はてなキーワード: 代数とは
小説だって何巻というのを無視して途中の巻から読めば作中特有の概念や人物を示す固有名詞でつまづくのは普通で、そうならないように何巻とか上下巻みたいな目印がある。
しかし数学書はそういうのがなく仕方なく手に取ってみても行単位で見知らぬ固有名詞がぼんぼん出て来る。予備知識を手に入れようにも「前の巻」という概念自体がどうにもならない。
岩波基礎(!?)数学叢書だかいうのに微分多様体の本があったと思うけどはしがきには基本的な解析数学と代数学と微積分学を既知のものとして扱っていると書いてあったと思う。
しかしたとえばお前の言う基本的な代数学とは具体的にどこまでの範囲を指しているんだ?ていうか何の本を読めばいい?てかお前が大学生時代読んできた本のなかでその範囲に属するものを列挙すりゃそれで済むし確実なのになぜそうしない?という言葉がつい漏れる。
だって同じ岩波基礎の本でもアフィン代数みたいな本があってこれが大学数学に代数のスタートラインにあたるものなのは確実だろうがそこのはしがきにはその応用は標準形は別の本にまとめられてると書いてあって確かにジョルダン標準形とか二次形式は別の本になっている。
しかしこれらもそれなりのボリュームがあるわけで読んでやっとのことで理解した後に「実はそこまで代数を掘り下げて学ぶ必要はなかった」と言われたんじゃ遅いわけ。
興味ある分野へ最短経路で学べるようになりたい人も当然多いわけで、実は不必要なのに無駄な学習に時間注ぎたくないわな。そわそわしてもこれは必要な学習だということだから頑張れるわけで。
高校みたいに数1とか数2とかなってて高校行ってなくて道筋が明瞭でどうとでも独学できるのとはわけが違う。しかも全てのはしがきに予備知識として学ぶべきものが書いてあるわけじゃなくこのはしがきを頼りとした芋づる式で学ぶべき順番に見当をつける方法をもってしても袋小路に入ることもあるという…。んでどうでもいいことだが俺の学びたいものにベクトル解析が必要なのかいまだに判断がつかない。
日本語に一家言ある人や政治的な思想がある人は検索してるうち日本語学や法律学の論文に当たることもあるだろうけど、そもそも興味があるのもあって字面は難しそうでもじっくり読めば理解できなかったということはなかったはず。でも数学は知識が無い人を門前払いです…。
ドラクエだかでファルスでコクーンなんていうスラングに象徴されてる現象もプレイすればゲーム展開に沿って難なく解消されるわけで要するにそんなのよりずっとタチが悪いのが大学数学の現状
数学や物理を大人になって学び直したら、「そんなことあるの?」とびっくりした概念を書いていく。
地球儀を切り開いて、平面にしようとしても、2次元の世界地図はできません。
という定理。
3次元⇨2次元への距離を保った変換はできませんということを示しており、これを発展させた弟子のリーマンが、「じゃあ、4次元から3次元とか、もっと高次元でも同じじゃない?」とリーマン幾何学を創出。後の相対性理論(空間が曲がる)の記述へと繋がる。
2位 論理回路
信号機とかのプログラムを電気回路で表現するにはどうすればいいのか?ということの理論。
4ビットの信号(0101みたいなの)だと、16通り応答が必要となる。簡単に考えれば16通りの設計が必要そうだけど、カルノー図を使った簡易化という謎のテクニックにより、なんとかなり簡単に電気回路を設計することができる。
物理では、位置エネルギーとか運動エネルギーとか謎のエネルギーという量が出てくる。
なんと、解析力学では、「謎のエネルギーの方が本質であり、運動とか位置とかはエネルギーから導かれる。エネルギーが先、運動や位置が後」という理論。
4位 再起構文
再起構文というのを書くと、ナルトの「多重影分身」みたいなプログラムが書けたりする。
いまだに原理を理解できていないけど、結果的にそうなってる。不思議すぎる。
なんと、光の半分くらいまでしか画像を読み取ることができない。
光以外にも、エコー(超音波)で体の中を観れるけど、あれは超音波の波長が0.5mmとかなら、0.25mmまでの物しか判別できない。
だから何?と思ったけど、半導体制作で「波長が短い(nm)の光を使って半導体を描くので、この理論を使います」とか、いろんなところでかなり効いてくる理論みたい
