別の嗜好を開く鍵がいくつもあった。

たとえば、それまでは毛嫌いしていた同性同士の組み合わせの話が読めるようになったり、書くようにもなった。

たとえば、性転換や両性具有などといった趣向も持ち合わせるようになった。

たとえば、四肢の欠損や痛がる描写死ぬまでは生きてもがく様にある種の美しさを見出すようになった。

時には、二次創作ではなく全く別の世界に誘われることもあった。

そして時間が流れ、時代平成から令和へと移り変わった。

さまざまに思うところがあり、私はそのキャラ原作ゲーム二次創作を再び始めることにした。

その前に、まだネットの片隅に残っている、そのキャラが出てくる二次小説を片っ端から読み漁った。

存在のものがあり得ないと思っていた同性キャラとの組み合わせの話に感動した。

文字列を見るだけで苦々しく思っていた女性キャラとの組み合わせの話は、むしろ好みになっていた。

そして、以前ならば絶対に思わないことを思うようになっていた。

『バッドエンドの世界線の話を描いてみたい』と。

私は、20年以上も自分の心の真ん中に立つこのキャラクター幸せをずっと祈っている。

どうかできればハッピーエンド世界線でずっと幸せ暮らしていくことを願ってやまない。

だけど、その一方で、この人の苦痛に苛まれて歪む顔、今わの際の表情だってきっと美しく魅力的だろうから、描いてみたいと思ってしまった。

それだけではない、かつては苦手としていた女性キャラとの組み合わせの話も書いてみたい、ありふれているけれど満ちみちた暮らしを手にすることができるのだろう。

同性との組み合わせも書きたくて仕方ない、ガラス細工のように繊細で、そして耽美雰囲気も実に似合うのだ。

もちろん、十数年前と同じように、夢小説も書いていきたいと思う。

どんな形でも構わない、そこに自分の行動の介在ができれば、きっとこの上なく嬉しい気持ちになれると思うが、所詮妄想から叶うはずがない。

否、結局はこの人の存在こそが空想のもので、私がその在り様に一喜一憂しているだけなのだ

そうは分かっていても、このキャラクターいかに他の人物・状況・世界に触れて、何を感じ、どんな表情を見せるのか、そのすべてを見てみたいし、この手でそれらを書いてみたいと思う。

元々がマルチエンディングゲームである、その分岐をすべて観測できる立場に私はある、

ならばいっそ、自分妄想したものでも他の方の手によって描かれたものでも、幸福でも不幸になっても、このキャラのすべての可能性を見れるものならば見てみたい。

自分が好きなキャラクターがただ不幸になるところを見てみたいなど、あまり思ってはいけないし、ましてや見えるところで言ってもいけないことだろう。

これから、このキャラが何かしらの形で苦痛を受けて流血する話を初めて書く。

どういう話にするかは何となく頭に浮かんでいる。これからプロットを立てていく。

その前の儀式として、増田の場を借りて書き捨てさせていただいた。

 

ありがとうございました。

2020-07-14

GOTOキャンペーン安倍総理とお友達になればいい

日本人がみんな安倍総理とお友達になればすべての問題解決する。

ひきこもり安倍総理に、GOTOキャンペーンを使って田舎から会いに行こう

さびしがりやの安倍総理と友だちになろう。

2020-07-07

29歳女が決死告白の末おしっこ漏らした話

やっほ〜!皆さんこんにちは!!

今日現代社会でもまれてる〜!?

突然だけど、みんな最後おしっこ漏らしたのっていつですか?

大人ともなったら2、30年前とかになるんですかねー?

私ですか?

まだ24時間経ってないです。

いやね、昨日ちょっと飲みすぎたんですよ。

自分にとって非常に大きな出来事があったもんで。

結論から言うと「好きな人にフラれようとしたのにそうしてもらえなかった」んですね。

私、3年くらい片思いをしていたんですよ。学生時代の友人に。

彼のことは便宜上Aと呼びましょうか。

で、私その間2年間遠方に住んでたんですね。

その間に結婚まで考えた彼氏ができたりしたんですけど。色々あって破談になったり。

彼氏がいた期間中も駄目だなーと思いつつ、うっすらAのことは好きでした。

まぁAはAでその頃には彼女ができてたんで、一生懸命考えないようにしてたんですけど。

で、このコロナ仕事がなくなって地元に戻ってきたんですね。

(戻ってくる前に2週間ホテルで過ごしたりして対策しました。念の為。)

実家に帰ってきてから2ヶ月くらい不要不急の外出をせずにいました。

あつ森やったりリングフィットアドベンチャーやったり資格試験受けたり。

でもやっぱり家族以外の人間ほとんど会わずにいると人恋しくなるもんで。

友人にそう話したら「マッチングアプリ彼氏探したら?」と言われたんです。

その友人もマッチングアプリ出会った彼とよろしくやっているそうで。幸せになれよ。

まぁ私も29だし?男の一人や二人作ってそろそろ結婚すっか〜?

かーっ出会ったキッカケがマッチングアプリって親はどんな顔すんだろうなー!つって、

完全に良い男見つける気満々だったんですよ。

実際何人かとはメッセージのやり取りをしたり電話したりもしました。

でもねー、どんな人と話してこの人だったらどんなところにデート行ってーとか考えてても、

つの間にか妄想の中の自分の隣にはAがいたんですよ。

それに気づいたとき、こう思ったんですね。

「これはもう1回Aにフラれないと駄目なんだ」って。

もう1回っていうのはお互いフリーだった時期に1度告白して玉砕してるからなんですけど。

Aが彼女と別れて私を選んでくれるなんてことは1ミリも期待していませんでした。

彼女さんのことを私は知らないけど、お互いを選んで一緒になったということには間違いないでしょうから

だけど、自分の中の恋心に蹴りをつけないと前に進めないなと思って。

からAにとどめを刺してもらわないといけないと思ったんです。

Aとは住まいがそんなに離れていないので、

色々落ち着いたら飲みに行きたいねーって話したりしてたんですけど。

それが昨日だったんですね。

私が勉強していた資格試験が終わったのと、そろそろ外食もご時世的にはセーフになったかなということで。

(一応店は換気のシステムがしっかりしているところを選びました)

この日のために通販しまくったコスメ自分を可愛くしていきながら、

ドリカムの「マスカラまつげ」をずっと流してました。

終わりを迎えようとしているカップルの、それでも彼を繋ぎ止めようと健気に努力した女性を描いた素敵な歌。

少し状況は違うけど、自分に被るものがあるなぁと思って。

私も「自分でできるいちばんかわいいわたし」になって会いに行こう、それで全部終わらせようと思いながら化粧をしました。

まぁこの後おしっこ漏らすんですけど。

で、Aと会って、しこたま飲んで、2年分色々話して、楽しい時間を過ごして、

帰り際、「改めてだけど、お帰り」って言ってハグしてこようとしたんですよ。

そういうことをサラッとしちゃう人なんですよね。好き。

でもここで触れてしまたらこの決意が無駄になる!

思い出せ、夜な夜な布団の中でフラれるための言葉をイメトレしたことを!

と、自分発破をかけて。言ったんですね。

こんなことをお願いするのは申し訳ないんだけど、もう1度フッてください。

私が前に進むのに必要ことなんで。って。

そしたら黙っちゃって。すごく悩みながら。

そして長ーい沈黙の後に出た言葉

「1ヶ月待ってくれない?」

もう、もうね、私は完全にフラれることしか考えてなかったんです。

あとは天地がひっくり返ってもありえないだろうけど、彼女とは別れるから付き合おうって言われるとか。

でも答えはそのどちらでもなくて。ていうか1ヶ月って長くない??

いや私も普通に言いましたけどね。「1ヶ月は長いよ!」つって。素で。

でもAは自分の主張を曲げなかったんで、私がとりあえず折れて。

1ヶ月待つことになりました。何を?

その場でAと別れて電車に乗って地元について、

バスなんてとっくに過ぎてしまっていたので歩きで家に帰って。

もう何もわからなくなって、だって決死覚悟肩透かし食らったわけですからね?

しかニートの1ヶ月を舐めてはいけません。1ヶ月なんて永遠みたいなもんですよ。

からヤケになっちゃって、道すがらコンビニ缶チューハイを買って飲みながら歩いて。

それを飲み干した頃に2件目のコンビニでもう1本買って。

どちらも度数9%のストロングチューハイ意味分かんないくらい飲みやすくて。

それがマズかった。

かろうじて家についたんですがその先の記憶曖昧で。

次にはっきりと意識を取り戻したのは明け方5時頃でした。

自室の床で倒れてたんですけど。あー気付いたら寝てたなー気持ち悪いーっつって。

とりあえず来てた服を脱いで寝直そうと思って履いてたジーンズに手をかけたら。

濡れてたんですね。しっとりと、でも全体的に。

その瞬間に脳裏フラッシュバック

あ、私おしっこ漏らしたわ。

玄関から部屋にどうやって戻ったかも覚えてないけど。

真っ暗な部屋の中で。

立ったまま。

「あああ〜おばあちゃんごめん〜!!」って思いながら。

祖母自分が寝ている隣の部屋で29にもなった孫娘がおしっこ漏らしてるとは思いもしないでしょう。マジでごめん。

で、おしっこ漏らした前後記憶は一切ないんですけど、

自分なりに対処しようと思ったんでしょうね。

部屋にかけてあった無実のTシャツ自分の下敷きになってました。

いやこのTシャツまだ買ったばっかりのヤツ〜!ていうか着てた服がそもそもAと会うのに備えて新しく買ったヤツ〜!!

