もし仮になかったとしても、これなら好きだから許容出来る苦労って仕事があるんじゃないか
まぁ宝くじ当たると良いね、お互い
]]>奴隷はつらいよ
]]>
自分の能力の半分の力で出来る仕事をやれで終わる
]]>会社員の立場だと、個人男性が育休取得に踏み切らなければ実現しないわけだけど、男性は育休を取ることについてどんな感覚でいるんだろう?
取りたいのか、取りたくないのか。取りたいけど取ると出世できなくなる感覚があるとか(会社によっては男は育児なんかせず仕事しろって空気のところも多いと思う)育児より仕事していたいとか、言い出すのは恥ずかしいとかもあるんだろうか。想像がつかない。
]]>当然だが、とてもハッピーな気持ちで育休に入った。出産に立ち会って自然と流れた涙は、これまでの人生で最も無垢で、言葉にならない嬉し涙だった。仕事と子育てを両立して、より一層充実した人生を送っていくぞと意気込んだ。
しかし、育休中に痛感したことがふたつある。
まず、育休中は仕事をしていないので、育休を取ったからと言って仕事と子育てを両立したとは思えなかった。数ヶ月程度の育休は「特に大変な新生児期を乗り切る手段」であって、「仕事と子育てを両立する手段」にはならないのが現実だ。
そして2つ目に、「両立」と勝手に言っているが、それは自分だけの問題なのかということ。子育ては夫婦の共同プロジェクトだ。義務教育までとしても15年を要する、一大プロジェクト。そのプロセスにおいて、当然、妻には妻の「両立」がある。
育休は子育てのほんのプロローグに過ぎず、その後が本番と言ってもいい。
3つそれぞれの満足度(納得度の方が適切かも)のバランスをどうやって保っていくか。中長期的にはこれが1番のテーマで、もはや、要素がふたつであることを前提にした「両立」という言葉で捉えること自体が、時代遅れに思えた。
妻はメーカー勤務で、仕事好きな人間だ。バリキャリ志向ではないが、自社商品を愛してやまないタイプで、今後もフルタイムでの仕事を望んでいる。彼女が仕事を通して充実感を得ることは、一緒に生きる私や子どもにとっても大切なことだ。
私は会社に働き方の相談をした。フレックスがなく、リモートにも回数制限があるため、せめて後者は緩和できないかと。しかし残念ながらその交渉は実らなかったため、転職を決めた。
次はリモートかつフルフレックスの環境で、幸いなことに年収も大きく上がるオファーをもらえたので、自分自身の問題は解決できたが、これだけ少子化が社会問題になる中でも、子育てと仕事の両立に優しくない現実を突きつけられたモヤモヤは消えていない。
経済合理性が伴う事由や、事業を左右するような外圧がなければ企業は変化しない。女性社員の活躍を進めて社会情勢に応じつつ、男性社員にはこれまで通り仕事にフルコミットさせたい。これが経営者の本音だろう。
しかし、その男性社員に子どもがいるとなれば、しわ寄せはパートナーの女性にいき、どこかで働くその人のキャリアを制限し、家庭の幸福度の総量も減らす。間接的に女性活躍を阻害しているわけだが、大半の企業は「知ったこっちゃない」と言うだろう。
だから思う、男性こそ子育てを理由に転職した方が良い。環境や制度を変えなくても男性社員が辞めないから、企業も変わらない。賃上げだってそうだろう。
厄介なことに、子育ては本当に千差万別。子の性格や体質、家庭の経済力、時間の柔軟性、幼稚園や保育園の環境、本人やパートナーの体力、実家の頼りやすさなど、いろんな変数で難易度が変わる。
カードに恵まれただけだったかもしれないことに想像が及ばず、n=1の個人的な体験談で断じてしまう人もいる。そういう人が上司や経営者の会社にいるなら、すぐに転職した方が良いと個人的には思う。
少子化と人手不足が課題の社会なのだから、共働きで子育てもしようという自分は多少わがままを言ってもいい。自分にそう言い聞かせることで、同僚に迷惑をかけることを頭から消して長めの育休を取り、転職も決めることが出来た。
仕事より家庭、という安直な二元論では捉えていないし、仕事ももちろん頑張っていくが、「仕事=今の職場」ではないはずだ。
繰り返すが、男性こそ子育てを理由に転職した方が良い。それが大きなうねりになれば、いろんな問題が少しずついい方向に向かうように思う。
社会を変えるのは誰なんだろうね
]]>でも個人の趣味の範囲内ならセーフだよね?
