はてなキーワード: 伊藤園とは
「便通が来ちゃってピンチ!」
ユニットバスでシャワーを浴びている最中、急に催したためこのような独り言が口をついて出た。
話を戻す。口をついて出た独り言だが、妙に小気味よい。もう一度口に出す。
「便通が、来ちゃってピンチ。」
分かった。七五調だ。
便意を我慢しつつ体を洗った後の歯磨きまで完結させてからバスタブを出るか、シャワーを切り上げバスタブを出て排便→歯磨きの順にするか。
迷いながらも、おれは名句のきざしを無駄にはしない。この5-7の後にどんな5をつけてやろうかと、脳内のバンクから言葉を探し出す。
「蝉の声」。岩に染み入るあのやつだ。
「便通が 来ちゃってピンチ 蝉の声」
うん。状況にふさわしくない便意に焦るおれの事情とは無関係に、ただ鳴く蝉。
有名句の結句を考えなしにくっつけただけにしては、悪くない詩情が出たではないか。
一方で、俳句の形にしてみると「名句のきざし」などと感じたフレーズにも粗が目立つ。
・「ピンチ」って言っちゃうのがなんか良くない。感情は前面に出さず想像させるぐらいがよいと何かで読んだしおれもそう思う。
「マフラーの巻き方悩む十七歳」というのを見たときに「悩んでんのね、ふーん」で感想が終わった時のような物足りなさ。余白がない、というか。
便意は限界だ。すでに歯磨きに移行していたが判断は完全に誤りであった。シャワーを止め、歯ブラシを咥えたまま体を拭き、そのまま全裸でバスタブ隣の便器に着座する。ユニットバス便利だ。
滝のような便を排出するとともにクリアになった頭で、おれは推敲する。
・ピンチと言い切るかわりに、状況説明にとどめて余白を残そう。「風呂場での 急な便通 蝉の声」
・便通もダメだ。だいいち体言止め→体言止めはなんか芸がない。「風呂場での 急な便意や 蝉の声」
・切れ字使うとぐっと俳句っぽいな。と思うと「急な」が気になる。コテコテに古風にしたれ。「風呂場での にわか便意や 蝉の声」
・「での」。散文の会話っぽくてイヤ。「風呂場にて 急な便意や」…
・「にて」も違うな、「にて」を受けるのは動詞でなければ。やっぱり「◯◯の」は崩せん。
・「お風呂場の にわか便意や 蝉の声」。「お風呂場」は子どもっぽいなあ。まあ便意を俳句にしようなんて思う時点で子どもっぽいから似つかわしいか。かえって。
じゃあ「お風呂場の にわか便意や 蝉の声」で決まりってことでいいかな。排便と歯磨きを同時に終える慌ただしさの中で、おれの推敲にも終わりが見えてきた。
しかし、ユニットバスを出て下着を着るにおよび、閃きが頭を襲う。
風呂桶。
古風だな。いい。この「風呂桶」に引きずられるように、句の形が全部変わった。
なんかこう、切れ字はすごいな。
「卑小な人間=にわか便意と、悠久たる自然=蝉の声の対比」がテーマだったはずが、
ここに切れ字が来ると、その対立を風呂桶がすべて包み込むような印象になってくる。
便通が来ちゃってピンチ!の切迫感は完全に失われたなあ。ただ風呂桶がでっかく見えてまた違った味わい。
ううむ。
どっちがいいかなあ。
↑でも切迫感は減ってる感じするしなあ。↓だな。
我が家のおすすめは横濱舶来亭カレーフレークを使うこと。ラードの旨味が凝縮されている。(が、脂はすごい)
これの辛口をゴールデンカレーバリ辛の1/2箱と混ぜるとみごとな欧風カレーが出来上がる。
たまねぎ、きのこ2種類以上(エリンギ、しめじとその他)それと豚肉。多めのすりおろし生姜(生姜約半分)と、すりおろしニンニク1~2片分、あればハバネロやジョロキアやトリニダード・スコーピオンなどの辛味が強い唐辛子を1個(ハバネロなら2、3個)いれる。
煮込む段階になったら、伊藤園の1日ぶんの野菜1パック200ml(にんじんベースでおいしい)、赤ワイン200ml、水1L、ローリエ2枚、コンソメキューブを入れる。あとはルーを溶す時に入れるガラムマサラ(ガラムマサラはだいたい5〜10分火を入れるといいので、ルーを溶かして少し煮るタイミングで入れるのがベスト)
お節旋風とか商魂たくましいというか、
もうさハロウィーンをこえて、
クリスマスも越えてお正月の事を考えなくてはいけないぐらい日本人ってお節料理好きだったかしら?って
もうこの時期のお節推しがグイグイすぎて
日本はお節だらけになるかお節ならけにならないかの二択しかないわ。