などと思いつつも、その時点で強烈な気持ち悪さに襲われていたので、

とりあえず服を脱いで適当な部屋着に着替えて寝直しました。汚い?分かっとるわ。

時間後に目覚めて、めちゃくちゃに吐いて、またしばらく動けなくて、

祖母ポカリ出してもらったりお粥作ってもらったりして、

「孫の二日酔いの世話をすることになるとはねぇ」って笑われたりしたんですけど。

一緒に笑いつつ「ごめんね、孫は夜中におしっこ漏らしてその汚れた服の片付けもできてないんだよ…」

「いま部屋に戻ればそこにあるのは”最悪”を絵に描いたような状況なんだよ…」と後ろめたく思っていました。

さすがにおしっこまみれの服を祖母に片付けさせることはできなかったので、

ある程度回復してからこっそり自分洗濯しました。床も除菌しました。

勝負服白いシャツワンピだったんですけど、Tシャツインクが色移りしてたんでちょっと泣きました。

29歳女が決死告白の末おしっこ漏らした話は以上です。

とりあえず「ヤケになってる時にストロングチューハイなんて飲むもんじゃない」という知見が得られました。

最後おしっこ漏らした日からの経過日数記録を更新できるように、今後も精進していきたいと思います

願わくば、1ヶ月後に同じことを繰り返すような事態になりませんように。

2020-04-06

コロナで会えなかった祖母通夜に行った

ビックリするほど眠れないしこんなどうでもいい話をする相手もいないからここに書こうと思う。

長く入院していた祖母は、終末医療を受けていた。1ヶ月前くらいから、病院自体が時節柄部外者立ち入り禁止となってしまった。仕事が忙しく年末に会いに行ったきりで、春先のまとまった休みが取れたところで会いに行こうとしていた僕は、もう外に出られない祖母が誰にも会えずにベッドに寝たきりなことを考えただけで泣きそうだった。

そしてついに亡くなってしまった。知らせを受けてもやっぱり病院には入れず、休憩時間にそっと泣いて、そのまま仕事を続けた。酷い、本当に酷い話だと、それでも何を憎んだら良いかからず、ただただ天を仰ぐと満開の桜が見えたりして、毎年桜が咲くと祖母のことを思い出すのかなと思うなどして。

共働きの両親に代わって中学卒業するまでの面倒を見てくれてたのは、同居していた祖母だった。祖父も一緒にいたけど、昔ながらの亭主関白な人で、お茶すら自分で入れない人だったから。将棋とかトランプとかでは遊んでくれたけど、食事風呂なんかは全部祖母がやってくれていた。

美味しいもの好きな人だった。おやつスナック菓子が出てくるのは稀で、今日は近所のお煎餅屋さんの甘辛煎餅よ、今日は遠出して〇〇屋の羊羹買ってきたわよ、旬の果物を剥いてあげようね、ラクアイスじゃなくてアイスクリームを食べなさいって。百貨店のお肉の包みもよく見たし、手巻き寿司をするときは食べきれないほどのネタを用意してくれた。だからといって毎日カロリー食ではなくて、良いものを美味しく食べさせてくれていた。

学校から帰るとちょうど、リビングテーブルテレビを見ながら夕飯の仕込みをしているのをよく見た。絹さやの筋を取ったり、茹でたとうもろこしの粒をほぐしたり、生栗の皮を剥いたり、里芋の皮を剥いたり。料理下手な両親に代わり、料理を教えてくれたのも祖母だった。

自然好きな人だった。何かにつけては花を見に一緒に遠出した。小さい頃だから花に興味なんか全然なくて、なにが楽しいのかさっぱり分からなかったけど、楽しそうにする祖母を見るのは好きだった。

四季を楽しむことを教えてくれたのは、紛れもなく祖母だった。

生前好んで食べていた食べ物と、たくさんの花に囲まれ眠る祖母は、やっぱり綺麗な顔をしていて、大好きな僕のばあちゃんは、もう2度とクシャクシャの笑顔は見せてくれなくて、言葉ももう、交わせなくて、分かってたはずなのに、分かっていたはずなのに、死ぬことがどういうことかって、教え方が、痛いよ、ばあちゃん

2020-02-29

死にたくなる夜に限って

死にたくなってしまった。

もうだめだ

と父にLINEしたら今また入院しているらしい。

こんな真夜中にもすぐにLINEが返ってきた。

そういうあなたのことを分かってくれる人を見つける努力をしなよ、見つかるまではここにいていいよ、

もう俺にはできないよ、俺が全部悪いんでしょ、頼むから寝かせてよと同居人に言われ、私は散歩に出た。

実家に帰ったところで父はいてくれるけど、でも母親がいて、またアマゾンプライムで縄を買うってところまでは見えているのだ。

自分母親が嫌いだから自分家族を作りたいとそういうことも同居人にも伝えていたのだけれど

もうわからない、実家帰りなよと言われて、私が今まで伝えてきたことはなんだったのだろう。

婚約指輪分の30万円を返せる準備をしようと思った。

私の言葉はどこへ行ってしまったのだろうと、言葉と一緒に身体もぽーんと空中に放たれてしまってああこのまま大気圏突破して燃えしまいたいなどど耽っては泣いてふわふわ環七をさまよった。

通り過ぎていく光と影にいちいちびっくりしながら、胃痛カフェオレを流し込んだ。

同居人に言われた悪い言葉たちばかりが頭の中を蠅のように飛び回ってしまっている。

もとはといえば全部自分が悪いのだが。努力はしてきたと思ったのに。やっぱりだめなのか私は。

お父さんにはい会いに行こう

はい死ぬのだろう。

お父さんはいつ死んでしまうのだろう。

お父さんがいなくなってしまったら自分も死のうと思ってきたけど、それももう近いのかもしれない。

2019-12-28

でもどうこうしたいとも思わないんだなぁ

家って変だな〜と思う。

私は母親とその祖父母暮らしていて、父親という存在の事を全く知らない。顔も名前も知らない。「お父さんが〜」とかそういう話を聞く度になんか不思議な気分になるけどそれはまぁよくて、自分父親にはさしたる興味もない。知ろうとも思わないし、会いに行こうとも思わない。向こうも困るだろうし、新しい家庭とかもあるだろうし。知らない存在は知らないままの方がいいと思う。

私の家ではまず家族揃ってご飯を食べる文化がない。

夕飯の時間バラバラだし、朝に至っては同じ家に暮らしてるのに誰とも会わない。同じ屋根の下で、マンションみたいな暮らしをしている。ご飯を食べろとも言われないので今日の私の夕飯はそこら辺に買ってあったピザパンクラッカーだった。母親とは普通に仲がいいので母親の部屋でテレビ見ながら1人で食べた。

食育という言葉と縁遠いから、個食孤食だ。家族の温かみとかそういうものに真っ向から喧嘩を売る生活をしている。

まれてこの方、休日に揃って昼食を食べた記憶も無い。これでも小学生の頃は夏休みには家族旅行に行っていた。でもそれも私の従姉妹がいたからだと思う。彼女が忙しくなってからというもの旅行という言葉は出なくなった。反抗期というわけでもないような気がする。ほぼ関心がないというのが本当のところで、祖父母ももう私のことを諦めているんだと思う。

同じ家に暮らしているだけで家族だというならそうなんだろうけど、別に絆とかそういうものはない。

綺麗な言葉で言えばそれぞれの生活尊重しているということになるだろうし、あけすけに言えば誰も他人に興味を持っていない。本当に時々夕飯の時間が被ると内心めんどくさいと思っている。多分それは母親もそうで、揃って夕飯を食べなきゃいけないときの私と母の暗黙の了解は話を広げようとしないことだ。

面倒なのだ、老人が概ねそうなるように同じ話がループする。「○○さんが〜今日は〜……」知らないし。誰だそいつ。機嫌を損ねるような事をするのも面倒なので聞き流す。右から左にふわ〜っと。ひたすら目の前のブツを胃に流し込む作業。めんどうだからほっとこう、ってよくアイコンタクトしてる。

こうなった事に特に理由はないんだと思う。物心ついた時には、そういう風になっていた。疑問を抱いたこともない。

理想家族って、正しい家族の形ってなんなんだろう。多分、一生私とは縁がないんだろうな。同じ考え方ができるか、差異を認めて丁度いいぬるま湯みたいな場所を見つけられる人じゃないと一緒に暮らすこともできないと思う。ご飯の時くらい、とか言われても私は知らないからだ。家族の団欒とか言われても、揃ったら会話はほぼゼロから。私は、祖父母といるとなんだか緊張するのだ。下手なことを言ってはいけない自分のことを話すのは悪手、言いたいことは言わない。面倒を避けることに労力を割いた方がマシ。

なんだかよくわからなくなってきてしまったのでやめる。1人でクラッカー食べながら飲むお酒は美味しいしくっそ寒いベランダで吸う煙草もいいものだ。もしこの取り留めもない下手な文章を読んでくれた人がいたらありがとう文字にできて良かった。ばいばい。

2019-12-24

[][]

クリスマスイブ🎄

並んで🍰買いました

眼の横上の奥に黒いもの

母に会いに行こうメイクばっちりしてたし(濃くはないし盛ってはないけど)

洗濯もしたとこでしたが急きょ眼科受診

結膜下出血になっててしかも血の処黒い。

触っちゃって傷いってるので

普通に殺菌とリペア系の目薬貰って、

ケーキに並んで帰ってきました。

言われてないけど

寝るとき眼帯しようと貼る眼帯買いました。

ちょっと落ち込んじゃったけど

ケーキに並んでる時

仲良しご夫婦お話してほっこり💝

半額のお弁当食べて

ケーキも美味しくて

皆様メリークリスマス!!