むしろ性の癖を晒されて、名誉毀損罪にならんの?
いいじゃん、議員がSM緊縛パーティやってもさ
ちゃんと議員としての仕事してくれるならどんどんSM緊縛してほしい
]]>怖いな〜
]]>「安楽死」を考える スイスで最期を迎えた日本人 生きる道を選んだ難病患者【報道特集】
https://news.yahoo.co.jp/articles/8bb2d6cf595ffedc5bfdf45ad29546aca08b0474
というニュースが話題になっている。 迎田良子さんというパーキンソン病の人が、スイスで積極的安楽死したという話だ。
迎田良子さんは暴力家庭に生まれ、 高卒とともに家を出て、 日本語講師として海外で仕事をしていた有能な女性だ。 ヨーロッパ各地を渡り歩いたという。 しかし50代でパーキンソン病を発症し、 婚約していたフランス人男性にも捨てられた。 そして日本に戻り一人過ごしていたが、パーキンソン病からくる長年の苦しみから解放されるために 安楽死を決意。スイスに渡って安らかに死んだ。 婚約していた男性に看取ってくれるように連絡をつけていたらしいが、 直前になって拒否され、一人で死んだ。
遺骨はレマン湖に撒かれた。 レマン湖は男性とデートした思い出の場所だったらしい。
おれはどうも、この社会で生きていくことが難しいようだ。 この社会で生きていくのはどうしても辛いから、 今ある少ない貯金が尽きたら自殺しようと思っている。 実家に帰ってきたのは、心の整理をつけるためである。 親もおれがいきなり死んだら、心の整理がつかないだろう。 だからすでに、お金が尽きたら自殺するということは伝えてある。
しかしおれはこの社会で生きるのが辛くてそれから逃げたいだけであり、 自殺の苦しみを味わいたいわけではない。 楽になるために苦しむということは嫌だ。 でも安楽死ならどうだろうか。 楽に死ねるだろう。 それがおれの望みだ。
費用は200万円程度らしい。 あとは、英語でコミュニケーションがとれること。 幸い、今ならば200万円は工面出来る。 英語も問題ないだろう。 安楽死するために英語を勉強したわけではないが。
この人生は最悪だった。 思うに、おれは劣った人間との相性が最悪だ。 相手がコンプレックスを抱えていると、衝突することが多い。
ご存知のとおり、 おれの人生は最後の最後、高専とかいう知的障害学歴のクズに破壊された。 結果、おれはもうこの社会で生きていくことが不可能になり、 金が尽きたら自殺するほかなくなった。 この詳細は、おれが死ぬ前にでも書き残そうと思う。
結局このクズも、学歴コンプレックスの塊なのだ。 優秀なおれに出会ってしまったことでそのコンプレックスはより強くなり、 おれに対して粘着し、人生を破壊してやろうと思うようになった。 そしてそれは成就された。おめでとう。
京大でもそのようなことがあった。 こいつは学歴コンプレックスではないが、 自分の容姿や能力にコンプレックスを抱えていた。 それ故に、そのどちらも優れていて、 必死に努力しているようには見えない おれが憎かったようだ。
おれは劣ってる人間に対しては無関心だ。 関わっても得がないとか、損得勘定の問題ですらなく、 ひたすら興味がない。死んでほしいとも消えてほしいとも思わず、 ただ、見えなくなる。 しかしこの無関心が、相手にとってはひどく傷つくらしい。 そして、それが相手の中の敵対心に火をつけるという仕組みのようだ。 めんどくさすぎる。 それは、そちらのせいでしょう。おれのせいではない。 あなたが劣ってるから悪いんです。 ギフテッドに生まれなかったあなたが悪いんです。 いちいち絡まないでほしい。
今後も、こういうことがいちいち起こるんだろうかと思うと もう耐えられない。 おれはもうこの社会で生きていく気を失ったと思う。