カレーに飽きたら食べるものだというイメージしかないんだけど、
絶対にローストビーフとか美味しいおかずだけ先にやられちゃって食べられちゃうから、
そう言う渋いおかずがあとに残ってしまうのよね。
なんかもっと好きなモノだけを詰めたカスタマイズできるお節があったら
受けて作る側は大変だろうけど
そんで白菜とかも添えてあってって
別にそれでもいいんだけど、
お節ってそう言った意味では
一瞬迷って華やかな見掛けの体裁にいわゆるインスタ映えるだけ映えてテンションが上がるけど、
正直言って買ったりしないわね。
一瞬上がったテンションとともに一瞬でションテンが下がってしまうから
安泰人ってすぐに冷静になれるものなのよ。
好きなモノだけが詰まったお節だったら本当になににしようかしら?って
結局また迷ってしまって、
もう迷うことはないわね。
通常のお節なら
さっきも言ったように渋めのあんまりちびっ子が喜ばないフジッコの昆布の結んだやつとか
そういうのが残っちゃうのよね。
かと言って
上手く出来るような気がしないし、
シースーのパックのを中華鍋にほおりこんでシースーチャーハンにするのとはまたワケが違うのよ。
いまやもう
お節の有効性というか
そこまでしてお正月お店が閉まって危機迫る且つ鬼気迫る年明けって食糧難にはならないのよね。
まあ昨今の今頃からの時期のお節旋風ってのが
まだ野球もどっちがどのチームか優勝していないクライマックスどころの話しでもないまえに、
そもそもとして、
お節旋風の前に
どちらかと言うと、
そっちの方が年賀状描くイラストがギリギリまで決まらない方が危機迫る且つ鬼気迫るって感じなのよ。
オリンピックの「オ」かコロナ禍の中の渦の「渦」って感じが今年の漢字一文字になるかもしれないし、
あれ私思うんだけど、
漢字一文字に色々な一年の思いとか出来事とかを詰め込むなんて負担が大きすぎると思うのよ。
企業とかがさー
よくやってる伊藤園杯の川柳みたいに募っているけど募集していない体裁で
ローランドさんの言い方で言うと
この世の中は二種類の人間に分けることができて
そのローランドさんと夏井いつき俳句師匠がエヌエイチケーで街ブラしている番組のイメージしかないわー。
シリーズ化して欲しいんだけどって切に切望しているところよ。
だから世の中に
お節はあんなに余計に具だくさんなのに、
今年の創作四文字熟語大会ってのをどっか開催してくれないかなーって思うわ。
それなら私伊藤園のお茶に書いてある川柳全部読むもん!ってぐらい
応募作も全部読んじゃうし、
二つの団体が揉めて仲直りして1つにまとまるプロレスの団体みたいになるまでがセットってところまで
開催し続けて欲しいわ。
お節もいいけど、
私はありだと思う派よ!
うふふ。
お節にサンドイッチの詰め合わせでも良いと思ったけど
それならそれそのまま持って出掛けてピクニックできるじゃない!ってことに今気付いたわ。
そんなに粗熱も急いで取らなくても、
置いておいたら
いい温度になる飲み頃に。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
切れ痔主です。
抗癌剤治療に伴う便秘で数ヶ月便秘と痔に悩みましたがいわゆる「ウンチングスタイル」が最も便を出しやすい体位だと気づきました。
すでに気づいている人も多いらしいですが私のようにまだこの事実に気づかずに便座で苦しんでいる人のためにも伝えたい。
大抵のご家庭は洋式便器だと思いますが意を決して便座の上でウンチングスタイルを取ってほしい。
直腸から肛門までがストレートなストリートになって便が出やすくなります。
ただし尿を先に出すなりしておかないと尿が飛び散るので気をつけて。
尻から薬を入れるのはなかなかしんどいものがあるけど薬使うのが一番手っ取り早い。ひどいときには浣腸や摘便をしてもらえたりします。恥ずかしいですが。
肛門科、肛門外科が近くになければ外科や内科でも痔の薬はもらえるよ。
水分は一日500mlは意識して取れるようにしよう。朝起きたときと寝る前の一杯(酒じゃなくて水やお茶を飲もうね)を習慣づけて穏やかな排便ライフを手に入れよう。
唇が乾きやすい人は水分が足りてない可能性があるからそれを目安に水分をとると良いかもしれません。
突然の雨音に誘われて窓を見るとそれが夕立であり同時に今が夕方だと気づいた