🐈ねこより。

メイドさん特別感情を抱いてしまった

彼女を知ったのは何年か前の春先。研修期間を終えお披露目となった彼女を紹介するメイドカフェ公式アカウントからツイートかなにかがリツイートで回ってきたのがはじまりだった。

小ぶりな丸い顔とその愛らしい笑顔に心を打たれ、彼女Twitterアカウントフォローした。

当時わたしは海を超えた地元生活をしており、遠く離れた秋葉原の小さな店舗のひとりのメイドさん存在というものは、二次元ではないにしろ遠いものだった。

会えない、もし会ってあわよくば…なんてことを考えすらしない。メイドカフェといえど結局は飲食店。客に興味は沸かないし、メイドカフェに通うオタクなんて嫌悪感しか抱かないと思っている。

彼女存在というものは他にフォローしているアイドルなんかと同じ。目の保養とだと考えた。


彼女投稿する写真はどれも可愛かった。毎日いろんな髪型メイド服、たまには私服もあったり。

それをほとんど全て保存してお気に入りにしていた、携帯ストレージが埋まれば今度はクラウドストレージ彼女名前フォルダを作りそこに保存した。

今これを書きながら見直しているけれど、千枚は簡単に超えている。傍から見れば気持ちの悪い話だ。

しか彼女わたしのことを知らない。だからそんなことは関係のない話だったのだ。


彼女を知ってから1年後の春にわたし転職した。契約期間満了がその理由だった。

特に苦労もなく入社した新しい会社はいわゆるIT派遣で、中途採用わたし入社2週間後には東京の地を踏んでいた。


派遣先は東京付近彼女がいる秋葉原まではたったの2駅。しかし当時のわたし彼女との距離をそれほど意識してはいなかった。

あくま彼女はまだTwitterの中での存在だった。それでもTwitterフォローしているアカウントの中では彼女が一番だったことは間違いない。


新しい会社社員同士の仲がよく、チャット雑談をしたりしていたのだが、わたしと仲のいい同期がとあるチャンネルを作った。

目的は『アイドル女優など、推し女の子を紹介する』というものだ。

自分でも自覚はしているけれど、わたしの好みのタイプは万人受けするものではない。

タイムライン乃木坂46齋藤飛鳥武田玲奈画像が貼られているところに、彼女画像を貼った時の反応はよくなかった。

『お前が好きそう』『メンヘラっぽい』なんて言われたりしたけれど、ことあるごとに彼女画像を貼った。

誰かが眼鏡をかけた女の子を紹介すれば、わたし眼鏡をかけた彼女画像を貼る。

ポニテ女子が上がれば、彼女ポニテ画像で対抗する。

千枚以上の写真があるんだ。どのシチュエーションにも対抗できる。我ながら気持ち悪いやつだ。

そうしていたらそのチャンネルのなかでわたし彼女ガチ恋オタクだと言われるようになっていた。


そして、彼女に会いに行くことになったのだった。


まりにも彼女のことを語るわたしを見て、上司が『それじゃあ会いに行こうよ』とわたしの手を引いた。

実際に行くにもわたしはずっと『会ったらガチ恋してしまう』なんて言っていたけれど、内心はすこしドキドキしていたと思う。

秋葉原から少し離れた通り、そこに彼女が在籍するメイドカフェはあった。それまでに秋葉原は何度も足を運んでいたけれど、この通りまでは来たことがなかった。

メイドカフェ黎明期にできたというそカフェのドアを開く、席に案内される途中横目で彼女を探す。いた。そりゃそうだ。事前に出勤する日をTwiterで確認したんだから

今まで画像しかたことがなかった彼女だったけれど、やっぱり女の子は動いている方が可愛い

彼女の声や動き、静止画ではわからない彼女の魅力を知ることができた。

ところで、わたし好きな人にはそっけない態度を取ってしまう癖がある。最近知った言葉だけれど『好き避け』というらしい。

思い返せばこの時オーダーを取ってくれた彼女の姿をあまり覚えていない。美化したような表現にはなるけれど、わたしの好き避け癖は既にしっかり機能していたのかもしれない。

いわゆるテーブルにしっかりメイドさんが着いてくれるお店ではなく閉店時間も迫っていたので、会話もそこそこにわたしたちは退店することになった。

翌日他の同僚なんかにどうだった?と尋ねられたりもしたけれど、生の彼女を拝んだくらいで恋してしまう程わたし恋愛経験がないわけではなかったので、いつもどおり彼女の魅力を語っていた。


その数週間後に今度は同僚と二人でそのメイドカフェになんとなく行ったりもした。

その時に手に入れた彼女ラミカは今でもパスケースに入っている。


そこからは何ヶ月かに一度彼女に会いに行った。毎回はじめまして対応だ。

わたしの働くオフィスが変わったのもあるけれど、やっぱり自分のなかでアイドル現場メイドカフェというものは頻繁に足を運ぶものではないものだと強く思っていた。

その間に彼女コンテストに応募したり、新しいことに挑戦したりしていた。それに対して少しばかり応援したり、たまにリプライを返してそれをいいねされてドキッとなったり、

相変わらずTwitter彼女がアップする写真ハートを投げる。そんな日々を送っていた。


だけれど、それは続きはしないかもしれない。


彼女就職することになった。

メイドカフェ副業として続けるらしい。が、わたしは知っている。今までそう云ってきたアイドルメイドさんは、少しの期間をおいてその人生に幕を下ろす。

からわたしはそのツイートを見た瞬間にまだ決まってもいない卒業の日を想像してしまい、胸が締め付けられるような苦しさを感じた。と同時に彼女に会いに行かないとと思った。

彼女の姿を一目見て、『新しいお仕事頑張ってください』と一言かけよう。そう決意して翌日彼女に会いに行った。


久しぶりに拝む、とは言ってもTwitterではほぼ毎日見ているので特に驚くこともなかったが、やっぱりビジュアルもそうだけれど彼女の話し方や仕草も合わせると更に素敵だ。

金曜日の夜、店内はそこここに混雑していた。窓際に座るわたし彼女はオーダーを取りにきてくれたけれども、わたしはとっさに目を見て話せない。好き避けはまだ治っていなかった。