おれの夢は、知床で熊と一緒にコーヒーを飲みながら 世間話をするような生活だ。 人間から離れ、山の中でひっそりを暮らす。 そういう生活が叶わないならば、もう、生きる気はない。 ベーカムにも期待しているが、おそらく実現は遠く、間に合わないだろう。 自然の中で熊と囲碁をしたかった。
おれのように社会適合出来ない人間が安楽死出来るような社会になれば 多くの人が救われることは間違いない。 しかし、安楽死には当然、慎重な議論が必要である。 ある難病患者の女性は、積極的安楽死が認められてしまうと その楽な死を選ばないことを自己責任に転嫁されてしまうことを恐れている。 これは例えばだが、用意された楽な死を選ばないのだから生命維持装置の費用は自費にしろとか、 そういう論調が生まれることもあり得るだろう。 確かに、それは恐ろしいことだ。 難病になることは不運であるから、これは国が救うべきだ。
だから、必要なのは積極的安楽死を飛び越えた「超」積極的安楽死である。 超積極的というのは、難病であるとかそういう理由は必要なく、 単に生きるのが辛いことを理由にして安楽死するということだ。 ようするに、今自殺によって実現されている死を薬による安楽死に置き換えるというものだ。 試験での失敗を苦にして自殺するのもいいだろう。 恋人に捨てられたから自殺もいい。 整形手術に失敗したから自殺もいい。 おれのように、社会に適合出来ないから自殺しますも当然許されるべきだ。 生と死には対称性がなければいけない。
大人は、「まだ若いから」とか「これからきっと良いことがあるから」とか言って あなたを生かそうとするだろうけど、それは あなたを自分の老後を支える駒として見ているからだ。
この国の現状は、今は辛くても頑張って生きていればいつかきっと良いことがあると 思えるような状況ではない。 だから、うまく行かなかったら即死ぬという選択肢がないと不公平だ。 また、失敗したら気軽に死ぬことが出来るからこそ、 人間は現世において挑戦することが出来る。 日本人のチャンレンジ精神が低いのは、高齢化社会による社会保険料の問題と、 拳銃の所持が許されていないために自殺が簡単でないことのせいだと思う。 そういう意味では、日本こそ、積極的安楽死が必要な国だといえる。
超積極的安楽死は犯罪も減らすだろう。 貧困になった人が誰しも強盗や窃盗をしたいわけではない。 生きるために仕方なくやっている人もいるだろう。 でも超積極的安楽死があればそういう人たちも、 他人に迷惑をかけるより 死を選ぶのではないだろうか。
]]>結婚して妊娠して安定期に入ったところでお腹の子のためにも仕事を辞めてくれと言われ、体を動かす仕事だったのもあって休職したら途端にモラハラが顔を出し始めた
その都度それを自分が言われたらどう思うんだと言い合いになってしばらく落ち着く
何ヶ月か経つとまたモラハラ発言が出てくる繰り返しで数年経ち
夫の両親が高齢なことと子供の学校のことを考えて夫の地元に引っ越して保育園も転園、姑の紹介してきた仕事に転職したら1週間もたたずにDVに発展
朝ごはんのメニューが気に入らないと騒いで胸ぐらを掴んで殴ってきたから警察を呼んでそのまま別居
警察を呼ぶなんて最低だとか職場に迷惑をかけたとか保育園に入ったばかりの子供をふりまわしてるとか責められたかな
離婚調停が始まるまでは俺を不快にさせたお前が悪い殴らせたお前が悪いと繰り返してたけど、裁判所の建物の中で調停員の人達に自分の主張がわんわりと否定されて頭が冷えたのか急に大人しくなって調停成立
ちなみに妊娠後仕事を辞めるまでは本当に常識的だったよ
共通の友人知人もモラハラやDVを知ってかなり驚いてた
]]>相談者が理不尽な仕事をふられて、我慢した結果爆発するのを直したいと言っている。
増田は理不尽だと感じたらすぐキレるようにしており、結果的に割を食うことは少ないと思っている。(周りから敬遠されても気にならない)
相談者が最後ブチギレたとしても、それで上司の対応が変わったらOKでは?