6位 5次以上の方程式の解の公式(代数的な表現の)はない。(ガロア理論)
これは証明をぜひ追ってみて欲しい。
実際に、これらの手法が提案されたときは数学的な記述ができなくて、「それ本当に成り立つの?なぜ?」ということで数学者が紛糾。
量子力学とかも物理の不安定な理解が、数学的にどう不安定なのかが納得できる。
https://anond.hatelabo.jp/20210728111035
上記のエントリでヒルベルトやガロアに並ぶ数学者について質問されたので例示するけど
その前に何故ヒルベルト・ガロアを挙げたかについても説明します。
まずヒルベルトは集合論に基づく20世紀前半の様々な数学理論の構築に重大な貢献をした人として挙げた。
その中でヒルベルトみたいな貢献をしている人としてジェイコブ・ルーリーという数学者がいる。
現在の代数理論の根本的な部分から新しい基礎を作り位相的場の理論や代数幾何学の理論の構築まで行ってるのは
次にガロアは方程式が解ける解けないという性質の裏に隠れた対称性を見事に発見した発想力の凄い人として挙げたけど
この隠れた対称性を見つけるという発想は現在の様々な数学理論に影響が及んでいる。
現在ガロアのような発想をした人としてエドワード・ウィッテンという数学者がいる。
彼は物理学者という意見も多いが数学者としても凄いのは間違いないと思う。
ウィッテンは様々な幾何的な不変量に対して物理的なモデルを考える事で別の求め方が出来る事を発見した。
こうして今まで重要と考えられてきた様々な幾何的な対象について物理的なモデルを用いて
今まで分かって無かった性質を見つけるという方法は現在の幾何において重要なやり方として大きく発展している。
この多大な影響を及ぼした発想をしたウィッテンはメチャクチャ凄い数学者だと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20210729213640
数学科を卒業した人でこの人を知らない奴は数学をきちんと勉強していない…
数学は大体「代数・幾何・解析・その他」の4つに分けられるけど
代数分野のかなりの基礎はこの人が関わっていると言っても過言じゃない。
まぁエミー・ネーターという人の話はここまでにしておくとして
じゃあその後から今現在にいたるまでエミー・ネーターに近いってレベルか
それ以上に凄い女性数学者がいたのかと言うといないと言っていいと思う。
これに異議を唱える人も殆どいない気がする。
100年経ってもエミー・ネーターのような人が現れていないのは
もしかしたら女性が数学者に取り組む環境は100年前と大して変わってないからかもしれない。
ほんと、なんていったらいいんだろうな。
〇〇に対してと聞かれたら、〇〇が1だとした場合の割合を考えなくては行けないから、○○を1にするためには〇〇の数そのもので割る必要があるよね。
これとかあまりにもセンスを感じられない説明の仕方というか、「〇〇が1だとした場合」とかいう謎操作を導入するせいで何でそんなことをする必要があるのかという聞く側からすれば余計な問題解決が発生しているし、「〇〇が1だとした場合の割合」といって「割合」の説明に「割合」を使ってるというトートロジーに陥ってるし、謎操作の理由を推定する問題解決をしない限り「○○を1にするためには〇〇の数そのもので割る必要があるよね」とかいう説明の理解には進めないんだよな。
「aのbに対する割合」という言葉は「bの何倍がaですか?」なわけで、a = rbがまず先にあると考えるのが自然だろう。この方程式を解くのに両辺をbで割ってももちろんいいわけだが、そんなものは代数の演算規則が満たす性質に過ぎないわけで、この方程式を解くのにそれを使わなければならないわけではない。数学的な規則は頭の中のイメージや表現したい構造を公理化しただけであって、先にあるのは公理ではなくイメージや構造の方だ。このくらいの簡単な話はわざわざ形式化しなくてもイメージをイメージのまま言語化せずに頭の中で操作して結論を出せるものだ。そのイメージの操作を形式化するのは別の作業だ。いきなり形式から入るのは形式化の訓練を十分に積んでいるから可能なのであって、それは小学生にやらせることではないだろう。