結局この日は言いたいことも言えずただカクテルを一杯飲んで店を後にした。

帰り道、彼女のことをツイートするとリプライが来る。わたし彼女認知されていた。『また遊びに来てください』の言葉わたしは胸が踊った。変な声をあげながら喜んだ。

そしてその次の日に会いに行くなんて、わたしは本当に単純だなと思う。彼女もまたわたしの姿を見て『来てくれたんですね』と声をかけてくれる。

それでもわたし彼女の目を見て話せない。彼女の表情は覚えていないけれど、冷たく思われないようにできる限り丁寧な返答をするように心がけたのは覚えている。


認知される』ということは、少なくともわたしの中で特別なことに思えた。

それは今までアイドル現場や他のメイドカフェに行ったことがなく、単純に初めての経験だったから。

たったこれだけの事で優越感や幸福を感じるなんて、あまりにもチョロさがすぎるとは自分でもわかっているんだけどね。


そこからわたし彼女の出勤する日はできる限り来店している。

メイドカフェへ足繁く通うようになって、彼女以外の他のメイドさんにも認知された。

まぁ、彼女がいる日にだけ行くというのもなんかアレなので、いない日にも行くようにしている。結果的にそのメイドカフェ自体が好きになってしまった。

彼女の他に推しと呼べたり、落ち着いて気軽に話せるメイドさんもいる。

だけれどわたしの中で彼女へ向ける感情は、他のメイドさんへ向けるそれとは違うものだと自覚している。


店内の数人でやったトランプゲーム中に彼女の肩が一瞬触れたり。

誘いに付き合ってくれた先輩が気を利かせ、彼女に声をかけて少しの間やりとりをしたり。

また別の先輩は、あまりにも好き避けが激しいわたしを見かねてツーショットチェキを撮るように促してくれたり。

更に翌日自分チェキをオーダーすると、『やっと自分からオーダーしたなー?』とからかうように言われたり。

まだ短い期間だけれども、全部が綺麗でキラキラした大事な思い出になりつつある。

メイドさんが選んだクリスマスプレゼントランダムで手に入るクジ。彼女プレゼントを目の前で他の旦那様が引いてしまったのだけは悔しかった。

その旦那様も彼女推しとしているらしいのが更にモヤモヤした気分にさせた。ジャニーズアイドルなんかで『同担拒否』するファンの気分はこれのことなんだろうか。


もっと彼女を知りたい。

何を見て聞いて食べて、喜んだり悲しんだり悩んだりするんだろう。

メイドカフェメイドさんとしてではない彼女を知りたい、メイドカフェ旦那様としてではないわたしを知ってほしい。

そしてこのわがままな願いが叶うこともない現実を知る苦しさ。

この気持ち名前をつけて認めてしまったらわたし旦那様としていられなくなってしまう。


厄介オタクの身勝手自己愛や歪んだ理想像だと言われるかもしれない。自分でもかなり感傷的になっていることもわかっている。

そもそも卒業が決まったわけでもないのに、勝手想像して辛くなって泣きそうになってるなんて面白すぎる。

でもいつか卒業する瞬間が来て。卒業して何ヶ月かしたら彼女の中のわたしは消える。何年かすればわたし彼女のことが思い出せなくなってしまう。

それがどうしてか哀しくて苦しくて今この日記を書いている。ちょっと読み返してみたけどイタさ丸出しで笑う。

何が『この気持ち名前をつけて認めてしまったら』だ。どこからどう見ても厄介ガチ恋オタクだよ。

ついでに、ありきたりな『こんな辛い思いをするくらいなら最初から出会わなければよかった』とかい台詞が思い浮かんだけど、わたしはそうは思わない。

あの日運良くツイートが目に留まって、転職して東京に行き、ツイート彼女リプライをくれた。今までの選択なくなることはない。こういうところだけは現実見てるんだなあ。


さて、わたしメイドさんとしての彼女人生を3年以上応援してきたけど、彼女からしたらついこの間顔と名前が一致した人。

ストーカー予備軍かよ。そんな奴からこんな身勝手感情を抱かれているなんて知られたら相当寒気がするはずだ。

もしこれを目にしてしまったら、次わたしが来た時にいちごパフェでも勧めてください。それ以降お邪魔しません。


この書きなぐりを見つけたおじさん方、どうか知らないフリをしてください。詮索もダメゼッタイ

だったら最初から書くなという指摘もわかります。でも書かないとおかしくなりそうだったんです。

2019-11-04

友達の心の支えになれなくて悲しかった話

特定されると嫌なのでフェイクを入れるけど。

某日、私は久しぶりに会う友達♀と遊ぶ約束をしていた。

一緒に行きたいところとか、夕飯はどのお店にしようとか、2週間くらい前からウキウキしながら相談したりしていた。

私お友達仕事実家を離れて暮らしいるから、なかなか頻繁に会うこともできないし本当に楽しみにしていた。

昼過ぎ頃〇〇で会おうね、という待ち合わせの約束も数日前に大体決めていて、あとは当日を待つだけになった。

そして当日。

待ち合わせ時間が近づいてきたころ、私は身支度をしながら「今日は〇時に〇〇だよね~」的な確認の連絡を入れた。

そしたら送られてきた返事が「ごめん行けない」と。

友達は心身ともに調子を崩して寝込んでいるらしかった。

とても残念だけど、そういう理由なら仕方がない。友達にはゆっくり休んで早く良くなってもらいたい。

ただ、なんというか、私との遊ぶ約束彼女の心の支えになれんかったんかなあとちょっと悲しくなってしまった。

自惚れんなと自分でも思うけど、素直にその時の自分気持ちを述べると「悲しい」だった。

日々のストレス身体や心にかかる負担はそりゃ個々の人間によって違うだろうし、彼女を責めるのはお門違いだとも思うし、彼女の方が遠方からこちらに来るのだからそもそもその時点でいろんな負担が違うのもわかってはいるつもりなんだけど。

久々に彼女に会って私も癒されたかったのだけれどなあ。

次回の遊ぶチャンスはできるだけ逃したくないし、今度は私の方から彼女会いに行こうと思う。

その翌日銭湯に行って私のモヤモヤは発散してきました。

2019-04-06

ゴキゲンな蝶になって きらめく風に乗って 今すぐ 君に会いに行こう

けんまかな?

2019-03-22

いい感じ

彼と別れて1ヶ月と1週間、初めの2週間は毎日泣いて何度も会いに行こうとしたり未練がましく彼のツイッターやインスタにアクセスしては更新ボタンしまくってた。でもなんだか最近だんだん脳が都合よく妄想してくれるようになった。まず遠距離だった2人は別れずにラブラブそのまま同棲を始める。彼は横浜、私は都内勤務だからJR小田急も通る町田辺りがいいな。えー!スーモブライダル版なんてあるんだ!2LDK?2DK?バストイレ別は必須ガスコンロ2口以上、駅まで徒歩7分!うーん、家賃折半なら大丈夫ここがいいバルコニーもあるし南東だし即決!って部屋が見つかった。それから数日間ZARAHOME・IKEAニトリFrancfrancのページから家具内装コーディネイトをスクショ間取り図にペースト。なかなかおしゃれなのでは?いいなぁ家具って可愛いなぁ2019年ってコーラルピンク流行色なんだ。花柄は飽きるしくどいかオフホワイトを主流に揃えていきたいかな。あんまりキャラも柄も好きじゃないかシンプルミニマリストでいきたい。彼の本棚が黒だった気がするからそれが難点、家具が暗いとお部屋も暗くなるよね。無難だし汚れも目だないけど。

ルール決め(仮)

分担と束縛、制限ケンカの元、イーブンより思い遣りと手伝う気持ち

◎いっしょにやること

晩ご飯つくりと並行してお風呂掃除

・火土の洗濯物干し、取り入れ

・むこう一週間の晩ご飯メニュー決め

・いっしょにゴミ出し

◎やってほしいこと

食器を予洗いして食洗機に入れる

・朝シャワー後にバスタオル2枚干す

・週一クイックルワイパー

・週一トイレの内側をマジックリンシートで拭く

わたしがやること

朝ごはんつくる

食洗機から食器を片付ける

・火土の洗濯

アイロンかけと洗濯物たたむ

・毎月ふたりの積み立て金と家計収支計算と報告

◎お互い守ってほしいこと

帰宅時間と夕飯の有無の連絡

リビングカレンダーに予定を書き込む(ここに夕飯の有無も)

秘密は持たず情報開示

・お互い収支について口出ししない代わりに毎月×万の積み立てだけは欠かさずする。(大きな買い物や浪費、契約負債については事前に相談)

ケンカしてもその日のうちに仲直りする

理解してほしいこと

境界性パーソナリティ障害持ちだけど迷惑はかけたくないとおもっている、嫌なことは優しく言ってほしい。でも常に見捨てられるのではないか嫌われたのではないかという不安を持っている。

飲み会基本的にオッケー友達とたくさん遊んでほしい、でもそれ以上に私とも遊んでほしい。

●両家の父の日母の日に贈り物

わがまま

・いっしょに駅まで通勤したい

・いっしょにおふろはいりたい

とかとか!夜通しスマホメモ帳に打ち込んじゃった。寝不足だよ。もちろんルール決めは彼の提案も組み込む、ていうかルール決めるからこれは譲れない!ってことメモ帳に箇条書きして後でお互い見せ合おうねって伝えておいたし、妄想で。彼は私にどんなルール提案してくれたかな、異性と2人で会わない、とかかな?かわいいなぁ!会わないよー!いつも心配してたもんね、えへへうれしかったな。あとあんまりデートにこだわらないとか?私は外に出て無計画に遊ぶの好きなんだけど貯金もしたいしお家でまったりもいいよね、ダラダラするの好きだよ。いっしょに見たい映画とやりたいゲームたくさんあるよ、あー!手作り宝石石鹸とか楽しそうじゃない?ああ、1人の時間も大切だよね、分かってるよ自分時間自由時間が仲の良いカップル秘訣でしょ?互いに相手のことを思い合って2人で暮らしていこうね。お茶入れは任せてね。あーでもでも掃除食事一人暮らしときはこなしてたけど同棲した途端やらなくなるのかなぁ、そういうイメージなんだけど…。それでつい[ 同棲 イライラ ]とかで検索しまくっちゃった、でも彼は協力的だから大丈夫。そんなことより私、朝ごはん担当になったか時短レシピもめちゃくちゃ検索しまくってるよ、白米とおみそ汁それに加えてなにかあったらうれしいって前に言ってたけど喜んでもらえる朝ごはん作りたいな。焼き鮭ほぐして大葉と炒りごまと炊きたてご飯に混ぜたり。おみそ汁鯖缶使って一手間加えたりして。あと栂尾煮!レモンでさっぱり!忙しいお仕事の人だから電池切れないように朝からもりもりたくさん食べて欲しい。美味い!って笑顔で言ってくれるかなぁ、もし失敗してもめげずにがんばりたいな。横浜ってたくさんデートスポットがあって魅力的だけど別にずっとお家でいちゃいちゃデートでもいいし婚約指輪もおねだりしないし食費も光熱費折半で構わないかご飯はきちんと一汁三菜食べたいな。今日晩ご飯は旬の菜の花加えたボンゴレビアンコとキャベツ湯がいて絞って上にからマヨ、作り置きしてあったリエットカリカリに焼いた薄切りフランスパン、とかどう?生ハムチーズいいね金曜日だし白ワイン飲もうよ〜!そうそう、私の嫁入り道具はルンバジョジョ全巻。結婚式引き出物アイスクリームスプーンなんてどうかなぁ、指の温度で溶ける15.0%なんておしゃれな品があったよ!しか刻印できるよ、《♡》がいいな。一生使うんだもん。あと掬う部分がハートの形になってるアイスクリームスプーンもあった!かわいい!でもブランド名がアレッシィなんだよ、思わず苦笑いしちゃった。