実際、私は今象印の魔法瓶を洗っていて、それは今日という日が終わりへ差しか返っていることを意味している
今日もまたあっという間に過ぎたなとふと思った
私選評
夕立という夏の季語から象印の魔法瓶には冷たいお茶が入っていたことが想像されます。
その魔法瓶を洗っているということで、暑さに負けず1日をやり終えたという気持ちが伝わってきます。
頑張っていたらあっという間に1日が過ぎてしまったという感覚と、強い勢いで降り注ぎあっという間に終わってしまう夕立がよくリンクしていると思います。
きれいに洗った魔法瓶、雨上がりの澄み切った空、それらのイメージからこれから爽やかな夕方という時間の広がりを感じさせます。
読み手の年齢は58歳、人生の夕方へと差しかかかっている自分自身に対しての前向きながらもどこか寂しさのある気持ちを詠っているのかも知れません。
魔法瓶の中の冷たいお茶というイメージは、伊藤園お~いお茶大賞に応募する詩としてとても良いと思いました。
ってなるかなあ。
もしもお茶のラベルに書かれているのをお茶を飲みながら漠然と読んだら。
でも作者のコメントを見ると、コレは間違った情景を思い浮かべたことになるんだよね。
私は私の頭の中に広がった、夕立の音を聞きながら流し台でピカピカに魔法瓶を磨いているおばちゃんの後ろ姿を素敵だと思ったんだけど、この景色は「不正解」なの?
国語警察です。増田の書き込みにはいくつも間違いがあり、看過できません。
1つめ。まずお茶のペットボトルに書いてあったのならそれは川柳ではなくおーいお茶の伊藤園が主催する新俳句大賞です。夕立という季語を入れているので、作者は俳句としての読み取りを求めていると解することができます。俳句の解釈にはいくつかフォーマットがあるので、読み取りにはある程度それを知っておく必要があり、簡単に云々するのは適切ではありません。
2つめ。件の句は大変面白い句です。やや読み口が未熟ではありますが、賞に選ばれるだけの作品だと言えます。以下、少しだけ解説をします。
まず、夕立を季語として用いているので、季節は夏。象は「夕立」が降る日本でよくいる動物ではありませんから、場所は動物園とほぼ確定できます。夏の夕方に作者は動物園を訪れているわけです。事情はさまざま、ですが、一般的にいってどんな心境だと想像できるでしょうか。夏休みの家族連れ?詠み手は子供?親? 確実に言えるのは、詠み手はそう不幸な状況にあるわけではないと考えられるということです。不幸な人は、夏のさ中に動物園に来たりしませんし、夕立の中でぼーっと象を眺めたりもしません。むしろ想像できるのは、それなりに幸福な人で、新鮮な心と驚きをもって周囲に向き合っている人だということです。そこで、そういう心で、目の前の情景に向き合ってみましょう。
何も心配することのない子供のころの心で、夏のさ中に動物園にやってきた状況を想像してみてください。いろいろな動物のむせかえるような匂いに少しへきえきしながらも、非日常感に心躍らせる思いで時間はあっという間に過ぎ、気づけばもくもくと黒雲が辺りを覆っていて、不意に夕立が訪れます。象はいつも動物園の人気上位です。目の前の象の圧倒的な非日常感は、この日一日の中でもとりわけてあなたの心を喜ばせたでしょう。そして、夕立。遮るもののない中で、夕立は普段よりもいっそう激しく感じられます。雷もなってあなたは少しひるんだかもしれないし、あるいはワクワクしたかもしれません。ですが、目の前の象はどうでしょう。象舎に入るでもなく、動じるでもなく、まるで心地よいシャワーでも浴びるかのように、何物にも動じません。そんな象の姿は、あなたの心を揺さぶらないでしょうか。それが、象への感動なのか、夕立への感動なのか、二つが混ざった状況は、目の前の柵の存在すら忘れさせて、ふと見たこともない遠いアフリカでスコールを浴びる象の野生すら幻視させるかのようです。象が夕立を浴びている風景を、主語を逆転させ、夕立が象を洗っている、と見たのは、夕立に象に劣らぬ存在感や主体性を詠み手が感じたことを表しています。そして、夕立というあまりにもありふれた題材が、象という、俳句にはなりにくそうな題材と出会うことで、なんと生き生きと、生々しく荒々しい存在感を生み出していることでしょうか。異質な二つが出会うことで取り合わせの妙が生まれる、つかず、離れず、のこの関係を「不即不離」と言います。上質な俳句に欠かせない、新鮮な感動だけが生み出す言葉のマジックです。