懸命なるブクマカのみなさんのご意見を頂けると幸いです。
]]>完全に忘れてた
]]>「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ最初の感想がそれだった。
土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンかカップスープの適当な昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。
鈴木美咲は1990年生まれの28歳。生まれは山梨県で、大学で上京するまでは地元で自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元の進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京の大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分が大学で上京することに特に違和感は抱かず、自然と東京の大学を目指した。根が真面目な彼女は高校時代も勉強に多くの時間を割き、国立大学は不合格となったものの、無事都内の私立大学に合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。
彼女の母親の時代は女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代に東京の4年制大学を卒業した美咲の母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物とお見合いで出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲の記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事は女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。
美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから、一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京の大学に行くことを賛成し、美咲が英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女の能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲が外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身の卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。
美咲は地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまり恵まれた容姿ではなく、自分のニキビをからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてからは男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲は勉強ができたが、それに対して男子と比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子は短大といった時代でもなかった。ただ文系のクラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやすい環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域ののんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学も経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。
自分が女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年の就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業とメーカーで、大手企業に就職が決まったことで、彼女自身も家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界はリモートワークなどの制度を生かして女性が活躍しています、と先輩社員がセミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。
美咲はソフトウェア製品の営業職として2013年4月に社会人生活をスタートさせた。自分の同じ部門と認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲はほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎の水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。
その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業。ハードウェアの営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分の製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子の特権なんだから、若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲はお酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。
入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件を複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日の飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門長である優秀な40代のマネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲はビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女の人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代の日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろ恵まれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。
90年生まれで一番多い名前の、数多くの美咲に変わって、中途半端ですが、ひっそりとここに吐き出します。
]]>「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ最初の感想がそれだった。
土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンかカップスープの適当な昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。
鈴木美咲は1990年生まれの28歳。生まれは山梨県で、大学で上京するまでは地元で自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元の進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京の大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分が大学で上京することに特に違和感は抱かず、自然と東京の大学を目指した。根が真面目な彼女は高校時代も勉強に多くの時間を割き、国立大学は不合格となったものの、無事都内の私立大学に合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。
彼女の母親の時代は女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代に東京の4年制大学を卒業した美咲の母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物とお見合いで出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲の記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事は女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。
美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから、一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京の大学に行くことを賛成し、美咲が英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女の能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲が外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身の卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。
美咲は地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまり恵まれた容姿ではなく、自分のニキビをからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてからは男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲は勉強ができたが、それに対して男子と比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子は短大といった時代でもなかった。ただ文系のクラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやすい環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域ののんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学も経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。
自分が女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年の就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業とメーカーで、大手企業に就職が決まったことで、彼女自身も家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界はリモートワークなどの制度を生かして女性が活躍しています、と先輩社員がセミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。
美咲はソフトウェア製品の営業職として2013年4月に社会人生活をスタートさせた。自分の同じ部門と認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲はほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎の水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。
その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業。ハードウェアの営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分の製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子の特権なんだから、若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲はお酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。
入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件を複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日の飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門長である優秀な40代のマネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲はビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女の人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代の日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろ恵まれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。
90年生まれで一番多い名前の、数多くの美咲に変わって、中途半端ですが、ひっそりとここに吐き出します。
]]>なんでそれを政治家や世の中に影響力を持つ奴はわかってねえんだよ。
成功も金稼ぎもリスキリングにも興味ないし何者かになろうともしてないし個性だの自由だの求めてねえよ!
俺が求めてるのは!
大学卒業して!
終身雇用で年功序列の会社に入社して!
自分でもこなせるほどほどの仕事して!
少なすぎでも多すぎでもない給料を毎月もらって!
ボーナスも貰って!
結婚して!
子供2、3人持って!
家かマンション買って!