とかね!妄想してたら一瞬で一ヶ月経ってしまった。その間にもSNS上の彼は前向きに日々を生きようとしてて友人と会ったり出かけたり音楽を聴いたり私のことは一切出てこない、もう過去なのかな。別れる日に泣いてくれたのに。彼のページの更新ボタンを毎分押しながら3年後まで妄想している。3年後って2022年だよ?!びっくり、2/22に逆プロポーズもいいなぁとかにゃん。顔も性格も猫っぽいって言われてから猫が好き。にゃん。3年の間に籍入れちゃって貯金も順調、猫も飼いたいなー。あ、彼がツイート更新してる!なんと18秒前!うれしい!でもちょっと体調崩してるみたい。大丈夫かな、心配ソファーに座りながらスマホ触ってるのかな?それともベットの中かな?間取り家具もありありと思い出せるよ、私が贈ったブックスタンドはもう捨てちゃったかな……。町田ってたくさん公園があるんだよ!サンドウィッチこしらえてピクニックしたいね圧力鍋ジューシーに味付けした豚肉ブロックトンカツでもいいけど。ふわふわサンドピクルスオリーブもタッパーに詰めようね。お揃いのパーカーオーロラソースこぼしちゃったりして。虚しくなってきた。よしよしいい感じ、いい感じにに虚しくなってきたぞ。そろそろ現実に戻って首吊る準備しなくちゃな。境界性パーソナリティ障害のこと彼と別れてから病名を知った。ほぼ9割当てはまってしまったので恐る恐る病院に行った。行ったらあっさり診断が下った。悩んでたことに病名がつくと背中を押された気持ちになる。いやほんとは電車ホーム背中押してほしいんだけど。はぁー彼がまだ恋人だったらここまで自暴自棄にならず治す気持ちになれたかもしれない、彼も受け入れてくれただろうし寄り添ってくれたと思う、ていうか私以上に悩んでくれたと思う。だってめちゃめちゃ試し行動がすごかったのだ。私のことを本当に愛してくれてるのだろうか?昨日はそう言ってくれたけど今日は?明日は?っていつも不安で、連絡を勝手に絶ったり突き放したり試すようなことして何度もなんども何度も彼を傷つけて、傷ついてる姿を見て、私なんかのことで傷ついてくれてる=私は彼にとってどうでもいい人間ではないってことだ!うれしい!ああ、こんなことしても見捨てられないんだ!とその瞬間承認欲求がフルに満たされる歪んだ心を持っていた。砂の器だったけど。いや今だに持っている、彼の中で一生私が忘れたい存在になればいい、今後出会女性と親密になりかけたときも他の女の身体を見たときも、ていうかショートカットヘアの女を見た瞬間に私の顔を思い浮かべてほしい、お願いだから苦しんでほしい、だってめちゃめちゃ愛してるのだ、別れる直前辺りから別れた後、いまもラブが右肩上がりを続けているのだ。ほんとにごめんね、健常者からしたらマジで理解不能だったと思う。それを知らずとはいえ振り回してしまってごめんなさい、それでも好きだよって言ってくれてありがとうしか精神知能指数が低いって言葉がなんとも胸に刺さる、まあ普通に知能指数も低いんだけど。はー、書ききったらすっきりした。子ども一姫二太郎がいいな〜!

死後硬直、一時間で始まるの早くない?半日くらいがんばってほしい

2019-01-15

もうすぐ結婚しま

定期的にデートしてる彼女がいます。今までは仕事とは言え他の男ともセックスしてるのが内心気に入らなかったです。お店にはまだナイショらしいのに俺にだけお店をやめると教えてくれました。とうとう俺と結婚してくれる気になったみたいで嬉しくて、その場でプロポーズしました。彼女ものすごく驚いて喜んでました。まだ辞めるまで日にちあるので、また会いに行こうと連絡してるのに予約が取れなくなっちゃった結婚してからの話とか色々あるから早く会いたいな。楽しみです。親とか会社上司かに報告する前にコッソリ増田で報告させてもらいました。

2018-12-27

彼氏の知人が余命半年

仕事上の先輩で、1年もお世話になっていないという彼氏の知人。

ガンで入院したりして、お見舞いに3回ほど行った。ガンが治ったり、1ヵ月後に転移したりと忙しい日々だった。

一緒に行くのを断ると「俺がお世話になったのに薄情な奴だ」と言われるから仕方なく休日を潰して行ってた。

それで。最近「余命半年」だと知る。

名古屋に居るのだけれど、彼が「名古屋休日会いに行こう」と言い出した。

お世話になったらしいから、最後に会いに行きたいのだろう。

気持ちは分かる。

でも、私は一切お世話になってない。逆にお世話したくらいだ。

お見舞いやら、買ってきてほしいと頼まれて購入したり(お金は貰ってない)

病気愚痴を聞いたり、気まずい空気を和ませたり忙しく過ごし、休みを潰しまくった。

例えば。

「私がお世話になった先輩が亡くなる」状況だったとする。

それに恋人を連れて行くか?

私なら、恋人は連れて行かない。一切関わり無いし。

はぁ。面倒くさいなぁ。

断ったら「薄情者!」とか言われるんだろうなぁ。

彼氏が私を誘ってくるのは「名古屋への行き方、帰り方が分からない」「先輩と2人きりだと時間があまる(?)」からだと思う。

はーーーーあぁ。面倒くさいなぁ。

2018-11-12

理由いじめ差別はなぜしてはならないか

理由

昔々、もう遠い昔の出来事

中学生の頃、いじめられていた。

教科書を隠されたり取られたり、なんて日常茶飯事。

給食当番を無理やり代わりにやらされたり、ひどい暴言で罵られたり。

消しゴムを裂かれて、シャーペンの芯を手や肩に刺されたりしたこともあった。

もう本当にひどくて、つらかった。

よく”いじめられる側に原因がある”なんて言う人がいるけど。

自分いじめられた理由はたった一つだけ。

「お母さんがいないこと」

私がまだ小さいうちに両親は別居し、あれよあれよと言う間に離婚した。

父親一族は家の後継ぎ欲しさに、一人っ子だった私をろくに子育てもしないくせに強引に引き取った。

母親は泣く泣く私を手放したが、相当揉めたのだろう(この辺りの詳しい事情を私は知らない)。

月に数回、実父のもとを離れて、母と遊びに行く時間をもらうことができた。

から厳密に言えば、生き別れでも死に別れでもない。

決して「目の前にいない」わけではなかったのだ。

会いに行こうとすれば会える。

話ができる。

本当に幸せだった。

今考えれば、このあたりが気に食わなかったのかもしれない。

「お母さんいないんだよね」

そう言っていじめてきた女の子がいた。

両親が離婚したことは、その女の子には言っていなかったが、なぜか知っていた。

流行りの通信学習講座でもらったプレゼントがあれば、それを取り上げて隠し、勝手に使う。

お楽しみ会くじ引きがあれば、私が引く前だけわざと中身を見て、私に都合の悪いくじを引かせようとする。

1人がいじめ出すと、いじめられっ子と特に関わりのない子までいじめるようになるらしく、いじめクラス全体に広がってしまった。

男子女子も。四面楚歌とはこのことだろう。

先述のようないじめ毎日のように続いた。

何かあれば「お母さんがいないのをばらすぞ」と脅された。

いないわけではない。それなのに、そんなことを言われるのが悔しかった。

学校に行くのが嫌だったが、それとは比にならないほど、家庭環境(実父と祖母)が悪かったせいで、不登校にはならなかった。

その頃、母は再婚して、実父とは大違いの、優しい義父と3人で遊びに行くようになった。

しばらくして、義父と母のとの間に子どもが産まれた。

それからは、4人で遊びに行ったり、家で家族団欒したりするようになった。

家族っていいものだなって、久しぶりに思った。

こんなに幸せになっていいのなのだろうか。

多分これも、いじめてきた女の子にとっては気に食わないことだったのだと思う。

いや、あの女の子にこの辺りのこと一言も言ってないんだけどさ。

というか、このことは友達にも父方の親戚にもほとんど話してない。

何度も何度も、バラすぞと言われて脅された。

毎日毎日

仲の良い友達は他のクラスにたくさんいた。だけど、いじめは、友達のいないところで受けていた。

母親がいないせいで(もちろんいじめる側が悪いのだけれど)いじめられてるってバレたくなかった。

相談しても「お母さんがいないからだね」なんて言われるはずがないことぐらい分かっていた。

だけど、どうしてだか分からないけれど、誰にも相談できなかった。

ーーーーーーーーーー

私は知っていた。

いじめてきたその女の子の両親は離婚していて、その子にはお父さんがいないことを。

その女の子の妹は児童養護施設暮らしていることを。

全部全部、自分の母から聞いて知っていた。

私が母から聞いたように、きっと、あの女の子も誰かから人づてに、私の家庭環境について知ったのだろう。

不思議と、「相手の身の上をばらしてやろう」とは思わなかった。

結局、ばらすことはしなかった。

きっと、あの女の子は、私が何も知らないとでも思っていたのだろう。

あの時はそう思っていた。

離婚していても、離れ離れになっている親や兄弟と会うことのできている、私の環境がうらやましかったのだろうか?

そんな風に思ったのは、随分後になってからのことだった。

だけど

からと言って、いじめていい理由にはならないよね??

いじめられる側にも原因がある、という人たちへ。

家族構成が〇〇だから

容姿がひどいから。

声が汚いから。

いじめられる理由って、そんなことですよ?

それ、本人に責任ありますか??

本人がどうにか努力して、変えられることですか?

チョコレートが嫌いだから

病気から

足が遅いから。

もし百万歩譲って、本人に原因があるとしても、いじめていい理由にはなりませんよね?

いじめていい理由って何かありますか?

伝わりましたか

もう、一種差別ですよね。

いじめって。

それでもまだ、いじめられる側に原因があるっておっしゃいますか??

それでは、見方を変えてみましょうか?

どうしていじめはいけないか

なぜ差別はいけないかってお話になります

そういうの、身を滅ぼしますよ?

例えましょう。

「〇〇って部署のアイツ、男のくせに男と付き合ってるらしいぜ。俺、先週見たんだよ。男と2人で手繋いでデパートに入っていくの。アイツと同じ部署になりたくねーわ。気持ちわりーww」

あなたがそれを笑いながら話している相手同性愛者かもしれないって考えたことありますか?

その会話を黙って聞いている、遠くのデスクあなた上司同性愛者だったらどうしますか?

え?結婚してるから違うって?

両性愛者かもしれませんよ??

友達家族いるかもしれませんよ?

あなたの印象悪くなりませんか?

?????

公私混同だって???

ちょっと待って。

だってそれ、取引先の会社の人と飲み会したりしてるときに、酒に酔ってポロっと口走っちゃうかもしれませんよ?

取引先の人、同性と付き合ってるかもしれませんよ???