数学(というか応用数学)で学ぶべきことは論理ではなく「現象を数学的に記述する」ということだと思う。いわゆる「文系」の人は往々にして数学の「公式」などを唯一絶対の真理みたいに思ってるんだよな。でも現実はそうではない。
数学のキモは現実の現象や構造をいかに数学的に扱える形に定式化するかであって、分かってない人には単なる事実の羅列のように見える公理も実際にはどのような現象や構造を記述したいのかという気持ちがあって作られている。例えば測度論的確率論の公理は「ある物事が一定の割合で観測される」という現象を数学的に記述するために作られている。それは公理系としてはもちろん無矛盾だけど、世の中にあるランダムな現象の全てを扱えるわけではない。実際量子的な現象は測度論的確率論の枠組みには収まらないランダムネスを持っているから、量子確率論とか代数的確率論と呼ばれる別の枠組みが必要になる。
同級生にベーマガとかプログラムポシェットに掲載される常連がいて、
というか、今から考えてみてもスゲー奴だよなぁ、偏差値高い高専行ったけど
そういう他人見ててスゲーなと思いつつ大学までプログラミングはやらんかった
大学入ってCをやるも何かが作れる感じではなかった
でも、描画が遅くて自分よりメガデモとか書けるような人の方がバリバリ高速なの書いてた
学部1年の頃はまだCというかまともなプログラムも書けなかったけど、
情報化じゃないから論理回路とか材料工学とか材料力学もやったけど、
建築工学の建築力学(材料力学)のモーメントとかそのまま使える
あと、大学入って実家で親が捨てようとしてたMSXを持って帰って、
MSX買ったときに親がマシン語の本とかMSXの規格のマニュアルとか買ってたので、
それを再勉強したら、子供の頃理解できなかったことが普通に理解できるようになってた
自分のMSXにはマシン語開発の簡易的な環境が入ってたのも大きい
メインテーマについては、みなさんの温かいコメント・厳しいコメントでたくさん勉強させてもらいました。ありがとう。
ほかに、off-topic なコメントについていくつかコメント返しをしたかったので、します。
カーディーラーのああーっお客様ーっ!っていう感じ苦手でさっさと話し切り上げたくなるので担当者と信頼関係を築ける増田羨ましい。
これとブコメ見て、カーディーラーって信頼できるとこもあるんだ…と目から鱗というか悲しくなった
自分は正規ディーラーに車検の時だけお世話になる形だが、毎回不要なオイル交換を勧めてくる
信頼できるディーラー探すのってどうやるんだろう
今どきの壊れにくいクルマに乗っていて、新車購入と法定点検くらいしかつきあいがないディーラーなら、正直そこまで信頼関係はなくてもいいんじゃないでしょうか。
でも、ナメられて雑な扱いになったりいらんもん買わされたりするのがいやだったら、多少はクルマのことをわかっていたほうがいいかもですね…。
「うるさくはないがごまかしはきかない、それでいて節目節目でちゃんと金を使う客」という位置づけだと大事にされると思います。ほかの業種にも言えそうですが…。
でもオイル交換はしてください…マメに…(よそでしてるのかな?)。
今どきの壊れにくいクルマに乗っているぶんにはそうでしょう。私が好きで乗ってるクルマは古いししょっちゅう壊れるので、どうしても専門スタッフと専門的な相談をすることになります。同じ故障の修理でも応急処置で済ますかお金かけて根本的に直すか、とか、そこを直すんだったらついでにここも交換するいい機会じゃないか、とか(例:タイベル換えるついでにエンジンマウントも替えたらエンジン降ろす工賃が一回で済むよ)。私の知識が足りなくて根掘り葉掘り質問するからというのもありますが。
ちなみに私の担当さんは、私が「ここは替えなくていいの?もし劣化してたら替えたいんだけど」って言っても、交換の必要がなければ「まだいいです」と却下してくれます。
「おとのうた」!…おお、「昵懇」とか書く人なのか。そして「こやつ、できる」池波正太郎好きでしょ?(おとのう=訪う:オトナウ→オトナッタのウ音便。訪問したの意)
ふざけて使った文語表現を拾ってもらえてうれしい。解説サンクス
ホンダかスバルだな。トヨタはノルマがきつい営業が黙っちゃいないし、日産はゴーンが滅茶苦茶にしたから。車種はS2000かGDB辺りと推測。
とてもいい線行っている! 惜しい! 推測の方向性は完全に正しい!