子供を大学卒業させられるくらいには稼いで!
仲良い同僚とかと上司や部下や仕事や政治の文句を言いながら新橋で昼飯食って!
65あたりで定年して!
定年したら退職金と厚生年金と企業年金で金持ちでもないけど不自由もしないほどほどの生活を送って!
病気になったら保険診療で質の良い医療が受けられる!
そんな世の中を生きたいんだ!
とりあえずそのスタートラインには入れたんだ!
親のおかげで私立大学を奨学金使わず卒業した!
年功序列で終身雇用で得意分野はがっしり抑えてるけど規模を拡大させるのは大嫌いで総合職は男性のみ事務職は女性のみ(寿退社した分だけ新卒採用で欠員補充し勤務中は制服着用)で飲み会も多くて人間関係も濃くて普通に楽しい俺好みの会社に総合職で入社できたんだ!
だから!
ほどほどに仕事してほどほどの家をローンで買って定年後は確定申告シーズンの税務署バイトとかしつつ基本は厚生年金と企業年金で何不自由ない暮らししてる俺の親父と母親みたいな人生を送りたい!
医療制度や社会保障制度の改革はいらない!
外国人もいらない!
多様性もいらない!
AIもいらない!
ベンチャーもスタートアップもいらない!
今のままの社会の中で人生を終えられるように政治家たちは努力してくれ!!
]]>周りに迷惑だし。
もっとパン工場のラインみたいな単純作業の方が向いてるよ
]]>採用された人たち見てると、明るい人が多い気がする。みんなポジティブで、仕事の進め方も前向き。不思議とプロジェクトの遅れとか、あんまり聞かないし、チーム内の雰囲気もいい。そういうわけで、業績も上がってるって話。売り上げ、去年よりかなり増えたらしいし。
]]>忘れてしまって困る
TODOリストをつくってもそれを更新するということができない
とりあえず大事なメールにはフラグ立てて管理してるがもっといい方法あれば教えてほしい
]]>Amazonで専門書を買って勉強してたんだけど、本当に何も知らないので「基礎から」って本を数冊買った。
しかしどの本も全体のうちの半分は「ハローワールド」と「変数の基本的な使い方」と「ifの使い方」で占められ、
そこを超えるといきなり、コード掲載だけが10Pくらい続く本格的なプログラミングを解説なしでやらされるものだった。
知らない命令とか構文がいっぱい出てくるし、それを一々ネットで調べないと進められないので全部挫折した。
更に本を追加で買って、運良く段取り良く進めていってくれる本にあたったことでなんとかなった。
その後、別の言語を勉強しようとする度に、全体のうちの半分は「ハローワールド」と「変数の基本的な使い方」と「ifの使い方」で占められ、る本に当たるし、そこについては大体どの言語でもやり方は同じで、まるまる読み飛ばすことが多い。
今日日、エクセルをちょっと触ってればifくらいは普通に使うものだからパソコンで仕事する人ならみんな知ってると思うし、シリーズとして「ifくらいまでは知ってるところからスタートする入門書」が欲しいなぁと思う。
]]>↑
用件を言ってくれないと優先度判断できないから。
一言目から「急ぎではないのですが確認したいことはあるのですが」ぐらい言ってくれ。
---
「◯◯は可能ですか?」
↑
もっと質問に至る経緯をつけてくれ。
]]>歩道では自転車に乗った人が歩行者に罵声を浴びせてるし、車道はクラクションがいつも鳴り響いてるし、
食べ物屋はファーストフードだろうがファミレスだろうがちょっとお高い喫茶店だろうがいっつも怒鳴る客がいるし、
地下鉄では毎日ぐらいサラリーマン同士が小競り合いしているし、ホームでは駅員に詰め寄る人を見かけた。
学校は学校でいじめがひどくて、1人の男子が他の男子全員から毎日小突かれて泣いてるし、女の子はそんな男子に頭から水被せ笑ってる。
どこにいても誰かが誰かをいつも傷つけていて、都会ってこんなに怖いところなんだと知って、田舎に帰りたいっていっつも思ってた。