言っていいことと悪いことが分からない人だと思われるかもしれませんよ?

そんな人に大事仕事を任せたい??

働いている時はダメ

プライベートな付き合いだったらいい?

からね。友達当事者かもしれないでしょう?

あ、絶対違うって?

その友達彼氏彼女家族が、両性愛者かもしれないよ?

気づきでしょうか?

あなた恋人も、両性愛であることをあなたに言えないまま、あなたと付き合っているのかもしれないですよ。

それでもまだ、同じこと言えます???

いい加減、差別する人間の方がマイノリティな世の中になりつつあるって気づけよ?

※セクシュアルマジョリティいじめっ子&差別主義者の読者が前提みたいな書き方をしてしまって申し訳ないです。読者の大部分の方々は、私がこんなに熱弁せずとも、お分りいただけると思っています(これも一種偏見なのかもしれませんが)。もうこんなにひどい差別はなくなって欲しいです。

話が逸れました。熱くなりすぎましたね。続けます

ーーーーーーーーーー

中学2年の時、クラス替えでその女の子とは別のクラスになった。

でも、周りがいじめ出していたせいで、いじめは続いた。

中学3年になった。

クラスメイトの男の子いじめられていて、クラス中で大問題になった。

聞いた話だと、わざわざ見張り要員まで用意した上で、ターゲットにされたクラスメイトに対して暴力をふるったそうだ。

この件にあの女の子無関係だけど、いじめをより一層のトラウマにした。

もう絶対いじめられるのなんかゴメンだ。

そう思った私は、合格圏内だった地区番手進学校いじめてた女の子はそこに進学した)を受験するのをやめ、いじめっ子全員とは別の高校に進学した。

やっと自由になれた。そう思った。実際、その通りだった。

いじめられっ子は中学を以て卒業した。

高校生活は本当に楽しかった。

好きなことを好きなだけ勉強できた。

たくさんの友達にも恵まれた。

毎日が楽しかった。

幸せだった。

旧帝とか早慶上理とかではないけれど、行きたかった大学にも合格できた。

そのまま、私は県外の大学に進学し、地元を離れた。

ーーーーーーーーーー

後日談として。

ここから先はほとんど独り言愚痴みたいなものですので、読みたくない方は読まなくても結構です。

ちなみに、先にお断りしておきますが、お互いに謝って仲直りの握手をしてハッピーエンド!!めでたく仲直り!!みたいな展開は一欠片もございません。

そもそも、直す仲もございませんし。







あの女の子は、実は高校に進学してからも時々見かけてはいた。

まあ、高校が離れていたけれど、相変わらず同じ地区に住んでいたし、買い物したりしてると遭遇してしまうんですよね。

しかも私がよく行く店でアルバイトを始めたから、嫌でも会ってしまうことに。

途中で辞めたんだかシフトを減らしたのか知らないけど、そういやいつの間にか見かけなくなった。

それと、私が勉強部活に忙しくなって、あんまり学校以外の場所に出没しなくなったせいだと思うけど、街でも会うことはなくなった。

次に再会してしまったのは、高校3年生の暮れにあった、大学入試センター試験の模擬テストときだった。

大学キャンパスとか、センター試験が実際に行われる会場を借りて行われるテストで、休憩時間?に遭遇してしまった。

私の名前を呼び、話しかけてきたが、挨拶をしたぐらいでほとんど話さなかった(気がする)。

遭遇したことは覚えているが、多分この頃には、記憶に残すのも勿体無いほど、どうでもいい存在になっていたんだと思う。

これを最後に、今に至るまで会ってはいないのだが。

ここまでの記憶で終わっていれば、ああ、そんな控えめに言っても人間の風上にも置けない最低な人いたなーぐらいの存在の枠に収まっていたかもしれない(じゅうぶんすぎるほどのインパクトはあるし、自分でもひどいことを言っているとは思うが)。

唖然としたのは、大学に入った後。

うん、来たんですよ。SNS友達申請が。


控えめに言う。

お前、どのツラ下げて友達名乗ろうとしてんの?

勘違いも甚だしいよね。


しかも付随して来たメッセージに音符(♪だったかな?)ついてたし。

友達だと思われるからやめてくんないかな。

いや、他の人からはそのメッセージ見えないけどさ。

メッセージ読んだだけで、申請却下もせず受理もせず放置

半年ぐらい経って、忘れた頃にようやくブロックしてみました。

そしたら、何年か経った後で、また別のSNS友達申請が来ました。

このSNSメッセージつけられないから、友達リクエストが届きましたって通知が来ただけだけど。

あんなにひどいことをしておいて、

あんなに散々いじめておいて、

自覚ないんだね。

遺憾です。もちろん今回は即ブロ。

その後、公立幼稚園先生になったって聞きました。

しか常勤の。

市役所が出してる広報に載ってたね。

かぶったコメントも載ってたね。

友達のお父さんが「みんな預けたくないって言ってる」って言ってたよ。

みんなって誰だか知らないけど。

今、友達のお父さんって言ったけど、実は私も同じこと思ってるよ。

そうこう言ってるうちに、幼稚園お辞めになられたそうですね。

かぶっている猫が足りなくなったんですかね。

知らないけど。

多分、私も相当ひどいこと言ってるね。



一言だけ。

しないと思うけど、もし、この歳になっても、また前と同じことをするのなら、その時はもう容赦しないよ。

君にだって、失うものがあることを忘れるな。

2018-11-02

ジャニーズJr.萩谷慧悟くんとLove-tuneについて

5年間ずっと応援してきた萩谷くんが、とうとう事務所を退所した説が濃厚になってきた。バイトをしているなんて話も聞いた。SMAP木村拓哉になりたくって、小さい頃から事務所に入って一生懸命やってきた人。小さい頃はやけに前髪が長くて、HIP HOP JUMPというグループで踊ってた。その頃わたしは別のグループが好きだったけど、SMAP特番で緊張しながら質問したりとか、1 for you蛍光色のブカブカ衣装来て踊ったりとか、よく覚えてるよ。

わたしが1回離れたけれど、大学2年生の時に久しぶりに見たら、すごい大人になっていてびっくりした。秋の少クラ安井と一緒にTake overを歌ってるあの数分で好きになった。あんなことは初めてで、これから人生でも滅多にないと思う。それからずっとファン。ここ数年のわたし青春

最初安井にくっついてるオマケみたいな感じだったかもしれない。安井は前からファンも多かったし、アピールも上手だった。萩谷くんはあまり前に前に出る方では無いし、綺麗な顔をしているけれどファンはあまり多くなかった気がする。萩谷くんにはなかなかソロパートも与えられなかったし、クリエの公演でも萩谷くんはソロ無しの時もあった。

萩谷くんも大学生になって、二十歳を越えて、だんだんMCMを持つようになったり、髪の毛をパーマ掛けたり金髪にしてみたりした。地味な高校生が段々とお金を使うことを覚えて、それが少し寂しかったりもしたけれど、萩谷くんの中身は変わらないままだった。相変わらず自分の興味あることには徹底的に投資して頑張る人。だからずっと変わらず応援した。髪の毛については変える度に割と周りから不評で不憫だった。でもそれが可愛かったよ。わたし金髪にしてみたらってお手紙に書いたことあったから、別にそれを参考にして金髪にした訳じゃないと思うけれど、何だか申し訳なくなった。手紙なんて読んでいないかもしれないからどうでもいいけれど。

入り待ち出待ちもした。周りと比べてやっぱりファンは少なかった。それは萩谷くんがファンにあまり媚びないから、応援してても楽しくない人が多かったのかもしれない。でもそれで良かった。わたしアイドルとの接触が本当に苦手だから、サラ〜っと流されるくらいでちょうどいい。萩谷くんのファンは他のタレントと比べるとガツガツしてなくって、「萩谷くんが幸せそうな姿を見られればOK」っていう人が多かった。争いもあまりないし、みんな1人だった。

萩谷くんの後輩タレントの中には、ファンサービスが過剰なタレントもいて、そういうタレントファンはどんどんヒートアップしていく。ファンの数は簡単に増えるけれど、ファンサービスが貰えないと簡単に下のタレントに降りていく。萩谷くんはそういうことはしなかった。自分を安売りしなかった。そういうところも好きだった。来る者拒まず去るものわずの萩谷くん、それでもいつかの雑誌の「みんなの声援が僕の力になります。ずっとそば応援してください」その言葉で、萩谷くんがファンを大切にしてくれていることは分かったし、SMAPみたいになりたいっていう小さい頃からのブレない夢を知っていたから、ずっと付いていけると思った。

手紙には毎回同じイラストを描いた。あれで覚えてもらえたとは思わないけれど、見たことあるなぐらいに思ってくれたら嬉しいな。出待ちの時に仕切ってくれていたお姉様方は今どうしているんだろう。ネット上で叩かれたりもしていたけれど、ボランティアあんなに仕切ってくれてお世話になった。少なくともわたしは嫌なことをされたことは無かったし、いい人だった。一緒に帝劇から帰った友人たちは、わたしがあまり群れないタイプから全く連絡を取らなくなってしまったけれど、もう他のタレントに降りてしまっただろうか。

その頃Love-tuneというグループが出来て、大きく変わった。久しぶりのグループ結成でみんな力が入ってたと思う。安井にとっては初めてできた居場所。追加メンバー加入があった時は、想定外で少し落ち込んだけれど、それでも今はこの7人で良かったと思うよ。萩谷くんにもソロパートが与えられるようになって、すごく変わったと思った。わたしが好きになってから数年経って、masterpieceで萩谷くんと安井背中合わせに歌うシーンは胸に来るものがあった。2人はプライベートでも仲がいい訳でもないし、交友関係も全く違う、年の差もある。でも仕事上お互いを信頼していて、そんな2人が目標に向かって頑張ってきて歌うmasterpiece。俺の行く先はずっと君がいるなんて。