えーっ、一行目に!一行目に! 相談があって訪れたと書いてるのに! 女性スタッフとデレデレ無駄話だけして帰ったと思ったの?
ていうか会話の具体的な内容は一文字も書いてないのに、逆にどこを見て「無駄話」と判断したんだろう。
ちなみに彼女が作ってくれた部品代数万円+工賃数万円の見積もりにOK出して退店しました。
見積もりに一発OK出した時に彼女が小さく「えっ」と声を漏らしたのは私は聞き逃さなかった。どんな心境の「えっ」だったのかな。
よくアニソンとかの歌詞で「解けない方程式」みたいなフレーズが出てくるが、代数方程式だって5次方程式(たった5次!)以上になったら一般には解けないし、微分方程式に至っては「ミレニアム懸賞問題」として100万ドルの懸賞金が懸かってたりする難しさなわけで、たいていの方程式は解けなくて当たり前なんだよ!って、聞くたびにツッコミたくなる。
つまり、「解ける方程式」なんてほとんど無いのだから、「解けない方程式」に悩むなんて、空が飛べる翼がないことに悩むくらい実現不可能な空想であり、そもそも悩み方として間違っている。
というかまずは、お前の歌詞で求める「解」は近似解ではダメなのか、どうしてダメなのか、歌詞はせいぜい10分も無いけど、小一時間膝を付き合わせて問い詰めたい。ゼミを開いてお前の意図を詳らかにしたい。
ガロア群が可解にならないからって諦める前に、最適化のための近似アルゴリズムを試せよ。ニュートン法でも最急降下法でもいいから、なんか試せよ。微分不可能か知らないが、それでもなんかアルゴリズム考えろよ。
色々試した結果がそれでもダメだったら、初めてそのことを歌詞に表せよ。方程式が「解けない」んじゃなく、近似さえもできなくなったら、その内容を個別具体的に歌詞に表せ。そうしたら、俺もそのためのアルゴリズムを一緒に悩んでやろうじゃねぇか。
というか、方程式として問題を数式に表すことはできたんだよな。しかも歌詞という万民に伝わる形で。そこは偉いな。尊敬する。問題は多くの人間に共有すべきだ。
問題を数学の手法で解く場合、一番重要なのは方程式を解くなどの計算手法じゃない。問題を数式に落とし込む「問題の定式化」の部分が一番重要なんだ。だって、そもそも数式にできなかったら、どんな立派な手法があろうと問題なんて解けやしないだろう?