その後、親のすすめもあって東京の大学に進学し、親元を離れて東京で暮らし始めたんだけど、そこで違いに気付いた。
東京には怒っている人はいない。
少なくとも人の目のあるところで他人に大きな声で罵声を浴びせるような人はおらず、
どこの食べ物屋に入ってもみんな物静かだし、地下鉄で殴り合うサラリーマンもいない。
目の前で交通事故が起きても、誰も表面上は動揺せず、しかし被害者に近寄ろうとは中々しないけど、
スマホで楽しそうヘラヘラ笑いながら撮影を始めるような人もいない。
一体、私が見てきたものは何なのか。同じ国の同じ言葉を喋る人なのかとくらくらした程だ。
後に大阪が関西圏の中でも、かなり特殊な土地であることを知ったんだけど、色々と納得の行く部分も多かった。
大阪の人達は、東京を冷血な田舎のものの寄せ集めと馬鹿にするけど、
冷血な田舎ものの寄せ集めでも、公共の場で人に罵声を浴びせるような人よりは遥かにマシに思える。
大阪には大阪なりのよさがあって、だからこそあれだけの人が集まって都市を形成してるんだろうけど、
そのよさに触れるためには、ありとあらゆるところで誰かが誰かを攻めている日常を受け入れなければいけないのであれば、
大阪のよさを一生理解できなくてもいいと今は思っている。
]]>警察官がちゃんとイキったガキやチンピラ(若者)に『コラッ』って声かけているの、東京育ちの自分的には衝撃だったよね
もちろん、過剰とも言える対応も見たことがあるので(イキったガキのバイク追いかけて倒して捕獲等)、
それが良いとも一概には言えないけどな
あと、じいちゃん・ばあちゃん・おっさん・おばさんがイキったガキやチンピラ(若者)に注意してるのも見る
そういうことは危ないからしてはいけないって親から習ったから、これも衝撃だったよね
これが良いとも一概には言えないけど、目上の人(年齢を重ねている人)を無条件で尊重する態度、素敵だと思ったよ
マナーやルールではなく仕事でも、見守る・手を貸すはあると思うよ
『これが人の親か?』とか『これが年老いた親を持つ子の態度か?』ってヤツもいるけど、
基本的にはなんか事情ありそうな人にはみんな親切だぞ。この点だけは地方も首都圏も変わらないのでは?と思う
]]>普通そんなやつら仕事しないで窃盗だの強盗するもんだぞ
犯罪やらないから舐められて、いつまでも仕事すらくじ引きにハズレてできない
弱者が社会にコストかけさせて迷惑になるような事するのは、車椅子問題見ても認められてるんだからさ
どんどん迷惑かけていいけよ
そうしないと社会派動かないぞ
]]>もしくは昭和という時代に対する認識、相当に歪んでないか?
いまだって、ある程度の階級なら丁稚奉公させるだろ。都会・地方限らず。
そこそこの上場企業ならいくらでもボンボンの息子・娘入っとるの知らんのか。
きちんとした会社なら、そいつらをまともな人間になるよう厳しく育て上げてから、家業に戻らせたりしているわけだろ。
別に金持ちじゃなくたっていいが、コネで仕事紹介したりなんていくらでもある。
まともなコミュニティに所属していれば。
好き勝手やってきた都会の貴族もやし、の意味もよく分からん。
ある程度の歴史あるまともな住宅街なら地域の交流コミュニティあるけど。
誰がニュータウンや団地やタワマンの話をしているんだ…?
あと干渉に対する考え方自体が、典型的郊外のニュータウン思想って感じ。
そういう人間が子育てをすれば醜く歪んでいくのもさもありなん。
そもそも親の一人か二人だけで、社会性を教えられるわけないだろ。
社会の本質が自分とは異質な人間とのコミュニケーションであって
それを通じて自分の社会における立ち位置を把握していくわけで
もちろん、その環境を変えたり整えたりする役目は親にもあるさ。
だけど、そういう社会性を身に着ける場としての社会が、
教育という機能と責任を放棄しつつあるよね、って話。
]]>ほな……
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