わたし社会人になって、年一度のクリエに行ければいいと思ってかなり落ち着いて応援するようになった。グループも出来たし、あとはみんなでひたすら上を目指して頑張るだけだ。わたしわたし生活を頑張って、たまに萩谷くんに会いに行こうと思った。

アイドル儚い。いつの間にか干されて、あっという間に露出がなくなった。行こうと思っていたクリエ公演もなかった。雑誌にも載らなくなった。そうやって消えていくタレントを何人も見てきたけれど、まさか自分応援している萩谷くんがそんなことになるなんて思わなかった。わたしは萩谷くんに会ったのは昨年の夏が最後だ。何でもっと会いに行かなかったんだろう。年1回会えればいいやじゃないよ。会える時に会いに行かなきゃ駄目だった。干された理由は色々噂があるけれど、事実なら彼ららしいなと思う。1つの場所に居なきゃいけない訳じゃない、横並びの与えられた仕事をただこなす人生なんてつまらない。この事務所10年以上頑張ってきたのはすごいことだけれど、他にも道はあるから幸せになれる道を選んで欲しい。できれば表舞台で輝き続けて欲しいし、事務所楽曲を歌えなくなるのは残念だけれど、萩谷くんの人生からやりたいことをやって欲しい。

どうなるかは分からないけれど、もし表舞台に復活したら今度は二度と後悔しないように応援しようと思った。こんなエモい気持ちにさせてくるアイドル他にあるんだろうか。ほとんどジャニーズからは離れてたのにこんな簡単に復活させてくる。アイドルには物語性があればあるほどファンが入れ込んでしまうけれど、こんな物語ぶっ込んでくるなんてずるい。昔やってたHeavenly Psychoを見てそう思う。「いつも夢に選ばれないまま」頑張ってきた7人。それでも、これからどんな形になろうと、みんな応援するよ。This is love songの終わりの「みんなと同じ未来を見れますように!」っていう萩谷くんの手書きコメントわたしもそう願ってるよ。すぐに復活は出来ないかもしれないけれど、ずっと待っているので、また元気な姿を見せてね。

2018-10-21

ゲーム実況者のリアコです

とっくに成人しているが、この歳でとあるゲーム実況者にガチ恋した。さすがに自分でも痛いと思っているが、吐き出すところがないので増田に書く。

YouTuber(笑)にハマるのは小学生だけだと思っていたが、それはあながち間違いではなくて、コメント欄を見ると大抵が子どもだ。今までYouTubeゲーム実況は暇なガキが見るものと思っていたが、転職して再就職まで時間ができてしまい無銭で延々楽しめるしいい暇つぶしになると思って見始めたゲーム実況でどハマりした実況者がいた。

いろいろ好きなところはあったが、一番は発言のところところで自頭の良さを感じられたところ。大学卒業しているらしいところにも好感が持てた。実況自体はあまり上手くないと思うが話すテンポリズムが好きだった。

そんな中、その実況者が彼女存在を匂わせているような話を聞いた。というか、彼女の方が匂わせて実況者も状況的にグレー、的な感じ。

ショックだった。そんな馬鹿なことすると思ってなかった。頭がいい人だと思ってたし、モデルなんかと付き合うような人だとも思ってなかった。ちょっと調べればぽろぽろと情報漏れてくることに乾いた笑いが出た。しかそもそもゲーム実況者にカノバレ炎上もクソもない。そりゃ無銭のガキにはどうでもいいことだよな、と思いつつ、誰にも共有できず胃が痛くなった。いっそ大きく燃えてくれたらすっきりしたのかもしれない。

なぜこんなに傷ついているかからない。いくら実況者という非業界人であっても、自分が繋がれるなんて思ってはいなかった。拠点は知っているしよく現れるらしい場所も知っているけど、会ったことはなかったし会いに行こうと思ったこともなかった。ニコニコチャンネル費以外ほぼ無銭だし現場もない。なのにどこかで「ひょっとして」という気持ちがあったらしい。今までアイドル俳優推してきてこんな気持ちになったことはなかっただけに本当にわからない。でも好きだ。つらい。でもどうしてほしいのかわからかいし、自分がどうしたいのかもわからない。

2018-10-02

anond:20181002183754

美人医者の幼馴染に会いに行こう

と思ったけど別れて別の幸せを探す方がええかな

2018-03-19

昔の恋の忘れ方

知りたい。


最近ある友人との中が急接近して、どっちが先に告白するかの探り合いみたいになってきている。そのせいか知らないが、昔好きだった人のことを読む思い出すようになった。夢にも出てきた。

受験生だったころ、お互い志望大学に受かったら付き合おうという話になっていたのだが、彼は受かって私は浪人し、しか浪人してもダメで、すっかり疎遠になってしまっている。

まあ冷静になればわかるんだけどこれあっちは普通に彼女できてるというかもはや忘れてる可能性まであるな。少なくとも約束の効力を未だに気にしてるのは私だけだな。

私にも青春時代の甘酸っぱい美しい思い出ができたし高校三年間友達としてすごく仲良くしてくれたか感謝気持ちでいっぱいだしどうせ会えなくなるならありがとうって言っておけばよかったな、とか、このまま疎遠なままだと友人として過ごした三年間すら消えてしまいそうで嫌だな、とか、前に進めなくなりそうだからちゃんと振ってほしいな、とか自分勝手なことをずっとぐるぐる考えている。

彼と私は部活が一緒で共通の友人が多く、「就活終わった頃に(彼)も呼んで飲み会するから増田も来たら?」という話になっていて、会いに行こうか行くまいか本気で悩んでいる。

今更会いに行って何を話すのかな。会っても後悔するか後悔されるかどっちかな気がして、だったら綺麗な思い出としてずっと反芻していたい気持ちもあるんだよな。

2018-03-17

Wantedly合法産業スパイのススメ

これは使える…!

Wantedly合法的企業の話を聞きに行けて、最近情報収集にかなり役立ってる。

なんせビジネスSNSだし、

転職活動する気なしでも、

会いに行くだけでOK

SNSなので最終的に人脈形成になっても構わない。

自分ポジションが売り手なせいか

ほんとベンチャースタートアップ企業

自社の課題からツールを何を使ってるか。

ペラペラほんと教えてくれる(笑)

みんなも競合とか気になるようだったら、

気軽に会いに行こう

2018-01-05

anond:20171214180142

悔しいことにそこの歯医者の腕がよくて詰め物も問題ないんだけど、ちょっと修正をお願いしてまた会いに行こうかなー笑

2017-12-06

好きになったら推さなきゃだめだ

超特急を好きになって1年ちょっと

最近、同じ事務所私立恵比寿中学が気になっている。

今までは名前を目にする程度で、全然どんな人たちなのかも知らなかった。

から今年頭のメンバーの突然の訃報も、推しブログでちゃんと知ったくらいだ。

エビ中を知って、気にするようになって、少しずつ遡っていくと、そこに彼女はいた。

松野莉奈ちゃん。

現メンバーで推すなら真山りかちゃんなんだけれど、とにかく過去映像で知る松野莉奈ちゃんのお顔がドンピシャに好きで、きれいで、かわいくて。

たぶん、今も元気だったら、確実にりななんを推してると思うくらいには、好きだ。

基本的に好きになったらそのタイミングが推すべきタイミングだったんだ、と考えているタイプではあるけれど、今回のこれは、どうにもやりきれない。

もっと前に好きになって、会いに行ってみたかった。

からこそ、今少しでも気になっている子は躊躇わず会いに行って、推すべきなんだなと思っている。

から、次の機会に、絶対真山さんに会いに行きたい。いや、絶対行く。

いまの推しにも、たくさん会いに行こう

そう心に誓った夜でした。

2017-11-24

私の息子が産まれときの話~嫁side

※元の日記では「胎児」「赤ちゃん」はすべて名前です

09:30

今朝起きたらまた鮮血のおしるしが出ていた。

前駆陣痛も続いていたから、「がんばっていたんだね。残りはお母さんやみんなでサポートするからね」という気持ちで家を出発。

快晴でとてもいい日。

10:00

到着後の内診でかなり子宮口を強くかき回して刺激され、その刺激で破水

周りのスタッフさんが若干わたわたする中当人は「ああ、これが破水なんだ……」と思っていた。

そこから、部屋に移動して促進剤投与を始めた。

促進剤は、それによって産まれる、という効能ではなく、子宮を柔らかくして子宮口を緩めてそこから陣痛を呼び込むためのものだそうで、20からstart、120まで上げても進まない人もいるよー、と。

とにかく無事に産まれられれば、と、「何でもいいからお産に繋がりますように」という気持ちでどんどん追加されていく促進剤の値を見ながら過ごしていた。

11:00

胎児心拍が落ちることが何度かあり、酸素マスクをつけて深呼吸をする時はさすがに緊張した。

でもまた数値が戻ったのを見て安心して「私がリラックスしなきゃ子宮も柔らかくならない」と過ごしていた。

15:00

100あたりまでは前駆陣痛の痛みとあまり変わらなかったけど、そこからは前駆陣痛は越えた痛みが始まった。

でも120まで投与しても本陣痛は来ず。

17:00

看護師さんに「今日は一旦終わりにして様子を見て明日またやって、経過によっては帝王切開で産んであげることになるかもね」と言われて投与は一旦stopした。

投与してもあまり変わらず、「私が堅いことで子宮口が開かないんだ」「私がリラックスできないか入院の日が増えてお金をかけさせてしまうんだ」と「私のせいだ」の思考が一時止まらなくなって涙が出た。