最後の「またたく間」もとても素晴らしい。夕立は短いものですが「またたく間」というほどかというと少し誇張なので、このあたりやや詠み手の未熟さ若さと捉えられるかもしれません。しかし、この「またたく間」は、まさに瞬きも忘れるほどこの情景に見入っていたこども心の「またたく間」であり、必ずしも一瞬とは限らないとも言えます。また、ウォッシュされた結果クリーンになるのがまたたく間だった=それほど激しい夕立だった、と取ることもできますし、さらに読みを深めれば、これらの幻視、ひいてはこの日一日の非日常の全てがこの瞬間に込められており、夕立とともに非日常ははかなく消え去っていく、ただし、後に残るのは夕立の後のような爽やかさで、この一言とともに、象と夕立の幻視に閉じ込められていた詠み手が再び現世に返り、我々読者もその爽やかな読後感を共有できる…そんな終わり方です。幻は一瞬であり、一瞬であるがゆえに永遠。この句はそんなことまで感じさせてくれます。
そんな、まるで壮大な幻を一編の短編映画に仕立てたような幻想を、わずか17字に詰め込む、これこそが俳句の妙であり、これはそんな俳句という表現形式の魅力を存分に発揮した作品だと言えるでしょう。実に見事というほかはありません。
3つめ。これは一番勘違いを修正いただきたく、返信をしようと思った最大の理由ですが、「分け入っても分け入っても青い山」は、種田山頭火の俳句です。川柳ではありません。無季自由律であってもそこに俳句スピリットがあればそれは俳句だ、というのが彼らの主張であり、その主張自体をどう取るかは人それぞれの考え方にもよりますが、「あれは俳句ではない」と主張するならまだしも違うジャンルの呼び名で呼ぶのは、俳句に対して、川柳に対して、そして山頭火に対して、あまりにも失礼で不当です。この勘違いは、即刻修正していただきたいです。
最後に、俳句と川柳の面白さはまた違うところにありますが、川柳の面白さはもっと言葉の響きや並びの妙といった所にあるので、「情景が浮かばないとダメ」といったような狭い(ある意味俳句的な)縛りの下にあるものではありません。その点も、増田は勘違いを修正された方がよいと思います。俳句の世界、川柳の自由さは、それぞれに面白いものであって、それぞれの特長をきちんと知ることで、それらの作品をより深く味わうことができるようになります。知らないで否定することは簡単ですが、それはあなたの世界を狭くしてしまいます。分かったつもり、の人生より、世の中にはまだ知らないことがたくさんある、という人生の方が、楽しいと思いませんか。お茶のペットボトルを飲み捨てることなく、そこに書かれた一言に目を向ける精神は素晴らしいと思います。どうかそのように、物事を簡単に切って捨てるのでなく、小さなところにも発見のある人生をお送りください。
サントリーホールディングスの新浪剛史社長は、経済同友会(https://www.doyukai.or.jp/)の
「国は(定年を)70歳ぐらいまで延ばしたいと思っている。これを押し返さないといけない」
見てわかる通り、ジョブ型の雇用の提案したつもりが言葉足らずだった訳ではない
専門性と個を確立しているキャリアの採用をメインにするつもりは微塵もなく、
従来通り、真っ白な新卒の自社に都合よく染めることを望み、
滅私奉公・低賃金労働(1000万円以上払うわけない)を要求、
45歳になったらやめてくれねぇかな〜という単なるお気持ちの発露である
というかローソン社長時代にも『もっとクビにしやすくすべき』と発言している
本音としてうちに秘めてるだけならばともかく、どういう人生を歩んだら公的な場でこういう発言ができるのだろうな?
ましてやサントリーの商品を誰が消費していると思っているのだろうか?
上級国民節が凄すぎる
まず自分自身が退任すべきだよなぁ。GAFAMの社長ら起業時の年齢から考えたらそうでしょ?
つーか2021年現在でも、マーク・ザッカーバーグはまだ30代だぞ? ラリー・ペイジもセルゲイ・ブリンも40代
ジェフ・ベゾスもティム・クックも新浪剛史氏より年下だ。ビル・ゲイツは新浪剛史氏よりも年上だがとっくに経営から降りてる
日本コカコーラも買わないので、キリンと伊藤園とポッカだけになったな
#サントリー #サントリー不買運動 #ハーゲンダッツもサントリー