だからこそ、お前の歌詞は本当に惜しいんだよ!「解けない」ながらも、方程式として問題を定式化できたんだろう?定式化できたら問題は8割解けたも同然なんだ。
だから、お前の悩むべきは方程式を「解けない」と思い込んでいるその姿勢だ。
解けないことが問題なのではなく、妥協できないお前のプライドこそ問題なんだ。もう少し妥協して、近似解としてのアプローチに悩んでみてもいいんじゃないか?「一番じゃなきゃダメなんですか」なんて、お前以外の誰も求めてないかもしれないじゃないか。
なに?一番であることはアニソンとしての、つまり物語としての要求だって?
それなら、常に一番として勝ち続けないと存在しえない主人公、そしてそれを称える曲なんてアルゴリズム的にもう古いと、作者か作詞家かに最新の論文ごと叩きつけてやれ!
十全な状態で戦えずに、ひねった手法でなんとかやり込める、そういう近似解法としての物語が今や手法のトレンドじゃないのか?真っ正面から物語を「解く」んじゃなく、端からだんだんとアルゴリズムで解を詰めていく、それ以上は妥協する、そういう姿勢がこれからの物語像だと思うんだよ。
とにかく、こんなに絡み合った現代は「解けない方程式」だらけなんだ。正面から方程式を解くなんて今日び流行らねぇよ。だから、「解けない」という悩みを脱し、近似アルゴリズムで必死に解を詰めようとするお前の歌詞こそ、論文として採択されうる価値を持つものだし、これからの物語としてのロールモデルにだってなるはずだ。
> 数学の研究者になるような人はみんなフィールズ賞とか取れるチャンスはある。
そう言われると、そりゃ可能性って言えばゼロじゃないけど・・・くらいの受け止め方になってしまうな。
理Iに入れる人は頑張れば数学者になれる、っていうのは、まあ頑張れば数学の修士取るくらいは出来るよね、
というのと、ポスドク重ねつつもどこかでどこかで大学の教員になって研究職として生活していけるよね、
というのでは意味合いがかなり変わってくるというか、後者も確かに頑張れば可能かもしれないけど、
本当にそれ頑張っちゃう? 自分の適性はよく考えた方がいいよ? という感じ。
努力も才能のうちみたいな面もあるけど、数学に限らず研究職を続けていくには「情熱」が欠かせないというのと、
個人的な経験として東大理Iは受験数学としての一通りのことをミスの無いレベルで身に付ければいいだけで(二次試験で全問完答できる必要もない)、
そこから先の数学的な概念操作についていけるかは、かなり相性に左右されるところだと思う。
特に受験数学では置換群のさわり位しか出てこない代数学(群・環論)は、受験の微積や行列計算とはかなり異なる世界なので、
大学で解析と代数の両方を抵抗感無く楽しめるなら、その「楽しい」を伸ばしていって数学専攻するのも適性あるかもね。
苦手意識ありつつも努力してちゃんと克服できるなら、それはそれでタフネスとガッツがあって素晴らしいんだけど、
その強みは数学に限らず広く役に立つ武器なので研究職に思い入れが無ければ就職したら? と思ってしまう。
自分は理I入った時は数学好きだったけど、その後に東大数理(修士)まで行ったうえで、これ以上数学を専攻していくのはムリだな、
箇条書きにしたら、とんでもない家庭だなと。私は長男
1987年 父親ほのぼのレイク、アイク、武富士、ワイドから数百万の借金。祖父が返済
1989年 父親武富士、ワイドから数百万借金。母親の両親が返済。消費者金融チンピラが家に乗り込んで来て布団を破かれた
父への尊敬がないからとの理由と叱責。朝5時まで母親、長男を正座させ祖父と父親は4リッターほどの焼酎を飲み干す
1995年 父親、アコム、武富士から数十万の借金。長男学資保険を解約し支払い
2000年 正月帰省時、出前の寿司のお金が支払えず地元の寿司屋から催促。2ヶ月分割
2001年 祖母が死去。葬式が貧相だと親戚一同から怒られる。通夜、葬式時のお礼なし食事なし
そいつも「俺は診断済みのアスペだ」「俺は理性的な人間だ」「合理的な文章なら分かる」「平易に説明しろ」と主張していた。
実際はちょっと煽られるとすぐキレてスレを荒らし始め、落ち度を指摘されると「その指摘はいくらなんでも無理筋だ」「お前ら(※個と集団を区別できていない)の指示を俺が聞けばお前らの独裁制だ。俺には自由がある」「理解ができないことを言うな。説明しろ」「書き込みに中身が無い。意味のあることを書け」とか逆ギレしていた。
指摘側は無理筋でも支離滅裂でも無かった。ただそいつにとって都合が悪いことを言っただけだった(連投すんなとか、ちゃんと読めとか、お前の言ってることはおかしいとか、阿呆は帰れとか、寝言は寝て言えとか)。
そして論理代数における「逆・裏・対偶」が理解できず、「逆は真」「真でないものは全て偽」という仮定を使って頭の中でどんどん命題を短縮し、何でもかんでも都合が悪ければ「嘘」と呼んで否定していた。ミミックの鳴き声としか思えなかった。理性的でも何でもない、魂が欠落した何かだった。
例の旅レポ記事を見て「お願いなら承ります」という表現に強烈な既視感を覚えた。同じだ。こいつは「他人が発する声は、全て俺への『参考情報』であり、命令としての意味は無い」と思っているのだ。
こいつの「承る」というのは「俺の気に触らない限り、戯れにやってみるのも一興だとは思うぞ」という意味だ。「お茶を一杯飲んでくれませんか」と言われて、その時に喉が乾いていれば「そんなことをしてほしいんですかあ? 飲んでやりましょう」と「承る」程度の意味だ。「お互いの健康のためにマスクの着用を」と言われて「仕方ねえなあ」と着けるという意味では決してない。
結局のところ、あれは自閉症の症状なんだろう。ある種の高度な論理を扱う機能や、世界を多数の主体が存在する空間として捉える機能の発達が遅れて/止まって/失われていて、日本語は解するものの、言語コミュニケーションやコミュニティでの共同作業が行える状態にないのだ。