胎児心拍が落ちること、胎便が羊水にかなり混じっていること、心拍が急に上がること、陣痛がこないこと、いろんな焦りや不安に対して「母の私が◯◯しないからだ」という思考が出てしまったけど、そんな中でも夫が一緒にいて笑ってくれていることに本当に救われて、いろんな不安もあったけれど1日過ごすことができた。

20:00

母が夫を迎えにきて帰宅。体勢変えたりしながら、落ち着いてから21時過ぎに寝る体勢に。

21:08

寝につこうといい姿勢を探して動いていた時に胎児心拍低下。

何人も看護師さんが入ってきて再度酸素マスクをつけ、内診をしてもらい、「もう赤ちゃん負担が大きい」ということで、クリニックの先生にも診てもらった上で、緊急帝王切開をして胎児を出してあげることに。

21:32

酸素マスクをつけて深呼吸をして「帝王切開になります、急いでパパを呼んで」と言われ、さすがに焦りすぐさま夫に電話をして来てもらい。

色々なリスク説明も受けたが、もう皆どうでもよくて、ただただ「無事に産まれられればそれ以外は私の子宮やら体やら命やらどうなってもいいから」という気持ちで、早く外に出してあげてほしくて、急ぎ足でope室に入って横になった。

22:00

何かの数値に対して先生スタッフの方々が緊張した面持ちで観察して指示を出したり動いたりしていたが、あれはなんだったんだろう。

から考えると胎児心拍だろうか。

バタバタが続いてすぐには開始しないことに不安を感じつつ、その間に落ち着いて来て「もうすぐ会えるんだ」「やっと会える、がんばろうね、大丈夫だよ」と幸せ気持ちが高まり、ope開始後も私はずっと笑顔で耳を澄ませ。

麻酔が効いてくると血圧の変化によるのか、頭もぼーっとしてきた。目を瞑ることに吸い込まれるような。

コッヘル、クーパー、などの機械出しの指示でなんとなく何を切開しているのか把握しつつ、足から胸にかけての感覚はもうないのに何か自分の中を弄られているような感触に奇怪な感じを抱きつつ。

22:57

胎児を取り出す時になると胴体を中から大きく揺さぶられ(感覚はないけど子宮を直接揺らされているのはすごくわかった)、少し泣き声が聞こえたのと同時に「おめでとうございます〜!男の子ですよ!」と。

その瞬間ザーッと涙が出そうになったものの、最初の一瞬の後に全く泣き声が続かないので瞬時に不安感に襲われ、産まれた喜びを味わいつつもそれだけの気持ちは束の間、取り上げられてもしばらく泣かない赤ちゃん心配で気が気でなくなった。

自分からは布で隠れて見えないけど、向こう側で明らかにスタッフさんたちが焦って赤ちゃん背中を叩いて刺激していたり懸命に気管内の吸引をしていたりしている。

先生も、取り上げた後はすぐに私の縫合に取り掛かりつつも、赤ちゃんを見て緊迫した声色と口調で指示を続ける。

「サチュレーション反応しません」「小さい方に切り替えて」「小さい方反応ありました」「こっちはどう!?」「◯◯じゃないよ、そっちを◯◯して」「◯◯さんこっちきて!」と何人ものスタッフさんが赤ちゃんの方から私の頭上まで動き回る。その間も赤ちゃんは泣き声ほとんどなく、たまに「ふぇっ」と聞こえるか聞こえないかくらい。

赤ちゃんが泣かない。泣かない=呼吸ができない。呼吸ができない=酸素いかない。酸素いかない=死んでしまう。

一瞬でそんな考えが脳内を駆け巡り、「私はお腹開いた母でも放っておいていいからみんな赤ちゃんを早く助けて下さい!」と叫びたい気持ちを抑えながらこわくて仕方がなくて、「赤ちゃん大丈夫ですか」と何度か聞いた以外ただただその場を見守っていた。

そのうちになんだか意識が遠のいていくような感覚から強い吐き気が出て何度か嘔吐し、そこからは遠目に赤ちゃんの様子を見つつぼーっと手術の終わりを待つしかなかった。

私の腹部縫合中、赤ちゃんの泣き声が聞こえない時間。きっと数十分あったかなかったかくらいだったろうけれど、この時間がこの1日の中で一番長く感じられた。私には何時間も縫合されているように感じられた。

23:10

私の腹部縫合が全て終わり、ope室を出る時にスタッフさんがぱっと赤ちゃんのお顔を私の方に向けて見せてくれた。

むちむちでまあるくて髪がフサフサでかわいい。濃い顔じゃなくて私似?なんて思いながらope室を離れる。

23:20

外では夫と母が待っていたけど、熱発もあったからかとにかく頭がぼーっとして「目を閉じたい、でも赤ちゃんが気がかりだ、でも目を開けていられない」というぼやけた意識で過ごしていた。

時系列はきちんと記憶できてないが、部屋に戻ってから夫と母が荷物を運びつつ座っていてくれて、赤ちゃんの顔の話などをした気がする。

自分で何を話したかよくて思い出せないけど、夫が深く呼吸して緊張していたことはすごく覚えている。

今思うと、私は赤ちゃんのことも考えつつ意識がぼやけていたので、その場を冷静に見れていた夫は本当に不安だっただろう。

24:10

術後は姿勢不快さが強く、度々左右に体位交換をしてもらった。

赤ちゃん救急搬送することに決まったと先生から話を受け、夫たちは救急車より早く出て向かってあちらで対応すると。

お腹を切った身と言えど、この状況で動けず何もできずに横になっているのが悔しかった。

無駄だとは分かりながらも、麻酔で動かない・司令の伝わらない脚先を動かそうと何度もやってみたけど全く足は動かなかった。私の分まで夫に託して手を握ってお願いした。

夫と母を見送ったら一気に意識が遠のいて来て、そのあとまた夫が来たような来なかったような……

そんな中、救急車赤ちゃんを乗せる直前に助産師さん(看護師さん?)が赤ちゃんを抱っこして私に会わせに来てくれた。

移動前に目の前で会えるなんて思ってもいなかったか歓喜して一瞬で意識が戻り、赤ちゃんをぎゅっとしてちゅーして「がんばろうね!」とほっぺを撫でて送り出した。

涙が止まらなかった。

24:30

救急車が中々出発しないこと、その後の救急車サイレン音。

サイレンの音の位置赤ちゃんと私の距離を表しているから、サイレンが遠のいていくと赤ちゃんとの距離を感じて、ただただ「がんばれ!お父さんもお母さんもいるからね」と祈ることしかできなかった。

25:00

その後また意識がぼーっとして、何度か看護師さんが巡回に来てくれたのもあまり覚えていない……

2時台にiPhoneが遠くに移されたのでLINE確認できずそわそわ。

体位交換をお願いしたりしながらいつの間にか寝ていた。2時間ほど寝ただろうか。

28:20

起きてからからLINE気づき赤ちゃんが無事なことを確認して本当にほっとした。

こんなに遅くまで夫と母が対応してくれているとは。本当におつかれさま、ありがとう、それしか出て来なかった。

から送られて来た赤ちゃん写真がかわいすぎて、うるうるしながらしばらくずっと見ていた。

かわいすぎていくら見ても見飽きない。早速待ち受け画面に設定した。

夫がもう帰路にあると分かって安心して私もまた休憩。

でも頭が冴えてしまってもう眠れず……

29:00

巡回夜勤看護師さん&助産師さん達が検温や創部の観察をしに来つつ何度も話しかけてくれて、明るく笑わせてくれて元気付けてくれた。

看護師さんたちと笑えたのがこの時本当にありがたかった。

もう麻酔は切れていたので、「どんどん回復して赤ちゃん会いに行こう!」と勝手にベッド上でリハビリ開始。足の指先から体幹から、痛み・貧血血圧を観察しながら進めた。

外が明るくなって落ち着いて来ると、赤ちゃんが無事に産まれてきたことの安堵感、今生きているのかどうかという不安感が一気に現実味を帯びて心に流れて来て、赤ちゃん写真を見ながら唇を噛み締めて泣いていた。

それに気づいた看護師さんが私のそばに寄り添ってくれ、スタッフのみなさんが赤ちゃんをその後も気にかけてくれていたこと、その方もお子さんが苦しい状態で産まれて来たこと、昨夜赤ちゃんの直後にもう一人赤ちゃん病院で産まれて、そのあと陣痛の人が来て不思議とお産が重なったことなどを明るく優しく温かく話してくれた。

「泣きたい時は泣いていいんだから心配だよね、泣いていいんだよ。」と言ってくれて一気に号泣して、話をして落ち着いた。

日勤に交代する時間帯、夜勤助産師さんが何人か来てくれて赤ちゃん写真を見て「母そっくりよね!」「かわいい〜❤️」「がんばるしかいね赤ちゃんくん!」と声をかけてくれた。それと一緒に絶対安心する温かい言葉もかけてくれる。その度にうるんでしまった。

私は術後あまり痛みを感じず動くのが得意なようで、夜中に自分でクッションを動かして体位交換したり足を動かす練習を始めたりしているのを褒められた。

どんどん動いて行くぞ。

赤ちゃんもがんばっているんだ。私も明るくがんばるしかない。


https://anond.hatelabo.jp/20171121162134増田です。

嫁も出産当日(大半は思い起こしながら翌日)に日記を残していたとのことで。

本人の希望もあってここに記そうと思います

ちなみに嫁は上の2日後にリハビリ急ピッチで終え、大型病院への通院/息子との対面を果たしました。

NICUでの初対面の光景は今でも忘れません。

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