そういう奴はどう扱えば良いんだろうな。規則と強制力をセットで与えれば、それが「環境」だと認識して従おうとするが、常に機会を伺っていて、ひね曲がった自分の理屈と曲解した規則が噛み合う所を探してゴネたり他人に牙を剥いたり、強制力が緩んだ時に規則を破ったりするんだよなぁ。
フランス革命の頃なら焼き殺せば済んだんだろうが…
公理から初めて論述によって命題を示すという手法は現代数学の基本
ユークリッド幾何学では厳密な論証を学ぶことができる
もしユークリッド幾何学を学ばなければ抽象代数学などが理解できなくなることは明らか
微分積分などだけを教えていると群論やガロア理論などが理解できなくなってしまう
ガロア理論では作図が主に扱われるからユークリッド幾何学応用になっている
ユークリッド幾何学はまず中初等教育において論述を教える題材として適している
代数などはただの計算であって厳密ではないがユークリッド幾何学は公理から始めて曖昧さなく命題を示す
これは現代数学の基本であって群論やガロア理論を学ぶ際に必要な能力
代数では多項式とは?集合とは?などが厳密に説明されていないがユークリッド幾何学には曖昧さは無い
ユークリッド幾何学が扱う題材は図形であって初等教育にも馴染みやすい
現代数学を厳密に展開するには公理的集合論まで遡らねばならないが
このような条件を満たす単元は他には無い
群論やガロア理論などの抽象代数学はユークリッド幾何学の考えを継承している
これらが確立されたのは18世紀であり微分積分などはそれよりも大分昔の理論だから厳密性がない
ユークリッド幾何学は現代数学のモデルであるから論述を教えることができる
群論やガロア理論は対称性を扱う数学で対称性とは回転や相似変換などの一般化だから
やはりユークリッド幾何学を学ぶことは群論やガロア理論を学ぶことに役立つ
特に群論では、群の正規群(特異点を持たない群)による商で対称性を分類する
この割り算にはユークリッドの互除法のアルゴリズムを用いることができるからユークリッド幾何学の応用になっている
群論の一部であるリー群ではユークリッド空間の回転である直交群を扱うからこれもユークリッド幾何学が直接役に立つ
ユークリッド幾何学では公理系から始めて命題を証明するがこれは現代数学の基本
群論やガロア理論もこのスタイルを継承していてユークリッド幾何学を学ばないと抽象代数学が理解できない
ガロア理論はユークリッド幾何学と同様に、対称性の公理から作図可能性を論ずる
これはいくつかの公理から始めて可能な手順の組み合わせを厳密に論述することで様々な図形を作図していく
ヒルベルトが提唱した円積問題などもこの応用であって、現代数学において極めて重要
ユークリッド幾何学は公理から始めて論述のみによって命題を証明する
これは現代数学の基本であってガロアの理論やヒルベルトの理論などがその手法を受け継いでいる
ユークリッド幾何学をやらないと抽象代数学などを理解できなくなってしまう
ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在の高校数学のカリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。
ユークリッド幾何学が不要だと思う理由は単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学の研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズルが適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの手法は一般的な現象を記述する上で必ず必要になります。
もちろん、たとえば三角比を定義するには、「三角形の内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学の性質が必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:
を証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法や問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。
現状、少なくない時間がユークリッド幾何学に費やされています。数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ、大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています。
高校数学では以下のような事項が重要だと思います。ユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。
これらの分野は数学の手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的な問題を数学や物理の問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベルに重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?
ユークリッド幾何学を初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います。
まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題は証明されるべきものだからです。高校の教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離の公式、三角関数の加法定理、微分のライプニッツ則や部分積分の公式など、どれも証明されています。そもそも、数学の問題はすべて証明問題です。たとえば、関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないかを定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学だけが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。
②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトルや微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理、メネラウスの定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学の手法は問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法は一般に方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学の手法にこだわる理由はありません。
③は単なる個人の思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも、数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要な数学の素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学的直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学を特別視する理由になっていません。
④もおかしいです。そもそも「歴史的に重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的に重要ならば教えるというなら、古代バビロニア、インド、中国などの数学は特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わずに数学を記述するべき理由があるでしょうか。
数学で重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学を擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います。
大昔は代数の計算や方程式の解法(に対応するもの)は作図問題に帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法・重要な結果を導きやすい方法を用いればよいに決まっています(数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。
たとえば、放物線は直線と点からの距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育で重要なのは明らかに2次関数のグラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから、最初から2次関数のグラフとして導入するのは理にかなっています。数学教育の題材は「計算問題か証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。
三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学の範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学で連立方程式を学ぶのに小学生に鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います。
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(*1)
現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに
(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーのデルタ)
で内積が定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間、ベクトル、微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学が不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています。
(*2)
数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題にガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識が必要」というわけではありません。
その営業いわく、
……そもそも契約する気がないのだけど(メインのスマホがソフトバンクで、キャンペーンで電気代数ヶ月完全無料+携帯料金とセットで支払いできて便利なので電気もソフトバンク経由で契約してる)、訪問時間といい、説明内容といい、どう聞いてもまともではない。
あまりにも一方的に喋り、粘りそうな雰囲気だったので、契約を進めるふりだけしたが、途中、支払いがクレカのみということで、クレカを持っていないふりをしたらあっさり撤退していった(「みんな契約切り替えてもらってる」って説明してたのに!)。
その営業が名乗った事業者自体は存在するようだけど、詐欺ならわかりやすいけど、仮に正式な事業者だとして、契約がさも義務であるかのように誤認させる営業は違法ではないのか。大体こういう場合、代理店がやらかしてたりするんだろうけど。
名刺くらいもらっておくんだったなー。